概要履歴

【黒寛履歴】
 1927年生まれ。実家は東京都府中市の病院で、曾祖父・尚雄(なおたけ・1847年=弘化4年生まれ)は三多摩自由党などで活動した自由民権運動家、祖父・尚寛(なおひろ・18969年=明治2年生まれ)は東京帝国大学医学部から東大病院勤務を経て黒田医院を開業した(現在は閉院)。父・要(かなめ・1903年=明治36年生まれ)も医師の傍ら、府中市議会議員を歴任し議長も務めた。

 旧制東京高校(後の東大教養学部)に進学。蹴球(サッカー)部に属し、網野善彦城塚登氏家斉一郎とは仲間だった。肝臓病と皮膚結核にかかったため東京高校を中退し、自宅で勉強した。その後、結核が目に及び視力が極度に悪くなった。この頃、マルクス主義の研究・著作を重ね、出版社「こぶし書房」を自営。

 既に何冊か著書を為し、それを読んだ学生らが彼の元に集まり始める。その組織は「弁証法研究会・労働者大学」と名乗った。「探求」という雑誌も創刊した。1954年頃には結核菌により失明、本も読めなくなったが、秘書に読ませて勉強を続けた。

 1957.1.27日、内田英世・富雄兄弟、太田龍、黒寛の三つのグループによって「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成された。同12月、日本トロツキスト連盟が発展的に日本革命的共産主義者同盟(革共同) と改称した。

 1958.太田は、同盟の拡大政治局会議において、黒寛派と決別するために「第四インターナショナル日本支部再組織準備委員会」を組織すべきだと提案し、太田提案が否決された結果、離脱した。

 1959年初頭、黒田自らが民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚。同年8月の革共同第一回大会で「スパイ行為という階級的裏切り」として除名された。このとき、黒田とともに「革命的マルクス主義グループ(RMG)」の実務を担っていた本多延嘉(後の中核派の指導者)は、一貫して黒田を弁護した。本多は除名された黒田の後を追って革共同を離党し、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成した(いわゆる「革共同第二次分裂」)。

 1959.7月、発行された週刊新潮に、「全学連を指導する盲目教祖」として始めてマスコミに登場。

 60年安保時代は黒メガネに登山帽という格好で講演し、「黒田節」と呼ばれるその語りに学生らの人気があり、「クロカン」とも呼ばれた。筆名は山本勝彦、牧野勝彦など。

 1962年、35歳の時、第6回参議院議員通常選挙全国区に党公認で参院選に出馬するが2万票しか集められず落選。大日本愛国党総裁の赤尾敏が12万票余りを獲得したのと比べれば惨敗であった。

 1962.
6.15日、千代田公会堂で樺美智子追悼二周年が開かれた。学生、労働者、市民ら千名が参加したが、後の革マル派に列なると思われるマル学同のらしさを象徴する醜態が演ぜられた。これを「6.15日樺美智子追悼二周年」と云う。次のように批判されている。
 「最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。これを『暴挙』とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要『マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない』とまで、厳しく弾劾している」。

6月、「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」という共同声明が清水幾太郎香山健一森田実吉本隆明など数十名によって提出された。

 1962.9−11かずつ、4回にわたって黒寛の講演学習会が開催された。黒寛箱の時、次のように述べている。
 「われわれはサナダムシであ〜る。サナダムシは〜、あごんところについてる鈎で胃壁に食らい付いてどんなことがあっても離さない。そんでもって、最後には本体を倒しちゃう」(「黒田寛一と革マル派 1章 革命家の条件」)。

 1963.2月、情勢認識や党建設方針をめぐって本多派と対立を深め、革共同全国委員会は本多らの中核派と黒田が率いる革マル派に分裂(いわゆる「革共同第三次分裂」)する。

 1965.6月、黒寛はこの時期より公の前に姿をさらさなくなる。顔だけでなく肉声を聞かせることもしなくなる。年譜に「これ以降、67年11月まで、執筆論文・口述筆記など1つもない」とある。集会では、黒田寛一の演説を録音したテープが流された。

 中核派との抗争が激しくなると、実家の離れに住み、マルクス主義の研究に明け暮れた。一部の幹部とだけ接するだけで、公に姿を現さず、演説などもテープレコーダーを使って行なった。

 1996.10月、健康上の問題を理由に議長を辞任するものの、死去するまで革マル派の最高指導者であり続けた。

 2001.2.25日、革マル派随伴政治評論家として活動してきたことで知られる高知 聰・氏が、「孤独な探究者の歩み ―評伝・若き黒田寛一」(現代思潮新社)を出版した。これにより「共産主義者同盟と革マル派の理論的指導者で、早くに眼を患ってついに大衆の前に一度も姿を現さなかった伝説的革命主義者」黒寛の裏面が暴露された。

 2006.6.26日、埼玉県内の病院で肝不全のため死去。享年78。

 死亡が明らかにされたのは、8.10日の朝日新聞朝刊記事によってであり、革マル派はそれまでの間死の沈黙を続けた。8.12日、記者会見で、「同志黒田のたっての意志とわが党組織の国家権力にたいする防衛の観点から、彼の逝去の事実の公表を今日までひかえてきた」と弁解した。8.28日付け機関紙「解放」で、朝倉、西條ら4幹部による5P分を使って「追悼文」を載せ最終的に確認された。

 晩年、散文和歌を詠んだことでも知られる。代表作は、「人生は 至高を指向し 思考して 試行続けて 志向するもの」

共著 [編集]

関連書籍 [編集]





(私論.私見)