別章【革命的暴力、テロル、戦争考】

 (最新見直し2005.10.11日)

 (最新見直し2005.10.11日)
 暴力と娼婦と利権の歴史は太古まで遡ることが可能で、それを思えば近現代になってこれらを御せるようになったと思うのは早計だろう。いくら取り締まってみても手を変え品を変え社会に息づくだろう。問題は、車のハンドルと同じで「遊び」の部分の効用を認め、全体としての適正を維持するという図り方にあり、その限りでの有効な制度とルールの創造に見識を見せるべきであろう。

 仮に、暴力と娼婦と利権の一切無い世界を想像して見れば良い。恐らく清河に堪えかねて魚の棲まぬ荒涼社会が待ち受けているだろう。強権的にこれを現出させれば、そういう表向きとは別に取り締まり側の機構の上部へ行けば行くほど、卒倒するような何でも有りの宮廷を生み出していることだろう。当然社会一般の裏社会でも、何らかの息抜き代替策を生み出していることが予想される。れんだいこのこの言の確かさは、我が社界を一目見ればたちどころに裏付けられることで分かる。

 こうした社会の中にあって、さももっともらしく「我が党は、暴力と娼婦と利権とは無縁である」と唱える論者が住する組織を見よ! 現に下部党員に恐ろしいほどの窮屈さを強いる反面、トップ官僚は「我が世の春」ぶりを謳歌しているではないか。そういうご都合主義な、極致アンバランス組織社会を生み出しているのではないのか。世の中は良く出来ており、史実がキレイ事云い師の弁を破綻させる。当然の如く具合の悪い事件、不都合を発生させるが、その都度詭弁を弄し、その挙げ句ひた隠し、除名により解決済み、それでも叶わぬとなるやノーコメントという腐臭を漂わせているではないか。

 とまぁ一般論を述べて、以下「革命的暴力、テロル考」に入る。れんだいこ見解の眼目は、「革命的暴力、テロル」を賛美しようというのではない。「革命的暴力、テロル」も又、人間性あるいはその社会の本質と照応していることを見据えつつ、然るべきところで評価させたいとしている。

 これが生み出される土壌を解析し、「革命的暴力、テロル」無しには済まされない情況を認めようとしている。これは、闘う側に必須な観点ではなかろうか。但し、これを今後どう御していくのが賢明なのかという解明も必要であり、そういう文明的な観点からこの「野蛮性」に対する英明な制度とルール造りに向かいたい、いくらそれが徒労であろうとも、というところにある。

 2002.12.27日再編集 れんだいこ拝


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社会闘争の現象形態考(サボタージュ、ストライキ、暴動、一揆、革命、回天、クーデター、テロ、維新考
テロル考
当局の弾圧、テロル考
50年分列時の徳球系武装闘争路線考、背景事情考
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暴力革命路線と議会主義路線考
別章【クラウゼヴィッツの戦争論について】   
山谷闘争と暴力団の闘い考
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(私論.私見)


 1920.6月日本の二人のジャーナリスト中平亮と布施勝治が、当時ロシア共和国人民委員会議長であったレーニンのインタビューに漕ぎ着けている。その時、レーニンは、革命的暴力について次のように述べている。「テロの存在を否定することは無い。革命のもたらす全ての祭祀災厄(さいやく)については、あるがままに語られなくてはならない。テロや災厄は避け様が無いからだ。だから予めそれらを計算に入れて置かなくてはならない。革命を起こすならば、行き過ぎの代償を払わなくてはならぬと計算に入れて置かなくてはならぬと覚悟して掛からねばならない。テロは今後も起こる。テロは、革命に対する内部から、そして外部からの大打撃であるので、我々はどうやってそれを避けるか。コントロールするか。あるいは然るべき方向に向けるかについて解明しなくてはならない。しかし、我々はテロという狂気の真っ只中を通ってロシアを引っ張って行くしかないのだ」(メリニチェンコ「レーニンと日本」)。

 次のようにも述べている。「第2回コミンテルン大会において、ドイツの社会民主主義者クリスピンは、『暴力とテロは異なるものである』と語った。しかしレーニンはこれを強く否定し、『両者の間に一線を引くことは、社会科学の中では可能かも知れないが、実際に政治を行うにあたっては、そんなことは出来ない相談だ』」。

「革命側からのテロという愉快ならざるテーマ」


 レーニンは、小論文「人民の敵」文中で、18世紀のフランス革命におけるジャコバン党について触れ、「今日手本になるゆ否や」について次のように明言している。「20世紀のジャコバン党は、資本家達をギロチンにかけるようなことはしないだろう。良いお手本を見習うことは、そっくり真似をすることとは違うのだ。公金横領や銀行による略奪行為の首謀者達である銀行界の大立者やボス達50人か100人を逮捕し、数週間拘禁すれば、それだけで充分彼らの悪行を暴くことが出来るはずだ。銀行界の帝王たちの悪行があからさまになったら、先ず銀行や資本家達のシンジケート及び国庫の『ために』活動している請負機関を労働者達の管理下に置き、その上でなら帝王達を釈放してしまっても構わないだろう」(メリニチェンコ「レーニンと日本」)。他にも、赤色テロ批判に答えて、「武器を持たぬ人々をギロチンにかけたフランスの革命家達が行ったようなテロ行為は、我々はやってこなかったし、これからもやらないだろうと私は期待するものである」とのコメントを残している(メリニチェンコ「レーニンと日本」より)。


 ボリシェヴィキが平和的解決を目指していた経過について、レーニンは次のように述べている。概要「(ロシア10月革命蜂起の過程で)我々は権力を奪取したが、流血はほとんど無かった。犠牲者が出たが、それは我が陣営においてのみだった」、「1917.10.25日(現代暦では11.7日)の革命勃発後でさえ、我々はブルジョア新聞を廃刊させることはしなかった。そしてテロなど話題にもしなかった。我々はケレンスキー内閣の多くの大臣達のみならず、我々に敵対したクラスノフさえ釈放したのだ。搾取者たち即ち資本家達が抵抗を始めた後になってのみ、我々はテロを含めた手段により彼らの反抗を計画的に押し潰す作戦を開始したのだ」、「1917年の状態を憶えている者なら、ボリシェヴィキがブルジョア連中相手にいかに多くの妥協案を提示したかを知っているはずだ。ところが、ブルジョア連中は、我々に向かってこう言い放ったのだ。『諸君、君達の企てはうまくいっていない。我々は権力を握るし、それを手放すこともしない。百姓流の表現で言うなら、大喧嘩をおっぱじめる前に、ことを丸く治める方法を諸君はお考えになっては如何かな?』 衆知の如く、結果的には彼らが大喧嘩を仕掛けてきたのだし、メンシェヴィキや社会革命党に支持され、又扇動されて武力による反抗も試みたのである」(メリニチェンコ「レーニンと日本」)。


 レーニンは、赤色テロ批判に対して、1919年末第7回全ロシア・ソビエト大会、あるいは第7回ロシアボ派共産党全国会議で概略次のように反論している。「テロに関しての我々への声高な批判には次のように答える。全世界に展開する艦隊を有し、我が国の百倍もの軍事力を持つ複数の強大国が我が国に襲い掛かり、あるいは、複数の小国に我が国を攻撃するよう強制したりしたが、彼らの行為はテロではなかったのか? いや、まさにテロそのものではないか。軍事干渉国連合のあのようなテロ行為に直面した以上、我々もボリシェヴィキ流のテロ行為に訴える権利を有していたのだ。自国の自由を勝ち取るために闘っている労働者と農民をそのこと故に抑圧してき、今も又圧迫を加え、飢え死にへと追い込んでいる資本主義という名の世界の強者による恐怖政治、そしてそれが結成した軍事干渉国連合によるテロ行為-こうしたものが我々のテロ行為を余儀なきものにしたのである。そして我々のテロの根本原因たる資本主義、及び直接的原因たる軍事干渉軍連合との闘いの中で我々が勝利を一つおさめるたびに、説得と感化の手段としてのテロというものを我々自身が、我々の統治において用いずに済ます可能性が確実に増加していくことになるのだ」。レーニンの次のような発言も残されている。「世界帝国主義の襲来、世界帝国主義による軍事的陰謀、及び我が国に対する軍事的圧迫-これらのテロ行為の主たる発生源を我々が取り除くことが出来た暁には、我々は直ちに先陣を切ってテロ行為の数を最小限中の極小値にまで減らすことができる」。


 ロシア10月革命前後の情況を俯瞰して、メリニチェンコ氏は、「かくして革命の平和裡の終結というのは客観的理由からして、有り得ないことであった。理論と実際の共存、願望と現実の共存は、革命の場においては不可能だった。どちらか一方が死滅せざるを得なかった」と結論付けている。アカデミー会員ヴォロブーエフの言も同様であったとして、次の発言が紹介されている。「レーニンは内戦やテロに怖れを感じていた訳ではないが、両者がロシアにとって不可避なものであるとは考えていなかった。ボリシェヴィキが政権を握って間もなく、貴族階級と労働者階級の間の積年の相互憎悪が、どちらがどちらを倒すかというのっぴきならぬ問題を引き起こしてしまったことが明白になった。闘争は敵対する二つの階級のどちらか一方を物理的に消滅させねば止まぬという段階まできてしまったのだ。そこまで激変した闘いの中にあっても、ボリシェヴィキとその指導者レーニンは節度を守ることが出来たはずだとか、思いとどまることが出来たはずなどと断言できる人間は、真面目な歴史学者達の中には一人もいないだろう」。


 メリニチェンコ氏は云う。「ソビエト政権を脅かす、このような状況が生ずるにつれ、レーニンは容赦ない対応を迫られるようになっていったのであり、その事実を隠したり、あるいは、逆に誇張したりするのは馬鹿げたことであろう。彼は平時の道徳基準とは全く異なる戦時の法則に則って、『止むを得ない処置の範囲内』で行動したのである。ロシア革命時の内戦というものが、単なる戦争ではなく、人類がかって経験した最も過酷な戦争の一つであったのだから。平時の道徳律が適用できないのは尚更である」。


 但し、そうはいってもレーニンの革命的暴力論の是非論の考察は必要であるように思われる。マルトフ(1873−1923年、メンシェヴィキの指導者の一人)は、第7回全ロシア・ソビエト大会で、赤色テロに関するレーニンの見解を概ね支持してみたものの、原則的立場として次のように発言している。「社会主義の原則からすれば、テロ行為は国家統治システムを構成する要素の名に値するとは認められないし、又最も基本的な個人及び社会の自由を弾圧することにより、成り立つような労働者階級政権の樹立も社会主義の原則に反する」。しかし、この声はレーニンには届かなかった。「ロシア社会民主労働党代表としてのマルトフの発言が、極悪な搾取者たちの中でも最低の奴ら、即ち帝国主義の野獣どもの云っていることの鸚鵡返しである以上、私としても用心しなくてはならぬぞ、チェーカー(国家非常委員会)は絶対に必要だぞと自分に言い聞かせざるを得ないのだ」と反論している。このレーニンのチェーカー傾斜ぶりについて、1918年末の次のような発言が残されている。「我々にとって重要なのは、国家非常委員会が、プロレタリア独裁の表現に直接的に寄与することであり、この意味では、同委員会の果たす役割は絶大なものである」。ところで、後年レーニンは、ゴーリキーに向かって、「マルトフが我々と一緒に居ないのは実に残念だ。彼は本当に素晴らしい同志であり、純粋な人間なのだ」と真情を吐露したことが伝えられている。


 メリニチェンコの「レーニンと日本」は、H・A・クロポトキンの見解を紹介している。クロポトキンは、1921年にレーニンに宛てた手紙の中で次のように述べている。「赤色テロは社会主義や共産主義とは全く関わりの無い欠陥を内蔵しており、主としてそれが原因で革命を破滅に追いやるであろう。そして旧体制と旧悪の生き残りに全てを食い尽くす歯止めの効かない権力を与えてしまうであろう」。


 しかし、レーニンの確信は強かった。1918年秋のカウッキーとの論争の中で、革命的暴力について次のようにその理論的政治的公理を明らかにしている。「一般的に云うなら、社会主義は暴力による人間の抑圧を否定するものである。しかしながら、キリスト教無政府主義者たちとトルストイ主義の信奉者達を除いては、ここれまで誰一人として『社会主義は力による革命時の強制も排除するのだ』との結論を上記の一般論から引き出したことないのである」、「ブルジョアの抵抗を粉砕し、敵を力をもって制圧しなければ、プロレタリアは勝利することが出来ない」、「一つの階級の支配下では自由と平等を云々するのは、ブルジョア民主主義のスローガンを無批判で模倣するか、あるいは具体性を帯びていない抽象的な社会主義をぼんやりと夢想するに等しい行為なのだ」、概要「搾取者達を力によって弾圧する以外一般大衆を解放する方法は無いのだ。搾取者達に与えられる政治的自由などという者は有り得ないからだ。将来実現するプロレタリア民主主義は、あらゆるブルジョア民主主義より百万倍も民主的なものになる」。