軍事訓練、同志総括リンチ致死事件、あさま山荘事件

 (最新見直し2006.9.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 連合赤軍は、榛名山の山岳ベースで軍事訓練をしながら、その過程で結成時のメンバー29名の内12名を同志殺害した。幾人かが脱走し、警察の包囲が狭まり最高指導者の森、永田を初め相当数が逮捕された。これを逃れた5名があさま山荘事件を引き起こした。同志殺人が露見し、最高幹部の森恒夫は拘置所で自殺した。「連合赤軍による同志査問リンチ致死事件問題」は、教訓化されねば、お粗末な上になお粗末になろう。そのお粗末さが今日まで続いている。れんだいこにはそういう思いと関心がある。

 かの事件は、れんだいこの学生運動現役時代に起った。よど号事件、三島事件同様に忘れ得ぬ事件である。批判的に一蹴することは誰でも出来よう。れんだいこは、その内在的論理と実践を解析し、それを総括してみようと思う。既に、塩見氏により「30年目の我が『連合赤軍問題』総括」が為されており、これと対話しながら、れんだいこ観点を打ち出しておくことにする。

 2006.11.3日 れんだいこ拝




1970(昭和45)年

森恒夫の履歴考

 森恒夫の履歴は次の通り。

 森は1944(昭和19).12月、大阪大淀区に生まれた。父親は大阪交通局の現業監督。豊崎中学から大阪府立の名門・北野高校に進んだ。1960年の安保騒動の年であったが、学生運動には全く興味を示さず専ら剣道に打ち込み主将を務めた。学業成績は今ひとつで、1963(昭和38).4月、大阪市立大学・文学部に入学した。入学と同時に「大学生協」でアルバイトを始めた。田宮高麿の履歴は次の通り。1943(昭和18).1月、岩手県生まれ。府立四条畷高校を卒業して、森の1年前に大阪市立大学へ入学した。田宮はブントのリーダーとして活動していた。森は当初は日共系の「統社同」に籍をおいていたが、入学1年後、生協を支配する「社学同」委員長のポストについた田宮高麿にオルグされ、田宮の腰巾着になってブントの学生運動にのめりこんでいった(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括・連合赤軍事件」180頁)。

 1968(昭和43).6月、ブントのリーダーとして頭角を現わした京大生・塩見高也が武装闘争を呼号して上京。これに同調した田宮も東京中央区の月島にある「長田荘」アパートへ移った。森も追随し、田宮の指示で成田闘争に参加して「小隊長」の地位についた。1969(昭和44).1月の安田講堂攻防戦を千葉県成田の農家で見ていた。森は成田闘争から召還し、田宮を頼った。当時、ブントは「関東派」と「関西派」に分裂しており、両者は力による対決の段階に入っていた。6.28日、明治大学構内の明治記念館で「関西派」の集会が開かれた時、弁士になっていた同志社大学の藤本敏夫と司会役の森が「関東派」の学生に拉致される事件が起こった。藤本は「関東派」が要求する自己批判を受け入れなかったため人事不省に陥入るほどの暴行を受けた。森は「関東派」に這いつくばって謝り、逃げ去って無事に帰るという事件が起こった。


【永田洋子の履歴考】
 永田洋子の履歴は次の通り。

 1945(昭和20).2.8日、東京都文京区元町に生まれた。父は電気会社の玉川工場で働き、母は看護婦として働く共働きの家庭であった。1957(昭和32).4月、田園調布にある私立・調布学園中等部に入学した。1963(昭和38).4月、私立・共立薬科大学に入学しワンダーフォーゲル部に入った。入学後しばらくして社会科学班に入り、樺美智子さんの虐殺抗議集会やポラリス原潜寄航反対の集会に参加したりした。1964(昭和39).1月、ブント社学同の会議に誘われ、3.20日、金鐘泌・韓国外相の訪日反対のデモに参加し、5月、社学同ML派に加盟した。1966(昭和41).2月、大学3年の時、パセドー氏病と診断された。この病気は、甲状腺ホルモンの過多から起こる病いであり、首が太くなり目が飛び出すといった症状がでてくる。社学同ML派が日韓闘争の総括を巡り内部対立する中、1967.3月、大学を卒業し慶応病院の研究生となり、薬学の社会的学問分野の運動と婦人解放問題に取組んだ。1968.3月、日共に造反した神奈川県「革命左派」が結成されると参加し、慶応病院付属病院の薬局で無給の医局員をつとめたあと、品川の三水会病院に勤めた。1968年秋、済生会病院の薬局代表になり夏のボーナス闘争では団交に参加するようになった。1969(昭和44).4.20日、横浜市鶴見で「京浜安保共闘」が結成され、東京水産大学の坂口弘が指導者になり、永田はこれに参加して「女闘士」と見られるようになった。京浜安保共闘の坂口弘、吉野雅邦など5名は、東大闘争の挫折以来、低迷していた学生運動にカツを与えることをねらい、9.4日、愛知外相が訪米、訪ソに向かう飛行機を羽田において火炎ビンで襲撃する闘争を行い、有名になった。主要メンバーが逮捕されて危機的状態になった京浜安保共闘の公判闘争などを通じて、永田洋子は京浜安保共闘の組織の中枢を占めるようになった。1971(昭和46).2.17日、京浜安保共闘の吉野雅邦が栃木県真岡市の塚田銃砲店に押し入り、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾2300発という大量の武器を入手することに成功した。

【山岳ベースでの軍事訓練】
 赤軍派と「革命左派」の合同で結成された連合赤軍は、共同の軍事訓練をすることで合意し、群馬県の山岳アジトに向かった。これに参加したのは、時期は前後するが旧赤軍派9名(中央委員の森、坂東、山田。同メンバーの青砥、遠山、行方、植垣、山崎、進藤隆三郎)。旧革命左派の17名(中央委員の永田、坂口、寺岡、吉野。同メンバーの尾崎充男、小嶋和子、前田広造、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、伊籐和子、寺村雅子、石田源太、加藤能敬、加藤倫教 加藤M、山本順一と保子、中村愛子の面々であった。

 1971.12.2日、革命左派が、赤軍派の設営した新倉ベース到着。殆ど初対面の同居となった。

 12.3日、赤軍派と革命左派の共同軍事訓練が始まる。夕食後、全体会議で、各自が決意表明する。森が赤軍派、永田が革命左派の代表となり指導部を構成する。この時早くも両派の主導権争いが始まる。彼等は互いのライバル意識の中、厳しい規律を課し合うことになる。これが後に同志殺害の悲劇をもたらすことになる。

 12.7日、共同訓練を終え、両派の代表による射撃競争の後、全員が決意表明する。その時のことを著書の中で、植垣が次のように述べている。
 「小屋に戻ると、ただちに共同軍事訓練の総括会議が開かれた。一人ひとりが意見を述べたが、感激した意見が続き、全体に団結の雰囲気が盛り上がった。最後に、全員でインターナショナルを唄って、共同軍事訓練を終えた」(植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」)。

 坂口が次のように語っている。
 「森君はこの後、自分の生い立ちを語り、さらにブントの総括も行った。かなり長い時間立て板に水の調子で演説していたが、突然調子が乱れ跡切れ跡切れになった。何事が起きたのか、と思って見ると、涙を流し、胸を震わせているではないか。全員シーンと静まり返り、やがて誰かが貰い泣きをした。すると釣られて何人かのメンバーもすすり泣きした。私も胸がジーンと熱くなってしまった」(坂口弘著「あさま山荘1972」下巻)。

 永田が次のように述べている。
「(森が)途中から泣き出した。私は何か変だ、変だと思って下を向いていたので、泣き出したのを聞いて妙に気はずかしくなりよけいに下を向いて考えていた」(永田洋子著「十六の墓標」下巻)。

 板東が次のように述べている。
 「そうした中で、森同志が最後に発言し、泣き出しました。それにつられて、自分以外の全同志が感激して泣いていたように思いました。私の方は何故、森同志が泣いているのかわからず、逆に何か変な方向にいっているとシラーッとした気持ちになったり、泣かない自分の感性が悪いのではないかと思ったりしました。誰かが、「諸君、この日を忘れるな!」というのが何か芝居じみていて、妙に恥ずかしくなりました。寺岡同志が「皆でインターナショナルをうたおう」と提起したあと全員で立ち上がって、腕をくんで歌い出したときも、とても歌う気ににならず、声も出なかったような状況でした」(坂東國男著「永田洋子さんへの手紙」)。

 12.8日、赤軍派の森、山田、革左の永田、坂口で指導部会議を行なう。

【同志総括リンチ致死事件その1、1970年末】
 12.9日、森が、赤軍派系同志の行方・遠山・進藤に対する批判を開始する。幹部が下級兵士に対して共産主義の名の下に人間改造を叫び、総括と称して様々の理由を付けて正座させたり、柱に縛ったりして自己批判を迫り、全員で殴打、極寒の屋外に放置で始まったが、次第にエスカレートして行き、狂気と恐怖が支配する中、男女関係の些細なことまで罪状に挙げられ、様々な理由と方法で処刑されていく事になった。その死は「敗北死」と決め付けられた。
 12.10日、新倉ベースから、永田と坂口が下山する。
 12.12日、新倉ベースから榛名ベースに向かう。この時、森が、植垣と青砥に遠山批判を口授する。植垣が遠山批判する。永田と坂口が到着する。
 12.14日、新倉ベースから、山田(大槻節子と岩田平治ともある)が、「12.18柴野虐殺弾劾追悼1周年集会」の為に下山する。
 12.15日、革命左派の榛名ベースが完成する。
 12.16日、新倉ベースから、森と板東が下山する。
 12.18日、上赤塚交番事件1周年記念のこの日、警視庁警務部長の土田国保宅に届けられた小包が爆発し、夫人即死、子供が重傷を負う。
 同日午後6時、革命左派と赤軍派合同で「12.18柴野春彦虐殺弾劾1周年追悼集会」を板橋区民会館で開き約7千名を集める。この時、京浜安保共闘と革命戦線の主催ではなく、党派的な集会色を強めていたことで獄中派、合法派、非合法派間に若干の疑義を生じさせている。山岳ベースの非合法派=山岳指導部による意図的混乱陽動であった。
 12.20日、榛名ベースに、森と板東が入る。二人の榛名ベース来着は、新倉での合意に基づいて新党の内容を協議する為であった。徹夜討議で、毛沢東式「三大規律、八項注意」を精神化させつつ「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を勝ち取るというのではなく、銃による殲滅戦を掲げた連合赤軍の地平で共に勝ち取る。その為に各人の根底的な総括が必要であり、この闘いは解党解軍主義即ち分派との闘争をやり抜くなかで可能となる。この共産主義化の闘いを推進して行く」ことを申し合わせる。
 12.21日、榛名ベースで引き続き指導部会議が開かれ 永田が森の路線に歩み寄った形で新党結成が決まる。「青年共産同盟」が、日本共産党を離党した毛沢東路線の武闘派新左翼集団「京浜安保共闘」と合同し、「連合赤軍」として正式結成される。リーダーに森恒夫が選出される。
 同日、岩田平治が加藤能敬を連れて小屋に戻って来る。二人は、「山が危ない。12.18集会の対応に問題がある」とする「意見書」を差し出す。永田が、「銃の観点があれば、こういう意見書をだすことはなかった」と述べ、自己批判を要求した。両名はこれに従う。その後、加藤に対する査問が開始される。何時の時点かは不明であるが、尾崎充男に対する査問も並行する。
 12.22日、森と永田が、「これまでの各自の活動を総点検し、根底的な総括をする必要がある」と説く。夕食後の全体会議で、森が加藤に対して逮捕前後の行動を問い詰めて批判を再開する。一段落後、森の独演会が続き、自然発生的に加藤のリードで下級兵士派の合唱が始まる。
 12.23日、山田が榛名ベースに入山。指導部会議が開かれ、森、山田、坂東(赤軍派)と永田、坂口、寺岡、吉野(革命左派)の7人体制の指導部が構築される。森の「赤軍派の目的意識的な『上からの党建設』に対して、革命左派は自然発生的な『下からの党建設』に止まっている。共産主義化の闘いは目的意識的なものに発展させられねばならない」を基調報告として確認する。これが「党の為の闘い」の起点となる。
 12.24日、指導部会議が開かれ、森が、革命左派の最高指導者・川島豪批判を開始する。革命左派は沈黙を余儀なくされる。続いて、獄中の赤軍派幹部・八木健彦を解党解軍主義であるとする批判を開始する。その後、獄中や海外組の赤軍派の有力メンバーを一人ずつ採り挙げ品評する。この時、批判を免れたのは、塩見、田宮の二名きりであった。 同日夜、加藤のリードで下級兵士派の合唱が始まる。
 12.25日、加藤能敬と小嶋和子が作業から外され、自主総括を強制される。森が、革命左派の河北と川島豪の批判を開始する。この時、「河北との闘争では、脚の1本や2本へし折ることぐらいのことをすべきであった」と力説する。
 12.26日、大槻が帰還する。森が、永田の生い立ちのプロレタリア性を賛辞し、自身の生い立ちについても語り、二人が出会うべくして出会ったことを強調する。次に、川島批判を繰り返し、「『上からの党建設』の立場に立って、川島と決別し、分派闘争すべき」と述べ、革命左派に決別を迫る。永田が「ブルジョア的な遅れている兵士の再教育」の必要性について強硬な意見を出し討議が続いた。

 京浜安保の12.18集会に対する加藤、岩田の意見書が出され、この意見書に対して、加藤能敬と小嶋和子が総括を求められた。

 12月26日夜、永田が、加藤と小嶋が接吻しているところを見たことから追及が始まる。「加藤の小嶋恋慕問題」を採り上げ、「神聖な『我々』の場を穢した」と批判する。森が、「これまでの総括の限界を乗り越え、真の総括に向かう為に殴り気絶させる。気絶から覚めた時、共産主義化への道が開ける」として殴打総括を要請する。強靭な革命戦士要請という共産主義化を目的とする殴打であるとする意義付けを確認する。

 12.27日未明、森が、加藤に対する殴打総括を指令。寺岡、坂東、吉野の3人が寝ている加藤をシュラフから出し、森が自ら「小嶋に対する行為や、この間要求された総括に何ゆえ答えようとしないのか」と大声で難詰しながら顔面に鉄拳を飛ばす。吉野、坂口、坂東、寺岡、山田らは指導部の殴打が続いた。寝耳に水の下級兵士が起きだし自然に加藤を真ん中とする二重の輪が作られる。下級兵士たちの殴打が続く。この間、加藤本人も兄弟も共産主義兵士になる為の試練として殴打総括を受け入れている。

 加藤が任務中に小嶋と男女関係を持ったことを告白した。永田は、坂口と坂東に小嶋を殴るように指示。坂東が、「お前も同罪だ」と面罵しつつ顔面を殴りつける。坂口が続き、二人が2、3分殴打し続ける。永田が、「男のメンバーが殴るのはまずい」と述べ、女メンバーに切り替える。小嶋に加藤を殴らせ、加藤兄弟に兄を殴らせる。暴行は朝まで続き、加藤はそのまま後ろ手に縛られた。足首も縛られた。

 全体会議が開かれ、永田が、「加藤を殴ったのは同志的援助でった」と述べ、各人が共産主義化を勝ち取るために頑張らなければならないことを強調した。森は、「加藤に対する殴打は、彼の総括を促すための援助であった。彼が気絶しなかったのは、同志に心を開かず、自分を守ろうとしたからだ。縛ったのは総括に集中させるためだ。みんなもそれぞれの総括を深化させていかなければならない」と呼び掛けた。こうして殴打援助論が生まれた。

 指導メンバーが次々自己批判を開始した。吉野が組織の金を使って行きずりの女性と関係を持ったことがあることを告白した。身重の妻・金子みちよが、これを聞いて別れると述べた。会議はさながら告白合戦の様相を呈した。

 指導者会議が開かれ、森は、永田らに「川島との 訣別−分派闘争」を再び迫る。永田、寺岡、吉野の3名が、最後に坂口が同意。森が新党を宣言する。永田の提案で、新倉ベースに残っている遠山、行方、進藤の3名を連れてくることを決める。この日、大槻が戻る。

 生後18日の長女を連れてアジトにやって来ていたた山本順一夫妻が、永田に「夫婦気取りで革命ができるかい」と目をつけられる。保子は目の前で夫が皆からリンチを受けているのを目撃する。

 12.28日、森が、小嶋を縛るように指示、縛られる。板東、寺岡、山本が、新倉ベースに赤軍派残留部隊を連れてくるために下山する。全体会議が開かれ、森が、「皆にそれぞれの問題を語るよう」提起し、何名かが告白した。森が、加藤に対する援助殴打の際に、尾崎が怨恨的言辞を放って殴打したことを問題にした。続いて活動履歴の問題点を総洗いし厳しく批判した。指導部会議が開かれ、森が、大菩薩峠事件を引き合いに出しながら、「日和見主義から投降主義への転化問題」を採り上げた。12.28日夜から、尾崎は板の間で正座され続けた。

 28日から京浜安保は東京、名古屋に散らばる兵士たちを、また赤軍派は新倉アジトに残る赤軍派の仲間を坂東国男が呼びに行き、兵士集めに入っていた。中京安保共闘の山本純一と妻保子は、生後18日の娘の頼良(ライラ)ちゃんとともに、「山の中の理想的な共産主義社会で、親子3人幸せに暮らそう」という希望に燃えて榛名山へ向った。この榛名山アジトに集められた人数は、双方合わせて30名くらいであったと思われる。

 12.29日、森が、「尾崎の敗北主義を克服させるため」として、柴野同志を射殺した警官役の坂口との格闘を命じる。縛られていた加藤、小嶋も「頑張れ!頑張れ!」、「警官を殺すのよ!」と声をかけた。この時の声援の仕方が検討され、加藤は評価され、小嶋はされず逆海老型に緊縛されることになる。

 1時間の格闘後、尾崎が、買い物から戻って通りスギとしていた大槻に鼻血を拭うためのことと思われるが「ちり紙ください」と言ったのを、森と永田が聞きとがめ、「甘えのあらわれ」とし、尾崎をシュラフから引き出し殴打を再開する。金子はこうした暴力的総括に対して批判的で、これ以後森は金子に批判的となる。

 尾崎は、総括要求後も「立ったまま総括しろ」と命令され、森に「休ませてください」と懇願したが、森は聞き入れず、吉野を見張りにつけて戸口に立つたままでの徹夜総括を命令した。夜の全体会議で、杉崎ミサ子が「自立した革命戦士になるため」と、寺岡との離婚を表明。金子みちよも吉野との離婚を表明した。
 
 12.30日、尾崎が縛られたまま立ったままの姿勢での総括を続けさせられた。夜、前沢、岩田が中村を連れて帰還する。
 12.31日、尾崎が、この間三日間の絶食によるものと思われる「すいとん、すいとん」と呟く。森が、「総括が分かっていない。すいとんと言ったが、あれは何だ」と怒鳴りながら尾崎の腹部を思いきり殴る。坂口、吉野、山田の指導部による暴行が続いた。気絶させることを狙っていた為、凄惨を極める暴力となる。前沢らの下級兵士の膝蹴りが始まり、尾崎が立てなくなったのを潮に終える。その後、尾崎は縛られた。加藤は座ったまま、小嶋は寝かされて逆エビ状に、尾崎は立ったまま柱にそれぞれ縛られた。

 板東と山本が、新倉ベースから赤軍残留部隊の遠山、進藤、行方の3名を連れて帰還する。異様な光景と張り詰めた空気に驚く。夕方、トイレに立った吉野が尾崎が死亡しているのを確認し、「尾崎が死んでいる。早岐、向山らが死んだ時と同じ臭いする」と報告する。尾崎がベースでの最初の犠牲者となった(「1、革命左派の尾崎死亡」)

 森は、「尾崎はわれわれが殺したのではない。共産主義化の闘いの高次な矛盾を総括できなかった敗北死であり、政治的死である。敗北主義を総括しきれず共産主義化しようとしなかった為に精神が敗北し、肉体的な敗北へと繋がっていったのである。本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない。革命戦士の敗北は死を意味している」と説明した。
 
 指導部間で、尾崎君の死亡を全体に知らせるべきかどうかが問題になり、永田の全体報告すべしが採用された。全体会議が始まり、「尾崎が死にました。命をかけて共産主義化を勝ち取っていかなければならない」と述べ、続いて「加藤、小嶋の二人を敗北死させないように必ず総括させよう」という呼びかけに、メンバー全員が「異議なし!」と答えた。これにより加藤、小嶋が戸外の立ち木に緊縛される。

1971(昭和46)年

【同志総括リンチ致死事件その2、1971年初】
 1972.1.1日未明、森が、進藤に対する批判を行なうが、反論したため総括要求した。進藤は、殴打行為には一切手を染めていなかった。森の提案で全員が進藤を殴りつける。遠山が「私には殴れない」と叫びためらうと、「だらしない」と非難轟々となりやむなく従っている。早く気絶させるために森と板東、坂口その他指導部が下腹部を蹴り、進藤はこの時点で肋骨を6本骨折、肝臓破裂という重傷を負った。森の中止指示後、進藤を戸外の立ち木に縛った。会議中、進藤は「もうダメだ!」と絶叫して死亡(「2、赤軍派の進藤死亡」)。森は彼の死を「敗北死」と説明した。
 続いて降雨のため床下に入れられていた小嶋の容体が急変、森や山田が人工呼吸を行なうが死亡した(「3、革命左派の小嶋死亡」)。山田が、森に「死は平凡なものだ。死を突きつけても革命戦士になれない。考えて欲しい」と意見する。森は、「精神と肉体の高次な結合を勝ち取れば死ぬことはない」と述べ却下する。山田は、「うーん、精神と肉体の高次な結合か。よーし分かった」と納得する。
 1.2日、夜の全体会議で、植垣が「大槻を好きになったので結婚したい」と話す。森が遠山批判を開始する。遠山は、「どのように総括したらいいのか分からない。小嶋のようになりたくない。とにかく生きたい。死にたくない」と語る。「小嶋の死体を埋めさせることで総括させよう」ということになり、遠山が「やります」立ち上がると、行方は「俺もやる」と表明した。これにより、遠山と行方が小嶋の遺体の運搬と埋葬に向かう。
 昼頃、新倉ベースから後発隊の植垣、山崎が、前沢の案内で入山する。
 1.3日、行方と遠山は小嶋の死体を所定の場所まで運び、穴を掘って埋めた。これを兵士が見守りつつ「頑張れ!」と声援する。寺岡が、埋められた遺体に対し、「こいつが党の発展を妨げてきたんだ」と遺体を殴るように命令し、居合わせた者がこれに従う。森はその報告を受けて、「敗北死と反革命の死は違う。寺岡君が遺体を殴らせたのはオカシイし、指導部の者は制止すべきだった」と批判する。

 戻ってきた遠山に森は再び総括を求める。「今までは殴って総括を援助してきたが、自分で総括すると言うなら自分で自分を殴れ。自分で自分の顔を殴ってブルジョア女性を払拭せよ」と命令した。遠山は小屋の中央に立たされ、自分で顔を殴らされた。動きが止まると、まわりのメンバーが罵声を浴びせた。”自分殴り”は30分ほど続き、顔は腫れあがっていた。その後、遠山は縛られる。

 夜の指導部会議で「中央委員会」(C・C、Central Commitee)が結成される。序列は森(中央執行委員長)、永田(副委員長)、坂口(書記長)、中央執行委員として坂東、寺岡、山田、吉野の順。会議は翌3時頃まで続いた。森が、集団指導、殲滅戦、党内での分裂活動の禁止を指針させる。
 1.4日未明、行方が縛られる。朝、森が、加藤に「逃げようとしていたの だろう?」と追及。しばらくして土間に縛られた加藤は死亡した(「4、革命左派の加藤死亡」)。永田は加藤の二人の弟たちに「今は泣きたいだけ泣いて良い。兄さんの死を乗り越えて、兄さんの分まで頑張って革命戦士になっていこうよ」と声をかけたが、三男は「こんなことをやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と泣きながら飛び出していった。二男は永田の肩に顔をうずめて泣いた。

 中央委員会で、すでに死亡した4人を別の場所に埋め直すこととし、地図で選定した。森は前田、石田、寺村、植垣、青砥を党員候補に考えていると表明した。

 1.5日、山田、寺岡ら6人が死体を遺棄する場所の調査に出発し、榛名山麓の倉渕村の小高い丘の杉林を見つけてくる。後に判明するが、奇しきなことに「十二塚」と云われるところであった。夜、死体を掘り出す作業。死体を車に積み、山田ら6名が埋め直しに出発。戻ってきたのは朝方。
 1.6日、森が、行方を殴るとように指示。中央委員の他、植垣、山崎も殴った。寺岡は薪で殴っている。夕方、男女関係を追及された遠山が全員でを殴打される。縛り直しの時、寺岡は「男と寝た時のように股を開け」と遠山に指示。メンバーから笑い声が起こると、永田は「そういうのは矮小よ」と叫んだ。遠山は逆エビに緊縛される。
 1.7日、夕方、遠山が死亡(「5、赤軍派の遠山死亡」)。この死を受けても、気にせず立ち去る永田に対して坂口は「薄情だ」と言う。坂口は永田に謝罪を求められ、それに従う。
 1.8日、行方の衰弱が激しく童謡を歌い始める。
 1.9日、行方の死亡が確認される(「6、赤軍派の行方死亡」)。山田ら4人が遠山と行方の遺体を埋めに行く。
 1.12日、板東と寺岡が日光方面へ調査へ向かう。
 1.13日、森と山田の話し合い。山田は妻と子どもを山に呼ばない森に対する批判を強め始めた。山田が資金集めの為に下山する。
 1.14日、森は電話連絡のため下山。戻った後、車の運転にミスし、連絡に間に合わなくさせたとして山本を非難。山本は激しく反論した。青砥と金子が改造弾造りをしていた際に鼻歌を唄っていると、森は「それが総括を求められている者の態度か」と咎めた。夜は寺岡の問題が議題とされる。森は永田に彼の活動歴を聞き、「分派主義だ!」と断定し、総括要求を根回しした。
 1.15日、森が、東京から戻った山田に、寺岡への総括を承認させる。
 1.16日、吉野と寺林が帰還する。
 1.17-18日、植垣、杉崎組と板東、寺岡組が帰還する。森は、寺岡が杉崎ミサ子につきまとっていたことや、自分たちをなめたような陰口を叩いていたことを問題にする。CCである寺岡は抗弁しても殺されると考え、「お前等がリーダーなんて、ちゃんちゃらおかしいや!」と叫ぶ。森は「寺岡を死刑にする」と言い、全員が「異議なし!」と答える。坂東が寺岡の左肩をナイフで突き刺す。森も「お前はスターリンと同じだ。死ね」と、アイスピックで寺岡の胸を刺す。続いて肩を支えていた他のメンバーも心臓や首めがけて突き刺すが絶命せず、4人がかりでタオルで首を絞め殺害した(「7、革命左派の寺岡死亡」)。アイスピックを刺したのはすべて赤軍派の人間だった。
 1.19日、名古屋まで小嶋の妹を連れ出しに言った女性メンバーが戻り、永田に恐れをなした岩田平治(当時22歳)が逃亡したことが知らされる。「もはや榛名はやばい」ということになり、迦葉山に新アジトをつけることを決める。夕刻、山田と山本が下山する。
 1.19日、森、山崎に死刑を宣告する。山崎は「死刑にされて当然です」と涙を流しながら言うと、森は様子を見ることにして縛らせた。夜、坂口ら4人が寺岡の遺体を埋めに行く。
 同日夜、全体会議で、森と永田が、大槻、金子に総括を要求する。
 1.20日、森は、「逃げるつもりだった」と言う山崎に死刑を宣告。寺岡殺害の時にアイスピックで刺さなかった坂口を非難し、坂口はアイスピックで山崎の左太ももを刺す。続いて坂東、植垣、青砥が刺した。そして坂東と吉野がロープで首を絞めて殺害した(「8、赤軍派の山崎死亡」)。森、永田は、「森に取り入ろうとしている」、「主婦のように自分の権威を守る」などという理由で、金子・大槻らを批判。吉野も「僕の方から離婚する。もう金子さんに足を引っ張られたりはしない」と発言。
 1.22日、9名が釈迦山にベース建設のため出発。出発する吉野の世話を焼く金子を見て、森は「あれは女房の態度」と言う。大槻と金子は総括が終わっていないとして榛名ベースに残される。
 1.23日夜、坂口が、他のメンバーと共に山崎の遺体を「十二塚」に埋めに行く。
 1.25日夜、森が金子と大槻を追及。大槻に対して60年安保闘争に関する「敗北」の文字を好んでいたこと、金子へは安易に離婚を宣言したこと、尾崎の格闘について批判したことを問題とした。金子は反論した。翌未明、二人のの緊縛が決定される。
 1.26日夜、坂口、吉野、坂東が山本を囲んで総括要求。無抵抗の山本に暴行が加えられた。終わると逆エビに縛られた。
 1.27日、森は「金子が子どもを私物化することを許してはならず、子どもを(腹から)取り出すことも考えておかねばならない」と発言。
 1.28日、森、永田、坂口、坂東の4名が榛名ベースでC・C会議を持つ。金子への暴行が始まる。金子は「私は山へ来るべきではなかった」と洩らした。午後7時頃、青砥を残して新ベースに移動。
 1.29日、テントを引き払い小屋に移る。縛られている山本、金子、大槻は皆で運び、床下の柱につないだ。山本夫人は「総括してよ、総括してよ」と夫の胸に顔を埋めて泣いた。山本は、「C・Cの方が論理矛盾している」と反発し、舌を噛み切って自殺を図り、猿ぐつわをされる。
 1.30日、午前1時ごろ、山本死亡(「9、革命左派の山本死亡」)。森が、植垣に「新倉ベースで大槻とキスしただろう」と総括要求。植垣を含む全員で大槻への殴打を提起し実行された。その結果、大槻は死亡した(「10、革命左派の大槻死亡」)。植垣は、「兵士たちの連合赤軍」で次のように記している。
 「私は、山崎氏の死に続く大槻さんの死でガックリしてしまった。心の中に大きな空洞ができてしまったようだった。土間で火に当たりながらしばらくボンヤリしていたが、新党が一段と味気ないものになり、ますます積極的な気分になれなくなっていた」。

 その後のC.C会議で、「大口カンパ(現金と車)要請のために森と永田が上京すること、3〜4日の予定だがはっきりは分からないこと、その間は坂口が責任者となって指揮をとること、坂東が中心となり榛名ベースの解体・焼却を行うこと、夜に金子の遺体を埋葬すること」が決定された。
 2.1日、坂口、坂東らは山本と大槻の遺体を埋めに出かけるが、警官を目撃し、森・永田・坂口の手配ポスターがあるのを見つけ延期した。中央委員会で森が山田に総括要求。「一兵士としてマイナスの地平からやり直すべき」と通告した。
 1.31日、奥沢が山田を連れて帰還する。山田に対する総括が始まる。
 2.1日、夕食後、金子が小屋の中へ入れられる。
 2.2日、山田が雪の上に正座させられる。「C・Cを辞めたい」という山田に対する追及が前夜から続いていた。森は彼に食事抜きでマキ拾いをするように命令した。
 2.3日、山田がマキ拾い作業をさせられる。しかし、慣れた植垣と違い手間取り、夜、全員に殴打され、逆エビに縛られた。
 2.3日、森、永田がカンパ要請のため下山、上京。
 2.4日朝、金子の死亡が確認される(「11、革命左派の金子死亡」)。夜、坂東らが金子の遺体を埋めに行く。
 2.5日、坂東や吉野を中心として、榛名ベースを解体に行くメンバーが出発してしまうと、迦葉山のアジトには、坂口・中元・山本妻子と総括を求められて緊縛されている山田だけとなった。
 2.6日早朝、赤ん坊を取り上げられ、夫も殺された山本保子が逃亡。これを受けて坂口は中村愛子に「妙義山にアジトを移すから、山本の赤ん坊を連れて、尾道まで連絡に行ってくれ」と命じた。
 2.8日、森と永田がベースを離れ、坂口が指揮を執る。この頃、前沢が逃亡する。
 2.12日未明、衰弱が激しかった山田が死亡(「12、赤軍派の山田死亡」)。12人目の死亡者となった。これが最後の同志テロとなった。
 以上の過程で死亡したメンバーと死亡日は次の通りである。
1971.8.4 早岐やす子 革命左派
同8.10 向山茂徳 革命左派
1971.12.31 尾崎充男 22歳 革命左派
1972.1.1 進藤隆三郎 21歳 赤軍派
同1.1 小嶋和子 22歳 革命左派
同1.4 加藤能敬 22歳 革命左派
同1.7 遠山美枝子 25歳 赤軍派
同1.9 行方正時 25歳 赤軍派
同1.17 寺岡恒一 24歳 革命左派
同1.19 山崎順 21歳 赤軍派
同1.30 山本順一  28歳 革命左派
10 同1.30 大槻節子 23歳 革命左派
11 同2.4 金子みちよ  24歳 革命左派
12 同2.12 山田孝 27歳 赤軍派

【山岳ベースからの逃亡】
 2.12日朝、坂口は、横川のドライブインに行き、東京のアジトに居る森に電話に「山田の死」を報告した。森は、坂口に上京するよう指示した。「山田の死」を聞いた森と永田は互いを自己批判した後、「共産主義化の論理」により、二人が結婚することを決めた。
 2.13日、坂口は奥田を運転手に、青山を連れて上京した。渋谷にある森と永田のアジトには坂口一人だけが向かった。そして山本の逃亡から山田の死までを逐一報告した。 その後、森、永田、坂口は、RG派のTと会談をした。それ終え再びアジトに戻ると、永田が突然、「森さんが好きになったので、坂口さんと離婚し、森さんと結婚することにする。これが共産主義化の観点から正しいと思う。山田の縄を解いたことを総括して欲しい」と言った。坂口は驚いたが、「分かった。永田さんに助けられてきたが、もうそういう訳にはいかないことは分かっている」と答えた。その後、「山田の遺体はどうした」と問われた坂口は「まだ埋めてない。今場所を探している所だ」と答えた。森は、「どうして早く埋めないんだ。早く埋めるように明日帰って欲しい」と指示した。
 2.14日、坂口は妙義山に帰って行った。
 2.16日、奥沢修一、杉崎ミサ子の2名が逮捕される。植垣らが帰還する。
 2.17日、妙義湖近くで森と永田が逮捕される。
 2.19日午前8時頃、小諸に向かっていた植垣、青砥、寺林真喜江、伊藤和子の4人が軽井沢駅で逮捕される。坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の5人が警察に発見され、「あさま山荘」に逃げ込む。
 2.16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを行なった。午後、群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはまって動けなくなったライトバンがトラックで引っ張ってもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。傍にいた3人の男は逃走したが、残る2人の男女は車の中に閉じこもって、署員の話に耳を貸さずにラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、果ては女も尻を出して排泄するなどしていた。このため署員は車を押して、500m先の人家のあるところまで運んだ。それから以前にアジトに出入りしていたのを目撃した地元の人を呼び寄せて、2人の顔を見せたところ、どうやらこの男女は赤軍メンバーらしいことがわかった。車内の2人は山小屋を作るのに国有林を切ったとして、同夜逮捕された。男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生・杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生・奥沢修一(当時22歳)と判明した。翌日も大規模な捜索は続いた。
 2.16日、4人が乗りこんだ長野行きの汽車が発車すると、通報を受けて張りこんでいた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬類取締法違反で現行犯逮捕された。
 2.17日午前9時半頃、逃げていた森恒夫(当時27歳)と永田が妙義湖近くの山の岩場にひそんでいるのが見つかり、機動隊員10人が近づくと、森はアイクチを抜いて「近寄ると殺すぞ」と怒鳴ったが、隊員の1人が3発威嚇射撃をすると同時に取り押さえられた。実はその前に洞窟に戻る途中だった2人は機動隊員とばったり出会っていたが、「東京から来た俳優です。ロケに来ました。危ないのなら引き返します」と言って逃れていたが、引き返さずにまたもばったり出会ってしまっての逮捕だった。
 2.19日、最高幹部を逮捕された連合赤軍は追い詰められ、植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら4名が逮捕された。メンバーの男女4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店で新聞とタバコを買ったが、この時店員が不審に思って駅員に知らせた。いずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥などで汚れていたためだった。

【あさま山荘事件】
 2.19日午後2時40分頃、長野県北佐久郡軽井沢の別荘地レイクニュータウンを県警機動隊員5名が捜索していた。そのうち一軒の空別荘の雨戸を隊員の1人が開けると、いきなり中から発砲があり、大野耕司巡査長が顔と、左手に散弾を浴び3週間の重傷を負った。中にいた数人の男は裏口から山中に逃げ込み、隊員らも後を追ったが、銃を乱射しながらの逃走であったため見失ってしまった。

 逃げたのは坂口弘(25歳、東京水産大学中退/京浜安保共闘)、坂東国男(25歳、京大卒/赤軍派)、吉野雅邦(23歳、横浜国立大中退/京浜安保共闘)、加藤倫教(19歳、東海高校卒/京浜安保共闘)、加藤の弟・加藤元久(16歳、高校1年)の5名であった。

 2.19日午後3時過ぎ、彼らは空別荘から500mほど離れた河合楽器保養所「あさま山荘」に押しかけ、管理人の妻・牟田泰子さん(当時31歳)を人質にとり占拠した。以降、約10日219時間の攻防を続けることになる。「あさま山荘」は敷地630u、一部3階の2階建て建物で、まもなく警察に包囲され、拡声器による説得が行なわれたが、返ってくるのは猟銃の発射音だけだった。
 包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、装甲車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、連合赤軍メンバーの親族を呼び、説得を行った。中には、犯人と思われたがすでに総括リンチ殺人・死体遺棄事件で殺害されていた者の親が、殺害の事実が判明していなかったため説得を行っていた事が、逮捕後、立て篭もり犯の供述などから明らかになった。しかし、親族による説得工作は奏功しなかった。検討の結果、クレーン車に吊ったモンケーン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。
 2.28日午前9時、第1回目の投降勧告。9時30分、第2回目の投降勧告。9時55分、第3回目の投降勧告。10時、機動隊が実力行使開始する。10時7分、催涙ガス弾が一斉に発射され、銃撃戦が始まる。
 2.28日10時35分頃、警察が放水開始。同10時53分、クレーン車から吊るしたビル解体用の巨大鉄球が3階を直撃。50cmほどの穴が開いた。その穴に向けて、放水が続く。同11時29分、「決死隊」が突入開始。突入の際に機動隊員1人がケガをしている。突入の様子は、テレビで生中継され、その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、人質救出の瞬間は民放、NHKを合わせて視聴率90%弱を記録した。

 赤軍メンバーは3階と屋根裏から銃撃や手榴弾で応戦し、警視庁特科車両隊の高見繁光警部と、警視庁第二機動隊隊長・内田尚孝警視の2名が頭部を狙撃され死亡。警察側の攻略は一時中断した。日が暮れた頃、警察による山荘攻略が再開され、午後6時15分、全員が取り押さえられた。泰子さんは無事救出された。

 結局、この「あさま山荘」事件で警察官2名、民間人1名が死亡、16名が重軽傷を負った。この一連の経過を「あさま山荘事件」と云う。

 ブント戦旗派は、1972..3.3日付け戦旗292号で、「連合赤軍の銃撃戦断固支持」を打ち出す。次のように述べている。
 概要「我々は連合赤軍の銃撃戦を今日の日本階級闘争の本格的武装闘争の、一事実として受け止め、彼らとの真の連帯を目指す。彼らの山岳アジト路線の限界や路線には同意し得ないということから、この銃撃戦を全て総括するとしたならば、それこそ話にならない。一切の評論家的態度は粉砕されなければならない」。

 1972..3.23日付け戦旗294号で、「連合赤軍の破産に関する我々の見解」を発表している。次のように述べている。
 概要「彼ら連合赤軍の諸君の、その凄惨な焦土を越えて、全世界プロレタリアートの武装闘争の進撃の、新たな地平を切り拓かねばならない。如何にしてプロレタリアートの武装を組織化するのか、如何にしてブルジョアジーを暴力的に打倒するプロレタリアートの軍事を準備するのかという観点を抜きにした連赤批判は、現在の状況の中にあっては反動的な利敵行為である。問題は、1・連合赤軍内部、もしくは京浜安保共闘・赤軍派の内部に意見の対立が根強く存在していたこと。2・そのことを『粛清』によって『解決』(局面的に)せんとしたことにある。かかる決定的な事態を招来せしめた最大の根拠が、何よりも彼ら連赤赤軍が、武装闘争の遂行主体として、その政治的組織的軍事的質の全くの未熟さにあった。

 我々が、第二次ブントの痛苦な総括を経る中で、彼らを批判してきたところの、彼らの戦闘団的体質と無政府主義に起因するものに他ならない。彼らは69年の敗北を『武装闘争の意識性の欠落』に求め、軍建設−前段階武装蜂起を提起していった。一面的な妥当性を有したかかる提起は、しかしながら、我々第二次ブントが、では何故にそれまでの我々が『軍事』を欠落せしめていたのかといった主体的組織的問題を見過ごし、『なかった』という結果解釈をもって、『もつ』という主体的決意性に置き換えていったのである。まさに『60年安保は平和と民主主義の闘いでしかなかった』『これからは反帝闘争だ』といった具合にである。従って、彼ら赤軍派の『軍事問題』の提起はそれを欠落せしめていた自らの第二次ブントを内的に克服していくといった現実的苦闘を回避し、7.6の分裂を結果していくことを不可避としていったのである。そしてそれは、『軍事問題』を組織問題としていく契機を永遠に喪失し、戦術−戦略問題としてのみ求められ、実践する戦闘団にのみ自己を切り縮めていくことを必然化させた」。

【あさま山荘事件後の流れ】
 3.5日、2.16日に妙義湖畔にて逮捕された奥田が同志殺害を一部自供。
 3.6日、2.28日にあさま山荘にて逮捕された加藤末弟が同志殺害を自供。
 3.7日、事件の前後に逮捕されたメンバーの自供から大量のリンチ殺人が行なわれていたことが発覚し、この日、山田の遺体が発掘された(3.12日までに全遺体が収容された)。世間に衝撃を与えた。
 3.8日、森が、前橋地方裁判所宛に「上申書」を提出し、逮捕されたメンバー全員に対し、山岳ベースで犠牲にした12名の同志の遺体を遺族のもとに返すよう訴える。
 3.10−14日、逃げていた山本保子、中村愛子、岩田、前沢が相次いで自首し連合赤軍は崩壊した。
 3.17日、全容疑者が殺人、死体遺棄容疑などで再逮捕される。
 3.25日、吉野の証言に基づき、千葉県印旛沼付近の山林にて、革命左派が1971.8.4、8.10日に処刑した2名の遺体発掘。
 4.7日、坂口が、手記を書き始める。
 4.13日、森が、自己批判書を書き始める。
 5.8日、森ら15名が、殺人、死体遺棄等で長野・前橋地裁に起訴される。
 6月末頃、森が、前橋刑務所から拘置所に移送される。
 7.20日、森は、次のような自己批判書をしたためている。
 「私自身がどうして、あのときああいう風に行動したのだろう、としばしば思い返さざるを得ないような一種の“狂気”だと思っている。(中略)考えてみれば、革命にとって狂気は多かれ少なかれ必要な事であり、その意味では狂気ではない。しかし、実際には、それらが革命にとって必要な精神の領域を超えて狂気として働いていたのである。(中略)渡しは自分が狂気の世界に居たことは事実だと思う。私は革命の利益から考えて、有罪であり、その罪は死刑である、ということである。私が、亡き同志、他のメンバーに対して言った『革命家たるものは革命の利益に反する事をした場合、自らの死をもって償わなければならない(中略)』ということを文字通り守らなければならないということである」。

 9.28日、森が、東京小菅の東京拘置所に移監される。
 1973.1.1日、森恒夫(当時27歳)が東京拘置所内で首吊り自殺した(享年29歳)。同じ拘置所の永田は、この知らせを聞いて、「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」と叫んだという。

 森が最後に遺したメモは次の通り。

 御遺族のみなさん、十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。責任はひとえにぼくにある。同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。お元気で。父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。お元気で。愛する人へ、希望をもって生きて下さい。さようなら
 荷物は坂東君に

   一九七三年一月一日         森恒夫


 永田は、同志殺人14名に森と上赤塚交番襲撃で射殺された柴野春彦を加え手記に「十六の墓標」と題している。森の自殺時について次のように記している。
 「森氏の自殺は、七三年一月一日のことである。このことを知った時、私は、新党で同志の死に直面した時のあの重苦しい深いところにつき落とされるような思いがよみがえってきた。押しつぶされてしまいそうな重圧感が一段と大きなものになった。それは、何故森氏が自殺したかを十分に理解させてくれるものであった。同時に、森氏が死刑攻撃をはじめあらゆる非難、中傷に耐えながら、連赤問題を総括し自己批判しぬいていくという困難な闘いから逃げたと思い、卑怯だと思わないわけにはいかなかった。私はもはや死ぬことはできない、逃げることはできないことを痛感した」。




(私論.私見)