補足「所感派の奪権闘争と破産考」

 (最新見直し2011.01.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「50年分裂」時の国際派絡みの「東大と早稲田の50年期分裂時代の分派構図の差異考」、「東大国際派内査問事件(戸塚、不破査問事件)考」は既に述べたところである。ところが、所感派の奪権闘争に関わる「所感派の立命館地下室リンチ事件」、「所感派の奪権闘争と破産」がほぼ全くと云ってよいほど考察されていない。そこで、れんだいこが分かる範囲で書き記しておく。「立命館地下室リンチ事件」は別サイトで考察し、ここでは「所感派の奪権闘争と破産」の流れを検証する。

 2011.1.12日 れんだいこ拝


【所感派の奪権闘争と破産史考】
 全学連運動初期の1950年から52年辺りの動きの「所感派の奪権闘争と破産史」を確認しておく。この流れを正確にキャッチしないところから様々な歪みが生じていると思うからである。この後、革共同、第一次ブントが生まれるが、「所感派の奪権闘争と破産史」についてまるで無知ないしは無視の弊があり、その後の運動に運動史断絶故のひ弱さをもたらして行くことになると思われるからである。

 「50年分裂」以降、全学連は、共産党中央の分裂に呼応して党中央の所感派と反党中央の国際派に分裂した。今日では事情の分からない者が殆どであろうから、当時のややこしい政治的位置関係を解説しておく。所感派は徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派から構成された。徳球ー伊藤律派が主力であり、その主力が北京へ亡命したことにより、その間隙を縫って志田派が伊藤律派の追い出しにかかる。その志田派が次に述べる宮顕派と通じていた。そういう意味で、党中央の所感派内部も一枚岩ではなかった。反党中央の国際派は宮顕派を主力として、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日(庄)派に分岐した。その他中間派として中西派、福本派が居た。

 ここまでは良い。単に事実を確認すれば良い。ややこしいのは全学連の立ち位置であった。全学連中央は東大派が占め、こぞって宮顕派に属した。何となれば、党中央の所感派のそれまでの指導が穏和主義的であり、その党中央を最も鋭く批判する宮顕派が原理的左翼に見え、唯一信に値すると仮想した気配が認められたからである。これには、今でこそ虚構であることが明らかになっている宮顕こそ「戦前非転向唯一人士」なる聖像が影響していたと思われる。

 レッドパージで追われ中国の北京に渡った徳球指導部は、戦後日本革命の最後の勝負に出る。朝鮮動乱勃発の国際情勢の緊迫下で、従来の野坂式平和革命式議会主義から一転して中国建国革命を範とする武装闘争路線へと転換せしめることになった。当然、その背景には先達革命成功兄弟党のソ共、中共の指導を受け、朝鮮動乱下での日共の果たすべき役割が指導されていたと云う事情がある。

 1951.2.23日、党中央所感派が四全協を開催し武装闘争方針を提起した。続いて8月上旬、「51年綱領」を採択する。詳細は「共産党の『50年分裂』と(日共単一系)学生運動」、「党中央『50年分裂』期の(日共単一系)学生運動」に記す。興味深いことは次のことである。党中央の所感派が四全協、五全協を通して極左式武装闘争に転じるや、それまで党中央を右翼日和見主義として批判してきていた国際派が途端に穏和主義的になり始める。国際派は、宮顕を頭目として公然たる分派組織「全国統一会議」を組織し、党分裂を策動して行くことになる。要するに、宮顕派の党中央批判は、徳球−伊藤律系党中央批判の為のそれでしかなかったことが透けて見え始めた。

 これにより宮顕派のそれまでの「左性カムフラージュ」が剥げ落ちたと窺うべきところ、武井系全学連中央派は宮顕派に追随した。と云うことは、武井系全学連中央派の党中央批判も為にする批判でしかなかったことになる。これを見抜いた全学連非中央派は武井系全学連中央派の指導になびかず、党中央の新急進主義化路線に歓呼の声を挙げて従った。他の動きとして、党中央批判の姿勢を崩さず且つ宮顕派にも移行しなかった国際派諸派への分岐が見られる。つまり、全学連は、党中央の分裂に比例して且つ捻じれた格好で執行部が宮顕派へ、反執行部が所感派へ、その他が宮顕派外の国際派諸派と云う三派に分裂したことになる。全学連もまことに痛々しい姿になったことになる。

 武井系全学連は本来であれば、それまでの論に忠実であれば武装闘争路線への転換を歓迎する立場であった筈であるが、党中央が極左化した途端に穏和的な平和闘争に逃げ込み始めた。どこまでいっても顕系との一蓮托生組でしかなかったことが判明する。この両者の縁が切れるのは、1955年の六全協で宮顕系が党中央に登壇しその右翼的本質を満展開することによってである。それ故に今暫くは蜜月振りを見せられることになる。以降の全学連は、党中央に従う所感派が、宮顕系国際派に従う武井系から全学連旗を奪う闘争史となる。実際には、所感派が武装闘争型、国際派が反戦平和型に向かうことで二元的活動が生まれることになるが、底流として全学連旗の争奪即ち全学連中執のイスを廻って激しい抗争が生まれることになる。この経緯の主要な流れを見ておく。

 5.5日、所感派系は、武装闘争を担う青年組織として日本民主青年団(民青団)を発足させた。民青団は党中央の新方針に従い、党の軍事方針の下で工作隊となり、積極的に参加していくことになった。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」、「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。

 8.26日、武井系全学連は中央委員会総会を開き、50年以来の闘争の総括し、分裂主義者に対する決議と闘争宣言、「全日本学生へのアピール」を採択し、武井委員長を再選した。このことは、この時点までは武井系が全学連主流派であったことを示している。他方、9月中旬、早大細胞は、上石神井にて早大細胞政経班会議を開いた。細胞キャップ・松本哲男は、新綱領草案「日本共産党の当面の要求」(日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いである)を提示、新方針による分派の完全粉砕と党の統一をうたった。51年秋から、党中央は、トロツキスト追放キャンペーンの激しさをました。51年の暮れから52年を迎える頃には、全学連内の対立は国際派から所感派へ優位が移行していった。安東氏は次のように証言している。「グランド地下の隣の都学連の部屋は既に所感派の諸君に占領されていた」。

 10月頃より、武井派が排斥され始め、武装闘争に向う所感派学生党員が次第に指導権を握っていった。10.6日、都学連において国際派執行部が辞任させられ、所感派に指導権を渡した。しかし、全学連中執は依然として国際派が掌握していた。11月、都学連が「学生戦線の統一、全国学生の要求31項目」を発表。この時、全学連中執排除を決議している。

 11.12日、東京の動きに負けじとばかり関西でも所感派が指導権を奪う。所感派系京大細胞の指導する京大学友会が天皇への公開質問状を突きつけ、約一千の学生が天皇裕仁の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃するという事件が発生した(「天皇事件」)。これにより京大同学会は解散させられ、京都の学生戦線に露骨な弾圧が始まった。こうした状況下で、11月、同志社に民主青年団同志社班が組織された。

 11.23日、都学連は、「(武井系)全学連中央執行委員会不信任決議(案)」を可決し、国際派路線の「反帝闘争偏重、出隆かつぎだし、青年祖国戦線への誹謗など全学連中執の独善的指導に対する非難.絶縁宣言」を声明した。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。12.2日、都学連が新執行部による大会を開き、全学連中執不信任案を可決する。この間、民青団による反戦学生同盟の解体提案が打ち出されていた。

 12.15日、武井系が反戦学生同盟全国準備委員会総会を開催し、民青団による反戦学生同盟の解体提案をめぐって議論を白熱させた。民青団の提案は所感派が打ち出した武装闘争路線を元に、1・革命的情勢に応じて学生も武装闘争に参加しなければならない、2・反戦学生同盟の存在は分裂的であり、解体させ民青団に合同させねばならない等々と主張していた。採決の結果、賛成4、反対18、保留2の多数決で否決した。これにより、反戦学生同盟(「反戦学同」)が結成されることになった。付言すれば、その後、武装闘争の破産により民青団は解体され、宮顕指揮下で穏和的な民青同盟に改組されることになり、「反戦学同」は急進的に成長し第一次ブント創出へ向かうことになる。この辺りが歴史の弁証法であろう。

 1952年、武井全学連委員長は、新年メッセージで次のように述べている。「我々の間の思想、信仰の幾多の相違にも拘らず、相互の理解を一層深め団結をかたくし、我々の共通の目的がより有効に勝ち取られるよう、最大限の誠意と努力とを、以前のどの年よりもはらうよう云々」。全学連の分裂苦悩が滲み出ている。しかし、所感派優位の流れは変わらなかった。

 1.12日、全学連中執会議が開かれ激しい論争となった。1.26日、都学連主催の全国自治会代表者会議が開かれ、「学校当局、警察権力の弾圧に対して徹底的闘うことなくして、経済的諸要求はかちとれない」ことを決議、全学連中執不信任を決議した。2月、早大所感派系のの津金、由井ら20名ほどが党の山村工作隊を名乗って(小河内に)乗り込む。2.20日、東大でポポロ座事件が発生する。

 3.3日、全学連第1回拡大中央委員会(拡大中執)が東大農学部で開かれ、所感派による国際派追放大会が開催された。全学連指導部を形成していた高沢、家坂、力石、土本、安東、柴山、二瓶、下村らが非難追放され、新中執が選出された。これにより、1948年の全学連誕生以来長らく執行部を握って来た武井系が総辞任することとなった。大会は、「全学連第一回拡大中央委員会を終るに当り、全国学生に訴える」を決議し次のように述べている。「過去二年間に亘って学生戦線を分裂させ、学生を他の国民諸階層から切りはなすことに躍起になっていた中執内部の一部悪質分裂主義者は、全国各地の代表によって徹底的に批判され遂に学生戦線から追放され、全学連は全国学生の要求によって、全学生と全国民の手にとりもどされた」。武井派は、「学生戦線統一の観点から辞任することとなった」と総括している。指導権を握った所感派は、中核自衛隊の編成に着手し、山村工作隊を組織した。早大、東大、お茶大らに軍事組織が結成され、火炎瓶闘争を実践していくことになる。

 この経緯を「反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部の引き摺り下ろし」とみなして、この時の政変を疑惑する史論が為されているが、れんだいこはそうは見ない。この頃武井指導部は宮顕論理に汚染され、既に闘う全学連運動を指揮し得なくなっていたのであり、歴史弁証法からすれば当然の経過であったと拝察したい。 

 4月、下野した武井系全学連指導部は思い思いの道に転身する。安東、柴山、松下らは常東農民組合へ向かう。武井は文芸評論を志す。「文学のブの字も口にしたことのなかった武井昭夫は『文学の批評でもやってみたい』といって私をおどろかせた」とある。4月、早大の由井が学内で中核自衛隊「民族解放早稲田突撃隊」(隊長・由井、各学部の党員10人ほど)の編成に着手する。早大学生工作隊は弱まりながらも続き、延べ千人近くに及んだ。4.30日、東大内にあった全学連事務所の強行閉鎖が行われた。

 4.28日、講和条約(サンフランシスコ平和条約、日米安保条約)が発効した。「GHQ」の廃止が発表され、実質的にアメリカ帝国主義の全面軍事占領であったものが終結し、軍事基地が要所に残置された。

 5.1日、第23回統一メーデーが全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーは「講和、安保二条約粉砕」、「民族の独立を闘いとれ」、「朝鮮即時休戦」、「破防法反対」などのスローガンを掲げ数万人が結集する盛り上がりを見せた。数万のデモ隊が人民広場に向かい、これに対し、警察当局はデモ隊を広場へ引き入れた後数千人の武装警官隊によって襲撃させた。戦後初めての公権力によるデモ隊襲撃の阿修羅図となり、労働者.学生2000名が激しく応戦し「まるで市街戦のような真昼の流血」となった。「流血メーデー」となり、「血のメーデー事件」として全世界に報道され衝撃が走った。

 5.6日、木村法務総裁が、「外国人の負傷は13名、暴徒側の負傷者は200人と推定、デモ側に死者1名、奪われたピストル3丁、焼失した米軍車両14台、損傷した車両101台」と発表し、最高検察庁は騒擾罪を適用した。実際には法政大学学生含む2名が射殺され5人が死亡し、300名以上が重傷を負い、千人をこえる負傷者がでていた。当局は、事件関係者としてその後1230名(学生97名)を逮捕した。早大生は夕方から夜にかけて200名ばかりで演説会を行い、学内をデモ行進、千人近くが参加した。

 予想外の大事件の勃発に対して、総評指導部は、「共産分子が行った集団的暴力行為」、「メーデーを汚した反労働者的行為である」と激しく非難した。北京に逃亡していた徳球書記長は、地下放送を通じて「最も英雄的行為、日本における革命運動の水準がいかに高いかを示した」と評価した。「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」(組織者6.1日第11号社)では、大衆の革命化が党の組織的準備を上回っており、党の実践のほうがむしろ立ち遅れていると指摘した。

 これに呼応して、5.7日、早大の由井ら「民族解放早大突撃隊」が、騒乱罪適用で萎縮した活動家たちにむけ(上部の勧告により)軍事組織の存在をアピールするため「武器をとって戦おう−民族解放早大突撃隊」の隊員募集ビラを作成配布した。次のように記している。「我が隊は民族解放の為に、米帝売国奴と死を賭して闘う軍事組織である。我が隊はこの輝かしい5.1を記念して、巨大な闘いを更に発展させ世界の平和と民族の解放を闘いとるため諸君の入隊を期待する」。

 5.8日、早大で第2次早大事件が発生した。内偵に来ていた神楽坂署私服・山本昭三巡査を文学部校舎に監禁したところ、救援の警官隊と座り込み学生1500名が10時間にわたる対峙となった。5.9日午前1時過ぎ、武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちの再結集し、都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会を開いた。しかし、所感派は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判し、メーデー参加者逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突、学生に多数の負傷者がでた。

 5.30日、全国各地で「5.30記念集会」が開催された。新宿で「破防法粉砕総蹶起大会」が開かれ、早大、東大、お茶大らの軍事組織がはじめて火炎瓶闘争を展開した。「三方向から各10人ぐらい、一人2本ずつの火炎瓶。私のあずかり知らない火炎瓶闘争が新宿駅を皮切りに出現した」とある。6.10日、全国統一行動。早大で破防法反対総決起大会が開かれ、10月争以来はじめて全都の学生4千名が結集した。6.17日、再度全国統一行動。6.20日、日本共産党早大細胞が6千5百の学生・市民を結集し、「破防法粉砕全都総決起大会を開き、「教授有志による破防法反対声明文」、「日本共産党学生運動テーゼ」を発表した。6.25日、早大細胞軍事組織が、朝鮮戦争勃発2周年で、地区委員会と共同して米軍司令部にテルミドール爆弾を投擲した。

 6.25〜27日、全学連.第5回大会が2年ぶりに開かれた。54大学の代議員197名、20大学のオブザーバーら400名が参加し、所感派が国際派から指導権を奪い取ることになった。「武井委員長、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫、山中明ら旧中執27名の国民戦線からの追放」、反戦学生同盟の解散が決議された。但し、この時の除名決議は55.11月になって誤った措置として取り消されることになる。大会は、「反ファッショ行動組織」の結成を訴え、結語として「国会の即時解散、吉田政府打倒、民主的日本政府樹立」を宣言した。大会は、新たに委員長・玉井仁(京大)、副委員長・妹尾昭(東京外大)、早川正雄(立命大)、書記長・斉藤文治(東大)らを選出した。こうして所感派学生党員が、52年の全学連第5回大会で武井委員長ら旧執行部を追放し主導権を握った。

 第5回全学連大会最中の6.26日、全学連による立命館地下室リンチ事件が発生している。徳球系日共京都府委員会の指導する学生党員(「人民警察」)による、反戦学同員に対する3日2晩にわたるリンチ査問事件となり、被害学生は関大、立命館、名大、東京学芸大、教育大、津田塾の反戦学生同盟員ら延べ11名に及んだ。自己批判と「スパイ系図」作成が強要されたと伝えられている。この事件に関して、山中明・氏は、次のようなことを明らかにしている。「ちなみに彼らの示した『CIC のスパイ系図』なるものには宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫の各氏が中心人物にすえられてあった。これはいまでこそ噴飯ものにすぎぬことであったが、当時そのことが血で血を洗う事件となり、皮肉なことだが、党内闘争は『武装闘争』の如き観を呈していたのである」。


 この事件の重要性は、「スパイ系図」にある。山中明氏の著作「戦後学生運動史」(青木新書、1967年)を参照すると、この時指摘された「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫」スパイ説の根拠と当否は今に至るまで検討されていない。というか、今日この時の「CIC のスパイ系図」が完全に闇に葬られている。れんだいこから見て、「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫をスパイと断定」したことはかなり貴重な意味があるように思われる。これを明らかにしている山中氏自身が「噴飯ものにすぎぬ」としているが、れんだいこはそうは見ない。それは余程の確証によった作成されたものではなかろうか。貴重なこの「CIC のスパイ系図」の具体的中味を更に知りたいがこれ以上は分からない。付言すれば、武井昭夫、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫(飯島、教育大)、山中明らはいずれも、宮顕の息の掛かった学生グループであり、宮顕が党中央を簒奪するや順繰りに切り捨てられていった面々である。

 玉井新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになっ た。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。この間、国際派学生党員グループは、自己批判し武装闘争に向った者、反戦学同的運動を継承しつつ主に平和擁護闘争を取り組んだ者、自己批判を拒絶して戦線離脱した者という具合に分岐したようである。留意すべきは、どちらの動きにせよ党指導下のそれであったことであろう。 こうして、所感派が国際派の武井系から執行部を奪ったが、結果的にその後の武装闘争はことごとく失敗し、歴史の間に間に破産した。

 この経緯がいわば隠されている。或いは論じられても国際派是論の立場からの言及しか見当たらない。れんだいこが、その一端を覗き、れんだいこ史観から確認した。参考にしていただければと思う。本稿は新資料を入手次第に書き改めることにする。付言しておけば、第一次ブントの島を補佐した生田、田中角栄の秘書となった早坂は所感派である。他にも力持ちはいる筈であるが国際派ほどには表に出ていない。

 最後に云いたいことは次のことである。この時期の武装闘争史の経験を通して、日本的政治に於ける政治闘争の在り方としての武装闘争の限界と不適性を見据えるべきではなかろうか。このことは同時に武装闘争に代わる日本的政治質としての在り方を模索すべきではなかろうか。こう問わない限り歴史を学んだことにはならないのではなかろうか。  

 2011.1.14日 れんだいこ拝






(私論.私見)