場面4 ブント解体考

 (最新見直し2007.7.18日)

 これより前は「ブント結成」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント−社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。これに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。他方、ブント−社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになった。年末には社学同残留組と社青同派と構造改革派による三派連合が結成された。こうして「全学連三国志」絵巻の世界へと突き進んでいくことになる。


【ブントから革共同全国委への移行雪崩現象】
れんだいこ  前章でプントの創立を見てきたばかりですが、ここで順序を逆にしていきなりブント解体の様子をズームアップさせてみようと思います。この確認から60年安保闘争時のブント運動の功罪を照射させた方が良く見えてくるように思います。そういう意味の機略を用いたいと思います。

 60年安保闘争後ブントは細胞分裂過程に入ります。そうした混迷をよそに革共同全国委系、民青同系は元気印になります。とはいえ、革共同全国委系は内部で黒寛派と本多派の対立を萌芽的に抱えております。民青同系は構造改革派系を生み出します。つまりどちらも安穏ではありません。更に社会党系の社青同が登場して参ります。ところが社青同内部も穏健派と急進主義派の対立を抱えます。そういう絵巻世界を現出しながらの丁丁発止の駆け引きが進行していったというのがこの頃の動きと云えます。
ト書き  1961.1.1日、革通派が解体。
**氏  60年安保闘争以降更なる急進主義運動を指針させていたが、現実の進行は全くその反対で、遂に理論が破産したということだな。
 1.10日、革共同全国委機関紙「前進」第20号に、「革命的マルクス主義者の原則的統一の為に」という主張が載せられた。安保闘争.三池闘争の総括として、既成左翼の完全な指導性喪失、革命的前衛党の欠如、他方でのブント系小ブル急進主義運動を敗北の原因とし、次のように指針させていた。
 概要「これら全ての党派を乗り越えて反帝.反スターリン主義の世界革命戦略の下に労働戦線の深部に革命的中核を組織するべきである」。

【島氏の苦悩】
れんだいこ  革共同の押せ押せムードに対するにこの頃の島さんの動向がこのたび「未完の自伝―1961年冬のノート」で明らかにされております。非常に貴重な独白が為されております。
 「1.21日(中略)おそらく、俺の一生の中で、昨年8月以降、現在にいたる時期ほど、無内容で、空虚で、動揺的な時期はなかったろう。何一つ生み出すことをせず、その努力をせず、行動の基準はバラバラで、毎日毎日が動揺的な時期。今年に入ってからも、それは変わらない。そしてやがて30歳を迎えようとする。俺の一生がこれから始まるか否かの瀬戸際であるというのに!苦悩し、呻吟し、再生をはかるべきこの時期、俺は何をしたか、それは非難されても然るべきであろう」。
れんだいこ  島さんの精神状況が伝わって参ります。
 「過去の歩みの検討から始めよう。それはやはり、昨年の闘いについての厳しい批判から始まるであろう。自己自身への検討は、内省的な、外界から切り離された『自己批判』ではなく、日本人民の歴史的闘いそのものを批判し、そこで決起した民衆の、そしてその先頭に立った組織の、そしてそれを指導した俺自身の闘いへの、仮借なき闘いでなければならない。この批判は、その対象を打倒するまで本質的なものでなければならない。もし、これ回避したり、中途半端に終わらせたとき、俺はやはり死なねばならないであろう。1年掛かっても、2年掛かってもやらねばならない。

 この批判こそ、現代社会への根本的批判として俺自身への弾劾になるのではないか。そう考えたとき、俺はやはりやるべきことをやっていないのだ。ブントの内部闘争、それはまだ始まりかけたばかりである。『批判』が矮小化されている。1960年のブントの分裂・停滞、それは重い重いものなのに」。
れんだいこ  島さんの苦悩が痛いほど伝わって参ります。「ブントの内部闘争、それはまだ始まりかけたばかりである。『批判』が矮小化されている」という言葉に島さんの孤独が滲み出ております。
 「1.22日、(中略)私が考えたもう一つの実態。第一に、革命を考えた。こういったからとて、東大の諸君の云うように、あの時やれば『革命的』危機が生じて・・・云々という意味におけるものではない。しかし、それにも拘らず、10年間の私の共産主義者としての歴史の中で、革命というものを実感を込めて、数世代後の理想ではなく、我々の世代が直面し、私が当面しなければならない現実的なものとした革命というものを考えた。  

 その時、私は『如何なる革命を汝は欲しているのか?』、『如何なる社会をつくろうとするのか』という問いに答えることを全く知らなかった。ブント綱領も、素朴に問題を提出する労働者に何の実感もイメージも与えない、干乾びたものであったのだ。私の全思想体系、ブントの全理論はこの実感の前に崩れ去った。この実感の上に批判が開始されねばならなかった」。
れんだいこ  これは6.18日の安保自然成立時の際に愕然と悟った時の思いですよね。島さんは以来ずっっと引きずって居られることが分かります。れんだいこは、島さんの「青白きインテリな面」だと受け止めております。
 「第二、4月〜6月の行動、そして三池の闘争。私は、革命というのは人民大衆が行うものだと思わざるを得なかった。予想は出来た。だが誰があのエネルギーの横溢と、全学連主流派、三池労働者に表される革命的情熱・パトスを信じえたかだ。革命は資本主義そのものが生み出すのだ。この矛盾の進行を、私は内在的に知ることが絶対に必要だと思った。

 もちろん私はここで、自然発生的客観主義者や、傍観的民主主義評論家がわいわいと騒いでいるような意味で、この大衆行動を礼賛したのではない。いや逆に、このエネルギーを認めればこそ、逆にこれを意識された階級としてでなく、小ブル的市民主義の塊(かたまり)、ゼロとして取り扱うのに狂奔した人々に怒りを感ずるのだ。

 そしてまた、ブントのみがあの学生の革命的行動を導いた事を隠しはしない。ケチ臭いマルクス主義文化運動者のように旗だけ大きいのを立てて、さも、自分達が闘ったのだというのを見たり、また、ブント戦旗派の転向論者がブントと並んで革共同をこの位置に置くのを見ると、虫酸が走る」。
れんだいこ  そうですよね。この観点をもっと声高にして欲しかった。そういう思いで一杯です。
 「明らかにブントの指導と思想なくしては、安保闘争のあの展開はありえなかったろう。しかしそれにも拘わらず、ブントの意識は大衆に振り回されていた。労働者の矛盾を捉えることは出来なかった。惨めな小ブル派政党に対置した思想の具体化、スローガン一つ区別して与えることはできなかった。

 資本主義の矛盾と展開、労働者の思想と行動、階級意識の運動法則、意識せる部隊と労働者、そのなんたるかを知らないままに、大衆運動は展開されてしまったのだ。いってしまえば、私は余りにもこの社会のカラクリを知らなさ過ぎたのだ。いわば社会の外部にいて眺めていたような『前衛』、政治闘争。この二つに直面して、私の思想と行動、そしてブントは大転換を遂げねばならなかった。

 何から始めるべきか。私は、ブルジョア社会の中に今一度入りこまねばならぬ。この社会の矛盾をとことんまで、an sich und fur sichに認識しなければならない。そのためには、この社会の内在的法則を知らねばならぬ。

 私は、マルクス主義を今一度学ぶことに決めた。そしてそれは教条を暗記するためでなく、その社会を今一度捉え直ささんがために、経済学が先ず私の対象になる」。
れんだいこ  恐らく、垣間見た深淵に納得の行く解答を求めて更に突き進もうとしておられるということだろうと思います。それにしても、この苦闘を分かち合える人が居なかったのでせうか。難しい問題ですね。
 「1.24日、(中略)全学連の危機的状況は、ブントの危機の止揚、革命的な止揚無しにはあり得ない。しかも、そのことを為し得る鍵は、ブントの思想、理論、行動の本質的批判にこそあることは、疑いの無い事実である。プロ通派も戦旗派も、ともにこのことを行っていないとするならば(戦旗派はこの立場を取ろうとしたが貫徹し得ないで、俗流のマルクス主義者に転落しつつある)、学生運動の再建それ自体もプロ通対戦旗の分派闘争によっては為しえないことも明らかである。

 本質的批判に近づこうとしているのは、私の見るところ古賀のみである。生田もその過程をたどってはいるが、それ以外の者は、すべて過渡的潮流のように見える。もし、この過渡を意識しないで固定化した場合、それは腐敗し堕落し、妨害物以外にはなり得ないであろう。だから私の立場は、一方では本質的批判―しかも私がブントの代表であった点において自己打倒を目指した―を準備しつつ、他方プロ通派、戦旗派の固定化を防ぐ、混乱させる意地悪の役目を担う」。
れんだいこ  島さんの苦悩が滲み出ておりますね。後続を「歴史の弁証法」に委ねたものの成り行きに胸を傷めている様子が伝えられております。
 「ブントが世界の、とはいわなくとも日本の革命運動に新しいものを加えたとするならば、それはなんであろうか。ブントは、トロツキーと宇野と黒寛の模倣にしか過ぎないというならば、それは何ら核心を突かない評論であろう。

 日本共産党から分離し(組織的に)、分離しただけでなく、この党を堕落せる小ブル政党と弾劾し、新しい共産主義プロレタリア革命党、前衛党の創設を公然と目指したこと、そのことによって、初めて小ブル政党の幻影に悩まされていた革命的部分に前衛党の創設を自らの課題として提示したこと、これは明らかにブントの功績と云える。

 もし、トロツキー連盟、革共同が俺の方が先だといっても、それは事実に違いないが、それにも拘わらずプロレタリア運動の現実的課題としたのはブントであろう。しかも、その創設と同時に、既に20年前に全世界に新しい共産党を呼びかけた第四インター(革共同)との闘争の開始によって、共産党からの分離は直ちには前衛党の創設にはならないことを明らかにしたのもまたブントではなかったか。

 そしてこのことを黒田が既に為したとはいえ、ブント創出と同時に為された、かの大衆的闘争と組織闘争が無ければ、黒田は関西派との闘争を全国委員会結集という方法で為しえただろうか。いやその形式よりも、あの大衆の場での討論と、その過程における分離・組織的確立という過程をたどらなかったならば、この第四インター批判―トロツキー批判は既成の革共同の中でのお喋り的な宗派闘争に終わっていただろうということもまた明らかである。

 それとともに、ブントの功績は、革命的学生運動の創設という独特の方法によって、この反スターリン運動を打ち立てたという点に求められる。このことは明らかに他の反スタ組織がサークルになりさがっていたのに比して、ブントの組織方針の優位を為したが、同時にそのことはブントの性格をも規定したといえる。東大派、プロ通派などは、そのブントの悪しき縮小再生産である。

 このようなブントの功績、それはもちろん自らを正しいとしたり、一時的にジャーナリズムの脚光を浴びたことをもって、常にこの光を追い求めるためにあげるのではなく、このブントの運動が、明白に日本プロレタリア運動の一画期を開いた現実を正しく見つめるためにも必要なのである。

 『前衛党不在』、新左翼の結集などということを左翼インテリの流行語と為したこと。この2年間のブントの為したことは、一つの遊戯ではなく、歴然とした人民の運動と厳然としているとき、これを避けて通ることはできないし、これをただ否定的に、清算的に批判することはできないのだ」。
れんだいこ  まさしくそうです。このブントの功績認識をなぜ共有できなかったのでせう。れんだいこにはそこが分かりません。それにしても見事な対自化ですね、感服します。
 「2.27日、(中略)マルクス主義者の幸福、今までの思想と行動は、なんといっても一つの信仰の上に成り立っている。思想の格闘が無い行動。恐らく、全ての人々がそうであろう。だからその行動は容易であった。だが疑い、科学を志したと同時に、この10年間の思考方法は瓦解せざるを得ない。思想と科学の優位。このような思想の構築に、如何にして取り組むのか。俺は心細い。云うならば17歳の懐疑にとりつかれている」。
れんだいこ  ここはそのまま受け止めさせていただきます。敢えて云うなら、レーニンならこの情況にどう対応しプロセスしたのでせうね。

【革共同全国委への合流】
れんだいこ  しかし、こうして苦吟する書記長島さんの動静と関わり無くブントの解体が更に進行していきます。革通派が破産した後、戦旗派も解体へ向かう。革共同全国委のオルグを受け入れ、まず2月頃、革命的戦旗派が更に分派し革共同全国委への流れを作り出します。やがて大挙して向かうことになります。

 3.7日、共産主義者同盟革命的戦旗派指導部名で、戦旗派の革共同全国委への合流が指針された。「第六回大会で同盟を革命的に解体し革命的マルクス主義者の原則的統一をかちとれ!反帝反スターリニズム革命的プロレタリア党の創造とわれわれの現在的任務」なる文書が出される。 

れんだいこ  今これを見るに典型的な黒寛理論であり、戦旗派が革共同全国委と緊密な呼吸を合わせていたことが知られますね。
 要約すると、次のように述べている。
 概要「ブントの分裂以後半年間が経過しており、ブントの再建目指して『統一協議会』」結成的な動きがあるが、そうした雑炊的集団、戦術左翼集団―同盟は醜悪腐敗の極であり、『われわれは、あらゆる形での旧同盟復活の試みに対しては、同盟の解体と止揚をめざす第六回大会をもって最後の答えとする』であろう。今やブントを革命的に解体し、戦旗派を中心とする革命的部分と革共同全国委との原則的統一を斗い取ることを、われわれの現在的任務であることを確認することを革命的戦旗派指導部の名において右宣言する」。
れんだいこ  この声明では、ブントの歴史的意義は完全否定され、「同盟はその出発点において破産していたのだ」と黒寛節一色に塗り込められていますね。
**氏  更に、次のように述べている。
 われわれの統一の対象は、明確に、革命的共産主義者同盟全国委員会以外にない。われわれは、革命的マルクス主義の立場に立ち、『反帝・反スターリニズム』を立脚点として一貫して革命的プロレタリア党のための斗争を斗って来た革共同全国委員会の基本的立場こそ、われわれが現在獲得すべく苦斗しているところの立場と原則的に一致することを確認する」。
れんだいこ  という総括から、概要「ブントを解体、止揚し、一点のあいまいさも残さず非妥協的に斗いぬくであろう」と非妥協的に宣言されたということですね。
 黒寛節は更に続く。
 概要「ブント再建派は、自己防衛を唯一の紐帯とする雑炊的雑居集団であり、醜悪な同盟分派斗争の腐敗と堕落のなれの果である」。
 池田内閣打倒斗争に向かう者は卑小な政治運動屋であり、労働運動に向かった者は『労働者の中に転げ込んだ』だけであり、労働運動の中に没入し戦術左翼の職人根性と戦斗性を革命的プロレタリアートの歴史的自覚と思い違え、無自覚な即自的プロレタリアートの次元に居座り、プロレタリアートに戦斗的号令と教訓を垂れる組合運動屋は、疎外された労働の中で必然的に生み出されるプロレタリアの自己否定的直観を欠いた非プロレタリアでありプロレタリア的自覚の頑固な妨害者として、その役割はまさに反動的・反プロレタリア的である」。
 「自らの醜悪さを自覚しえず、自らの生み出した汚物を直視しえない者には、批判の解剖刀ではなくて、打倒のナタがふさわしいのだ。われわれは、われわれが今まさに自己否定的に止揚せんとしている旧同盟の全汚物と屍の再生を、革命的プロレタリアートの名において許すことはできない」。
 「かかる斗いを現実的に妨んでいる共産主義者同盟を一刻の猶余もおかず、革命的に解体し、止揚せねばならない。われわれは当面の緊急の任務、同盟の解体と止揚の、第六回大会をかちとるべく斗うであろう」。
れんだいこ  こういう黒寛論理にブントの多くが立ち向かうどころか、吸収されてしまった。島さんの胸中察するに辛いものがあったと思われます。しかし情けなさ過ぎる。
 これは後に反省したことですが、ブントとは革共同とはイニシアチブを廻って闘争してきたが、目前の闘争に忙しく互いの理論闘争は避けてきた。そのツケがこういう形で払わされることになった。省みて忸怩たる思いがしないわけでもない。

 この頃、プロ通派も解散決議した。多くは革共同全国委員会へ流れ込んだ。戦旗派に続いてプロ通派も後追いしたことになる。この流れに向かわなかったのが林紘義グループで、3月下旬、「プロ通左派=共産主義の旗派」を結成している。

れんだいこ  ここで付言しておけば、黒寛と宮顕の論理には非常に共通したものがありますね。一言でいえば「排除の論理」です。言い回しが替えられておりますが、どちらも左派運動の発展には非常に有害な方向を指針させる同じ穴のムジナのように思います。この愛情の無さは、左派精神とは異質な白色系のものだと受け止めております。なぜ、このことを見抜けなかったのだろう。

【民青同系から構造改革派が分岐】
れんだいこ  皆様方の視野の外にあるのかもしれませんが、この頃の日共系の全自連の動きも見ておかねばなりません。
 全自連は、3.16−19日、「4全代」(第5回自治会代表者会議)を開き105自治会、350名を結集した。全学連の統一を決議した。既に全自連内部は東京中心に構造改革派が進出しており、そうした内部緊張を高めたまま新学期闘争の体制を固めた。
れんだいこ  ところが、この頃日共内に宮顕派と春日(庄)派(=構造改革派)の権力闘争が発生しており、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受けることになりました。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになります。60年安保闘争時の民青同の指導者であった黒羽全自連議長.田村.等等力らは「学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊しました。こうして、日共は、トロツキスト学生追いだしの後今度は構造改革派学生の反乱を受けることとなりました。

 注目すべきは、構造改革路線に基づく独自の政治方針を展開しておりましたが、ブント系学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけていたことです。この見解は宮顕系党中央の意向とは決定的に対立します。つまり、構造改革派分岐の背景に、この間のブント的運動の評価に関する対立があったということになります。

 日共党中央は、60年安保闘争を主導したブント系、革共同系に対してこれをトロツキストと罵り、「日本共産党第7回党大会.14中総決議」で次のように述べております。
 「トロツキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロツキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」。

 が、黒羽らは、この党中央見解に納得せず次のように主張します。
 概要「トロツキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)。

 つまり、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとった。かく「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価している点で、宮顕式党中央の見解と対立したということである。

 
補足すれば、党中央は、「トロツキストを米日反動の手先として民主運動の戦列に送り込まれた分裂挑発分子」と規定しており、黒羽ら全自連指導部は、「民主運動、学生運動の見解を異にする一つの潮流」とみなし、学生戦線の統一回復の観点から話し合いが必要であるとの立場に立っていた。

 こうして、日共党中央から見れば、左派系トロツキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも党指導直下の学生運動指導部の造反であったことが注目されます。この後、党と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。
**氏  我々は既に日共内のゴタゴタなぞには興味が無かった。
れんだいこ  それは分かります。が、知っておいて損はありません。「敵を知り己を知らば」ということではないでせうか。この知らなさ過ぎが自分達の運動をも危うくさせている、という関係にあるのではないでせうか。
 4.12日、アカハタは、中委書記局「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」論文で、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人となっていた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面を使って発表した。
れんだいこ  機関紙の私物化窮まれりの痴態ですよね。こうして、初代全学連委員長時代に宮顕に最も信頼を寄せていた武井氏は、利用し尽された挙句に紆余曲折を経て最終的に斬捨てられることとなりました。 
 4.17日、アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールに賛成して党中央の説得に従わなかった数名の同志を規律違反として処分した顛末を報 じた。主に「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らの作家・評論家たちであった。
れんだいこ  この問題の重要さは次のことにあります。「新日本文学会」は、文芸畑出身の宮顕にとっていわばホームグランドのようなところです。そういうところで支持されず、問答無用の強権手法で統制に乗り出しているということになります。宮顕の介入が為されるたびに「新日本文学会」にしこりが残り、最終的に機能しなくなります。これが宮顕の正体でもあります。

【ブント解体、革共同=マル学同が全学連の指導権を確立】
れんだいこ  こうして全学連第27回中央委員会で、革共同=マル学同が指導権を確立することになります。
 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。
れんだいこ  この時の気分を、社学同委員長篠原氏が当時の早稲田大学新聞紙上で次のように述べております。
 「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」。
 こうして、黒寛の「他党派解体路線」を絵に描いたように成功させ、黒寛派の全学連無血占領を許した。ブントの同盟員達をその程度にしか鍛え上げていなかった私の責任でもあると噛み締めました。
れんだいこ  内省的な島さんらしい受け止め方ですね。この時、唐牛委員長、北小路中執らも合流していっていますね。別に止める訳でもなく、それこそ自律的に見守ったということでせうね。
 こうしてマル学同全学連の誕生となった。マル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至り、革共同全国委系がブント戦旗派を吸収した。
れんだいこ  島さんには苦々しい成り行きだったでせうね。
 4.20日、戦旗派は、組織を解散させての合同決議を行ない正式に革共同全国委へ合同した。革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産していたが、この派から移行した者は確認できない。
れんだいこ  田川和夫グループも戦旗派からの流れですね。田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになります。
 プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。プロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいる。
**氏  後に中核派へ行くことになるこの連中は、冷や飯を食わされた。次のように伝えられている。
 概要「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、遅れてマル学同へ加盟したことにより、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された」。
れんだいこ

 後々の展開から見て、この時革共同へ走った背景として、黒寛理論を受け入れた部分と本多派の庇護下に入った部分と二派に分かれているようですね。


【ブント解体考】
再来生田  こうしてブントは解体され、社学同からマル学同への組織的移動がなされた。居残った部分も四分五裂の様相を呈していた。結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントが「第一次ブント」と呼ぶ。

 常木守は次のように述べている。
 「彼のいった通りにブントは『潰れた』が、その予想に反してブントを超える『新しい前衛党』が生まれることは遂になかった。彼が迎えた状況は確かに『新しい状況』ではあったが、彼が期待し、描きだそうとしたのとは全く違うものだった」。

 次のように描写されている。
 「退いていく波と共に退きながら独自の『後退戦』を闘う器量も持ち合わさなかった。そして波の退いた砂浜に取り残されて、蟹のように立ち竦(すく)み、干乾びた砂の上で足掻きながら死んでいった」。
れんだいこ  ここで、ブントの解体の要因について考察しておきたいことがあります。元々ブントと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われますが、史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行となりました。これは、結成間もなく60年安保闘争に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われます。60年安保闘争の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。

 私見は、ブントと革共同の間には単に運動論・組織論・革命論を越えた世界観上の認識の相違があったように捉えております。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であったのではなかろうか。ブントはカオス派であり、革共同はロゴス派的であろうとして一層競合的に組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しています。

 実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成・運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。キリスト教聖書のヨハネ伝冒頭の「初めに言葉ありき」は、ユダヤ−キリスト教的世界観としてのロゴス派の宣言であり、日本神道的な「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめています。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思います。

 島氏が、このブント的ごった煮的カオス的な善し悪しさ−観が、当時のブントに伝えられていなかったことを私は惜しみます。60年安保闘争に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。どちらが良いというのではない。そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということです。
**氏  お前はほんにうまいこと云うなぁ。
れんだいこ  はっ有難うございます。続けます。ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになります。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化です。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになります。惜しむらくは…というのが私の感慨です。
再来生田  島氏のその後について佐藤粂吉が次のように語っている。
 概要「『ブントの魂を持続し、ブントの衣装を脱ぎ捨てる』。これが、ブント後の島が自らに課した命題である。『転身は本物』であった」。
**氏  同様の思いで去ったのが古賀、常木ということになる。
れんだいこ  しかし、今回明らかになった島ノートに拠れば、かなり実相が違うということになりますね。島氏はブントの解体情況に対し必死に流れに掉さそうとしております。残念ながら内省的で、なりふり構わぬものではなかった。そこが島さんらしいところでもありますが。
再来生田  その他活動家達のその後として小川登が次のように述べている。
 「東大生の転身は早かった」。

 東大系の者は概ね転身に成功した者が多い。つまり彼らは、闘争終焉後大学に戻り、1、2年回り道はしたとしても通常の東大出身者と同じように社会的上層部の立場を得た。大学教授や医者、弁護士が少なからずいる。
れんだいこ  この辺り転身に成功し得た者とし損なった者、引き続き党派活動に邁進した者達との間に形容しがたいものが横たわっておるように思えます。革命運動につきものの悲喜劇こもごもというところでせうか。

【マル学同全学連の動き】
れんだいこ  その後の動きを見ていきませう。 
ト書き

 5.17日、池田政府は、「政治暴力防止法案」(政暴法)を国会に上程した。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。全自連も、マル学同全学連も、安保闘争の延長戦として直ちに反対闘争に立ち上がった。しかし、学生戦線の分裂が尾を引き盛り上がりが弱かった。マル学同全学連は、ただちに非常事態宣言を発して、緊急デモを国会へ向けて組織し、「5.30日にゼネストを」アピールを打ち出している。5.30日に結集したのは約500名。

 5.21日、全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日、統一行動を設定し、「授業放棄」を訴え、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。約3000名結集。

 6.3日、法案の衆院通過日のこの日、労学による午前1時過ぎまで南通用門前に座り込み闘争が続けられた。結局、法案そのものが国会内の取引で「参議院で継続審議」と決まったこともあって、以降急速に動員力が落ちていった。

 マル学同下の全学連の動きは、ポスト安保であったことと、ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日、3000名が政暴法(政治的暴力行為防止法案)粉砕の決起大会に結集。6.15日、「6.15日一周年記念総決起集会」に3000名結集している。

 遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。こうしてマル学同全学連も果敢に取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあった。
 この政暴法闘争は、関西ブントに利をもたらした。京大では、教養学部の自治委員長と同学会の代議員選挙で、旧主流派(関西ブント)が圧倒的に勝利し、民青系が孤立する結果を生んでいる。こうして、京都では、京大と同志社大を中心として京都府学連を1965年まで関西ブントが執行部を押さえていくことになった。
**氏  この関西ブントが後に三派系全学連創出の有力地盤となっていくことになる。早大一文.法大経済などもこの闘争の中で(二重執行部などの問題を含みながらではあるが)執行部を民青系から取り戻している。
れんだいこ  しかし、民青系全自連の進出を押し止めたこのことが、逆にマル学同と反マル学同との抗争を激化させていくことになったようです。そうこうするうちに「6.15樺美智子葬一周年集会」がやってきます。

 6.15日、樺美智子葬一周年のこの日、マル学同全学連は3000名を結集し、国会デモに向かった。機動隊とのもみ合いの後、共立講堂で「樺美智子追悼集会」が為された。集会の主宰者には、全学連.社会党.総評.社青同.文化人らが名を連ねていた。


【全学連第17回大会】
れんだいこ  全学連第17回大会がやって来ます。 
 この大会でマル学同と反マル学同(つるや連合+民青同)が異様な対立を演じることになる。恒例の全学連大会の時期を迎え、各派が思惑を絡めていくことになった。この時の全学連各派は、1.中執を握るマル学同系、2.構造改革派系全自連、3.民青同系、4.社青同系、5.革共同関西派系、6.旧ブント再建社学同系、7.旧ブント関西社学同系となっていた。

 
7.6日、マル学同の大会が開かれた。全自連も、7.6−7日、「7全代」を開催し、大会への参加条件について、1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。

 
マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同は、マル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発しており、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これを「つるや連合」と云う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということである。
れんだいこ  これにマル学同がどう対応したか。
**氏  マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。
れんだいこ  この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れませんが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになります。この当時相対的に一等秀でていた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っています。
**氏  7.8日、こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗した。マル学同は一旦警告した後「突撃隊」を組織してピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、近くの材木屋から角材を調達して武装し襲った。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが革共同へ移行した外様の岡田新(清水丈夫)全学連書記長であったと云われている。 
れんだいこ  興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと云う。この感覚も一体何なんだろう。この時警官隊の規制が為されたとあることからすれば、おでまししていたようです。 この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになりました。
 7.9日、全学連第17回大会はこうした状況の中で開催された。ボス交渉の結果、一旦はつるや連合も入場したようであるが、開会直後の千葉中執の発言を廻って紛糾しなぐりあいとなり、総退場した。こうした大会はマル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも言われている。他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさに私物化された大会となった。

 大会は、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。大会議案は、「帝国主義打倒・スターリン主義打倒の学生運動」観点を打ち出し、賛成248、反対10、保留1で中執提案を可決した。「仮借なき反帝闘争の中で全自連を粉砕し、学生運動における革命的左翼の力を拡大するために‐‐‐帝国主義ブルジョアジー.池田内閣の新政策と対決し、池田内閣打倒の闘いを進めよう」との行動方針案を提案し、賛成233、反対9、保留3で可決されている。

 
人事は、ブント出身の北小路敏(京大)を委員長、副委員長に根本仁(北海道学芸大)、小野田襄二(埼玉大)を選出し、以下マル学同のオール中執となった。
**氏

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で、「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日、教育大へ結集した。

れんだいこ  ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部内に異変が発生している。第8回党大会前後の春日(庄)グループの脱党の影響をもろに受けることとなった。全自連は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らく、この時の全自連指導部は全学連の統一を切に願っていた構造改革派系であり、マル学同派との間に何らかの合意が成立したものと考えられます。
れんだいこ  この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年夏のノート」に次のように記されている。
 「ともかく60年8月のブント大会から始まった日本の左翼の思想的再編は、今年の4月、プロ通派・革通派の解散、戦旗派の黒寛派への移行、黒寛派の全学連無血占領によって新しい段階に入った。日本左翼にとって、このブントの分解に見られる思想的混乱は、戦後最大のものである。因みに50〜51年の、56〜58年のそれと比較してもすぐ分かる」。
 「目標は反黒田、反日共の革命的左翼のケルンの結集。その為に、ブントの中で最も優れた部分の結集、あるいは各方面での思想運動。第三にブントの全面的(思想的、政治的)批判。第四にマル共の分裂の促進(第8回大会を控えて)。第五に経済的基礎の確立。第六に学生運動史資料の整備。以上の目標を決めて始めた。そして2ヶ月たった」。
れんだいこ  島さんのこの思想の高み、分析を当時のブント後継者達が誰も継承できなかった。ここにブントの悲劇があるように思われます。

【日共第8回党大会の動き】
れんだいこ  煩雑を避ける為この間の日共第8回党大会の動きを割愛します。概要は、「戦後政治史検証」の「第第8回党大会」の項に記しております。

【宮顕の反動的な党内統制仕掛け考】
れんだいこ  この頃、宮顕が民青同の組織理論にベルト論を持ち込んでおります。皆様方にはあまり興味が無いかも知れませんが、暫くお付き合い下さい。

 日共は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えました。

 
明らかに党による民青同の引き回しであり、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになりました。第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになりました。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になりました。

 これは、党が民主主義的「改良・改革」に過ぎないものをを「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われます。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準が著しく低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこととなりました。

 
宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろうとの疑問が涌きますが、こういう観点を共有するものは少ないですねぇ。
ト書き  8月、早大の高野秀夫が離党している。
**氏  結局、使い棄てられたんだろう。
れんだいこ  もう一つ、宮顕の悪さがここで確認できます。8.30日、党は、主要都道府県学対部長会議を開いて次のような指導をしています。広谷俊二氏の「現代日本の学生運動」に記されております。それによると、「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して次のように述べております。
 マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロツキズム、現代修正主義のえせマルクス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習。
 労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する。
 地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する。
 学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める。
 従って強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める。

 この指導を見ても同様に、宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、と疑問を沸かさずにはおれません。宮顕のこういう傾向までスターリニズム批判で済ましておりますが、これはスターリニズムの特徴というより、当局の意を挺したスパイによる党破壊活動、青年運動抑圧でせうに。

【漸く新しい動き】
 全学連第17回大会の帰趨を見て、京都府学連=関西ブントが主力となって残存系のブント活動家が、社学同の再建を目指して活動を始めた。7.11日、社学同東京都委員会再建。8.11日、東大.早大.明大.中央大の活動家が「社学同東京委員会」を再建した。この時、社学同全国準備委員会名で機関誌「希望」を創刊し、社学同再建のアピールを行い、マル学同を批判している。次のように述べている。
 「従って、学生運動の自立性を否定し、学生運動を既成のイズムの工作の対象.客体としてのみみなすものは、学生運動にとって、絞殺者であり、敵である」。

 京都府学連=関西ブントがこの動きの主力となった。8月、東大.早大.明大.中央大の活動家が「社学同東京委員会」を再建した。
れんだいこ  「社学同再建のアピール」の見地こそ本来真っ当なものであったのではないでせうか。れんだいこは、この見地が生かされなかったことが実に惜しいと考えております。
ト書き  8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられることとなった。
 日共はソ連核実験の支持声明を出した。革共同関西派は対応が割れた。革共同全国委=マル学同は「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。
**氏  9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。この時の革共同全国委の動きが、「日本の反スターリン主義運動」の中で次のように総括されている。
 「1961年秋のソ連核実験再開に直面させられて完全に混乱の渦中にたたきこまれ、何らかの反対運動をも展開することができずに自己破産を義黒した原水協並びに社共両党の、この腐敗を公然と暴き出し弾劾し、のりこえつつ推進されたわが全学連の『米.ソ核実験反対』の反対闘争は、1962年の春のアメリカ太平洋実験に対する激烈な反対闘争として受け継がれ、そして日本原水協の完全な無活動的腐敗や第8回原水爆禁止大会における社共両党の衝突の茶番性を大衆行動をもって暴露したことなどを通じて、同時に国際的な反戦統一行動を生み出しながら、今や確固とした地歩を築き上げた。さらにそれは、闘う労働者自身による反戦闘争の行動化を促す触媒としても働きつつある」。
れんだいこ  この頃、春日(庄)派の「青学革新会議」が結成されております。
**氏  我々はブントの中からしか見ていなかったが、結構めまぐるしいんだな。
れんだいこ  ですね。9.29日、春日(庄)ら構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。「共産主義的青年学生同盟の結成を目指して」という宣言を発表した。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。

 その背景にあったものは、宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。次のように述べております。
 「日本共産党は、宮本、袴田ら派閥官僚主義者によって党規約を蹂躙し、一方的に党大会を強行して、新綱領、政治報告、規約改正を強行した。その結果、共産党は新綱領を民青同盟に強制し、同盟の規約を無視してまで、党綱領に反対する同盟員を同盟組織から排除した。また青年が自主的に決定した民青の六大会.七大会の路線を、党綱領によって修正することを企図し、同盟の掲げた青年の要求の運動化、全国化の方針をぶちこわし、同盟を党の方針をシュプレヒコールする自動装置にかえてしまった。同盟は完全に党機関の従属物にかえられている」。

 
青学革新会議の特徴は、この時期党が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、ねばり強く学生運動の統一を目指していたことにあった。但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなった。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。

 
なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。ソ連核実験再開への態度の違いも見られた。なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂する。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月、社会主義学生戦線(フロント/東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青/教育大等)へと続く。
ト書き  10.7日、マル学同系、社学同系二つの都学連大会開催。
れんだいこ

 10.7−9日、前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、社会主義革新運動(社革)の創立総会を開いた。議長春日(庄)・副議長山田六左衛門.事務局長内藤知周。社会主義革命と構造改革論、「平和.中立.完全独立」を指針化していた。

 この時の春日(庄)は次のように述べています。

 「私は新しい党を作ろうとは考えていない思わない。運動の目標は、党をマルクス.レーニン主義の立場にたって新しい基盤の上に再建することにある。そのため党外に出て独自の共産主義者の組織をつくっていこうと考えている。その組織は、新しい革命路線と民主主義的ルールの組織原則を持つ集団である。結論的に言えばそれは党派である。しかし党を名乗り党派的に代々木と争うことはしない」。

 「私は新しい党を作ろうとは考えていない思わない」、「党を名乗り党派的に代々木と争うことはしない」という日共に対する未練、ひ弱さでは闘えない。その後を暗示していますよね。

 10.15 −16日、全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁、一掃するすることを宣言した。

れんだいこ  これに対し、反マル学同三派連合が形成されることになります。
 社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに12月に反マル学同の三派連合を形成した。この年の秋の自治会選挙では、マル学同系・三派連合・民青同で激しく争われたが、マル学同系・三派連合が勢力を一定伸張させた。
れんだいこ  この頃、島さんが漸くブント再建に乗り出しておりますね。

 10.24日、「その数日前に共産主義者同盟書記局、島成郎他の連盟で一通の召集状が届けられ、私達は九段にある雄飛寮の集会室に集まった」(福地茂樹証言)。ブントの再結集を目指した秘密会議であった。島、常木、森田がおり、対馬(忠)と吉本が講演した、とある。

 席上、島さんが次のように述べたと伝えられている。

 概要「(旧書記局の統一見解であるとして)ブントを再建する」。
 「この1年半の分派活動の首謀者達は、みな小者ばかりでトレランスに欠ける。その理論に至ってはチマチマして中小企業のオヤジの床屋談義よりも程度が低いくらいだ」。
れんだいこ  この動きがどうなったのでせうか。

 その数日後、島氏の声掛かりで福地氏はジャズ喫茶で落ち合い、バーに席を移した。福地茂樹が次のように証言している。

 「島は開口一番、お前の云うとおりブントの再建はあきらめた。森田と常木もこれに同意した、というのだった」。
 「その後の話し合いで、社学同の再建を依頼され、それがSect6の立ち上げに繋がった」。
れんだいこ  つまり、島氏はどういう事情に拠ってかブント再建をあきらめ、ブント分裂より一年有後、島氏の意向を受けた「Sect6」が登場してきた、ということですね。
**氏

 「Sect6」に参集したのは、福地、中村(光)、古賀(泉)、山崎(修)、河野(靖)、中村(佳)、佐藤(粂)らで、高井戸の都営住宅の島夫妻の居宅に集った、と伝えられている。

 9.8日、社会主義学生同盟(社学同)、政暴法、ソ・米核実験反対集会、デモ。100参加。10.26日、都学連(社学同)政暴法粉砕闘争。10.31日、社会主義学生同盟(社学同)が、政暴法、ソ・米核実験反対集会、デモ。11月、社学同事務局派が東京社学同大会開催。

 12.5日、社学同再建準備会(社学同全国事務局派)が全国結成大会を目前にして、機関誌「SECT No.6」を創刊。「SECT(セクト)bU」(社学同全国事務局)という名の機関紙でアピール「僕たちの宣言」を出した。
れんだいこ  これ以後「セクト」という言葉が使われだすことになったようですね。
 Sect6は、全学連第17回大会に対して、次のように批判している。
 「一党派の全きセクト的利益の貫徹の場に転化し、大会そのものは『反帝反スタ』前衛党創造の為にそのような党的(党派的!)立場に立って、学生運動を一切利用しつくせ、という公然たる赤色労働組合主義の一掃の徹底化に他ならなかった」。

 この時の「僕たちの宣言」を要約する。
 「安保闘争を経験した僕たちは、旧社学同・共産主義者同盟の一切の残滓に訣別する、これが教訓であったのだ。革命の旧意識よ!前衛主義よ!レーニン主義者たちよさらば!」。
 「旧式用語と前時代的革命意識の日本共産党と、歌と踊りの民青派からかって訣別した僕たちは、さらに明言する。 春日のごとき構造改良・トリアッチ主義者の自己分解は現在急激にすすんでいる。諸君!さらに分解せよ。全学連の名を標榜する戦前左翼の亡霊、旧社学同の誤りの縮小再生産者たち、マル同くたばれ!」。
れんだいこ  そしていよいよ社学同が再建されます。
 12.15日、社学同全国事務局派、社会主義学生同盟は、社学同全国支部代表者会議を開催。来る3月下旬に結成大会を持つことを決定し、全国事務局がその任を負うことが決定された。「ロシア・アメリカ核実験反対!政暴法反対!日韓会談と海外派兵・徴兵制反対!憲法改悪反対!」などのスローガンで活動が開始された。
**氏  しかし、「外部と僕たち自身の間で緊密なコミュニケーションが未だ保てない状態」で、「特に新聞・機関紙の発行、その他の事務を集中するための事務所の設立の計画については、総額一五万円ほどの資金を必要としますのでその一部をその一部を負担していただきたく」とあるからしてその状態が推して知れる。 
れんだいこ  この間ブント解体は無慈悲に進行し、全学連第18回大会が開かれ、マル学同からブント色が一掃されます。

 12月、マル学同指導部が全学連第18回大会を召集した。この大会で、唐牛.北小路ら安保闘争のリーダーが中執から引退し、委員長に根本仁(旧ブント系、その後革マル派の最高幹部になる。土門肇がペンネーム)、書記長に小野田襄二らが選出された。米ソ核実験反対の運動を徹底して進める方針を決めた。

**氏  結局、水と油は馴染まなかったことになる。

 これより後は「59年ブントの歩み」に記す。





(私論.私見)