【考察8、学生運動活動家列伝、学生運動活動家のその後の履歴考】

 

 (最新見直し2014.06.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 本サイトで、「学生運動活動家列伝、学生運動活動家のその後の履歴考」をしておく。以下、全学連活動家史を記そうと思う。ところが、既成のものではない。ネット検索に出てこない。困難を極めるが、筆者が辿ってみる。アバウトになるのは致し方ない、ないよりはマシだろう。

 2007.10.20日 れんだいこ拝


 本章で「学生運動活動家のその後の履歴」を確認しておく。戦後学生運動は、戦前のそれが治安維持法下で締め付けられ壊死させられたのに比して、合法化し保護育成されたことにより伸び伸びと展開するところから始まった。これは、共産党、社会党、労働組合活動の合法化と軌を一にしている。これを戦後ルネサンスの息吹と云う。それは、進駐して来たGHQのポツダム宣言戦略に基づく戦前の日本帝国主義勢力の解体一掃に資するからであった。だがしかし、戦後共産党運動を指導した徳球-伊藤律系の運動は、社会党、労働組合との共同戦線運動を組織することによりGHQの思惑を超えて戦後革命のうねりを作り始めた。2.1ゼネストであるが、GHQはこれより以降、共産党弾圧に向かうことになる。これには戦後の冷戦構造による日本の反共の砦化政策への転換も関係している。

 武井式「層としての大衆的学生運動論」は、そうしたGHQの政策転換期に始まっている。それは、GHQの弾圧化転換により日本左派運動が急激に穏健化を余儀なくされつつあった時節に於いて、学生運動を、徳球-伊藤律系の革命運動から切り離すことと云う狙いがあったと思われる。もう一つ、次第に穏健化し始めた共産党運動に対する「正の反発」から、より革命主義的に向かおうとする戦闘的左翼の創出と云う定向進化の動きがあったとも思われる。何事も複合化しているので両面から考察する必要があろう。

 ともあれ「層としての大衆的学生運動論」は、全学連を日本左派運動の一翼を担う先進的主体として位置づけ、最も戦闘的に諸闘争を担うことを企図した。これによる先進的戦闘的闘いによりゼンガクレンの名がしばしば海外ニュースに登場することになった。今から思えば、全学連こそ紅衛兵運動の嚆矢ではないかと思われる。中共の文化大革命期の紅衛兵運動は日本のゼンガクレン運動の中国版であり、それが又日本に逆輸入されたと云うことだったのではなかろうか。この時代まで、政治意識の高い活動家は均しく「革命のロマン」に憧れ、青春を捧げた。今となっては懐かしい蜃気楼であった気がする。

 このことは良しとして誉れとしよう。しかしながら、これに与した活動家のその後の履歴は様々である。否有り過ぎる。そろそろこの事象を対自化せねばならないのではなかろうか。戦前も然りであろうが、世俗的な立身出世の夢をあきらめ、筋を通して左翼人生を全うし地塩として活動している者も居る。その一部は今も様々に分岐した党派の指導者になって居る。かっての戦闘的学生運動を後遺症的にひきずり蟄居的に生息している者も居る。政治闘争そのものから召喚した者も居る。身すぎ世すぎの為、打倒対象としていた資本主義的体制秩序に入隊し、その後「立派」な企業戦士になった者も居る。その他世の中を上手に遊泳した者も居る。思想家、評論家、ジャーナリスト、労組活動家、経営者、教師、教授、学者、団体役員、政治家等々で生計を立て活躍している者も居る。


 産経新聞特集「さらば革命的世代」の第3部(3)「ピンク大前へ! 学生運動も学歴社会」は次のように記している。
 (http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/081227/sty0812272101004-n3.htm)

 「私が知っている範囲でも、東大出身の元闘士はその後、弁護士や学者といった社会的地位の高い職業についており、有名私大の連中もそこそこの企業で出世した。ただ、中堅私大の元活動家たちは就職活動も難しく、最近もリストラや倒産などで厳しい人生を強いられている。そうした構図は現代の学生とほとんど同じであり、やっぱり日本は東大を頂点とした学歴社会なんです」。

 ここまでは良しとしよう。

 問題は、「元全学連闘士その後左派運動の敵対者」として立ち現われている者が相当数居ることである。このうちの多くの者が、現代世界の真の帝国主義者である国際金融資本の走狗に転じ、御用聞き政治に忠勤し始めている。
国際金融資本イデオロギーが奏でるネオシオニズムの虜になり「リベラル系保守」の右翼論客、体制派政治家として立ち現われ裏から国際金融資本帝国主義に奉仕している。つまり、左翼魂を売り渡した者が案外と多い。こう書くだけで、すぐさま何人かの顔が思い浮かぼう。その虜囚の多くは米国留学組である。彼らの多くはロックフェラー財団が操るフルブライト奨学金の世話で米国留学を続けるうちに親国際金融資本帝国主義者に転身している。次のように窺うべきであろう。「米国留学を果たした官僚の一部は、筋金入りの悪徳ペンタゴンに成長、戦争屋のロボットとなります。ただし、元通産官僚で、現・民主党議員の小林興起氏のように、官費米国留学官僚の中には、米国を客観的にとらえる人物もいますが、例外でしょう」(「新ベンチャー革命」の「5.日本人エリートの抱き込み」)。

 一例を挙げれば、香山健一(1933-1997年)がもっとも酷い。第一次ブント前の全学連第2代、全学連10回大会委員長であるが、その後露骨に右派論客として売り出し、時の自民党政権擁護政論をぶち続けた。中曽根政権時代に臨時教育審議会委員を務め教育「改革」に尽力している。それなりの理論を構築するのなら良い。その営為なくしてかくまで御用化転向できるものかと卒倒させられるのは、れんだいこだけだろうか。

 森田実(東大、1932-)はヌエのような動きをしている。この御仁も第一次ブント上がりである。リベラルを装うが、老醜を晒すに従い国際金融資本帝国主義奉仕の御用評論家であることを暴露するようになった。その論は、体制派に対してはリベラルの立場で批判し、日本の真の良質改革派に対しては露骨な牙言論を剥き出しにしている。その扁平な頭脳故に国際金融資本帝国主義テキストで洗脳され、今日に至っているように思われる。

 西部邁(東大、1939-)も酷い。この御仁も第一次ブント上がりである。小泉政権下の構造改革路線を賛辞し、小泉を名宰相と持ち上げた履歴を遺している。近著「小沢一郎は背広を着たゴロツキである」p220で、こう書いている。「そうしてみれば、マスつまり『社会の大量現象に逃げ込む者たち』としての大衆こそが『ゴロツキの巨大な集団』であることが明らかとなるに違いない。ゴロツキ大衆の演じる集団喜劇、それが『民主主義政治』だということも確認されるであろう」。ストイックなまでの反民主主義論に傾斜しているが、ネオシオニズム政治論の請け売りに過ぎない。

 五百旗頭真(京大、1943年-)は気持ち悪い。学生時代ベトナム戦争反対の活動歴を持つ。その五百旗頭は小泉政権下で防衛大学校長に就任し、その際の新聞のインタビューで次のように述べている。「自分は自衛隊を合憲だとは思っているが、昨今の周辺脅威論や武装論にはくみせず、『国民が軍事力を監視し暴走を押さえ付ける』というシビリアンコントロールを最重視していきたい」。どう述べようと、防衛大学校長まで引き受ける元左翼が生まれていることになる。こういう事例は数え切れないほどある。

 目立った学生運動歴はないがその周辺から出自し御用評論家に堕している立花隆、猪瀬直樹等々も居る。

 体制派系政治家を確認する。加藤紘一(東大、1939年-)は第一次ブント運動の洗礼を受けている。江田五月(東大、1941-)は第一次ブント運動後の活動家であり、学部自治会委員長として大学管理法反対ストを指揮し、退学処分を受ける。復学後は運動と絶縁、今日に至る。仙谷由人(東大、1946-)は構造改革派のフロント(社会主義同盟)の活動家として、東大法学部で全共闘運動に参加の履歴を持つ。菅内閣官房長官。塩崎恭久(東大、1950)は、全国浪人共闘会議(浪共闘)に参加の履歴を持つ。安倍内閣の内閣官房長官。枝野幸男(東北大、1964年-)は、1980年代の当時の学生には珍しい学生運動活動家で、卒業後は弁護士。日本新党、新党さきがけ、旧民主党、民主党と経緯している。菅政権の幹事長。このうち、江田、菅、仙石、枝野は民主党政権の要職を占め影響力を行使している。

 筆者が注目するのは、彼らの「親米保守」と云う名の実は国際金融資本帝国主義御用聞きへの傾斜ぶりである。こういう人氏には特に「洋行帰り」に多い。 「洋行」時に洗脳され結社入りした可能性が考えられる。なぜこのようなことになってしまうのか、そろそろ学生運動の真価を見出す為にも学生運動活動家が左右に分岐した所以、国際金融資本帝国主義派に取り込まれた所以を解析しておくべきではなかろうか。特に、全学連運動初期の頃のメンバーは比較的その後も左派的に営為しているのに比して、60年安保闘争を牽引したブント活動家以降の左右分岐が甚だしい。全共闘運動の場合は更に激しい。この原因の考察が全くできていない。本書で初めて提起しておく。

 その理由の一つに、財団法人日米教育交流振興財団、フルブライト育英資金等による留学斡旋による系統的な取り込みが考えられる。国際金融資本帝国主義は、この種の投資がお家芸である。貰う側は有り難く世話になったつもりであるが、思想的学問的影響を行使し陣営に取り込むのを常套手段にしている。この辺りの線も窺うべきであろう。これは、「留学斡旋による系統的な取り込み」が悪いと云うのではない。他の諸国政府がこの方面の関心を持たず施策を講じないことが責められるべきであろう。

 共産党、社民党(旧社会党)、その他左派系党派の政治家の場合には学生運動の延長としてその後があるように思われる。但し、この場合でも、共産党、社民党(旧社会党)のやっていることをみよ。国内的な些事の政局の場合には革新的ぶるが国内国際にまたがる大政局に於いては国際金融資本帝国主義御用聞きに裏から立ち回っている。典型例はロッキード事件であり、直近では小沢キード事件であろう。角栄封じ、小沢叩きに興じている。

 この観点に基づき、歴代活動家のスケッチをしておこうと思う。しかし、これを実際にやると膨大なことになるので稿を改めることにする。いずれにせよ筆者の情報量は知れている。この項を更に充実させるべく、多くの方からのご指摘を賜わりたいと思う。人物伝はもっと関連付けたいが、これをやるのはかなり難しい。アトランダムになるがご容赦願う。

 文芸評論家・山崎行太郎氏の政治ブログ「毒蛇山荘日記」の2010.8.1日付け「左翼はすぐに転向する」は次のように記している。

 「菅直人首相、千葉景子法相、辻元清美議員の例を持ち出すまでもなく、政治家にしろ文化人にしろ、また学者や思想家にしろ、左翼とか左翼市民運動家というものは機を見るに敏で、時至らばいつでも転向するという体勢を整えている人種である、と僕は若い頃から確信していたが、その確信は、最近になって、いよいよ深まりこそすりれ、決して弱くなることはない」。「さて、左翼は、何故、転向するのだろうか。そして、何故、右翼は、あるいは保守と言われるような人たちは転向しないのだろうか。むろん、現在、右翼とか保守と自称している人たちの中には、多くの元左翼が含まれているから、そういう左翼からの転向組であるところの右翼・保守は、再び、あるいはみたび、転向するかもしれない。かつて戦時中、思想弾圧と戦争ブームに乗って左翼から転向してきた右翼・保守思想家連中が、戦後の民主化の波に乗って、再び元の古巣の左翼(共産党)に転向していったように・・・」。

 彼らとは別に筋を通した者もいる。政治家に限れば今井澄(東大、1939-2002年)、石井紘基(こうき、中央大、Ⅰ940-2002年)、新井将計(東大、1948-1998年)。他方、学生運動歴なくして保守派に身を置きながら、その後の政治で左派的な立ち回りをする政治家、評論家も多い。特に、池田隼人-田中角栄政治に列なる人士にこの傾向が認められる。これは一体どういうことだろうか。どう整合的に理解すべきだろうか。元全共闘活動家の岡留安則の生きざま。元全学連委員長の藤本敏夫生きざまもある。亀井 靜香(東大、1936年-)は、第一次ブント時代の反ブント派であった。但し、亀井氏の政治履歴にはブントの精神が伝染しているようにも思われる。歴史は面白い。



【戦後全学連運動最初期の活動家の生態考】
 全学連運動初期とは、1945年から1955年代までを想定することにする。この時代の活動家は、戦後学生運動初期の時代の諸闘争を彩っている。全学連の創出、続く共産党内の分裂の煽りを受けての全学連内の対立、所感派系の山岳武装闘争と国際派系の反戦平和闘争(レッドパージ闘争等)への分岐、武装闘争の挫折と宮顕式日共化時代の穏和化と云う風に軌跡している。特徴的なことは、1950年代初頭の「党中央分裂」時代に徳球―伊藤律系党中央派に与した玉井系全学連派のその後の動きが全く伝えられていないことである。これは奇異なことである。

 この時代の活動家のその後は様々である。確認し得るのは次の通り。

 新人会派

 渡邉恒雄(東大、1926年- )は、1948年に共産党に入党後、直ちに右派系の新人会運動を組織し、徳球党中央の指導を撹乱する。除名処分を受け鳴りを潜める。卒業後は読売新聞に入社。山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入しルポで名声を高める。大野伴睦の番記者を経て中曽根康弘と親交を深める。読売新聞主筆、読売ジャイアンツ会長、読売グループ本社代表取締役会長の座に上り詰め、政界に大きな影響力を行使している。「ナベツネ」の通称で知られる。

 氏家斉一郎
(東大、)は、学生時代以来のナベツネの子飼い。

【全学連創出期の指導者&活動家の生態考】

 武井昭夫(東大、全学連初代委員長、1927年― )は、全学連初代委員長にして国際派の最高指導者。六全協までは宮顕の肝いりとなる。六全協後、宮顕に使い捨てにさせられる。新日本文学会活動を経由して離党、その後文芸評論家の道に入る。

 高橋佐介(早大、全学連副委員長、)。高橋英典(東大、書記長)。

 力石定一(東大、全学連中執、1926年― 年)は、東大共産党細胞においてナベツネらの新人会運動との路線闘争を繰り広げ勝利する。1948年、武井昭夫、沖浦和光らと全学連(全日本学生自治会総連合)を結成。全学連の理論面での指導者とされた。その後、学究の道に入る。

 沖浦和光(東大、全学連中執、1927年- )はその後、学究の道に入る。

 安東仁兵衛(東大、国際派の指導者の一人、1927年―1998年)は六全協後も宮顕の肝いりとなる。次第に宮顕指導に反発し始め、60年安保闘争後の1961年、日共から離党。統一社会主義者同盟に参加、書記長に就任。第二次「現代の理論」を創刊。江田三郎らとともに社会市民連合を結成。学究の道に入る。

 上田耕一郎(東大、1927年―2008年)は、学生運動歴で目ぼしいものはないが、六全協後、宮顕の肝いりとして重宝される。参議院議員、党宣伝局長、政策委員長、副委員長などを歴任する。不破哲三(本名・上田建二郎)は実弟。(詳細は「上耕考」に記す)

 不破哲三(東大、1930年― )は、学生運動歴で目ぼしいものはないが東大国際派のルポ係として活動している。学生時代、スパイ容疑の査問リンチ事件(「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」)に遭っている。六全協後、兄の上耕一と共に宮顕の肝いりとして重宝される。日共の出世階段を上り詰め委員長に就任する。宮顕時代に次ぐ不破時代を創る。(詳細は「不破考」に記す)

 戸塚秀夫(東大、1930年―)は、学生運動歴で目ぼしいものはないが東大国際派のルポ係として活動している。学生時代、スパイ容疑の査問リンチ事件(「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」)に遭っている。

 高沢寅男(東大、1926年-1999年)は、都学連委員長。学生時代、スパイ容疑の査問リンチ事件(「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」)に遭っている。卒業後は日本社会党書記局に入り、社会主義協会を組織する。1974年、成田知巳委員長の下で飛鳥田一雄、山本幸一らと副委員長に就任。この間、衆院議員を務める。

 松下清雄(早大、1929年-2006年)は、農民運動家として日農常東の山口武秀同志等とともに活躍する。日本共産党茨城県常任委員会に所属し、「第8回党大会綱領」に反対した為、“若手三人組”(山田孝雄、渡辺武夫(松下清雄の党名・ペンネーム)、いいだもも)が強行的一方的に県常任委員会を罷免される。「日本のこえ」派に合流。やがて離党し、本来の文学青年の夢に立ち戻り文学作品活動に専念する。「三つ目のアマンジャク」に続いて遺稿集「草青火」が出版された。

 吉田嘉清(早大、1926年― )は、全学連の創立に活躍する。1950年、レッドパージ反対闘争で逮捕、早大を退学処分。1955年、原水協の創立に加わり、以降原水協活動に精力的に取り組む。1983年、代表理事。その後、日共指導に反発し離党。

 大金久展(早大、)は、神山派。その後は会社役員。

 吉田、津金、井川、坂本、岩丸、中島誠、石垣、津島薫、富田善朗(山中明)


 他に、銀林浩(東大)、伊藤元男(名古屋大、全学連中執)、津島薫(飯島侑)(教大)、池山重朗(教大)

50年分裂期の武装闘争派】
 早坂茂三(早大、1930年―2004年)は、東京タイムズ社に入社後、田中角栄の秘書となり政務秘書を23年間務める。晩年は政治評論家として活躍。  七俵博(早大、全学連2回目大会副委員長、)、細川清志(大商大、全学連2回目大会副委員長)。

 玉井仁(京大、第5回大会委員長、)、妹尾昭(東京外大、第5回大会副委員長、)、早川正雄(立命大、第5回大会副委員長、)、斉藤文治(東大、書記長・)。 

 高橋和巳
(1931年-1971年、京大)。『悲の器』 (1962年)、『邪宗門』(1965年)、『憂鬱なる党派』(1965年)、『わが解体』(1969年)。


 全学連は「共産党の50年分裂」で所感派と国際派に分かれる。れんだいこは、所感派系を高く評価するが、ほぼ全くと云って良いほど情報が出てこない。歴史とはそんなものかも知れない。


 中西(55年都学連委員長、後に東大の経済学部の教授)。

【革共同系活動家の生態考】
 全学連運動中期とは、1955年から1961年代までを想定することにする。学生運動内における党中央派と反党中央派への分裂期、トロツキズム運動の創成、反日共系学生運動の定向進化としてのブント創出、60年安保闘争、その総括を廻る分裂、日共系学生運動からの構造改革派の分離と云う風に軌跡している。この時代の活動家もその後は様々である。確認し得るのは次の通り。 

 太田龍(東京理科大、1930年―2009年)は、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。1970年初め頃よりアイヌ解放運動を始める。晩年は、国際金融資本帝国主義問題、それに関連するフリーメーソン、イルミナティの秘密結社考、ユダヤ主義問題について精力的に研究する。本名、栗原 登一(くりはら とういち)。(詳細は「太田龍考」に記す)

 黒田寛一(1927年-)。(詳細は「黒寛考」に記す)  

 本多延嘉
(早大、1934年―1975年)は中核派の最高指導者となり、最期は敵対する革マル派の凶刃に倒れた。(詳細は「本多考」に記す)

 塩川喜信(1958年・全学連委員長、) 、鬼塚()、土屋源太郎()、星宮喚生(唐木恭二、立命館大、1956年全学連副委員長)は現会社経営。

【第一次ブント系活動家の生態考】
 このグループを仕分けする方法が難しい。島-生田ラインの先行派、島-生田ライン派、ブント分裂時の革通派、プロ通派、戦旗派、関西ブント、その他と云う風に分けることにする。
 先行派

 森田実(東大工学部、1932年―)。全学連平和部長、56年全学連中央執行委員、共産主義者同盟結成時のメンバーの一人。政治評論家。
 中村光男
(57年反戦学同委員長、社会主義学生同盟初代委員長、1933年-)は後に大学教授。
 香山健一
(東大経済学部、1933年―1997年)は、55年の第8回大会で副委員長、56年全学連委員長。60年安保闘争後、右旋回する。中曽根康弘内閣では臨時教育審議会委員を務める等、タカ派系のブレーンとなる。葉山岳夫(東大、1959年・東大緑会委員長事務局次長)は後に弁護士。

 田中雄三
(京大、第8回大会委員長)、増田誓治(同志社大、第8回大会副委員長)、石川博光(東大、第8回大会副委員長)、小島弘(明大、全学連10回大会副委員長、)。桜田健介(立命館大、全学連10回大会副委員長)。小野田正臣(東大文学部、58年全学連10回大会書記長)。小川泰弘(東大、58年都学連副委員長)。牧衰(東大、56年第9回全学連大会で選出された副委員長)。石井亮一(神大、56年全学連中央執行委員)。北原龍二(教大)。星宮煥生  立命館大、56年第9回大会選出の全学連副委員長。高野秀夫  早大、56年第9回大会で選出された全学連書記長。
雲英晃顕 東大
 島-生田ライン派

 島成郎(熊谷信雄、東大医学部、1931年―2000年)は、56年全学連中央執行委員、ブント系(共産主義者同盟)全学連書記長。60年安保闘争後は精神科医として国立武蔵野診療所に勤務後、地域医療に尽力、沖縄県の地域医療に専念、沖縄県名護市にて胃がんのため生涯を終えた。妻は島美喜子。(詳細は「島書記長論」に記す)

 生田浩二(加藤明男、東大経済学部全学連中央執行委員)は52.9月駒場の細胞キャップになり所感派。60年安保闘争後、1964(昭和39)年、東大大学院経済学研究所博士課程在籍のまま米国へ留学する。ビザ申請の段階で反米活動の前歴でクレームを付けられ、これを切り抜けるために米大使館へ度々出かけ、書記官と直談判までやり、東大に出張講義に来ていたパトリッシュ教授にも釈明を依頼している。この経過を見れば、「生田は裏切った。フルブライト資金を受けて米国へ渡ったことがそれを裏付けている」なる批判は皮相的であろう。(詳細は「生田浩二論」に記す)

 香村正雄(東大、)は、機関紙発行の責任者、現公認会計士。

 佐伯秀光(山口一理、宮本健一。東大理学部全学連中央執行委員)は、共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人。1958年末のブント創成期、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』に、歴史的論文「十月革命と我々の道-国際共産主義運動の歴史的教訓」を発表、大きな影響を与えた。後に大学教授。

 青木昌彦(姫岡玲治)(東大、59年全学連中央執行委員。1938年-)は、共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人。姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、共産主義者同盟の理論的支柱となり、「姫岡国独資」と略称された。学生運動から離脱後、東大大学院に進学して近代経済学に転じた。
その後、渡米。

 門松暁鐘(廣松 渉)は、。  

 陶山健一
すやま、岸本健一、清川豊、1936-1997)は、社学同委員長、卒業後農林省に勤め、ブントの労働者を指導し、後に中核派、その後も最後の最後まで労働者の闘いを信じ、革命運動に一生を捧げた人であり、教条主義的マルクス・レーニン主義者でもなく、空論を労働者に振りまいた人でもない。まさしく島さんも認めているように、全ての労働者から信頼された人だった、97年逝去」(佐藤正之)。  

 さらぎ徳二
右田昌人、1929年―2003年)は、1955年の六全協後に脱党。1966年の共産主義者同盟(ブント)再建の際に政治局員。1968年議長に選出。1969年4月の安保・沖縄闘争を前に、破防法を適用され逃亡、同年7月塩見孝也らブント関西派(後の赤軍派)に、明治大学和泉校舎で襲撃され負傷、逮捕される。この際、後の連合赤軍リーダー森恒夫は逃走している。その後、ブント分裂の過程で蜂起派を結成、破防法公判闘争を行いながら地下に潜伏し非合法非公然活動を地下から行うが、1994年肝硬変が悪化し出頭。病気治療保釈後も破防法闘争を続けた。

 ブントメンバーは、東大系で、富岡倍雄(久慈二郎、東大、全学連書記局員、1929-98)は、生田の後を次いで細胞キャップ。6.1事件は彼の中央委員弾劾で始まった、98年逝去。多田靖(57年反戦学同書記長)は医師として診療所開設。斎藤省吾(57年教育学部自治会委員長)は後に教育労働者。古賀康正(坂田静朋、岡田行男、東大農学部全学連中央執行委員。1931-)は生田の片腕。共産党文京地区活動、東大中央委員会議長等を歴任し、ブント創立の主要メンバーの1人。卒業後は国際協力事業団、岩手大学教授を経て97年に退官。農学者。鈴木啓一(森茂、東大、)は現革マル派指導者。服部信司(東大、)は後に大学教授。星野中(東大、)。長崎浩(東大、本郷細胞)は後にジャーナリスト。林道義(東大、全学連中執)。林紘義(東大、都学連執行委員)は現社労党最高指導者。西部邁(東大、59
年東大教養学部自治委員長僭称、60年全学連副委員長)は、 全学連中央執行委員として安保闘争に参加。評論家。「60年安保――センチメンタル・ジャーニー」。清水丈夫(東大、)は、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)議長。樺美智子(東大、)は、安保闘争で死亡。鈴木達夫(東大、60年東大教養自治会)。矢沢国光 (東大、60年東大自治会委員長)。坂野潤治(東大、1937年-)は後に大学教授。加藤尚武(真樹朗、東大、60年東大教養学部自治委員長、都学連中執、1937年-)は後に大学教授。大野明男(東大、1930年-)。

 早大系で、片山迪夫(佐久間元、須貝俊、曽木晴彦、早大、1933-)は現会社役員。小泉修吉(芳村三郎、早大、早大ブント代表、1933-)は、後に映画監督。佐伯(山口一理)と片山()と小泉は神奈川県立希望ヶ丘高校以来の同窓。蔵田計成(早大、59年都学連副委員長)は、その後ジャーナリスト。「安保全学連」(三一書房、1969年)。下山(早大)、東原吉伸(早大、全学連書記次長、現会社経営)、小野正春(早大、中国研究会委員長、後に中核派指導者)、山平松生(早大、第二政経学部自治会委員長、後に書店勤務)、広瀬昭(早大、後に経営コンサルタント)、平井吉夫(早大、社学同副委員長、後に翻訳家)、泉康子(早大、学生自治会副委員長、後に作家)。藤原慶久(早大、60年社学同委員長、後に中核派指導者)。

 中大系で、由井格(中大、58年中大自治会)。小塚尚男(中大、60年中大二部自冶会委員長)。三上治(中大、60年中大自治会)。

 明大系で、中村幸安(明大、60年明大中執委員長)。前原和彦(明大、60年明大中執事務局長)。
小島弘(57年全学連第10回大会より全学連副委員長、60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長)。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。

 京大系で今泉(京大、)は「東の島、西の今泉」と云われた、後に医師。小川登(京大、59年京大同学会副委員長、旧細胞キャップ、)は後に大学教授。北小路敏(京大、60年全学連書記長&委員長代理、61年全学連委員長)は、後に中核派指導者。新開純也(京大、60年京大同学会書記長、)。二木隆(京大、60年自治会常任委員、)後に医師。

 
同志社大系で佐藤浩一(同志杜大、58年同志杜大学友会、)。仲尾宏(同志社大、58年学友会中央委員長、)は後に大学教授。

 北海道学連の灰谷慶三(道学連書記長、)は後に大学教授。榊原勝昭(理学部自治会委員長、)は後に大学教員。

 唐牛健太郎(北海道大、60年安保闘争時の全学連委員長、1937年―1984年)は、職業を転々。直腸ガンで死去。(詳細は「唐牛健太郎」に記す)

 その他系で、青山(守田典彦、九大、九州ブント書記長)。常木守(山梨大学)。井上淳一 (、59年大阪府学連委員長)。森迫嘉和(、59年立命館大自治会委員長)。篠原浩一郎(九大、全学連中央執行委員、59年社学同委員長、)。卒業後、機械メーカー等を経て、現在はNPO法人のBHNテレコム支援協議会常務理事。柳田健(大阪市立大、経済学部自治会委員長、後に会社経営)。佐藤粂吉(東北大、61年全学連中執)。東顕(日本医科大、自治委員長)は後に医師。青木(広大、)、千葉喬之(広大、59年教養部学友会委員長)は後に高校教師。らの面々。

 倉石庸(井上実)、大瀬振(鏑木潔)は、社学同委員長を経て機関紙「戦旗」編集長、その後高校教師。平井吉夫(59年社学同副委員長)。山田恭*(60年社学同副委員長)は現会社経営。高橋昭八()。菱沢徳太郎()、下山保(60年全学連中執)。中垣行博()。小木和孝()。河宮信郎(60年教養学部自治会委員長)は後に大学教授。岩崎義(60年大阪府学連書記長)、石井暎禧()は後に医師。河辺岸三(60年法学部自治会委員)は後に書店勤務。田中一行(中央委員会議長)は後に大学教授。鈴木適夫(60年安保改定阻止高校生会議議長)。小林好男()。榎原均()。西村卓司()。岡部通弘()。河辺岸三()。山平松生()。西井一夫()。五島徳雄()。佐野茂樹(全学連副委員長)。司波寛()。前田裕晤()。山本庄平()。竹内基浩()。大口勇次郎()。有賀信勇()。山田恭暉()。向井拓治()。佐藤正之()。糟谷秀剛()は弁護士。星山保雄()。前田知克()は弁護士。野矢テツオ(杉田信夫、信雄)、小野田猛史(武田秀郎、北川登)、白井朗(山村克)、片山修(白岳徹)、山田恭暉(米田浩平)。

 これらのメンバーが、60年安保闘争後、革通派(服部信司、星野中、長崎浩、蔵田計成)、戦旗派(森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之倉石庸、佐藤祐、多田、鈴木、大瀬振、唐牛、篠原浩一郎)、プロ通派(清水丈夫、青木、北小路敏、林紘義)、関西ブントに分かれる。

 大島渚(1932年、京大)。京都府学連委員長を務めて学生運動を行い、1951年の京大天皇事件や、1953年に松浦玲が放校処分になった荒神橋事件等に関わった。その後、映画監督。夫人は女優の小山明子。1954年、京大卒業後、松竹に入社。大船撮影所の助監督を経て、1959年、「愛と希望の街」で監督デビュー。1960年、日米安全保障条約に反対する安保闘争を舞台にした作品「日本の夜と霧」を制作。

 女性グループ

 今井素子()、中村()、須原()、鎌塚()、荒木()、下土井()、大島康子()。松崎才子(御茶ノ水女子大)、金田路世(佐藤、東京女子大)、大内良子(明治短大)らの面々。


【ブント対抗日共系活動家の生態考】
 高野秀夫早大、56年全学連書記長

 五百籏頭(五百旗頭) 真(いおきべ まこと、京大、1943年- )は、神戸大学大学院法学研究科教授。2006年8月1日から防衛大学校校長に就任予定。 神戸大在学中よりベトナム反戦運動に参加し、。

 黒羽純久(60年・全自連議長)、林弘(60年東京都自連議長)、丸山茂樹(60年全自連中執)、木村愛二(60年東大駒場自治会)、。

川上徹 東大、64年再建全学連委員長

 丸山茂樹(中大)。岩田末広(東大)。岩田末広(東大)。 岩渕慶一(東大)。 宮川あき子(早大)。 福岡清(東大)。 後藤仁(東大)。

【全共闘運動期活動家の生態考】
 全学連運動盛期とは、1962年から1970年代までを想定することにする。全学連の様々な潮流への分岐、全共闘運動、70年安保闘争。

 柴田翔(1935年-、東大)。1964年『象』に発表した「されど われらが日々―」で第51回芥川賞を受賞。六全協に影響された学生群像を描いた青春小説。1970年から72年まで小田実高橋和巳真継伸彦開高健とともに同人誌『人間として』を筑摩書房から刊行。
 この時代の活動家もその後は様々である。確認し得るのは次の通り。

 江田五月。東京大学教養学部時代に学部自治会委員長として大学管理法反対ストを指揮し、退学処分を受ける。復学後は運動と絶縁。

 小野正春(62年全学連副委員長)、篠原竜夫(63年立命館大自治会委員長)、渕上太郎 (63年学芸大闘争委員長)、中沢広凱(64年大阪経大自治会委員長)、横山一(64年関西学院大自治会委員長)、川上徹(64年・全学連委員長)、 小口恭道(65年東大緑会)、 片山正彦(65年立命館大自治会)、野田雄一(65年立命館自治会)、大口昭彦(66年早大全共闘議長)、成島忠夫(67年全学連副委員長)。

 最首悟(60年東大教養自治会)は、。仙谷由人(東大)。構造改革派のフロント(社会主義同盟)の活動家として、東大法学部で全共闘運動に参加。その後弁護士、政治家。菅内閣官房長官。


 荒岱介(アラタイスケ)(1945―、早大)。1965年、早稲田大学第一法学部入学、ベトナム反戦闘争を契機に学生運動に参加。第二次ブント社会主義学生同盟委員長。戦旗・共産同議長、ブント(BUND)代表などを歴任。哲学者・廣松渉との交流をつうじ現代思想を研究。左翼思想のパラダイム・シフトを提唱、環境破壊に抗する運動への転換を訴える。著書『破天荒伝』(太田出版、2001年)、『大逆のゲリラ』(太田出版、2002年)、『破天荒な人々』(彩流社、2005年)、『新左翼とは何だったのか』(幻冬舎新書、2008年)、『近代の超克論者 廣松渉理解』(夏目書房、2004年)、『マルクス・ラジカリズムの復興』(御茶の水書房、1993年)、『ハイデガー解釈』(社会評論社、1996年)、『左翼思想のパラダイム・チェンジ』(実践社、1995年)、『行動するエチカ』(社会思想社、1998年)、『環境革命の世紀へ』(社会評論社、2000年)など多数。

 東大闘争

 今井澄(東大、1939年-2002年)は、その後3度目の復学をして1970年に卒業、医師国家試験に合格する。医師・政治家・参議院議員。


 菅孝行(1939年-、東大)。日本の評論家、劇作家。『マルクスと現代』(未來社、2000年)、『全学連(FOR BEGINNERS シリーズ イラスト版オリジナル 12)』(現代書館、1982年)。

 山本義隆(東大、68年東大全共闘代表、1941年―)は、。


 日大闘争

 秋田明大(日大、68年日大全共闘議長、1947年-)は、。1968.9月、両国講堂で3万人の学生と共に古田重二良日大理事長・会頭を糾弾後、潜伏。翌1969.3月、逮捕された。テリー伊藤(日大)。経済学部在学中に日大全共闘に参加。左眼の斜視は、デモ行進中に投石を受けて重傷を負った後遺症である。その後、芸能人。

 神津陽()。ブント叛旗派のリーダー。 評論家。

 藤本敏夫 (同志社大、1944年―2002年)は、第二次分と系の学生運動指導者。有機農法実践家、大地を守る会初代会長。妻は歌手の加藤登紀子。娘も歌手のYae。 

 関西共産主義者同盟を結成した(同志社大学・飛鳥浩次郎議長)。

 松岡 正剛
(1944年 - 早大)。高校から大学にかけて、革命的マルクス主義派(革マル派)に属し、学生紛争の論客として鳴らす。一方で禅寺などをめぐり、様々な思索にふける。 日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。2000年2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、話題を呼んだ。

【連合赤軍系活動家の生態考】
 川島豪(岐阜大、1941年―1990年)は、60年安保闘争に参加。1962年、東京水産大学に再入学。1964年に大学自治会会長に就任。1969年、日本共産党革命左派神奈川県委員会を結成し、議長に就任。同年12月8日、米軍基地爆破未遂容疑で逮捕。1979年、出獄。1990年、死亡。

 赤軍派

 塩見孝也(京大、63年京都府学連書記長、1941年― )は、関西ブント、第二次ブント、共産主義者同盟赤軍派の最高指導者の議長。府中刑務所(懲役18年。現在はぱとり・自主日本の会。

 田宮高麿(大阪府立大、1943年―1995年)は、赤軍派軍事委員会議長、よど号ハイジャック事件。よど号グループのリーダー。

 小西隆裕(東大、1944年―)は。よど号グループのメンバー。東大全共闘、医学部共闘会議議長。1969年に赤軍派が起こした東京戦争で警視庁本富士署火炎瓶投擲事件に関与。1970年によど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。よど号グループではリーダー田宮高麿に次ぐサブリーダー格であった。1976年によど号事件の前から恋人だった女性と結婚。1995年に田宮が死亡した後はリーダー格となる。現在も北朝鮮に在住しているが、日本政府により指名手配されていると同時に国際指名手配されている。柴田 泰弘(1953年 - )はよど号グループの最年少構成員。

 森恒夫(京大、1944年―1973年)は、、田宮高麿の忠臣。関西ブント、共産主義者同盟(第二次ブント、共産主義者同盟赤軍派、連合赤軍中央委員会委員長12人の同志を殺害する山岳ベース事件を起す。東京拘置所で獄中自殺。


 永田洋子(昭和薬科大、1945年― )は、社学同ML派、「警鐘」グループ、日共左派神奈川県委、共革左神奈川県委、連合赤軍中央委員会副委員長。リンチ・殺人で死刑が確定している死刑囚である。
 吉野雅邦()、坂口弘()、坂東國男()、柴野春彦()。

 重信房子(1945年―)は、共産主義者同盟(第二次)、産主義者同盟赤軍派、赤軍派アラブ委、1974年以降は日本赤軍を名乗る。1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚。200年、日本の大阪府高槻市に潜伏しているところを旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。懲役20年。父親の重信末夫は、四元義隆とは同郷の同志の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の右翼の血盟団のメンバー。後にパレスチナ人男性と結婚し娘の重信メイ。

 遠山美枝子()は。山田義昭()は、。1974年9月13日に、日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー

 奥平剛士(京大、1945年―1972年)は、セツルメント活動を経て全共闘運動に参加。京大助手だった滝田修のパルチザンの構想に影響を受け、赤軍派の重信房子と偽装結婚。そのあとレバノン・ベイルートへ出国。1972年5月30日、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したとされるテルアビブ空港乱射事件を起こしそのさなか死亡(自殺説と射殺説がある)。弟は同じく日本赤軍活動家の奥平純三()。

【中核派活動家の生態考】

 秋山勝行(横浜国大.中核派)。

 金井
()。

 白井朗() は、元革共同中核派政治局員。2002.12.18日、春日部市のマンション自室で襲撃され両手脱臼、片足大腿骨陥没、全身打撲により救急病院。中核派が犯行声明。

【写真】中核派時代の猪瀬直樹都知事の勇姿

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 猪瀬にもこうい時代があったんだなと感心するが、その後の馬鹿ヅラが許せない。

【革マル派活動家の生態考】
 前川健(早大)。

 中上健次(1946年―1992年、)。1965年、予備校生として仕送りを受けながら東京で生活、同年「文芸首都」の会員となり『十八歳』を同誌に掲載。この時期は新左翼運動に傾倒、ブント系で活動し羽田闘争に参加。早大では聴講生として活動した。作家。  菅直人(東京工業大)。在学中に学生運動に参加していたとあるが定かでない。第94代内閣総理大臣。

 宮崎学()。全共闘と激しく戦った日本民主青年同盟のゲバ部隊「あかつき行動隊」の隊長。早大闘争や東大闘争での彼らの実態が初めて明らかに。
高沢皓司(たかざわ こうじ、1947年 -)は、日本のジャーナリスト

 高野悦子 (1949年-1969年、立命館大)。1969年6月24日、山陰本線の貨物列車に飛込み、鉄道自殺(享年20歳)。遺著『二十歳の原点』(にじゅっさいのげんてん)で知られる。

 高須基仁(1949年、中大)。中央大学在学中は中央大学社学同の委員長として数々の闘争に参加。1968年の10・21国際反戦デーでは六本木防衛庁に丸太を抱えて先頭で突入した。現在は出版プロデューサー。 

 れんだいこ(早大)。「学生運動-戦後史のなかの学生反乱」上巻(社会批評社、2009年2月)。 

 中沢 新一
(1950年、東大 )。毛沢東派であるML派の隊列にいたといわれる。思想家、宗教学者、人類学者。1988年(昭和63)、当時東京大学教養学部教授の職にあった西部邁により、同学部社会科学科助教授に推薦されるも教授会で異例の否決となった。西部は教授会に抗議して辞任。いわゆる東大駒場騒動、中沢事件などと報道されて話題となった。オウム真理教に宗教学の立場から取り組み、教団を擁護する立場で発言をしていたが、地下鉄サリン事件が同教団の組織的犯行であることが発覚するとメディアから批判を受け、地下鉄サリン事件についてのコメントについても批判を受けた。島田裕巳、苫米地英人などが中沢を批判する著作を発表している。


 村上龍(1952年、武蔵野美術大)。長崎県佐世保市出身。1967年、長崎県立佐世保北高等学校に入学。翌年、佐世保港にアメリカの原子力空母エンタープライズが入港、この際の反代々木系全学連の入港阻止運動に感動する。3年生の夏、仲間とともに高校の屋上をバリケード封鎖し無期謹慎処分となる。1972年、武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン科入学。このころより福生での体験をもとに小説を書き始める。1976年、麻薬とセックスに溺れる自堕落な若者たちを描いた『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞および芥川龍之介賞を受賞。1999年より日本の金融・政治経済関連の問題を考えるメールマガジン『JMM』を主宰、以後、暗部にひそむ政治経済関連の問題など時事報道に対してコメントするなど、文壇以外の世界にも積極的に関わっている。

 坂本 龍一(1952年、東京藝大 )は、新宿高校時代には学生運動に関わり、塩崎恭久、馬場憲治との3人でバリケード封鎖を決行した。政治思想に関する発言が多く、心情的に左派であることを公言している。1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った。環境・平和問題に言及しており、青森県六ヶ所村の核再処理施設に反対し、受け入れる同県、岩手県の産品の不買運動を展開するプロジェクトSTOP ROKKASHOを始め、河野太郎保坂展人などの政治家、小室哲哉などのミュージシャンからも賛同を得ている。

 塩崎恭久
- 政治家。安倍内閣内閣官房長官全国浪人共闘会議(浪共闘)に参加。

【全学連運動斜陽期の活動家の生態考】
 全学連運動斜陽期とは、1971年以降から1980年代までを想定することにする。この時代の活動家もその後は様々である。確認し得るのは、***。全学連運動斜晩とは、1981年以降から現在までを想定することにする。この時代の活動家もその後は様々である。確認し得るのは、***。


 【革マル派の最高指導者・黒田寛一逝去】

 2006年6月26日、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)最高指導者の黒田寛一氏が肝不全のため逝去(享年78歳)。旧制東京高等学校中退後、出版社「こぶし書房」を自営。マルクス主義研究サークルである「弁証法研究会」(ミニコミ誌「探究」)を主宰し、その傍らマルクス主義の研究、著作を重ねた。太田龍らとともに日本トロツキスト連盟を結成。太田派の離脱(「第一次革共同分裂」)を経て、1957年12月、黒田は革命的共産主義者同盟(革共同)の議長に就任。1959年初頭、黒田自らが組織情報を警視庁に売ろうとしていた事件が発覚し、同年8月の革共同第一回大会で「スパイ行為という階級的裏切り」として除名される。この時、黒田とともに「革命的マルクス主義グループ」(RMG)の実務を担っていた本多延嘉は黒田を弁護し、本多は除名された黒田の後を追って革共同を離党し、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成する(「革共同第二次分裂」)。1962年、第6回参議院議員通常選挙全国区に党公認で出馬するが落選。1963年2月、情勢認識や党建設方針をめぐって本多派と対立を深め、革共同全国委員会は本多らの「全国委員会」と黒田が率いる日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)に分裂する(「革共同第三次分裂」)。これにより、革命的共産主義者同盟は革共同、中核派、革マル派の3派に分裂した。1996年10月、黒田は健康上の問題を理由に議長を辞任するものの、死去するまで革マル派の最高指導者であり続けた。


 【太田龍逝去】

 2009年5月19日、太田龍(おおた りゅう、本名・栗原登一くりはらとういち)が腹膜炎のため逝去(享年)。 元日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。1970年代に入ってアイヌ解放運動、自然食運動の始祖桜沢如一の革命理論を取り込み環境保護論、反家畜制度論に至る。続いてフリーメーソン論、イルミナティ論による歴史的ユダヤの秘密結社論、国際金融資本論に向かう。


 【初代全学連委員長・武井氏が逝去】

 2010年9月2日、初代全学連委員長・武井昭夫(たけい・てるお、文芸評論家)氏が尿管がんのため川崎市の病院で死去(享年83歳)。東大在学中の1948年、全日本学生自治会総連合(全学連)を結成、初代全学連委員長となる。「層としての学生運動論」を著し、学生は階級闘争の主体足り得ると唱え、徳球系党中央の指導に反発し、1950~60年代の学生運動に大きな影響を与えた。1952年、当時「所感派」、「国際派」などに分裂していた日本共産党の東大支部において、当時「国際派」だった不破哲三らに対して、全学連武井グループは「警察のスパイ」の疑いで「査問」を行った。「査問」は実質的には激しいリンチとなり、武井自らが先頭きって暴行した、と安東仁兵衛は著書『戦後日本共産党私記』で証言している。不破はとりわけ激しく殴られ、顔が二倍に膨れ上がるほどだったという。その後、大西巨人らとともに新日本文学会の中心的な存在となる。

 1958年、第7回党大会での綱領論議のころから、当時の指導部と対立を深め、1960年の安保闘争のときに、党の政策に反対する声明「さしあたって、これだけは」を谷川雁たちとともに発表し、規律違反として除名されている。1964年、新日本文学会の第11回大会にあたって、会の事務局長をつとめていた彼は、事務局長の名で発表する幹事会報告に、部分的核実験禁止条約への肯定的評価を盛り込むなど、当時の文学運動内部にあった意見の相違をあえてクローズアップし、新日本文学会からの共産党の影響を排除しようとした。そして、大会で報告に反対の意見書を出した江口渙たちを大会後に除籍する先頭に立った。しかし、その後は、1970年には新日本文学会からも離れ、政治党派「活動家集団思想運動』」(機関紙:『思想運動』、機関誌:「社会評論」、発行:土曜美術社出版販売)を組織し言論活動を行っていた。政治党派「思想運動」は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの「既成社会主義体制」の全面的支持に近い立場をとり続けている。2002年、北朝鮮金体制による「日本人拉致」を金正日が認めた際には、武井は機関紙上において「共和国は拉致しただけだが、日帝は朝鮮女性を拉致した上に強姦した」と述べている。主な著書に「層としての学生運動」、「武井昭夫批評集」、「武井昭夫状況論集」、吉本隆明氏との共著「文学者の戦争責任」などがある。

 連合赤軍事件の主犯・永田洋子(ひろこ)が逝去】

 2011.2.5日、法務省発表によるとこの日、1971年から72年にかけて大量リンチ殺人などを起こした連合赤軍事件の主犯として、死刑が確定していた元最高幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚(65)が、収容されていた東京・小菅の東京拘置所内で死亡したと2.6日、正式に発表した。死因は多臓器不全。永田死刑囚は脳萎縮、誤嚥(ごえん)性肺炎で治療中だったが、病状が悪化した。



呼びかけ人(2003年4月26日現在)

前田知克(弁護士).矢山有作(元衆議院議員).内田雅敏(弁護士).糸井玲子(平和を実現するキリスト者ネット).伊藤誠(経済学者).石崎敦子(住基ネット不参加杉並の会代表).伊藤成彦(中大名誉教授).大倉八千代(草の実).大島孝一(キリスト者政治連盟委員長).小河義伸(平和を実現するキリスト者ネット事務局代表).奥平康弘(東大名誉教授).小田実(作家).金子みつ(元衆議院議員).國弘正雄(元参議院議員).小林孝輔(青山学院大学名誉教授).木邨健三(日本カトリック正義と平和協議会事務局長).佐治孝典(兵庫・9+25市民の会代表世話人).島田麗子(元日本YWCA会長).鈴木裕子(女性史家).武田隆雄(平和をつくり出す宗教者ネット).鈴木伶子(日本キリスト教協議会議長).中平健吉(弁護士).坂内義子(キリスト者政治連盟副委員長).山内敏弘(龍谷大学教授).朝日健太郎(評論家).大野拓夫(緑の市民).三宮克己(前府中市議).嶋崎英治(三鷹市議).島田清作(ACT).高岩仁(映像文化協会).斎藤貴男(ジャーナリスト).布施哲也(前清瀬市議).前田裕晤(大阪全労協議長).山田達也(前新潟市議).吉岡徳次(元総評副議長).岩永達郎(元明治大学教授).大津健一(日本クリスチャンアカデミー関東活動センター所長).岡本厚(『世界』編集長).岡本三夫(第九条の会ヒロシマ代表).鎌田慧(ルポライター).北西允(広島大学名誉教授).北野弘久(日大名誉教授).斎藤千代(あごら編集部).佐藤龍市(ちぇんじじゃぱん).篠原茂弥(第9条の会・オーバー東京).清水建夫(働く障害者の弁護団).中村美代子(女優).中山均(新潟市議).野田隆三郎(岡山大学名誉教授)萩尾健太(弁護士)橋本久雄(小平市議)内田哲男(下館市議)金子和雄(つくば市議)長南博邦(野田市議)谷口薫(松戸市議)俵儀文(子どもと教科書全国ネット21)千葉常義(元米沢市議)塚本健(前東大教授)古川純(専修大教授)分銅惇作(国文学者).堀広士(弁護士)三木睦子武藤陽一(日本友和会)門間幸枝(ピースシンガー).山本俊正(日本キリスト教協議会総幹事)手塚弥太郎(栃木市議)中野新(弁護士).石川亜矢子(ちぇんじじゃぱん)井上二郎(弁護士).陣内直行(三多摩フォーラム)毛利亮子(平和を実現するキリスト者ネット)門間淑子(羽村市議)杉村昌明(龍谷大教員)西原美香子(日本キリスト教協議会幹事)丹波雅雄(弁護士)寺尾光身(名古屋工業大学名誉教授)由井哲夫(日本キリスト教団東中国教区副議長)吉岡淳(前日本ユネスコ協会事務局長)吉田和雄(市民の意見30)吉原節夫(元「国際労研」編集長)いいだもも(評論家)生田あい(協同・未来)中村勝(名古屋学院大教授)難波幸矢(日本キリスト教団常議員)草地大作(日本キリスト教団境港教会)倉橋剛(日本キリスト教団琴浦教会牧師)清水信之(狛江市議)宇野稔(日本キリスト教団東中国教区牧師)平井文則(日本キリスト教団湖山教会牧師)藤原寛人(日本キリスト教団東中国教区書記)脇本寿(キリスト者平和の会代表)前田朗(東京造形大学教授)池田香代子(翻訳家)岩淵達治(学習院大名誉教授)梅靖三(東葛市民の会)片岡顕二(自衛官人権ホットライン)亀谷保夫(東北全労協事務局長)清野和彦(元日教組副委員長)工藤英三(前創価大教授)小寺山康雄(ACT編集長)清水宏幸(医師)高橋治(福祉法人理事長)高山真三(元都議会議員)坪井俊長(東北全労協議長)坂内宗男(日本友和会)福田実(北区議)むとう有子(中野区議)山田敏行(新宿区議)乱鬼龍(川柳作家)松枝佳宏(兵庫・9+25市民の会事務局長)福富節男(数学者・元東京農工大教授)仲尾宏(京都造形芸大教授)平坂春雄(元全港湾関西地本書記長)高柳博一(無教会)大沢豊(立川市議)名取美佐子(日野市議)太田武二(ぬちどう宝)石川一郎(鶴岡市議)磯野正(北区地域労組委員長)河村洋二(農協労連書記長)江原栄昭(元中野区議)小林誠一(医師)西村裕(キリスト教秋津集会伝道者)市原禮次郎(前日本友和会書記長)来栖宗孝(元東海大学教授)上田哲(元衆議院議員)原義弘(社会保障制度研究会)河村宗治郎(兵庫県被災者連絡会会長)原和美(戦争への道を許さない兵庫おんなのネット)鍋島浩一(兵庫県農業問題懇話会)佐野修吉(世直しネットワークひょうご事務局)あわはら富夫(神戸市議)赤松徳治(詩人)門永秀次(兵庫・9+25市民の会世話人)上野恵司(憲法を生かす会・兵庫)井口諭(聖公会司祭)浜田嘉彦(高知県議)坂本茂雄(高知県議)黒川征一(徳島県議)藤田恵(元徳島県木頭村村長)亀割浩三(高松市議)真鍋知巳(病院長)津田道夫(評論家・障害者の教育権を実現する会)今村嗣夫(弁護士)鈴木慰(日本聖公会正義と平和委員会)田光信幸(日本聖公会小金井聖公会牧師)海老名幹雄(日本カトリック正義と平和協議会)馬場昇(元衆議院議員)福士敬子(東京都議)油井義昭(日本福音キリスト教会連合長津田教会牧師)村瀬俊夫(日本長老教会教師)須賀誠二(日本キリスト教団東京愛隣教会牧師)日下部信雄(流山市議)高橋昇(「技術と人間」編集人)今井一(ジャーナリスト)渡辺一枝(作家)渡部智暁(グリーン・ユース・キャンペーン)宮原理恵(映画「ヒバクシャ」事務局)坂野哲也(元全港湾労組委員長)進藤敬子(有事法制に反対する久喜市民の会事務局長)上野百湖(無防備・非核ネットワーク北海道)中田作成(元大阪工業大学教員)下里勝美(憲法を生かす会船橋)勝守寛(第9条の会日本事務局代表)鶴見俊輔(哲学者)豊田政義(関西労災職業病対策会議代表)岩中伸司(熊本県会議)布野栄一(日大名誉教授)住谷磬(同志社大名誉教授)小倉襄二(同志社大名誉教授)金城睦(弁護士)太田隆徳(弁護士)富永国比古(医師)鈴木五十鈴(老人党)鈴木建三(都立大学名誉教授)太田一男(酪農学園大学教授)仁杉秀夫(三島市会議)橘幸英(元東京都職労書記長)小出啓子(東京YMCA,日本友和会)新井政義(第9条の会、オーバー東京)猪俣和雄(久喜市議)三木郁子(向島町会議)松尾匡(久留米大学経済学部教授)市原広子(社民党・狛江)田浪正博(「あたらしい憲法のはなし」編集・発行人)佐藤周一(第9条の会ヒロシマ世話人)横山多枝子(「入試制度廃止論」著者)本田三千雄(運送業)山下慶喜(新社会党大阪府本部委員長)秋田信弘(かながわ平和憲法を守る会)森実真弓(有機農家、フリーランス翻訳家)松居りゅうじ(新日本文学会・詩人)井原東洋一(長崎市議)小林賢一(憲法を生かす会・高荻事務局長)深谷貞栄(憲法を生かす会・高荻代表)安里英子(フリーライター)千葉紀彦(川越ともに生きる会)武井昭夫(評論家)中小路清雄(元日教組書記長)田中茂仁(弁護士)高橋康博(川越市議)市川純雄(元高校教師)佐野稔(和歌山大学名誉教授)小林義昭(新潟市議)浦田秀夫(船橋市議)岡安敏雄(明和町議)野田弘(イラク派兵違憲訴訟の会)星野弥生(翻訳業)水上賢治(日中労働者交流協会理事)小川登(桃山学院大学教授)笠井貢(富士戦争展実行委員)佐藤珠代 三上一雄堀井進(新社会党岡山県本部書記長)下里勝美 宮川元一木村真也 小林義昭(新潟市議)今村直(キリスト者政治連盟書記長)河本末吉 成畑哲也(船橋憲法を生かす会)花輪不二男(世田谷地区労顧問)細田威行(ちぇんじ じゃぱん)松村哲雄宮部健(日本友和会)吉田明(かながわ平和憲法を守る会事務局次長)河本末吉(元全港湾労組委員長)服部良一(関西沖縄問題連絡会)菅谷貢(千葉高教組船橋支部長)戎野弘(徳島県日和佐町議)池田和則(N関西労)川合隆史(第9条の会なごや・理事)寺沢文子(千代田区議)重松朋宏(国立市議)山田征(三六市民)本田洋子(老人党)原田伊三郎(老人党護憲+)石井俊雄(長生村議)柏本恵司(憲法を生かす会・八尾)和田米吉(安城市議)山田盟子(ノンフィクション作家)打本顕真(大乗寺住職)渋谷澄夫(元北海道議)石田勉(音威子府村議)杉浦香(憲法を生かす会・旭川代表)永江力(憲法を生かす会・旭川事務局長)日浅成俊(浜頓別町議)伊豆田アキ(元全林野北見地本女性部長)水由正美(元札幌市議)八重樫好(元民間労組役員)小峰義雄(占冠村議)熊崎栄(占冠村議)村上美鈴(向島町議)今野宏子富田善朗(労働運動研究)駒井高之(パート労働者)横山多枝子(「入試制度廃止論」著者)由木英司(広島県日中友好協会青年委員会委員長)五日市正弘 仰木節夫 大友陽子(日本友和会) 阿部静夫高橋国明鶴巻俊樹(三条合鴨水稲会)まよなかしんや(フォークシンガー)秋定嘉和(池坊短大名誉教授)渡辺充春(歯科医師)池田真理子(薬剤師)相川晴彦 中田作成塚本健 田中丈悦(堺市議)久保在久椛島博明(荒尾市議会議員)鈴木直樹(自治体労働者)斎藤隆靖(新社会党台東代表)山本康彦(郵政全労協・郵政ユニオン香川支部)熊坂哲 小野正嗣(千葉教船橋)山田真(小児科医)岡下敏男 杉山隆次(かながわ平和憲法を守る会)中西仁郎 市川和雄南雲明男(日本フッ素研究会会員)久保田美佐子 板詰美代子(カトリック正平協)伊藤花の日 片岡久明山本崇記(立命館大学院生)左近明子 大野幸子 山本和博 福岡文隆 銀林美恵子(丸木美術館理事)山村直樹(書家・著述)高田正敏西成田貞子 河辺明敏(名古屋・平和資料室)原田京子坂本俊治(全逓)織田理英(会社役員)富田杏二 平沢勝男 谷口繁治 安達正之

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○呼びかけ人・賛同人(順不同・敬称略)
尾形憲(法政大学名誉教授)、樋口篤三(日本労働ペンクラブ会員)、生田あい(『検証 内ゲバ』PART2著者)、吉留昭弘(『検証内ゲバ』PART2著者)、いいだもも(『検証 内ゲバ』PART2著者)、蔵田計成(『検証 内ゲバ』PART2著者)、西川享(『検証 内ゲバ』PART2著者)、渡辺一衛(思想の科学研究会会員)、すが秀実(文芸評論家)、津田道夫(評論家・「障害者の教育権を実現する会」事務局員)、来栖宗孝(著述業)、米沢泉美(トランスジェンダー)、片岡顕二(反戦自衛官)、藤尾靖之(反戦自衛官)、佐藤備三(反戦自衛官)、小西誠(社会批評社代表)、きさらぎやよい(編集者)、小林義也(ライター)、富永さとる(西東京市民)、松田健二(社会評論社)、早見慶子(イリオス代表)、noiz (Anarkiismo Informo Centro)、津村洋(『国際主義』編集会議IEG)、伊藤一(『国際主義』編集会議IEG)、山田宏(『国際主義』編集会議IEG)、中井一(大学院生)、北山峻(コム・ネット)、志摩玲介(社会主義研究者)、出口綾子(地球市民アカデミア二期生)、根田悟郎(法政大学生)、まっぺん(ネット掲示板「四トロ二次会」主宰)、井上はるお(『サイバーアクション著者』)、角田裕育(『キツネ目のスパイ宮崎学』著者)、黒目(共産趣味者)、鶴見俊輔(哲学者)、伊藤成彦(中央大学名誉教授)、野添憲治(作家)、武藤功(文芸評論家)、浅田光輝(立正大学名誉教授)、塩川喜信(大学教員)、井之川巨(詩人)、大野明男(名護サボーター事務局長)、針生一郎(和光大学名誉教授)、岩永達郎(「憲法・みどり・農の連帯」共同代表)、岩淵達治、五十嵐良雄(現代教育研究所所長)、池田清彦(山梨大学教授)、倉持庄次郎、松下清雄、中野徹三(社会主義研究者)、興石正(商人)、宮田勝喜、松浦英俊(僧侶)、槌田劭(京都精華大学教員)、野口正路(詩人)、大橋孚(慶応大学名誉教授)、乱鬼龍(川柳人)、柳田真(都労連交流会・たんぽぽ舎)、中正敏(詩人)、永田育夫(文学研究者)、山田洋一(人民新聞)、堀込純一(社会主義研究者)、守田典彦(マルクスの思想と理論研究者)、久野成章(三里塚一坪共有者、中核派によるテロ襲撃被害者)、鈴木康丈(大学院生)、鹿島拾市(ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明・呼びかけ人)、国富建治(新時代社)、田村ゆかり(東京都民)、島田健作(ラディカル・ヒューマニズム研究者)、高田鉄夫(テクニカルライター、検証内ゲバPartⅡ執筆者)、園江光太郎(ライター)、佐藤悟志(政治結社「青狼会」総統)、小池和彦(LENK)、野村修身(工学博士)、れんだいこ(左派運動研究家、サイト「左往来人生学院」主宰)、山本夜羽(マンガ家)、木畑壽信(日本社会学会会員)、木谷公士郎(司法書士)、TAMO2(エンジニア)、渡邉修孝(元自衛官・「パレスチナに献花を」メンバー)、重松朋宏(東京都国立市議会議員)、野木裕子(フリージャーナリスト)、矢部史郎(黒ヘル)、鬼薔薇(家業手伝い)、山根大次郎(失業者)、細木悟 ●他1名




大森勝久
奥浩平
表三郎
加藤三郎 (新左翼)
川野純治
北島邦彦
桐山襲
神津陽
小阪修平
柴野春彦
白川真澄
すが秀実
高見圭司
滝口弘人
竹本信弘
田村正敏
千坂恭二
所美都子
長谷川英憲
林紘義
牧田吉明
牧野剛
三上治
村岡到
山崎博昭
山田茂樹


 60年安保―6人の証言 №3 早稲田大学国際教養学部教授 森川友義

小島弘氏の証言 №2
 ●「六全協」と全学連の再建
 ――32年生まれというと森田実さんと同じ年齢ですね。それから島成郎さんと古賀康正さんが31年ですね。香山健一さん、小野寺正臣さん、佐伯秀光さん、星宮煥生さん、生田浩二さんは33年。
■高野秀夫は32年生まれ。
 ――牧(衷)さんは?
■彼は海軍兵学校の最後だからもっと年上だね。当時は戦争から帰ってきたやつもみんな一緒だったから。軍隊の学校があったでしょう、士官学校。それで、入ってすぐ終戦になっちゃって、もう一回東大とかに戻ってくるんです。だから、学年をダブっている人が多いんですよ。18歳の中に混ざっておじさんみたいなのが大勢いて。しかも兵隊から帰ってきた人もいるからね。
 ――森田さんや香山さんに知り合ったのはいつですか。
■56年9月に全学連の中央委員会というのがありました。
 ――8中委ですね。7中委が「歌ってマルクス、踊ってレーニン」のレクレーション活動に路線変更した事件。これは55年9月、名古屋でやっていますが…。
■名古屋のやつにも参加していますが、森田に会ったのは、56年9月に8中委、第8回中央委員会っていうのがあった時です。56年6月の全学連第9回全国大会から57年6月の第10回大会の間に、この8中委があって、その時に委員の欠員ができたんです。僕の前任者に明大文学部の加藤君という人がいて、中央執行委員になっていました。彼が病気で休んでいて、その時に補欠で同じ文学部の僕が補充されたんです。9月半ば過ぎると砂川闘争が始まってしまいました。右も左も分からないようなのが突然全学連なんてところに行かされて、その後すぐに砂川に行ってしまったわけです。
 ――大学の自治会活動はその前にやってられましたか?
■56年の夏までやっていました。明治大学の自治会は何人くらいだったかな…。そんなに多くなかったと思う。文学部そのものは一番人数の少ない学部でした。その前まで文学部の自治会委員長やっていて、辞めると同時に中執委員にさせられたんです。森田とは砂川闘争で半月間余り同じ場所で寝泊りしていましたから(親交を深める意味で)それが一番大きかったんじゃないですかね。
 ――森田派に大きな影響を与えた清水幾太郎先生に会われたのは砂川闘争の時ですか。
■56年です。森田がその前年に青木市五郎(砂川町基地拡張反対同盟行動隊長)とか清水幾太郎に会って砂川を応援してくれって言われるんです。
 ――それは森田さんも回顧しています。56年4月末に森田さんが清水先生と最初に会った時の逸話として「その日、清水教授に指定された四谷の鰻屋に行ってみると、そこにいたのは清水教授、高野実前総評事務局長、青木市五郎砂川基地反対運動行動隊長の3氏だった。3氏とも明治生まれの気骨ある立派な人物だった。この3氏から、社会党、総評はいつ裏切るかわからない。全学連よ、立ち上がってくれ。砂川米軍基地拡張反対運動をわれわれと一緒にやってくれ、と熱心に説得された。私は清水、高野、青木3氏の真剣さに心を打たれ、参加を誓った。」とあります。
■その翌年も基地反対文化人会の一員として清水さんは砂川に来ていましたから、森田よりちょうど1年後に知り合ったんじゃないかと思います。
 ――全学連の再建、所謂「第2次全学連の再建」への最大のきっかけは「六全協」になると思いますが、小島さんはどのような反応をされたのですか。
■今は共産党が強くないから分かりづらいけど、当時は大学に入る過程でみな正義感に燃えていました。 日本にこんなに貧乏人が大勢いたら駄目だというので、マルクスの『共産党宣言』等を読んで共感して、共産党こそ理想の社会を築く政党だと思って入ったわけです。そうしたら、途端に「六全協」になって、これはひどいところに入ったなと思いました(笑)。中国の文化大革命前後もそうだと思うけど、「六全協」まで共産党は武力で日本を解放しようとしていたのです。だから山村工作隊や中核自衛隊をやっていたわけです。当時の共産党っていうのはほとんど地下にもぐって裏でいろんなことやっていました。列車襲撃だとか…、その後の赤軍派みたいなもんだね。ピストルで人殺したりというのがずいぶんありました。僕はそんなこと知らないで共産党に入りました。それで、「六全協」でみんなが反省するんです。
 ――反省というのは?
■たとえば僕もびっくりしたことがあったんですが、宮本顕治以下幹部がいて、もちろん春日(正一)もいて、これまで指示してきた幹部がいるところで、30過ぎくらいの女性の党員が涙流すんです。その人の旦那は共産党員で地下工作をやっていて、普段人目に付かないところで活動していたんだけど、時々奥さんのところにやってきたようで…。その奥さんの話だと結局3回妊娠して、3回ともおろしたと言うんです。しかも、党の命令でやったというんです。
 ――どうしてですか。
■革命家にとって子供はいらない、っていうことでしょう。それでとうとう子供が産めなくなってしまった。そしてその女性が泣きながら訴えるんだよ、幹部の前で。私は日本共産党のために子供が産めない身体になりました、って。僕らはその時あまりよく意味が分からなかった。旦那が悪いんじゃないかと思ったりして。とにかく共産党にとってみれば革命が近いから、今で言うアフガニスタンの若者のように命がけでやってたわけですよ。ヒューマニズムを尊重する政党かなと思ってたけど、これはえらいところに入っちゃったなと思いました。その当時、森田とか島とかは東大の学生としてものすごく強烈な意見をはいていました。幹部はみんな反省しろといって。全学連の活動家はたいがい共産党とイコールと思われているけど、全学連というのは共産党の中でも異分子でした。島も森田も。だから全学連の幹部は共産党に対して強烈な追及を始めるわけです。東大の連中はえらく元気がいいなと思った一方で、随分ひどい政党があるもんだな、とも思いました。それで、当時、私は森田とか島とか生田とか、そういう連中に共感して、こういうことをちゃんと言うやつがいるんだと分かって、逆に共産党もまんざらじゃないと思いました。みんな当時は共産党員でしたからね。僕らは党内で自由にものを言っていたんです。後で除名されるわけですけど。
 ――第一次全学連が事実上崩壊して、当時書記局があった金助町(文京区本郷)にほとんど誰もいないような状態になります。ただ「六全協」の反動で、55年暮れから56年にかけて各大学のリーダーが再建していくと諸々の文献にあります。
■僕は最初文学部自治会の委員長としてやりました。全学連の執行委員になったのはその功績があったからではないですかね。当時、森田や島や香山の方針に沿って明大の中で一番積極的にやっていましたから。教育二法案、小選挙区制、授業料値上げの反対闘争なんかをやっていたと思います。明大文学部に春の闘争のストライキをぶち込んでやったんです。後にも先にもそれしかしませんでしたけどね(笑)。それで、「あの野郎元気があるな」と思われて、中央執行委員にされたのでしょうね。
 ――明治大学の同僚は?
■土屋君なんかはそうです。彼は明大全体の自治会委員長をやっていました。当時は法学部、政経、文学部、商学部、経営学部、工学部なんかがあって、それらの自治会が集まって、中心が土屋源太郎でした。彼は塩川(喜信)君が委員長やる時に全学連の書記長になりました。臨時大会で香山が辞める時。
 ――明治大学の他には、森田さん、島さん、生田さん、中村さん、古賀さんも東大です。つまり東大がかなり強かったわけでしょうか。
■人数が多かったからね。
 ――早稲田は?
■東大・早稲田は双璧です。あとは京大とか立命館とか。それらの大学で教育問題に対して授業放棄、ストライキをやりました。それで全学連の運動が復活したみたいな感じじです。その次に教育とか学校の問題ではなく、政治問題としての砂川が出てきた。それで、横の連絡が広がりました。あの頃は、日比谷公会堂とか(日比谷)公園とかで集会やデモをやりましたが、その音頭を取ったのは全学連です。全学連が学生運動として復活したのは56年の春からです。
 ――金助町の全学連書記局再興の中心にいたのは、当時共産党員だった島さんや森田さんだったと言われていますが。
■その前の50年問題で、共産党が二派に分かれた時に、宮本顕治以下国際派にいたのが島です。▲(註3)安東仁兵衛も国際派です。森田や生田はそのあとになります。余談になるけれども、上田耕一郎に聞いた話だと、生田は地下の仕事をしていて上田を査問したらしいんだ。彼は火炎瓶事件の時は裏の方の責任者をやっていて、上田を苛め抜いたらしいんだよ。生田はそういう恐ろしい方の共産党にも関わっていて、「六全協」になったら、今度は、そうじゃない方の全学連に来て、両方やったんです。その後、彼は東大を卒業してペンシルバニア大学に行くんです。そこでは台湾政府代表の羅福全(ラー・フクゼン)と一緒でした。ラーさんに聞くと、「俺が2、3年かかったドクターをあいつは1年で取ったんだ」と。すごく優秀だったらしい。彼は66年にアメリカでアパートの火事に巻き込まれて死んでしまうんですが。彼は伝説の人なんです。ペン大出た日銀の市川君曰く「ペン(シルバニア)大学では日本人で一番優秀だったのが生田だ」と未だに語り継がれているらしいよ。代議士の柳沢伯夫は生田と高等学校がすれ違いなんですよ。彼が静岡高校に入った時、「生田っていうのはものすごい優秀な先輩だった」と言われたらしいです。彼とは5つ以上違うから、高校では会ってないけど。社会科学研究会の中では伝説的な人物なんです。人間早く死ぬと伝説が残りましてね。
 ――上田さんは年齢的にかなり上ですね。生田さんは…。
■33年2月生まれです。東大の駒場にいる時に、担当は中野区だったようです。その時に上田はやられたんだね。
 ――彼の方が年配にも関わらず。
■生田は若くて元気がよかったから。拷問までは行かないけど、多分それに近いことやったんじゃないかな。

 『60年安保 6人の証言』同時代社
 同時代社のホームページは、http://www.doujidaisya.co.jp/






(私論.私見)