「党派間ゲバルトの経過と実態考」その1、戦後から1968年まで

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.29日

 関連サイト 70年代前半期の諸闘争70年代後半期の諸闘争1980年代の諸闘争1990年代の諸闘争2000年代の諸闘争

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「党派間ゲバルトの経過と実態考その1、戦後から1968年まで」を確認しておく。後日、再推敲する。「内ゲバ - Wikipedia」、「ネットマガジン『新左翼大論争』第2号」、新左翼内ゲバ事件」、「中核派対革マル派抗争略年表」他を参照する。
 矢沢和彦氏は、「革命的暴力か内ゲバ主義か」論文の「第一章 革命的前衛の緊急の任務―『新』左翼の腐敗を突破せよ―」の中で、次のように述べている。
 「いま『新』左翼セクト相互の襲撃、リンチ、計画的な傷害、そして殺人があいついでいる。革マル派、中核派、解放派などが相互に『ウジムシ』、『青ムシ』、『反革命カクマル』、『宗派』などと呼び合い、殲滅を宣言し、スパイを放ち謀略をはりめぐらし、機関紙上でその『戦果』を大々的に宣伝し、おのおのもはや『全滅寸前の敵』を『最後の一匹まで掃討する』決意を恥しげもなく披瀝しあっている。『新』左翼に心情的共感をいだいて期待をつないで来た労働者・人民諸君も、度重なるこの醜態にすっかり落胆している。この醜態はすでに『若気の誤ち』を通りこしている」。

 しかし、史実は、矢沢氏の提言は彼らには届かなかった。「検証内ゲバ」は、そのメンタル論理を簡略に次のように明らかにしている。
 「(中核派、革マル派などの)内ゲバは、双方とも思想・信念に基づく闘いであり、内ゲバの当事者である活動家達には、離脱する自由も、内ゲバに加わらない自由もあった。にも関わらず、多くの活動家たちは、『内ゲバ』にそれぞれの党派の未来、革命運動の未来を賭けて闘っていった。内ゲバの死者たちは、自らの信念に基づいて弊れていったのだ」。

 2012.10.22日再編集 れんだいこ拝


【「党派間ゲバルト」概観】
 中核派対革マル派の「党派間ゲバルト」の経過は、立花氏の著書「中核VS革マル」の巻末資料に詳しい。社青同解放派対革マル派の「党派間ゲバルト」の経過の資料は手元にないので分からない。云える事は、「70年安保闘争」目前に向自化して以降十余年行き着くところまで行き着き、互いに相当なダメージを負ったということだろう。

 興味深いことは、中核派が直情突破型で、革マル派が策略複線型とでも表現できるようなゲバルトの行使の仕方が違うところである。その結果として死者が出た場合の対応にも違いがあるように思われる。中核派の場合は、当初はノーコメント、次第に開き直り、遂には報復であり戦果を誇るという具合に変遷している。革マル派の場合には、即応でコメントと意義付けが為され、但し死者の発生についてはゲバルト以外の理由付け例えば手当てが遅れたとか他の病気を併発したとかの論で糊塗することが多い。その他、中核派は「党派間ゲバルト」のジハード性についての大衆的宣伝はさほどではなく、革マル派の場合にはかなり重視してこれを行うという差が見られる。その他、敵対党派の活動家・支持者に対する嫌がらせ電話等のナーバス作戦は革マル派の専売特許のような観がある。「誤爆」は双方かなり発生させているが、その対応差については分からない。

 智謀については全く互角で、互いが最終的解体を何度も確認しているにも関わらず生き延びてきているところ辺り党派としての底力を感じさせる。党派外の者が傍から意見を云うのが憚られるほどに、当事者にとっては抜き差しならないほどに定向進化させており、凄まじい「戦争」であったことは確かである。法治国家の間隙を縫うようにして、秘術を尽くした経過が記録されている。れんだいこも安直なコメントは差し控えさせて貰う。

 1951年

【国際派東大細胞内の戸塚、不破査問事件考】
 1951(昭和26).2.14日頃、国際派東大細胞内での査問・リンチ事件。「不破査問事件」とも云う。当時の学生運動の主流派であった国際派の指導者武井昭夫らが、指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫、上田建二郎(不破哲三)、高沢寅男(都学連委員長)の3名をスパイ容疑で監禁し、以降2ヶ月間という長期の査問が続け、道中で戸塚、不破に鉄拳テロが加えられたと云われている事件である。この事件を明るみにしたのは、安東仁兵衛氏の「戦後日本共産党私記」(文藝春秋社、1995.5月初版)である。後に共産党の最高指導者となる不破哲三に纏わるイカガワシサを問うた意味は大きい。戸塚秀夫、上田建二郎(不破哲三)、高沢寅男の3名がスパイであったのかどうかの真偽はまだ判定されていない。(れんだいこサイト「国際派東大細胞内の戸塚、不破査問事件考」)。

 1952年

【全学連五回大会で、所感派系が国際派査問リンチ(立命館事件)】
 6月、全学連五回大会で、旧中執27名を追放し共産党徳球系党中央支持派の玉井新執行部を誕生させる過程で、所感派系の学生が国際派の反戦学生同盟メンバーを査問リンチする事件が発生している。これを「立命館事件」という。リンチを受けた一人である松本忠明は自殺している。これは、反戦学同が帝国主義の手先であり、CIC(アメリカ軍情報部〉のスパイだとして十数人を密室に監禁リンチを加えたもので、後に70年代に入って激化するグ内ゲバ事件のはしりということができる(高木正幸「全学連と全共闘」)。この時査問された反戦学生同盟メンバーのスパイ真偽はまだ判定されていない。(れんだいこサイト「全学連.立命館地下室リンチ事件」)

 1961年

【全学連第17回大会で、マル学同と、ブント・解放派らつるや連合間で乱闘衝突
 7月、 全学連第17回大会で、革共同系学生(マル学同)と、ブント・解放派らつるや連合の間で乱闘衝突。学生運動史上初めての角材を使用した内ゲバであり、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバの初めとなった。「立花隆 1975, 上巻」が次のように解説している。
 「業をにやしたマル学同側は、近くの材木屋から大量の角材を買ってきて、これで武装して突撃した。これが角材が登場したはじめての事件であるとともに、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバのはじめである。(略)この角材によるゲバを指導したのが、マル学同に移行した清水丈夫全学連書記長である。(略)しばしば、今日の殺し合いにまでエスカレートした内ゲバが、どこからはじまったのかの議論になると、結局、このときの角材使用開始にまで話がさかのぼっていく。マル学同は、ほぼ全体が革マル派に移行したが、清水氏は後に中核派に移行したので、この日まで議論をさかのぼらせても、互いに相手側に責任をなすりつけあうことになる」。

 1963年

清水谷公園乱闘事件
 9.13日、「清水谷公園乱闘事件」。清水谷公園で、連合4派(中核派、社学同、革労協反帝学評(社青同解放派。以下「青解派」と記す)、構造改革派)が全都総決起集会〔清水谷公園〕で250名が集会しているところへ、革マル派150名が押しかけ演壇占拠、角材で渡り合う乱闘事態となった。のち両派相前後して日比谷公園までデモ。

 1964年

7.2早大事件
 7.2日、「7.2早大事件」。革マル派が拠点化を図る早大に、中核派、革労協反帝学評(青解派)、構改派の3派が殴りこみ。(れんだいこサイト「四派連合が早大革マル派へ殴りこみ/7.2事件」)

 1965年

【中核派の奥浩平自殺事件】
 3.6日、中核派の奥浩平が、革マル派のシンパとなった恋人同士の中原素子との関係が引き裂かれていく現実に絶望し、それが理由の一つで奥は自殺した。苦悶を記したノートや恋人宛の書簡は井上光晴や福田善之の紹介によって一般に知られるようになり、10月、遺稿「青春の墓標 ある学生活動家の愛と死」(1965年、文藝春秋新社)として刊行された。前書きと後書きを奥の実兄が執筆しているほか、当時革命的共産主義者同盟全国委員会(通称:中核派)の最高幹部であった北小路敏が解説を記している。2人の関係は「学生運動のロミオとジュリエット」と呼ばれて語り継がれていった。
 中核派と革マル派の分裂と抗争のもたらした悲劇に、中核派最高幹部陶山健一と革マル派幹部鈴木啓一(森茂)兄弟事案もある。二人はそろって東大に入学し革共同に加盟するが、分裂後はそれぞれ中核派と革マル派に分かれた。平成9年1月の陶山の葬儀には鈴木の姿はなかった。

 1966年

 7.4日、全寮連第八回大会で、日共系学生と反日共系学生が大会主導権を巡って乱闘。日共系学生暴力発動の最初。宮崎学「突破者」に乱闘の経過と「あかつき行動隊」創設につながっていく事情が述べられている。

 9.3日、「社青同東京地本九三事件」。社青同東京地本大会で、大会の主導権を巡って革労協反帝学評(青解派)と協会派が乱闘、協会派側に百人を越える負傷者をだす。
 1967年

【善隣学生会館事件】
 2.28−3.2日、善隣学生会館(現、日中友好会館)で日本共産党系と反日共系・華僑学生が衝突(れんだいこサイト「善隣学生会館事件考」)。

【法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ事件】
 10.7日、 法政大学で、中核派が革労協反帝学評(青解派)の高橋幸吉などへリンチ。「荒岱介 2008」が次のように記している。
 「10月6日に日比谷公園でおこなわれた全学連の統一行動で、やっかいな問題が起こったのだった。法大処分闘争に関する中核派のビラの中で、ブントと解放派が批判されていたのだが、これに怒った解放派の全学連書記局員が中核派の書記局員・丸山淳太郎さんを殴ってしまったのである。その場はなんとかおさまったが、明くる7日のこと。8日の行動の打ち合わせで法政大学に行った解放派の書記局員・渡木繁さんと高橋孝吉さんを中核派が拉致し、長時間のリンチをくわえる事態になってしまったのである。大闘争の前日に、三派全学連はとんでもないことになったわけだ。中央大学に集まっていた社学同や解放派は堂の長椅子を解体してゲパ棒を作ると、法大に押しかけて抗議し、解放派の書記局員を救出した。双方がゲパ棒を押し立てての対峠だったけれども、さいわい直接の衝突はなかった」。

 10.8日、羽田闘争において中核派、革労協反帝学評(青解派)は内ゲバに備えて角材とヘルメットで武装する。この武装で初めて機動隊を打ち破った。
 1968年

 2.12日、 九大教養部学館で中核派と革労協反帝学評(青解派)が乱闘、1人重傷。
 6.24日、法大で、革マルと中核派学生が乱闘。
 7.19−20日、反帝全学連大会でブントと、革労協反帝学評(青解派)・ML派の両派が乱闘。「前日に続き反帝全学連の主流社学同統一派と反主流の革労協反帝学評(青解派)、社学同ML派の両派が乱闘し、全学連大会流れる」 。
 9.9-11日、法政大で中核派と民育系が乱闘。「9/11 3日間、中核派と民育系が乱闘した法大で1000人超す一般学生が両派を学内から追い出し事態収拾」(毎日新聞社1998)。
 10.8日、革労協反帝学評(青解派)と革マル派が10.21に向けて総決起集会を明治公園で持つ。
 10.29日、革マル派と革労協反帝学評(青解派)が日比谷公園で騒乱罪適用反対総決起集会。(中核派+ブント+ML派−革労協反帝学評(青解派)+革マル派の組合せになる。10.21闘争後、革労協反帝学評(青解派)の早稲田における動員力が急速に低下した/高原峻証言)
 11.11日、静岡大法経短大学部で、民青系(代々木系)と反代々木系学生が乱闘、40人が負傷。「11/11 大学統合移転で紛争の静岡大法経短大学部で、大学占拠をめぐり代々木系と反代々木系学生が乱闘、40人けが」(毎日新聞社1998)。
 11.12日、東大図書館前で全共闘と民青系(代々木系)学生が角材で乱闘、約70名が負傷。 「『大衆団交』貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する白共系学生と乱闘となり、約70人が負傷」、「図書館封鎖で全学封鎖めざす全共闘と代々木系が角材で乱闘」(毎日新聞社1998)。東大全共闘の1000名のうち500名が社青同解放派と革マル派。ことに革マル派の攻撃は執拗であった。
 11.12−14日、早大で革労協反帝学評(青解派)による滝口弘人連続講演会が開催されたが、革マル派の高島忠正をリーダーとする革マル派学生が押しかけ、滝口氏らに暴力を加えるとともに、革労協反帝学評(青解派)の4名に対して東大図書館封鎖を口実にリンチを行う。口実は民青との対決を日和ったというもの。
 11.14日、東大教養学部で代々木系と反代々木系の学生の衝突を教官が阻止。 「教養では代々木・反代々木の衝突に教官がスクラム組み割り込んで拡大を阻止」(毎日新聞社 1998)。
 11.22日、東大安田講堂前にて「日大=東大闘争勝利・全国学生総決起大会」。夕方まで待機指令が出る。革マル派の洞田は事情を知らず。その後、洞田は一時、活動停止処分を革マル派から受ける。
 11.26日、東京教育大で反代々木と代々木系学生が乱闘。
11.26日、革マル派が、革労協反帝学評(青解派)系の早大文連常任委員Kに対してテロとリンチを加える。11.27−30日にかけて散発的暴行。
 11.29日、東大図書館前(本郷)で全共闘と日共系が衝突を繰り返す。 「図書館前(本郷)で学生5000人と教官800人による提案集会が3時間余開かれるが、加藤総長代行の発言はたった3回、しかも『なぜ、私のいうことを聞いてから議論しようとしないのですか』がただ1回ハッキリ聞こえただけ。大学当局の『提案集会』に対して全共闘は『粉砕』、日共系は『阻止』集会で対抗し加藤代行を奪い合ったため。流会後、両派が衝突を繰り返した」(毎日新聞社1998)。
【革マル派が早大で革労協反帝学評(青解派)テロ】
 11月下旬、早大で、革マル派が革労協反帝学評(青解派)テロ。早大を追われた革労協反帝学評(青解派)は東大駒場へ移動し革マル派と武装対峙する。革労協反帝学評(青解派)と革マル派の内ゲバの始まり。高原駿「沈黙と軌跡」は次のように解説している。
 「解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。一九六八年十一月もおしつまったある日、「党派折衝」に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った」。

 12.1日、革マル派が革労協反帝学評(青解派)系の文連常任委員Nを商学部地下自治会室に拉致。同日常任委員Sに対して暴行。眼球負傷。浜口竜太に対する暴行/高原峻証言。
 12.2日、革マル派が文連常任委員会をでっち上げて、早稲田祭ブロック会議に参加した革労協反帝学評(青解派)のS、Kの2名に暴行する。
 12.3日、革マル派が革労協反帝学評(青解派)のH、Yに暴行する。
【革労協反帝学評(青解派)−革マル派が早大-東大間武闘】
 12.4日、早大で革労協反帝学評(青解派)と革マル派が乱闘。12・8緑会のビラ「ながらく早大で第1政経自治会、文連、東大闘争等をめぐり争っていた革マルと社青同解政派」(毎日新聞社1998)。
 12.5日、林文連委員長にテロとリンチ、眼球破裂。革労協反帝学評(青解派)は早稲田を撤退し東Cに集結する。
 12.5日、東大駒場寮で革労協反帝学評(青解派)と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。12・8緑会のビラ「革マルと社青同解政派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5日夜10時頃、東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った」(毎日新聞社1998)。
 12.6日、革マル派50名が東大駒場寮(明寮)の革労協反帝学評(青解派)と内ゲバ。7名に重傷を負わせる。「12/6 東大教養学部駒場寮で革労協反帝学評(青解派)の部屋に早大等の革マル派とみられる学生約50人が角材・白ヘルメット姿で押しかけ乱闘、止めに入った寮生8人が負傷」(毎日新聞社1998)。
 12.7日、早稲田革マル40名が中寮に入ろうとして、拒絶される。革労協反帝学評(青解派)40名が教職員会館に泊まり込み。その後150名の革労協反帝学評(青解派)が教職員会館に泊まり込み。
 12.9日、早大で革マル派集会。
 12.10日、東大教養学部(駒場)で革マル派と革労協反帝学評(青解派)の対立が激化。革マル派200名が駒場寮に入り、7:40より教職員会館を攻撃。約200名が衝突、45人が負傷。 「教養学部での反代々木系革マル派と革労協反帝学評(青解派)の学生同士の対立激化し、駒場察前で200人が衝突」(毎日新聞社1998)。
 12.11日、革労協反帝学評(青解派)と革マル派が衝突。10数名が重傷うち2名が意識不明。累計で70名の重軽傷者が出た。
 12.11日、警視庁が東大学側に警告書 「警視庁は田村二郎教養学部長に対し『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す」(毎日新聞社 1998) 。
 12.16日、東大駒場で、及び駒場東大駅ホームで革マル派と革労協反帝学評(青解派)が衝突。「反代々木系学生同士がまた衝突、一部は井の頭線駒場東大前駅ホームでも乱闘したため、機動隊が出動し13人逮捕」(毎日新聞社 1998)。(12.16日、革労協反帝学評(青解派)の労学討論集会を革マル派が襲撃)
 12.17日、東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。「反代々木系学生聞の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり2人重体、12人けが」(毎日新聞社1998)。
 12.19日、反帝学評臨時全国大会(東大駒場教職員会館)150名。革労協反帝学評(青解派)の追及により各大学で革マル派の自己批判が出る。

 12.13日、東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。「東大教養学部で全学集会への学生代表団を選ぶ代議員大会を開こうとした全学連行動委員会(代々木系)、一般学生有志とこの大会に反対する全共闘が構内で衝突、乱闘で教官ら23人けが。午後代々木系が他大生含む角材持った500人の行動隊で守りを固め大会を強行し代表選ぶ。法学部学生大会でスト解除案否決」「6日からの争いで重軽傷者は計128人を超えた」(毎日新聞社1998)。
 12.13-14日、「上智大でバリケードを撤去しようとする一般学生・代々木系学生とこれを阻止しようとする反代々木系学生が乱闘」(毎日新聞社1998)。

 12.16日、法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200名が乱闘。 「法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が投石、殴り合い。反代々木系50人が飯田橋駅に逃げ込み、国電ダイヤ乱れる」(毎日新聞社1998)。
 12.24日、東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘 「12/24 東大医学部学生大会に全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」(毎日新聞社1998)。

 1969年

 1.9日、東大闘争勝利総決起集会後、民青系と全共闘が乱闘、重軽傷100人余。東大闘争での内ゲバで火炎瓶が初めて使用される。「荒岱介2001」が次のように記している。
 「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ピン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と聞の中から言い返してきた」。

 1.10日、東大駒場で全共闘と民青が乱闘。「荒岱介2001」証言。
 「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた」。

 1.10日、東大本郷でも安田講堂を占拠する全共闘と民青の間で乱闘。「荒岱介 2001」証言。
 「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。法文一、二号館のバリケードがその結果解除された。この攻撃は11日午前中まで続き、全共闘側は火炎ピンを投げて抵抗した。本郷にやってきたのは地区民(地域の日共党員) で、1000名はゆうにこえる大部隊だったという」。




(私論.私見)