1968年前半期 戦後学生運動史第8期その1
全共闘運動の盛り上がり期

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第7期その2、ベトナム反戦闘争と学生運動の激化」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 68年この年は、泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、青年期特有の正義感というべきか 「64年11月成立した佐藤内閣のもと、ベトナム侵略への協力、加担はさらに強化された。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われる(65年以来)など、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の、まさに前線基地にかえられ」、「日本なしにベトナム侵略は困難と云われるほど日本はベトナム侵略の総合基地にされ」(日本共産党の65年223P)つつ引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった社会への同意し難い感情があったものと思われる。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。

 この頃、医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのように日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及していくこととなった。なおこの年、チェコで「プラハの春」と言われた民衆闘争が勃発し、これに対し6-8月頃、ソ連軍のチェコ進駐が始まったことも大きな争点になった。つまり、米ソ両大国の横暴が洋の東西で進行したことになり、国際的非難が巻き起こることになった。
 この68年頃になると、三派系全学連は機動隊との肉弾戦を常態化させることになる。機動隊の方はどんどん装備を充実させていくが、それにも拘らずその阻止線に憑かれたように突っ込んでいった。彼らの意識にあるのは「起爆(薬)役としての学生運動」であった。「戦後民主主義」に如何なる価値があろうとも、それに依存するだけでは権力の横暴に何ら抗することができない「いらだたしさ」を吐き出す眼前の闘争相手が機動隊となり、現場に居合わせた市民の多くもまた三派系全学連の闘争に「いらだたしさ」の代償行為として何事かを期待していた。市民のカンパに支えられ、彼らは舞台の役者となった観がある。それをもっともらしく批判することはできよう。しかし、時代のニューマというものは後世からは分かりかねるものがある。とにもかくにもそういう時代だったのだ。
 「戦後学生運動の歴史(1968年1月-3月)」、「戦後学生運動の歴史(1968年4月-6月)」その他参照。

【全共闘運動の盛り上がり期】

 この期の特徴は、今日から振り返ってみて「68-70年学生運動」という大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。60年安保闘争で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。この時期三派系学生運動を始め、活動家集団の結集体に転化しつつあった。もはや「全学連の旗の下に」は空語と化し、「党派の旗の下に」結集しつつあった。他方でこの時期に、そういう党派と一線を画したノンセクト・ラディカルが急速に台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。

 ノンセクト・ラディカルの台頭の背景にあったものとして「団塊の世代」論が注目されている。「団塊の世代」は丁度この時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。 学生運動がこの世代に伝播するや、「層としての学生」にマスが加わってパワーを発揮せしめることになり、全共闘運動を創出していくことになった。この運動の流れは日大と東大が二つの山を創り、全国規模の学園闘争として史上空前の盛り上がりで波及させていくこととなった。この流れは民青同の学園民主化闘争と敵対した。革マル派は、民青同と対立しつつ全共闘運動とも一線を画していた。全共闘は、正面の敵に機動隊-国家権力を、目前に大学当局-民青同-右翼を、横脇に革マル派を抱えつつ、「60年安保闘争を上回る「70年安保闘争の展開」を目指していくことになった。

 全共闘運動は、バリケード封鎖を伴うスト方式で全国各地に学園紛争を激化させて行った。バリケード内は解放空間と呼ばれた。この解放空間が次第に街頭へと広がっていくことになる。翌69年の東大闘争に呼応した神田-お茶の水解放区、京大闘争に呼応した東一条解放区などがその代表的例である。「カルチェラタンを!」の掛け声が至るところで聞かれていた。全共闘運動は次第に激しさを増していき、機動隊によりガス弾も使用されるに至った。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンをも登場させた。

 こうした過激派運動をより詳細に見れば、一層の武闘化路線に中核派とブント系諸派、毛派諸派、アナーキスト系が進もうとしており、これに一定の歯止めを きかせていたのが革マル派、社青同解放派、構造改革派らであった。反戦青年委員会も各セクト別に分かれていくことになった。このような戦術の過激化の由来として、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大全共闘の経験、学生労働者よりはるかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚農民の闘いぶり、文化大革命最中の中国共産党の暴力革命礼賛的影響があったと思われる。このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。



 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1968年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.1日、革命的共産主義者同盟中核派が、機関紙前進365号で、「勝利にむかっての試練 革命的共産主義運動の10年とわが同盟の進むべき道」を発表。


【原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争】
 「16 - 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争 - 1968」。

 1967.9月、アメリカ政府は日本政府(佐藤栄作首相)に対して「原子力空母エンタープライズの寄港」の申し出を行い、佐藤内閣は11.2日、閣議決定した。

 1.4日、米国政府が、原子力空母エンタープライズが1.17-18日頃佐世保へ寄港を非公式に通告。 反代々木派学生らを中心とした寄港反対派は、「佐世保港がベトナム戦争の出撃基地になる」と位置づけ大々的な反対運動を展開した。一方警察側では羽田事件で大きな被害を出した反省から、後藤田正晴警察庁次長の指示を受け、羽田事件の映像を長崎県警の部隊に視せて学習させ、川島廣守の現地指揮のもとエンタープライズ入港期間中の干潮時の水深や気象条件を下調べした上で、学生らの排除時には催涙ガスを混ぜて放水する方策が取られた。

 1.6日、
全学連主流派が全国一斉総決起集会。

 1.9日、東京地区反戦・都学連(三派系)の提唱で、エンプラ寄港阻止/1.17実行委が全国反戦・全学連(三派・革マル)・自治会共闘等13団体で発足した。

 1.12日、全学連(三派系)がエンプラ寄港阻止統一行動。集会〔清水谷公園〕に3百名参加、日比谷までデモ。

 1.15日、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争が羽田闘争に続く歴史的な闘争となり、佐世保現地と東京での闘いが呼応した。以後一週間現地で激闘となる。

 この日、法政大学を出発して佐世保へむかう中核派約200名が飯田橋駅へ到着したところ、400名の機動隊が検束を開始し、公務執行妨害.凶器準備集合罪が適用され131名が逮捕されている(飯田橋事件)。中核派、社会党が「予防検束」として批判している。他の部隊が急行「西海・雲仙」で博多に向かう。ブント系学生が外務省に乱入89名逮捕される。

 1.16日、博多駅で乗客整理名目で出動した機動隊による身体検査を経て、中核派、社学同、解放派の三派約800名が九州大学教養部学生会館へ集結。作戦会議を開いている。

 1.17日、「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止、佐世保現地闘争」。九州大学を出発して佐世保駅に着いた三派系全学連約800名が米軍基地に通じる平瀬橋で機動隊と衝突、数千人の市民が見守り一部が加勢する中で約5分間の乱闘となったが、機動隊側の完勝となり、27名が逮捕され、多数の学生が負傷している(68名重傷)。機動隊の実力行使は、逃げる学生ばかりでなく、新聞記者、市民の前で、溝に落ちた学生を集団的に警棒で乱打した。この状況はテレビと新聞報道で広く知れわたった。この機動隊の過剰警備に、市民から非難の声が巻きおこった。警察は記者会見で、過剰警備を謝罪した。その後、社学同系100名が社会党系の集会〔松浦公園〕に参加、先に参加していた革マル系とともに右翼になぐり込まれ乱闘。

 同日東京でも 三派・革マル派・反戦青年委ら13団体の共催で総決起集会「エンタープライズ寄港阻止、ベトナム反戦青年学生総決起集会」が開かれ1万余名参加、60年安保闘争以来の高まりを見せた。デモで米大使館抗議に向かおうとして機動隊と衝突、12名逮捕される。

 1.17日、エンプラ入港阻止・ベトナム人民支援・沖繩小笠原返還全学連(民青同系)西日本集会(松浦公園)に2500名参加、のち市内デモ。

 1.18日、社会党、総評系の「原子力艦隊寄港阻止全国委」と日共系の「安保破棄諸要求貫徹中央実行委」共催の5万人現地集会「原子力艦隊寄港阻止佐世保集会」(佐世保市民球場)が開催される。この集会に三派系全学連が参加しようとするが、ヘルメット・棍棒姿の日共―民青同がこれを阻止しようとして逆に排除される。反戦青年委員会が三派系全学連を誘導して拍手に迎えられて入場、一角に陣取った。

 集会後、三派の1500名が基地突入を図り佐世保橋で機動隊と再度衝突、15名が逮捕されている。この時、社共のデモ隊は、予定したコースを変更、現場を避けて行進したが、反戦青年委員会の労組員などがデモ隊から離れて、学生部隊のうしろにつき、援護する態勢をとった。結局、機動隊の実力行使に散らされる結果とはなったが、これによって、前日のような機動隊の暴力をある程度防ぐこととなり、負傷者数も前日の百数十人に対し、二十数人に減った。さらに、周辺にいた市民などの群集も、学生部隊に暴力をふるう機動隊を非難し、あるいは積極的な抗議行動にでた。

 同日、東京でも、全学連(三派系)がエンプラ入港抗議集会〔明大学館前〕。社学同・社青同系5百名参加、のち有楽町駅から外務省・ 首相官邸方向へデモに向かうところを機動隊に阻止され108名逮捕される。

 1.19日、エンタープライズが、原子力駆逐艦(ミサイル巡洋艦)トラクストンを従えて佐世保港に入港した。全国反戦、地区労など座り込み。この日、三派系は基地突入を図り平瀬橋、佐世保橋上で再々度衝突し、8名が逮捕されている。社学同が外務省突入。

 
同日、社学同系2百名が、エンプラ入港抗議で外務省に突入。坐り込みで89名逮捕される。革マル・構改系も首相官邸デモをめざすが機動隊に阻止される。

 1.20日、東京地区反戦主催/エンプラ寄港抗議総決起集会〔日比谷野音〕に反戦3千、全学連(三派系・革マル系)2千など8千名参加。のち首相官邸、米大使館デモに向かうが機動隊に阻止され6名逮捕される。

 1.21日、佐世保市民球場で開かれた社・共両党による抗議集会に三派系全学連(中核派355名、社学同120名、社青同解放派75名)が民青同の妨害を市民に助けられて突破、乱入して一角に陣取った。この抗議集会で使われたプラカードや角材などで武装して再度強行突破を図り、佐世保橋では警察に対し投石が行われた。この際に10名が公務執行妨害罪で逮捕された。中核派の学生2名が浅瀬になっている佐世保川を徒歩で渡り、阻止線を突破、中核旗を掲げて米軍基地侵入を決行している。侵入した二人は刑事特別法違反で逮捕された。この事件を最後に、佐世保の現地闘争は終息している。この日、全国反戦・神奈川県反戦等共催/エンプラ寄港反対東日本集会〔横須賀〕に5千名の労働者・学生参加、基地周辺で機動隊と衝実、7名逮捕される。

 1.22日、反戦青年委・学生(三派・革マル全学連、自治会共闘等)が終日佐世保市内で抗議行動展開。

 1.23日、全学連(三派系・革マル系)・自治会共闘等、社会党系のエンプラ追い出し集会に参加。


 エンペラを廻る佐世保の激闘は1週間に及び、反対集会延べ22回、参加者延べ6万4千7百人余、うち三派全学連など学生約4千人。デモ行進17回。負傷者519名、うち学生229名、逮捕者69名、うち学生64名となった。

 1.24日、全学連、東京駅着。八重洲口で2千人の歓迎都民集会。

 1.31日、佐世保闘争報告日比谷集会に6千人。

 この間の動きを「1968年佐世保エンプラ闘争

 1.5日、チェコスロバキアで、A・ドプチェクが共産党第一書記に就任。「プラハの春」が始まる。

 1.8日付け赤旗は、「日本共産党の安全保障政策」として「日米軍事同盟の打破、沖縄の祖国復帰の実現-独立.平和.中立の日本を目指して」なる長大な論文を発表している。目を引いたのは、「民主連合政府」の樹立構想をぶち上げていた点にあった。社.共両党を先頭とする全ての民主勢力を基礎とする連合政府的位置づけがされていた。


 1.10日、文部省が、第一次羽田闘争で起訴された九大の沖繩留学生の身分を取り消す。同日、日本育英会が、第一・第二羽田闘争で起訴・検挙された学生60名の奨学生資格停止・廃止処分を決定。


 1.13日、エンペラ闘争の最中、中央大学昼間部自治会が学費値上げ阻止闘争の全学ストに突入する。


 1.19日、東大医局長缶詰め事件。この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのようにこの頃日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及 していくこととなった。


1.19日、東京医科歯科大学で、「登録医制度反対」を掲げて、全学無期限ストライキに入った。


【北朝鮮のアメリカの情報収集艦「プエブロ号」拿捕事件】
 1.21日、米海軍情報収集艦プエブロ号が、北朝鮮元山沖で同国警備艦艇に捕獲された。
 1.23日、エンタープライズは、アメリカ軍の戦略爆撃機B52が水爆4個とともにグリーンランド沖で墜落したという報を受けて佐世保出港、急遽日本海に出動した。
 1.28日、中華人民共和国政府は、1月28日に、「プエブロ号」拿捕を支持すると声明を出した。同日、ソ連の「プラウダ」も、日本の対米政策を非難した。また、モスクワ放送は、ワルシャワ条約加盟国が宣言のなかで、北ベトナムが要請すれば義勇軍を派遣する用意があると発表した。

【ベトナム闘争の流れ】
 1.23日、南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)・北ベトナム軍が米海兵隊ケサン 基地の包囲作戦を開始した。アメリカ軍が北爆再開した。

 1.30日、解放戦線が「テト(旧正月)攻勢」。北ベトナム正規軍と南ベトナム解放民族戦線は、サイゴンのアメリカ大使館、大統領官邸、タンソンニュット空軍基地、南ベトナム政府国軍統合参謀本部、国軍司令部、放送局、ビエンホア空軍基地、ロンビン米軍基地など、首都サイゴンを含む40の都市を同時に攻撃した。このうち、サイゴンのアメリカ大使館へは、解放戦線「C10」大隊の20人の特攻隊が押し入り、6時間にわたって占拠した。しかし、テト攻勢は勝利だったわけではない。軍事的には、アメリカは踏みとどまり、強烈な反撃が開始された。古都フエでの激戦は2.24日まで続き、北ベトナム軍と解放戦線はフエを放棄した。南ベトナム民族民主平和連合結成。この頃チェコで「プラハの春」が本格化。

 2.18日、解放戦線がサイゴ ンに第二波の大攻勢をかける。アメリカ海兵隊と、南ベトナム政府軍レンジャー部隊6千人のたてこもる、非武装地帯南のラオス国境の重要基地ケサン攻防戦激化。ケサン基地周辺だけで、アメリカ軍は、延べ3万機、14万トンの爆弾を投下した。これは、第二次世界大戦の全期間中に、日本全土に落とされた爆弾の量の8割にのぼった。米機がハイフォンを爆撃。解放戦線軍第2次攻勢、サイゴンの米大使館など砲撃。

 1.24日、東京都北区の小林区長が、米軍王子キャンプ(現・北区中央公園文化センター)の野戦病院開設を発表する。


 1.24日、九大井上正治法学部長が、博多駅頭での福岡県警の所持品検査に人権侵害を申し立てる。


1.26日、日大理工学部の小野竹之助教授の5千万円の裏口入学斡旋謝礼金の着服事件と、東京国税局が同年2月からの調査によって日本大学に20億円に上る使途不明金があることが発覚した。日大はこれまで、古田重二良会頭のもとで営利第一主義的経営に勤しんでいた。学生数10万人の日本一のマンモス大学となっており、いわゆるマスプロ教育を推し進めていた。これが日大闘争の発端となった。


 1.27日、東大医学部医学科が全学学生大会を開き、5世代(医学部1年生から4年生までと卒業生の42青医連)全体が参加し、賛成229、反対28、保留28、棄権1で、無期限ストライキを決定した。全学闘争委員会(全学闘)が結成され、無期限ストライキに突入するとともに、2百人がピケをはって、四年生の卒業試験を中止させた。


 1.27日、60年安保闘争~ベトナム反戦運動を戦っていた新左翼活動家所美都子(ところ みつこ、1939年1月3日 - 1968年1月27日)氏が逝去。東京都出身。トマノミミエの筆名も持つ。


【東大医学部が研修医(インターン)問題で無期限ストライキに突入】

 1.29日、東京大学医学部で研修医(インターン)の無権利状態に反対し、民主化を求める改善闘争をその発端とし、この闘争過程で為された不当処分を契機に医学部学生自治会が無期限ストライキに突入。 こうして、東大闘争は医学部の闘争からはじまった。東大医学部自治会と42青医連(四十二年度卒業の青年医師連合)が、医学部教授会および病院側にたいし、インターン制にかわる登録医制度反対の意思表示をもとめてこの日無期限ストにはいった。

東大闘争の発端が、医学部の闘争であったことは象徴的であった。この時期、インターン制度や医局制度が抱える構造的矛盾が露呈した。インターン制度は、国家試験を通った卒業生はまずインターンとして1年間を医局で働くことが義務づけられていた制度を云う。「無給医局員」とも「研修医」とも云われており、深夜や休日の緊急の当直医として下働きに使われていた。これに講座制と云われる徒弟制が結びついていた。「青年医師連合」が組織され、67.4月から医局研修を「青医連」による自主カリキュラムで行う等抵抗し始めた。

 東大医学部と付属病院側、政府厚生省は、「青医連」対策もあり、インターン制度に代わる「登録医制度」に切り替えようとし始めた。67年、「医師法一部改正案」が国会に提出された。これは、卒業後2年間の研修を義務づけ、当局側が、医師の研修を正規に終えたと認めた者を「登録医」とし、国家試験を通っただけの医師と区別させようとするものであった。医学生たちは、階層分断策であり、管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を何ひとつ解決されないままの「登録医制度」であるとして反対した。医局講座制の枠組みにおける特権的立場に固執する医学部長、病院長をはじめとする当局は、登録医制度の推進に狂奔していた。


【東大-日大闘争勃発、波及】

 この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのようにこの頃日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及 していくこととなった。


【日比谷公会堂で中核派が全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集】
 1.31日、日比谷公会堂で中核派主催の全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集。三里塚の戸村一作氏が賛辞している。カリフォルニア大の44名の教授・学生連名による連帯が届けられている。エンプラをめぐる佐世保の激闘の1週間は、阻止闘争参加者延べ6万4700人、うち三派全学連など学生約4千人、負傷者519人、うち学生229人、逮捕者69人うち学生が64人であった。佐世保闘争は、全学連学生が孤立して闘った67年の羽田闘争にくらべ、労組や市民との連帯、共闘の上に闘われたという点で注目されるものであった。

 1.31日、南ベトナム解放戦線がサイゴンを攻撃。 決死隊が米大使館の一部を6時間占拠、全土戒厳令。


 2.5日、南ベトナム解放戦線、米ケサン基地を猛襲。


 2.5日、東大41青年医師連合(昭和四十一年卒業の青年医師)がストライキを始めた。


 2.11日、反戦青年委・全学連(三派系・革マル系)共催・ 建国記念日反対中央集会〔日比谷野音〕に学生千名を含む三千名が参加、都公安委は反戦に首相官邸コースを認め全学連に不許可、デモ分断を図る。


 2.12日、九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。


【中大闘争】

 2.12日、中大中庭で、2.12労学農、大5万人集会が開催され中庭が埋まった。演壇正面に「理C」理工学部習志野闘争委員会(理工学部一年生)の旗が映えている。戸村一作、羽仁五郎、当時令状出て潜伏していた秋田明大が招かれ挨拶している。

 2.16日、67年末からはじまった中央大の学費値上げ反対闘争は、3度目の大学封鎖闘争に突入し、社学同の指導によって、最終的に大学側に白紙撤回を認めさせ、全理事が辞職。学生側が勝利をかちとった。2.19日、中央大、全学封鎖2ヶ月ぶりに解除される。


 2.16日、青医連・医学連、登録医制反対・研修協約締結を要求して全国統一行動。


 2.16日、北区反戦青年委主催・王子野戦病院開設阻止労学総決起集会〔柳田公園〕。


 2.17日、米原潜クイーン・ フィッシュ号入港抗議横須賀集会に労学二千名結集、 三派系学生ゲート前で機動隊ともみあい一名逮捕。


2.19日、登録医制やインターン制など医学部研究教育の改革問題について、東大医学部でも、この卒業研修実施をめぐって、医学部教授会・病院側と、学生自治会・青医連側が対立していたが、医学生たちの要望への回答がこの日なされ、上田内科・春見医局員にたいする学生・研修生の監禁、暴行事件とみなされる事態が発生した。これを「春見事件」と云う。


【王子野戦病院設置阻止闘争、三里塚闘争が併行して闘われる】
 2.20日、北区労連主催/王子野戦病院設置阻止闘争(柳田公園)。地元労働者・ 市民7百名、三派.革マル.民学同など千3百名が参加。のち病院までデモ、ゲート前坐り込み抗議集会で三十六名逮捕される。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。

王子野戦病院は、ベトナム戦争の激化の中で、埼玉県朝霞基地の米軍病院だけでは負傷者の収容が不十分となったため、王子キャンプ内に新たな病院を開設しようとしたものだった。地元では、すでに計画の噂が流れていたその1年以上前から、反対運動が続けられていたが、2.27日、王子・柳田公園で開かれた反戦青年委員会主催の総決起集会を皮切りに、地域ぐるみの闘争に、新左翼勢力が積極的に加わり、闘争を激化させた。

 このころ、南ベトナムのソンミ村で、アメリカ軍が村民を大虐殺するという事件が起こり、世界に衝撃を与えていた。これはアメリカ軍による「パシフィケーション・プログラム」(平定計画)にもとづくもので、村ひとつひとつ掃討して、解放戦線側の拠点をしらみつぶしにするというものであった。ベトナム戦争の硝煙と血しぶきは、ここ日本でも身近に感じられるようになっていた。アメリカ軍は「テト攻勢」以後、強烈な反撃を始めたが、その弾薬などの軍需品を調達するための最大の後方基地は日本だった。それだけにアメリカ軍への反感は、一般市民にまで急速に広がっていった。

 2.26日、三里塚芝山連合反対同盟主催/三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止二・二六現地総決起集会〔成田市営グランド〕に反対同盟千名、 三派系学生等6百名、反戦青年委三–名結集。反対同盟と三派全学連初の共闘。反対同盟の共闘要請を受けて中核派系、反戦青年委員会を主力として約1000名が結集、約千人の反対同盟員とデモ行進した。市役所に隣接する新空港公団分室突入を図り、機動隊と衝突。戸村一作反対同盟委員長ら4百名が重軽傷、逮捕者17名。

 2.27日、東京地区反戦北部ブロック主催/王子野戦病院開設阻止総決起集会〔柳田公園〕に全学連(三派系)・反戦千2百名参加、のち基地ゲート前にデモ。社学同.社青同などが王子駅前で機動隊と衝突。中核派は三里塚で集会。

 3.3日、東京王子で米軍野戦病院反対の学生らデモ。東京地区反戦主催/王子野戦病院開設阻止全都青年学生総決起集会〔柳田公園〕に反戦・三派系全学連、ML派、解放派、第四インター、民学同等千8百名参加。社学同・中核は角材で機動隊と衝突、50名逮捕される。


 3.8日、王子野戦病院開設阻止闘争。社学同.社青同と中核派は別個に3時過ぎ王子野戦病院へ向けて突っ込み、滝野川付近で機動隊と衝突、158名が逮捕される。夜開かれた東京護憲連合主催の都民集会(柳田公園)後の夜再び衝突。流した反戦青年委員会など2千人が、ゲート前に座り込みをした。革マル派もゲリラ的に出没。

 3.10日、反対同盟・千葉県反戦共催・三里塚空港粉砕総決起集会〔成田市営グランド〕。反対同盟千3百名、反戦4千名・ 全学連(三派系)2千名結集。全国から労農学市民1万人が参加。各派学生は公団分室を投石・角材で攻撃、全学連2千名が機動隊と衝突、198名が逮捕される。

 3.15日、在日米軍、王子野戦病院を4月に開設と発表。3.18日、仮開設。

 3.20日、王子野戦病院開設反対闘争。社学同・ 反帝学評系120名が王子駅前集会・病院へのデモを無届で敢行、2名逮捕される。

 3.20日、社会党・千葉県労連・反対同盟共催・三里塚空港粉砕成田大集会〔三里塚第二公国〕労.農.学5000名が集会とデモ。全学連(三派系)は中核系二百名を動員するも主催者側から正式参加団体と認められず。その後経過で注目されることは、新左翼の糾合が進み、これに反比例して共産党.社会党が反対同盟の成田闘争から離脱していくこととなったことである。それまで農民を支援、共闘してきた日共、社会党は、反対同盟に三派全学連や反戦青年委員会など「過激派」が集まるにつれ、日共は例によって、「トロツキスト」批判を展開して、反対同盟の戦列から離れ、社会党もいつのまにか「条件派」に鞍替えし、地元代議士が千葉県知事と「紳士協定」を結び、農民に条件派への参加をすすめるなど、闘争から脱落した。

 3.21日、都議会が、移転反対決議を出した。美濃部東京都知事は、事態の打開を図るため、米軍に野戦病院の移転を要請、政府も東京多摩への移転を検討せざるをえなくなり、反対闘争は成果をおさめた。  

 3.28日、王子野戦病院開設阻止闘争。反日共系各派千名結集。学生1千名が病院に突撃し、中核派の49名が基地内に突入。各地で続いた機動隊との衝突では、市民も機動隊に投石するというエスカレートぶりをみせた。この闘争では、地元住民が学生や労働者を支援して自然発生的に共闘の輪ができた。地区の住民にとっても、米軍の野戦病院の開設には反対だった。学生たちの激しい行動が、市民や住民たちの共感や行動をよびおこし、それがうねりとなっていく時期だった。闘争は波状攻撃のように続き、住民も支援のため歩道を埋めつくした。学生や反戦青年委員会の労働者の闘争は、市民や住民らの闘いをよびおこしていた。夜、東京反戦主催・青年総決起集会〔柳田公園〕後、多数市民を含め王子駅前で機動隊に投石、百八十一名逮捕。

 3.31日、王子野戰病院開設阻止闘争。市民五団体と全国自治会共闘の各4百名が参加、討論集会〔柳田公園〕、デモ・基地ゲート前坐り込みで12名逮捕される。

 3.31日、反対同盟・全学連(三派系)共催・三里塚空港粉砕大統一集会〔三里塚第二公園〕に学生9百名、 反戦千名、反対同盟八百名など三千名参加、全学連は市役所前パリを突破して新空港公団分室突入を図り、51名が逮捕される。

 4.1日、東京地区反戦主催/ 王子野戦病院設置反対青年集会〔柳田公園〕。学生4百名、 反戦千名結集。学生は基地に向かい機動隊と衝突、市民多数も投石。三派系全学連が、パトカーを炎上させ、交番襲撃。学生89名、市民19名の108名が逮捕される。榎本重之虐殺される。

 4.2日、反戦・全学連(三派系)3百名が榎本氏虐殺緊急抗議行動、王子駅前でデモ、王子警察署などに市民とともに投石する。

 
4.3日、榎本重之氏虐殺抗議・ 自川一男君追悼大阪府民集会〔大阪駅東ロ〕、大阪反戦・ 社青同・ 中核系学生、米領事館に抗議デモに向かうも無届を理由に機動隊に阻止され乱闘、負傷者多数。

 4.6日、北爆全面停止要求・ 佐藤内閣打倒京都反戦青年委総決起集会〔京都市役所前広場〕に140名参加、のち円山公園までデモ。

 4.8日、王子野戦病院反対共闘会議呼びかけの集会・ デモ不許可処分という弾圧の下、革マル系2百名を先頭に基地ゲート前坐り込み、労学千名参加。

 4.12日、京都府学連、ベトナム侵略反対・ 王子野戦病院実力撤去・ 佐藤内閣打倒統一集会〔同志社大〕に3百名参加、のち円山公国までデモ。


 4.15日、東京護憲連合主催/ 王子野戦病院設置反対総決起集会〔南谷端公園〕に労働者千名参加、反日共系各派6百名、 デモ・坐り込み・交番襲撃等深夜までゲリラ戦展開、38名逮捕。

 4.17日、京都府学連/成田空港設置粉砕・ 王子野戦病院開設反対総決起集会〔立命館大〕に350名参加、のち円山公園までデモ、医学連百名とともに地評青年部主催の春闘勝利決起集会に合流。

 2.20日から4.15日まで、学生部隊、反戦青年委員会、それに市民による機動隊との激しい衝突事件は9回にわたり、計1500人以上の負傷者が出た。佐世保エンプラ闘争で出現した市民のたちあがり以上の、「闘う市民」の登場が、この一連の王子闘争の特徴であった。

 2.20日、金嬉老が、静岡県清水市で2人を射殺した後、静岡県寸叉峡温泉旅館「ふじみや」に人質13人を取り籠城。2.24日、逮捕(金嬉老事件)。


 3.1日、革マル系全学連3百名が国労・ 動労合理化反対スト支援決起集会〔早大〕、 のち田端機関区へ集結、鉄道公安官・ 機動隊と衝突。


 3.2日、東大当局(医学部教授会)が、春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分発表。


 3.3日、ロンドン、口ーマ、西ベルリン など世界各地で反米デモ。北爆強化される。テト攻勢開始から25日間の激戦ののち、南べトナム政府軍がフエの旧王宮を奪回。3.4日、第三波の攻勢を全土で続けた。ブリュッセルで2万人の反米デモ。


【民学同)が日本の声派と左派・共労党派に分裂する】
 3.7日、民主主義学生同盟(民学同)が、他派との共闘をめぐり内部対立が激化し、志賀派と共労党派に分裂した。共労党派民学同は、「反独占民主主義闘争とプロレタリア国際主義の結合を我が同盟の党派性とし、70年安保を闘い抜く統一戦線の形成とその階級的強化の方向を、日本型統一戦線の民主主義的.カンパニア的性格の止揚と、青学共闘の独自部隊を形成」することを指針させた。3.25-26日、民学同九回大会(日本の声派)、3.26-27日、民学同九回大会(左派・共労党派)に分裂する。民学同左派が民学同から完全に離脱。共労党指導下に入る。

 3.8日、ポーランドのワルシャワ大学で、学生の退学と演劇の上演禁止に抗議する学生数千人と警官隊が衝突。


 3月、北ベトナム外務省、B- 52の沖縄基地使用について日本政府を非難。南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件おこる(報道はのち)。 ロンドンでベトナム反戦デモ、米大使館を襲う。 周恩来中国首相がソ連のベトナム援助は「ニセモノ」と非難。スウェーデ ン政府が米のベトナム政策を非難。


 3.11日、東大当局(医学部教授会)が、春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分を決定した。ところが、処分された学生のうち1名の事実誤認問題が発生し、学生側の姿勢をエスカレートさせていくこととなった。学生側は、単なる誤認問題ではなく、当局の体質を批判する運動に歩を進めて行くことになった。


 3.12日、東大医共闘が、医学部教授会の上申による3月11日の東大評議会の処分決定に抗議して、評議会に押しかけ評議員を徹夜でかんずめにするという事態がおこり、その日のうちに学生は、医学部総合中央館を占拠した。


 3.16日、南ベトナムのソンミで米軍による大虐殺事件おこる(ソンミ事件)。


 3.17日、ロンドンで1万数千人、ニュルンベルグで3千人が反戦デモ。ロンドンの集会では、8千人がアメリカ大使館へデモを行って、警官隊と負傷者百余名を出す流血の事態となった。逮捕者は300人に達した。


 3.20日、医学連医師国家試験ポイコツト闘争、六割がポイコツト、東京・大阪・広島・ 金沢などで試験場周辺デモ等を展開。


 3.22日、東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘の3千名が結集。


 3.23日、ニューヨークで3千人、パリでは5千人以上、西ベルリンで8百人、ローマで1千人のデモが行われた。


【第二次ブント第7回大会】

 3.23-24日、共産同第7回大会〔荒川公会堂〕が開催された。この間第二次ブントでは、民族解放闘争の評価と革命戦略をめぐる分岐が表面化し、岩田帝国主義論に依拠する「マル戦派」と、旧統一委員会派(独立派と関西ブント)との間に派閥的な対立抗争が続いていたが、1967.10.8羽田闘争をリードしてきたマル戦派はこの時の大会をボイコットして共産同から離脱した。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。

 この時の論争は注目に値する。反マル戦派は、岩田帝国主義論のもつ「待機主義的傾向」を批判し、「攻撃型階級闘争論」を対置した。そのなかで、1917年、ロシア革命以後の現代史を“帝国主義時代から社会主義時代へ向かう過渡期”と規定した。すなわち、現代世界史の特徴は、ロシア革命、中国革命の勝利=労働者国家群の成立によって、人民、国民、民族をして、分断から結合へとむかわせることを可能にし、人民は自らを「世界プロレタリアート」へ転化させつつある。国際共産主義運動は、この「世界プロレタリアート」の登場によって、守勢から攻勢へと転じ、いまや、帝国主義支配の時代から社会主義へと向かう歴史的過渡の時代にはいっている、という現状分析であり、この歴史認識に基づいた革命戦略論を、当時、“過渡期世界論”と呼んだ。その関連で、塩見孝也の「過渡期世界論―世界同時革命」論が打ち出され次第に支持を増すことになる。


 3. 26日、東大、処分された学生のうち1人が、同事件と同じ時間に久留米市にいたことが立証され、東大側の誤認の可能性があると各学部教授懇談会で報告。医学部学生のストライキ闘争に賛同した学生有志で、「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が結成され、安田講堂を一時占拠し、3.28日予定されていた卒業式の実力阻止に入った。


 3.26日、日大経済学部の富沢広会計課長が国税局の脱税調査のさなか突然失踪し、3.28日には、理工学部の渡辺はる子会計課徴収主任が自宅で自殺するという事件が起こった。これらの相次ぐ不正、不祥事件が、学生の疑惑と怒りを招いていくことになる。


 3.27日から当日の28日朝まで、東大の「医闘争支援全東大共闘連絡会議」の学生が登録医制・不当処分に抗議して安田講堂前に座り込み、卒業式実力阻止闘争に入った。3.28日、大学当局は卒業式を中止し、各学部で卒業証書の伝達式を行った。


 3.27日、社学同全国大会〔中大〕。社学同の軍事的政治的組織化を強調、マル戦派はポイコツト(委員長・村田能則)。


 3.27-28日、全学連主流派春季全国大会〔法政大〕、中核派650名が参加。


 3.29-30日、全学連(革マル系)第49回中央委〔早大〕、早大一文自治会名で4.26拠点校ストを他党派にも呼びかける。


 3.30日、日本テレビ系でアニメ「巨人の星」(梶原一騎原作)が放送開始される。


【43.3月現在の学生自治会系統図(サンデー毎日5.12日号掲載「学生自治会派閥一覧」)】
 全学連関係自治会数451、非加盟自治会 299、自治会総数750。三派とは、マル学同中核派、四トロ派、社青同解放派、社学同。
セクト名 上部団体 大学数 自治会数 勢力比%
民青 日本共産党 91大学  205自治会 70.1
三派 41 76 16.8
マル学同革マル派 13 22 4.9
社会主義学生戦線
(フロント、構造改革派系)
統一社会主義同盟 17 3.8
民学同 共産主義労働者党  14 3.1
社青同学生班派 社会党 1.1
日共左派・アナーキスト系 0.2
その他 299

 日共系民青同派が70.1%を押えて圧倒的優勢のようにみえるが、傘下の学生数から見ると拮抗している。というのは、民青同派が地方の国立大学に基盤を持つのに対し、反日共系は東京、京都のいわゆるマンモス私学に拠点を持っていたことによる。

 3.31日、ジョンソン米大統領が、退陣を表明。北ベトナム爆撃停止と和平会談を呼びかけた。


 4.1日、早大で反戦連合が第二学生会館突入。以降騒動化する。


 4.2日、榎本重之さんが王子の米軍野戦病院設置反対闘争過程で死亡。


【マル戦派が第二次ブントから分裂】

 4.3日、ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず、派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。


 4.4日、ノーベル平和賞受賞し、アメリカ黒人解放運動の穏健派指導者だったマーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスのモーテルのバルコニーで射殺される(享年39歳)。これに抗議して全米各地の41都市で黒人暴動続発。首都ワシントンでは夜間外出禁止令が出され、軍が出動。米コロンビア大学封鎖される。


 4.14日、日大の20億円使途不明金発覚(日大紛争の発端)。


 4.11日、西ドイツ西ベルリンで、学生運動指導者R・ドチュケが狙撃され重傷を負う。西ドイツ全土で激しい抗議行動が起こった。


 4.12日、東大入学式で大学当局がピケを張り、入学式を強行した。


 4.15日、1965(昭和40)年に「インターン制度の完全廃止」を求めて闘ったが切り崩された40青医連がスト権を確立し、43までの各青医連と、医学部医学科の学生四世代、あわせて八世代がストライキに入った。卒業式、入学式闘争を経て、東大全学の有志学生の支援連絡会議はできたが、全学の自治会への拡大はできなかった。それは、日共系の自治会中央委員会と七者協の、医学部闘争への敵対が影響していた。彼らは、卒業式阻止闘争を行うことは、機動隊の導入を招くから反対という理屈をとっていた。


 4.15日、国税庁が、日本大学の経理監査で、約20億円の使途不明金を発表。


 4.21日、全国反戦主催/ベトナム反戦・一沖繩奪還国際共同行動、中央集会〔日比谷野音〕に反日共系各派学生・反戦など5千名参加、のち八重洲口までデモ。


 4.23日、日本大学で20億円の使途不明金発覚を受け日大闘争の始まる。→『大衆団交』→9月30日、日大両国講堂に1万人の学生が集まり、団交は12時間及んだ→全共闘運動(日大全共闘秋田明大= あけひろ議長、全共闘運動の象徴的人物となる)→全国の大学で学園紛争吹き荒れる→スチューデント・パワー。


 4.23日、米国のコロンビア大学で、ベトナム反戦を主張するSDS(民主社会学生同盟)の学生1000名がニューヨークにある大学の建物5棟を占拠、封鎖する。4.30日、警官隊が導入され、排除される。この闘争が「いちご白書」として報告され、これを契機に全米に学園闘争が広がっていった。大学封鎖闘争が世界的な現象になった。アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。


 4.26日、国際反戦統一行動。全学連(三派系・革マル系) 。全国20校以上でスト、96名逮捕。東京では三派系が明治公園で集会、中核派5百名は芝公園までデモ。社学同千名・反帝学評3百名など千6百名は防衛庁デモ。革マル系・ 自治会共闘は日比谷野音で集会の後、清水谷公園までデモ。


 4.27日、社会党系の沖繩返還要求国民大会〔日比谷野音〕に全学連(三派系)6百名、自治会共闘2百名が結集、社学同・ 反帝学評は外務省前で、中核系は通産省前で機動隊と衝突、213名の無差別逮捕。


【「4.28日沖縄デー闘争」】

 4.27日、中核派、ブントに破防法(破壊活動防止法)40条「凶器もしくは毒劇物を携える多衆共同して検察もしくは警察の職務を妨害する罪」が適用され、当日の実行行為に関係なく両派の幹部5名(中核派書記長本多氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏他)が事前逮捕された。

 4.28日、4.28沖縄デー闘争。29団体による共同声明「総決起せよ」が打ち出された。ちなみに29団体とは、中核派.ブント.ML派.第四インター.社労同の5党派に共労党、統社同、反帝学評、東大、日大、中央大、教育大などの各全共闘が加わっていた。東京には全国から2万人の学生、労働者が明治公園に集まり3千名以上のヘルメット姿の活動家たちによって埋め尽くされた。

 都心でデモを展開した。中核派の2千人を中心とする武装部隊が東京駅を占拠。枕木に放火するなどして機動隊と衝突、数時間にわたって新幹線、国電などをストップさせた。全共闘、べ平連などノンセクト部隊数千人も群集をまじえて銀座でデモ。その一部は交番を襲い、敷石をはがして機動隊に投げるなど衝突を繰りかえした。ブントは、世田谷区の佐藤栄作宅を火炎ビンで襲うなどした。全学連(三派系)は集会不許可のため中大に450名結集。機動隊の包囲下で社学同・ 反帝学評150名が銀座に再結集、晴海通りデモで21名逮捕。革マル系全学連450名が清水谷公園で集会、新橋までデモ。自治会共闘50名が南谷端公園で集会、野戦病院デモ・ 坐り込みで1名逮捕される。


 4.30日、旧マル戦派、共産同労働者革命派(前衛派)結成準備会発足。9.10日、機関紙「前衛」創刊。


 5.2日、沖縄原水協・べ平連のデモ隊、嘉手納基地の武装米兵と衝突。


 5.7日、べ平連が沖縄などで脱走の米兵6人について記者会見で発表。


 5.8日、イタイイタイ病を公害病に認定。


【フランスでカルチェ・ラタン闘争勃発】
 5月、フランス「5月危機」はじまる。3月に始まったソルボンヌ大学のナンテール分校の学生改革要求の大学占拠闘争は、ナチス占領時代以来のソルボンヌ大学封鎖となった。学生寮の管理などを廻り学生と対立していた大学側が、パリ郊外のキャンパスを封鎖したのに対し、学生約2万名は、カルチェ・ラタンにバリケードをつくって警官隊と対峙した。5.11日、この要塞化したバリケードをめぐる学生と警官との衝突は激しいものとなった。これに抗議する学生と労働者の運動は、反ドゴールのゼネストにまで発展した。これは6月まで続き、結局、ドゴールに鎮圧された。「五月革命」は、ドゴールの「非常大権」をちらつかせた軍隊のパリ周辺への配置によって、6月末の総選挙の結果、大統領派の圧倒的勝利によって収束させられた。 

 ジョンソン米大統領が北ベトナム提案を受諾しパリで予備会談を開くと発表。解放戦線が第3次攻勢を開始。パリの学生デモ激化。サイゴン地区で激戦、市街戦。 米・北ベトナム第1回準備会談。 米・北べトナム第1回パリ会談。西ベルリンの学生ゼネスト。

【アメリカのコロンビア大学で大学占拠闘争勃発】
 一方、アメリカでは、ベトナム反戦を主張するSDS(民主主義社会のための学生連合)とSNCC(黒人学生による「学生非暴力調整委員会」)の二大学生団体が、徴兵拒否、軍需会社への業務妨害、反戦デモを牽引し始めていた。SDSの学生が、コロンビア大学で大学占拠闘争をはじめた。これは後に「いちご白書」として報告され有名になったが、これを契機に、全米に学園闘争が広がっていった。大学封鎖闘争が世界的な現象になっていた。また、アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。

 5.10日、政府は、登録医制度を実質化する「医師法一部改正案」を参議院本会議で可決し、学生たちの運動を、徹底的に叩き潰すことを画策した。


 5.11日、西ドイツの首都ボンで、非常事態法に反発する学生約3万名が警官隊と衝突。


 5.13日、フランスで、労働総同盟のゼネストが始まり、パリ市内の都市機能が失われる。


 5.16日、十勝沖地震、死者52人。


 5.17日、ベトナム戦争反対・沖縄奪還・教育三法粉砕全学連(三派系)統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に中核系3百名参加、のち八重洲口までデモ。


 5.20日、王子野戦病院に反対する青年の会・中核派・マル青労同北部地区委共催・王子野戦病院開設阻止・榎本重之氏虐殺抗議・王子闘争出獄学生激励大集会〔北区公会堂〕に2千名参加。


 5.23日、教育三法粉砕全学連(三派系)統一行動、社学同系250名が集会〔清水谷公圍〕・ 日比谷公園までデモ、途中文部省前で坐り込み、3名逮捕される。


 5.24日、ベトナム反戦大阪府学連統一行動、扇町公園に構改系250名参加、府学連再建準備会(社学同系)百名も別個集会、のち大阪駅前までデモ。


【日大闘争の流れ】

 日大の古田会頭は「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」ことを最大の誇りにしてきた。その裏には、「学生心得」とそれを保証する体育会=暴力部隊による学生の自治活動の圧殺があった。日大の校舎にはキャンパスといったものがなく、学生が集会を開こうにもひらけなかった。その上、会合、ビラ、掲示などもすべて検閲制で、表現、言論、集会の自由が全くない状態にされていた。自治会もどきの「学生会」があったが、学生が選んだ代表により構成されているものではなく、当局の御用機関であり形式的な自治権を与えられているにすぎなかった。自治会的動きをすれば、直ちに大学側と癒着した右翼、体育会学生の暴力的介入が行われた。故に、日大闘争は、御用自治会と闘うことからはじめねばならなかった。5月に入って、各学科、クラス、サークル単位で学生たちの討論会が開かれ始め、次第に学部単位の抗議集会へとたかまっていった。

 5.21日、日大生3万人が大衆団交要求しデモ。

 5.23日、神田三崎町の経済学部1号館前に集まった2千名の学生が日大生としては初めての「偉大なる200m.デモ」を貫徹。これに対し、いち早く校舎をロックアウトし、体育会系学生による集会妨害を図る大学側に反発する学生の数が増え続けた。これが日大闘争の本格的な始まりとなる。

 5.24日、日大経済学部の学生を主体にしていた約8百名の学生集会に、右翼、体育会系学生が殴りこみ、集会を妨害しようとすると同時に、校舎入口のシャッターを下ろしてロックアウトした。全学的な闘争の高揚を恐れた大学本部は、経済学部に告示をだし、秋田明大以下15人を処分した。処分の理由は4回の無届集会とデモ行進であった。

 5.25日、日大生5千名が錦華公園に集まって神田三崎町の白山通りでデモ。白山通りが学生デモで埋め尽くされた。このデモが、大学の強権的学生支配と、そこにつちかわれていた学生間の相互不信と無気力を一気に吹き飛ばした。これを契機に、学生の意識は流動しはじめた。「日大こそは全国大学のなかで唯一学生運動のない大学である」とされてきた日大生が子羊から脱皮し、古田体制に対する叛逆を開始した。


【日大全共闘結成される】
 5.27日、経済、文理、法学、芸術、商学、農学、理工、歯学の各学部学生有志5千余名にのぼる全学総決起集会がひらかれ、日大全学共闘会議(日大全共闘)結成。議長に経済学部の秋田明大が選出された。「古田体制打倒」のシュプレヒコールの中、全理事総退陣、経理の全面公開、集会の自由、不当処分白紙撤回など5つのスローガンを決めた。以降日大闘争激化する。体育会系右翼学生の介入と襲撃により流血・負傷が繰り返される。
 5.28日、日大全共闘総決起集会が開かれ、6千余名の学友が結集した。各学部闘争委員会が結成されていった。当局に31日の大衆団交を要求。

 5.28日、日共宮顕書記長が大阪での記者会見で、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政策」を発表し、翌日の赤旗に掲載された。この頃の党の政策変化として、従来の安保破棄から廃棄へと用語の変更が為されている。実際には反対スローガンとなったが、重要政策における右傾化方向へのステップであった。その意味するところは、破棄の場合は大衆闘争と実力が伴うものであり、廃棄の場合は議会の手続きを経ての合法主義的なものであるということであった。


【日共が「全民主勢力の統一戦線と民主連合政府の対外政策」を発表】
 5月、日本共産党が70年に向けての基本構想として、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政府の対外政策」を発表している。7月に予定されていた参院選に向けてのプロパガンダであった。これに対応して、宮顕書記長が、テレビ発言「我々は現在、今の憲法の平和的民主的条項の完全実施を求めているわけだから、合法的な手段を使って国民の意思をできるだけ多数結集して選挙に勝って、そして民主連合政府をつくるのが筋だと思う」(5.5日付け赤旗)と述べ、ハーモニーさせている。

 5.29日、早大闘争勝利全国学生連帯集会。各派3千名と早大生2千名が合流デモ。


 5.30日、古田会頭を初めとする日大理事会が、全共闘とは一切話し合わない方針をうちだした。


 5.31日、日大文闘委が大衆団交を要求し、全共闘集会〔文理前グランド〕に八千名結集、3万人デモ。これに対して、当局は、臨時休講、ロックアウトで対抗した。大学当局は、正門を閉め、体育会系学生がピケをはった。これより以降、古田体制の私兵である日本大学「学生会議」の車が文理学部の集会に突っ込み、体育系右翼学生が、牛乳ビンや角材をもって殴りこみ、30余人を負傷させた。そのうち3人は、内臓損傷、腎臓出血などで病院に運ばれた。これに抗議する7千人の学生が構内をデモ行進して、大衆団交集会を開催した。「大学本部を包囲し、古田会頭をひきずりだし、大衆団交を成功させる」に向かって動きだした。


 5.30日、ベトナム反戦全国統一行動、早大・法政大・東京工大・広島大等ストを初め全国各地で集会・デモに4500名参加、逮捕者81名。東京では全学連(三派系)集会〔日比谷公園〕に中核派系5百名が野音内で、反帝学評・ 第四インター系が野音外で別個に集会・ 別個にデモ、全学連(革マル系)は清水谷公園で集会、日比谷公園までデモ。


 5.31日、登録医制度反対関西集会〔大阪城公園〕に大阪市大医・大阪医大・神戸大医・ 奈良医大から150名参加、のち大手前公国までデモ、途中近畿医務局前で激しいジグザグデモ。


 5月、こえ派が「日本共産党」を外して日本のこえと改称。


 6.1日、イタリアのローマ、ナポリ、フィレンツェで学生達が大学を占拠する。


 6.2日、九州大学米軍機墜落事件。夜10時45分頃、福岡の板付基地に着陸しようとしていた米空軍のRF-4Cファントム偵察機が、建設中の九州大学大型電算センターに墜落。板付基地撤去デモ。6.4日、学生・教授ら抗議デモ。


 6.2日、社会党系のエンプラ寄港阻止・ 佐藤内閣打倒横須賀集会に労学5千名参加、全学連(三派系)3百名が激しいデモ、3名逮捕。


 6.3日、王子野戦病院撤廃闘争、反帝学評系150名、デモ不許可の下、 基地正門坐り込みで8名逮捕。


 6.4日、安保粉砕・沖繩闘争勝利・フランス人民支援全大阪青年学生決起集会〔扇町公園〕に大阪各地区反戦・反帝学評・府学連(準)など850名参加。


 6.4 日、ソ連戦車隊がチェコ領内に進駐。ソ連軍のチェコ侵入に抗議して九大で学長、教職員、学生らの抗議デモ。


 6.4日、米国政府がワシントンの「貧者の行進」集会を実力で弾圧、ワシントンに非常事態宣言。米軍ケサン基地放棄を発表。


 6.4日、日大で、再び大衆団交が予定されていたこの日、大学当局はまたもや大衆団交を拒否した。「全学総決起集会」が開催され、日大本部前において1万人を結集し、6.11日の大衆団交を要求した。


 6.4日、同志社大経済学部自治会問題で学友会(社学同系)と連絡会議(民青同系)学生が乱闘<24日学友会学生、総長選阻止で教室占拠。


 6.5日、ロバート・ケネディ上院議員が、ロスアンゼルスのホテルで暗殺された。民主党大統領候補指名に向けて、カリフォルニア州予備選挙に勝利した直後の事件だった。


 6.6日、日大全学共闘会議活動者会議が開かれた。この会議において、この闘争は、日大を根底的に変革する闘いであり、ストライキ闘争を含めた長期の闘いを決意しなければならないことが確認された。一方、古田会頭は理事会を開き、全共闘との話し合いは一切拒否することを決定した。


 6.7日、全学連各派、ベトナム反戦・米軍機九大墜落抗議・アスバック粉砕等で全国統一行動。全国各地で集会。デモに一万八千名参加、逮捕者総数逮捕者240名。東京では社学同系8百名が清水谷公園で集会・ 外務省デモに向かい機動隊と激突、210名逮捕。中核系250名が法政大で集会・ 日比谷までデモ。革マル系4百名が芝公園で集会・ 清水谷公園までデモ。民青同系5千名が日比谷野音で集会。福岡では反日共系各派5千名、板付基地正面ゲート前坐り込み、機動隊と衝突。民青同系3千名が九大学内討論集会。京都では反日共系各派1400名が同志社大で集会・ 円山公園までデモ、14名逮捕。民青同系3千名、立命館大で集会。


 6.9-11日、社青同第7回全国大会〔教育会館〕、全国41地本代表参加、解放派は入場阻止さる、反独占・ 改憲阻止を基調とする方針採択。


 6.10日、日大本部は、機動隊をも含めた弾圧を11日に行うことを決定した。


【日大全共闘武装する】

 6.11日、 経済学部で、約8千名の学生が集結し日大全共闘による大衆団交集会が開かれた。これに対し学生課右翼グループが襲撃をかけ学生側に200名以上の負傷者が出た。全共闘は、態勢を立てなおしつつ大学本部へデモ行進した。そのデモに対し、3、4階に陣取った体育会学生によるガラス瓶投げつけにより数多の学生が負傷した。秋田全共闘議長は、「断固たる決意のもとに、暴力団の手から学園をうばいかえし、民主化闘争を前進させよう」との“ストライキ宣言”を発表した。急いで用意したヘルメットをかぶった先進的学生を先頭に、再び経済学部前に向かった。とってかえした学生の頭上に4階から10キロの鉄製のゴミ箱が投げ落とされ、デモ隊の真ん中に落ち2名の学生が重症を負った。更に、次々と椅子、机、酒ビン、ロッカーが落とされ、2、3階からは、消火液、催涙ガスがかけられた。日大全共闘が反撃に向かった。

午後5時頃、大学本部の要請で、機動隊が導入されたが、たてこもる右翼暴力団を排除しないばかりか、その暴力行動を傍観し、抗議する学生に殴る蹴るの暴行をはたらきはじめた。この事態を目前でみた学生は、警察機動隊が、右翼暴力団を守り、古田理事会を守る、まさに国家権力の暴力装置であることを知った。学生が隊列を組みデモに移ると、突然、機動隊は、その隊列にジュラルミンの楯をふりかざしておそいかかり学生5名を逮捕した。抗議して座り込んだ300余の学生を足蹴にし、ゴボウ抜きにして蹴倒し、付近の学生たちをこづきまわし解散させた。この日の学生の被害は入院した者40余名、全治2週間ほどのもの60余名、軽症者全てを含めると、実に2百人以上に達した。

経済学部から機動隊に追われた学生は、法学部第三校舎を占拠し、右翼暴力団と機動隊の襲撃にそなえるため、急いで武装バリケードを構築した。ここに、日大はじまって以来のストライキ闘争が、右翼と官憲の暴力的弾圧の中ではじまった。そして、他大学でもみられない“最強のバリケード”がうまれた。日大全共闘は、正義の暴力を樹立した。バリケード・ストライキはそれまでの闘争の総括であり、新たなる闘いの開始でもあった。6.11日の闘いをつうじて、敵の暴力に対して自らを武装する必要を確認し、ヘルメットをかぶりゲバ棒を握った。

 これにより、経済、法学、文理、芸術、農獣医、理工学と全学部の学生は全学無期限ストに突入、バリケードを築いて校舎を占拠、中に立てこもった。


 6.11日、社学同500名が中大で集会後、神田駿河台の明大前通りを占拠、バリケードを築いて「神田を日本のカルチェラタンに」と叫びながら機動隊と衝突。


 6.11日、社学同主催・アスパック粉砕決起集会〔中大〕に五百名参加、″神田を日本のカルチェラタンに!“と明大前通りにバリケード構築し機動隊と衝突、39名逮捕。北九州市反戦・ 福岡反戦など220名、弾薬輸送実力阻止で南小倉駅から、弾薬庫までの引き込み線上に11回坐り込み、その都度機動隊に排除される、労働者1 ・学生2・市民1名逮捕。


6.12日、日大全共闘が、法学部前集会に2千名結集、経済学部へデモ。前日、右翼が占拠していた経済学部本館も占拠し、バリケードで封鎖した。体育会の残した兇器発見、五百名泊り込み。


6.14日、日大経済学部で、バリケードの中で初の自主講座が開かれた(三上治講師「大学の自治と学生の役割」)。学生にたいする古田体制の教育を拒否する闘争がバリケードの中で生まれた。


6.15日、日大文理学部総会で無期限ストが決議され、学園を私兵体育会系学生、右翼「日大学生会議」から守るための1、2号館バリケード武装ストに入り、直ちにバリケードを構築し、300人余りが籠城した。バリケード武装ストライキによる学園の自主管理がバリケード・ストライキに賭けた思想的表現であった。共同で炊事をしてささやかな食事を作る「食糧隊」や女子専用の部屋もあった。バリケードの中にはビラ、印刷用謄写版、角材、石塊、ヘルメットがあった。学生たちは床に直に敷いた布団か毛布の上で眠った。日大のバリケードの中では、トランペットを吹き鳴らし、ギターを弾いて、フォークソングを歌う学生がいた。日大のバリケードは、数次に渡る右翼や体育会の襲撃によって、どんどん強化された。「われわれはバリケードを打ち固め、決意を固めねばならない」。


 6.15日、東大では医学部全共闘・医学連の学生ら数十人が安田講堂(時計台)再度占拠した。午前5時、学生たちは全員ヘルメットに角材、覆面姿で講堂正面玄関の鉄扉をおしあけて乱入、警戒のために泊り込んでいた約50人の職員を追い出して時計塔の屋上に数本の赤旗をひるがえした。大学側は機動隊を導入、これを排除。学生はこれを大学側の自治放置とみなし、激しく反発、スト敢行。同じく日大ではズサンな経理改善と民主化を求め学生たちは立ち上がっていた。全学共闘会議を組織し、大学を占拠、封鎖した。


【「公然内ゲバ」始まる】
 6.15日、日比谷野音で六・一五記念・ベトナム反戦青年学生総決起集会。「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する 6.15集会」開かれる。1万2000名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、秋山発言をめぐり中核・ 革マル派が衝突。中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。集会は中止となり、デモに移る。全国反戦は以降完全に分裂、三派全学連も実質的に解体することとなった。社学同は別個集会〔全電通会館〕。大阪反戦主催の大阪集会〔大手前公園〕に反戦三千名、各派学生二千名参加、御堂筋デモで機動隊と激突、12名逮捕・ 負傷者2百余名。
(私論.私見)
 この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうし た「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派-社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過 は明確にしておくべきでは無かろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民青同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。私はそのようには見ていない。こういうことでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。

【本多書記長論文「七 社民の「最後の先兵」カクマル  恥ずべき転落の根拠を問う」】
 (前進388号、1968.6.17日に掲載)本多延嘉書記長論文「七 社民の「最後の先兵」カクマル  恥ずべき転落の根拠を問う」を転載しておく。
 七 社民の「最後の先兵」カクマル  恥ずべき転落の根拠を問う
 激動の七ヵ月の熱気のなかで迎えられた六八年の六・一五反戦反安保大統一行動は、東京二万(昼夜)、大阪一万など全国七〇ヵ所で数万の労農学市民を結集し、圧倒的な高揚と成功をおさめた。これにたいして、社会党・総評傘下の労働者本隊と革命的左翼との大合流に危機感をつのらせたカクマルは、中核派排除をもくろむ一部社民指導部の手引きで東京・日比谷集会に乱入し武装襲撃をかけるという憎むべき暴挙にうってでた。本稿は、右翼社民の先兵に堕し、やがては帝国主義的代弁者として現代のファシストへと純化をとげてゆくカクマルの転落の姿を六八年という一つの節目において鋭く暴露し断罪したものである。  
 七〇年へ決意示した六・一五闘争/社民の「最後の先兵」カクマル/革命の現実性を正面から否定/激動の七ヵ月に右翼的に敵対/社民への醜悪な追従とその破綻  
 七〇年へ決意示した六・一五闘争
 本年度の六・一五闘争のきりひらいた地平は、きわめて巨大な意義をもつものであった。とくに、東京・大阪においては、砂川を突破口として、羽田・佐世保・三里塚・王子・沖縄の激動の七ヵ月をたたかいぬくなかで、六・一五闘争の戦列のなかに労働者階級の組織的本隊を公然と登場せしめた。 このような階級的前進は、当然のこととして、七〇年を準備する帝国主義国家権力の憎悪にみちた弾圧と、これに呼応した日共スターリン主義者の反労働者的妨害とのたたかいをとおしてかちとられたのであるが、それは同時に、社民右翼指導部の反動的制動の強化と、それにもとづく戦闘的左翼諸潮流の動揺・腐敗との厳しい対決をとおして、「社民との革命的統一戦線」の発展に重大な教訓をもたらすものとなった。社民指導部は、激動の七ヵ月をたたかいぬいた青年労働者の階級的経験の前進のまえには、もはや「六・一五」を避けて通ることはできないことを察知して、六・一五大統一行動を提起しながらも、その背後で、六〇年安保闘争の階級的教訓の大衆的確認を回避し、地評機関決定という官僚的制動をデタラメにふりかざし、激動の七ヵ月の中核的担い手をセクト主義的に排除して、六・一五闘争の根本的解体を当初意図していたのである。

 これにたいしてわが同盟を先頭とする東京地区反戦、全学連主流派の青年労働者・学生は、六・一五関係三団体との協力を得て、独自の前夜集会の準備をすすめるとともに、六・一五大統一行動を実現する立場から、地評・全国反戦事務局の関係者とも誠実な準備活動をつづけ、秋山全学連委員長の発言を含む行動予定の基本的確認をみるにいたり、社民右翼指導部の反動的制動を突破して青年学生大統一行動の巨大な展望をきりひらいたのである。残る問題は、ただ東京地方の青年労働者・学生・市民の大結集をもって戦闘的国会デモをかちとり、日米帝国主義にむかって七〇年安保闘争の戦闘的挑戦状をつきつけることであった。
 社民の「最後の先兵」カクマル
だが、このような六・一五中央大統一行動に一部社民指導部の反動的、官僚的制動の「最後の先兵」として反階級的妨害を加え、帝国主義国家権力と日共スターリン主義者に「限りない激励」を与えたものこそ、社民右翼指導部・解放派に踊らされたカクマルのセクト主義的な集会破壊策動であった。すなわち、カクマルは、六・一五大統一行動の大綱がすでに決定された六月一一日まで、ブントとともに実行委員会を完全にボイコットしていながら、地評、東京地区反戦、全学連の大統一行動が実現にむかって前進し始めたことを知るや、地評翼下の青年労働者と革命的左翼の分裂をゆいいつの獲得目標として実行委員会への介入を開始し、社民指導部内の右翼的部分と結託して秋山全学連委員長の発言を「実力阻止」しようとし、角材、石、牛乳ビンなどをもって素手の全学連主流派や反戦青年委員会の青年労働者に錯乱的襲撃を準備し、これを制止しようとした実行委員会関係者、来賓に乱暴を加えようとしたのである。
 もちろん、カクマルと、その目下の同盟者・解放派の反階級的破壊策動は、地評の一部指導者に集会分裂の官僚的口実を与えはしたものの、結局、六・一五集会に結集した青年労働者、学生、市民の圧倒的部分は、会場を埋めつくして整然と集会をつづけ、孤立し動揺した分裂主義者の錯乱的な襲撃をはねかえし、逆に粉砕しぬくことをとおして、カクマルの反階級的破壊策動を「みじめな敗残の序幕」にかえてしまったことはいうまでもない。

 かくして、権力とのたたかいでは角材を「割ばし」と嘲笑しながら、激動の七ヵ月の中核的担い手にたいしては、角材を振るって「非妥協的」襲撃を「激突主義」的にくりかえしたカクマルは、デモをおこなう気力も組織性も喪失して四散し、総括をめぐって批判や脱落者が続出し、いまや大混乱におちいってしまったのである。

 六・一五闘争は、日本革命的共産主義運動のうちに生みだされたメンシェビキ的歪曲がついに、直接に社民指導部の反動的制動の先兵になりさがったという恥ずべき現実を、思想的=組織的に粉砕することなしには、七〇年安保闘争の革命的爆発を断じてかちとりえないことを「怒りと恥じ」をもって教えているのである。まさに社民の先兵に堕落したカクマルと解放派の許しがたい反階級的同盟にたいし、われわれは、その粉砕のたたかいをいまいっそう強めるとともに、その反階級的犯罪行為と錯乱的暴力の発現の根拠が「没落し零落するもの」の自己恐怖以外のなにものでもないことを仮借なくあばきだすであろう。
 革命の現実性を正面から否定
 カクマルがこのような恥ずべき反階級的策動の先兵にまで転落するにいたった第一の根拠は、かれらが、革命の現実性の否定のうえに「革命党建設」の基本路線を設定していることであり、その破綻が「激動の七ヵ月」をとおしてだれの眼にも明らかになったことにある。 いいかえるならば、現代プロレタリア革命の実現の過程は、帝国主義戦後世界体制の根底的動揺の世界史的深まりと、それにもとづくスターリン主義陣営の一国社会主義的対応の歴史的破産、そして、両者の複合的過程の統一的=場所的反省を綱領的立脚点としつつ、両者の危機を媒介とした具体的階級関係のうちに創成される革命党の組織的実践、という三つの契機の相互関係のうちに求められねばならないにもかかわらず、カクマルにあっては、革命はただ「革命的組織づくり」なるものの同心円的拡大のうちに実現されるものとして歪小化されているのである。

 もともと、反帝国主義・反スターリン主義というわれわれの綱領的立脚点は、ロシア革命を突破口とする世界革命のスターリン主義的歪曲と、それにもとづく帝国主義の基本的延命を歴史的条件とする「帝国主義と社会主義の世界史的分裂」の「平和共存形態」的変容を、世界プロレタリア革命の勝利にむかって統一的に突破しようとするものであり、その根底には、当然、二〇世紀=戦争と革命の時代という世界史的認識がよこたわっているのである。しかも、第二次大戦以後、アメリカ帝国主義を中心として特異的病的に成立した戦後帝国主義世界体制が根底的動揺を深めつつあり、そのなかで国際階級闘争のあらたな激動が展開されつつある現在、「反帝・反スタ」世界革命をめざす革命的共産主義者にとって、こんにちの帝国主義の体制的危機のもつ世界的性格を革命との関連において現実的に把えかえすことが、より鋭く要請されているといわねばならない。

 ところが、わがカクマルにあっては、革命の現実性とは、直接的な革命情勢を規定するものとして単純化されており、そこから逆に、革命の現実性の否定にいたり、革命党建設の根拠をただただ「共産主義的人間としての主体性の確立」の同性生殖的拡大に歪小化していくこととなるのである。そこにはまさに「反帝・反スタ」戦略の世界史的基底をなす帝国主義段階論と、延命した帝国主義世界体制の危機の世界史的性格の分析が完全に欠如しており、資本主義の本質的矛盾に、政治的反スタ主義を直接的につぎ木するという理論以前的誤謬が横行しており、行きつく先は、「スターリン主義千年支配説」といった裏がえしの帝国主義美化の理論でしかない。まさに、カクマルには「革命の現実性」は永遠の未来の課題であり、「革命の現実性」を媒介として党建設を論ずることは「小ブル急進主義」の思想的根拠になるというのだから、ベルンシュタイン以下の改良主義というほかはない。
 激動の七ヵ月に右翼的に敵対
 カクマル派がこのような恥ずべき反階級的策動の先兵に転落した第二の根拠は、かれらが七〇年安保闘争の革命的爆発からの召還路線にふまえて羽田闘争以来の激動の七ヵ月にたいし一貫して右翼的に敵対してきたにもかかわらず、「激動の七ヵ月」における先進的労働者・学生の階級的前進のまえにいかんともしかたい孤立と焦燥感に襲われてしまったことにある。

 いいかえるならば、日本プロレタリア革命と、その勝利のための革命的労働者党建設の課題は、抽象的な労使関係の把握のうちにとどまるものではなく、帝国主義の具体的な攻撃と、それへの階級的=全人民的反撃という具体的な諸過程との生きた交通の発展のうちにもとめられるべきであるが、カクマルは、七〇年安保闘争と「革命」とのあいだに万里の長城を築くことによって、七〇年安保闘争の戦略的展望を完全に放棄してしまい、その結果として、当然、羽田・佐世保・三里塚・王子・沖縄とつづく七ヵ月の激動にたいし、右翼的に敵対することしかできず、安保粉砕・沖縄奪還・ベトナム反戦をめざす労働者階級=人民大衆の巨大な階級的前進のまえに色あせた存在に転落してしまったのである。

 周知のとおり、六七年十月の羽田闘争のあと帝国主義国家権力の憎悪にみちた弾圧と、羽田闘争への小ブル的動揺の広がりのなかで、カクマルは、羽田のたたかいにたいし「悪名高きブハーリンの電撃的攻勢論の再版」(対馬忠行)という社民的総括をもちまわり、右翼日和見主義への道にむかって恥ずべき逃亡を強めたが、第二次羽田闘争に際しては「中核派はダイナマイトを準備している」などという挑発デマを社民指導部や単産青年部指導者のあいだにまき散らして、反戦青年委員会の再度の羽田デモに右翼的制動を加え、それ以後、佐世保・三里塚・王子・沖縄とつづく「破防法・騒乱罪の弾圧」に抗しての激動のなかで右翼的逃亡をいっそうおし進め、全自連メンシェビキへの道を完成していったのであった(カクマルの労働者組織の基幹部のすべてが社会党に入党している事実はこのことと無関係でない)。

 だが、カクマルのこのような右翼的逃亡にもかかわらず、中核派を中心とする全学連主流派は、帝国主義の攻撃にたいし真正面から血みどろの反撃を加え、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかっての死活をかけた試練に耐えぬくことをとおして、逆に自己を強化し、全学連主流派としての位置を不動のものとして確立していったのである。

 事実、カクマルの動員する学生たちのあいだにすら中核派への関心と支持が日増しに広がっていくような状況のもとでは、これに対抗するためにカクマルが行使する手段は、ただ、カクマルお得意の錯乱的デマ宣伝しか残されていないのである。「七一年にかける」という、かれらの客観主義的決意は、事前的にはやくも破産したのである。かくして、かれらは、警視庁公安部の製造した「革共同の内部分裂」というブル新記者すら信用しなかった謀略デマに踊らされて「本多と清水の対立」や「野島の戦線逃亡」といったヨタ記事を書きまくって、満天下のもの笑いの種となったのである。〔なお、カクマルはこともあろうに同志梶村にたいし「国家権力のスパイ」という許しがたいデマを流しているが、そんなデタラメを製造する余裕があるならば、黒田の反階級的規律違反行為についてどう自己批判を深めたのか、責任をもって明らかにしたまえ。〕
 社民への醜悪な追従とその破綻
 カクマルがこのような恥ずべき反階級的策動の先兵にまで転落した第三の根拠は、かれらか一方では社民への醜悪な追従をつづけなから、他方では革命的左翼と「社民との革命的統一戦線」には、凶暴な妨害を加えることを基本戦術としていることであり、この基本戦術が、とりわけ六・一五闘争の前進の過程で見るも無残な破産に直面したことにある。 すなわち、カクマルは革命の現実性を否定し、七〇年安保闘争の革命的爆発に敵対し、「激動の七ヵ月」を右翼的に清算しようとして醜悪な策動をくり返したにもかかわらず、中核派の不屈の前進のまえに、みじめな敗北に終わらざるをえなかったのであるが。

 わが同盟の「革命的左翼と社民との統一戦線戦術」の卒直大胆な提起にたいし、従来からカクマルは「社民追従の大衆運動主義」という低水準の非難をなげかけてきたが、そのことは、かれらが社民にたいして原則的態度を硬直的に示したものと安易に評価することはできない。なぜならば、カクマルの労働者組織の基幹部がすべて社会党に没入していることからも明らかなように、カクマルは、紙面や口先では社民の裏切りをいぎたなく非難するが、現実の行動では、構改派以下の右翼路線の実践者であることはあまりにも有名だからである。

 事実、十・八以後、カクマルは、社民指導部による中核派への官僚的制動の先兵として、解放派とともに、もっとも忠勤に励んできたのである。 だが、六・一五大統一行動の発展は、砂川を突破口として羽田・佐世保・三里塚・王子・沖縄と連続してたたかわれた激動の七ヵ月の成果のうえにたって、革命的左翼と社民との革命的統一戦線の豊かな可能性を現実的に保証するとともに、他方、社民指導部の官僚的制動の必要性をいちじるしく強めるものとなった。社会党や地評内の一部指導者にとって、もともと六・一五は好ましいものではなかったが、そのうえ、決定どおり大統一行動が集会→国会デモとしておこなわれるならば、地評の青年労働者と革命的左翼とのキズナはますます太くなり、七〇年安保闘争の革命的爆発にむかっての戦闘的出発点は、強力に構築されることは火をみるより明らかであった。
 かくして、社民指導部の一部右翼分子は、すでに事務局で正式確認している秋山委員長の発言を官僚的にとり消し、六・一五大統一行動の根本的破壊を狙うとともに、これに抗議する全学連主流派にたいし、カクマルの角材部隊を激励し、その暴力的襲撃をもって対抗しようとした。こうした混乱を陰謀し、もっとも悪質な役割をはたしたのは、社民親衛隊としての本性を日増しに明らかにしつつある解放派樋口一派であり、この責任は当然きびしく糾弾されねばならない。だが同時に、カクマルが口先では社民批判をドグマ的にわめきたてながら、現実に社民の醜悪な先兵として六・一五大統一行動の破壊のために利用されざるをえなかったことは、偶然の誤りというよりは、もつと深い根拠をもつものであることをはっきりと直視せねばならないのである。

 6.15日、文化庁発足。


 6.16日、三派系全学連による米軍弾薬輸送阻止闘争。板付基地・ 山田弾薬庫撤去福岡県青年学生総決起集会〔福岡市役所前〕。福岡反戦・ 学生など5百名参加、ゲート突破を図り機動隊と激突・ 五名逮捕、博多署への抗議デモでさらに四名逮捕。


 6.17日、米軍ジェット燃料・火薬輸送反対闘争、反戦・各派学生・市民など1万数千名が国労の輸送反対順法闘争支援で新宿駅東口集会・ デモ。


 6.17日未明、東大当局(大河内一男東大総長)が機動隊を導入し医学部学生排除した。その日の午前中に、大河内総長は、「機動隊導入に関する大学告示」を出した。そのあと体調不良のため入院した。その告示は、大学はおよそ力をもって問題の解決をするところでない。暴状にたいしてやむなく、国家の最大の暴力装置である警察力に懇願して、封鎖を解除して大学の正常化を図ったという趣旨であった。これに対して全学の学生の反発が高まる。


 6.17日、機動隊導入を聞いてかけつけてきた学生や大学院生によって、安田講堂の前で、自然に集会が始まった。たちまち300人を越える抗議集会になった。文部省から派遣された事務次官が大河内学長に詰め寄り、「あの学生たちを講堂から追い出せ」と指示する。これに基づき、東大当局が機動隊を導入し、1200名の機動隊員が安田講堂占拠の医学部学生排除。この闘争に参加していた島泰三は、「安田講堂1968-1969」の中で、大河内総長の「暴力」に対して次のように評している。

 「大河内総長は、「東大型知識人」の典型だった。彼らは権力の階段を昇って行くことに血道をあげながら、それが腕力以上の暴力を含めた「力」を得るためであり、かつその「力」を発揮するためだとは意識しないために、助教授、助手、大学院生、学生、職員などの目下を切り捨て、それらの人格を無視しても「力」を振るったとは感じない性格になっていた。この東大の学者権力者の非人間的な性格類型は、その総長告示に続いて出された医学部長の告示にもはっきりと表れている。」。

6.17-18日、医学連第14回全国大会〔東京医歯大〕、第43回医師国家試験(9月)実力阻止を確認。


6.17日、日大文理学部バリケードで自主カリキュラムを創り、自主講座を開くことを確認した。


6.18日、日大商学部でもストライキに突入し、本館を占拠しバリケードを構築した。


 6.18日、東大大学院生が東大全学闘争連合(全闘連)を結成し、代表に理系大学院生の山本義隆が就任した。この日キャンパスは一日中騒然として、各各部とも自然休講になった。昼過ぎには3千人規模の集会とデモが行われた。翌日には、各学部で学生大会が開かれ、続々とストライキが決定された。


6.19日、日大本部封鎖が行われ、芸術学部もバリケード・ストに突入した。続いて6.22日、農獣医学部もストライキに入った。また、文理三島校舎もストライキに入った。こうして6学部がストに入り、バリケードを築いて校舎を占拠、学生たちがなかに立てこもった。このスト突入は、三度にわたって大衆団交を拒絶された学生の古田理事会への本格的な闘争開始宣言であったと同時に、受動的な闘いから徹底的な攻撃への反転であった。


6.19日、中国水爆実験抗議集会〔早大〕に革マル派150名参加、 新橋駅から華僑総会に抗議デモを機動隊に阻止され 1名逮捕。


【東京大学で9学部がスト突入】

 6.20日、東大で、法学部を除く9学部が次々に一日ストライキに入り、東大・日大闘争が激化した。全学総決起集会には7千人の学生が集まった。同日の教養学部の学生投票では、賛成3,270、反対1,301、保留46でストライキを可決した。この日の全学集会の代表団は、「総長断交」を要求したが、翌日、大河内総長は、大衆団交の拒否を回答した。(以下、適宜「それまで安田講堂は文部官僚に占拠されていた」を参照する)一個当時医学部の今井澄は次のように述懐している。

 「私にとっても全く新しい経験だったんですけれども、学科ごとクラスごとにそれぞれ旗を押し立てて安田講堂に抗議に押しかけてきたんです。その光景を見て、私はもうたいへんびっくりしました。それまでの学生運動というのは選挙で選ばれた指導部があって、その指導部が方針を出すことによって運動が始まるものだったんです。労働運動もそうでした。 ところが、全くそうじやない。自主的に、下から、個々に、分散的に起きた。そういう人たちがほとんど安田講堂前を埋めつくしたんです。私はそこへ行って呆然として見ていました。これはいったいなんだろう、全く新しい運動の始まりだというふうに思いました」。

 この日、記者会見の席上で、大河内総長は機動隊導入がやむをえない措置だったことを強調した。医学部教授だった山本俊一は次のように解説する。

 「安田講堂にいるのは、文部省から来ている文部事務官たちです。その庶務部長が怒ったわけです。大河内さんにひざ詰め談判で、『われわれは利害関係がないのに、こんなに学生に迷惑を被っている。彼らを追い出してくれ』と。大河内さんはそうしたくなかったんだけれども、庶務部長には弱い立場だった。彼らはストライキと無関係な人間でしょう。それが学生に追い出され、部屋の中をめちやめちやに荒らされた。『こんなことは絶対に許せない。最高責任者として、これを追い出してくれなければ困る』と言われたら、『まあまあ』なんて言っていられないでしょう」。

 しかし、学生たちは反発した。学部や大学院ごとに次々に新たなストライキに突入していった。橋爪氏は次のように述べている。

 「当然、党派の人たちはたくさんいました。それは、持ちつ持たれつなんですよ。デモの指揮とか、実際に何かする時には、やっばり党派の人間は慣れているから便利です。パッと動いてくれる。しかし、全共闘からすれば、彼らに引きまわされたくはない。だから、学生運動の経歴があまりない人たちが全共闘を指導していました。そして、実行部隊にはいろいろな党派の人たちも入っていて、そうじやない人も大勢入っているというような組織でした」。

 この頃、理学部博士課程の山本義隆氏が(当時26歳)代表者会議の司会を務めているうちに、その力量を周囲に認められて 「東大全共闘代表」と目されるようになっていく。山本氏はどこの党派にも所属していなかった。大学管理法反対闘争の時に安田講堂前で一人テントを張って抗議したという伝説をもつ男であり、全共闘以前は「東大ベトナム反戦会議」で地道な反戦運動を続けていた。専攻は素粒子論。当時は、京都大学の湯川秀樹教授のもとに国内留学しており、将来を嘱望される研究者の一人だった。それまでの学生運動家タイプからはずれる人物だった。

 当時、教養学部の生物学教室の助手として闘争に参加した最首悟は語る。

 「あいつはとにかくとてつもなくできる男なんだということで、山本にはみんな一目置いていました。このままいけば、東大の理論物理をしょって立つ男なんだろうなということは、僕たちだけでなく教授たちも同じ認識だったと思います。それが闘争に飛び込んでくるとなれば、これは将来を捨てることになる。これが大きな衝撃でねえ。山本が出てきたというので、『これは職業的革命家が指導する学生運動じゃないんだ』ということになってきたわけです」。

 6.21日、アスパック粉砕全学連(三派系)統一行動、2400名参加、43名逮捕される。社学同7百名は中大で集会後、明大前通りをバリケード占拠、御茶の水駅前交番襲撃、機動隊と激突(駿河台で路上にバリケードを築き神田解放区闘争を展開)。


 6.21日、大河内総長が大衆団交拒否回答。


 6.23日、フランス総選挙で、ドゴール派が圧勝。


6.24日、日大大学側は、依然として大衆団交には応じようとせず、この日の記者会見で、19項目の機構改革案なるものを発表した。理事会で、顧問制など特別の身分・職制の廃止、体育会の改革、経理公開などの刷新案を提示した。全共闘の学生にとっては、自らの責任と理事会の教育方針の破綻を機構の問題に転嫁するもので、古田支配体制の利潤追求第一主義教育方針と、反動と暗黒の恐怖体制の確立を隠蔽するものと受けとめられた。「全理事の総退陣」と「大衆団交」を要求する学生側の姿勢とのあいだのへただりは大きかった。その間、理事者側は、約束した団交にかんする予備折衝を一方的にとり消した。学生が執拗に要求する大衆団交は、学園において学生と理事者は同等の立場であり、学園の教育方針など、根本的変革についてとりきめるときは全学生と全理事者が直接的に話しあうことが原則であるとの認識にたったものであった。6.24日、医学部を除くすべての学部がストライキに入った。


 6.24日、法大で、革マルと中核派学生が乱闘。


6.25日、日大全共闘は法学部1号館で、6千人の大衆団交拒否抗議集会をひらいた。大衆団交に応じないばかりか、全理事退陣が学生の要求であるにもかかわらず居すわり、なおかつ、闘争を終息させようとする古田理事会にたいして、抗議のデモンストレーションを貫徹し、1号館をバリケード封鎖した。一方、全共闘に対抗して既成の学生会組織がでっちあげた6学部自治会は、全学総決起集会をひらき、国会、文部省に請願デモを行っていた。


 6.26日、東大文学部学生大会で無期限ストライキが決まった。同日、豊川行平医学部長は、記者会見で、「処分撤回はしない。他学部の学生と会う気はない」と述べた。27日には、経済学部大学院と「新聞研」研究生自治会も無期限ストライキに入った。


 6.26日、総評・国労の米軍物資輸送阻止中央行動に呼応し、反戦青年委と反日共系各派学生が、東京新宿駅で米軍ガソリンタ ンク車輸送阻止のデモ。1400名が新宿駅構内デモ、ホーム坐り込み・軌道上デモ敢行、26名逮捕、大阪でも7百名が集会〔大阪大〕の後、阪急豊中駅までデモ、途中大阪空港突入を図り機動隊と衝突、さらに新名和工業前で坐り込み。


 6.26日、小笠原諸島が正式に日本復帰。


 6.27日、米軍が、北ベトナム軍に包囲されたケサン基地から撤退開始。


 6.27日、東洋大学で、理事長室前に座り込んだ学生を機動隊導入で排除。


【東大で大河内総長と学生代表が「総長会見」】
 6.28日、東大紛争の事態打開の為、大河内総長と学生代表との「総長会見」が行われた。約3千名の教職員、学生らで埋まり、あふれた約2千名はテレビ中継した教室で集会に加わった。大河内総長は激しいヤジの中で、約1時間20分にわたり所信を表明し、学生の質疑に応じた。警官導入問題については、「全責任は自分にある」と言い切り、医学部の処分問題については「粒良邦彦君の譴責処分は、事実誤認だという粒良君の言を尊重して医学部教授会に差し戻し、残りの学生は再調査するよう医学部教授会に要請する」と約束。一方、「東大集会」に先立ち、午前中から開いた東大評議会でも、粒良邦彦君の処分は白紙に戻し、残り16名の研修生、学生らの処分についても改めて事情聴取など再調査する方針を決めた。が、大衆団交を求める学生側との話し合いがつかず、総長がドクター.ストップにより退場、物別れに終わった。大河内執行部は、無能、無策ぶりを万人の前にさらしたにすぎなかった。

 6.28日、東洋大に機動隊導入、172名逮捕される。


 6.28日、軍事基地設置・軍事輸送反対三多摩総決起集会〔昭島市・光華小学校〕に千名参加し拝島駅までデモ、全学連(三派系)2百名・ 目中友好協会(正統本部)系30名で拝島駅構内線路上デモ・坐り込み。


 6.28日、アスパック粉砕関西学生統一行動。社学同5百名が大阪市大で集会。革マル系5百名が靭公園で集会。第四インター50名が大阪外大で集会、のち御堂筋へ進出、難波新地交番を襲撃し機動隊と衝突、31名逮捕。


 6.29日、「安田講堂封鎖実行委員会」が結成され、この日各学部で学生大会が開かれ、工、法、教育学部が1日ストを決め、農学部と理学部では学生の一部が授業放棄をした。経済学部と教養学部代議員大会では、無期限ストライキが提案されたが、否決された。


 6.30日、京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3千名 結集し、機動隊と民青同を制圧、時計台前で大学治安立法粉砕集会。


 6.30日、地元反対同盟主催・成田空港粉砕・ボーリング阻止全国総決起集会〔三里塚公園〕に反戦千名・ 三派系学生1500名参加、竹槍、角材をもちデモ。


 これより後は、「全共闘運動の盛り上がり期(2)」に記す。





(私論.私見)