補足 |
「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後」)考」 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
(れんだいこのショートメッセージ) | |
以下、「唐牛問題」を考察する。唐牛氏その人については「唐牛健太郎」で考察する。「田中清玄」については、「田中清玄考」で考察する。 高杉公望氏の「田中清玄と安保全学連問題の実像」は次のように記している。
ここで、「唐牛問題」を取り上げる理由は、この件に関して、第一次ブント側が当時も今も、宮顕-不破系の論理に太刀打ちできていない事情を切開してみたい為である。それは唐牛氏の冤罪を晴らす為でもあるし、田中清玄氏への偏見を晴らす為でもあるし、総じてこの問題に表れる宮顕系日共論理を内部から排撃しない限り日本の左派運動が隆盛を見ないと思うが故にである。 新左翼側が日共運動を批判しつつもなぜそれに代わる自前の運動を創出できないのか。その原因として、「唐牛問題」に典型的に見られるように宮顕論理を真に克服し得ていないという理論面での貧困が横たわっているが故ではなかろうか。史実は、新左翼側が理論で克服するのではなく、日共に対してぶつけるようにして怨情的な批判運動を展開させていくことになった。党派運動におけるこうした理論面でのひ弱さとその反動としての怨情化運動は利益にならないのではなかろうか。このままいくら待てど暮らせど、れんだいこ以外にこの問題を取り組む人士が出そうにないので、ここで敢えて考察してみたい。 2003.4.26日再編集 れんだいこ拝 |
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2018.6.24日、「全学連闘士のその後について荻上チキらが議論する」を聞いたが、当の番組を再現させているところは評価できるが、その評論となるとまったく陳腐なステレオタイプな評論であることに呆れる。れんだいこの本稿の労作を少しも学んでいない。田中清玄を右翼としてのみ描き出すことを恥じない。語り手がそうだが、聞き手も然りで合わせてくだらなさ過ぎる。こんなもんで飯が食えるのだから羨ましい限りだ。 2018.6.24日 れんだいこ拝 |
【事件の発端】 | ||||
まず、「唐牛問題」発生の経過を見ておく事にする。1963年は「中ソ論争の公然化」で明けた。マル学同内も黒寛派と本多派の深刻な対立が進行しつつあった。社会党協会派内も左右の抗争が激しく、社青同解放派誕生へ向けて胎動しつつあった。こうした情勢下の折、1963.2.26日9時半過ぎよりTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」が放送された。担当ディレクターは吉永春子。番組は、安保闘争時の全学連幹部活動家が、名うての反共右翼であるとして描き出された元武装共産党時代の委員長・田中清玄氏から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めている等親密な関係にあったことを暴露した。放送で取り上げられていた「全学連闘士」達とは、当時の全学連委員長・唐牛健太郎、書記次長・東原吉伸、共闘部長・小島弘、社学同委員長・篠原浩一郎らであった。 その内容を3.2日付け「内外タイムス」が、「全学連に意外なパトロン 五百万円ボンと出す反共運動家の田中氏」と題して次のように報道した。
宮顕系日共は、この「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を連日に亘ってアカハタで取り上げ、「エロ新聞なみのひわいな中傷記事と、全学連によって主導された安保闘争全体にたいする誹謗の政治的アジテーションをもって」(吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」)政治的カンパニアを組織した。 3.22日号週刊朝日が特集を組み、次のような記事にしている。
吉本隆明氏は、3.25日号日本読書新聞の「反安保闘争の悪煽動について」で次のように記している。
日共式プロパガンダに対して次のように批判している。
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【カンパの内容証言】 | ||||||||||
この「資金援助」自体は、田中清玄氏も当時の全学連指導者側も認め、東原氏の手記や「週刊朝日」の追跡調査(「録音構成『歪んだ青春』の波紋―安保の主役たちと日共と田中清玄氏―」)でも裏付けられた。概要を明らかにすれば次のような諸事実が露見していた。
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【日共の異常とも云える政治主義的カンパ二ア】 |
「唐牛問題」は、共産党がこの問題を大々的に取り上げ、60年安保闘争時の全学連指導者ブントのいかがわしさを喧伝していくことになった、という意味で政治的事件となった。この時の共産党の飛びつきようは異様なほどに徹底し、地区党の末端まで「トロツキストの正体は右翼の手先」だとする録音テープを大量に配布し、機関紙アカハタで連日この問題を取り上げた。その結果、60年安保闘争に金字塔を打ち立てた当時のブントの「いかがわしさ」が浮き彫りになり、その輝かしい功績もろともが葬り去られて行くことになった。 |
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問題は、この日共系のプロパガンダに対して、当事者のブント側の反論がか弱く、他の左派諸派もまた沈黙を余儀なくされていることに有った。この構図が今日まで続いていると云っても過言ではない。このことは何を語るか。日共側のこの理論攻勢に新左翼側が理論闘争レベルで対応し得ていないだけの能力しか持っていない、ということではなかろうか。時の権力を勝手に機動隊に仮想して、肉弾戦を如何に戦闘的にやろうとも、こうした理論面での切開をしないままのそれでは情けない。 |
【日共の田中清玄批判の詐術を批判する】 | |||
以下、れんだいこが、「唐牛問題」に関する日共側の姑息な手口を暴いて批判する。「田中清玄インタビュー」内容の詳細を知りたいが手元にないので、漏洩されている諸見に逐次コメントしていくことしか出来ない限界があることは致し方ない。
まず、田中清玄氏をかように像化して憚らない宮顕論法が如何に悪質なものであるのかを順次見ておこうと思う。第一に、田中清玄氏は云われるような「日本共産党の指導部にいたことがあり」で済まされるような存在ではない。その真実像は「武装共産党委員長時代の足跡」で簡単ながらスケッチしているので参照されたい。田中氏は、「党の最高幹部として、一時期れっきとして委員長を勤めた者」である。そういう経歴を持つ者を、「日本共産党の指導部にいたことがあり」などと曖昧表現で済ますことは的確な表現では無い。というか、宮顕特有の落し込め詐術である。
肝心なことは、解決のさせ方であったと思われるが、これ以上は分からない。
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【日共の『権力によるトロツキスト泳がせ論』を批判する】 |
ところで、宮顕系党中央が、「唐牛問題」で当時のブント活動家を批判するのに、「権力によるトロツキスト泳がせ論」を満展開させていたことも見落としてならない点である。TBS放送「歪んだ青春−全学連闘士のその後」でこのことが裏付けられたとしていたが、その根拠として、1・挑発行動の戦術指導を受けていた、2・検察・警察首脳とも密接な関係にあった、3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していた、等々を暴露していた。これにどう反論すべきであろうか。残念ながら当時のブントはこれにも沈黙させられた。 れんだいこなら、こう反論する。1・挑発行動の戦術指導を受けていたについては、その通りであるが、「挑発行動」と捻じ曲げるのは宮顕得意のすり替え論法であり、我々はあの当時最も先鋭且つ効果的な方法を必死になって模索していたのであり、そうした時に田中氏の戦前の武装共産党時代の経験は大いに参考になった。このことのどこに不都合がありや否や。 2・検察・警察首脳とも密接な関係にあったについては、公安は公安なりに真剣に情報取に向かうものであり、我々が運動の利益を考えながらこれに是々非々で対応するのは闘争現場の現実がしからしめるところである。そういう意味で、小島氏の「公安は僕を捕まえたいが、捕まえると全学連とのパイプ役がいなくなるので、向こうも困る。当時はそんな訳で、警察と一種の信頼関係があった」のは、革命の弁証法のひとコマである。ここに疑義を差し挟み傲然(ごうぜん)とする者こそ、過去一度もそのような運動主体になりえなかった者の為にする批判ではないのか。 3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していたについては、我々の革命の侠気に対して、田岡氏が侠気の理解者となって立ち表われたのであり、それは世の中の味わい深く興味深いところでもある。それは、同じ左翼陣営を構成する日共側の執拗な我々のパージに比較して鮮やかに対照的であった。 この問題の眼目は次のことにある。そのことによって、活動家が当局のスパイにされたのか、強制的に転向を余儀なくされたのか。実際はまさに侠気によって支えられていたのではないのか。自分達が行き所を無くすよう画策しておいて、侠客家田岡氏の世話になったことをもって日共がそれをしも認められ無いとするのは悪質姑息な暴論であろう。我々はむしろ逆に、これを非難し戦前の特高警察以上の執拗さでかっての全学連闘士を追い詰めることを楽しもうとする連中の我が身の反侠客性を恥じよ、と問い掛けたいと思う。 |
【資金カンパ考】 | |||
ところで、「唐牛問題」を廻って真剣に協議せねばならないことは、運動上に付き纏う金権パトロン問題ではなかろうか。こう課題を見据えたとき、「唐牛問題」は日共対トロツキスト運動の非難合戦の地平を離れて普遍性を獲得する。人も運動体も聖人君子的仙人思想にとらわれては何事も為しえない。金権まみれの現体制の批判運動を展開するからといって、運動側に金権にまみれずにあたかも霞を食って生きていくべしとする論法と手法が強制される必要は全く無い。むしろ、そういう規制を設ける論調は、一度でも実際に我が身を革命運動の中に置いたことの無い者の為にする無益理論でしかない。 運動を持続的長期化させる場合に常に纏いついてくるものは資金問題である。ここに工夫と手当て無しには運動は一歩も進展しない。運動側内で支援金を出し続け支えあうべきだ論も嘘臭い。この論自体は結構だが、この論が第三他者からの支援金を排除しようとするなら、それは有害な潔癖主義でしか無い。むしろ、我が社会を批判し変革するにも、我が社会が生命線にしているところの金権を活用する能力を持ってしか運動の成果を生み出せないという矛盾をそのままに踏まえるべきではなかろうか。一つ一つの過去の運動経験を検証し、運動体にとって有益な資金調達と排除すべきそれを識別し、運動の発展のために叡智を尽すべきではなかろうか。 当時の財政状態について、財政部長・東原の手記にはこう書かれている。
この資金カンパについて、島氏は次のように述べている。
唐牛自身次のように述べている。
しかし、この問題が、唐牛ひいてはブントの「いかがわしさ」を公認させ、葬り去られる契機となった。運動に付き纏うのは、いつもこの現実である。ここをキレイ事云う者が、一体過去において何ほどの運動を創出しえたのだろう。「唐牛問題」での田中清玄の献金は、そのことによってブント運動が捻じ曲げられたのかどうか、ここが眼目であって、献金自体を却下する必要が無く、それを咎める日共見解は悪質な暴論であろう。 |
【「田中清玄と安保全学連問題の実像」考】 |
サイト「田中清玄と安保全学連問題の実像」は、「唐牛問題」に関して当時の関係者の貴重証言を集めている。且つ「田中清玄研究」を一歩進めている。読後感を以下書き付け、議論材料を提起したいと思う。 |
【前書き】 |
「前書き」は、「唐牛問題」についてれんだいことほぼ同じ観点の見解を要領よく披瀝している点で御意である。議論すべきところは、「田中清玄の転向後の政治思想的な位置付け」であり、「リベラル右派」と見なすのはやや漠然とし過ぎではなかろうかという思いが湧く。 「リベラル右派の立場から、反岸信介闘争の資金援助を全学連に対して行ったというのが偽らぬところであった」としている点に異存は無い。但し、「リベラル右派」と云うよりは、「戦後政治史上において、戦後の国の成り立ちを是として戦後復興に取り込んだ産業人(正確には成功した起業家)であり、次第に政権与党内ハト派と気脈を通じて黒幕となる。主として民族資本的利益を代弁する商社的活動で海外事業に取り組み、特に中東石油の買い付けルートづくりで功績が顕著であった」軌跡を総覧すれば、「リベラルにして右派模様の本質左派」ないしはイデオロギー色に染まらない「ハト派系財界人の逸材」とみなすべきではなかろうか。 従って、「ようするに、田中清玄という人物は、きわめて若い時期に共産党委員長を一時期つとめただけあって、異常に高い知的能力をもちあわせ、国際的な学者たちとも親交の深かった、そういう土建業者だったのである」という観点に賛成である。 「戦後保守政治の中で、田中清玄が『黒幕』として動いたとしたら――むろん、それは多分に虚像であろうが――、それは反岸勢力の『黒幕』としてであった。もっとも、日共や革共同のような超教条主義的な『左翼』にとっては、自民党のハト派とタカ派の違いなどはどうでもよかったのかもしれない」という観点も同感である。付言すれば、戦後左派運動は、戦後体制の読み違いから「自民党のハト派とタカ派の抗争」について全く無関心で過ごしてきたことは、無能力の極みであったように思われる。 「ともかく思うことは、どうしてこうも日本共産党によるデマ、捏造、デッチ上げだけは堂々と罷り通り続けるのであろうか、ということである。そもそも、昭和初期の歴史イメージのかなりの部分が、日共系の歴史家や小説家たちによる捏造の産物だということは、今日ではまったく明らかにされていることである。(たとえば、坂野潤治(千葉大学法経学部教授(東京大学名誉教授))『日本政治「失敗」の研究 ─中途半端好みの国民の行方』光芒社、参照)」という観点に賛成である。 「島成郎が田中清玄にも資金カンパの要請することを思いつくきっかけとなったのは、1959.11.27日の全学連による反安保の国会正門突入闘争に対するごうごうたる世論の非難の中で、『文藝春秋』に寄せられた田中清玄の文章によるものだった。それは、三十年前の若き日の自分の過ちを見るような愛情のこめられた全学連批判の文章であった」は、史実の貴重な指摘である。 |
Re::れんだいこのカンテラ時評894 | れんだいこ | 2011/01/25 |
【田中清玄の「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」考】 れんだいこは腹の足しになる議論が好きだ。議論でなくてもよい文章も好きだ。そういう気持ちに応える一文を再読する機会を得たのでブログにしておく。「田中清玄と安保全学連問題の実像」に、田中清玄氏の「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」(文藝春秋、1960.1月号)が掲載されている。 (ttp://bundpro2.fc2web.com/Sehen/sub6.htm) れんだいこは、この論文をサイトに紹介いただいたことをまことに感謝している。極めて内容の質が高く議論すべき箇所も多い。以下、引用しつつれんだいこなりに解析問答する。願うらくは全文が欲しい。どなたかサイトアップしてくれないだろうか。 時代は、1960(昭和35)年の60年安保闘争前夜である。前年の1959(昭和34).11.27日、安保粉砕第8次統一行動で東京には8万名が結集し、この時の国会デモで全学連5000名らによる「国会乱入事件」が発生した。社会党、共産党幹部が鎮静化に向け説教するが、続々と都教組などの労働者二万数千名が加わり、国会内で抗議集会を開き続けた。 この時、全学連書記長の清水丈夫が国民会議の指揮車によじ登り、流れ解散を呼びかける指導者を遮り、「座り込みを断乎続けよ」とアジった。国鉄などの若手労働者が、「学生を孤立させるな」、「中へ入った連中を見殺しにするな」と指令を無視して雪崩れ込んだ。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。 こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。 清玄は、このブント系全学連の“暴挙”に対し次のように賛辞している。返す刀で社会党、共産党のエセ左派ぶりを嘲笑している。 「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心していると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、1924年−1927年、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和3年(1928年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。諸君が今回組織した国会デモを、マスコミは一斉に叩き、世論も亦国を挙げて非難した。曰く『赤いカミナリ族のハネ上がりだ』 曰く『極左冒険主義の暴走だ』 曰く『トロツキズムのブランキスト的逸脱だ』等々と。社会党はおろか共産党すらもが、デモへの種を蒔いた自分たちの先導にはソシラヌ顔で諸君を攻撃する事によって、自分の責任を回避している」。 清玄はかく述べた上で次のように諭そうとしている。 概要「しかし、かような非難を放っただけでは、国会デモ事件の本質的な批判と全学連運動の今後の在り方に対する問題の解決には少しもならない。国会デモ事件は単に今日の左翼的学生運動の表面に表れた一現象に過ぎない。問題は、このデモを惹き起こした君達共産主義者同盟(ブント)つまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並びに君らの根本的な世界観にあるのだ。今更申すまでもないことだが、自分には諸君を『極左冒険主義的ハネ上がり』であるなぞと、世論の尻馬に乗って極めつける丈の資格は全くない。かって、自分等の突っ走った、昭和5年の共産党の武装、和歌浦の党中央本部と警官隊との乱射事件、並びに川崎市メーデー武装デモ、仮国会議事堂焼き討ち計画等々数々の武装行動と、官憲殺傷48件にも上るテロ行動を顧みれば、とてもおこがましくて諸君らに非難を浴びせることなどは到底できない」。 清玄のこの指摘によれば、問題とされた「ブントつまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並びに君等の根本的な世界観」の擦り併せにより、清玄好みに変化を受容するのなら協力を惜しまないとのエールであったことにもなる。付加して、自身が委員長時代の武装共産党時の諸行動を回顧してブントにシンパシーを寄せている。この論文を読んだ島らブントの若き俊英は賢明にもかく匂いを嗅ぎ取った。ここから双方の接触が始まる。してみれば、この論文がそれを契機とさせたという意味で貴重な論文となっている。 清玄は次のように要求している。 「ただ自分の諸君等に希求してやまないのは、先ず諸君等の今回のデモ闘争とその根底をなす全学連の闘争方針を真に自己批判し、次に諸君らの唯一の理論的武器であるマルクス=レーニン主義をも、進歩してやまない世界情勢と二十世紀中期の人類が持つ理論物理学・生成化学等、現在の偉大な諸学問の成果に照応させつつ、客観的に、徹底的に糾明して人類の新しき行動指針を集大成して貰いたいということだ」。 れんだいこは今思うに、この指摘は卓見だ。清玄は当時の学生運動に対し次のように疑問を呈している。 「国会デモ後、諸君は口を揃えてマスコミに発表して曰く、『吾々の勝利だ、資本主義に一撃を与えた』(葉山君)、『全学連が、このデモで労働者から孤立したというのは誤りで、むしろ初めて労働者の支持と信頼を得たと思う』(唐牛君)、『吾々の国会デモは、労働者に蹶起を促した』(清水君)と。以上いずれも、諸君は、労働者大衆を指導し得て彼等大衆に支持されている革命家かの様に自分自身を思い込んでいる。 甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君ら共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君らが自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君らの自惚れだ。君らのデモ闘争を支持している組合員は、せいぜい嘗っての学生運動から現在では組合の書記に転出しているインテリ連中か、或いは此の連中の感化を受けた一握りのインテリ化した労働組合マンだけだ。君らは、口を開けば労働者階級と云うが、諸君は本当に労働者大衆と云うものを、具体的に生活の裡で知っているのか? 昭和二年再建された第二次日本共産党が三・一五の検挙で弾圧される前後、党員が未だ100名余りの頃、自分は党の組織者として、自分から進んで、帝政ロシアのナロードニキのヴォ=ナロードの気持をロマンチックに想像しながら、党細胞組織のために、先ず浅野ドック、次に横浜ドック(現三菱重工)に定期工として入り込んだ。そして製罐現場の大ハンマー振りをやらされ、最初のうちはからだの骨ぼねがバラバラになる程の痛みを歯を食い縛って頑張り抜き、造船工になりきることにつとめたのである。そして初めの頃は自分をシロウトと見て、馬鹿にして全然相手にしてくれなかった労働者達の信頼を徐々にかちとり、年月をかけて党細胞の組織と組合の急進化に成功した経験を持っているが、この時、自分は初めて頭の中でマルクス主義的に考えて幻想を創り出していた労働者階級(プロレタリアート)と現実に生きている労働者階級というものが、如何に違っているかを如実に知って愕然とした。これが東大新人会から入党して、一かどの革命家気取りであった自分に対する最初の打撃であり、最初の幻影喪失でもあった。君らの中の何人の人々が、革命家としての立場から、労働者として工場に入り込んで、労働者の生きてる実体を知り、且労働者階級のために働いているであろうか! 労働の経験もない。而も親のすねを齧っている君らに一体労働者大衆の心理と生活とか判る筈がない。君らは自分の頭の中で革命的な労働者階級(プロレタリヤート)という幻影を、マルクスの誤謬に従って、つくり上げて、これと現実に生活している労働者階級とを思い違いして、一生懸命に幻想にしがみついてる丈だ」。 清玄のこの問いかけは重い。続いて、唐牛・全学連委員長に対して、同郷であることに加えて奇しきな境涯の一致を見出し、次のように誼(よしみ)を通じている。 「自分は全学連委員長唐牛君に関する記事を読んで想わず目を瞠った。唐牛君も自分と同じ函館で成長して居るではないか。母一人子一人と云う唐牛君の家庭も亦全く自分と同じ家庭条件だ。その唐牛君が故郷の湯の川に独り居る母に健康を案じた手紙を送っているとの条を読んで、自分は、自分の為に自殺した母のことをゆくりなくも想い浮かべた。自分は唐牛君の様に母想いの優しい優れた性情の持ち主ではなかった。昭和二年末入党以来一切の音信を母と絶って地下にもぐり、いわゆる職業的革命家として前記の様に京浜の工場に潜入したのだ。爾来二年有余、或いは海外に、或いは国内を転々とする小生の消息を母は知る由もなかった。昭和五年二月五日、自分の母は、此の自分の『良き日本人たらん事を』念望して自らの手で自らの生命を絶った。唐牛君も亦、三十年前の小生同様『能力さえ許せば、本当の職業的革命家になる積りだ』と自己の将来を語っている」。 続いて、全学連運動に対して次のように苦言している。 「私は茲で唐牛君のみならず、島、香山、森田、葉山、清水君等、共産主義者同盟の諸君に訊ねたい。それは他でもない。君等は本気になって『学生と革命的インテリが中核になり、革命の根幹である労働者階級がゼネストを起こす。……新中間層ホワイトカラーとの統一戦線は否定する。当然吾々も武装し政権を奪取する』と革命のプログラムを考え、その為の指導的革命政党が共産主義者同盟と考えて行動して居るのかという事だ。若し、諸君が斯様に考えて居るのならば、『それは日本に於ても、世界中何処に於いても絶対に実現する条件を備えていない。小ブルジョア的革命論だから、左様な歯の浮く様な子供じみた革命闘争は即刻おやめなさい』と私は勧告し、且つ、共産主義者同盟の即時解体を御勧めする。君たち学生がいくら革命的な理屈を並べても第一労働者階級は耳も傾けない事と、学生運動の様な温室の闘争では真の革命家は育ち上がらないと云う事を申し上げたい。ついで、諸君の提唱する革命のプログラムは、学生とインテリゲンチャーの役割りを不当に重要視する点に於いて1925−27(大正14−昭和2年)の福本イズムと全く同一範疇のものであることも」。 要するに、かって清玄の母が清玄に諌死したような気持で、清玄が全学連活動を諫めていることになる。れんだいこは、末尾の福本イズムの評価については疑問があるが耳を傾けておくことにする。 要するに清玄は次のように云っている。君たちの運動は地に足のついてない小ブル急進主義の運動ではないのか、それは日本左派運動の宿アであり、君たちもそれに無自覚に汚染されている云々。この指摘は、60年安保世代のみならず70年安保世代にも云える訳であり、今日かっての隆盛がないもののそれは状況を一段と悪化させているだけで本質的に何ら議論されていないところのものではなかろうか。 次に、清玄は自身を次のように振り返っている。 「自分は、三十年前、学生運動の為に東大に入学したのではなかった。自分は社会主義に入門した大正13年(1924年)既に故鈴木治亮(日共党員・三・一五逮捕・病死)や沼山松蔵氏(三・一五当時の日共北海道委員・現クロレラ会社重役)と北海道に於ける最初の労働組合函館合同労働組合を創設し、翌大正14年(1925)には沼山氏と協力して札幌合同労働組合を創立し、同年秋、現日共青森県委員長大沢久明氏や社会党県議岩淵謙三氏と最初の農民組合を青森県黒石に設立した。主として農民運動と労働組合運動に奔走するかたわら、旧制弘前高校の社会科学研究会を確立して之れを学生社会科学連合会に加入せしめた。一時は全校生450名中約300名迄を会員に獲得して猛威をふるったものであった。従って高校3年の時の登校日数は60日位のものであって危く放校されるところであったが、学校当局は学生ストを危惧して無事卒業させてくれた。 東大に入学したのも、一つは母を安心させる為と東京に出て本当の革命運動を工場内に於いて体験する事によって職業的な革命家として自分を鍛え、この生命を日本の労働者階級と農民大衆ら勤労国民に献げつくすという覚悟からであった。それ故、東大新人会にも当然入会し、亀井勝一郎、現仙台市長・島野武、大山岩雄、代議士佐多忠隆、田中稔男代議士(彼は当時の新人会幹事長)、武田麟太郎、藤沢恒夫等と同じ釜の飯を喰ったが、学生運動を今更やるのが目的でないので、共産党の手ののびるにつれ、新人会の総会に出席しても発言する事を一切禁ぜられ、亦新人会の幹部の位置に就く事も禁じられた。間もなく京浜地区に党オルグとして工場に潜入する事になってからは一切学生運動と縁を切って共産党運動一本に専念した。 だが、極右翼団体七生社(当時の幹部現社会党左派代議士穂積七郎・同五一等々)との衝突には駆り出されて京浜工場地帯からやって来ては当時の極右翼の模範的闘士であった穂積兄弟、特に現代議士の七郎とは殴り合いの火花を散らした。彼が三十年後、社会党の而も容共的松本治一郎門下の極左派代議士になろうとは夢にも考えられなかった。特に戦時中は翼賛青年団の大幹部であった丈になおさらである。自分等は、はっきり言って、学生運動を軽蔑して居た位である。従って島君や唐牛君の共産主義者同盟的革命理論には如何にしても賛成ができない」。 清玄はこうも云う。 「百五十年前の欧羅巴の諸学問の集大成であるマルクス主義は、原子力時代の今日、凡ゆる学問が飛躍的な発展を遂げた今日、亦世界が資本主義が異質的な発展を遂げた今日、古いマルクス主義を信条としたならば、政治も経済も何一つとして為し得ないのである。現にノン・アルバイトの工場ができて、労働価値説=剰余価値説というマルクス学説の根底を打ちくだいて居るではないか。従って、労働価値説と剰余価値説に立つプロレタリア革命とその独裁の思想も亦成立し得なくなって居るのだ。他方資本主義も質的変化を遂げて居る。 ソ連に於いてもアメリカに於いても、政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである。来るべき世界はプロレタリアートのものではなくて、インテリゲンチャーのものだ。全学連の諸君は、何等の革命的意義もないエネルギーの無駄な消費であるデモ闘争をやめて、変動し、進展してやむ事を知らぬ世界と人類の持つ一切のものの究明にそのエネルギーを使用していただきたい」。 この部分は清玄の問いかけでもあろう。この問いかけも議論されるに値する。れんだいこは、なし崩しに右に傾くことによってではなく、左の精神を涵養しつつこの「清玄の訴え」と対話したいと思う。何も清玄の言に応化ずるつもりはないが、対話し甲斐がある論であることは確かである。 蛇足ながら、この清玄を罵倒し抜いたのが宮顕率いる日共であった。この日共から得るものは少ないが清玄から学ぶものは多い。そういう気がする。もう一言しておけば、この清玄と角栄が案外裏で気脈通じていたことが知られていない。両者とも在地土着型の社会主義的な世の中を憧憬していた面がみられる。れんだいこ独眼竜の見方であるが、これが歴史の奥深さであろう。 2011.1.25日 れんだいこ拝 |
【森田実「戦後左翼の秘密」考】 | |
この著作の紹介も貴重である。1963.2.26日のTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」の複数の証言者の一人が森田実氏であることが明らかにされている。森田実「戦後左翼の秘密」はその経過を記しており、日共系の女性記者とおぼしき人物にはめられて、隠し録音された発言を放送され、抗議したら恫喝されたことを記している。 | |
森田氏は、「右翼の大物といわれていた田中清玄の世話になり、安保闘争で資金援助を受けたことを、TBSがセンセーショナルに放送したのです。この放送の中で、私の談話が有力な資料として使われました。この原因の一つは私の軽率さにありました。迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました。この経過を話しましょう」と切り出している。本人が、「迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました」と後悔している事が分かる。 「ゆがんだ青春」の反響が大きかったことが次のように記されている。
興味深いことは、「談話によって最も傷ついた人間=唐牛健太郎と彼の仲間」が森田宅に脅迫電話を掛けていた事実が明かされている。「これからオマエの家に行く。首を洗って待ってな」という電話があり、三、四時間ほど経って「今東京へ着いた。これからオマエをバラしにゆく」となり、森田氏が防御用にゴルフクラブをもって門の内側で、何回か振り下ろす練習をしていたところ脅迫者が逃げ出した。「脅迫電話はこれを契機になくなりましたが、ここには、新左翼の頽廃した姿が示されていると思います。つまり暴力主義です。尚、最近、酒の席で島自身からきいたことですが、この中には島成郎もいたということでした」とある。 島氏亡き今となっては確めようもないが、森田氏が批判するように「暴力主義」の問題というよりは、森田氏の録音発言に反感を覚えた側がこれを理論的に反論為し得なかった「没理論性」にこそ真因があるように思われる。この没理論性が安易に暴力的決着へ向かおうとしていた、とみなすべきではなかろうか。 もう一つ。「私は村岡記者の質問に答えて、かなり気楽に答えていました。一時間ほどのインタビューが終わって、二人の記者が帰るとき、コタツの中からテープレコーダーが出されました。うかつなことに、私はこの時まで自分の談話が録音されていることに気付かなかったのです。それでも、私は相手がTBSの放送記者であることを知りません。念のため一言、『記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい』といいました。相手はうなずきました」とある。 この問題の重要性は、「歪んだ青春−全学連闘士のその後」の証言取りを日共系のジャーナリストの手で行われたということが明らかにされていることにある。つまり、端から党利党略的な代物であったということになる。次に、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」という要望にも拘わらず無視され、センセーショナルに利用されていったことである。問題は、この件を通じて宮顕系日共が「闘う左翼のイメージダウン」を日本列島津々浦々に広めていったという反動性も見ておくべきだろう。 締め括りに思うことは、森田氏は、事の重要性において「日共系の女性記者とおぼしき人物」を明らかにする義務があると考える。森田氏の謂いに従うならば、姑息な形で勝手に録音し、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」という要望にも拘らず無視された相手である。当然、この御仁は責めを負うべきである。そして、この御仁は、言い訳をすべきである。そういう形で、これを指揮した者を手繰り寄せ暴いていかねばならない。歴史責任とはそういうものである、この辺りの曖昧さが左派運動の信頼を欠く病床になっているのではないのか、森田氏の上述の話は自身の弁明に過ぎず、事の真相解明にはなお中途半端である、とれんだいこは考える。 なぜ、れんだいこは執拗に拘るのか。「戦後左派運動の金の卵、第一次ブントを潰すことに躍起となった」宮顕系の左派運動内への異質な闖入ぶり、その悪質な策動振りを解明せんが為である。それ以外に意味はない。これは、戦前の好戦派の黒幕批判解明の論理と通底している。この辺りを徹底的に追い詰める作法を確立しているならば、「唐牛・東原問題」も又同様に黒幕追求まで辿り着ける筈である。逆ならば、全てが闇の中で風化させられてしまうであろう。そうであるならば、日本左派運動の無能さを示す悪習でしかなかろう。 2004.9.24日再編集 れんだいこ拝 |
【西部邁「六○年安保 センチメンタル・ジャーニー」考】 |
西部氏のコメントの質の低さが露呈している。「ブントや唐牛が切羽詰まって、少なくとも詰まったと思って、清玄から金をもらったのだろうとしか思わない」は、一見理解を見せているようで愚弄している。「近年になって何度か田中清玄という人と面談してみた結果、自分には折り合えないひとだということがわかった」も、世間の風潮に悪乗りした見解披瀝でしかなかろう。 |
【島成郎「唐牛健太郎の壮烈な戦死」考】 |
島氏のコメントの質の高さが良く出ている。「後日、スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません」は、要領よく的確に結論を述べている。「まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。それで財務担当者に『お前が悪者になれ』といって、どこからでもいいから金を集めろ、という具合だった」と、台所事情を明らかにして理解を求めている。 問題があるとすれば、「財務担当者に『お前が悪者になれ』」と命令した下りであるが、金銭ないし資金、資本に対するコンプレックスを物語っており、この観点では宮顕系の暴露戦術に闘えないことが分かる。一般に、政治的影響を受けない限り、資金はどこからでも調達せねばならない、この観点の欠落がこういう言い訳を余儀なくさせているように思われる。 島氏らブント指導部と田中氏との接触の経過について貴重な証言が為されている。「で、その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、『お、これは金になるかもしらん』といって、出掛けていったわけです。こっちはアッケラカンとしたものでしたが、かえって田中氏の周囲の方が、最初は何だか気味悪がったらしいです。 会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで『オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた』としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです」。 島氏らブント指導部と山口組組長・田岡氏との接触の経過について貴重な証言が為されている。「山口組の田岡氏とのことも、田中氏の繋がりです。田岡という人もなかなかの人物で、私達はそれで好きになったんだけど、児玉誉士夫が六○年安保のとき、ヤクザを全部集めて右翼連合を作ったんですね。稲川会はじめ皆入ったが、田岡氏だけは『極道は極道で、政治に手を出すのは下の下だ』といって、絶対に参加しなかった」。 |
【東原吉伸「追想の中の『二人の改革者』」考】 | ||
東原氏もインタビューを受けて証言した一人であった。その意図に反して政治的に悪利用されていったことに忸怩たる思いを抱きつづけていることが明らかにされている。「安保の約三年後に、私がごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人から資金援助を受けたことを漏らしてしまった。そのためマスコミの好餌となったことがあった。私があえて事実を公表したのは、それは資金援助をして頂いた方々へのせめてもの感謝とお礼の意味であったし、今でも『当然のことをした』までだと思っている。もちろんそのやり方は、唐突で、若気の至りというか、軽率であったことは否めない。ディスクローズしたことと時期は私の独断ではあった」とある。 島氏が東原氏の悪意のなさを悉皆し、逆に気遣っていた面が明らかにされている。「島は大騒ぎになった後でも、陰に陽に私を支えてくれた。その渦中でもあったが、私の叔母が突然死したとき、二十人近い人間を派遣してくれて、落合斎場で葬式を仕切ってくれたりもした」とある。 「島成郎と田中清玄との交友関係」について貴重な証言が為されている。「既に田中清玄とは、資金の面で関係が成立していたが、ブント書記長との交流となると対外・対内的に慎重にも慎重な扱いが必要であった。当時、田中清玄といえば、本人は不本意だろうが、反響右翼の大物という見方が定着していた。全学連サイドとしては、同盟書記局の島が、右翼の大物と関係を持つこと自体が冒険であり、大変な決断を必要とした」とある。
東原氏のインタビューに戻る。
その他興味深いことが種々書かれているがサイトで確認すべし。 |
【奥浩平氏の受け止め方】 | |
奥浩平氏(1961年横浜市大入学、マル学同中核派の活動家、後に自殺)の遺稿集「青春の墓標」は、この時の気分について次のように記している。
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【田中清玄「田中清玄自伝」(インタビュアー大須賀瑞夫)考】 | ||||||
ブント指導部と田中氏の出会いの様子が次のように明かされている。(詳細は「60年安保闘争の評価(3)田中清玄問題(2) 」参照)
最大のハイライト証言が為されている。今となっては真偽を確かめようがないのが残念である。唐牛氏の全学連委員長抜擢に当って、相談が為されていたとして次のように証言している。
更に興味深いことが証言されている。岸首相擁護の右翼団体との暴力戦に抗するために、田中氏の秘書・藤本勇氏の空手グループを動員して「突き、蹴るの基本から訓練」をしたとある。
この話も秘話であろう。「あの時、岸首相は自衛隊を出動させようとしましたよね」との質問に次のように答えている。
「なぜ黒幕なんて言われたんでしょうか」との質問に次のように答えている。
ある左翼系歴史学者曰く「なに、田中清玄? ああ、あれはインチキですよ」と切り出したとあるが、「ある左翼系歴史学者」の方こそインチキだということが十分に考えられよう。ちなみに、サイト管理人高杉氏は、次のように述べている。
実に興味深いことである。 |
【「吉本隆明が語る戦後五五年H 天皇制と日本人」考】 | ||
この証言で貴重なのは、「たとえば六○年ごろでも、全学連の主流派の幹部連中が、右翼の田中清玄から三○○円ぐらい借りたというんですね。そしたら、借りた男と田中清玄がレストランで会食して飲んでいるところを共産党に写真を撮られちゃって、世間に向けて悪宣伝されたんです」とあるように、共産党が執拗にブントのいかがわしさを脚色せんとして取り組んでいる様子の暴露をしていることである。「(柄谷行人氏について、)雑誌の座談会で、あいつら幹部どもは右翼のカネをもらったりしてよくないとかいっているわけです。そんなことをいうインテリが大勢いるんです」と証言していることが注目される。 続いて、吉本氏の観点を次のように披瀝している。
れんだいこの見解は、吉本氏のこの観点も変調と捉える。「だけど、僕はそうはいわないんです」とあるのは良いとして、「僕の原則は、右翼だろうが左翼だろうが、寄附されたカネはみんなもらっちゃえってことです」にはいささか問題がある。というのは、この場合、田中氏を右翼と俗規定していることにある。吉本氏ならば、この前提をも疑惑する観点が欲しい。
吉本氏のカンパ問題に対する観点はれんだいこと一致する。問題はやはり、「田中清玄の悪口を書いてもいいかって訊いたら、かまいませんよっていうんです」という時の田中清玄観にある。「田中清玄=右翼の親玉」認識こそ精査されねばならないのではなかろうか。 |
【吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」】 |
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れんだいこは、「唐牛問題」に関する吉本氏の観点と基本的なところは一致している。問題は、「田中清玄規定」の差にある。吉本氏に拠れば、田中氏は、「お人好しの下らぬ人物にしかすぎないとおもう」、「ただの好々爺の像しかそこには存在しない」、「中小企業のおやじ」であるようだ。れんだいこは、この規定に陳腐さを感じる。 もう一つ。「革共同全国委員会の機関紙『前進』(三月十一日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している」とある。当時の「革共同全国委員会の機関紙『前進』」が、日共のプロパガンダと軌をいつにしてブント攻撃に加担していた様が窺えて興味深い。
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【宮顕日共の田中清玄批判の裏に垣間見るどす黒さについて」】 |
最後に、宮顕系日共党中央が、なぜ田中清玄をかほどにまで悪し様に罵ったかについて言及しておく。田中清玄は児玉誉士夫と民族右翼の覇権を奥の院で争っていた形跡が有る。これは、自民党内のタカ派とハト派の抗争に関係している。児玉はタカ派に田中はハト派に列なっていた形跡が有る。してみれば、宮顕系日共が、田中清玄に対しても田中角栄に対しても徹底的に批判プロパガンダしたのは、宮顕をしてそう指図する奥の院が存在したからではなかろうか、ということになる。 なるほど児玉批判もしたのであろうが、トーンが弱い。それに比べれば、田中角栄は無論その盟友小佐野賢治批判の凄まじさたるや。あれこれ思えば、宮顕ー不和系日共は、政権与党のタカ派とハト派の抗争に於いて常にタカ派を助けハト派を叩く役割を果たしてきたことが判明する。これは偶然だろうか。 2006.11.2日 れんだいこ拝 |
【篠原浩一郎証言】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2017.5.9日、インタビュアー:筒井潔/取材:加藤俊「篠原浩一郎氏インタビュー・昭和財界傑物伝【前編】 学生運動の指導者が語る四人の傑物・財界官房長官からヤクザの親分まで」転載。
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(私論.私見)