【産経新聞「さらば革命的世代2」】

 (最新見直し2008.5.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 産経新聞が、「さらば革命的世代」と題して連載特集している。これを転載しておく。

 2008.5.23日 れんだいこ拝


【さらば革命的世代】第2部(1)機動隊員が見た許せぬ光景 バリケードの外から 2008.8.28

 行く手を阻んだのは、机やロッカーを積み上げたバリケードだけではなかった。狭い階段は炎と黒煙に包まれ、頭上からは学生たちが放り投げる火炎瓶や頭大の石、さらにはガソリンや塩酸までが降ってきた。

 昭和44年10月4日、大阪市住吉区の大阪市立大学。1月の東大安田講堂攻防戦から約9カ月。各地に広がった全共闘と呼ばれる学生たちの反乱はとどまるところを知らず、この日朝、全国の公立大で唯一「紛争重症校」と呼ばれた市大当局からも、大阪府警本部に機動隊の突入が要請された。

 「あいつらと僕らはほとんど同じ世代。こちら側にすれば、親のすねをかじって好き放題しやがってという思いは、確かにあった」。この日、最前線でバリケードに突入した元府警機動隊員の宮崎二郎さん(66)=仮名=は振り返る。当時26歳。家庭の事情から大学進学をあきらめ、強豪の府警ラグビー部に入りたいと、故郷を離れて警察官になった。ともに突入した同僚も、ほとんどが学生たちと同じ20代だった。

 大半のバリケードは午前のうちに撤去されたものの、最後に残った本館時計塔の上の「トリデ小屋」への突入は難を極めた。地上28メートル。机やイスを排除しながら塔内部の狭い階段を登るも、頭上からありとあらゆるものが降ってくる。

 一方で、当時の日本は高度成長期のまっただ中にあり、43年にはGNP(国民総生産)が初めて世界第2位となった。プロ野球巨人軍がV9を猛進し、後楽園や甲子園球場は常に満員。旅行やゴルフもブームになり、多くの人々は「昭和元禄」の時代を謳歌(おうか)していた。そうした中でバリケードにこもった学生たちは、周囲からどのような視線を向けられていたのか。

 全共闘から「敵」と見なされていた機動隊では、投石などで死傷した隊員も少なくなかった。ある機動隊OBは「結局は、社会を知らないお坊ちゃまたちの闘争だった」と嫌悪感をあらわにする。同世代の“労働者”からみれば、全共闘運動は「恵まれた連中のお遊び」に映っていたかもしれない。

 一方、別の元機動隊員は「『授業料値上げ反対』『大学の組織改革』なんていう言葉は自分も同調できた」とし、さらにこう述べた。「当初は世間も学生に好意的で、われわれが市民から罵声(ばせい)を浴びせられることもあった。ただ、運動が過激になるにつれ、彼らの味方は少なくなっていった。『大学改革』を叫ぶ者たちがなぜ、一足飛びに『世界革命』などと言い出すのか。その違和感は市民も感じ取っていたと思う」

 「あちら側」

 大阪市大では5人の学生が逮捕され、約8カ月に及んだバリケード封鎖は解除された。その後も大学当局は8日間にわたって機動隊の駐留を要請、学生の学内立ち入りが禁止になる異例の事態となった。当時大学側が市議会で明らかにしたところによると、一連の騒動による建物や備品などの損害は約1億5000万円。ラーメン1杯50円の時代を考えると、ダメージは相当な規模だったといえる。

 学生たちに一定の“理解”を示した宮崎さんですら、いまだ許せない光景があるという。バリケード内の片隅で、図書館の本を燃やした形跡を見つけたときだ。季節は秋。夜は冷え込み、籠城(ろうじょう)生活も辛かったのかもしれないが、学生が本を燃やして暖をとったことに無性に腹が立った。

 「われわれだって社会に不満がないわけではない。ただ、この社会には勉強したくてもできない奴だってたくさんいるんや。寒さぐらい我慢できない連中が、何が闘争だ、革命だ。甘ったれるのもいいかげんにしろと言いたかった」

 その後も、数多くのキャンパスで同世代と対峙(たいじ)した宮崎さん。仮に警察官にならず、大学へ進学していたとしても、「自分が『あちら側』の人間になっていたかもしれないと思ったことは一度もない」という。

 全共闘は当時、反抗には理由があるといった「造反有理」という言葉を好んで使った。彼らには彼らなりの闘争の論理があったからだ。だが、その主張は世代や思想が異なる人たちにどこまで響いていたのか。第2部はバリケードの外から学生たちを見つめた人に焦点をあてる。

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【さらば革命的世代】第2部(2)当初は理ありと感じた 佐々淳行さんが見た「象牙の塔」 2008.9.4

 ロッカーに2億円

 「逮捕された全共闘メンバーの中には国会議員の息子さんや娘さん、警察の最高幹部の親戚なんて人もいた。特別扱いはしなかったが、親御さんはずいぶんお困りだったと思いますよ」

 元内閣安全保障室長の佐々淳行さん(77)は学生運動の収拾に最前線であたった警察幹部の一人だ。昭和44年1月、警視庁警備1課長として38歳で安田講堂事件の攻防戦を指揮。47年の連合赤軍によるあさま山荘事件も担当するなど、警察側から見た歴史の証言者である。

 意外にも思えるが、警察幹部らは当初、学生たちの行動に理解を示していたという。「反抗する学生さんにも言い分があるのではないか」。会議でそういった意見が出るほど、当時の大学の腐敗は傍目から見ても深刻だった。

 まさに「象牙の塔」という言葉がぴったりで、官尊民卑や権威主義、官僚主義は当たり前。医学部教授は大名行列のように助教授や助手らをひきつれて回診し、無給助手が怒るのも無理はなかった。「アリストテレス以降は専門外で分かりません」と開きなおる政治学者もいた。

 昭和43年春、日本大学の使途不明金問題が明らかになり、佐々さんもあきれかえる“事件”が起きた。不明金の捜査に絡む家宅捜索で、日大本部のロッカーから2億円もの札束が見つかった。ある教授の個人資産で、事情を聴くと学生に1点1万円で点数を売っていたと告白した。及第点に3点足りないと3万円。裏口入学の相場は800万円。そんな仕組みがまかり通っていたという。

 佐々さんは「2億円なんて札束は初めて見た。洋服のロッカーがいっぱいになるぐらいだった。私だって義憤を感じた」と話し、今だからこそ話せる当時の正直な心境を吐露した。「日大でね、秋田明大(日大全共闘議長)の演説に心を打たれてね…。言っているとおりだったんだよ。彼らの怒りは当たり前だったんだよ」

 疑似戦争体験

 昭和5年生まれで、全共闘世代とは一回り以上違う佐々さんは29年に東大法学部卒業後、現在の警察庁に入庁した。学生時代のキャンパスは、すでに25年の朝鮮戦争をきっかけに「左翼闘士」らが跋扈(ばっこ)していたが、佐々さん自身が運動に入ることはなかった。「国民の税金で勉強させてもらいながら何を偉そうに」という思いがあったからだ。

 一方で、年の離れた弟のような全共闘学生に対しては一定の理解を示しつつも、「文明批評的にみると、昭和ヒトケタ生まれの自分たちと昭和20年代生まれの彼らの間には、埋めがたい世代間の亀裂があった」とも指摘する。

 「戦前、戦中、戦後を死にものぐるいで生き残ったわれわれと比べ、彼らは、もの心ついたときには経済復興が済み、自由と平和が保障されていた。仮にすべての人間の深層心理に闘争本能というものが潜んでいるとするならば、彼らの行動は疑似戦争体験のようにも思えた」

 激しい攻防となった安田講堂事件にしても、佐々さんによれば、逮捕された計633人の学生のうち東大生はわずか38人で全体のわずか6%。残りは他大学から駆けつけた「外人部隊」だった。東大全共闘のメンバーの多くは「勢力温存」を理由に学外に逃げ出していたという。

 こうした見方をめぐっては全共闘OB側から反論もあるが、佐々さんは「まるで敵前逃亡だと思った。当事者でありながら、いざとなると日和る要領のよさと精神的なひ弱さも彼らの世代の特徴だ」と話し、次のように述べた。「闘っている全共闘には理ありと感じていたが、問題はその後現在に至るまでの総括です。沈黙している人はまだ良いが、自分のことを棚にあげて『いまどきの若者は』なんて言うのは許せない。誰がどうだったと明らかにするつもりはないが、何も総括していないのに、いっちょ前のことを言うなと思うんです」

 頼りないお父さん

 佐々さんは、紛争を通じて逮捕したり動向調査をした闘士たちが、その後、保守政治家や評論家などに転身した姿をテレビなどで見かけることがある。経済人や、警察庁を含む中央官僚にも全共闘出身者がいるという。彼らに対し、佐々さんは「早く引退しろ」と手厳しい。

 「総括もできないようでは、リーダーシップもとれない。早く次の世代にバトンタッチすべきだ。若い世代もとっくに見抜いていると思う」

 そして、昨年の東京都知事選を例に出し、昭和ヒトケタ世代の石原慎太郎都知事(75)と対抗馬だった全共闘世代の浅野史郎元宮城県知事(60)を両世代の代表と見立て、2人の勝敗を分けた要因を「若者の支持」と分析した。

 「若い世代の全共闘世代への不信感が選挙結果にあらわれた。総括できない頼りないお父さんではなく、いざというときに頼れるおじいちゃんを選んだということだと思うのです」

 こうした「世代論」には反論もあるだろう。ただ、一時はアジ演説に「心を打たれた」とまで言った元警察官僚が、いまなお厳しい視線を彼らに送るのは、紛争を通じて部下を亡くしたからでもある。それは、警察全体が警備態勢を大きく方針転換させるきっかけにもなった。

 事件はちょうど40年前の昭和43年9月、因縁の日本大学で起きた。


【さらば革命的世代】第2部(3)機動隊員にも妻子がある 警察の方針転換 2008.9.11

 ■ヘルメットが割れた

 「正視に堪えない…」。昭和43年10月2日、東京都港区の青山葬儀所。当時、警視庁外事1課長だった元内閣安全保障室長の佐々淳行さん(77)は、喪章をつけたまま、うつむくしかなった。棺の近くには6歳と4歳になる2人の遺児が、事態を飲み込めずに無邪気な表情で座り、その横で31歳の未亡人が嗚咽(おえつ)していた。

 夫は、警視庁第5機動隊分隊長、西条秀雄巡査部長=当時(34)。前月4日未明、日本大学経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動し、校舎4階付近から落とされた人頭ほどのコンクリートの塊が頭を直撃、頭蓋骨骨折で意識不明のまま25日後に死亡した。大学紛争による警察官の殉職は初めてだった。

 コンクリートの重さは約16キロ。かぶっていたヘルメットが二つに割れるほどの威力だったという。

 「あんなもの落とされたら死ぬに決まってるだろう」「機動隊員だって妻子がいるんだぞ」。怒りに震える参列者たち。2階級特進で警部となった西条さんの遺影を前に、警視庁幹部らは警備態勢を大転換する方針を固めた。「身内意識」の強い警察にとって、事件はそれほどの衝撃だった。

 当時の公安1課長、村上健警視正はその日の記者会見で憤りをあらわにした。「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」

 同年11月から警備1課長に就任した佐々さんは「この一件で警察は態度変えた」と振り返りつつも、「それでも警察の役目は相手を生かして逮捕して裁判にかけることにある。死者を出さない警備をせねばならず、結果的にわれわれの側が大きな被害を受けることになった」と話す。

 その後も44年4月に岡山大で26歳の巡査が側頭部に投石を受けて死亡するなど、学生対機動隊の衝突は激化する一方だった。警察側の負傷者のなかには、失明した人や生涯残るほどの障害を身体に残した人もいた。当時の機動隊員たちにとって、「死」は身近な存在になっていた。

 ■催涙ガス

 「なぜ暴力学生を徹底的に取り締まらないのか」「手ぬるいのではないか」

 当時、警察には市民からのそうした意見が相次いだという。一方で、この時代の大学進学率はまだ十数%。キャンパスで暴れる彼らには、次代を担う「エリート」という側面もあった。

 ある警察OBは「当時はまだ彼らを『学生さん』と呼び、『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいた。全員を一網打尽に逮捕してしまえば10年後、20年後の日本はどうなるのかという危惧もあった」。

 実際、デモ隊が機動隊を一時的に押し込む場面はあったものの、双方の力の差は歴然としていた。当初警察は、集まった学生たちを逮捕して拘束するのではなく、「その場から解散させること」に重きをおいていたという。衝突して混乱すれば、多数のけが人が出るという配慮からだった。

 だが、西条さんの殉職以降は、警察の強大な力で学生を押さえ込む作戦へと変わった。例えば、50人規模の集会さえ、事前に情報を収集して、その10倍以上の機動隊を投入、暴れるまもなく押さえ込む。違法行為があれば容赦なく現行犯逮捕する。

 それでも攻撃の手をゆるめない学生に対しては、催涙ガス弾の大量使用を許可した。中には「やりすぎではないか」という批判もあったが、佐々さんは当時、「近接戦で血をみるより、催涙ガスで涙をみる方がましだ」と、その使用を強く訴えたという。「本当は学生よりも警察の方が圧倒的に強い。殴り合ったら絶対におれたちが勝つ。温情といったらなんだけど、催涙ガスはむしろ、学生の命を守るためという意味もあった」

 ■天皇陛下のお言葉

 以降、機動隊と学生の「力関係」は大きく変わった。43年には学生の逮捕者約5000人に対し、機動隊の負傷者は約4000人だったが、翌44年には逮捕者が約9000人と倍近くに増えた半面、機動隊の負傷者は約2200人に半減したという。

 佐々さんが前線で指揮した同年1月の安田講堂の攻防戦でも催涙ガスは大量に使用された。事態の収拾からしばらくして、天皇陛下へのご説明に参内した当時の秦野章警視総監は、陛下から最初に「死者は出たか」とご質問を受けた。

 「学生、機動隊の双方に死者はございません」と答えると、陛下は「それは何よりであった」と述べられた。秦野総監はこの話を、「まるで兄弟げんかをたしなめるようなおっしゃり方だったよ」と佐々さんに伝えたという。

 佐々さんは言う。「われわれは陛下から最高のおほめをいただいた。それは部下たちにもしっかりと伝えた。やはり、われわれはプロなんです。隊員の命だけでなく、学生たちの命も預かっていることを忘れてはならないとあらためて思った。彼らにも親や兄弟、恋人がいるんですから…」

 ただ、そうした大人たちの思いとは裏腹に、大学紛争はその後、「内ゲバ」という殺し合いに発展し、あさま山荘事件を起こした連合赤軍は「総括」の名のもと、次々と仲間を殺害した。

 一方、西条さんの死をめぐる裁判では、日大生ら6被告が傷害致死などの罪に問われたが、「彼らが現場にいたとの証明がない」として全員の無罪が確定。真相はいまだ明らかになっていない。


【さらば革命的世代】第2部(4)“弟”に悪いことをした。全学連世代の西部邁さん 2008.9.18

 ■大人の化けの皮

 「どの時代でも青年が暴れると、それを見た少年は『抵抗の正義』を感じ取って興奮する。僕からみると全共闘世代はちょうど弟のような世代。僕らが彼らの反体制気分を扇動をしたと考えると、悪いことをしたかもしれない」

 昭和40年代前半の全共闘運動より10年ほど前に起きた全学連運動。そのリーダーとして東大在学中に教養学部自治会委員長を務め、60年安保を闘った西部邁さん(69)。現在では保守論客として知られるが、当時は「左翼活動家」だった。その西部さんも中高生時代は、日本共産党の一部などひと世代上の若者たちが行った武装闘争に刺激を受けていたという。

 小学1年生で終戦を迎えた西部さんは戦後教育の「一期生」でもあったが、民主主義やヒューマニズムといった教えを、幼心にも「きれい事だ」と感じていた。敗戦を境に、まるで手のひらを返したように思想を変え、戦勝国の米国になびく大人たちの姿が信用できなかったからだ。

 「勝者への屈従の姿勢ですよ。その化けの皮をひっぺがえしてやりたいという衝動があった。だからこそ、反権力行動に刺激を受けたのでしょう」

 西部さんが東大に入学したのは33年。自ら自治会室のドアをたたき、全学連に飛び込んだ。全学連中央執行委員、都学連副委員長として活動する中で逮捕、起訴され、7年近い法廷闘争も繰り広げた。

 「ぼくはマルクスなんて何一つ勉強しないでやっていた。もちろん、斜め読みぐらいはしたが、本格的に読んだのは、逮捕されたあと拘置所の中です。そこで資本論を読んでみて、改めてくだらないなと思ったんですよ」

 ■スーパーエリート

 西部さんの学生時代の大学進学率は8%程度。全共闘時代の15%からみても半分であり、大学進学者がより一層限られた時代だった。全共闘運動にもエリート層の反乱という側面はあったが、全学連運動は、それに輪をかけた「スーパーエリート」たちが起こした行動だったともいえる。

 全学連には、後に中曽根内閣のブレーンとなる香山健一元学習院大教授(故人)や経済学者の青木昌彦スタンフォード大名誉教授(70)らもいた。西部さんを含め後に保守派に転じた人も少なくないが、全共闘世代に比べて、過去についてあけすけに語る人が多い。それは、スーパーエリートとして、一つの時代に対する責任を持っているからなのか。あるいは、自らの総括がきちんとできているからなのか。

 マルクスについて「くだらない」と述べた西部さんは後者に近い。拘置所から出た西部さんはメンバーの前で、わざわざ「学生運動をやめる。戦線逃亡する」と宣言した。怒った仲間もいたが、「これから何をするんだ」と問われると、「勉強するよ」とだけ答え、その場を去ったという。

 西部さんは当時の心境について「最前線でやった僕が法律的に裁判にかけられるということで、すでに帳尻は合っていた。だからやめた」と話し、その真意をこう述べた。

 「例えば全共闘では、仲間が半身不随になったり、逮捕されて人生がめちゃくちゃになるようなことがあった。もし、自分が運動に引き入れた仲間がそのような立場になったら、僕は逆に運動を続けざるをえなくなっていたと思う。幸い僕が逮捕されたことで、組織も弱体化し、すべてが終わった。後はもう、自分の裁判の心配だけをしていればよかった」

 ■団塊ではなく砂山

 西部さんら全学連の象徴的な行動として語られるのが昭和35年6月15日の安保反対をめぐる国会構内への突入だ。デモ隊と警官隊がもみあいになる中で、東大文学部3年生の樺美智子さん=当時(22)=が死亡、その名前は安保のヒロインとして刻まれる。西部さんより一つ年上だった彼女は、西部さんが東大入学後に初めて参加したデモで、共産主義の歴史などを語ってくれた人でもあった。

 樺さんが亡くなった日の統一行動には、全国各地で労働者らを含む約580万人が参加し、約11万人もが国会への請願デモを行ったという。それは、全共闘が学生中心の闘争だったのに対し、全学連が市民への広がりを持つ運動だったことを示す一つの数字でもある。

 全共闘の高揚期、大学院生として研究生活に入っていた西部さんは「すでに好意も反発もなかった。野次馬としては、どんどんやれという感じで見ていた」と話すが、全共闘世代そのものについては批判的だ。

 「彼らは団塊の世代といわれるが、僕は風がふけばすぐ形が変わる『砂山世代』だと思っている。革命を叫んでおきながら、エコノミックアニマルになったり、市民運動家になったり。雰囲気にあわせて姿かたちを変える世代だと思う。つまり典型的な『マス(大衆)』なんだよ」

 一時はテレビの討論番組などに出演することが多かった西部さん。ある番組で、司会者から「樺さんは西部さんの恋人だったそうです」と冷やかされたことがある。西部さんは生放送中にもかかわらず激怒してその場を退席し、スタジオは騒然となった。

 「もし、番組を樺さんのご遺族やその関係者が見ていたらどんな気分になるか。いたたまれなくなってああいう行動にでるしかなかったのです」

 それもまた、西部さんなりの一つのけじめのつけ方だった。


【さらば革命的世代】第2部(5)「民青」の宮崎学さん 「まるでファッションだ」 2008.9.25

 ■近親憎悪

 グリコ・森永事件の重要参考人「キツネ目の男」に警察当局から疑われて注目された作家の宮崎学さん(62)は早稲田大時代の昭和40年代前半、全共闘のような「新左翼」ではなく、「旧左翼」の側から大学紛争にかかわっていた。

 日本共産党(日共)の学生組織「民主青年同盟(民青)」の秘密ゲバルト部隊「あかつき行動隊」。当時、日共は武装闘争路線を放棄していたが、「新左翼の暴力には暴力で対抗しなければ党勢に影響する」との正当防衛を理由に結成された。突然現れたゲバルト部隊に驚いた全共闘が、当時日共の機関誌などを印刷していた「あかつき印刷」の労働者集団と勘違いしたのが名の由来だという。宮崎さんは、その隊長だった。

 「ヤクザの世界と一緒やな。全く別織組との抗争は簡単に手打ちできるが、同じ組の中での内部抗争はたちが悪い。左翼も新左翼も根っこの部分では同じであり、だからこそ近親憎悪の感情から対立が深まっていった」

 初めて行動隊に動員がかかったのは43年9月、全学封鎖が進む東大だった。バリケードを築いて「大学解体」を主張する東大全共闘を排除するためだ。「非暴力で民主的な大学」を目指したはずの民青も安田講堂事件までの5カ月間、全共闘学生たちと同様にゲバ棒を振り回した。当時、民青の中にも「暴力」に飢えていた学生が多かったという。

 宮崎さんは「日共は選挙の票がほしいがために『あれやっちゃいかん』『これもあかん』という制約が多すぎた。一方で僕らがなんぼデモで人集めても、赤旗の集金を多く集めた人のほうが評価される。ものすごく官僚的な組織だった」

 ただ、官僚的であったがゆえに、行動隊は数千人規模の全共闘相手に200〜500人で対峙し、練られた闘争計画と結束力で圧倒することもあった。

 ■怖くなかった

 京都の暴力団組長の息子として育った宮崎さんを学生運動に導いたのは高校時代の家庭教師だった。左翼思想を押しつけるわけではなく、「教科書なんか読まなくていい」と、フランス革命をテーマにした岩波新書を勧めた。当時の彼の言葉を宮崎さんは今でも覚えているという。

 「革命はいつの時代にも起こる。人間は革命の時に自分はどこに身を置くか、必ず問われる。その時に悔いのないようにしろ」

 多くの学生が全共闘に流れる中で民青に入ったのも彼の影響が大きかった。「日共の戦前戦後の歴史を知れば、彼らのほうが相当過激な運動をやっていたことがわかる。当時は逆に全共闘が時代遅れのような気がした。まるでファッションのようだと冷めた目で見ていた」

 幼少期から地域の不良グループと“抗争”を繰り返していたという宮崎さん。全共闘との対立でも「危ない局面は何度かあったが、子供のころのケンカのほうが怖かった。ナイフ持ったヤツがごろごろしていたからな。全共闘は無謀な日本軍のインパール作戦みたいに突っ込んでくるだけで怖くはなかった」

 ただ、日共中央は「正当防衛」以上の暴力は決して認めず44年3月、早大の卒業式を妨害した民青の一部学生が相次いで党籍を除名された。宮崎さんはその中に含まれていなかったが、「あほらしくなって」党から離れていった。

 ■小泉の“革命”

 作家として世に出るまでは週刊誌のフリー記者や実家の解体業などを続けてきた宮崎さん。サラリーマン経験が一度もないのは、多くの全共闘学生が、何の後ろめたさも持たずに一流企業に就職していった変わり身の早さへのアンチテーゼでもあったという。

 宮崎さんは「運動の根底には、個人の解放はもちろん、大学や国家、日共も含めた官僚主義に対する反発があったはずだ。学生時代のパワーを別の方向に爆発させれば、もう少しましな世の中になっていたと思う。僕は、彼らがやったことは無責任に暴れただけの『壮大なゼロ』だったと今も思っている」。

 一方で、自身も所属した日共の路線については「選挙で革命するというのはやはりぬるい思想だった。それは当時から思っていた」としながらも、最近になって、その考え方を揺るがす出来事がおきたという。

 「小泉純一郎首相の郵政選挙ですよ。郵政民営化とか規制緩和とか、シンボリックな旗を立てて、賛成しないものは排除する。そのやり方に国民が酔いしれて、ああいう結果になった。われわれなり、全共闘なりがやりたかったのは、これに近いものだったのではないか。学生運動はその方法論をわかっていてできなかった。そして初老に近づいてから、まんまと小泉革命に一票を投じてしまった」

 常に反権力的な発言で物議を醸すことが多い宮崎さん。ただ、「今の日本は『保守』の側から見てもおかしいのではないか」と話し、こう指摘した。

 「かつて全共闘は新左翼としてこの国を左から壊そうとしたが、小泉政権以降は新保守たちが、右から壊そうとしている。町内会とか、青年団とか、地域から中間的な組織がどんどんなくなっている。かつての保守主義が持っていた懐の深さのようなものが、失われつつあるような気がする」


【さらば革命的世代】第2部(6)京大応援団長の青春 対立の果てに見たもの 2008.10.9

 新入部員ゼロ

 昭和44年1月の安田講堂事件を受けて、この年、東京大学の入試は中止になった。最難関は京都大学。東大志願者は浪人して再び東大を目指すか、進路を変えるか悩み、受験界を巻き込む大混乱になった。

 その新入生たちが入学した4月、京大2年に進級した阿辻豊さん(59)はあぜんとした。後の京大応援団長である。「やっと後輩ができる」。そう思っていた矢先に、新入部員が1人も入らなかったからだ。

 「反体制こそがすべて」という時代のムードもあり、体育会系で体制側の臭いがする応援団は敬遠されたのだろう。とはいえ、部員ゼロは部の存廃にかかわる重大事である。阿辻さんは新入生をつかまえては勧誘したが、無駄だった。

 大阪府立北野高校から1浪後、京大法学部に入学した阿辻さんは、高校時代も応援団に入っていたため、熱心な誘いを受けて大学でも同じ道に進んだ。全共闘学生らと対峙(たいじ)することも多かったが、衝突ばかりでもなかったという。

 「全共闘の連中と飲みに行き、応援歌やインターナショナルを一緒に歌ったこともある。僕は思想的には三島由紀夫が好きだったけど、議論のためにとマルクスや吉本隆明も懸命に読んだものです」

 学生運動に加わらないのであれば、「なぜ自身はノンポリなのか」、応援団であるならば、「なぜ、自分は詰め襟を着て応援しているのか」を“理論武装”せねばならなかった時代。ただ、議論はみなうまくなったものの、応援団員そのものは減る一方だった。阿辻さんの入部当初は70人ほどいた大所帯も、1年後には25人に減っていた。

 「大学の私兵」

 全共闘は、大学ごとに結成されていただけで、きちんとした組織機構があったわけでも、加入脱退の手続きがあるわけでもなかった。同じ京都にある立命館大で運動に参加していた男性(59)は「『オレは全共闘』と宣言すればメンバーになれるし、『やめた』といえば、それで終わりだった。集会に出たかと思えば、次の日は体育会で猛練習という学生もいた」といい、中心的な活動家はともかく、その境界はあいまいな部分もあったという。

 阿辻さんも「みんな最初から考えて行動していたわけではなく、寮の先輩から『おい、やれよ』といわれ『オッス』みたいなことがきっかけだった。それは体育会でも学生運動でも一緒だったと思う」。

 ただ、いったん道が分かれてしまえばそれぞれの対立はどうしても激しくなり、大学当局側についた体育会系学生と全共闘学生との争いが目立つ大学は多かった。

 日大全共闘のあるOBは「体育会の連中がバリケードに攻めてきて日本刀を振り回したこともあった。体育会や応援団は大学当局の私兵のようだった」と今もなお苦々しく語り、「彼らは活動費を大学に依存していたし、大学職員に体育会の先輩が多かったということもあった。体育会的なタテ社会の構造が大学機構の中にも貫かれていた」と振り返った。

 市役所で見たもの

 逆に“体育会的”な視点で彼らを見ていた阿辻さんには忘れられない出来事がある。ゼミの指導教授だった国際政治学者の高坂正堯教授(故人)の研究室が破壊されたときのことだ。

 学生たちは当時、沖縄国際海洋博のブレーンを務めていた高坂教授に「資本主義、大企業を喜ばせるに過ぎない」などと主張して公開討論を要求、応じた教授は、時計台広場でマイクを持って討論に臨み、堂々と彼らを論破した。ところが、その翌日、学生らはゲバ棒を手に研究室を襲撃、使い物にならなくなった部屋を見て、高坂教授は「卑怯(ひきょう)千万」と悔しそうにつぶやいたという。

 阿辻さんは「全共闘は議論することが大事としていたのではなかったのか。この一件はさすがに怒りに震えた」と話し、さらにこう続けた。

 「彼らは当時、『既成の概念、既存の権威を破壊しないことには前に進めない』と繰り返していた。だが彼らが壊したのは、そんな大層なものだったのか。私はむしろ応援団長として、旧制三高や京大の寮歌のような身近な伝統を守りたかった」

 その後も応援団員が増えることはなく、阿辻さんは内定していた大手都銀への就職を取りやめ、あえて留年した。団の行く末が心配だったからだ。OBらを訪ねて活動資金を調達し、部員勧誘に走り回った。やがて学生運動が下火になり始めると、何人かの後輩もできた。活動を軌道に乗せたところで卒業し、就職先に大阪市役所を選んだ。

 庁内には、キャンパスでヘルメットをかぶって暴れていた何人かの元活動家たちがいた。スーツを着込み、きまじめに稟議書を書き上げる役人たちの姿がそこにあった。ただ、今春の退職を迎えるまで、あえて周囲に「あいつは昔…」といった話はしなかった。その理由について、阿辻さんは「彼ら自身も口をつぐんでいたから」と話し、次のように述べた。

 「彼らは職場でも、飲み屋でも決して言わない。おそらく家族にも言っていない。一貫して黙っているのなら、それはひとつの生き方だと思っている。ただ、体育会的な生き方をしてきた僕からみれば、隠さなくてはならない人生というのは健康的じゃないような気もするんです」


【さらば革命的世代】第2部(7)「あいつらがナショナリズムを代行した」新右翼の鈴木邦男さん 2008.10.18

 弱小組織のリーダー

 「全共闘の連中には数え切れないほど殴られた。ただ、正直あこがれる部分もあった」

 全共闘の先駆けともいわれる早大闘争がピークを迎えた昭和41年、後に新右翼団体「一水会」を創設する鈴木邦男さん(65)は政経学部の3年生だった。新左翼系の学生集会が数千人規模で行われるのを尻目に、わずか20人程度で細々と気勢を上げた新右翼グループを率いていた。

 「左翼全盛の時代で右翼学生は1%もいなかった。議論の場はあったが、論破もされたし、暴力もふるわれた」

 母親が信奉していた宗教団体「生長の家」の影響で、愛国心を大切にしたいという意識が強かったという鈴木さんは「そうでなければ考えもせずに、全共闘の側に加わっていたと思う。右翼か左翼かなんて最初の人間関係がきっかけになるものです」

 税務署に勤める父親の転勤で、幼少期は東北地方を転々として過ごし「高校三年生」が大ヒットした昭和38年、早大に入学。政経学部を卒業後、大学院を経て今度は教育学部に入った。都合8年の学生生活を送ったのは学生運動を続けるためだった。

 “弱小勢力”の指導者として、全共闘運動の誕生から成長期を目の当たりにした鈴木さんは「バリケードの外から見ても本当に革命が起きるのではないかと思うほどの盛り上がりだった。それはたまらないと思った」とした上で、こう付け加えた。「今や愛国心や憲法改正を語る人が多い世の中になった。だがみな安全圏で言っているに過ぎない。当時は本当に命がけだった」

 三島由紀夫

 安田講堂事件から4カ月後の昭和44年5月13日。定員約500人の東大教養学部900番教室は、すし詰め状態だった。東大全共闘が主催する討論会にノーベル文学賞候補といわれた作家、三島由紀夫さんが登場したのだ。

 右翼思想家としても知られていた三島さんを全共闘があえて講師に招いたのは「つるし上げて論破してやろう」という狙いがあったとされるが、三島さんは臆することなく“敵陣”に乗り込んだ。

 激しいヤジが飛ぶ中、黒い半袖シャツを着た三島さんはほおを紅潮させながらやや早口で思想を語り学生たちを圧倒した。そして「君たちが一言、天皇陛下と言ってくれたら、手をつないでも良いのに」と訴え、討論をこう締めくくった。「私は諸君の熱情だけは信じます」

 当時、全共闘側から論戦を挑んだ一人で評論家の小阪修平さん(故人)は著書「思想としての全共闘世代」の中で、三島さんの勇気をたたえてこう述べている。「たぶんぼくらは彼のなかに戦後民主主義的知識人や大学当局がもたない誠実さをみていたのだ」

 三島さんが自衛隊市ケ谷駐屯地で壮絶な割腹自殺を遂げるのは翌45年11月。この年からサンケイ新聞(現産経新聞)の販売局で働いていた鈴木さんはあまりの衝撃に仕事に手がつかなったという。

 「正直、学生時代は三島さんのことをたくさんの右翼思想家の1人ぐらいにしか思ってなかったが、あの事件を機に、本物だと思うようになった」

 日本刀で切腹した三島さんは、私兵組織「楯の会」のメンバー、森田必勝(まさかつ)さんの介錯を受け、森田さんもその場で腹を切って死亡した。鈴木さんには、森田さんを学生時代にオルグして右翼の世界に引き込んだ因縁もあった。2人の行動に刺激を受けた鈴木さんは「仕事なんかしている場合じゃない」と退職して、一水会を立ち上げた。

 「三島さんが1人で死んだのなら、ただの自殺。森田の存在があったからこそ、その行動が思想的な行為として意味を持った」

 新左翼と“共倒れ”

 鈴木さんは学生当時、討論やデモを通じて愛国心の強い右翼学生を増やし、「右翼版全共闘」をつくろうと思っていたという。両者の主張は全く正反対だが、その手法は新左翼的ともいえる。鈴木さんは「全共闘はある意味ぼくらの先生だったんです」。

 従来の右翼には、日章旗を掲げ、街宣車からけたたましい軍歌を鳴らすイメージもあった。鈴木さんの発想は斬新だと受け入れられ、一般右翼とは区別して“新右翼”と呼ばれるようになったが、全共闘が下火になるにつれて、「敵」を失った右翼学生も内輪もめを始めて衰退し、結局共倒れのような形になってしまった。

 今、鈴木さんは新左翼と新右翼の間で“共闘関係”が結べるのではないかという期待感を持っている。三島さんの天皇陛下をめぐる発言に代表されるように、共通点もあると感じているからだ。

 そして、かつて新左翼学生らが、米軍の原子力空母の入港阻止闘争を繰り広げていた際、それを見つめていた一般市民が、こう語っていた姿が忘れられないという。「学生たちが太平洋戦争でアメリカに立ち向かって敗れた日本兵とだぶってみえた」

 鈴木さんは、今でもその言葉の意味を繰り返し考えている。「あのとき日本を背負って闘ったのは、全共闘だったのかもしれない。つまり彼らが日本のナショナリズムを代行したのではないかと。右翼がしたかったことをやつらがやったとも思うんです」


【さらば革命的世代】第2部(8)シラケ世代の視線「生身の声を聞かせてほしい」 劇作家 鴻上尚史さん 2008.10.25

 ■祭りの後

 機動隊との衝突で意識を失った学生運動の闘士が30年ぶりに突然目覚め、現代の高校2年生として復学する−。全共闘をモチーフにした小説「僕たちの好きだった革命」を描いた劇作家の鴻上尚史さん(50)は団塊世代よりも10歳ほど年下。最初に全共闘を意識したのは高校時代だった。

 「実際に運動が盛んだったころは小学生で記憶もあいまい。高校で学校側を批判する生徒に対して過剰反応する教師をみて、『これは学生運動の影響だな』と思ったのが、全共闘を考えるきっかけでした」

 昭和50年代前半、愛媛の県立高校に通っていた鴻上さんは生徒会長。「柄付き靴下はなぜ禁止か。そんな話ですら教師たちはおびえ、怒っていた。田舎の高校だからたいした反乱もなかったのにね。若者たちにやりこめられた学園紛争時の記憶がよみがえったんでしょう」

 時折組まれる雑誌の全共闘特集をむさぼり読むこともあったが、田舎の高校生が全盛期の雰囲気を感じ取れる資料は少なかった。早大に進学し演劇の世界に入ってからも、学生運動との直接のかかわりはなかったものの、大学当局が学生に強い警戒心を抱いているとは感じていたという。

 「大隈講堂前で芝居のテントを張ろうとしただけで騒ぎになった。大学の管理がとにかく厳しくなっていた。大学生活という点では、祭りのあとのボロボロの状態でしたよ」

 全共闘は後の大学生世代からみれば、はた迷惑な存在であり、鴻上さんは「おいしいところだけもっていった彼らは、時代の熱狂と自分たちの青春が偶然にも一致した幸福かつ不幸な世代だったとも思うんです」

 ■年老いた両親

 鴻上さんら全共闘よりもやや下は「シラケ世代」「新人類」とも呼ばれた。昭和47年のあさま山荘事件をきっかけに学生運動は下火になり、政治的な活動よりも、一種の個人主義に徹した世代である。その背景には、学生運動への失望感と一つの時代が終わった無力感もあったとされる。

 同世代を代表する著名人には作家の村上龍さん(56)や元長野県知事の田中康夫さん(52)、コラムニストの泉麻人さん(52)らがいる。学生時代の70年代はニューミュージックのブームやブランド志向の芽生えもあり、若者の視線が政治よりもカルチャーへと移ったころでもあった。

 当時のキャンパスに紛争の“残り香”はあったものの、結局はセクト間の内ゲバが繰り広げられただけ。学生の間には「学生運動は人殺しとかかわりかねないもの」というイメージすらあったという。

 鴻上さんは「僕らの世代が彼ら全共闘への嫌悪感が一番強いかもしれません」と話すが、最近は考え方が少し変わってきた。

 「全共闘世代の人を年老いた両親を見つめるような気持ちになってきた。人の寿命が200年あれば『まだ許せない』と思うでしょうが、彼らも年齢的に死を考える時期を迎えている。『あなた方はこのまま死んでいいんですか』と思うようになってきたんです」

 ■生身の声

 鴻上さんはいま、全共闘をテーマにした作品を表現することで、彼らの世代にボールを投げているつもりだという。「『実際はおまえが考えているようなもんじゃない』という批判でもいい。彼らから何か打ち返してほしい。もともとは純粋に学園の民主化や平和を願った良質な運動が、セクト防衛などを通して、なぜ相手を傷つける結果になったのかを次の世代に語ってほしいのです」

 ただ、誰もが当時を語れるわけではない。運動全盛期に、本当に学生運動をしたと言える人は、同世代の中でもごく一部であり、鴻上さんは、その周囲の人たちは単にブームに乗っていただけだろうと分析する。

 「今でいうと、インターネットのブログで起こる炎上に一緒に乗って騒ごうといったところかもしれない。彼らに聞いても本質は見えてこない」。では、当時の指導的立場だった人に聞くべきなのか。鴻上さんは「それも違う」という。

 「例えば、戦争文学は一兵卒の語りがあることではじめて豊かになる。『あの作戦はこうすれば勝てた』なんて上官の話は聞きたくないでしょ」と話し、次のように述べた。

 「前線ではいずり回った兵士が『戦地での空腹に耐えかね、遺体を食べようかと誘惑にかられた』と語るような声を聞くと、始めて戦争とは何かが分かる気がします。全共闘からはこうした生身の声が全く聞こえてこないんです」

 彼らが学生運動に入り込んだきっかけは「カッコ良く見られたかった」という正直な気持ちと「戦争は良くない」「大学をなんとかしたい」という純粋な正義感に集約されると、鴻上さんは思っている。ただ、「それらを正しい動機だと言えない環境ができてしまったのは、なぜなのか」。

 そして、全共闘にこだわり続ける理由を「私たち現代人の今につながっているから」と述べた上で、こうしめくくった。 

 「先進国でこんなにビラがまきにくく、こんなに文句が言いにくい国もないでしょう。年金問題がおきても、大きなデモも起きない。信じられますか。あれだけ学生たちが立ち上がった時代があったのに、なぜこんな社会になったのか、それを知りたいのは当然だ思うんです」


【さらば革命的世代】第2部(9)とめてくれるなキャラメルママ 2008.11.1

 背中のいちょう

 《とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く》。この有名なフレーズは、昭和43年秋に行われた東大教養学部の学園祭、駒場祭のポスターに記されたキャッチコピーだ。ポスターを製作したのは当時東大生だった作家の橋本治さん(60)だった。

 東大闘争では、44年1月の安田講堂攻防戦がクローズアップされることが多いが、実際には前年の43年春から数カ月にわたって学生たちが大学を占拠した長期戦だった。駒場祭が行われた時期は、全共闘学生と民青系(日本共産党系)学生の関係が緊迫したころでもあった。双方が全国の大学から応援部隊を呼び寄せてゲバ棒などで武装準備し、当時の新聞はその様子を連日報道した。大がかりな衝突がいつ起こるか緊張が高まっていた。

 これを知った東大生の「おっかさん」の中に立ち上がった人たちがいた。関西から上京した9人を含む約20人の母親で、43年11月21日、本郷キャンパスの東大正門前に並び、衝突を避けるよう呼びかけた。

 そして「学生たちの気持ちを和らげよう」と用意した1500個のキャラメルを配り始める。母親の1人は「学生同士が血を流すのを黙ってみてられない」と話したという。

 “子供のけんか”に親が出てきた格好だが、それで事態がおさまるわけでもない。正門前には「どんなことがあっても友情が大事」と書かれた母親たちの垂れ幕が並び、その向こうには「闘争貫徹」などと書かれた学生たちの立て看が乱立していた。着物姿のママたちの行動に、学生たちの視線は冷ややかだったが、奮闘する彼女らを追い出すこともなかった。

 プロレタリアの前に母

 キャラメルママが登場したころはまだ「学生運動=内ゲバ」のイメージはなく「学生が社会問題を考えるのは当たり前」と肯定的な親もいた。43年冬に発売された当時の雑誌「現代の日本」には「娘を全学連に捧げて…」というタイトルで、全共闘学生の母親の手記が掲載されており、その中にお茶の水女子大に通う娘を諭すくだりがある。

 《『学生運動への参加は反対しないが、男子学生のような、暴力的な行動参加には、親として反対する』。夫は抗議運動の意思表示は堂々としたデモだけで十分だから、学園の一部を占拠するような暴力行為はつつしまなければと説いた》

 また、週刊誌「女性セブン」44年11月5日号には「この赤軍派女子学生とその母の10月21日」と題した特集で、親子のやりとりを紹介している。

 《23歳の赤軍派女子学生の娘に母は「あなたたちが、いくらゲバ棒ふるってみたって、革命なんか起こりっこないわよ」。娘は「お母さんだって、プロレタリアでしょ」と応えるが「あたしは、プロレタリアより前に、母親なのよ」と切り返す》

 子供の行動に一定の理解を示しつつも、不安な気持ちで見守る親の様子がうかがえる。

 40年代に高校教師をしていたという80代の女性は、教え子が次々と学生運動にのめり込んだのを覚えている。「過激なことをしないかと心配したが、実際にのめり込んだのは、高校時代は勉強ができたおとなしい子たち。真面目一辺倒に育てるのも善しあしだと思ったものです」。

 実家住所が新聞掲載

 もちろん、学生たちにも「できるなら親に心配はかけたくない」という思いはあった。関西の中堅私大に通っていた元全共闘の男性(63)は、逮捕されて新聞記事に掲載されたことがある。当時、実態は知人宅を転々としており“住所不定”だったが、記事には本名とともに実家の住所が地番まで掲載された。

 「名前はまではと思っていたが、実家の住所は痛かった。親も学生運動をするのは仕方がないと言っていたが、新聞沙汰になるとは思っておらず、相当ショックを受けていたようだ」

 首都圏の私大の元全共闘メンバー(60)は商店を経営していた父親から「学生時分はどれだけ好きなことをしても良いが、学校を出たら必ず家を継ぐこと」と口を酸っぱくして言われていた。すんなりと親の跡を継ぎたくないと思っていたが、「結局は親のコネで取引先に入社してその後、商店をついで二代目社長になった。好き放題してきただけに、私ができる親孝行は跡を継ぐぐらいのもんだと思った」

 後に赤軍派に合流した大阪市内の男性(56)は当時高校生。親に黙ってデモに参加したのをきっかけにのめり込み、バリケードで寝起きしていた。時々、着替えを取りに実家に返ると母親は心配そうだったが、「やめろ」とは言わず「何も矢面に立たなくても」と諭されたという。

 母親はすでに亡くなったが、苦労をかけたと思っている。実家近くに住んでいるからか、40年近くたった今でも、近所の人から「あのときは、お母さんにずいぶん心配かけて…」と言われることがあるという。この母親と同様、明治・大正生まれの全共闘世代の親たちの多くは、すでに鬼籍に入った。激しい戦火をくぐりぬけてきたこの世代にとって、息子や娘たちの“闘争”は、いまわの際でどのように“総括”されたのだろうか。


【さらば革命的世代】第2部(10)あのころ私は不愉快だった 2008.11.8

 古本屋に市大の本

 大阪市立大学の文学部教授会は昭和44年春、学部長を補佐する評議員に、教授になったばかりの歴史学者、直木孝次郎さん(89)=現大阪市大名誉教授=を選んだ。当時50歳。「学生との対応は長期戦。若手が担当した方がよい」というのが理由だった。

 教授会に学生たちがなだれ込んだのは、その直後だった。「教授会の予算を公開せよ」「傍聴を許可しろ」。騒ぎは深夜になっても収まらず直木さんは、時計の針が評議員の任期が始まる4月1日午前0時にあわせ、前任教授に代わって交渉の席に着いた。

 「殺気立つ学生たちをなだめるだけで精いっぱいだった。予算公開ぐらいは譲歩してもよいと思っていたが、とても話し合いをする雰囲気ではなかった」

 その約10年前、助教授だった直木さんは第1次安保闘争で学生たちと手を取り合って反戦運動をした経験があった。若者たちへの理解は深いほうだと思っていただけにショックは大きかったという。

 6月には、学部長が体調を崩し、学部長代理として交渉の最前線に立った。当時は「大学の自治」を守るため、警察の力に頼りたくないと考える教授も多かったが、理学部の薬品倉庫から劇薬が持ち出されたことが発覚。「学外に示しがつかない」と、機動隊の導入に踏み切った。

 封鎖が解かれ、研究室に戻ると、室内は水浸しになっていた。その後、大阪市内の古本屋に「大阪市大図書館」と押印された書物が何冊も出回っていたのを知った。「学生運動は堕落して泥棒行為まであったのです」。進歩的な立場を取ってきた直木さんですら、事態の深刻さに嘆くしかなかった。

 只今、学生を教育中

 大学教授にとっての学生運動は、対立ばかりでもなかった。直木さんのように当初は、反発を「理解できる」と思っていた人もおり、学生とともに行動をしたり、大学当局の姿勢に抗議して辞任したりする教授もいた。

 学生たちの中にも、硬直化したアカデミズムにとらわれず、「学問とは何か」を問い直そうと考える者もいた。当時、各地の大学のバリケードの中では、自らカリキュラムを作り、講師を招くなどした「自主講座」も開かれた。別の私立大学の元闘士は「大教室で毎年同じ内容の講義を聴くのではなく、自分たちで何を学ぶかを議論したことは新鮮だった」と振り返る。

 気骨のある教授には学生たちも一目置いた。例えば、後に東大総長となった故・林健太郎文学部教授(当時)。43年11月、50代半ばで、大衆団交に8日間計173時間もつきあわされ、ドクターストップで病院搬送される騒ぎになった。長時間にわたる軟禁状態にも妥協の姿勢を見せず、途中、警察を入れる救出作戦も検討されたが、「只今、学生を教育中」と書いたメモをさし出しただけだったという。

 思い出の中で…

 大学紛争時、名古屋大学助教授として、学生との団体交渉などの場に何度も立ち会った加地伸行立命館大学教授(72)は「一口に学生運動といってもいろいろある」と話し、当時の学生運動を3期に分けて振り返った。

 昭和40年代初めの運動草創期は「学生と教授が学問はどうあるべきかと議論し、ある意味、健康的だった」。しかし、学生の要求がエスカレートすると第2期に入り、議論のテーマが学問のあり方から「大学運営への参加」「学生処分の撤回」といった手続き論に集中したという。「要求を認めるか否かの二者択一の議論ばかりが増えた。学生も教授も小手先のへ理屈を言い合うしかなくなり、不毛の論争が続いた」。

 そして第3期。暴力が横行し、バリケード封鎖や内ゲバなど、やり方が先鋭的になった。加地教授は「あとになればなるほど、学生たちがえげつなくなった」と憤り、こう付け加えた。「日本の学問は確かに専門分野に固執する『専門バカ』の面はあった。学生たちがそれを批判したのは正しかった。けれど、学生運動には、その後がなかったと思うのです」。

 今回の連載「バリケードの外から」では、全共闘学生たちと世代や思想、立場が異なる人たちの意見を紹介した。接触が濃厚だった人ほど、安直な批判を控え、むしろ学生たちに一定の評価をしたうえで、当時の乱暴な手法を批判する人が目立った。

 一方で、当事者である全共闘世代からは「なぜ、われわれにばかり総括を求めるのか」「総括は世代単位でするものではない」などの意見も寄せられた。

 確かにそうかもしれないが、自分たちの行動が問題提起だけで終わったことに忸(じく)怩(じ)たる思いはないのだろうか。「世代」ではなく、「個人」の立場でも総括したいという意識はないのだろうか。それとも、この世代は「大学を破壊した」「権力と闘った」という勇ましい思い出の“バリケードの中”に、いまだ閉じこもっているのだろうか。

 学生運動が沈静化した数年後、大阪市大の直木さんは電車で、学生運動のリーダーだった学生の一人と偶然、鉢合わせしたことがある。「先生、お久しぶりです。今は金融機関に勤めてます。あのころは愉快でしたね」。あっけらかんと語る元リーダーに対し、直木さんは「私は不愉快だったよ」と応じるしかなかったという。

 (第2部おわり)

 連載は皆川豪志、河居貴司、津田大資が担当しました。第3部では「全共闘の生態学」として、あらためてその実像に迫ります。







(私論.私見)