場面7 60.1.15日【岸訪米阻止羽田闘争で、全学連が空港ロビーに突入】考

 (最新見直し2007.7.18日)

 これより前は「全学連ら労.学2万数千名が国会突入考」に記す。

【羽田動員を廻る各界の動き】
れんだいこ  いよいよ安保の年となり正念場を迎えますが、ブントは機関紙「戦旗」(編集長・大瀬振)を創刊します。事務所の手配といいこういう裏方は香村正雄氏が為されていたようですね。
 59年の年末から60年の初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上してきた。藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉は1.6日に終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。

 政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条=戦後民主主義秩序に違背する危険不当なものであった。
再来生田  東京共闘会議は羽田動員をあきらめず、1.12日に羽田抗議集会実行委員会を結成することを決めた。この決定は社会党の浅沼に伝えられたが、彼は、次のように激励した。
 「党としては、国民会議の線をはずれることは出来ないが、議員個人が大衆と結びついて活動するのは当然だ。大いにやってくれ」。
れんだいこ  社会党の特徴が現れていますね。左に対して建前では厳しく反対するが、裏口を開けているという気がします。
再来生田  それに較べて日共はひどい。正反対の動きをしております。この時野坂、宮顕が金属執行部の党員を呼びつけて次のように恫喝しています。
 「総評が本気になって、第二地評をつくろうとしているから、跳ね上がるべきでない」。

 要するに、「闘うな指示」ですから身動き取れなくなり、金属協議会、地区共闘がガタガタにされました。
 1.12日、警視庁公安一課の三井氏が、全学連書記局を訪ねて来ました。この時点で羽田動員をぶち上げていたのは我々だけでしたが、「実力阻止を思いとどまるように」との異例の説得がありましたが、ブント全学連のやる気の実地偵察であった気もします。
再来生田  1.14日、安保阻止国民会議の全国代表者会議が開催される。岸訪米に対する態度を議論したがまとまらず、幹事会に預けられた。この時の様子を、56年に東京地評書記局専従書記の竹内基浩氏が次のように証言しています。
 概要「席上、総評・社会党・共産党、特に共産党が断固反対を主張する。で幹事会ではまとまらんと。もう一度代表者会議を開くがやっぱり地方代表はいうことを聞かない」。
れんだいこ  1.14日アカハタは、「16日にはデモの形で羽田動員を行わないとする国民共闘会議の決定を、これを支持する我が党の方針は、多くの民主勢力によって受け入れられている」声明を発表しています。
再来生田  1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられたが、この時日共の態度は曖昧であった。というか穏和な送り出し方針をいち早く打ち出しております。日共は、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかったという史実がある。

 その時の言い回しが次のようなけったいなものです。
 「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)。 
れんだいこ  こういうのを詭弁と云わずに何と云うのでせう。「体は秩序整然、口は抗議」という宮顕手法が典型的に表われております。しかし、こういう論理に騙されるのは、騙される方も低脳としか云いようが有りませんね。
再来生田   そういう社共の方針を見て、総評も羽田闘争の取り組みの中止を機関決定した。革共同も社学同反対派の名で羽田動員に反対した。
れんだいこ  安保改定阻止国民会議は、いったんは「大規模なデモで岸以下の全権団の渡米を阻止する」方針を決めながら、二日前になって、社共両党.総評幹部などの判断でそれを取り消し、盛り上がる下部を押さえにかかりました。昨年末の「11.27の国会乱入を再現しては困る」という配慮からでした。これを「幹部の裏切り」と怒ることは出来ても、行動で示すことは出来なかった。
 この時我々は必死になって情勢を読み、見通しを論じました。戦術如何では全学連内に分裂傾向が深まることもあり得ました。次のように見立てました。
 「社共の裏切りが大衆的な怒りを呼び起こしている現状では、何をやっても『浮き上がる』恐れはない。最高の闘争形態をとるべきだ。ブントが全員逮捕されても、それは安保闘争を進めることになっても。停滞させることにはならない」。

 かくて、社共の見送り方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくという方針を決定しました。ブントと全学連が唯一怒りを引き受け、実際行動で示そうとした訳です。
れんだいこ  しかしかなりの幹部級が逮捕され、組織には痛手となりましたね。
 全国各地から同盟員を集め、殆ど組織を裸のままぶつけた闘いになりましたので、従来の常識からすれば冒険主義と非難されるに値するものでした。「左翼公式戦術から見るなら邪道そのものであった」のですが、社共、総評、国民会議が尻込みしている中で我々が行動で示す必要があると「まなじりを決しました」。
れんだいこ  「云うに任せよ、自ずと歴史が判定する」というところですね。まさにアナーキー系ブントの面目躍如なところだと思います。その時の指導者としての島さんの闘争観、歴史観をお聞かせ願えますか。
 「私達は、政治というものが、決して政治家の予測するような漸進的な仕方で動くものではないことを知っていました。政治が流動化するとき、常々は保守的な大衆がいったん動き出した時、それはいかなるものをも乗り越えて進むものだと云うことを確信していました。

 この機会を逃すような政治組織、自らの勢力拡張の為にのみ闘いを利用し、それを押し止めたり、おののいたりするような既成政党−まさにこのようなものに反逆して私達の組織をつくったのだ。だからこそ、大衆の流れがまさにせきをきって迸(ほとばし)らんとするとき、私達は賭けた。これに堪えられぬ組織は、それだけで死に値する、と決意しました」。

【岸訪米阻止羽田闘争で、全学連が空港ロビーに突入】
れんだいこ  いよいよ「羽田デモ事件」の発生です。
再来生田

 我々の動きを察知した日共が押さえ込みに入りましたが、我々はそういう動きをはねのけて都内各自治会に緊急動員指令を発し、15日夕から全学連先発隊約700人が羽田空港ロビーを占拠、座り込みを開始しました。それは警備側との動員競争でもありました。7時過ぎには、空港ロビーに「共産主義者同盟東大細胞」などの旗がなびき、デモが渦巻き、後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かいました。「春闘には絶望あるのみ、一切の展望は1.16の羽田から切り開かれる」という決意の下になだれこんでいった訳です。

 朝5時半、更に増えた学生と労働者は約2000名となり、振り出した雨の中を第一京浜国道で激しくデモを展開した。これに対し、午前3時2000名の機動隊が突撃した。小野正春は次のように証言しています。
 「唐牛健太郎全学連委員長がホイッスルを首から下げ、機動隊との対決でもそれを吹き鳴らし堂々と対決した」。

 かくて夜明けの乱闘となった。多数の負傷者が出た。
 この間岸首相は裏側通用門から空港に入り飛び立った。以上が概略ですが、この羽田闘争こそが、その後の全学連の行動類型を定めることになった、つまりヒナ型になったという点で見逃すことが出来ない。次のように認識しています。
 「我々だけが日和見的な日共と国民会議を乗り越えて戦い、岸渡米に打撃を与えた。全く新しい大衆闘争が現出した。明らかに我々ブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信を持った。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないと実感した」。
れんだいこ  「生田夫妻追悼記念文集」に、次のように記述されておりますね。
 「あれほど慎重で思慮深く、10年間党指導者としていつも大衆を扇動しながら一度も逮捕されたことのない生田が、羽田闘争では『絶対にパクられるな』との指導部の決定もどこへやら、いい気になってデモ隊に加わり、挙げ句はジュズつなぎになって生まれて初めて豚箱に入る破目になったのも、偶然とは思えない。それまでの彼の思慮を踏みにじってしまうような熱気が、自分の中に涌いてくるのを抑えることが出来なかったのであろう」。
 革命的情勢期の昂揚というものは、あの時の生田の表情と行動が象徴していると私は理解しております。

【マスコミ、各界の反応】
れんだいこ  例によってマスコミは批判的な論調でしたね。
 たちまちにして「世論」はこの全学連の闘いを袋たたきにした。良識左翼人は「赤い雷族」と批判した。マスコミからも「ハネ上がりども」(毎日新聞)、「革命気違いども」(読売新聞)、「赤い暴れん坊」(日経新聞)、「ヤクザ学生運動家」(朝日新聞)、「政治的カミナリ集団」(習慣朝日)、「角帽革命の参謀本部」(習慣読売)等々と酷評された。

 社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。羽田事件後、日共は、再び全学連を「トロツキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。
れんだいこ  他方、一部の知識人からは支持する見解も出されました。
再来生田  全学連を突出させざるを得なかった既成組織の指導性の無さに目を遣る指摘も為されていた。中でも清水幾太郎氏は、全学連を安保闘争の「不幸な主役」と命名し、「全学連のおかげです」と発言して熱烈なエールを送った。
 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められましたが、日共は、逮捕された学生の救済を拒否し、弁護士の支援活動を制約する動きに出ます。発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかり、関根・竹内・大西・山田・渋谷 などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされました。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となります。
再来生田  この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田・片山・古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されている。学連書記局に残ったのは、田中学、山田恭*、神保誠、加藤幹雄(社学同、一橋大)、須藤(社学同、早大)くらいとなった。
れんだいこ  痛手だったでせうね。
 組織の建て直しに懸命でした。しかし闘争とは不思議なもので、ブントが闘えば闘うほど人材が育ち、何とか遣り繰りも出来ました。革命の弁証法を目の当たりにする日々となりましたね。
再来生田  1.16日、羽田闘争後の救援闘争が始まりました。この頃の財務調達の苦心について、全学連書記局の次長兼財務担当・東原吉伸が次のように証言しております。
 「全学連の活動が、従来の学内運動をはみ出し、社会運動の中に桁外れに大きく膨張・展開していたので、当時の全学連の財政状況の内情は火の車だった」。
 「『どのような色がついていようが金に変わりはない。必要な資金を調達すること』。一言でいうと、これが方針であった。島が私にそれを直にねじこんだ。その意味が、無謀で、無茶苦茶であることは、承知の上だった」。
れんだいこ  安保闘争の3年後、東原吉伸氏は、「ごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人たちから資金援助を受けたことを漏らした」。これがマスコミの好餌となります。これについては後で触れようと思います。

【日共、中共の反応】
再来生田  1.19日、新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。かくてこれ以降の安保闘争は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことに なった。
れんだいこ  日共の対応がひどいですね。 1.22−26日、日共は、「第8中総」を開催し、「当面の安保闘争と組織拡大について」の決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。

 1.23日アカハタは、「トロツキストの挑発と破防法による弾圧企図について」という長文論文を発表し、概要「羽田におけるトロツキストの挑発行動は、破防法を政府が改めて持ち出し、民主勢力を弾圧する道具に使う口実を与えた」として全学連を攻撃した。
 1.24日、人民中国外交部は、次のように論評している。
 「軍事同盟条約の調印は、日本軍国主義が既に復活したことのしるしであり、日本が既にアメリカの侵略的な軍事ブロックに公然と参加したことのしるしである」。
れんだいこ  同じ共産党でも、中共は全く正反対に評価していますね。紅い心と白い心の違いのように見えます。宮顕の変調指導に対するリアクションも生まれています。
再来生田  この頃日共内で、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。1−2月、共同印刷・鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞 とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての能力を失いつつあると宣言。自ら2.22日、「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。

 こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。

【革共同全国委員会派の動き】
れんだいこ  この頃、革共同全国委員会派も勢力を伸張させておりますね。60年安保闘争は、ブントと革共同全国委員会派の競り合いで進行している面があります。

 革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあったようですね。2月に革共同全国委員会は責任者黒寛のもとに機関紙「前進」を発行しております。

 次のように檄を飛ばしております。
 「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」、「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」、
 「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」。
 「こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」。
ト書き  座の一堂ザワつく。

【羽田闘争後の動き】
再来生田  この頃の動きは次の通りである。1.24日、岸全権団が帰国。自民党が1万5000名で歓迎集会を開いている。
れんだいこ  この日、社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)が結成されている。委員長に西尾末広を選出。「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げた。
 こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと言うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策だったのでせうね。

 それはそれとして、この時の民社党の動きは別にして民社党論をしておく必要がありますね。れんだいこは、現下のような日共よりよほどまともであったと考えております。本筋から外れますのでこれぐらいのコメントで止しますが。
 1.25日、三井鉱山が三池炭鉱にロックアウト、三池労組は無期限全面ストに突入。
れんだいこ  安保闘争を表とすれば、三井三池闘争はその裏面となって綾を為していきますね。
再来生田  2.2日に「安保国会」が幕をあけた。野党側が鋭く政府を追及した。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。

 これよの後は「ブント第4回大会で安保闘争総力戦宣言考」に記す。





(私論.私見)