【考察8、学生運動活動家列伝、学生運動活動家のその後の履歴考】

 

  更新日/2018(平成30).2.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 本サイトで、「学生運動活動家列伝、学生運動活動家のその後の履歴考」をしておく。以下、全学連活動家史を記そうと思う。ところが、既成のものではない。ネット検索に出てこない。困難を極めるが、筆者が辿ってみる。アバウトになるのは致し方ない、ないよりはマシだろう。

 2007.10.20日 れんだいこ拝


 本章で「学生運動活動家のその後の履歴」を確認しておく。戦後学生運動は、戦前のそれが治安維持法下で締め付けられ壊死させられたのに比して、合法化し保護育成されたことにより伸び伸びと展開するところから始まった。これは、共産党、社会党、労働組合活動の合法化と軌を一にしている。これを戦後ルネサンスの息吹と云う。それは、進駐して来たGHQのポツダム宣言戦略に基づく戦前の日本帝国主義勢力の解体一掃に資するからであった。だがしかし、戦後共産党運動を指導した徳球-伊藤律系の運動は、社会党、労働組合との共同戦線運動を組織することによりGHQの思惑を超えて戦後革命のうねりを作り始めた。2.1ゼネストであるが、GHQはこれより以降、共産党弾圧に向かうことになる。これには戦後の冷戦構造による日本の反共の砦化政策への転換も関係している。

 武井式「層としての大衆的学生運動論」は、そうしたGHQの政策転換期に始まっている。それは、GHQの弾圧化転換により日本左派運動が急激に穏健化を余儀なくされつつあった時節に於いて、学生運動を、徳球-伊藤律系の革命運動から切り離すことと云う狙いがあったと思われる。もう一つ、次第に穏健化し始めた共産党運動に対する「正の反発」から、より革命主義的に向かおうとする戦闘的左翼の創出と云う定向進化の動きがあったとも思われる。何事も複合化しているので両面から考察する必要があろう。

 ともあれ「層としての大衆的学生運動論」は、全学連を日本左派運動の一翼を担う先進的主体として位置づけ、最も戦闘的に諸闘争を担うことを企図した。これによる先進的戦闘的闘いによりゼンガクレンの名がしばしば海外ニュースに登場することになった。今から思えば、全学連こそ紅衛兵運動の嚆矢ではないかと思われる。中共の文化大革命期の紅衛兵運動は日本のゼンガクレン運動の中国版であり、それが又日本に逆輸入されたと云うことだったのではなかろうか。この時代まで、政治意識の高い活動家は均しく「革命のロマン」に憧れ、青春を捧げた。今となっては懐かしい蜃気楼であった気がする。

 このことは良しとして誉れとしよう。しかしながら、これに与した活動家のその後の履歴は様々である。否有り過ぎる。そろそろこの事象を対自化せねばならないのではなかろうか。戦前も然りであろうが、世俗的な立身出世の夢をあきらめ、筋を通して左翼人生を全うし地塩として活動している者も居る。その一部は今も様々に分岐した党派の指導者になって居る。かっての戦闘的学生運動を後遺症的にひきずり蟄居的に生息している者も居る。政治闘争そのものから召喚した者も居る。身すぎ世すぎの為、打倒対象としていた資本主義的体制秩序に入隊し、その後「立派」な企業戦士になった者も居る。その他世の中を上手に遊泳した者も居る。思想家、評論家、ジャーナリスト、労組活動家、経営者、教師、教授、学者、団体役員、政治家等々で生計を立て活躍している者も居る。


 産経新聞特集「さらば革命的世代」の第3部(3)「ピンク大前へ! 学生運動も学歴社会」は次のように記している。
 (http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/081227/sty0812272101004-n3.htm)

 「私が知っている範囲でも、東大出身の元闘士はその後、弁護士や学者といった社会的地位の高い職業についており、有名私大の連中もそこそこの企業で出世した。ただ、中堅私大の元活動家たちは就職活動も難しく、最近もリストラや倒産などで厳しい人生を強いられている。そうした構図は現代の学生とほとんど同じであり、やっぱり日本は東大を頂点とした学歴社会なんです」。

 ここまでは良しとしよう。

 問題は、「元全学連闘士その後左派運動の敵対者」として立ち現われている者が相当数居ることである。このうちの多くの者が、現代世界の真の帝国主義者である国際金融資本の走狗に転じ、御用聞き政治に忠勤し始めている。
国際金融資本イデオロギーが奏でるネオシオニズムの虜になり「リベラル系保守」の右翼論客、体制派政治家として立ち現われ裏から国際金融資本帝国主義に奉仕している。つまり、左翼魂を売り渡した者が案外と多い。こう書くだけで、すぐさま何人かの顔が思い浮かぼう。その虜囚の多くは米国留学組である。彼らの多くはロックフェラー財団が操るフルブライト奨学金の世話で米国留学を続けるうちに親国際金融資本帝国主義者に転身している。次のように窺うべきであろう。「米国留学を果たした官僚の一部は、筋金入りの悪徳ペンタゴンに成長、戦争屋のロボットとなります。ただし、元通産官僚で、現・民主党議員の小林興起氏のように、官費米国留学官僚の中には、米国を客観的にとらえる人物もいますが、例外でしょう」(「新ベンチャー革命」の「5.日本人エリートの抱き込み」)。

 一例を挙げれば、香山健一(1933-1997年)がもっとも酷い。第一次ブント前の全学連第2代、全学連10回大会委員長であるが、その後露骨に右派論客として売り出し、時の自民党政権擁護政論をぶち続けた。中曽根政権時代に臨時教育審議会委員を務め教育「改革」に尽力している。それなりの理論を構築するのなら良い。その営為なくしてかくまで御用化転向できるものかと卒倒させられるのは、れんだいこだけだろうか。

 森田実(東大、1932-)はヌエのような動きをしている。この御仁も第一次ブント上がりである。リベラルを装うが、老醜を晒すに従い国際金融資本帝国主義奉仕の御用評論家であることを暴露するようになった。その論は、体制派に対してはリベラルの立場で批判し、日本の真の良質改革派に対しては露骨な牙言論を剥き出しにしている。その扁平な頭脳故に国際金融資本帝国主義テキストで洗脳され、今日に至っているように思われる。

 西部邁(東大、1939-)も酷い。この御仁も第一次ブント上がりである。小泉政権下の構造改革路線を賛辞し、小泉を名宰相と持ち上げた履歴を遺している。近著「小沢一郎は背広を着たゴロツキである」p220で、こう書いている。「そうしてみれば、マスつまり『社会の大量現象に逃げ込む者たち』としての大衆こそが『ゴロツキの巨大な集団』であることが明らかとなるに違いない。ゴロツキ大衆の演じる集団喜劇、それが『民主主義政治』だということも確認されるであろう」。ストイックなまでの反民主主義論に傾斜しているが、ネオシオニズム政治論の請け売りに過ぎない。

 五百旗頭真(京大、1943年-)は気持ち悪い。学生時代ベトナム戦争反対の活動歴を持つ。その五百旗頭は小泉政権下で防衛大学校長に就任し、その際の新聞のインタビューで次のように述べている。「自分は自衛隊を合憲だとは思っているが、昨今の周辺脅威論や武装論にはくみせず、『国民が軍事力を監視し暴走を押さえ付ける』というシビリアンコントロールを最重視していきたい」。どう述べようと、防衛大学校長まで引き受ける元左翼が生まれていることになる。こういう事例は数え切れないほどある。

 目立った学生運動歴はないがその周辺から出自し御用評論家に堕している立花隆、猪瀬直樹等々も居る。

 体制派系政治家を確認する。加藤紘一(東大、1939年-)は第一次ブント運動の洗礼を受けている。江田五月(東大、1941-)は第一次ブント運動後の活動家であり、学部自治会委員長として大学管理法反対ストを指揮し、退学処分を受ける。復学後は運動と絶縁、今日に至る。仙谷由人(東大、1946-)は構造改革派のフロント(社会主義同盟)の活動家として、東大法学部で全共闘運動に参加の履歴を持つ。菅内閣官房長官。塩崎恭久(東大、1950)は、全国浪人共闘会議(浪共闘)に参加の履歴を持つ。安倍内閣の内閣官房長官。枝野幸男(東北大、1964年-)は、1980年代の当時の学生には珍しい学生運動活動家で、卒業後は弁護士。日本新党、新党さきがけ、旧民主党、民主党と経緯している。菅政権の幹事長。このうち、江田、菅、仙石、枝野は民主党政権の要職を占め影響力を行使している。

 筆者が注目するのは、彼らの「親米保守」と云う名の実は国際金融資本帝国主義御用聞きへの傾斜ぶりである。こういう人氏には特に「洋行帰り」に多い。 「洋行」時に洗脳され結社入りした可能性が考えられる。なぜこのようなことになってしまうのか、そろそろ学生運動の真価を見出す為にも学生運動活動家が左右に分岐した所以、国際金融資本帝国主義派に取り込まれた所以を解析しておくべきではなかろうか。特に、全学連運動初期の頃のメンバーは比較的その後も左派的に営為しているのに比して、60年安保闘争を牽引したブント活動家以降の左右分岐が甚だしい。全共闘運動の場合は更に激しい。この原因の考察が全くできていない。本書で初めて提起しておく。

 その理由の一つに、財団法人日米教育交流振興財団、フルブライト育英資金等による留学斡旋による系統的な取り込みが考えられる。国際金融資本帝国主義は、この種の投資がお家芸である。貰う側は有り難く世話になったつもりであるが、思想的学問的影響を行使し陣営に取り込むのを常套手段にしている。この辺りの線も窺うべきであろう。これは、「留学斡旋による系統的な取り込み」が悪いと云うのではない。他の諸国政府がこの方面の関心を持たず施策を講じないことが責められるべきであろう。

 共産党、社民党(旧社会党)、その他左派系党派の政治家の場合には学生運動の延長としてその後があるように思われる。但し、この場合でも、共産党、社民党(旧社会党)のやっていることをみよ。国内的な些事の政局の場合には革新的ぶるが国内国際にまたがる大政局に於いては国際金融資本帝国主義御用聞きに裏から立ち回っている。典型例はロッキード事件であり、直近では小沢キード事件であろう。角栄封じ、小沢叩きに興じている。

 この観点に基づき、歴代活動家のスケッチをしておこうと思う。しかし、これを実際にやると膨大なことになるので稿を改めることにする。いずれにせよ筆者の情報量は知れている。この項を更に充実させるべく、多くの方からのご指摘を賜わりたいと思う。人物伝はもっと関連付けたいが、これをやるのはかなり難しい。アトランダムになるがご容赦願う。

 文芸評論家・山崎行太郎氏の政治ブログ「毒蛇山荘日記」の2010.8.1日付け「左翼はすぐに転向する」は次のように記している。

 「菅直人首相、千葉景子法相、辻元清美議員の例を持ち出すまでもなく、政治家にしろ文化人にしろ、また学者や思想家にしろ、左翼とか左翼市民運動家というものは機を見るに敏で、時至らばいつでも転向するという体勢を整えている人種である、と僕は若い頃から確信していたが、その確信は、最近になって、いよいよ深まりこそすりれ、決して弱くなることはない」。「さて、左翼は、何故、転向するのだろうか。そして、何故、右翼は、あるいは保守と言われるような人たちは転向しないのだろうか。むろん、現在、右翼とか保守と自称している人たちの中には、多くの元左翼が含まれているから、そういう左翼からの転向組であるところの右翼・保守は、再び、あるいはみたび、転向するかもしれない。かつて戦時中、思想弾圧と戦争ブームに乗って左翼から転向してきた右翼・保守思想家連中が、戦後の民主化の波に乗って、再び元の古巣の左翼(共産党)に転向していったように・・・」。

 彼らとは別に筋を通した者もいる。政治家に限れば今井澄(東大、1939-2002年)、石井紘基(こうき、中央大、Ⅰ940-2002年)、新井将計(東大、1948-1998年)。他方、学生運動歴なくして保守派に身を置きながら、その後の政治で左派的な立ち回りをする政治家、評論家も多い。特に、池田隼人-田中角栄政治に列なる人士にこの傾向が認められる。これは一体どういうことだろうか。どう整合的に理解すべきだろうか。元全共闘活動家の岡留安則の生きざま。元全学連委員長の藤本敏夫生きざまもある。亀井 靜香(東大、1936年-)は、第一次ブント時代の反ブント派であった。但し、亀井氏の政治履歴にはブントの精神が伝染しているようにも思われる。歴史は面白い。


【戦後全学連運動最初期の活動家の生態考】
 全学連運動初期とは、1945年から1955年代までを想定することにする。この時代の活動家は、戦後学生運動初期の時代の諸闘争を彩っている。全学連の創出、続く共産党内の分裂の煽りを受けての全学連内の対立、所感派系の山岳武装闘争と国際派系の反戦平和闘争(レッドパージ闘争等)への分岐、武装闘争の挫折と宮顕式日共化時代の穏和化と云う風に軌跡している。特徴的なことは、1950年代初頭の「党中央分裂」時代に徳球―伊藤律系党中央派に与した玉井系全学連派のその後の動きが全く伝えられていないことである。これは奇異なことである。

 この時代の活動家のその後は様々である。確認し得るのは次の通り。
 新人会派
渡邉恒雄  1926年-。東大。1948年に共産党に入党後、直ちに右派系の新人会運動を組織し、徳球党中央の指導を撹乱する。除名処分を受け鳴りを潜める。卒業後は読売新聞に入社。山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入しルポで名声を高める。大野伴睦の番記者を経て中曽根康弘と親交を深める。読売新聞主筆、読売ジャイアンツ会長、読売グループ本社代表取締役会長の座に上り詰め、政界に大きな影響力を行使している。「ナベツネ」の通称で知られる。
氏家斉一郎  東大。学生時代以来のナベツネの子飼い。

【全学連創出期の指導者&活動家の生態考】
 東大系
高沢寅男  1926年-1999年。東大。都学連委員長。学生時代、スパイ容疑の査問リンチ事件(「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」)に遭っている。卒業後は日本社会党書記局に入り、社会主義協会を組織する。1974年、成田知巳委員長の下で飛鳥田一雄、山本幸一らと副委員長に就任。この間、衆院議員を務める。
力石定一  1926年―。東大、全学連中執。東大共産党細胞においてナベツネらの新人会運動との路線闘争を繰り広げ勝利する。1948年、武井昭夫、沖浦和光らと全学連(全日本学生自治会総連合)を結成。全学連の理論面での指導者とされた。その後、学究の道に入る。
武井昭夫  1927年―。東大。全学連初代委員長。全学連初代委員長にして国際派の最高指導者。六全協までは宮顕の肝いりとなる。六全協後、宮顕に使い捨てにさせられる。新日本文学会活動を経由して離党、その後文芸評論家の道に入る。
高橋英典  東大。書記長。
沖浦和光  1927年-。東大、全学連中執。その後、学究の道に入る。
安東仁兵衛  1927年―1998年。東大、国際派の指導者の一人。六全協後も宮顕の肝いりとなる。次第に宮顕指導に反発し始め、60年安保闘争後の1961年、日共から離党。統一社会主義者同盟に参加、書記長に就任。第二次「現代の理論」を創刊。江田三郎らとともに社会市民連合を結成。学究の道に入る。
上田耕一郎  1927年―2008年。東大。学生運動歴で目ぼしいものはないが、六全協後、宮顕の肝いりとして重宝される。参議院議員、党宣伝局長、政策委員長、副委員長などを歴任する。不破哲三(本名・上田建二郎)は実弟。(詳細は「上耕考」に記す)
不破哲三  1930年―。東大。学生運動歴で目ぼしいものはないが東大国際派のルポ係として活動している。学生時代、スパイ容疑の査問リンチ事件(「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」)に遭っている。六全協後、兄の上耕一と共に宮顕の肝いりとして重宝される。日共の出世階段を上り詰め委員長に就任する。宮顕時代に次ぐ不破時代を創る。(詳細は「不破考」に記す)
戸塚秀夫  1930年―。東大。学生運動歴で目ぼしいものはないが東大国際派のルポ係として活動している。学生時代、スパイ容疑の査問リンチ事件(「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」)に遭っている。
 早大系
高橋佐介  年-年。早大。全学連副委員長。
松下清雄  1929年-2006年。早大。農民運動家として日農常東の山口武秀同志等とともに活躍する。日本共産党茨城県常任委員会に所属し、「第8回党大会綱領」に反対した為、“若手三人組”(山田孝雄、渡辺武夫(松下清雄の党名・ペンネーム)、いいだもも)が強行的一方的に県常任委員会を罷免される。「日本のこえ」派に合流。やがて離党し、本来の文学青年の夢に立ち戻り文学作品活動に専念する。「三つ目のアマンジャク」に続いて遺稿集「草青火」が出版された。
吉田嘉清  1926年―。早大。全学連の創立に活躍する。1950年、レッドパージ反対闘争で逮捕、早大を退学処分。1955年、原水協の創立に加わり、以降原水協活動に精力的に取り組む。1983年、代表理事。その後、日共指導に反発し離党。
大金久展  早大。神山派。その後は会社役員。
津金
井川
坂本
岩丸
中島誠
石垣
津島薫
富田善朗 (山中明)
 他に、銀林浩(東大)、伊藤元男(名古屋大、全学連中執)、津島薫(飯島侑)(京大)、池山重朗(京大)

50年分裂期の所感派】
 全学連は「共産党の50年分裂」で所感派と国際派に分かれる。れんだいこは、所感派系を高く評価するが、ほぼ全くと云って良いほど情報が出てこない。歴史とはそんなものかも知れない。
早坂茂三  1930年―2004年。早大。東京タイムズ社に入社後、田中角栄の秘書となり政務秘書を23年間務める。晩年は政治評論家として活躍。  
七俵博  早大。全学連2回目大会副委員長。
細川清志  大商大、全学連2回目大会副委員長。
玉井仁  京大。第5回大会委員長。
妹尾昭  東京外大。第5回大会副委員長。
早川正雄  立命大。第5回大会副委員長。
斉藤文治  東大。書記長。
高橋和巳  1931年-1971年。京大。『悲の器』 (1962年)、『邪宗門』(1965年)、『憂鬱なる党派』(1965年)、『わが解体』(1969年)。
大島渚  1932年。京大。京都府学連委員長を務めて学生運動を行い、1951年の京大天皇事件や、1953年に松浦玲が放校処分になった荒神橋事件等に関わった。その後、映画監督。夫人は女優の小山明子。1954年、京大卒業後、松竹に入社。大船撮影所の助監督を経て、1959年、「愛と希望の街」で監督デビュー。1960年、日米安全保障条約に反対する安保闘争を舞台にした作品「日本の夜と霧」を制作。
中西  55年都学連委員長。後に東大の経済学部の教授)。

【革共同系活動家の生態考】
 全学連運動中期とは、1955年から1961年代までを想定することにする。学生運動内における党中央派と反党中央派への分裂期、トロツキズム運動の創成、反日共系学生運動の定向進化としてのブント創出、60年安保闘争、その総括を廻る分裂、日共系学生運動からの構造改革派の分離と云う風に軌跡している。この時代の活動家もその後は様々である。確認し得るのは次の通り。 
太田龍  1930年―2009年。東京理科大。日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。1970年初め頃よりアイヌ解放運動を始める。晩年は、国際金融資本帝国主義問題、それに関連するフリーメーソン、イルミナティの秘密結社考、ユダヤ主義問題について精力的に研究する。本名、栗原 登一(くりはら とういち)。(詳細は「太田龍考」に記す)
黒田寛一  1927年-。(詳細は「黒寛考」に記す)  
本多延嘉  1934年―1975年。早大。は中核派の最高指導者となり、最期は敵対する革マル派の凶刃に倒れた。(詳細は「本多考」に記す)
塩川喜信  1958年・全学連委員長。
鬼塚
土屋源太郎

さらぎ徳二  1929年―2003年。(右田昌人)1955年の六全協後に脱党。1966年、共産主義者同盟(ブント)再建の際に政治局員。1968年、議長に選出。1969.4月の安保・沖縄闘争を前に破防法を適用され逃亡。同年7月、塩見孝也らブント関西派(後の赤軍派)に明治大学和泉校舎で襲撃され負傷、逮捕される。この際、後の連合赤軍リーダー森恒夫は逃走している。その後、ブント分裂の過程で蜂起派を結成。破防法公判闘争を行いながら地下に潜伏し非合法非公然活動を地下から行う。1994年、肝硬変が悪化し出頭。病気治療保釈後も破防法闘争を続けた。

【第一次ブント系活動家の生態考】
 このグループを仕分けする方法が難しい。島-生田ラインの先行派、島-生田ライン派、ブント分裂時の革通派、プロ通派、戦旗派、関西ブント、その他と云う風に分けることにする。
 先行派
森田実  1932年。東大工学部。日共除名後、共産主義者同盟(ブント)に参加。ブント結成時のメンバーの一人。全学連平和部長、56年全学連中央執行委員、共産主義者同盟結成時のメンバーの一人。政治評論家。
中村光男  1933年-。57年反戦学同委員長、社会主義学生同盟初代委員長。後に大学教授。
香山健一  1933年―1997年。東大経済学部。55年の第8回大会で副委員長、56年全学連委員長。60年安保闘争後、右旋回する。中曽根康弘内閣では臨時教育審議会委員を務める等、タカ派系のブレーンとなる。葉山岳夫(東大、1959年・東大緑会委員長事務局次長)は後に弁護士。
田中雄三  京大。第8回大会委員長。
増田誓治  同志社大。第8回大会副委員長。
石川博光 (東大、第8回大会副委員長)、
牧衰  東大。56年第9回全学連大会で選出された副委員長
星宮喚生  立命館大。(唐木恭二)。1956年第9回大会選出の全学連副委員長。後に会社経営。
石井亮一  神大、56年全学連中央執行委員。
北原龍二  京大。
高野秀夫  早大。56年第9回大会で選出された全学連書記長。
雲英晃顕  東大。
小島弘  明大。全学連10回大会副委員長。
桜田健介  立命館大。全学連10回大会副委員長。
小野田正臣  東大文学部。58年全学連10回大会書記長。
小川泰弘  東大。58年都学連副委員長。
大野明男  1930年-。東大。
 島-生田ライン派
島成郎  1931年―2000年。熊谷信雄、東大医学部。56年全学連中央執行委員、ブント系(共産主義者同盟)全学連書記長。60年安保闘争後は精神科医として国立武蔵野診療所に勤務後、地域医療に尽力、沖縄県の地域医療に専念、沖縄県名護市にて胃がんのため生涯を終えた。妻は島美喜子。(詳細は「島書記長論」に記す)
生田浩二  1933年-1966年。(加藤明男)東大経済学部。全学連中央執行委員。52.9月駒場の細胞キャップになり所感派。60年安保闘争後、1964(昭和39)年、東大大学院経済学研究所博士課程在籍のまま米国へ留学する。ビザ申請の段階で反米活動の前歴でクレームを付けられ、これを切り抜けるために米大使館へ度々出かけ、書記官と直談判までやり、東大に出張講義に来ていたパトリッシュ教授にも釈明を依頼している。この経過を見れば、「生田は裏切った。フルブライト資金を受けて米国へ渡ったことがそれを裏付けている」なる批判は皮相的であろう。(詳細は「生田浩二論」に記す)
香村正雄  東大経済学部卒。機関紙発行の責任者。ブント創設までは全学連や反戦学同で活動。創設とともに機関誌の編集発行を初めとした裏方を一手に引き受け、事実上の事務局長の役割を担う。当時大金の何十万かを捻出してブントの事務所を立ち上げる。後に公認会計士
佐伯秀光  1933(昭和8)年-。(山口一理、宮本健一) 旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から東大理学部に進学。全学連中央執行委員。日共分裂時は主流派。ブント結成の理論的指導者にして共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人。1958年末のブント創成期、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』に、歴史的論文「十月革命と我々の道-国際共産主義運動の歴史的教訓」を発表、スターリン全面批判を展開し大きな影響を与えた。後に、ブントを離脱しポーランドへ「留学」。後に数学者。大学教授。
門松暁鐘  1933-1994年。(廣松 渉)。
陶山健一  1936-1997。すやま、岸本健一、清川豊。社学同委員長、卒業後農林省に勤め、ブントの労働者を指導し、後に中核派、その後も最後の最後まで労働者の闘いを信じ、革命運動に一生を捧げた人であり、教条主義的マルクス・レーニン主義者でもなく、空論を労働者に振りまいた人でもない。まさしく島さんも認めているように、全ての労働者から信頼された人だった、97年逝去」(佐藤正之)。
青木昌彦  1938(昭和8)年-。(姫岡玲治)。東大。59年全学連中央執行委員。共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人。姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、共産主義者同盟の理論的支柱となり、「姫岡国独資」と略称された。学生運動から離脱後、東大大学院に進学して近代経済学に転じた。その後、渡米。
 ブントメンバー東大系
富岡倍雄  1929-98。(久慈二郎)東大。全学連書記局員。生田の後を次いで細胞キャップ。6.1事件は彼の中央委員弾劾で始まった、98年逝去。
多田靖  57年反戦学同書記長。医師として診療所開設。斎藤省吾(57年教育学部自治会委員長)は後に教育労働者。
古賀康正  1931-。(坂田静朋、岡田行男) 東京都立新宿高等学校、東大農学部卒。幼少期から極貧の中、祖母の面倒をみながら活動を続けてきた苦労人で、東大細胞の最も協力な牽引車。生田の片腕。共産党文京地区活動、東大中央委員会議長等を歴任し全学連中央執行委員。ブント創立の主要メンバーの1人。 ブント創生時は職員組合書記となっていた数少ない 給料取りであったが、職を投げ捨てブント書記局常任となった。ブント初めての「職業革命家」である。卒業後は国際協力事業団、岩手大学教授を経て97年に退官。後に農学者。
鈴木啓一  (森茂)東大。ブント労対部。後に現革マル派指導者。
服部信司  (東大、)。後に大学教授。
星野中  東大。
長崎浩  東大。本郷細胞。東大理学部在学中にブント加盟。後にジャーナリスト。
林道義  東大。全学連中執。
林紘義  道義の弟。東大。都学連執行委員。後に共産同共産主義の旗派、日本共産労働党、共産主義者同盟(旧共旗派だけの組織)、全国社会科学研究会(全国社研)、マルクス主義労働者同盟(マル労同)、社会主義労働者党(社労党)、マルクス主義同志会を経て、労働の解放をめざす労働者党の指導者。
西部邁  東大。59年東大教養学部自治委員長僭称、60年全学連副委員長。共産主義者同盟に所属。全学連中央執行委員として安保闘争に参加。後に右派へ転向。「60年安保――センチメンタル・ジャーニー」。評論家
清水丈夫  (東大、)は、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)議長。
樺美智子 (東大、)は、安保闘争で死亡。
鈴木達夫 東大、60年東大教養自治会)。
矢沢国光 東大、60年東大自治会委員長)。
坂野潤治 (東大、1937年-)は後に大学教授。
加藤尚武 (真樹朗、東大、60年東大教養学部自治委員長、都学連中執、1937年-)は後に大学教授。
 ブントメンバー早大系
片山迪夫  (佐久間元、須貝俊、曽木晴彦、早大、1933-)は現会社役員。
小泉修吉  (芳村三郎、早大、早大ブント代表、1933-)。佐伯(山口一理)と片山()と小泉は神奈川県立希望ヶ丘高校以来の同窓。後に映画監督。
蔵田計成  早大、59年都学連副委員長。その後ジャーナリスト。「安保全学連」(三一書房、1969年)。
下山  (早大)。
東原吉伸  (早大、全学連書記次長、現会社経営)。
小野正春  (早大、中国研究会委員長、後に中核派指導者)。
山平松生  (早大、第二政経学部自治会委員長、後に書店勤務)。
広瀬昭  (早大、後に経営コンサルタント)。
平井吉夫  (早大、社学同副委員長、後に翻訳家)。
泉康子  (早大、学生自治会副委員長、後に作家)。
藤原慶久  (早大、60年社学同委員長、後に中核派指導者)。
 ブントメンバー中大系
由井格  (中大、58年中大自治会)。
小塚尚男  (中大、60年中大二部自冶会委員長)。
三上治  (中大、60年中大自治会)。
 ブントメンバー明大系
小島弘  (57年全学連第10回大会より全学連副委員長、60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長)。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。
中村幸安  (明大、60年明大中執委員長)。
前原和彦  (明大、60年明大中執事務局長)。
 ブントメンバー京大系
今泉  (京大、)は「東の島、西の今泉」と云われた、後に医師。
小川登  (京大、59年京大同学会副委員長、旧細胞キャップ、)は後に大学教授。
北小路敏  (京大、60年全学連書記長&委員長代理、61年全学連委員長)は、後に中核派指導者。
新開純也  (京大、60年京大同学会書記長、)。
二木隆  (京大、60年自治会常任委員、)後に医師。
 ブントメンバー同志社大系
佐藤浩一  (同志杜大、58年同志杜大学友会、)。
仲尾宏  (同志社大、58年学友会中央委員長、)は後に大学教授。
 ブントメンバー北海道学連系
灰谷慶三  (道学連書記長、)は後に大学教授。
榊原勝昭  (理学部自治会委員長、)は後に大学教員。
唐牛健太郎  (北海道大、60年安保闘争時の全学連委員長、1937年―1984年)は、職業を転々。直腸ガンで死去。(詳細は「唐牛健太郎」に記す)
根本仁 (土門肇):後、革マル派
 ブントメンバーその他系
青山  青山(守田典彦、九大、九州ブント書記長)。
常木守  (山梨大学)。
井上淳一   (、59年大阪府学連委員長)。
森迫嘉和  (、59年立命館大自治会委員長)。
篠原浩一郎  (九大、全学連中央執行委員、59年社学同委員長、)。卒業後、機械メーカー等を経て、現在はNPO法人のBHNテレコム支援協議会常務理事。
柳田健  (大阪市立大、経済学部自治会委員長、後に会社経営)。
佐藤粂吉  (東北大、61年全学連中執)。
東顕  (日本医科大、自治委員長)は後に医師。青木(広大、)。
千葉喬之  (広大、59年教養部学友会委員長)は後に高校教師。らの面々。
倉石庸  (井上実)。
大瀬振  (鏑木潔)は、社学同委員長を経て機関紙「戦旗」編集長、その後高校教師。
平井吉夫  (59年社学同副委員長)。
山田恭暉  (米田浩平、60年社学同副委員長)は現会社経営。
高橋昭八  ()。
菱沢徳太郎  ()。
下山保  (60年全学連中執)。
中垣行博  ()。
小木和孝  ()。
河宮信郎  (60年教養学部自治会委員長)は後に大学教授。
岩崎義  (60年大阪府学連書記長)。
石井暎禧  ()は後に医師。
河辺岸三  (60年法学部自治会委員)は後に書店勤務。
田中一行  (中央委員会議長)は後に大学教授。
鈴木適夫  (60年安保改定阻止高校生会議議長)。
小林好男  ()。
榎原均  ()。
西村卓司  ()。
岡部通弘  ()。
山平松生  ()。
西井一夫  ()。
五島徳雄  ()。
佐野茂樹  (全学連副委員長)。
司波寛  ()。
前田裕晤  ()。
山本庄平  ()。
竹内基浩  ()。
大口勇次郎  ()。
有賀信勇  ()。
向井拓治  ()。
佐藤正之  ()。
糟谷秀剛  ()は弁護士。
星山保雄  ()。
前田知克  ()は弁護士。
野矢テツオ  (杉田信夫、信雄)。
小野田猛史  (武田秀郎、北川登)。
白井朗  (山村克)。
片山修  (白岳徹)。

 これらのメンバーが、60年安保闘争後、革通派(服部信司、星野中、長崎浩、蔵田計成)、戦旗派(森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之倉石庸、佐藤祐、多田、鈴木、大瀬振、唐牛、篠原浩一郎)、プロ通派(清水丈夫、青木、北小路敏、林紘義)、関西ブントに分かれる。

 女性グループ 
 今井素子()。
 中村()。
 須原()。
 鎌塚()。
 荒木()。
 下土井()。
 大島康子()。
 松崎才子(御茶ノ水女子大)。
 金田路世(佐藤、東京女子大)。
 大内良子(明治短大)。
 らの面々。

【ブント対抗日共系活動家の生態考】
高野秀夫  (早大、56年全学連書記長)。
五百籏頭  (五百旗頭) 真(いおきべ まこと、京大、1943年- )は、神戸大学大学院法学研究科教授。2006年8月1日から防衛大学校校長に就任予定。 神戸大在学中よりベトナム反戦運動に参加し、。
黒羽純久  (60年・全自連議長)。
林弘  (60年東京都自連議長)。
丸山茂樹  (中大、60年全自連中執)。
木村愛二  (60年東大駒場自治会)、。
岩田末広  (東大)。
岩渕慶一  (東大)。
宮川あき子  (早大)。
福岡清  (東大)。
後藤仁  (東大)。
川上徹  (東大、64年再建全学連委員長)。

柴田翔  (1935年-、東大)。1964年『象』に発表した「されど われらが日々―」で第51回芥川賞を受賞。六全協に影響された学生群像を描いた青春小説。1970年から72年まで小田実高橋和巳真継伸彦開高健とともに同人誌『人間として』を筑摩書房から刊行。




(私論.私見)