場面5 59年ブントの歩み

 (最新見直し2007.7.18日)

 これより前は「ブント解体考」に記す。

【ブントの進撃】
れんだいこ  さて、話を戻します。58年末に党の創設、続く全学連大会の成功をバネにしてブントの進撃が開始されますね。この辺りまで企画演出した島―生田指導部の有能性が歴史に刻まれているように思えます。以降、ブント的急進主義運動が「60年安保闘争」を主導的にリードしていった様を見てまいろうと思います。
 当時ブントは見る見る組織を拡大していきました。60年安保闘争に向けて急速に態勢が整いつつありました。問題は、主体である全学連のイニシアチブを革共同から取り返すことにありました。運動というものは、激烈になればなるほどこれを指導する側の一元化が為されないと具合が悪い面があります。そういう意味でゲモニーの掌握に向かいました。
れんだいこ  さすがに味わい深いお言葉ですね。それはそうと、この頃までは、日共の指導する民青同系は、全学連中央の政治闘争主義化にたじろぎつつも指導に服していたようですね。
 そうですね。しかし次第に云うことを聞かなくなる。
ト書き  座の一堂より笑いが漏れる。
れんだいこ  連中は、自身がイニシアチブを取れない時には分派活動に励み、いったん指導部を握ったら徹底して取り締まるという癖がありますね。なんとも恐れ入る二枚舌を使い分けします。
ト書き  座の一堂より「ソウダ、ソウダ」の声が漏れる。
れんだいこ  1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」が発表されています。香山全学連委員長が責任者として作成されたようですが、全学連中央の統一見解としては採択されなかったようです。全文を手にしておりませんが、ブント的認識の学生運動版のような意義付けがあるようですね。少し耳を傾けてみます。

 冒頭で次のように述べております。
 「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」。

 続いて次のように述べております。
 反スターリン主義の理論として喧伝されている人民戦線戦術、長期的平和共存、革命の平和的移行、各国の社会主義への道、構造的改良というフルシチョフ路線こそ、まさに、『一国社会主義論の絶対化』と『世界革命の放棄』によって、世界プロレタリアート解放の事業を裏切り続けてきたスターリン主義の現代版に外ならない修正主義である」。
 概要「われわれが実践のなかで痛感してきた党中央の右翼日和見主義、平和擁護運動における没階級的理論、民族主義、革命における二段階革命論は、まさにソ連共産党を先頭としたスターリン主義的指導部の理論よりの必然的結果である」。
 「党中央は自らの頭脳で自主的に思考する能力を完全に失っていた。それは共産主義者としての最も基本的、初歩的な能力の喪失を意味する」、「我々はまずマルクス・レーニン主義の原点に立ち帰り、スターリン主義的な平和共存路線と訣別し、世界革命の一環として日本革命を闘い取ろう」等々
**氏  1.1日、キューバ革命が勝利したのも衝撃的だったな。
再来生田  1月末、社学同の書記局員香村正雄氏が、本郷元町に世界労働運動研究所を設立し、ここがブントの本拠となる。2.15日、香村正雄氏が中心となってブント機関誌「共産主義」を創刊する。
 2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出しました。これに対するのに、革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、労働運動理論を長々と述べ始めました。

 2月、ブント第2回大会を開き、新情勢に対する闘争方向を明確にさせました。3.28日、全学連第18回中委が開かれますが、我々は、当時の全学連指導部を革共同特有の思弁主義として弾劾し、一直線に安保闘争を捉える運動を指針するよう訴えていきました。世間では、ブント・革共同・民青同の激しい主導権争いとして受け止められておりますが、安保闘争の態勢作りの問題として避けられなかったという事情がありました。
 
 全学連第18回中委が開かれた同日の3.28日、安保条約改定阻止国民会議(「国民会議」)が結成された。これには総評・社会党・全日農・原水協など13団体が中央幹事団体となり、共産党はオブザーバーとしての参加が認められていた。以降、「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになる。この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。
ト書き  3.30日、東京地裁が『米軍駐留は違憲』とする判決を出した(伊達判決と云われる)。
れんだいこ  陶山氏が卒業し農林省に就職しますが、事情の許す限りブント運動に参画しており、ユニークですね。
 陶山さんはまことに余人をもって替えがたい好人物でした。
れんだいこ  4月、日共系構造改革派の流れを汲む「現代の理論」が創刊されております。この「現代の理論」に結集した連中の分析も興味深いのですが、話が広がりすぎますので割愛します。 
 4.15日、国民会議の第一次統一行動。約7000名が参加しますが全学連は約600名。4.28日、全学連は、『安保改定阻止、岸内閣打倒』をスローガンに第一波統一行動を起こすが、約1000名結集。5.15日、国民会議の第二次統一行動。全学連もこれに呼応して第二波闘争として約5000名を集めて闘う。
再来生田  この時の闘争は主要拠点校だけの闘争に終わっております。この頃はまだ低調だったということだな。この頃だと思うが社学同が定期大会を開き、大瀬委員長から篠原浩一郎―藤原慶久コンビが確立する。
れんだいこ  58年末に党の創設、続く全学連大会の成功をバネにしてブントの進撃が開始されますね。この辺りまで企画演出した島―生田指導部の有能性が歴史に刻まれているように思えます。以降、ブント的急進主義運動が「60年安保闘争」を主導的にリードしていった様を見てまいろうと思います。

【ブントが全学連の主導権を確立する】
れんだいこ  全学連第14回大会開催され、ブントが指導権を確立しますね。

 はい。6.5−8日、約1000名が参加して全学連第14回大会が開かれます。この大会は、ブント・民青同・革共同の三つどもえの激しい争いとなりましたが、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の主導権をブント系が再び奪い返して決着させました。執行部の議案が賛成217、反対157、保留8となり、反主流派(民青系)が急追してきていることが分かります。しかし、我々は断固として主導権の獲得を目指し、中央執行委員会の過半数をブントが占めました。一部革共同を含めて反日共系で独占しました。

れんだいこ  この辺り、れんだいこの異論もありますが、当時の情況の厳しさ加減が分かりませんので差し控えます。
 この時の人事で、唐牛健太郎(北大)を委員長として選出し、清水丈夫書記長、副委員長に加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦、奥田正一(早大)が選ばれ新執行部となった。中執委員の内訳は、ブントが17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。 ブント系が中央執行委員会の過半数を獲得し、革共同から全学連の主導権を奪回した。
再来生田  こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、革共同派と連立しつつ60年安保闘争に突入していくことになりました。丁度安保決戦一年前の動きです。

 唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる国会突入闘争や岸渡米阻止羽田闘争などに精力的に取り組んでいくことになります。この当時のブントは約1800名で学生が8割以上を占めています。

れんだいこ  唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、面白く伝えられておりますね。
生田J  「戦後史の証言ブント」の中で、星宮が次のように証言している。
 「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」。

 ということになり、島氏が直接北海道まで説得に向かいます。そこで、反対する北海道学連を無理やりイエスと云わせた様子が伝えられております。
 唐牛担ぎ出しも一つのドラマやったなぁ。

【不破の右翼的批判が登場】
れんだいこ  ところでこの頃、不破哲三が、前衛6月号誌上で「マルクス主義と現代イデオロギー」特集の中で「現代トロツキズム批判――平和と社会主義に敵対する「世界革命」論」を発表し、「現代トロツキズム批判」を繰り広げています。ブントの機関誌共産主義、社学同機関誌理論戦線などに発表された姫岡怜治論文を槍玉に挙げ、どういう訳か革共同の理論的指導者黒田寛一論文をも混在させ、総論的な批判を加えているつもりになっております。

 今これを読むのに、「その後ソ連邦が崩壊したときに見せた罵倒見解ととてつもなく整合しない、とても正視できない無内容な饒舌」を書き付けております。当時の急進主義者が生み出されざるを得なかった背景を一切語らず、ただ単にその動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる噴飯ものの見解を披瀝しております。

 「もはや理論的批判の必要はない」、「この反革命的反社会主義的本質を徹底的に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」との言で締め括っていますが、さて結局、不破は何を語ろうとしていたのかさっぱり要領を得ておりません。左派としての同時代の悩みを共有するという観点が全く欠如しており、スターリニズムを全面的に擁護し、その後の右傾的な国際共産主義運動それに規定された各国共産党の排外主義的な民族主義の正しさを長大饒舌文で語るのみという内容となっております。
ト書き  座の一堂から「その通り」の声あり。
れんだいこ  この不破に関しても、宮顕同様胡散臭いところがありますね。日本の左派運動を右傾化させるためにのみ出張ってきているように思えます。ちなみに、不破哲三というペンネームの由来がいろいろに解釈されているようですが、「右派(=不破)に徹する(=哲)ぞぉ(=三)」をもじったものではないかと思われます。こう読み解くと、不破の政治的役割と軌跡が全て透けて見えて参りますね。
**氏  不破哲三とは、「右派に徹するぞぉ」のもじりとは面白い。れんさんは中々の分析家だな。
れんだいこ  はい。こういうところにはインスピレーションがよく働きますね。でも当たっているでせうね。思えば、51年に国際派の東大細胞間で査問されますが、あの時最高指導者武井昭夫氏らがスパイ容疑で監禁し続けたのには充分な根拠があったものと思われますね。結局、宮顕の鶴の一声で救済しております。こういう風に見てまいりますと、宮顕はこういう人士ばかりを引き揚げる癖を持っていることが分かります。という訳ですから、党中央はそういう者の巣窟になっていると見るほうが正確でせうね。
**氏  まさかそこまでは・・・・・。
れんだいこ  そのまさかまで疑ってみるのがれんだいこ史観です。島さんもそこまでは疑わなかったようですが、そこにブントの弱さがあったと思っております。それはそうと、ある意味で、人間ドラマ的に島対不破というのはこの頃より確執しておりますね。後述しますが、田中清玄対宮顕、徳球対宮顕の対立と絡んでおり、興味深いものがあります。
ト書き  座の一堂声にならないザワツキをする。

【唐牛全学連委員長時代のブントの勢い】
再来生田  6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と言われる論文を機関紙共産主義3号に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。
れんだいこ  この頃の流れを見ておきませうか。
 この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。6.25日、国民会議の第三次統一行動、労・学2万6000名、全学連は約1000名結集。7.3−5日、全学連第19中委が開かれ、10月ゼネストの方針を打ち出す。
れんだいこ  都学連第11回大会が流会していますね。
 7.4‐5日、都学連第11回大会が開催されたが、流会となった。ブント系執行委員会原案に対して、革共同系の徳江書記長から修正案が出され激論となった。両案とも過半数を取ることが出来ず、3日目の大会では革共同系が大会ボイコットし、ブント系と民青同系の討論となったが意見の一致を見ず、今後も継続ということで流会となった。
再来生田  この時の学生運動の諸潮流について纏めますと次のように整理できる。1.ブント・社学同系、2.日共宮顕派・民青同系、3.日共春日(庄)派・構造改革派系、4.革共同関西派系、5.革共同黒田系、6.国際主義共産党(太田竜派)系。この6派が頻りに抗争していくことになる。但し、我々ブントの理論水準が最も高いと我々は確信しており、故に堂々たるオルグ戦に立ち向かっていき、至る所で活動家の取り込みとシンパを形成していった。
れんだいこ  その後の動きは次の通りです。6.25日、安保改定阻止第3次統一行動。約3万名が参加し、全学連は約1万名を結集。7月、共産党は第6回中央委員会総会を開き、党員倍加運動に乗り出した。春日、内藤の反対。安保闘争への基本方針の策定。7.25日、第4次統一行動。8.1‐7日、第5回原水禁世界大会。8.6日、第5次統一行動。さしたる変化は起っておりません。

 8.29−31日、ブント第3回全国大会が開かれ、1・綱領の決定、2・全国的大衆政治新聞の発行、3・中央・地方の同盟機関の確定、4・人事の4項目に就いて協議し、1、2の方針化と3、4の決定を行いました。

 その後綱領草案は、ブント事務所(文京区元町の世界労働運動研究所)で生田、片山、青木らを中心にして論議をしていくことになりますが、第一次草案を生田が執筆したものの、結局草案のまま終わりました。

れんだいこ  ブントの綱領が確立できなかったということはとても残念です。この理論軽視がブントの致命傷になったように思います。水準は高いのですから、整合しなくても甲論乙論併記で更に解明していく所存とすれば良かったのにとか惜しまれます。
 その後の経過は次の通り。9.5日、全学連が第19回中委。9.18日、全学連は、清水谷での安保改定阻止統一行動に約1500名結集。9.26日、日共都会議で、港、千代田地区委が党中央攻撃。10月、社会党から西尾末弘一派が脱党した。10.20日、第7次統一行動。10.26日、全学連、安保改定阻止・炭労合理化反対・秋闘中央総決起集会に学生1000名結集。
再来生田  この頃までの安保闘争は、相変わらず低調だったな。やや上向いてきたのが10.30日の安保改定阻止統一行動からです。この時全学連はゼネストの形で闘おうと呼びかけ、全国スト90校、121自治会、行動参加者全国30万名、都内約1万5000名で雨の中を比谷野音で集会.デモ。夜は、夜間部学生2000名が「公安条例後、始めて認められた」夜間デモを行った。

 この時のデモは次のように総括されている。
 「10.30の学生の全国ゼネスト闘争は、沈滞していた安保闘争に再び火を点じた」。

【革共同第二次分裂】
れんだいこ

 この過程で、8.26日、革共同が第二次分裂していますね。これを少し分析してみます。ここまで革共同をリードしてきたのは西京司を指導者とする関西派の方でしたが、黒寛を代表とする探求派との確執が底流で続いておりました、その再編成過程で革共同中央書記局が関西に移されました。直後、西氏は「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとします。が、これに探求派が反発します。関西派は、政治局員であった黒寛を解任します。

 この時、黒寛は「スパイ問題によって除名される」とありますね。次のように指弾されております。

 概要「革共同創立の中心メンバーだった黒田はその翌年に同盟にかくれて陰謀を弄び、敵権力との驚くべき取引を計画し、組織の防衛に対して全く不誠実な行動をとったことが暴露され除名される」。

 「敵権力との驚くべき取引」とありますが中身は書かれておりません。こういうところも実に興味深いところです。

 その後、黒寛は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、関西派と分離します。これがいわゆる革共同第二次分裂ですね。この経過に付き、黒寛自身が次のように述べております。

 概要「わが革命的共産主義運動の約3ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していた我が国において、公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難に満ちた闘いであった。しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロッキーの革命理論と第4インターナショナルの運動を土着化させると同時に、それをも乗り越え発展させて行く、という革命的マルクス主義の立場において実現された」(黒田「日本の反スターリン主義運動」)。

 この時の革共同分裂の底流に理論問題があり、分裂後も続いていきます。革共同におけるそうした理論重視としいうのは見習うべき点でせうね。第一に、第4インターとの関係付けで、西氏らは参加に向かい、黒寛らは不参加を主張していました。この過程で革共同全国委派は、関西派を『純トロツキスト第4インター教条主義』と批判し、自らは反帝.反スタ主義を基本テーゼとするようになります。

 第二に、「西テーゼ」の綱領化を廻って、それを急いだ関西派は、探求派を空論的非実践主義として批判します。これに対し、探求派は次のように反論しております。

 「全国的な組織討議をいささかも組織することなしに、しかも綱領的反対派の欠席のもとで『決定』されたこの西テーゼは、関西派の分派綱領以外のなにものでもない」。
 「綱領的反対派締出しの陰謀は、いよいよ魔女狩りの様相をおびつつある。関西派の書記局通達第三号(9.10日付)は明らかにか彼らがわが同盟を関西派分派の徒党と化そうとする決意のもとに、すべての俗物的統制をおし進めつつあることを露骨に表現している」。

 第三に、ソ連論をめぐっても対立していたようです。関西派は『労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒』と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ反帝反スタを基本テーゼとする立場から反論しております。次のように述べています。

 「スターリニスト官僚打倒を通じて新しい革命党を結成し、これを実体的基礎としたプロレタリア世界革命を実現する。それゆえに、このたたかいは、反帝反スターリニズムであり、その根底的立脚点=革命的立脚点は革命的マルキシズムにある」(組織論序説)、「(関西派は)パブロ=太田修正主義への後退を準備している」。

 第四に、当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争―「炭鉱の国営国管問題」に関連しても食い違います。第五に、全学連運動に対しても、関西派がブントの急進主義路線に否定的対応を見せます。黒寛派の方は、関西派のそういう態度を堕落と批判します。これは後にブントが国会突入方針を掲げたことに対し、関西派がこれに反対し、羽田闘争に対しても反労働者的と非難することではっきりして参ります。

 なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようです。「中央書記局のお膝元で招来したこの無残な敗北から教訓をみちびきだしえぬ客観主義者のみが、よく探究派退治に血の道をあげうるのである」と批判されております。

 但し、革共同全国委の対応はかなりチグハグです。ブントとの違いも強調して、全学連の「日中の労働者、学生は日本帝国主義の復活を粉砕せよ」スローガンに対して、左翼スターリン主義と規定し、「こうした傾向を粉砕するために闘う」ともしております。してみれば、革共同黒寛派の見解に濃厚だと思われますが、「自派の隊列以外はみんなダメ」式の理論であることが分かります。


【ブントと田中清玄との接点】
れんだいこ  ここでブントと田中清玄氏との関わりを見ておこうと思います。60年安保闘争後の63.2.26日に鳴り物入りでいかがわしく報道されたのですが、当時ブント側からの反論が弱く、ていよく宮顕に利用されてしまいました。これの総括が出来ていないと考えておりますのでここで考察しておこうと思います。
 1963.2.26日9時半過ぎよりTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」が放送され、「安保闘争時の全学連活動家について、彼らが名うての反共右翼である田中清玄氏から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていること」などが暴露された。取り上げられていた「全学連闘士」達とは、当時の全学連委員長・唐牛健太郎、書記次長・東原吉伸、共闘部長・小島弘、社学同委員長・篠原浩一郎らであった。

 この「資金援助」自体は、田中清玄氏も当時の全学連指導者側も認め、東原氏の手記や「週刊朝日」の追跡調査(「録音構成『歪んだ青春』の波紋-安保の主役たちと日共と田中清玄氏−」)でも裏付けられた。概要を明らかにすれば次のような諸事実が露見していた。
 「田中氏から貰った金は、当時の金で4〜5百万円で、4万円、5万円、多いときで50万円と、何回かにわたって受け取った。何名かの者は飲み食いから毎月の小遣いまで貰っていた。田中氏の家へ行って飯を食ったこともある」。
 「闘争の戦術指導の遣り取りも為されていたらしく、『非常に参考になったことは事実ですよね』と回顧している」。
「60年安保闘争時、田中は配下の武道家集団を全学連の護衛につけ、児玉系右翼の襲撃から護っていた」。
 「田中は唐牛、東原、篠原達の就職の面倒まで見ていた。唐牛氏も『革命の布石を打つためには、誰の所で働いたって構わない』としていた。東原氏も『神戸の田岡一雄氏とその配下の佐々木竜二氏には、何かとお世話になった』と述べている。ブント書記長島氏も、ブント解体後の一時寄宿していた」。
 「警察・検察の温情に接しており、警視総監をしていた小倉謙氏や、その時の学連の闘争を扱っていた野村佐太男検事正と時々会い、フランクな話をし、そしてこの方々が、『若い学生と全学連に並々ならぬ温かい感情と同情心をもって事に当たられていると聞いたときは、全く驚いた』と証言している。当時の公安一課長をしていた三井氏とも運動の最中に会っていたが、『全学連に対して、並々ならぬ同情心を持っておられた』と述懐している」
**氏  「唐牛問題」は、日共がこの問題を大々的に取り上げ、60年安保闘争時の全学連指導者ブントのいかがわしさを喧伝していくことになった、という意味で政治的事件となった。この時の日共の飛びつきようは異様なほどに徹底し、地区党の末端まで「トロツキストの正体は右翼の手先」だとする録音テープを大量に配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。その結果、60年安保闘争に金字塔を打ち立てた当時のブントの「いかがわしさ」が浮き彫りになり、その輝かしい功績もろともが葬り去られて行くことになった。
れんだいこ  問題は、この日共系のプロパガンダに対して、当事者のブント側の反論がか弱く、他の左派諸派もまた沈黙を余儀なくされていることに有ります。この構図が今日まで続いていると云っても過言でありません。このことは何を語るか。日共側のこの理論攻勢に新左翼側が同じ理論闘争のレベルで対応し得ていないだけの能力しか持っていない、ということではなかろうか。時の権力を勝手に機動隊に仮想して、肉弾戦を如何に戦闘的にやろうとも、こうした理論面での切開をしないままのそれでは情けない。
**氏  それでは一つお聞かせ願いますか。
れんだいこ  はい。まずは、この時の日共党中央の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、この時党は、田中清玄氏を主として民族主義者的な名うての「職業的な反共右翼」として描き出し、その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたといういかがわしさを浮きだたせ、よってブント系トロツキストの反共的本質を明らかにするという三段論法をとった。

 日共側は、田中清玄像を「職業的な反共右翼」としてフレームアップさせていたが、事情通はそれでは納得しない。田中清玄氏は戦前の武装共産党時代のれっきとした委員長であった。通り一辺倒な「職業的な反共右翼」で済ますわけには行かない。

 という訳で、この種の問いかけを為す者に対しては次のように説明していた。
 概要「戦前、日本共産党の指導部にいたことがあり、1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え、しかも逮捕されるといちはやく獄中転向して、出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ。そして戦後は、労働運動や民主運動の破壊工作に渡り歩く職業的な反共右翼として名前を売っていた。TBSラジオのナレーターも云っていたように、戦後、彼は土建業に従事するようになったが、合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた。戦後の大争議と云われた苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」。

 まず、田中清玄氏をかように像化して憚らない宮顕論法が如何に悪質なものであるのかを順次見ておこうと思う。第一に、田中清玄氏は云われるような「日本共産党の指導部にいたことがあり」で済まされるような存在ではない。その真実像は清玄血風録・赤色太平記で簡単ながらスケッチしているので参照されたい。田中氏は、上述しましたが「戦前日共党の最高幹部として、一時期れっきとして委員長を勤めた者」です。そういう経歴を持つ者を、「日本共産党の指導部にいたことがあり」などと云いなすことは的確な表現では無い。というか、宮顕特有の落し込め詐術である。

 次に、「1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え」とあるが、この判断もまた宮顕特有の逆裁定見解でしかない。史実は、
田中氏は、昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の「4.16事件」という両弾圧で壊滅的危機に陥った直後の党活動の立て直しに着手し成功した功績を持っている。これが正しい評価である。

 一般に「武装共産党」時代と云われますが、この時期「革命運動に重大な損害」を与えたかどうかは判定が難しい。急進主義運動で対権力闘争をひるむことなく展開し、直接対決した珍しい史実を残しているが、それは誉れな財産となっていると評価することも可能でせう。この時期蒔かれた種がその後の大衆運動の諸分野で着床したことも見落とされてならない功績です。史実の語るところ「革命運動に重大な損害」を与えたのは、宮顕が主導した「小畑中央委員リンチ致死事件」の方がズバリそのものではないでせうか。

 次に、「逮捕されるといちはやく転向」も事実に反している。特高の度重なる拷問に頑強に抵抗し、その強靭な体力ゆえに奇跡的に生命が維持されたとも云うべき踏ん張りを見せている。この点ではむしろ、本人の弁にも関わらず拷問を受けなかった宮顕その人の方が胡散臭い。

 田中氏の「転向」はそうした不屈の獄中闘争後のことであり、それは当時の国際情勢とコミンテルン指導の変調さを思案した結果の思想問題であり、必要以上には踏み込むべきではなかろう。むしろ、当時の転向雪崩現象は一辺の批判では済ましえない内実を持っているのではなかろうか。むしろ、不屈の闘士然として伝えられている宮顕神話の獄中下の様子こそ奇異そのものであることが今日判明している。この件については宮顕の獄中闘争についてで解明しているので参照されたし。

 次に、「出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」も、何を根拠にそのような捻じ曲げ断定しているのであろう。氏のその後の様子は自伝で確認されようが、一風変わって山本玄峰老師に私淑し、三島の龍沢寺での修行生活に入っている。ほぼ時局とも没交渉であり、時の支配層より大戦末期での敗戦処理方法において師事する玄峰老師の聴聞が為され、その秘書的活動で当局と渡り合っている史実は残されているが、「侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」ようなものでは断じて無い。

 次に、戦後の活動であるが、その詳細は自伝に譲るとして「合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた」というような形跡は無い。「苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」については詳細不明であるが、捏造の可能性のほうが高い。宮顕話法はこういう為にする批判の為の史実捻じ曲げは常習的であるので、迂闊には乗れない。

 これについては、2002.6.15日発刊の「60年安保とブントを読む」の中で、東原吉伸氏が次のように書いている。
 「独占支配に対抗すると称して工場占拠・労組による経営管理まで行おうとするソ連の第5列、日共の指導する労働争議などを分裂・解体する仕事にも体を張った。泥沼に叩き込まれていた王子製紙苫小牧の180日に及ぶ争議の現地指導を最後まで行い、解決させ、会社蘇生の基礎を固めた」。

 肝心なことは、解決のさせ方であったと思われるが、これ以上は分からない。

 以上逐一の反論で判明するように、宮顕共産党の田中清玄批判は悪質さ重度のそれである。この辺りの正確な事情が不問のままに、「職業的な反共右翼」像がフレームアップさせられ、その指導を受けていたブント指導部のいかがわしさが糾弾されるという構図で、「唐牛問題」が展開された。この非道ぶりが知られねばならない。
**氏  なるほど。
れんだいこ   63年当時のブントは、この後おってみていくことになりますが分裂状態で崩壊状況にあり、日共のこうした欺瞞的な策動に対し有効な反撃が組織できませんでした。れんだいこなら、こう反論します。
 田中清玄氏は、あなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していく ことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、当時においては政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の 「国家百年の計」よりなす憂国の情の然らしめたものでもあった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。もし、これを不正というのであれば、宮顕の戦前の党中央進出過程と戦後の党分裂期の国際派時代の潤沢な資金について究明していく用意がある、と。
**氏  なるほど。
れんだいこ  更に云えば、次のような認識の共同化ができていたのではないでせうか。
 岸―児玉ラインに対する田中のアンチの立場。民族主義者に移し身していたが、岸―児玉ラインとは一線を画していた。新興勢力の糾合に尽力していた。
 戦前の武装共産党時代の委員長の経験を持つ田中との理論的一致。
 ソ連、中国等に指導される日本左派運動からの脱却という点での認識の一致。
**氏  なるほど。
れんだいこ  そういう認識の一致が為されれば、ブントから見て田中氏の武装共産党時代の委員長、その後の獄中生活、コミンテルンとの遣り取り等々の経験から学ぶことが多かった。この辺りの事情は次のように述べられております。
 「一方で、田中清玄の目から見れば、背中に重い十字架を背負わされたこの若き革命家に、自分の過去をダブらせていたに違いない。彼は、革命運動はまさに殉教であることを見すぎてきた人物であった。その為に、自分の生き様をさらけ出すことで、自分の持つ多くのものを、とりわけ革命闘争の持つダイナミズムを経験した先輩として、この若き革命家に感じ取って欲しいと希求していることが、同席している者にも強く伝わってきた」。概要「田中氏は過去の日々を想いめぐらせ、自己の体験から築き上げたすべてを、その行動哲学や人脈を、この時点から船出した若き革命家に、参考になったり役に立つなら継承してもらいたいと希求していた」

 そういうことではないでせうか。
**氏  東原吉伸は次のように証言している。
 概要「島と田中氏とは概要「議論は結構噛み合い、延々と続いた。それ以来、二人はよく会った。お互い話題には事欠かなかった。島は遣り繰りして、不思議にこの会合のスケジュールは確保した」。
れんだいこ  ところで、宮顕系党中央が、「唐牛問題」で当時のブント活動家を批判するのに、「権力によるトロツキスト泳がせ論」を満展開させていたことも見落としてならない点です。TBS放送「歪んだ青春−全学連闘士のその後」でこのことが裏付けられたとしていたが、その根拠として、1・挑発行動の戦術指導を受けていた。2・検察・警察首脳とも密接な関係にあった。3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していた等々を暴露しています。これにどう反論すべきであろうか。残念ながら当時のブントはこれにも沈黙させられた。

 れんだいこなら、こう反論します。
 挑発行動の戦術指導を受けていたについては、その通りであるが、「挑発行動」と捻じ曲げるのは宮顕得意のすり替え論法であり、我々はあの当時最も先鋭且つ効果的な方法を必死になって模索していたのであり、そうした時に田中氏の戦前の武装共産党時代の経験は大いに参考になった。このことのどこに不都合がありや否や。
 検察・警察首脳とも密接な関係にあったについては、公安は公安なりに真剣に情報取に向かうものであり、我々が運動の利益を考えながらこれに是々非々で対応するのは闘争現場の現実がしからしめるところである。そういう意味で、小島氏の「公安は僕を捕まえたいが、捕まえると全学連とのパイプ役がいなくなるので、向こうも困る。当時はそんな訳で、警察と一種の信頼関係があった」のは、革命の弁証法のひとコマである。ここに疑義を差し挟み傲然(ごうぜん)とする者こそ、過去一度もそのような運動主体になりえなかった者の為にする批判ではないのか。
 60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していたについては、我々の革命の侠気に対して、田岡氏が侠気の理解者となって立ち表われたのであり、それは世の中の味わい深く興味深いところでもある。それは、同じ左翼陣営を構成する日共側の執拗な我々のパージに比較して鮮やかに対照的であった。この問題の眼目は次のことにある。そのことによって、活動家が当局のスパイにされたのか、強制的に転向を余儀なくされたのか。実際はまさに侠気によって支えられていたのではないのか。自分達が行き所を無くすよう画策しておいて、侠客家田岡氏の世話になったことをもって日共がそれをしも認められ無いとするのは悪質姑息な暴論であろう。我々はむしろ逆に、これを非難する我が身の反侠客性を恥じよと問い掛けたいと思う。
**氏  なるほど。
れんだいこ  ところで、「唐牛問題」を廻って真剣に協議せねばならないことは、運動上に付き纏う金権パトロン問題ではないでせうか。こう課題を見据えたとき、「唐牛問題」は日共対トロツキスト運動の非難合戦の地平を離れて普遍性を獲得します。人も運動体も聖人君子的仙人思想にとらわれては何事も為しえません。金権まみれの現体制の批判運動を展開するからといって、運動側に金権にまみれずにあたかも霞を食って生きていくべしとする論法と手法が強制される必要は全く無い。むしろ、そういう規制を設ける論調は、一度でも実際に我が身を革命運動の中に置いたことの無い者の為にする無益理論でしかない。

 運動を持続的長期化させる場合に常に纏いついてくるものは資金問題である。ここに工夫と手当て無しには運動は一歩も進展しない。運動側内で支援金を出し続け支えあうべきだ論も嘘臭い。この論自体は結構だが、この論が第三他者からの支援金を排除しようとするなら、それは有害な潔癖主義でしか無い。むしろ、我が社会を批判し変革するにも、我が社会が生命線にしているところの金権を活用する能力を持ってしか運動の成果を生み出せないという矛盾をそのままに踏まえるべきではなかろうか。一つ一つの過去の運動経験を検証し、運動体にとって有益な資金調達と排除すべきそれを識別し、運動の発展のために叡智を尽すべきではなかろうか。

 この資金カンパについて、島氏は次のように述べています。

 「ブント書記長としての私の仕事の大半はカネ作りであったとさえ云える」。
 「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」。
 「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」。
 「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」。
 「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。唐牛自身次のように述べている。「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネが無かったですよ」。

 運動に付き纏うのは、いつもこの現実です。ここをキレイ事云う者が、一体過去において何ほどの運動を創出しえたのだろう。「唐牛問題」での田中清玄の献金は、そのことによってブント運動が捻じ曲げられたのかどうか、ここが眼目であって、献金自体を却下する必要が無く、それを咎める日共見解は悪質な暴論でせう。

**氏  そりゃそうだな。
れんだいこ  付言すれば、金の問題でキレイ事言い過ぎる者には警戒した方が良いですね。裏がどうなっているか分かりはしないと逆に疑ってかかるぐらいで丁度良いように思われます。宮顕―不破は一貫してこの方面で相手を突いて参ります。しかし考えて見ませうよ。金と女の問題で突いていけば大抵の人がやばい訳ですよ。それでいて、宮顕や不破らは攻め一方で自分達が詮索されないような仕掛けで問題にしてきます。そこに大いなる不正があると考えるべきです。

 金は私腹を肥やすものでない限り、更に法の枠内であれば、ケ小平的意味ではないのですが文句としては「黒猫でも白猫でも調達してくること自体悪くない」と考えるべきです。でないと大きな闘争なぞ出来はしません。現実に金はあればあるだけ調法という運動圏での公理を獲得すべきでせう。下手な道徳運動に絡められるのは却って良くないと考えております。

 これより後は「全学連ら労.学2万数千名が国会突入考」に記す。





(私論.私見)