1968年前半期 戦後学生運動史第8期その1
全共闘運動の盛り上がり期

 更新日/2017.7.18日

 これより前は、「第7期その2、ベトナム反戦闘争と学生運動の激化に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 68年この年は、泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、青年期特有の正義感というべきか 「64年11月成立した佐藤内閣のもと、ベトナム侵略への協力、加担はさらに強化された。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われる(65年以来)など、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の、まさに前線基地にかえられ」、「日本なしにベトナム侵略は困難と云われるほど日本はベトナム侵略の総合基地にされ」(日本共産党の65年223P)つつ引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった社会への同意し難い感情があったものと思われる。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。

 この頃、医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのように日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及していくこととなった。なおこの年、チェコで「プラハの春」と言われた民衆闘争が勃発し、これに対し6−8月頃、ソ連軍のチェコ進駐が始まったことも大きな争点になった。つまり、米ソ両大国の横暴が洋の東西で進行したことになり、国際的非難が巻き起こることになった。
 この68年頃になると、三派系全学連は機動隊との肉弾戦を常態化させることになる。機動隊の方はどんどん装備を充実させていくが、それにも拘らずその阻止線に憑かれたように突っ込んでいった。彼らの意識にあるのは「起爆(薬)役としての学生運動」であった。「戦後民主主義」に如何なる価値があろうとも、それに依存するだけでは権力の横暴に何ら抗することができない「いらだたしさ」を吐き出す眼前の闘争相手が機動隊となり、現場に居合わせた市民の多くもまた三派系全学連の闘争に「いらだたしさ」の代償行為として何事かを期待していた。市民のカンパに支えられ、彼らは舞台の役者となった観がある。それをもっともらしく批判することはできよう。しかし、時代のニューマというものは後世からは分かりかねるものがある。とにもかくにもそういう時代だったのだ。

【全共闘運動の盛り上がり期】

 この期の特徴は、今日から振り返ってみて「68−70年学生運動」という大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。60年安保闘争で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。この時期三派系学生運動を始め、活動家集団の結集体に転化しつつあった。もはや「全学連の旗の下に」は空語と化し、「党派の旗の下に」結集しつつあった。他方でこの時期に、そういう党派と一線を画したノンセクト・ラディカルが急速に台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。

 ノンセクト・ラディカルの台頭の背景にあったものとして「団塊の世代」論が注目されている。「団塊の世代」は丁度この時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。 学生運動がこの世代に伝播するや、「層としての学生」にマスが加わってパワーを発揮せしめることになり、全共闘運動を創出していくことになった。この運動の流れは日大と東大が二つの山を創り、全国規模の学園闘争として史上空前の盛り上がりで波及させていくこととなった。この流れは民青同の学園民主化闘争と敵対した。革マル派は、民青同と対立しつつ全共闘運動とも一線を画していた。全共闘は、正面の敵に機動隊−国家権力を、目前に大学当局−民青同−右翼を、横脇に革マル派を抱えつつ、「60年安保闘争を上回る「70年安保闘争の展開」を目指していくことになった。

 全共闘運動は、バリケード封鎖を伴うスト方式で全国各地に学園紛争を激化させて行った。バリケード内は解放空間と呼ばれた。この解放空間が次第に街頭へと広がっていくことになる。翌69年の東大闘争に呼応した神田−お茶の水解放区、京大闘争に呼応した東一条解放区などがその代表的例である。「カルチェラタンを!」の掛け声が至るところで聞かれていた。全共闘運動は次第に激しさを増していき、機動隊によりガス弾も使用されるに至った。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンをも登場させた。

 こうした過激派運動をより詳細に見れば、一層の武闘化路線に中核派とブント系諸派、毛派諸派、アナーキスト系が進もうとしており、これに一定の歯止めを きかせていたのが革マル派、社青同解放派、構造改革派らであった。反戦青年委員会も各セクト別に分かれていくことになった。このような戦術の過激化の由来として、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大全共闘の経験、学生労働者よりはるかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚農民の闘いぶり、文化大革命最中の中国共産党の暴力革命礼賛的影響があったと思われる。このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。



 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1968年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.1日、革命的共産主義者同盟中核派が、機関紙前進365号で、「勝利にむかっての試練 革命的共産主義運動の10年とわが同盟の進むべき道」を発表。


【ベトナム闘争の流れ】
 1.23日、南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)・北ベトナム軍が米海兵隊ケサン 基地の包囲作戦を開始した。アメリカ軍が北爆再開した。

 1.30日、解放戦線が「テト(旧正月)攻勢」。北ベトナム正規軍と南ベトナム解放民族戦線は、サイゴンのアメリカ大使館、大統領官邸、タンソンニュット空軍基地、南ベトナム政府国軍統合参謀本部、国軍司令部、放送局、ビエンホア空軍基地、ロンビン米軍基地など、首都サイゴンを含む40の都市を同時に攻撃した。このうち、サイゴンのアメリカ大使館へは、解放戦線「C10」大隊の20人の特攻隊が押し入り、6時間にわたって占拠した。しかし、テト攻勢は勝利だったわけではない。軍事的には、アメリカは踏みとどまり、強烈な反撃が開始された。古都フエでの激戦は2.24日まで続き、北ベトナム軍と解放戦線はフエを放棄した。南ベトナム民族民主平和連合結成。この頃チェコで「プラハの春」が本格化。

 2.18日、解放戦線がサイゴ ンに第二波の大攻勢をかける。アメリカ海兵隊と、南ベトナム政府軍レンジャー部隊6千人のたてこもる、非武装地帯南のラオス国境の重要基地ケサン攻防戦激化。ケサン基地周辺だけで、アメリカ軍は、延べ3万機、14万トンの爆弾を投下した。これは、第二次世界大戦の全期間中に、日本全土に落とされた爆弾の量の8割にのぼった。米機がハイフォンを爆撃。解放戦線軍第2次攻勢、サイゴンの米大使館など砲撃。

【原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争】

 1.4日、米国政府が、原子力空母エンタープライズが1.17−18日頃佐世保へ寄港を非公式に通告。

 1.15日、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争が羽田闘争に続く歴史的な闘争となり、佐世保現地と東京での闘いが呼応した。以後一週間現地で激闘となる。

 この日、法政大学を出発して佐世保へむかう中核派約200名が飯田橋駅へ到着したところ、機動隊が検束を開始し、公務執行妨害.凶器準備集合罪が適用され131名が逮捕されている。中核派、社会党が「予防検束」として批判している。ブント系学生が外務省に乱入89名逮捕される。

 1.16日、博多駅で乗客整理名目で出動した機動隊による身体検査を経て、中核派、社学同、解放派の三派約800名が九州大学教養部学生会館へ集結。作戦会議を開いている。

 1.17日、「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止、佐世保現地闘争」。九州大学を出発して佐世保駅に着いた三派系全学連約800名が米軍基地に通じる平瀬橋で機動隊と衝突、数千人の市民が見守る中で約5分間の乱闘となったが、機動隊側の完勝となり、27名が逮捕され、多数の学生が負傷している。機動隊の実力行使は、逃げる学生ばかりでなく、新聞記者、市民の前で、溝に落ちた学生を集団的に警棒で乱打した。この状況はテレビと新聞報道で広く知れわたった。この機動隊の過剰警備に、市民から非難の声が巻きおこった。警察は記者会見で、過剰警備を謝罪した。

 同日東京でも 三派・革マル派・反戦青年委ら13団体の共催で総決起集会「エンタープライズ寄港阻止、ベトナム反戦青年学生総決起集会」が開かれ、1万余名参加、60年安保闘争以来の高まりを見せた。

 1.18日、社会党、総評系の「原子力艦隊寄港阻止全国委」と日共系の「安保破棄諸要求貫徹中央実行委」共催の5万人現地集会「原子力艦隊寄港阻止佐世保集会」が開催される。この集会に三派系全学連が参加しようとするが、ヘルメット・棍棒姿の日共―民青同がこれを阻止しようとして逆に排除される。反戦青年委員会が三派系全学連を誘導して拍手に迎えられて入場、一角に陣取った。

 集会後、三派の1500名が佐世保橋で機動隊と再度衝突、15名が逮捕されている。この時、社共のデモ隊は、予定したコースを変更、現場を避けて行進したが、反戦青年委員会の労組員などがデモ隊から離れて、学生部隊のうしろにつき、援護する態勢をとった。結局、機動隊の実力行使に散らされる結果とはなったが、これによって、前日のような機動隊の暴力をある程度防ぐこととなり、負傷者数も前日の百数十人に対し、二十数人に減った。さらに、周辺にいた市民などの群集も、学生部隊に暴力をふるう機動隊を非難し、あるいは積極的な抗議行動にでた。

 1.19日、エンタープライズが、原子力駆逐艦トラクストンを従えて入港。三派系は佐世保橋上で再々度衝突し、8名が逮捕されている。社学同、外務省突入。

 1.21日、中核派の学生2名が基地内に突入。浅瀬になっている佐世保川を徒歩で渡り、中核旗を掲げて侵入している。この事件を最後に、佐世保の現地闘争は終息している。

 エンペラを廻る佐世保の激闘は1週間に及び、参加者延べ6万4千7百人、うち三派全学連など学生約4千人、負傷者519名、うち学生229名、逮捕者69名、うち学生64名となった。


 1.5日、チェコスロバキアで、A・ドプチェクが共産党第一書記に就任。「プラハの春」が始まる。


 1.8日付け赤旗は、「日本共産党の安全保障政策」として「日米軍事同盟の打破、沖縄の祖国復帰の実現−独立.平和.中立の日本を目指して」なる長大な論文を発表している。目を引いたのは、「民主連合政府」の樹立構想をぶち上げていた点にあった。社.共両党を先頭とする全ての民主勢力を基礎とする連合政府的位置づけがされていた。


 1.13日、エンペラ闘争の最中、中央大学昼間部自治会が学費値上げ阻止闘争の全学ストに突入する。


 1.19日、東大医局長缶詰め事件。この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのようにこの頃日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及 していくこととなった。


1.19日、東京医科歯科大学で、「登録医制度反対」を掲げて、全学無期限ストライキに入った。


【北朝鮮のアメリカの情報収集艦「プエブロ号」拿捕事件】
 1.21日、エンタープライズは、アメリカ軍の戦略爆撃機B52が水爆4個とともにグリーンランド沖で墜落したという報を受けて、急遽日本海に出動した。この日、北朝鮮が、アメリカの情報収集艦「プエブロ号」を拿捕したからであった。

 1.28日、中華人民共和国政府は、1月28日に、「プエブロ号」拿捕を支持すると声明を出した。同日、ソ連の「プラウダ」も、日本の対米政策を非難した。また、モスクワ放送は、ワルシャワ条約加盟国が宣言のなかで、北ベトナムが要請すれば義勇軍を派遣する用意があると発表した。

 1.24日、東京都北区の小林区長が、米軍王子キャンプ(現・北区中央公園文化センター)の野戦病院開設を発表する。


1.26日、日大理工学部の小野竹之助教授の5千万円の裏口入学斡旋謝礼金の着服事件と、東京国税局が同年2月からの調査によって日本大学に20億円に上る使途不明金があることが発覚した。日大はこれまで、古田重二良会頭のもとで営利第一主義的経営に勤しんでいた。学生数10万人の日本一のマンモス大学となっており、いわゆるマスプロ教育を推し進めていた。これが日大闘争の発端となった。


 1.27日、東大医学部医学科が全学学生大会を開き、5世代(医学部1年生から4年生までと卒業生の42青医連)全体が参加し、賛成229、反対28、保留28、棄権1で、無期限ストライキを決定した。全学闘争委員会(全学闘)が結成され、無期限ストライキに突入するとともに、2百人がピケをはって、四年生の卒業試験を中止させた。


 1.29日、東京大学医学部で研修医(インターン)の無権利状態に反対し、民主化を求める改善闘争をその発端とし、この闘争過程で為された不当処分を契機に医学部学生自治会が無期限ストライキに突入。 こうして、東大闘争は医学部の闘争からはじまった。東大医学部自治会と42青医連(四十二年度卒業の青年医師連合)が、医学部教授会および病院側にたいし、インターン制にかわる登録医制度反対の意思表示をもとめてこの日無期限ストにはいった。

東大闘争の発端が、医学部の闘争であったことは象徴的であった。この時期、インターン制度や医局制度が抱える構造的矛盾が露呈した。インターン制度は、国家試験を通った卒業生はまずインターンとして1年間を医局で働くことが義務づけられていた制度を云う。「無給医局員」とも「研修医」とも云われており、深夜や休日の緊急の当直医として下働きに使われていた。これに講座制と云われる徒弟制が結びついていた。「青年医師連合」が組織され、67.4月から医局研修を「青医連」による自主カリキュラムで行う等抵抗し始めた。

 東大医学部と付属病院側、政府厚生省は、「青医連」対策もあり、インターン制度に代わる「登録医制度」に切り替えようとし始めた。67年、「医師法一部改正案」が国会に提出された。これは、卒業後2年間の研修を義務づけ、当局側が、医師の研修を正規に終えたと認めた者を「登録医」とし、国家試験を通っただけの医師と区別させようとするものであった。医学生たちは、階層分断策であり、管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を何ひとつ解決されないままの「登録医制度」であるとして反対した。医局講座制の枠組みにおける特権的立場に固執する医学部長、病院長をはじめとする当局は、登録医制度の推進に狂奔していた。


【東大−日大闘争勃発、波及】

 この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのようにこの頃日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及 していくこととなった。


【日比谷公会堂で中核派が全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集】
 1.31日、日比谷公会堂で中核派主催の全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集。三里塚の戸村一作氏が賛辞している。カリフォルニア大の44名の教授・学生連名による連帯が届けられている。エンプラをめぐる佐世保の激闘の1週間は、阻止闘争参加者延べ6万4700人、うち三派全学連など学生約4千人、負傷者519人、うち学生229人、逮捕者69人うち学生が64人であった。佐世保闘争は、全学連学生が孤立して闘った67年の羽田闘争にくらべ、労組や市民との連帯、共闘の上に闘われたという点で注目されるものであった。

 2.5日、東大41青年医師連合(昭和四十一年卒業の青年医師)がストライキを始めた。


 2.12日、九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。


【中大闘争】

 2.12日、中大中庭で、2.12労学農、大5万人集会が開催され中庭が埋まった。演壇正面に「理C」理工学部習志野闘争委員会(理工学部一年生)の旗が映えている。戸村一作、羽仁五郎、当時令状出て潜伏していた秋田明大が招かれ挨拶している。

 2.16日、67年末からはじまった中央大の学費値上げ反対闘争は、3度目の大学封鎖闘争に突入し、社学同の指導によって、最終的に大学側に白紙撤回を認めさせ、全理事が辞職。学生側が勝利をかちとった。2.19日、中央大、全学封鎖2ヶ月ぶりに解除される。


 2.19日、登録医制やインターン制など医学部研究教育の改革問題について、東大医学部でも、この卒業研修実施をめぐって、医学部教授会・病院側と、学生自治会・青医連側が対立していたが、医学生たちの要望への回答がこの日なされ、上田内科・春見医局員にたいする学生・研修生の監禁、暴行事件とみなされる事態が発生した。これを「春見事件」と云う。


【王子野戦病院設置阻止闘争、三里塚闘争が併行して闘われる】
 2.20日、王子野戦病院設置阻止闘争。三派.革マル.民学同などが参加。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。

王子野戦病院は、ベトナム戦争の激化の中で、埼玉県朝霞基地の米軍病院だけでは負傷者の収容が不十分となったため、王子キャンプ内に新たな病院を開設しようとしたものだった。地元では、すでに計画の噂が流れていたその1年以上前から、反対運動が続けられていたが、2.27日、王子・柳田公園で開かれた反戦青年委員会主催の総決起集会を皮切りに、地域ぐるみの闘争に、新左翼勢力が積極的に加わり、闘争を激化させた。

 このころ、南ベトナムのソンミ村で、アメリカ軍が村民を大虐殺するという事件が起こり、世界に衝撃を与えていた。これはアメリカ軍による「パシフィケーション・プログラム」(平定計画)にもとづくもので、村ひとつひとつ掃討して、解放戦線側の拠点をしらみつぶしにするというものであった。ベトナム戦争の硝煙と血しぶきは、ここ日本でも身近に感じられるようになっていた。アメリカ軍は「テト攻勢」以後、強烈な反撃を始めたが、その弾薬などの軍需品を調達するための最大の後方基地は日本だった。それだけにアメリカ軍への反感は、一般市民にまで急速に広がっていった。

 2.26日、反対同盟と三派全学連初の共闘で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止2・26現地総決起集会」が、成田市営グランドで開かれた。反対同盟の共闘要請を受けて中核派系、反戦青年委員会を主力として約1000名が結集、約千人の反対同盟員とデモ行進した。市役所に隣接する新空港公団分室突入を図り、機動隊と衝突。戸村一作反対同盟委員長ら4百名が重軽傷、逮捕者17名。

 2.27日、中核派は三里塚で集会。社学同.社青同などは王子駅前で機動隊と衝突。

 3.3日、王子闘争。中核派、社学同、ML派、解放派、第四インター、民学同など各派に、反戦青年委員会の計1800名が集会、デモを行い、機動隊との衝突で50名が逮捕された。

 3.8日、社学同.社青同と中核派は別個に3時過ぎ王子野戦病院へ向けて突っ込み、滝野川付近で機動隊と衝突、158名が逮捕される。夜開かれた東京護憲連合主催の都民集会後、の夜再び衝突。流した反戦青年委員会など2千人が、ゲート前に座り込みをした。革マル派もゲリラ的に出没。

 3.10日、再び成田市営グランドで三里塚闘争。総決起集会には、反対同盟の1300名をはじめ、三派全学連、反戦青年委員会、べ平連など全国から労.学.農・市民1万人参加。全学連2千名が機動隊と衝突。198名が検挙される。 

 3.15日、在日米軍、王子野戦病院を4月に開設と発表。3.18日、仮開設。

 3.20日、三里塚空港粉砕成田集会。労.農.学5000名が集会とデモ。この経過で注目されることは、新左翼の糾合が為されるに連れ、共産党.社会党が反対同盟の成田闘争から離脱していくこととなったことである。

 それまで農民を支援、共闘してきた日共、社会党は、反対同盟に三派全学連や反戦青年委員会など「過激派」が集まるにつれ、日共は例によって、「トロツキスト」批判を展開して、反対同盟の戦列から離れ、社会党もいつのまにか「条件派」に鞍替えし、地元代議士が千葉県知事と「紳士協定」を結び、農民に条件派への参加をすすめるなど、闘争から脱落した。

 3.21日、都議会が、移転反対決議を出した。美濃部東京都知事は、事態の打開を図るため、米軍に野戦病院の移転を要請、政府も東京多摩への移転を検討せざるをえなくなり、反対闘争は成果をおさめた。

 3.28日、王子野戦病院反対闘争。学生1000名が病院に突撃し、中核派の49名が基地内に突入。各地で続いた機動隊との衝突では、市民も機動隊に投石するというエスカレートぶりをみせた。この闘争では、地元住民が学生や労働者を支援して自然発生的に共闘の輪ができた。地区の住民にとっても、米軍の野戦病院の開設には反対だった。学生たちの激しい行動が、市民や住民たちの共感や行動をよびおこし、それがうねりとなっていく時期だった。闘争は波状攻撃のように続き、住民も支援のため歩道を埋めつくした。学生や反戦青年委員会の労働者の闘争は、市民や住民らの闘いをよびおこしていた。

 3.31日、三里塚闘争。三派系全学連が、成田市の新空港公団分室突入を図り、51名が逮捕される。

 4.1日、王子野戦病院設置阻止闘争。三派系全学連が、パトカーを炎上させ、交番襲撃。108名が逮捕される。

 2.20日から4.15日まで、学生部隊、反戦青年委員会、それに市民による機動隊との激しい衝突事件は9回にわたり、計1500人以上の負傷者が出た。佐世保エンプラ闘争で出現した市民のたちあがり以上の、「闘う市民」の登場が、この一連の王子闘争の特徴であった。

 2.20日、金嬉老が、静岡県寸叉峡温泉旅館「ふじみや」に籠城。


 3.2日、東大当局(医学部教授会)が、春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分発表。


 3.3日、ロンドン、口ーマ、西ベルリン など世界各地で反米デモ。北爆強化される。テト攻勢開始から25日間の激戦ののち、南べトナム政府軍がフエの旧王宮を奪回。


 3.4日、第三波の攻勢を全土で続けた。ブリュッセルで2万人の反米デモ。


 3.8日、ポーランドのワルシャワ大学で、学生の退学と演劇の上演禁止に抗議する学生数千人と警官隊が衝突。


 3月、北ベトナム外務省、B- 52の沖縄基地使用について日本政府を非難。南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件おこる(報道はのち)。 ロンドンでベトナム反戦デモ、米大使館を襲う。 周恩来中国首相がソ連のベトナム援助は「ニセモノ」と非難。スウェーデ ン政府が米のベトナム政策を非難。


 3.10日、三里塚闘争。反対同盟1300名を中心に全国から労農学市民1万人が参加。全学連2千名が機動隊と衝突。


 3.11日、東大当局(医学部教授会)が、春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分を決定した。ところが、処分された学生のうち1名の事実誤認問題が発生し、学生側の姿勢をエスカレートさせていくこととなった。学生側は、単なる誤認問題ではなく、当局の体質を批判する運動に歩を進めて行くことになった。


 3.12日、東大医共闘が、医学部教授会の上申による3月11日の東大評議会の処分決定に抗議して、評議会に押しかけ評議員を徹夜でかんずめにするという事態がおこり、その日のうちに学生は、医学部総合中央館を占拠した。 


 3.17日、ロンドンで1万数千人、ニュルンベルグで3千人が反戦デモ。ロンドンの集会では、8千人がアメリカ大使館へデモを行って、警官隊と負傷者百余名を出す流血の事態となった。逮捕者は300人に達した。


 3.20日、三里塚空港粉砕集会。労農学5千名が集会とデモ。


 3.22日、東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘の3千名が結集。


 3.23日、ニューヨークで3千人、パリでは5千人以上、西ベルリンで8百人、ローマで1千人のデモが行われた。


 3. 26日、東大、処分された学生のうち1人が、同事件と同じ時間に久留米市にいたことが立証され、東大側の誤認の可能性があると各学部教授懇談会で報告。医学部学生のストライキ闘争に賛同した学生有志で、「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が結成され、安田講堂を一時占拠し、3.28日予定されていた卒業式の実力阻止に入った。


 3.26日、日大経済学部の富沢広会計課長が国税局の脱税調査のさなか突然失踪し、3.28日には、理工学部の渡辺はる子会計課徴収主任が自宅で自殺するという事件が起こった。これらの相次ぐ不正、不祥事件が、学生の疑惑と怒りを招いていくことになる。


 3.27日から当日の28日朝まで、東大の「医闘争支援全東大共闘連絡会議」の学生が登録医制・不当処分に抗議して安田講堂前に座り込み、卒業式実力阻止闘争に入った。3.28日、大学当局は卒業式を中止し、各学部で卒業証書の伝達式を行った。


 3月、民主主義学生同盟(民学同)が志賀派と共労党派に分裂した。共労党派民学同は、「反独占民主主義闘争とプロレタリア国際主義の結合を我が同盟の党派性とし、70年安保を闘い抜く統一戦線の形成とその階級的強化の方向を、日本型統一戦線の民主主義的.カンパニア的性格の止揚と、青学共闘の独自部隊を形成」することを指針させた。


【第二次ブント第7回大会】

 3月、共産同第7回大会が開催された。この間第二次ブントでは、民族解放闘争の評価と革命戦略をめぐる分岐が表面化し、岩田帝国主義論に依拠する「マル戦派」と、旧統一委員会派(独立派と関西ブント)との間に派閥的な対立抗争が続いていたが、1967..10.88羽田闘争をリードしてきたマル戦派はこの時の大会をボイコットして共産同から離脱した。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。

 この時の論争は注目に値する。反マル戦派は、岩田帝国主義論のもつ「待機主義的傾向」を批判し、「攻撃型階級闘争論」を対置した。そのなかで、1917年、ロシア革命以後の現代史を“帝国主義時代から社会主義時代へ向かう過渡期”と規定した。すなわち、現代世界史の特徴は、ロシア革命、中国革命の勝利=労働者国家群の成立によって、人民、国民、民族をして、分断から結合へとむかわせることを可能にし、人民は自らを「世界プロレタリアート」へ転化させつつある。国際共産主義運動は、この「世界プロレタリアート」の登場によって、守勢から攻勢へと転じ、いまや、帝国主義支配の時代から社会主義へと向かう歴史的過渡の時代にはいっている、という現状分析であり、この歴史認識に基づいた革命戦略論を、当時、“過渡期世界論”と呼んだ。その関連で、塩見孝也の「過渡期世界論―世界同時革命」論が打ち出され次第に支持を増すことになる。


【43.3月現在の学生自治会系統図(サンデー毎日5.12日号掲載「学生自治会派閥一覧」)】
 全学連関係自治会数451、非加盟自治会 299、自治会総数750。三派とは、マル学同中核派、四トロ派、社青同解放派、社学同。
セクト名 上部団体 大学数 自治会数 勢力比%
民青 日本共産党 91大学  205自治会 70.1
三派 41 76 16.8
マル学同革マル派 13 22 4.9
社会主義学生戦線
(フロント、構造改革派系)
統一社会主義同盟 17 3.8
民学同 共産主義労働者党  14 3.1
社青同学生班派 社会党 1.1
日共左派・アナーキスト系 0.2
その他 299

 日共系民青同派が70.1%を押えて圧倒的優勢のようにみえるが、傘下の学生数から見ると拮抗している。というのは、民青同派が地方の国立大学に基盤を持つのに対し、反日共系は東京、京都のいわゆるマンモス私学に拠点を持っていたことによる。

 3.31日、ジョンソン米大統領が、退陣を表明。北ベトナム爆撃停止と和平会談を呼びかけた。 


 4.1日、早大で反戦連合が第二学生会館突入。以降騒動化する。


【マル戦派が第二次ブントから分裂】

 4.3日、ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず、派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。


 4.4日、ノーベル平和賞受賞し、アメリカ黒人解放運動の穏健派指導者だったマーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーで射殺される(享年39歳)。これに抗議して全米各地の41都市で黒人暴動続発。首都ワシントンでは夜間外出禁止令が出され、軍が出動。米コロンビア大学封鎖される。


 4.11日、西ドイツ西ベルリンで、学生運動指導者R・ドチュケが狙撃され重傷を負う。西ドイツ全土で激しい抗議行動が起こった。


 4.12日、東大入学式で大学当局がピケを張り、入学式を強行した。


 4.15日、1965(昭和40)年に「インターン制度の完全廃止」を求めて闘ったが切り崩された40青医連がスト権を確立し、43までの各青医連と、医学部医学科の学生四世代、あわせて八世代がストライキに入った。卒業式、入学式闘争を経て、東大全学の有志学生の支援連絡会議はできたが、全学の自治会への拡大はできなかった。それは、日共系の自治会中央委員会と七者協の、医学部闘争への敵対が影響していた。彼らは、卒業式阻止闘争を行うことは、機動隊の導入を招くから反対という理屈をとっていた。


 4.15日、国税庁が、日本大学の経理監査で、約20億円の使途不明金を発表。


 4.23日、日本大学で20億円の使途不明金発覚を受け日大闘争の始まる。→『大衆団交』→9月30日、日大両国講堂に1万人の学生が集まり、団交は12時間及んだ→全共闘運動(日大全共闘秋田明大= あけひろ議長、全共闘運動の象徴的人物となる)→全国の大学で学園紛争吹き荒れる→スチューデント・パワー。


 4.23日、米国のコロンビア大学で、ベトナム反戦を主張するSDS(民主社会学生同盟)の学生1000名がニューヨークにある大学の建物5棟を占拠、封鎖する。4.30日、警官隊が導入され、排除される。この闘争が「いちご白書」として報告され、これを契機に全米に学園闘争が広がっていった。大学封鎖闘争が世界的な現象になった。アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。


 4.26日、国際反戦統一行動。全学連3000名がデモ。


【「4.28日沖縄デー闘争」】

 4.27日、中核派、ブントに破防法(破壊活動防止法)40条「凶器もしくは毒劇物を携える多衆共同して検察もしくは警察の職務を妨害する罪」が適用され、当日の実行行為に関係なく両派の幹部5名(中核派書記長本多氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏他)が事前逮捕された。

 4.28日、沖縄デー闘争。29団体による共同声明「総決起せよ」が打ち出された。ちなみに29団体とは、中核派.ブント.ML派.第四インター.社労同の5党派に共労党、統社同、反帝学評、東大、日大、中央大、教育大などの各全共闘が加わっていた。東京には全国から2万人の学生、労働者が明治公園に集まりヘルメット姿の活動家たちによって埋め尽くされた。都心でデモを展開した。新三派系全学連3千名がデモ。

 中核派の2千人を中心とする武装部隊が東京駅を占拠。枕木に放火するなどして機動隊と衝突、数時間にわたって新幹線、国電などをストップさせた。全共闘、べ平連などノンセクト部隊数千人も群集をまじえて銀座でデモ。その一部は交番を襲い、敷石をはがして機動隊に投げるなど衝突を繰りかえした。ブントは、世田谷区の佐藤栄作宅を火炎ビンで襲うなどした。 


 5.2日、沖縄原水協・べ平連のデモ隊、嘉手納基地の武装米兵と衝突。5.7日べ平連が沖縄などで脱走の米兵6人について記者会見で発表。  


【フランスでカルチェ・ラタン闘争勃発】
 5月、フランス「5月危機」はじまる。3月に始まったソルボンヌ大学のナンテール分校の学生改革要求の大学占拠闘争は、ナチス占領時代以来のソルボンヌ大学封鎖となった。学生寮の管理などを廻り学生と対立していた大学側が、パリ郊外のキャンパスを封鎖したのに対し、学生約2万名は、カルチェ・ラタンにバリケードをつくって警官隊と対峙した。5.11日、この要塞化したバリケードをめぐる学生と警官との衝突は激しいものとなった。これに抗議する学生と労働者の運動は、反ドゴールのゼネストにまで発展した。これは6月まで続き、結局、ドゴールに鎮圧された。「五月革命」は、ドゴールの「非常大権」をちらつかせた軍隊のパリ周辺への配置によって、6月末の総選挙の結果、大統領派の圧倒的勝利によって収束させられた。 

 ジョンソン米大統領が北ベトナム提案を受諾しパリで予備会談を開くと発表。解放戦線が第3次攻勢を開始。パリの学生デモ激化。サイゴン地区で激戦、市街戦。 米・北ベトナム第1回準備会談。 米・北べトナム第1回パリ会談。西ベルリンの学生ゼネスト。

【アメリカのコロンビア大学で大学占拠闘争勃発】
 一方、アメリカでは、ベトナム反戦を主張するSDS(民主主義社会のための学生連合)とSNCC(黒人学生による「学生非暴力調整委員会」)の二大学生団体が、徴兵拒否、軍需会社への業務妨害、反戦デモを牽引し始めていた。SDSの学生が、コロンビア大学で大学占拠闘争をはじめた。これは後に「いちご白書」として報告され有名になったが、これを契機に、全米に学園闘争が広がっていった。大学封鎖闘争が世界的な現象になっていた。また、アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。

 5.10日、政府は、登録医制度を実質化する「医師法一部改正案」を参議院本会議で可決し、学生たちの運動を、徹底的に叩き潰すことを画策した。


 5.11日、西ドイツの首都ボンで、非常事態法に反発する学生約3万名が警官隊と衝突。


 5.13日、フランスで、労働総同盟のゼネストが始まり、パリ市内の都市機能が失われる。


【日大闘争の流れ】

 日大の古田会頭は「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」ことを最大の誇りにしてきた。その裏には、「学生心得」とそれを保証する体育会=暴力部隊による学生の自治活動の圧殺があった。日大の校舎にはキャンパスといったものがなく、学生が集会を開こうにもひらけなかった。その上、会合、ビラ、掲示などもすべて検閲制で、表現、言論、集会の自由が全くない状態にされていた。自治会もどきの「学生会」があったが、学生が選んだ代表により構成されているものではなく、当局の御用機関であり形式的な自治権を与えられているにすぎなかった。自治会的動きをすれば、直ちに大学側と癒着した右翼、体育会学生の暴力的介入が行われた。故に、日大闘争は、御用自治会と闘うことからはじめねばならなかった。5月に入って、各学科、クラス、サークル単位で学生たちの討論会が開かれ始め、次第に学部単位の抗議集会へとたかまっていった。

 5.21日、日大生3万人が大衆団交要求しデモ。

 5.23日、神田三崎町の経済学部1号館前に集まった2000名の学生が日大生としては初めての「偉大なる200m.デモ」を貫徹。これに対し、いち早く校舎をロックアウトし、体育会系学生による集会妨害を図る大学側に反発する学生の数が増え続けた。これが日大闘争の本格的な始まりとなる。

 5.24日、日大経済学部の学生を主体にしていた約800名の学生集会に、右翼、体育会系学生が殴りこみ、集会を妨害しようとすると同時に、校舎入口のシャッターを下ろしてロックアウトした。全学的な闘争の高揚を恐れた大学本部は、経済学部に告示をだし、秋田明大以下15人を処分した。処分の理由は4回の無届集会とデモ行進であった。

 5.25日、日大生5000名が錦華公園に集まって神田三崎町の白山通りでデモ。白山通りが学生デモで埋め尽くされた。このデモが、大学の強権的学生支配と、そこにつちかわれていた学生間の相互不信と無気力を一気に吹き飛ばした。これを契機に、学生の意識は流動しはじめた。「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」とされてきた日大生が子羊から脱皮し、古田体制に対する叛逆を開始した。


【日大全共闘結成される】
 5.27日、経済、文理、法学、芸術、商学、農学、理工、歯学の各学部学生有志5千余名にのぼる「全学総決起集会」がひらかれ、日大全学共闘会議(日大全共闘)結成。議長に経済学部の秋田明大が選出された。「古田体制打倒」のシュプレヒコールの中、全理事総退陣、経理の全面公開、集会の自由、不当処分白紙撤回など5つのスローガンを決めた。以降日大闘争激化する。体育会系右翼学生の介入と襲撃により流血・負傷が繰り返される。

 5.28日、日大全共闘総決起集会が開かれ、6千余名の学友が結集した。各学部闘争委員会が結成されていった。


 5.28日、日共宮顕書記長が大阪での記者会見で、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政策」を発表し、翌日の赤旗に掲載された。この頃の党の政策変化として、従来の安保破棄から廃棄へと用語の変更が為されている。実際には反対スローガンとなったが、重要政策における右傾化方向へのステップであった。その意味するところは、破棄の場合は大衆闘争と実力が伴うものであり、廃棄の場合は議会の手続きを経ての合法主義的なものであるということであった。


 5月、70年に向けての基本構想として、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政府の対外政策」を発表している。7月に予定されていた参院選に向けてのプロパガンダであった。これに対応して、宮顕書記長が、テレビ発言「我々は現在、今の憲法の平和的民主的条項の完全実施を求めているわけだから、合法的な手段を使って国民の意思をできるだけ多数結集して選挙に勝って、そして民主連合政府をつくるのが筋だと思う」(5.5日付け赤旗)と述べ、ハーモニーさせている。

 5.29日、早大闘争勝利全国学生連帯集会。各派3000名と早大生2000名が合流デモ。


 5.30日、古田会頭を初めとする日大理事会が、全共闘とは一切話し合わない方針をうちだした。


 5.31日、日大.大衆団交を要求、3万人デモ。これに対して、当局は、臨時休講、ロックアウトで対抗した。大学当局は、正門を閉め、体育会系学生がピケをはった。これより以降、古田体制の私兵である日本大学「学生会議」の車が文理学部の集会に突っ込み、体育系右翼学生が、牛乳ビンや角材をもって殴りこみ、30余人を負傷させた。そのうち3人は、内臓損傷、腎臓出血などで病院に運ばれた。これに抗議する7千人の学生が構内をデモ行進して、大衆団交集会を開催した。「大学本部を包囲し、古田会頭をひきずりだし、大衆団交を成功させる」に向かって動きだした。


 これより後は、全共闘運動の盛り上がり期(2)に記す。





(私論.私見)

東大当局は8月10日に告示を出した。学生が集まりにくい時期だから、闘争の焦点になっている処分問題にけりをつけて、9月の新学期とともに、学生の強硬な姿勢は、なし崩しにくずれるだろうとの見通しがあった。そこで、被処分者の取り消しという形をとって、学生をなだめようとした。機動隊の導入については、責任の矛先をかえて、学生の自粛と暴力行為の抑止をお説教していた。大河内総長は、医学部の無期限ストライキがなぜおこったのか、学生は何に対して怒りをぶつけているのか、少なくとも文面からは、知らないかのようなそぶりをみせていた。学生にたいして、面と向かって話し合い、まともに向き合わない姿勢は、以前と全く変わらなかった。ただ、自己保身と、それを保証する正常な(教育?)環境をつくることのみが目的だった。医学部では、この告示を受けて、学部長、付属病院長が交替した。小林新医学部長は、総長名で告示を、医学部学生宅に郵送し、対話とストライキ終結を呼びかけ、事態解決のための提案を行った。また、機動隊導入についての、今後の慎重な姿勢などを訴えたが、告示郵送というやり方がかえって学生側の反発をあおった。

しかし、8月22日午後4時、医学部当局のこの提案を受けて、医学部学生118人がストライキ終結宣言を貼り出した。このストライキ破りを待っていたように、24日には、医学部当局は、9月に異例の卒業試験を行うと掲示した。対象は、春に受験していたものを除く医学部4年生109人だった。28日にはさらに、9人がストライキ終結宣言をした。28日、安田講堂で総決起集会を開いていた東大全共闘は、小林新医学部長が記者会見をしているということで、団交を要求したが、拒否したので、彼らは、午後5時から医学部本館を封鎖した。医学部本館の封鎖は誰にとっても衝撃だった。そのためか、小林新医学部長が、夜の7時すぎになって、学生との話し合いに応じるといいだした。翌日、午前零時10分まで続いた話し合いは、結局、もの別れに終わったが、翌日、灘尾弘吉文部大臣が介入した。「武装した大勢の学生が医学部長をつるしあげたのは暴行、脅迫とも言ってよい」。(『安田講堂1968−1969』島泰三著)

夏休みが明け、9月3日、駒場での東大全共闘の全学総決起集会には、千人あまりの学生たちが集まり、7日の教養学部代議員大会には、6千人の学生が登校した。教養学部では学生10人に1人の代議員が選ばれるが、総数852人のうち、432人が集まり、ストライキ中止提案を含む全提案が否決されて、無期限ストライキが続行されることになった。

9月11日、教養学部基礎科学科(147人)も無期限ストライキに入り、16日には教養学部長との団交決裂ののち、駒場全共闘の手で、教養学部の事務が封鎖された。翌日、日共系部隊がこの封鎖を一時解除したが、全共闘側が再封鎖した。18日の教養学部代議員大会では、日共系議長はリコールされ、全共闘系学生が議長になった。しかし、全提案は否決された。無期限ストライキは全学に拡がった。9月19日工学部、27日経済学部、28教育学部、10月2日理学部、3日薬学部と農学部、10月12日には法学部が無期限ストライキに入り、すでにストライキにはいっていた医学部、文学部と併せて、東大の全10学部が無期限ストライキに入った。10月17日には全学総決起集会を駒場で開催して3千人を集めた。

大学院の学生も、9月21日に都市工学大学院が、10月2日、基礎医学・社会医学若手研究者の会(56人)が無期限ストライキを始めた。10月8日、精神神経科医局は、医局の解散決議をした。医局制度が、研究、医療と人事を束ねる教授専制支配の根源だったからである。10月12日、東大医学部と病院の青年たちは、「全医学部共闘会議」を結成し、若手医師を含む組織が誕生した。翌日、22の診療科の教授、助教授からなる「医学部臨床教授会」は、「青医連」を認める方向を打ち出した。

当時、全国で51大学が紛争中だった。東洋大では9月7日から校舎占拠が始まっていたが、9月30日には理事長が退任した。同日、京大医学部では、87人全員に卒業を認定し、闘争を終結させていた。東京医科歯科大学では10月4日に全学大会で、1月19日以来のストライキを解除するとともに、5月末からの病院外来の封鎖も解除した。逆に、10月1日には、使途不明金問題による学長、理事の総退陣に伴って、神奈川大学で学園紛争が勃発し、同日、東京外国語大学が無期限ストライキに入った。10月17日、東京都教育委員長は、高校生の政治活動の禁止の通達を出した。(『安田講堂1968−1969』島泰三著)

10.21国際反戦デーには、東大全共闘も3千人の総決起集会を開いた。

10月31日、アメリカ大統領ジョンソンは、北爆を全面的に停止すると発表した。それはベトナム戦争の終結がまじかであり、力をもってしては、ベトナムを屈服させることができないことを知ったアメリカの世界戦略の転換点であった。日本で反戦運動を闘っている学生、労働者が、全共闘運動を含め、勝利のかすかな予感を感じた瞬間であった。

11月1日、大河内総長はじめ、全学部長、評議員が、紛争の責任をとって辞任、加藤一郎法学部教授を総長代行とする新執行部が発足した。そして、医学部学生の処分撤回が決定された。大河内総長の辞任の声明には、教師と学生との間に、人間的な信頼関係が欠けていたとして、医学部教授会、教官を批判するような文面があったが、自分自身に対する責任の所在は、何ら明らかにされていなかった。いってみれば、日本の官僚機構の典型的な逃げ口上であり、およそ学者として、学生を指導する立場の人間の言葉とは、ほどとおかった。そして、「大学の自治」を盾にとって、学生の側の自重を垂れている。学生から見ると、どうも勘所がちがっていたから、当然、納得しなかった。

11月3日、経済学部の大学院生が、学部長室と研究室を封鎖し、4日には、文学部ストライキ実行委員会が、林健太郎文学部長と無期限団交をはじめ、1週間にわたって監禁状態におかれるという事件もあった。8日には駒場で団交が決裂し、全共闘は教職員会館を封鎖した。9日、東大全共闘の機関紙『進撃』が創刊され、日共は「大学闘争テーゼ」を発表した。東大全共闘は10日工学部7号館、11日駒場の第一研究室と第二本館を封鎖し、同日、農学部グランドでの全学教官集会を解散させてしまった。12日、東大全共闘は、日共系学生行動隊と全学封鎖方針をめぐって正面衝突する。10月の間に日共系学生組織の凋落は決定的なものになった。党の方針として日共系学生が過激化するのをくいとめようとしたのである。日共は団交からの撤退を指示されたのだ。11月12日午後4時すぎ、安田講堂内で東大全共闘の総決起集会が(1,500人)行われた。集会後、総合図書館前に繰り出した。そこには宮崎学らが指揮する“あかつき部隊”500人が待ちかまえていた。午後8時45分頃、ぶつかり合いが始まった。はじめ日共系の黄色のヘルメットの集団が、角材で殴りかかってくる全共闘諸派連合の攻撃を受け止めていた。ところが、指揮官の笛がなり、“あかつき部隊”の黄色いヘルメットは、一斉に細い棒を振り上げて全共闘部隊に襲いかかった。樫の木刀である。伸びきった態勢の全共闘部隊の最前線はたちまち総崩れになった。実に見事な反撃だった。

同日、理学部の学生大会が開催されていた。日共系も全共闘系も提案が通らなかった。午前1時すぎになって、全共闘方針を否定する「全学バリケード封鎖反対決議」が可決された(賛成134、反対60、保留21、棄権4)。14日には法学部で「全学封鎖阻止決議」が通った(賛成371、反対126)。全学封鎖戦術は全共闘にとって不利な風向きになってきた。連日、『赤旗』には、「団結の力によって、学園民主化を妨害するトロツキスト暴力集団の暴挙を粉砕し、かれらの狂暴な暴力を学園から一掃することこそ東大闘争の真の解決の保障である」といったキャンペーンが流された。政府は介入の姿勢をみせた。

11月16日には、文部省が、東大、東京教育大、東京外語大、日大に、「授業を再開せよ」との通達を出した。全共闘は、18日に全都総決起集会、22日に日大全共闘が総力をあげて結集する「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」を予定し、この力を背景に、全学バリケード封鎖を実行することを宣言した。自治会の決議は、闘う学生の個々の意思まで規制することはできない。これにたいして日共系学生は「全学封鎖断固阻止」を掲げ、全面対決になった。11月18日、安田講堂前は、全共闘の全都総決起集会と「公開予備折衝」に集まった8千人の人並みで埋まった。午後2時10分前、3人の教授を引き連れて、加藤代行が安田講堂に現れた。加藤代行はとうとうと巧みな弁舌を披露し、全共闘側は少したじろいだ。加藤代行は学生の要求した7項目の要求を、上から黙殺しようとした。「俺の話しを聞け」という態度を示し、学生をみくびっていたのだ。「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールの中を加藤代行は午後7時20分退場した。加藤代行にとっては、全共闘の学生と対話したという名分がほしかっただけなのだ。

本郷の各学部では次々に学生大会が開かれ、全学バリケード封鎖否決が続いた。こういうなか、11.22「日大・東大闘争勝利全国総決起集会」当日がきた。全国動員である。午後2時頃から、全共闘系は安田講堂前に集結し、日大からの終結をまって4時から決起集会を開いた。安田講堂の広場から、銀杏並木と正門前には数千人の全共闘系の学生でうずめられた。日共系は教育学部前に5千人を集めていた。安田講堂前の広場は、赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。その数は5千人を軽く超えた。講堂正門は、各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に、幹部が次々にマイクを握って大声でアジテーションをしていた。ここに集まった学生すべてが、ひとつの大学の到着を待っていた。東大全共闘の一人がマイクで叫んだ。日大全共闘の学生3千人が、機動隊の弾圧をはねのけて、正門前に到着したのである。どよめきがおこった。日大全共闘のために、正面の席があけられた。神田三崎町の日大経済学部バリケードを出発した無届のデモの日大全共闘3千人は、2千人の機動隊の壁を破り、銀、黒、赤、青、白と色とりどりのヘルメットで、東大正面に入場してきた。秋田明大日大全共闘議長は、この日の演壇に姿を現し、数万の学生たちの前で演説をした。午後8時全共闘の集会が終わって、学内デモが始まったが、日共系部隊との衝突は回避された。東大構内の外では4千人の機動隊が待機しており、できなかったのである。そのため、夜遅くまで7千人の学生が東大構内にとどまっていた。こうして、東大全共闘は日大全共闘と合流した。しかし、連帯の持続の方法を見失っていた。

12月2日、加藤代行は、「紛争解決案」なるものを、学内に配布した。9日、文部省大学問題委員会は、「年末までに授業再開の見通しがつかない大学では入試の中止もやむを得ない」と東大、東京教育大、東京外語大を恫喝した。学生たちにとって、卒業中止、留年が目前に迫っており、切実さも増して、学生大会が立て続けに開催された。東大構内は、さまざまな色のヘルメットをかぶり、ゲバ棒を手にした全国から集まった学生たちの乱闘で明け暮れていた。東大生は、全員参加の会議を開いて、無期限ストライキを解除するか、封鎖を拡大するか、代表団を出して東大当局と交渉するか繰り返して討議して、結論をだそうとしていた。いわば、民主主義のルールを守ろうとした。

1969年の入試が迫っていたる医学部と教養学部では、全共闘の方針を覆すため、日共系学生は全国動員をかけ、医学部学生大会と教養学部代議員大会を強引に開こうとした。これが暴力の激突を招いた。12月6日、社青同解放派と革マル派との間に、流血の内ゲバがあった。これから駒場では、日共系学生ばかりでなく二重の内ゲバ状態が現出した。11日、ストライキを中止するための代議員大会の開催要求を、今村自治会委員長がはねつけたため、代議員大会を強行しようとする日共系学生と、ストライキ解除派学生は、委員長がたてこもる第八本館のバリケードを攻撃した。東大全共闘は、革マル派、解放派を含んで、全力でこれに抵抗し、乱闘騒ぎになり入院した者が18人もの惨事になった。この乱闘の中で、13日午後5時頃、教養学部代議員大会は、全学集会のための代表を選出したとした。これは代議員大会を、日共系部隊の公然たる暴力のなかで実現した会議決定を「民主的」と呼ぶような流れをつくりだしたからである。同じ手法は医学部でも使われた。(『安田講堂1968−1969』島泰三著)

法学部の学生大会は25日に開かれ、ストライキ解除提案が431票を集め、無期限ストライキの解除が決まった。日共系の無期限ストライキ継続提案を支持してきた学生たちがストライキ破りに転じたからである。医学部も24日、日共系学生のヘゲモニーで学生大会が開かれ、スト解除が決まった。経済学部は26日、ストライキ実行委員会自身がストライキ解除を提案し、266票を集めて、可決された。教養学科では27日の学生大会で無期限ストライキが解除された。こうして、年末、次々に、ストライキは解除されていった。ストライキが越年したのは、教育学部、農学部、工学部、薬学部、文学部、理学部だけだった。

日大では、新大学定款が文部省に認可されて、来年の入学試験ができることになった。だが、東大では、入試実施をめぐって最終の局面に入っており、学生は、決戦が近いことを感じていた。安田講堂の防衛隊の問題がでてきつつあった。青医連は今井澄がなり、学部の守備隊長は、理学部のストライキ実行委員長の島泰三に決まった。そして、各学部で防衛隊のメンバーが決まっていった。

バリケード封鎖で越年した大学は、全国で15校だった。東大、日大、東京教育大、東京外語大、電通大、中央大、明学大、青学大、芝浦工大、山梨大、富山大、大阪大、神戸大、関西学院大、長崎大だった。

1月9日、「東大闘争・日大闘争勝利全都総決起集会」に都内9大学の全共闘と、各派3千人が集合した。日共系学生も3千人を動員して、教育学部と理学部の建物にたてこもった。これにたいして、全共闘は、教育学部と経済学部に攻撃をしかけ、日共系学生を追い詰めた。激烈な乱闘になった。加藤総長代行は、午後8時16分に「第一に経済学部で危険な状態にある学生の救出、第二に教育学部で包囲されている学生の救出、およびそれに伴う必要な措置をとるため、警察力の出動を要請する」旨を、警察当局に伝えた。これによって、全共闘系の学生のみが51名逮捕された。日共系学生の窮地を救い、学生同士の内ゲバを抑止したことによって、加藤代行は自己の権力者としての優位を示した。

加藤代行、教授会の態度は、いわば「権力者」のそれであった。そして、少なくとも彼らは「教育者」ともいえなかった。硬直した研究教育体系が、いかに「教育」の一点においても、非生産的であるかは明らかであるにもかかわらず、物心両面で、みずからの特権的地位を温存するよりほかなかった。それでは、彼らは「科学者」であったか。彼らにとって「科学」とは、単なる経験の蓄積にほかならず、地位、身分によって分配されるべき私的財産であり、自らの虚栄や利害関係にゆだねられるものであった。

「真理探究の場」、「理性の府」であるべき大学において、いかに「真理」が葬られ、「理性」がふみにじられたか。しかし、彼らは、みずからが専門にしている分野での諸矛盾を率直にとらえる精神的構造を失っていた。彼らは、現体系のなかで、自分の地位をおびやかす危機を回避することに使命をみいだしているのみであった。

90年にわたって築かれてきた、特権的な地位に由来する悪しき権威主義と保身主義が、本来は「理性の府」であるべき大学構成員たちの精神の深部にまで食いこみ、彼らがこぞって大学を「権威と保身の府」にしてしまっていたのだ。

学生は教授会の権威主義、権力主義の社会的機能、その基本的姿勢を問題にした。教授会は学生の問題提起をまじめにうけとめることなく、自らの利害と偏見にのみ固執することによって、学生の提起した問題と、展開した運動に敵対してきた。みずからの存在が、制度的にも、精神的にも弾劾され、否定されるべきものであることをあきらかにしたのは、彼ら自身であった。

彼らは、学生の提起している問題について、一度として一緒に論じあおうとはしなかった。学生の前から逃亡し、暗闇の中から、「告示」や「談話」によって恫喝をくりかえし、かつ、「東大ナショナリズム」とでもいうべき一般学生の薄暗い打算や、日共系学生の反トロツキスト・キャンペーンさえ利用し、また、一般学生の最も利己的部分に手をのばし、甘言をもって懐柔し、一部、強硬派学生にたいしては「授業・卒試再開強行」、「留年」、「処分」等々あらゆる手段を用いて、切りくずし弾圧することしかしなかった。この卑劣な行為こそが、「教育者」、「科学者」としての資格を疑わせ、「人間」としての資格さえも疑わせるにいたったのである。

一方で、学生たちは、現在の日本の社会の基本的構造に立ち向かっていたのであるが、この実践における苦しみを担いきっていくため、自らの精神の真面目さと強靭さをもとめていた。彼らが教授会の個々人に問うていたのもそれなのである。みずからのうちに多くの歪んだものを鬱積させ、語るべきことを語らず、なすべきことをなさず、自らの没社会性を保証されつつ、忍耐の末の栄光を夢見ての沈黙、その平和こそが、東京大学の秩序であったのではないか。

個々人の闘いへの参加は、一個の人間として、さまざまな欺瞞を打ちこわし、大学における「人間」の復権、そして全社会的な「人間」の復権のための大学の機能と、自己の責任を深く問いつめ、実践するところに自己の「主体性」があるはずであった。

そういう眼から東京大学が果たしてきた歴史的役割をみた場合、どうであったか。東大闘争は、体制の中における「被害者」たちの闘いではない。「東京帝国主義大学解体」を叫ぶとき、それはみずからの物心両面における社会的特権の否定であり、その特権の上に展開される学問、研究、教育のなかの歪みの体系の否定であり、特権と抑圧の上になりたつ全社会機構の否定であった。いままで自明であるかのようにうけとめていた「学生」としての自分、「助手」としての自分、「研究者」としての自分、「教育者」としての自分の存在基盤と、その社会的機能を根底から問いなおしてみること、そこに、東大闘争の一つの思想的な問題提起があった。この自己変革を、現実的基盤のうえに根づかせることが可能かどうかが、教官にも問われていた。

東大闘争とは、「大学の自治」「学問・研究の自由」の名のもとに、営々と続いている東京大学の制度的・精神的腐朽を、根底的に告発する闘いであった。大学の共同幻想の中に貫徹している国家権力、教授会権力を摘発し、それを屈従と沈黙によって支えているすべての研究者や医師たちを告発し、「学生」や「院生」の共同幻想を、個々人の精神構造の実体にまで分解し、自分自身をも解体しつくすことを要求したのである。そのとき、自分自身のうちにも倒すべき何かがあり、東大闘争は外に対する闘いであると同時に、内に対する闘いでもあり、まさにその「内なる闘い」の徹底化こそが、外への闘いをラジカルにかつ執拗に支えることになった。批判の矢は自分自身にもはねかえってきた。

否定され粉砕されるべきものは、自分自身ではないのか。いままで、あるいは無意識的であったにせよ、悪しき権威主義とエリート主義のなかに安易に埋没し、東京大学の負の役割を告発せず、エゴイズムの上に眠り込んでいたのは自分自身ではなかったのか。このような自分を「自己否定」するところから闘争は展開していった。さらに闘争をおし進めていく主体にたいしては、闘争の過程において、たえざる自己批判、自己否定を要請した。

また、東大闘争は、多くの「進歩的知識人」の欺瞞性を暴露した。東大内における自称、他称の「進歩的文化人」のほとんどすべては、この闘争へのかかわりあいにおいて、自己破産を次々と暴露していった。東大における「民主的教官」や「話のわかる教官」たちが、東大闘争の局面において、いかなる言動をとってきたか。また、行うべきときに行わなかったか。自分の学問上の見解と、自己の現実の生き方、私的な形での発言と公的な場での言動を器用に分離させ、それを精神の自己分裂として、自己のうちなる痛みとして感じることのない鈍感さに、学生たちは失望した。自己の現実的保身が脅かされない限りにおいてのみ、進歩的言辞を弄する彼らの精神的姿勢を、日本的インテリゲンチャの一般的な姿として免罪することはできなかったのだ。

彼ら進歩的知識人たちとちがって、学生たちにとって、「真理」とはその実現を求める現実的な力であった。東大闘争を担ったものにとって、「語る」とは「行う」ことであった。「かくあるべし」と自ら方針をだすことは、自らそれを遂行する主体となるということであった。語るべきときに語らず、行動すべきときに行動しえないみずからの限界は、屈辱であり恥辱であった。学内で沈黙を守りつづけた進歩的知識人は、東京大学という特権的存在のなかに首元まで浸りきり、それに気づいていながら、自己責任において、何も告発せず、沈黙することによって、かえってそれを守りぬいた。

学生たちにとって、彼らの精神は荒廃しつくし、回復不能におちいっているかに映った。彼らは、学生たちを機動隊に売り渡して平然としている。学生たちは「教育者」である彼らに不信を抱いているのみならず、「人間として」の彼らにも、徹底的な不信感をいだいている。全共闘の運動が、一貫して自己批判なるものを要求してきたことも、このことと無関係ではない。そこでは、知識人としての自己否定も追及されていたのである。つねに自己に対して「ノン」を叫び続けること、これは全共闘の運動をになう個々の主体に厳しく要請されることであると同時に、彼らが外に向かっても徹底的に追及していかなければならぬことである。この意味で、全共闘の運動は、極度に倫理的・思想的色彩をおびていたといえる。個々の運動の参加者は、もはや具体的な紛争解決としては、終わることのない究極の勝利に向けての闘いをになうことになった。

東大闘争を闘っている者の「主体性」も「自己否定」も世界の現実的矛盾の諸関係を認識し、アクティブに展開させ顕在化させていくそのダイナミズムのなかに、自己発展の道を見いだしていくものとして位置づけられている。その意味では、東大闘争は、今後も永遠に終わることのない絶えざる発展の途上にあるはずだった。

この側面が理解されぬ限り、彼らがなぜ執拗に教授会に「自己批判」を迫るのかがわからず、学生たちによる一方的な吊るし上げなどという、一方的なでっちあげの意見が横行する。特に、その存在そのものを問われた東大内部の知識人たちは、この倫理的側面を深刻に受けとめなくてはならなかった。

日共・民青は、全共闘が弾劾し打倒すべきものたちと手をつなぐことによって、形式民主主義をつうじて、全共闘の闘いを圧殺する機能をはたした。しかも、彼らは東大闘争にたいして敵対してきた最も反動的部分と、形式民主主義において結合しうる論理をついに示しえなかった。東大闘争の量的、質的前進に恐怖した国家の、「入試中止→大学当局の管理能力喪失の証明→政府の大学への全面介入」の恫喝に狼狽し、「学生大衆の卒業の権利を守り」、「受験生の入学の権利を守り」、「大学の自治を守り」、「大学の社会的使命を果たす」ために、闘争収拾に狂奔した。そのことによって、逆に、東大へのまさに国家の暴力装置の大量導入を許し、政府の全面介入の口実を与えたのである。

以上のように東大闘争をみていくと、東大の共同幻想性が、いかに高みに押し上げられていたかがよく分かる。「学問の自治」や「学問・研究の自由」が、あたかも書物の高さと同じぐらいの高みに、重ねられていたのだ。そして、この呪縛は、自らの特権意識やエリート意識、自己保身と区別できないぐらいに、もたれあっていたのである。これが、後に述べる日大闘争と全く違う様相をもたらした原因であった。日大には、資本の論理が、保守的な建学精神を加担させることによって、ラジカルに貫通し、学生の意識を切迫させ、ほとんど窒息する寸前で、私学資本と直接的な対峙となる爆発的な闘争の展開となった。

しかし、東大においては、教授会のヌエ的な幻想のベールにつつまれて、闘争はいうならば迂回し、韜晦しているようにしか、展開しなかった。その第一が、闘争主体の意識変革のプロセスを不可欠としたことであり、敵としての教授会の個々人にたいしても、倫理的(生き方の問題)あるいは思想的問題意識をぶつけることになった理由である。

高橋和巳は『わが解体』の中で、京都大学で、教授会と学生の間で板ばさみになり、そのあげく、自壊していく良心的教官の内面を描いているが、思想闘争レベルで対応したいと願っているこの助教授には、大学教授会の傲慢の背景が次のように映った。

 

《大学の自治や学問の自由というものが、身銭をきって購われたわけではない一つの特権であることの痛切な自覚を欠いた大学関係者の独善的な言動、つまりは社会を形成する各単位団体の自治と自由の確立運動との連繋志向をもたないひとりよがりな自己主張は、権力者の意向如何よりもさきに、庶民感情のアンビバレンツな構造に頭うちすることも充分考えられるのである。一部の政治家がどう動くかが問題なのではない。むしろ、じっと大学に目を注いでいる市民の目が、かつての過剰な敬意から、いまや侮蔑のそれにかわりつつあることが問題であり、それをさせているのが誰かということが問題なのである》

                      『わが解体』 高橋和巳著 

 

これは大学の自治や学問の自由が、それ自体としてなりたっているのではない点では正しい。しかし、作者は、市民大衆へのコンプレックスから、敬意や侮蔑に反応する度合いだけ、自治や自由が幻想でしかないことから、無意識に自由ではなかった。そして、これを、自分(たち)の特権意識をどうふりほどくかの問題に、すりかえてしまっている。いわば、大学の自治や自由は、現実の社会で人々が大学に託す夢が変形されて、大学の自治や自由に理念化されてあらわれているにすぎない。だから、その夢や願望を膨らませれば膨らますほど、理念は高みに押し上げられる。逆に、夢が消えたとき、その理念も消えてしまうものだ。その大学幻想のメカニズムさえわかっており、しかも、現実社会には学問の自由もなければ、思想の自由も奪われていることが前提になっていることが理解されていれば、さしあたり学問の自由や自治に関わる大学の問題は、充分であった。

しかしながら、『わが解体』の作者は、自治や自由の幻想から無意識に自由でない分だけ、過剰な倫理感でがんじがらめになり、生真面目な韜晦の果てに、みずから解体を余儀なくされたのである。これは助教授がそうであったと同質に、「自己否定」を連呼して教授会をラジカルに詰問する全共闘の学生の側にも同じことがいえた。

大学の自治や学問の自由に裏づけられた社会的特権との結びつきを解体できるのは、思想の身の丈の問題においてしかなく、決して自己内倫理の問題ではない。だから、ある面、東大全共闘は精神運動をしているような錯覚をおこしていたともとれる。日大闘争のように、敵は体育会・応援団の暴力ではなく、自己内面をほりさげ、自らの学問、研究の欺瞞性をつきつめることが、闘争の第一目標になった。良心的学生、教員にとって苦悩、内的葛藤の永続的な解決をもとめて闘いをさらに展開する必要があった。しかし、この展開は、敵を資本主義体制における倫理的課題にセットしている限り、どこまでいっても決して終わることはない闘争である。思想的にのみ、ある面で意味をもつが、これを倫理において問い詰めようとする場合、必ず、運動の壁にぶちあたる運命にあった。

事実、その円環を脱しようとするならば、政治党派のスローガンのように「全国学園闘争、労働者・人民の階級闘争の拠点構築」とか「資本の論理からの大学の解放」とか闘争目標の拡遠化をまぬがれない。そして、東大闘争は全国の学園闘争あるいは政治党派の闘争の象徴として焦点化していった。

年内の紛争解決のみとおしが立たず、ついに加藤代行は坂田文相と会い、12月29日、69年度の東大入試の中止を決定した。

ところで、加藤代行と坂田文相との入試中止決定には、1月15日までに事態収拾の場合は再協議という条件が付されていた。スト解除による正常化をして入試を実施したい大学側は、事態収拾を急ぎ、1月10日、東京青山の秩父宮ラグビー場で、全学集会を開き、その後、医、文、薬の三学部を除く7学部から選ばれた学生代表団と「確認書」をかわし署名した。これによって、医、文を除く8学部ではスト解除したが、全共闘は、この7学部代表団は、日共系学生を中心とするものとして参加を拒否、安田講堂の封鎖解除強行にそなえて、防衛体制を固めた。翌日、駒場寮の屋上で行われた教養学部の代議員大会では、ストライキ解除提案が491票で可決されたとされる。このストライキ解除決議は、駒場の全学生の投票での確認が必要であり、1月15日の開票によって、有効投票数3,775、うち賛成3,178、反対329、保留249、白表19という結果になった。

一方、政府、自民党側も、この7学部代表団との「確認書」については、日共系学生ペースの学生への大幅譲歩として、反発をみせた。「正しい解決」なるものをお題目のように唱えていた加藤執行部は、もはやそのような解決にたいする一片の道理さえなく、「入試中止=東大閉鎖」論におびえ、一部の学生のエゴイズムを巧みにあおり、やみくもに闘争を収拾せんとしたのである。その間、一貫してみられたのは「東大ナショナリズム」という醜悪なエゴイズムだけだった。

1月15日、安田講堂前に3千5百人の学生、青年労働者が集まって、「東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会」が開かれた。この日、機動隊が導入されるという噂があって、法学部研究室、工学部列品館、法文二号館、医学部図書館、安田講堂のバリケードが強化され、全共闘の部隊は資材と食糧を運び込んだ。当局の掲示により、日共系学生は学外から退去した。機動隊が入ることが分かっている東大構内に日共の部隊がとどまるわけがなかった。このころ、山本義隆東大全共闘議長に逮捕状が出た。16日、午後1時に加藤代行らは警察へ出向き、警視庁に機動隊の出動要請をした。17日には安田講堂のなかにあふれていた全共闘系の学生もめっきり減った。いままでいっしょに闘ってきた学生たちもいつのまにか姿を消した秀才が多かった。東大全共闘は5千と称していたのに、安田講堂の守備隊は百に足らなかった。もっとも、医学部図書館と法文二号館は医学部と文学部の部隊が入り、教養学部では、第八本館を全共闘駒場部隊が防衛していたので、安田講堂はそれ以外の学部で防衛しなければならなかった。また、その後の闘争指導のため学外に出る者も必要だった。安田講堂に、学外からの支援学生が続々と到着するなかで、東大全共闘の学生たちの数は減っていった。最後の日に安田講堂に入ってきた東大の学部学生は約40人だった。(『安田講堂1968−1969』島泰三著)