黒寛理論考

 更新日/2018(平成30).9.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 以下、「黒寛理論」について1・組織論、2・運動論、3・党派論、4・実践論の四部構成で見ておくことにする。

 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝


【「黒寛理論」解析その一、組織理論について】
 まず、第一の「黒寛組織論」の考察から入る。その特徴は、「永遠の今論」、「組織現実論」に象徴されているようである。黒寛は、その論理につき、「組織論序説」(こぶし書房)の一節で次のように記している。
  「労働者階級の前衛とは、プロレタリアート自己解放の理論、共産主義思想を物質化し、現実化するための媒介形態としての革命的人間の組織である。前衛としての自覚、革命への献身、忍耐、自己犠牲などの資質を兼ね備えた共産主義的人間への自己変革を為し遂げたプロレタリア的人間を構成実態とする強固な『共同体』(これは革命的人間への変革の場であるとともに、実現されるべき将来社会の萌芽形態であり、共産主義的人間にとっては『永遠の今』として意義を持つ)としての前衛組織こそは、プロレタリア的目的を革命的実践へ適用し、プロレタリアートを一階級として組織しつつ革命を為し遂げるために不可欠な手段である」。

(私論.私見)

 云えることは、何やら極致的に措定された「共産主義的人間への自己変革を為し遂げたプロレタリア的人間」的解脱絶対世界があり、その観念化された北斗七星へ向けてのプロセスが共産主義的革命運動であり、党派の組織論であるらしい、ということである。非常に分かりやすくロゴス化された純粋系観念理論であることが分かる。

 
れんだいこは、「共産主義的人間への自己変革を為し遂げたプロレタリア的人間」という観点を胡散臭く観ずる。文章の前後に一見マルクス主義用語を織り交ぜているので何気なく読み過ごしてしまうが、「共産主義的人間への自己変革を為し遂げたプロレタリア的人間」とはおかしな文章である。「共産主義的人間」とは何なのだろう。共産主義思想を信奉するあるいはその運動を担う共産主義者というのは分かる。同じく、「プロレタリア的人間」とは何なのだろう。階級としてのプロレタリアートとか個々のプロレタリアという存在は分かる。しかし、黒寛が云う「共産主義的人間」、「プロレタリア的人間」とは何者を想定しているのだろう。「自己変革を為し遂げた」ともあるからには、この階級社会にあって「黒寛教理」に導かれれば、その汚辱にまみれず器量形成可能ということなのだろうか。

 
仮に、そういう仏陀的覚醒解脱域があるとして、「プロレタリア的人間」とか「共産主義的人間」への自己変革を「為し遂げた」か「為し遂げ得ていないのか」を、誰がどういう基準で判定すると云うのだろう。近いところで、確かオームの麻原グルがそのようにふるまったのは記憶の新しいところである。もしこういう論理を許せば、判定者は神であり教祖であるが故の独裁者的地位に居座ることが容易となろう。

 だがしかし、マルクス主義思想には、運動圏内にそのような真理の獲得者然とした独裁者を忍び込ませる理論は無縁とすべきであろう。史上のスターリニズムはマルクス主義の大いなる変質理論であったことこそ凝視せねばならず、これを撃つのがスターリニズム批判の眼目であろうに、黒寛のスターリニズム批判とは独裁者スターリンに対する批判の為の批判に過ぎず、代わって自身がスターリンの位置に座ることでしかないように思われる。つまり、スターリニズム批判の方法論がナンセンスではなかろうか。

 黒寛組織論はなるほど一見論理化してはいるが、行き着いた先に絶対的な観念的理念外化世界を措定し、その道中のみ弁証法的な仕掛けで「永遠の今」を把握しようとしているように見える。しかし、この論理は、かなり守旧な僧侶の苦力修行絵巻世界へ誘うものではなかろうか。さて、そのような弁証法なぞあり得るのだろうか。これはマルクス主義的弁証法の根本的な理解に関わる歪曲ではなかろうか。僅かな表現の中にも、このような似非性が見てとれるではないか。

 黒寛は、革命運動のそういう構図を前提にして、党の任務について次のように述べている。
 概要「党は、実現されるべきコムミューンの場所的創造である」(「組織論序説」、こぶし書房)。

 
れんだいこは、批判するばかりが能ではないので、これは卓見かも知れないと評価したい。補足すれば、党とは、実現しようとするコミューン社会の先取りを、何より党内において逸早く創造すべきではなかろうか。例えミニチュアな模型であろうと、それが今後広く社会へ一般化させるものとして身近な党内コミューンを形成し検証し続けることが、我らが運動の血となり肉となり威力を増していくことになるのではなかろうか。

 そういう意味で、黒寛の論による氏自らが指導する党派の党内コミューンの出来具合いを窺いたくなるのは人情だろう。なぜならば、反面教師としての日本共産党宮顕ー不破指導部の党内を見よ! あの特権的党中央絶対帰依の強権的統制的手法が社会一般に押し広げられることを考えただけで身震いするではないか。れんだいこは、黒寛率いる党派革マル派の組織が逸早く「実現されるべきコムミューンの場所的創造」になっていることを願う。

 黒寛は、党組織論におけるそういう構図を前提にして、レーニン主義、毛沢東主義の欠陥を次のように指摘する。
  概要「レーニンの前衛党論は革命技術主義的かたよりがはらまれ、これに対して、毛沢東主義は、このレーニンのかたよりを部分的に、道徳主義的に是正するものとして現れたが、『マルクス主義の個別的理論として意義を持つべきプロレタリア的人間の確立、これに基づく前衛党組織論としては実現されなかった』」(「組織論序説」)。

 これはこれで左様ですかと聞いておこう。問題は、では、黒寛はそれらに替わるどのような党組織を確立すべしとしているのであろうか耳を傾けてみよう。「組織論序説」(こぶし書房)には次のような一節がある。
 概要「現代におけるプロレタリア革命の問題は、プロレタリア的人間とそれを構成実体とする前衛組織の問題である」。
 概要「本来、革命党の根本的概念は、『共産主義者の政治的結集体』としてある」。
 「前衛党の組織問題は、それゆえに共産主義的人間の確立を第一の前提条件とする」。
 「党員の主体性の欠如ということが問題であり、従って現代の前衛党を創り出していくためには、同時にその党そのものを『人間変革の場』としてとらえなければならない」(「呪縛からの解放」)。
 「革命的前衛党には、ブルジョア的自由主義や個人主義や利己主義が入り込む余地は全く残されていない」。

 これも左様ですかと聞いておこうと思えばそれで済ませられないこともないが、問題がある。「前衛党の組織問題は、それゆえに共産主義的人間の確立を第一の前提条件とする」とあるように、「共産主義的人間の確立」がかなりにウェイトを占めて向自化されている。ところが、先に指摘しておいたが、「プロレタリア的人間」、「共産主義的人間」とは如何なる概念で語られているのだろうか。その観念論的構図はマルクス主義者のそれとは無縁であろう。むしろ、政治運動内にこの観点を持ち込み悪用されると、非常に危険なものへ変質させられていく恐れがありはしないか。黒寛の云う「プロレタリア的人間」、「共産主義的人間」の内実とはどのようなものなのか、まさか俺がソウダと云うのではなかろうが一向に明らかにされないまま一人歩きさせられている。

 この辺りが漠然としたままに「永遠の今論」、「組織現実論」が唱えられ、強面(こわもて)調で「前衛としての自覚、革命への献身、忍耐、自己犠牲などの資質」を兼ね備えることが要求され、他方で「ブルジョア的自由主義や個人主義や利己主義が入り込む余地は全く残されていない」とする場合、そこに判定者のオールマイティーな権力の跋扈が立ち現われていたとしたら、そこにはどのような党派が生まれるのだろうか。垣間見えるのは、何やら宮顕論理と双生児な右向け右式の党派像のような気がする。オーム麻原のグル思想とも近似している。

 
黒寛が「プロレタリア的人間」ないしは「共産主義的人間」について論及している個所は次の通りである。「日本の反スターリン主義運動・二巻」には次のように書かれている。
 「(共産主義的人間は、)『組織性と思想性の弁証法的統一』が必要である」。
 「前衛党を構成する実体(党員)における全体性はその組織性であり、その個別性は共産主義的人間の主体性、それに相応しい思想性であり、この両者(全体性または組織性と個別性または思想性)が主体的に統一されることによってのみ、前衛党組織の組織的取り組みが確保され保障され実現される」。

 何とヘンチクリンな論旨展開だろうか。黒寛がここで為さねばならぬことは、「プロレタリア的人間」ないしは「共産主義的人間」についての内実規定であろうに、これを明かさぬままに「組織性と思想性の弁証法的統一」だの「主体性、それに相応しい思想性、主体的な統一」だの弁証法まがいの論理ばかりが強調されている。こういうのを一種の煙巻き詐術論と云う。

 
論理構成を小難しくしつつ更に用語をふんだんにマルクス主義的言辞で被せているが中身が一向に明らかにされていない。皮をめくってもめくっても本体がでてこない一種のらっきょう理論となっている。にも関わらずこのような論理スタイルで強面の云い方をしているという胡散臭さを観ずるのはれんだいこだけだろうか。云うのは勝手だからそれは認められよう、だがしかし、この様な論理で「精神棒」を叩き込まれたら、やられた方は堪ったものではなかろう。

 黒寛の理論に付き「検証内ゲバ」に現われているのはこの程度であるので、これ以上は当人の著作から直接聞かねばならないだろう。おいおい解析していくつもりであるが、こういう理論をそろそろ対自化させねばならない頃ではなかろうか。

【「黒寛理論」解析その二、運動論について】
 次に、「黒寛運動論」を見てみる。これまたひどい。「革命的マルクス主義とは何か?」(39P)には次のように書かれている。
 「一般に革命的政治運動というものは、現象的には(本質的にはではない)極めてヨゴレタものであり誤解にみちたものであって、政治的、あまりにも政治的な“陰謀”をすら活用しない限り(この点ではレーニンの右にでることのできる革命家はない)、そもそも政治そのものを止揚しえないのだという、このパラドックスが、ぜひとも自覚されなければならない。だから、赤色帝国主義論者をすら活用して、動揺と混乱の渦巻のなかにある日共指導部を瓦解させる一助たらしめるという“陰謀”をたくらむべきである」。
(私論.私見)
 つまり、堂々たる「陰謀活用論」が開陳されていることになる。れんだいこは、黒寛のこういう見解全体が薄っぺらなものに聞こえて仕方ない。しかし、そうは受け取らず「黒寛ご託宣」が一定の影響を与えていった史実がある。云えることは、この程度の理論を拝載してあり難がってきた日本左派運動のレベルがお粗末過ぎるということではなかろうか。

 れんだいこが解読するのに、一言一句が吟味されておらず言葉遊びのようにして文意が繋げられていることが見てとれる。これを読み直してみるのに珍妙な理論が鼻につく。革命的政治運動に陰謀活用を説き、「このパラドックスが、ぜひとも自覚されなければならない」とあるが、こういう認識からすれば、黒寛は鉄砲政権論ならぬ陰謀政権論者のようでもある。

 結論的に云っていることは、「赤色帝国主義論者をすら活用して、動揺と混乱の渦巻のなかにある日共指導部を瓦解させる一助たらしめるという“陰謀”をたくらむべきである」ということであるので、以下この観点の是非を検討する。

 
珍妙さの第一は、「一般に革命的政治運動というものは、現象的には(本質的にはではない)極めてヨゴレタものであり誤解にみちたものであって云々」にある。革命的政治運動をこれほど堂々と「現象的には(本質的にはではない)極めてヨゴレタものであり誤解にみちたもの」との見立てが胡散臭い。レーニンを評するのに、「この点ではレーニンの右にでることのできる革命家はない」だと。そういうレーニン論もあるかも知れないが、マルクス主義を拝戴する革命党派の理論としてはかなり変わった見立てであろう。

 この党派の特質でもあるが、党派運動の矛先が体制当局に向けられることはない。いつも左派戦線内「乗り越え派」として左右両翼に割って入り、悪質な分裂工作を行うのを常套手段としている。そういう「極めてヨゴレタものであり誤解にみちた」運動を辞さない、概要「政治運動に於けるこのパラドックスが、ぜひとも自覚されなければならない。そこに我が党派の特質がある」と自賛的に述べていることになろう。そういう珍妙な論であることに気づかねばならない。

 この文章では、「動揺と混乱の渦巻のなかにある日共指導部」として日共をターゲットとしているが、日共はたまたまの例に過ぎず、その時々に任意な党派を標的にし得る危さが見てとれる。事実、カクマルは、その出向くところいつでもどこでも戦線において敵対党派を謀略と恫喝とテロルにより排除せんとし続けてきた。その挙句に中核派と社青同解放派とのテロ合戦に行き着いた史実を確認せねばならない。この延長線上で、1975年にはおのれ等の所業には頬かむりして中核派幹部を殺人罪で刑事告訴している。

 第二に、「陰謀活用論」の内実の珍妙さである。前述の専ら左翼内撹乱分子として立ち現われる性癖を機能的な珍妙さとすれば、形態的な珍妙さをも見ておく必要がある。末尾の「“陰謀”をたくらむべきである」という表現も変調だ。少なくとも「余儀なく仕方ない」方法として陰謀活用が云われるまでが理解し得るところであろう。ところが、限定なしの「べきである」とはこれ如何に。かような論理が赤色系のものであろう筈がない。

 ところで、「“陰謀”をたくらむべきである」は、文章上どの文節に掛かっているのだろうか。それにより文意が変わってくるが、常識的には直前の「日共指導部を瓦解させる一助たらしめるという」に掛かるであろう。だが、もう一つ「だから、赤色帝国主義論者をすら活用して」に掛かっているとも読める。こちらに掛かっているとなると、「陰謀的な共同戦線論」が吹聴されていることになる。れんだいこはこの解釈になぜ拘るか、それは史実としてこのトリックにやられた党派が存在するからである。

 第三に、当初れんだいこは、「赤色帝国主義論者をすら活用して」を「赤色帝国主義者の活用」と読み誤まり、「**帝国主義論者をすら活用して」とはどういう意味であるか。「**」を外せば、「帝国主義論者をすら活用すべし」という意味になり、これは裏見解的に捻ってはいるが体制側当局と通謀し合うことを公然と正当化する奇妙な論理ではなかろうか、ひいては「白色帝国主義の活用」さえ辞さず論に道を拓いているのではないか、として受け止めた。

 
が、この第三点につき、「左往来人生学院・2312」のbQ003、1.16日付け飯田橋大塚さん投稿文で次のような指摘を受けた。
 「この部分をれんだいこさんは誤解されているようです。『赤色帝国主義論者』というのは、当時のソ連の階級的性格をめぐる論争の中で、ソ連を『赤色帝国主義』と規定したもののことです。黒田は、『赤色帝国主義論者』には反対なのですが、『動揺と混乱の渦巻のなかにある日共指導部』を瓦解させるために共同戦線を組むべきであると言っているのです。ただそれだけのことであって、この主張からのちの革マルの陰謀的体質を導くのは行き過ぎでしょう」。

 これは確かに飯田橋大塚さん指摘の通りであるので訂正させていただいた。その上で一言すれば、この文意全体が玉虫色になっており、史実は、れんだいこ的読み誤りをも包摂しつつご都合主義的に了解し活用してきたのではなかろうか。いずれにせよ、右向け右の組織論の上に陰謀活用論が接ぎ木されている訳だから、かなり際物であろう。

 従って、「ただそれだけのことであって、この主張からのちの革マルの陰謀的体質を導くのは行き過ぎでしょう」には同意できない。「この主張の中にカクマルの陰謀的体質を覗く」ことは見てきた通り可能だと考える。

【「黒寛理論」解析その三、党建設論について】
 黒寛の党建設論もこれまたひどい。その前衛党論は、「プロレタリア的人間論理(黒田哲学)」によるイデオロギ−的・サ−クル主義的集団による同心円的拡大路線であり、超主観主義的な絶対主義的イデオロギ−(革命的マルクス主義)集団としての党建設論理に貫かれている。そのために、「己の党の絶対化を論理とする党への求心主義」、「党のための闘い」がきわめて重要な実践テーゼとなる。

 このテーゼは、大衆運動や労働運動をすべて党建設論に従属させる党の物神化運動の公然宣言であり、これにより宗派化せざるを得なくなる。全ての観点の基礎に「自己の党の絶対化」を前提としている限りにおいて、これは極めて排他的な理論であり、同時に革命に使われるか反革命に使われるかの識別基準を示していない点で反動的な理論であるとも云えよう。

 ちなみに、マルクスーエンゲルス共著の「共産主義者の宣言」は、この種の党物神化運動を強く戒めている。故意か偶然かまでは分からないが長年の誤訳で、「共産主義者の宣言」が貶められているが、マルクスーエンゲルス共に「階級情勢の左派的流動化に尽力すべし」と指針しており、それを縷々説明している。宮顕ー不破系日共や黒寛の党建設論はこれに対する真反対見解であることが分かる。

 この党建設論が内部的に止まるのならいわば勝手であろうが、外部へ表出するとオーム真理教ばりのポア理論へと転身する(もっとも、オウムの方が真似たことになるが)。史実は、自己にとって利用できる者と、利用できない者とを峻別し、利用できない者には、ありとあらゆる手法を用いた攻撃、それは名指しでの罵倒・嘲笑から、ひどい場合は脅迫電話、動物の死骸を送りつけたり、留守宅に侵入して部屋中に重油をまいたり、塀にスプレーで落書きしたりするなどの所業が行われていくことになった。

 「他党派解体」、「小ブル雑派解体」という傲岸不遜な党派性を露にし、これに「赤色帝国主義論者をすら活用を辞さない」論から始まる陰謀論と「お仕置き論」が接合することにより、何ら躊躇なく公然と鉄槌ゲバルトが振り下ろされることになる。中核派の本多書記長や解放派の中原一氏に対しては、頭部のみに集中してマサカリないしアイスピックのような凶器で攻撃するという、明確に殺人を意図したテロを行ないながら、「この暴力の行使はあくまでも、暴力を補助手段とした、駄々っ子に対する母親のお仕置きに過ぎない」(解放374号「お仕置き党派闘争論」)という戯れ言まで平然と述べている。それでもなお、この白色テロを赤色テロと拝せと説教する者がいるとするなら、漬ける薬がない。

【「黒寛理論」解析その四、実践闘争論について】
 最後に、既に重複するが「黒寛実践論」にも一言しておきたい。「プロレタリア的人間の論理」には次のように書かれている。
 概要「要するにプロレタリアートの階級闘争=政治闘争は、本質上、『自由な王国』の地上的実現という普遍的目的をその根底にもち、その特殊諸条件のもとにおける個別的=普遍的な実現(各国革命の永久的完遂としての世界革命)であり、プロレタリアートの革命的自覚とその実現のための組織運動である。このゆえに、無自覚な人民大衆は、彼らの組織的=階級的実践を通じて、かつ前衛党の指導にもとづいて、プロレタリア的自覚を獲得して行くのである」。

(私論.私見)

 つまり、非常にロゴス的に措定された、単なるイデオロギーの担い手としてしか位置づけられることのない党員(単なる教義の奴隷)によって構成される一枚岩的同質性な前衛党のあり方を、全社会に向かって押しつけようとしていることになる。この教義への異論に対する配慮は微塵もない。「プロレタリアートの革命的自覚とその実現のための組織運動」という風に精神論で語ることにより、具体的な闘争の在り方に対しての検証の作法を何一つ明示していない。この組織に極悪指導者が登場したらどうなるのか、意図的に割愛されているようにさえ見える。

 更に、大衆は、単なる「無自覚な」存在でしかなく、正しい前衛党の「指導」によって「プロレタリア的自覚なるものを獲得」させられて行く対象でしかない。これは、何ら共産主義者の運動論ではない。大衆蔑視観も然り、共産主義以前の問題で人民大衆観そのものに致命的な欠陥があろう。

【「黒寛理論」解析その五、主体性論について】
 黒寛のこれらの独特の教義の底流に「主体性論」がある。「主体性論」は、西田哲学や戦後の梅本=梯主体性論に哲学的基礎を置いている。蔵田氏は「『電脳ブント』の蔵田計成論文」の中で、「黒田主義イデオロギ−のもう一つの特徴は観念論的修養主義」という認識の下で次のように書いている。
 例えば「根元的な利己を含みながら、しかも、その否定においてのみ自己の本来性を獲得する社会的存在としての人間」(「唯物論と人間」梅本克巳)。さらに、梯哲学では「自由の王国こそは、現代のわれわれの心の内にある宇宙史的必然性の自覚として、階級的な、党派的な、絶対的信念として、世界観として、闘争の原動力として、われわれのうちに生きている」(「資本論への私の歩み」梯秀明)というのが戦後主体性論の人間規定があり、階級闘争観、階級形成論の基底にあった。この主体的物質論、主体性認識論は「身を殺して仁をなす」式の倫理主義と等しいか、それと隣り合わせである。「疎外革命論」や内ゲバに対する発言などは、先達の誠実な足跡とともに、ある一つの学問的社会的功績であることは否定しないが、これを含めて戦後主体性論の功罪を再評価すべきかも知れない。

 不肖の弟子を演じることになった黒田哲学は、この上に接ぎ木した思弁の哲学に過ぎないといえよう。「おのれを自然と社会を貫く物質の無限なる自己運動の尖端に立つものとして自覚し、この物質的自覚において人間の真実の歴史を創造してゆこうと決意し、実践する革命的人間の形成――これが……現代的人間の生きた理想像でなければならない」(「現代における平和と革命」黒田寛一)。

 このように、黒田主義は一方において倫理主義的観念論、修養主義的人間観を前提に「革命的マルクス主義」(反帝・反スタ・マルクス主義)を絶対真理=理想として物質的自覚論を説くのである。かくして、そこにおける自己意識する主体の立場性は、「超人間的な抽象的精神」、「絶対精神=神」の如くである。それはまさに法会を主宰する「現代の聖マックス」を彷彿させる。革共同黒田主義は、このような「至高な理念」に裏打ちされた法衣の名によるイデオロギー的自己絶対化、絶対的価値、絶対的自己確信の下に、独善的暴力を行使するのである。これが本当にタチの悪い偽装=欺瞞であるか否か、その判断基準と尺度は、かの理念と実相の乖離と幅にある。

(私論.私見)

 蔵田氏もその云おうとするところを分かりにくくする癖があるので、れんだいこが解析する。黒寛の主体性論が如何にマルクス主義以前の観念主義的段階に止まっているか、次の一文からも分かる。「現代における平和と革命」で、「おのれを自然と社会を貫く物質の無限なる自己運動の尖端に立つものとして自覚し、この物質的自覚において人間の真実の歴史を創造してゆこうと決意し、実践する革命的人間の形成――これが……現代的人間の生きた理想像でなければならない」を考察するが、「おのれを自然と社会を貫く物質の無限なる自己運動の尖端に立つものとして自覚し」なる表現が哲学的で在り得るか。とてもではないが通用しまい。せめて文学表現であろうが、文学的にも通用するかどうかさえ危ぶまれるだろう。

 次に、「この物質的自覚において人間の真実の歴史を創造してゆこうと決意し」という場合の『真実』とはどういう意味であるか。マルクス主義はかような真理論、真実論とは無縁である。それをいとも容易に使う黒寛式真理・真実論を凝視せねばなるまい。

 なお、「実践する革命的人間の形成――これが……現代的人間の生きた理想像でなければならない」について、この文章には文句をつけようがないと思いきや違う、問題がある。マルクス主義者は容易には「理想像」なる文言を使わない。なぜなら、「理想像」という表現の意味は、観念論的な「ある理想的な観念域」を予定しているから。ならばその域を外れた場合どうなるのか、どこを分水嶺とするのか、それを誰が判断するのかという按配に次から次へと問題が発生する。こういう半知半解な用語を党派運動には使わないのが嗜みであろう。

 しかし、驚くことは次のことにある。かような半知半解な理論が何ゆえ一定の影響力を持ってきたのか。説く方は自由である。問題は、それは受け止める方の能力がせいぜい高校生止まりの批判力でしかなく、つまり難しく云われればあり難いと勝手に思慕するあまりにもな凡庸頭脳に支えられているのではないのか。

【「黒寛式党派闘争論」について】
 黒寛理論については上述を原理とする。これを更に補足して「黒寛式党派闘争論」というものがある。その特異性が「他党派解体論」に凝縮している。次のように云いなしている。
 「他党派の戦術やイデオロギーを批判し(『理論上の乗り越え』)、他党派を革命的に解体するための組織活動を展開する(『組織上の乗り越え』)ことを通じて、『運動上の乗り越え』を実現する」(黒田寛一「日本の反スターリン主義運動」)。

(私論.私見)

 この「他党派解体論」こそ左派圏内に忍び寄った悪性腫瘍であるように思われるが、どの党派も似たり寄ったりの感覚で居たのだろう、これが如何に酷い論法であるか対自化されていない。元々左派運動内には、宮顕式「排除の論理」や黒寛式「他党派解体論」は不要である、切磋琢磨こそが実践弁証法とされねばならない、という観点こそ確立されねばならない。れんだいこはそう思う。

 「排除の論理」や黒寛式「他党派解体論」で学生運動を経過し、後になって「学生運動とは麻疹(はしか)のようなもの」と清算する手合いが居たら、「何と便利軽薄な精神浄化ぶりだろうか」と思うのは私だけだろうか。




(私論.私見)