【考察5、三里塚闘争概略】

 (序論)
 

 ここで、 三里塚闘争を概括する。筆者は、三里塚闘争は、1950年代の砂川闘争以来のそれを上回る義民的百姓一揆とマルクス主義運動の結合した大闘争としての日本左派運動史上の初事例であり、三里塚闘争の持つ豊穣さが注目されねばならないと考えている。詳論はサイト「三里塚闘争考」に記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/sanrizukatosoco/top.htm) 

 
【三里塚闘争に至る経緯概要】

 1962年、政府は、年々増大する航空運輸の将来に対応せんとして東京国際空港(羽田空港)に代わるハブ空港としての「新東京国際空港」を模索し始めた。運輸省は、首都圏内の他の場所に新空港を建設する為の検討に入った。このこと自体は是であり、これが何故に三里塚闘争へ至ったのかが三里塚闘争論になる。

 1963年、東京と千葉にまたがる海上埋め立て案が構想され、利権絡みの複数候補地が検討されていた。1964年、最有力候補として千葉県の富里村(現・富里市)付近案(以下「富里村案」と記す)が急浮上し始め、富里村、八街町の推進派と賛成派の双方が陳情を開始した。1965年、「富里村案」が、地元住民の反対に遭い調整が難航した。  

 1966年、「富里村案」が座礁したことに懲りた佐藤政権は隠密裏に代替地を捜し始める。国有地である宮内庁下総御料牧場が予定地の4割弱を占めており、用地買収がより容易に進むと考えられた三里塚御料牧場一帯と隣接する芝山町への空港建設案(以下「三里塚案」と記す)に白羽の矢が当たる。同6月、友納千葉県知事、藤倉成田市長への根回しを終えた佐藤政権は、新東京国際空港建設地を千葉県成田市三里塚と隣接する芝山町に閣議決定する。寝耳に水の住民は猛反発した。佐藤政権の隠密裏の根回しが裏目に出た格好となった。地元農民には事前説明がなく、保障金、代替地、騒音問題への懸念から、富里村の反対運動に負けぬ闘争を指針させて行くことになった。ここから三里塚闘争が始まる。

 【「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」結成】

 1966年6月28日、地元で農機商店を営むクリスチャンにして画家彫刻家の戸村一作氏を委員長とする三里塚新国際空港反対同盟が結成され、遠山中学校にて3千名の参加で「新空港反対総決起集会」を開催。以降、反対運動を組織して行く。7月20日、三里塚・芝山の約千戸3千名の農民・住民によって、「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」(委員長・戸村一作。以下、単に「反対同盟」と呼称する)が結成され、本格的な三里塚闘争が始まった。戸村委員長は次のように決意表明した。「我々は、あらゆる困難や不当弾圧に屈せず、政府・県・公団が空港建設を破棄するまで闘い抜く」。
9月、反対同盟の初総決起集会が三里塚公園で開かれ、農民1500名が参加した。この日、老人行動隊も組織された。10月、反対同盟が結成後初の総決起集会を開催した。この時点では社会党や共産党などが支援していた。

 【三里塚闘争が新三派系全学連運動と結合】

 1967年9月、「成田空港粉砕・強制測量阻止決起集会」が三里塚公園で開催され、新三派系全学連50名が参加した。これを嚆矢として新三派系全学連と反戦青年委員会の支援活動が常態化する。反対同盟は、条件闘争に持ち込もうとする穏和系社共と袂を分かち、この頃ムーブメントを創り出しつつあった新左翼と共同し始めた。新左翼各派は労農学連帯を求め、新空港の軍事基地化を危ぶみ、全国住民運動の頂上決戦と位置づけて反対派農民の支援活動に向かった。 

 【反対同盟が日共を排除決議】


 12月15日、反対同盟が総会を開いて、日共の支援と介入を排除することを組織決定する。この間日共は、反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒きや、反対同盟と新左翼提携切り崩しのオルグ活動を行っていたことから決定的な決裂に至った。   

 【新三派系全学連が三里塚闘争の全面支援に入る】


 1968年以降、反対同盟と三派全学連が公然と共闘し始め、これにより三里塚闘争が一挙に全国レベルの政治課題に昇格する。三派全学連は、成田空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」と捉え、三里塚闘争を反日帝闘争の一環としての「革命の砦」と位置付け闘争に本格的に取り組み始めた。現地に団結小屋を建設し、「援農」(えんのう)による反対同盟との絆を固めた。これにより義民闘争と新左翼運動の結合と云う新しい型が生まれた。 三里塚闘争は折からの砂川基地拡張反対闘争、エンタープライズの寄港阻止闘争、王子野戦病院設置阻止闘争、沖縄闘争、ベトナム反戦闘争、70年安保闘争と結合し、権力の暴力には暴力で立ち向かう抵抗闘争を繰り広げていくことになった。

 【反対同盟が革マル派を排除決議】

 1970年1月、三里塚の反対同盟が幹部会を開き、次のような決議をしている。「革マル派はこれまで一貫して三里塚現地闘争に主体的に参加せず、二度にわたる集会参加時も、同盟の指示に従わず、反対闘争の推進ではなく、他派に対する誹謗のみを目的とした。今後、革マル派の参加を拒否し、もし来る場合には排除する」。これにより、社共に続いて革マル派が脱落させられた。かくて、いわゆる新三派系新左翼と反対同盟の共同戦線運動としての成田闘争と云う特質が確定する。

 【三里塚闘争が、70年安保闘争後の最大の政治闘争化する】

 1970年に入って、新東京国際空港公団は、建設予定地の測量の開始に踏み切った。1月15日、新三派系新左翼と反対同盟は:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」を開催し、以降「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む。しかし、公団側は強行し、反対同盟側は丸太でバリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊が「公団が木を倒すなら人間も一緒に」と立ち木に二人ずつ抱き合う様に鎖で身体を縛りつけて抵抗した。あるいは、落とし穴、糞尿などを駆使して白兵戦まで交えた徹底抗戦で応じ、木の根、横堀などの砦攻防が続いた。  

 【第一次土地収用強制代執行を廻る闘争】

 1971年2月、公団側が三里塚第一次土地収用強制代執行を強行する。この時も、反対同盟側は百姓一揆さながらの抵抗で応戦し、実に三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。以降、三里塚闘争はますます燃え上がり、70年安保闘争以降の闘争の象徴的な闘争と化して行くことになる。

 【第二次土地収用強制代執行を廻る闘争で東峰十字路事件、大木よね宅強制収用事件発生】

 9月16日、第二次強制代執行が行われ、反対同盟側はヤグラや鉄塔に立てこもって抵抗した。東峰十字路での学生集団と機動隊の衝突で機動隊堀田大隊が全滅し、隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、全員負傷という事件が発生した。これを「東峰十字路事件」と云う。 


 9月20日、:空港公団は突如、それまでの「住居への代執行はしない」との約束を反故にして、第一期工事内に残る大木よね宅を強制収用、解体した。最初の民家住居への代執行となった。戸村委員長と並ぶ三里塚闘争の「顔」であった大木よねは無惨にも、機動隊員の盾で前歯四本を折られる負傷を負い連れ出された。大木よねは翌々年の1973年12月、戸村委員長が参院選を闘う最中、「家に帰りたいよ」と言い残して死去した(享年66歳)。政府は、ようやく一期工事の用地を取得したが、反対同盟の抵抗は予想を上回るものとなって続けられた。

 【戸村委員長が参議院選に出馬し惜しくも落選】

 1973年11月、戸村一作反対同盟委員長が、翌年の参議院議員選全国区に「世直し一揆」を掲げて立候補することを表明した。1974年7月7日の参議院議員選挙開票の結果、33万票を獲得したが落選した。*日本左派運動は、総力をあげて戸村氏を当選させるべきであった。この当時の筆者は没世間化していたので何ら理解し得なかったが、今思うに惜しいことであった。

 【開港期日が近付く中、要塞攻防戦が続く】

 成田空港開港が近づく中、:反対同盟側の闘争は続いた。1977年4月17日、三里塚鉄塔死守総決起集会。5月6日、三里塚強制代執行で機動隊と激突。反対派が航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗していた「岩山鉄塔」が撤去された。5月8日、東山薫虐殺。10月9日、三里塚空港粉砕、ジェット燃料輸送阻止集会。1978年2月、三里塚、横堀の要塞攻防戦が二日間にわたる激闘を演じている。 

 【三里塚新空港管制塔占拠事件】

 
1978年3月26日、開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インター、戦旗・共産同、プロ青同などのゲリラ部隊20名が地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、10名が中央管制塔を占拠した。これにより開港が二ヶ月近く遅れることになった。この管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察本部警備部に新東京国際空港警備隊が発足し、現在の成田国際空港警備隊に至っている。叉、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家4千名が乱入し、警官隊がピストルを乱射する「騒乱状態」となる。115名が逮捕された。逮捕者の内訳は公務員・公共企業体職員25名、労働者96名、残りが高校生を含む学生だった。うち1名は火炎瓶トラックで突入した際の火傷が原因で後に死亡している。これを「管制塔占拠事件」と云う。逮捕者14名は航空危険罪の初適用となった。

 これについて次のような指摘がなされている。何と、ゲリラ部隊20名が管制室に到達する前に、管制室がある16階には機動隊や制服警官が居た。1978年3月31日付けの読売新聞夕刊に掲載された写真が、この事実の証拠である云々。「管制塔占拠は公安警察によって演出された事件である」と云う。これについて筆者は真偽不明としたいが、有り得ない訳ではないように思う。

 【成田空港開港、その後の抵抗闘争】

 5月20日、成田空港が開港した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発しゲリラ活動を続けた。政府は、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」(いわゆる「成田治安時限立法」)を制定し更なる強権的対応を明らかにした。8月、政府が「第四次空港整備六ヵ年計画」を発表。成田二期工事構想が明らかにされた。この頃から政府が対話路線を呼びかけるようになった。


 反対同盟側の抵抗はひるむことなく続けられた。9月、反対同盟は「三里塚空港廃港、二期工事阻止全国総決起集会」を開催、約2万名を結集した。反対同盟はこの大会で、政府の対話路線を拒否し、従来の「百日闘争」にかえて「連月連日闘争」方針及び100万人署名運動を実施する方針を採択し、徹底抗戦の構えを再確認した。

 10月21日、国際反戦デーのこの日、反対同盟は「二期工事粉砕全国総決起集会」を開催した。集会には反対派農民をはじめとして、動労千葉、関西新空港建設反対期成同盟、北富士忍草母の会、日本原農民、部落解放同盟ならびに支援労働者、学生など約2万名が結集した。集会では、病床にある戸村一作反対同盟委員長にかわって石橋政治副委員長が次のように決意表明した。「鉄路を武器に備蓄ゼロ化の闘いをいどむ動労千葉と、農民の真髄を発揮し、農地を武器に闘うわれわれが共闘し、いかなる苦難ものりこえ二期工事を阻止し、軍事空港をこの地から葬る」。北原鉱治事務局長は戸村委員長のメッセージを読み上げた。「反対同盟は基本どおり対話路線を拒否し、さらに廃港まで闘い抜く」。

 【戸村一作成田空港反対同盟委員長逝去】

 1979年11月2日、戸村一作成田空港反対同盟委員長が逝去した(享年70歳)。戸村氏は国立ガンセンターに移る10日前にも「根底から空港をぶち壊していくまで、三里塚闘争は決して消え去りませんよ」と闘志を見せていたという。

 【第4インターの三里塚現闘内で複数幹部による女性活動家レイプ事件発生】

 この頃、第4インターの三里塚現闘内で、幹部による支援の女性活動家に対する「性的接触レイプ事件」が発生している。実行者は複数いたことから「ABCD問題」とも云われる。

 【「一坪再共有化運動」を廻って、反対同盟内に対立発生

 1980年代に入って、長期化する三里塚闘争に疲弊の影が見え始めた。反対同盟の「連月連日闘争」は80年にはいっても果敢に展開されていたが、他方で地下交渉が進行した。この頃、反対同盟は、「一坪再共有化運動」(空港予定地となっている農家の土地を多くの支援者で共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせようとする運動。沖縄の反米軍基地運動の「一坪反戦地主運動」からヒントを得ている)の是非をめぐって対立し始めた。これにより、「一坪再共有化運動」を支持する第4インターと批判する中核派の対立が表面化することとなった。中核派は次のように批判している。概要「第4インターが以前から三里塚闘争からの組織的逃亡を画策していたこと、ABCD問題(第4インター現闘メンバー4人の男が三里塚現地で数々の女性に対して強姦、強姦未遂を繰り返していた事件)での組織的危機をのりきるため『一坪再共有化』にすがりついたこと―などの腐敗が一挙に明るみに出たのである」。

 三里塚現闘内での第4インターの複数幹部による女性活動家レイプ事件告発】
 

 1982年、三里塚現闘内での第4インターの複数幹部による女性活動家レイプ事件が、被害女性メンバーにより告発された。第4インター内では加害者の行為の定義をめぐって議論が紛糾したが議論の末、「女性の望まない性的接触はすべてレイプである」というフェミニズムの立場を明らかにし、加害者の行為を「レイプ」と規定した。組織内調査の結果、複数の「女性の望まない性的接触」および「女性差別的な組織対応」が発覚し、1983年、組織として問題を公表し、自己批判した上で関係者を除名して決着させている。

 【反対同盟が北原派と熱田派に分裂、抗争続く】

 1983年2月27日、反対同盟が北原派と熱田派に分裂した。支援党派も分裂し、「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」、「金儲け運動」として反対した中核派が北原派を、「再共有化」を推進する第四インターが熱田派を支援した。3月8日、熱田派が北原派を排除した同盟総会を召集し、「反対同盟分裂」が確定した。

 第4インターはその後、全国各地で「再共有化推進」集会を開催した。5.29仙台集会で、「再共有化」を廻って紛糾し、これに反対する北原派に多数の重傷者が出た。7・1関西集会も同様事態になり、北原派に多数の負傷者が出た。北原派の28名が大阪府警機動隊により「建造物侵入」で逮捕された。11月20日、三里塚現地で、熱田派により岩山記念館が襲撃され、北原派の現闘メンバーに重傷を負わせた。

 【中核派が対立する第4インター派に反撃襲撃を開始する】

 1984年1月、「一坪再共有化運動」をめぐる対立から、中核派は、第4インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、1名に重傷を負わせた。同7月、中核派が再び一斉に3箇所の第4インター派メンバー宅を襲撃、1名に重傷を負わせた。3月、芝山町議会の「二期工事早期着工要請決議」に、反対同盟両派が抗議行動を展開。4名が逮捕される。
7月、中核派が再び一斉に三箇所の第4インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせた。他にも「熱田派」農民や第4インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。

 【過激派各派がゲリラ型闘争に傾斜し始める】

 1985(昭和60)年5月7日、戦旗・共産同が、千葉県山田町の運輸省航空局のレーザーサイトに約50m離れた山中から時限式発射装置により火炎ビン3発を発射、2発が防護壁に命中した。埼玉県所沢市の運輸省東京航空交通管制部ビルに約90m先から火炎ビン二発を発射、敷地内の樹木を焦がした。この頃より、成田闘争がゲリラ型闘争に傾斜して行くことになった。

 【北原派のゲリラ型闘争続く】

 1985年10月20日、千葉県成田市の三里塚交差点で空港反対同盟(北原派)支援の新左翼党派と警視庁機動隊が衝突した事件が発生した。これを「10.20成田現地闘争」と云う。翌1986年10月20日、成田空港反対同盟北原派の集会が開催されている。 

 【北原派の恫喝闘争続く】

 1988年9月、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏が襲われ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った(小川氏は、このテロの後遺症を苦に2003年7月、自殺する)。中核派が犯行声明を出し、以降「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員に「家族ともども処刑台に乗っていると思え」などと記した手紙、電話などを送り続け収用委員全員が辞任する事態に陥る。千葉県収用委員会は完全に機能停止に追い込まれた。

 【「成田空港問題円卓会議」開催、政府が初めて強権姿勢を謝罪】

 1991(平成3年)年11月、こうした状況では正常な運営、あるいは二期工事の着工もおぼつかず、隅谷三喜男東京大学名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催された。1993(平成5).9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で今後の成田空港の整備を民主的手続きで進めていくことが確認された。1995年、円卓会議の結論を受け、最終的に当時の村山首相が日本政府を代表して、それまでの政府の強権的な姿勢を謝罪した。この謝罪は地元の一定の評価を得、その後二期工事への用地買収と集団移転に応じる農民、地主が出てきた。

 【「く」の字形暫定滑走路として供用開始】


 1996年、懸案の二期工事のうち平行滑走路(B滑走路)について、暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定滑走路として供用開始した。この新滑走路は、反対派農家の未買収地を残したまま建設され、農家の軒先数十mの誘導路をジェット機が通過するという状況が続いている。また未買収地を迂回して建設されたため、誘導路は「く」の字形となっている。2002年12月1日、誘導路上で航空機同士の接触事故が発生している。

 【三里塚闘争考】

 ここで、筆者の三里塚闘争の思い出、及び三里塚闘争観を記しておく。「三里塚闘争の思い出」と書いたが、実は筆者は三里塚に行ったことはない。それでも「思い出」と記すのは次のようなエピソードがあるからである。筆者は、1970年に早大法学部に入学した。70年安保闘争の過程で自治会と関わるうちに、ある時の集会で、とある先輩から民青同加盟をオルグられた。30秒ほどの凝縮した自問自答の末、同盟入りを決断した。確か6月頃のことだったように思う。早い者は既に高校時代から、あるいは入学直後に加盟していたから、筆者の加盟は遅い方だった。その理由は、毛色が違っていたので勧める方も尻込みしていたのだと思われる。

 それはともかく、同盟入り以降、筆者は脇目も振らず自治会活動に勤しみ始めた。それから1年後の1971年頃だったか、「我が民青同はなぜ三里塚闘争を組織しないのだ」と質問したことがある。妙なほどに、その時の回答を覚えているのだが、「あれはトロの運動だ」と云う結論だった。大概の者はそれで納得するのかも知れないが、筆者は「何かと俺と感性が合わないな」と云う気持ちを高めた。運動論を廻って他にも鬱することがあり、それから暫くして自治会活動からサークル活動に転じた。筆者の三里塚闘争の思い出はそういうものでしかないが、思い出には違いない。

 それはともかく、筆者がとりわけ三里塚闘争に注目する理由を記す。それは、三里塚闘争の教訓が余りに深く象徴的な内容を揃えているからである。教訓をどう汲み出すかは各人それぞれであろうが、筆者は次のように考えている。一つは、三里塚闘争に百姓一揆とマルクス主義の連帯を嗅ぎ取っている。これは、日本左派運動史上極めて珍しい事例ではなかろうか。連帯と記したのには理由があり、三里塚闘争は、百姓一揆派が下手にマルクス主義に被れず、百姓一揆の伝統と知恵を活かしながらマルクス主義派の運動と結合していたと思われるからである。三里塚一帯のこの辺りは「佐倉惣五郎伝説」で知られる百姓一揆義民譚が語り継がれる土地柄であり、三里塚農民は、この伝統を受け継ぎ現代版百姓一揆闘争に向かったのではなかろうか。この意味ではむしろ、マルクス主義を信奉する学生の方が百姓一揆から学び逆にオルグられている気配が垣間見える。そういう珍しい事例となっているように思われる。既に明らかにしたように、筆者は実際の現場は知らないのだけれども、かく嗅ぎ取っている。

 一つは、三里塚闘争を担う主体を通して、日本左派運動の真紅派とエセ派がくっきりと識別されているように嗅ぎ取っている。社共は早々と退散を余儀なくされ、社会党は裏取引で権力と通じ、日共は執拗なトロ批判を繰り返すことで三里塚農民から相手にされなくなった。続いて革マル派が排除された。ここに認められる図象こそ日本左派運動の縮図足り得ているのではなかろうか。筆者はかく嗅ぎ取っている。

 一つは、三里塚闘争はどういう闘いとして位置づけられ、担われるべきであったかという意味で、日本左派運動の妙な癖を嗅ぎ取っている。思うに、政府の羽田空港に代わるハブ空港としての模索自体は責められるべきではなく、社会的合理性を有しているのではなかろうか。従って、軍事空港論一本槍で廃港を目指す闘いが有益であったかどうか疑問を持っている。

 問うべきは、人民大衆の生活権益を踏みにじるお上的発想に基く強権手法に対する戦後民主主義の内実を問う抵抗運動の質ではなかろうか。富里村案騒動に懲りた佐藤政権は隠密裡に事を進めることを教訓化させた。従って何らの事前説明もなく突然発表で有無を言わさぬ形で押しつけてきた。為すべきは逆に、より合理的な事前説明と折衝基準の確立ではなかったか。佐藤政権の逆対応は事態を余計にこじらせただけなのではなかろうか。筆者は、三里塚闘争は、この意味に於いて正義性を有していると考えている。

 もう一つは、政府に軍事空港化の動きがあったとすえれば、新空港の軍事空港的利用に対する歯止めを廻る闘争を組織すべきではなかったか。軍事空港的利用をさせない政府証文を引き出す運動も有効であったであろう。三里塚、芝山農民は戦後民主主義の理念の質を御旗にこのことを確約させる運動に向かうことにより、その正義性を幅広く獲得できたのではなかろうか。オールオアナッシング的闘争は先鋭化させることはできるけれども、持続性に欠けるきらいがある。実際の三里塚闘争は今も健在であるけれども、その裾野の尻すぼみの感は否めない。筆者に云わせれば、日本左派運動の負の遺産が三里塚闘争にも影響を与えている気がしないでもない。但し、闘う主体が健在なので今からでも遅くない、気がつけば半ば解決されたようにも思う。

 もう一つ、三里塚闘争を60年安保闘争的国会包囲闘争との絡ませ方に於いて、どうも拙いやり方をしているのではなかろうかという気がしないでもない。あくまで全国的な政治闘争の環の中で位置づけ、執拗に国会包囲闘争を狙うべきではなかろうか。そういう意味では、戸村委員長の参院選出馬は是であり、落選は痛恨の極みであった。何としてでも戸村委員長を当選させ、三里塚のみならず全国至るところに立ち現れている政府による問答無用式の押しつけに対して国会内に抵抗の拠点を造るべきであった。そういう位置づけでの闘いが必要であったと思う。これも今からでも遅くはない。

 三里塚は空港予定地として押しつけられたが、政治権力のお上的横暴さを示す同様のものとして基地問題、その軍事演習、騒音、危険問題、原子力発電所の敷設問題、公害問題、環境汚染叉は破壊問題その他その他と絡む。三里塚闘争は当然これらの闘争と連帯すべき流れにあり、そのリーダー格として橋頭堡になるべきだろう。三里塚闘争はかく担われることで本質的に無限の可能性と値打ちのある闘争であるように思う。

 もう一つ、三里塚闘争を砂川闘争と比較させて見て、1956年10月15日の勝利報告大会が阿豆佐美(あずさみ)天神境内で行われていることに注目してみたい。本多亡き後の中核派の指導者となった清水丈夫(たけお)氏の「60年安保とブントを読む」(情況出版)は次のように記している。
「1956年秋に砂川闘争の集会が現地の阿豆佐美(あずさみ)天神境内において開かれたときです。あのときの島さんの気迫にみちた理路整然とした確信あふれる演説に、全身が震えるような感動を覚えたことを今でもありありと思い出します」。これはどういうことかというと、当時の人民大衆闘争が自ずと神社ないしは鎮守の森を活用していたことを物語っている。これは百姓一揆の系譜からもたらされているものであるが、マルクス主義的な「労農学の提携」に注目するのみならず、こういうところをじっくり確認しておきたいと思う。「神社ないしは鎮守の森」を天皇制問題に絡めて公式主義的に敵視するのはサヨ理論でしかない。三里塚闘争に思う筆者見解は以上の通りである。