場面14 あぁ無情

 (最新見直し2007.7.18日)

 これより前は「安保条約自然成立、国会包囲デモ考」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 60年安保闘争の終焉後、各派が総括に向かった。民青同系は勢力拡大のチャンスとばかりにいち早く体制建て直しに着手している。革共同系は、ブント指導による60年安保闘争の敗北を当然視し、ブント運動の破産をこれまた勢力拡大のチャンスとばかりに理論闘争を仕掛けていくことになる。さて、ブントはどうなったか。既に島−生田指導部は燃え尽きていた。全学連中央派の面々は、その総括に百家争鳴し求心力を持たぬまま分裂を余儀なくされていくことになった。

 2007.7.18日再編集 れんだいこ拝


【【安保闘争後の日共の動き】
れんだいこ  さて、随分長くなりましたので、ブント論の考察をテーマにしている関係上関連する要点確認でいくことにしませう。

 安保闘争後、ブント全学連が挫折と混迷を深めたのに対し、日共党中央にはそうした陰は微塵も無く、ひたすら党勢拡大を目指していくことになりました。袴田の「私の戦後史」によれば、「60年安保前」には、党員4万名足らず、アカハタ本紙4万部だったものが、闘争が峠を越した9月の時点で、党員8万名、アカハタ本紙10万部近くに倍増させていました。以降、この党勢倍増運動に拍車がかかっていくことになります。このことが際立った特徴となりました。「日共の商売上手」は批判されるものではなく、ここは感心せねばならないところかも知れません。

れんだいこ  民青同盟6回大会は考察するに値します。安保闘争終結直後開かれております。いち早くポスト安保後に向けて指針していることが注目されます。こういうところが日共の強みといえば強みかも知れません、というか目線が違う気がします。ブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照です。

 大会は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき 同盟の新しい性格と任務を決定します。「『青年同盟の呼びかけ』と規約を採択し、同盟の基本的性格と任務を確立した。マルクス.レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟の建設の方向を明らかにした」とされていますが、本当は大変だった。

 民青同中央はこの時、同盟中央が作成したよびかけ、規約をめぐって党中央と対立しています。既述しましたが、宮顕は同盟が自主的に作成した新方針に対して強権的に右翼的に修正しました。大会ではその個所に批判を浴びせて、当初同盟中央が決定していたように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のため」に闘うよう改めました。

 字句遊びのようでもありますが、 「人民の民主主義的課題のために闘う」から「人民の民主主義の立場に立つ」へと修正されていた部分を再び「人民の民主主義的課題のために闘う」へと戻したということです。こうして、「現憲法のもとで実現可能な青年の諸権利を獲得するため、法制化と政治的民主主義の拡大をはかること。さらに、青年の統一戦線をつくるために、独占の利潤を制限し、青年を社会的・経済的・文化的に保障する闘いをおこすことが急務である」ことを訴えることとなりました。

 結果、1.民青は労働者階級の立場に立って、人民の民主的課題の為に闘う青年の全国組織である。2.民青は、労働者階級を中心とする青年戦線の中核(後中軸と訂正)である。3.民青の基本的任務の一つは、マルクス・レーニン主義を学ぶことにある、という立場を確立しました。こうして「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へとスタンスを明確にしつつ新しい出発の基礎を築きました。ここにはブントら青年運動の急進主義的運動の影響を受けて、穏和路線ながらも闘う主体への転換を企図していた様がうかがえて興味深いものがあります。

 こうした経過を見れば、党中央と民青同中央間には一定の反発があったということになります。結果的には、宮顕の引き続きの露骨な介入により、民青同は元の木阿弥の穏和化路線へ再度誘導されていくことになります。宮顕の下では問答無用式に右傾化路線が敷かれ、唯々諾々しない限りパージされるようになっております。

 ところが、宮顕は後になって又もや介入いたします。その様は後で触れようと思います。その延長上で、84.7.26日の「民青同第18回大会」を前にした7.12日の党の常任幹部会で次のように発言しています。
 「民青は普通の大衆組織ではない。党の導きを受け、党の綱領に従って行動する党の青年部的組織であるから、役員の選出に当たっても党として事前に検討し、協力と指導を強化すべきだ」。

 レーニンの「若い世代は独特な方法で共産主義に近づく」という青年同盟の自発的規律を重んじる発想と随分かけ離れた指導精神の持ち主であることが見て取れます。

 この経過は「日本共産党の65年」党史の165Pで次のように述べられています。
 「党は、1960年(昭和35年)3月の第9回中央委員会総会第7回党大会で、日本民主青年同盟についての新しい方針を決定し、青年運動の発展に新局面をひらいた。民主青年同盟は、この新しい方針に基づいて同年6月に第6回大会を開催、『青年同盟の呼びかけ』と『規約』を採択し、青年同盟の基本的性格と任務を確立した。それは、新しい情勢のもとで民主青年同盟の当面する任務を、平和・独立・民 主・中立の日本の建設と青年の諸要求の実現の為にたたかうことにおき、その民主的大衆的性格と、『科学的社会主義』(『』は私の書き込み)を学び日本共産党の導きを受けるという共産青年同盟以来の先進的性格を統一したものであった。これによって、民青同盟は、それまでの性格と任務についての様々な混乱に終止符を打ち、その後の発展の確固とした基礎をおくことになった」 。

 この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るでせうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのでせうか。私は史実の偽造と受け取ります。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのでせうか。実際には 「マルクス・レーニン主義」を学ぶと書かれていたのではないのか。この部分が書き換えられているとした場合、後に用法が例え転換されたにせよ、その時点で使われていた表現はそのまま歴史的に残して担保すべきではなかろう か、と思うが如何でしょうか。

 こうした改竄がやすやすとなされねばならない根拠が一体どこにあって、党中央はなぜそんなことまでするのかが私には分かりません。「プロレタリア独裁」についても同じ事ですが、なぜ過去にまで遡ってかような修正をなす必要があるのでせうね。どなたか執行部側の正義の陳述で説明していただけたらありがたい。
**氏  ほとんど病気やな。
れんだいこ  宮顕は、 この後の6.29日から開かれた党の「第11中総」で、訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」を採択しています。この時、党内はどのように受けとめたのでせうね。れんだいこには、「神様・仏様に手を会わそう」と同じで、余程の方でない限り誰もこんなことを一々否定しない無内容さを感じてしまいます。その先のレベルで党運動が生まれているように思うけどね。

 この訴えは宮顕の発議であるとしか考えられませんが、先の「民族的民主主義」路線とかこの度の「愛国と正義」路線とかを見るとき、この御仁が本当に「日本共産党」の指導者なのかどうか首を傾げざるをえません。れんだいこが胡散臭く感じるゆえんのところがこの辺りにも垣間見えます。

【全学連第16回大会】
れんだいこ  いよいよ全学連第16回大会です。
 7.4−7日、全学連第16回大会が召集された。 この時、全学連主流派 は、全学連第16回大会参加に当たって都自連の解散を要求した。 都自連を中心とした民青系反主流派は、1.都自連解散要求の撤回、2.第15回大会は無効であるを主張し、革共同関西派は先の8中執の罷免取り消しを要求したようである。それらは拒否された。
**氏  お互いに相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。
れんだいこ  この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであったのですが、この頃ブントの独善性も目立ち始めております。それと民青同ははっきりと分裂志向し始めております。革共同関西派については分かりませんが、彼我の動きを見ると分裂は致し方無かったのかも知れない。

 運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われますが、既に修復不可能であったようです。
 全学連中執は、会費未納を理由として都自連の代議員を締め出した。こう して、全学連第15回臨時大会に続き反対派(民青同派.革共同関西派)が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。締め出された民青系都自連と革共同関西派が別に大会を開いたので三派に分かれて開催されることになった。
れんだいこ  結局、三派(主流はブント、反主流は民青同系、革共同関西派)がそれぞれに大会を開いたということですね。

 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。代議員数は約270名、どうにか「定足数を上回る」状態であった。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、議論百出となりもはや求心力を持たなかった。委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。

 
全学連中央執行部を代表して北小路敏氏が「安保闘争を高く評価し、次のように総括した。

 「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」。

 続いて、「池田内閣との階級決戦を闘おう。60年秋こそ決戦」という「運動総括」.「状勢分析」.「行動方針」が為された。これに対して早大などの革共同系から、「安保の敗北を確認することこそ重要であり、主観的に階級決戦を呼号するのは誤り」という批判が為されるという事態となった。批判側は採決時に「棄権」.「保留」の態度に出たので、中執の議案は圧倒的多数で可決されたものの、分裂模様を印象付ける大会となった。

**氏  ブントは、全学連第16回大会を何とか乗り切ったが以降急速に求心力を失った。
 対照的に民青同と革共同全国委が活発な動きを見せていく。
れんだいこ  民青同系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日、全国学生自治会連絡会議(「全自連」)を結成します。日共がこれを指導し、もはや全学連指導部の奪還が不可能との判断で、全学連との対抗分裂組織をつくっていったということになります。その際、「全学連は脱退しないが、反主流派として全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成する」という論法で、分裂化へと向かっております。

 都自連を先頭に全国的な連絡会議の確立に奮闘し一定の支持を受けた、と云うことになります。
 7.20日、「全自連ニュース」第一号が発行されている。全自連は、全学連の規約を守 り、民主的運営の回復のために闘うことを明確にした。連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大・早大第一文・東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。日共は、これを指導し、党員学生がほぼその指導部を制していた。
れんだいこ  この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となります。
 安保闘争を通じて、革共同全国委-マル学同が組織を拡大強化していった。安保後にブントが分解していったのとは対照的に、「革命的な左翼組織として、唯一の党的組織―組織的に存在し、思想的にも体系化されている―を持つのは革共同全国委だけ」と云われる状態になっていった。

【ブント第5回大会】
れんだいこ  続いてブント5回大会開催が開催され、何とブントが解体します。
 7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。
**氏  大会議案は次のように書かれていた。
 「6.15によって決定的状況を切り開いた時に、まさに全労働者大衆、全小ブルジョアジーが運動に加わってくるとともに、同盟の前衛としての機能はマヒし、全運動を社会民主主義者の方針とイデオロギーの掌握下に渡し、さらに決定的な闘争への進路を自ら断ったことによって、同盟の弱点を全面的に開花させたのであった。我々は同盟の活動が未成熟であったとして、同盟が真の階級的前衛党としての機能を果たしえなかったことを断じて合理化してはならない。反対に、今こそ同盟の前衛党としての建設のため、おそれずその弱点をえぐり出し、同盟の再建とも云うべき任務を遂行せねばならないのだ」。
れんだいこ  これに対して、東大細胞意見書=星野論文が出されました。意見書は、この間のブント指導部の革命理論、現状分析、その闘争の指導のあり方を廻って更に急進主義的な観点から批判を加えていった。しかし、それに対する反批判の大論争が為され、複雑な対立へと発展していくこととなりました。
**氏  東大細胞意見書=星野論文について、蔵田計成が次のように紹介している。
 「6.18に再突入して政治的危機を創り出すべき追撃戦ができなかったのは、安保闘争を階級決戦と捉えず前哨戦と規定した姫岡玲治(青木昌彦)の国家独占資本主義論(自己金融論)にみる日和見主義にある。独占資本の買収によって基幹産業プロレタリアートの戦闘力は削がれているという経済決定論的な階級分析からは、階級決戦論は演繹されない。そうではなくて、現代資本主義は政治委員会の下におけるドラスティックな政策展開によって延命を図ろうとしており、その最大の階級攻防戦=政策阻止が安保決戦に他ならなかった」。
れんだいこ  つまり、「もっと徹底的に闘うべきだった」ということですね。この時の島さんの様子が次のように語られています。
**氏  大瀬振は次のように証言している。
 「島は憮然としてそれを見ていたが、あえて収拾する努力はしなかった」。

 多田靖は次のように証言している。
 「島の立場から云えば、闘争の前進にとかく批判的だったのが東大本郷であり、その糾弾されるべき部分が糾弾に立ち、有効な反論が為されないまま中断に至った。島の心中は余りある。断腸の思いであったに相違ない」。
れんだいこ  ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。こうしてブントは「いまや統一ある同盟中央と政治局が存在しない」状態に陥ります。
**氏  以降、ブントは分裂解体化へ向かい、分派闘争の季節へ向かうことになる。
れんだいこ  島さん、この時の胸中いかがばかりだったのでせうか。
 私と生田が最高指導部でリードしてきたブントの時代が終わり、次のことは次の世代に委ねようと考えておりましたので、混乱を収拾させようという立場は執りませんでした。
れんだいこ  為すも為さざるも、革命の弁証法に委ねるという見地であった、ということのようですね。
ト書き  大会は学連書記局(全学連と都学連の合同手記局の通称名。全学連メンバーは青木昌彦、清水丈夫、都学連メンバーは糖谷秀剛、田中一行、林紘義、立川美彦の東大メンバーに早大の蔵田計成)と東大本郷の学生細胞を中心にした再建準備委員(再建準備委員長・清水丈夫)を選出し、ブントのその後を模索しようとした。
**氏  が、ブントは再建方向には向かわずひたすら崩壊局面へと歩んでいくことになった。
れんだいこ  結果論ですが、島―生田ラインに読み誤りがあった気がしますね。どこを読み誤ったのか次第にはっきりしてきますのでそこでコメントしたいと思います。

【安保闘争敗北論が台頭し始める】
れんだいこ  以降、ブントの安保総括はますます混迷を深め、島派、革通派、プロ通派、戦旗派、関西ブントその他に分裂します。互いが分派を公然と名乗るところがブントらしくてせめてもの救いです。
 「分派闘争は、『資本主義の現状分析』、『共産主義者の政治闘争論』、『労働者運動とその前衛についての思想的根拠』について、それぞれに切実な問題を提起し、それぞれの道をまさぐっていった」(常木守)。革命理論を廻っても喧騒を極めることになった。

 この過程で指導部に亀裂が入り、この後8.9日から10月にかけて東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、 革命の通達派と戦旗派とプロレタリア通信派に分かれていくことになった。
れんだいこ  9.1日、全学連主流派の25中委が開かれ、先の第16回大会の総括を修正しておりますね。
**氏  この会議で、「安保闘争は政治的にも敗北であった」総括にとって替えられた。
れんだいこ  革共同的総括が浸入しつつあったことが判ります。
ト書き  9.5日、池田内閣が「所得倍増政策」発表。
れんだいこ  池田内閣論について別途論ずる必要があります。ここでは割愛します。

【公然分派闘争始まる】
れんだいこ  この辺りでそれぞれの派の理論と特質を確認しませうか。まずプロ通派が分派宣言したようですね。
 プロレタリア通信派(プロ通派)は学連書記局とも云われ、9月中旬頃、結成された。「両派の中間的立場に立って」ブントの分裂を避けようとしていた。清水丈夫・青木(姫岡玲司)・北小路敏・ 林紘義ら全学連書記局を握る連中が連なった。学連書記局が「プロレタリア通信」を復刊したことからプロ通派といわれるようになる。

 プロ通派は、
「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」、「基本的にブントの方針は正しかった」と主張し、9.18日、「プロレタリア通信」復刊第一号で、戦旗派に対して次のように批判している。
 概要「マル学同と陰に陽に一致しているらしい、反論の必要も認められないほどのブント内部の日和見主義的部分である」。

 革命の通達派に対しては、「同盟の革命的再生にとって最悪」と批判している。
 
 そのプロ通派は、戦旗派から次のように批判されている。
 「5回大会を機とする同盟の解体と混乱を思想的根源までさかのぼって検討する努力を放棄したが故に、理論的ベールをまとったながったらしいおしやべりのかげに彼らの無思想はバクロされる」。
 「それ故に彼らには問題点の所在すら把握できないのであり、彼らが中間主義的動搖をくり返すこともまた当然なのである」。
れんだいこ  「60年安保とブントを読む」の中で清水氏は、8月下旬のある日、島・生田・清水の三者会談を開き、席上清水氏が、次のように迫ったことが明らかにされています。
 概要「ブントは分解してはいけないし、流会した大会を再開し、再統一をはかるべきだ。島さん、生田さんは是非今一度立ち上がってくださいと迫った」。

 しかし、「島氏の固辞する意思は固く、今や自分は一切手を引く、やめると短く述べ、生田氏も同様であった」とありますね。この時が、本当の意味での正念場だった気がします。
**氏  島・生田は燃え尽きていた。というか、新陳代謝で後続を任せようとしていたということだろう。
れんだいこ  でせうね。ほぼ時を同じくして革命の通達派が分派宣言します。
 革命の通達派は東大派とも云われ、東大学生細胞の服部信司・星野中・長崎浩らによって構成されていた。9月中旬結成され、9.26日頃、東大細胞グループとして「革命の通達」を創刊したことから名称されることになった。

 革命の通達派は、8.14日、いわゆる星野理論と言われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立−安保闘争における理論的諸問題」を発表して、「ブ ント政治局の方針を日和見主義であった」、「60年安保闘争をもっと激しく闘うべきであった」と更に急進主義的に総括した。

 次のように『左』から批判した。
 概要「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり、『安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命』という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであった」。
 概要「ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであった」。
 「再度国会突入を勝ち取って暴動的事態のうちに政治危機を現出していったならば、当然池田の登場は阻止された」。
 「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」。
れんだいこ  「60年安保とブントを読む」で、蔵田計成氏が貴重な史実を明かしていますね。それによれば、ブントの流動局面の最中、東大経友会自治室にて、東大ブント細胞の服部信司、星野中、長崎浩、早大ブント細胞の蔵田計成、下山保の計5名の5者会談で合議したようです。
 「この5者会談を直接の契機として、東大=早大連合フラクは分派として公然と登場することになった。それは丁度、ブント第5回大会から1ヵ月半が経過し、同盟内の分派として、学連書記局グループが『プロレタリア通信派』を最初に旗揚げしたその数日後であった」。
、「私(蔵田)自身が分派結成を密かに決断して下山に打ち明け、同意を取り付けたその足で知り合い程度でしかなかった服部信司に会談を申し込んだことから始まった」。

 当時の早大細胞指導部は、小泉修吉・ブント細胞キャップ、片山*夫(佐久間元)・ブント政治局員、平井吉夫・社学同都委員長、小野信克・細胞委員、奥田正一・全学連書記次長、下山保・全学連中執、宮脇則夫・早大全学協議長、加藤昇・全学連副委員長、江田忠雄・細胞委員、蔵田計成・学連書記局細胞などがいた。

 次のように証言されています。
 「細胞総会での激論を経て、反執行部派が7割以上の多数派を形成した」。
 概要「自負心と誇り、戦闘的な総括に対する心情的な期待感が、『反マル学同』意識も含めて、首都圏のブント学生細胞の圧倒的多数に共通した政治的心情であったことは疑いない。こうした追い風を受けて革通派は都学連傘下の学生細胞に対するヘゲモニーを順調に拡大していった」。

 東大と早大連合で、ブント再建の主導権を握ろうとしたという意図が告白されていますね。
**氏  驚きだな。
れんだいこ  戦旗派(中央書記局派)とは?
 戦旗派は中央書記局派あるいは労対派とも云われ、革命の通達派の見解と真っ向から対立しました。8.11日に「反東大連合フラク=労対グループ」として結成されていたが、分派の公然宣言は最も遅く10月初旬の頃であった。生田・森田実・田川和夫・守田典彦・西江孝之・陶山健一・倉石・ 佐藤祐・多田・鈴木・大瀬らによって構成されていた。唐牛委員長・社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属した。ブントの機関紙誌編集局、印刷局、労対メンバーはほとんどここに所属したことになる。

 戦旗派は「革通派」が急進主義的運動論の観点から島運動を批判したのに対し、組織論の側から批判していった。前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化が必要と『一歩後退、二歩前進』的に総括した。これまでのブント的闘争を否定する立場に立ち、概要「組織温存の観点が欠落した小ブル的一揆主義運動であった」と総括した。

 10.11日付け「プロレタリア党建設のため『戰旗』の旗のもとに結集せよ」論文、10.30日付け「戦旗派結成の基本的立脚点」論文、11.11日付け「小児病的空論主義粉砕−プロレタリアート党建設の為『戦旗』の旗のもとに結集せよ」論文等々が出されているが、要旨以下のような観点であった。 
 「革命の通達派の主張は『笑うべき小児病的主観主義』、小ブル急進主義であり、革命の通達派的総括は前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」。
 「それはカウツキー顔負けの組織された資本主義論であり、万年危機論、万年決戦論であり、池田内閣を倒せば『現実的に革命の展望がひらける』という、笑うべき小児病的主観主義の戯画でしかなかった」。
 概要「今やブント運動を功罪両面から総括せねばならない。その負の面は、この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかったことにあり、その根源はスタ ーリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」。
 「組織的に分離してきつつある戦闘的プロレタリアート・インテリゲンチャの身にまとっているスターリニズムの汚物を破壊しつつ、革命的前衛に自覚せしめていくための闘争を当面のもっとも中心的任務に据えるべきであった」。
 「そのことは単なる戦術問題、指導体制等々への批判に止まることなく、最も深い思想的根源の検討へと押しすすめたのである。そして、われわれのつき当ったものは、革命の客観的諸条件と主観的諸条件の機械的分離、それに基く主観主義、小ブル急進主義、大衆運動への埋没、組織論におけるスターリニズムへの傾斜等々だった。これが同盟の革命的再生の課題の前に立たされたわれわれの出発点であった」。
 「われわれは前衛党建設のための理論的、思想的、組織的活動を一層強化すべき時なのであり、そのことをぬきにして革命を一般的に語ることはできない。したがって、先づ第一に、われわれ自身が主体的にみづからの組織をうち固め、一切の日和見的潮流を粉碎した後に、同盟の革命的統一をなしとげるとの確信のもとにわれわれは『戦旗』派分流を組織しその中央指導部のもとに結集した」。
 概要「われわれは、かかる二分派の存在が同盟の革命的再生の斗争にとって、まったく無益有害であると断ずるが故に、この二分派との断固たる斗争を宣言する。そして、われわれは「戦旗」派として自己を体現し、その中央指導部と書記局を選出して全面的な公然たる分派斗争の開始を宣言するにいたった」。
れんだいこ  まさに黒寛式総括観点ですね。組織論、運動論にもそれが反映しているようです。この三派の論争と抗争の絵巻物がどのようなものであったのかというと
**氏  「革通派」の結成を契機として党内闘争は劇的に展開していくことになった。その様は他党派である革共同から見て、「運動史上類稀な、ハシにも棒にもかからない三流の分派闘争」(小野田襄二)と酷評された。

 この三潮流の発生は求心力を保とうとするプロ通派、これを打ち破ろうとする革命の通達派と戦旗派という構図で一層亀裂を深めていく事になった。戦旗派の語りによれば、「一切の日和見的潮流を粉碎した後に、同盟の革命的統一をなしとげるとの確信のもとにわれわれは『戦旗』派分流を組織しその中央指導部のもとに結集した」、「日和見主義者に痛打を!」とある。これが昨日まで行動を共にしてきた同志達に向けられた戦旗派の批判の刃であった。
れんだいこ  問題は、こういう批判合戦の中から何か有益な思想が創造されれば良かったのだけれども。
**氏  それがなんともはやセクト化を深めることばかり忙しくなった。こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、京都・大阪は独自に関西ブントとして総括を進めており大きな分裂には至らなかった。東京ブントにあって、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。この二つの潮流が、メジャー三分派の崩壊の後ブント再建へ向かっていくことになる。
れんだいこ  こうして、安保闘争の総括をめぐって「ブント−社学同−全学連」の分裂が必至となりました。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになった という訳です。結局ブントは、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになります。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的・理論的・組織的限界の帰結でもありました。

 
こうしたブントの政治路線は、「革命的敗北主義」・「一点突破全面展開論」と言われております。これをまとめて「ブント主義」とも言われます。但し、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に 「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになります。

【町田氏のブント崩壊論】
れんだいこ  このブントの崩壊に関する分かりやすく纏めた一文があるので紹介しておきます。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)。
 実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。

 誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。

 「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える」

 なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。

 実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。

 加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。

 これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった。

【苦悩する島書記長】
れんだいこ  この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1960年秋のノート」に記されていますね。
 「8.20日(中略)29歳。いま、私にとって最大のヤマ場にいるようだ。一人静かに考える機会でもある。今日より私は、私の行動と思索(という割には余りにとりとめない)を、ノートに詳細に記そうと思う。PB(政治局)での敗北の日からもう一週間、休養を命ぜられてのこの一週間は、どのような日々であったのか」

 そういう自問自答を経て、次のようなブント運動総括を書き付けております。
 概要「9.1日(中略)12時に引き揚げ、名簿の整理をしつつ、今後の構想をねる。今度こそPartei目指すKernをorganizeするつもりだ。予定メンバーは、、Ko、KI、A、O、Su。第一にTheorie(れんだいこ注―理論)、第二にGelt(々資金)、第三にPerson(々人物)、このWahrheit(々基本原則)はかわらない。

 <余の分派綱領の条件>
 第一、第4回大会の問題点を理解し、左に立ったこと。
 第二、4〜6月の時期に一貫して左に立ったこと。
 第三、宇野経済学に対する態度。綱領第三次草案。
 第四、反東大であること。最も危険な体系的な日和見主義。

 <余の分派綱領の作成>
 第一、現在の同盟の、日本階級闘争の基本的問題を明らかにすること。
 第二、同盟1年半の批判的総括(安保・三池闘争の総括)。
 第三、同盟綱領草案についての批判的検討の開始。付随して、東大批判。
 第四、世界・国内情勢。
 第五、日本の左翼の検討。
 第六、日本革命の展望。第七、世界革命の展望。

 <余の文書活動>
 第一、同盟の基本問題。
 第二、日本の階級闘争と革命的学生運動。理論戦線原稿、学生運動史の書き出し。
 第三、日本左翼の批判。日本革命思想史の書き出し。

 <メモ>
 6.18を挫折と見ること。何が故に挫折したか、この原因を追求すること。×労働者階級の運動がプチブル(社民総評共)の運動としてとどまったこと。×これを突破した学生運動もまたプチブルの壁を遂に破れなかったこと。
○主体としての労働者階級の革命党が存在しなかったこと。いかなる意味でか。
○同盟―小ブル急進主義者のサークル。思想、理論、組織、行動において。
△<三池>と<安保>必然性。×資本家階級の動向。
△<岸から池田へ>。
▲労働者革命党か、小ブル急進主義者グループか?

 <日本資本主義>
 <革命と学生>同志樺美智子に捧ぐ。1960年の日本学生運動。
れんだいこ  島さんが、三分派とは又違うブント総括をしようとしているのが分かります。同時に、ブントの最高指導者として垣間見えた深淵をもてあましている様子が伝わり、胸が熱くなります。しかし、どの課題も重い、重すぎます。

 その重圧を紛らわせるようにその後のブントの様子を聞き取りに向かっていますね。
 「9.2日(中略)香村より電話あり。中野喫茶にて、結婚後1日目の彼から、最近のブントの様子と出版社のことについて、ノートを取りながら詳しく聞く」。「1時過ぎ、印刷所へ。庄平さんと2時間に亘って印刷所の様子及びブントのことについて。やはり予想通り、問題の鍵は金である。事務所は電話も止まっている。約20日間も政治から離れていたので、二人の話を聞きながらすっかりくたびれた。神経が弱っているな」。
 「彼(富永)の話を聞く。全学連は完全に清水のもとにかたまっているらしい。確かに学生運動に手を出すのは困難。下手に手を出せば、革共のようになる。姫岡(注・青木昌彦)は、清水と一心同体となっている。さて、いかにすべきか」。
 「9.3日(中略)東大細胞意見書、及びそれへの反論。山崎、田川の文書を読む。先日来考えていた反東大フラクの欠陥をたしかめる。この意見書と一緒にやることは出来ない!小ブル急進主義か共産主義かというスローガンは明らかに誤謬である!ロシアにおけるナロードニキに対する合法マルクス主義者を想起させる」。
 「大阪読売にブントの暴露記事が出たことで、T氏が直ちに事情聴取にО氏を飛行機で帰させたとのこと。その記事が面白い。ブントは4派に分かれている。20人でも革命が出来るという島書記長派。この派から分かれた極左の服部・東大。右派の早大・九州。硬軟両派を操る清水・青木派。この分析は当たらずといえども遠からず、だ」。「4人と一緒に吉本隆明の家を襲う。彼の考えは俺とすこぶる共通している。夜11時まで雑談」。
れんだいこ  この日記から分かることは、島さんは専ら革通派(東大派)に対して違和感を発しておりますね。
 確かにそうですね。しかし私のスタンスが決められて居らず、外部に対して発信できない。私自身がそういう情況でした。
れんだいこ  日記は更に続きます。
 「9.4日午前中、生田宅を訪れ、久しぶりに意見交換。宇野についての彼の考え―前衛党形成について、ブントの将来について、多くの食い違い有り。青木の評価―理論的無節操」。
 「9.5日(中略)事務所へ約1ヶ月ぶりに顔を出す。生田、古賀、片山、灰谷の諸氏がボヤッと雑談している。六全協の後の地区委員会事務所の如し」、「今週中に鈴木、古賀、陶山、倉石、清水、青木、他と会う。革共編集の安保闘争を読む。さてさて、一番大馬鹿なのはブントである。その頂点に俺がいる。約3ヶ月贈れて、俺は安保闘争についての評論を本格的に始める。それとともに、三池闘争について、これを通じての日本労働運動の全面的検討を開始する。これを抜きにしては、日本革命の展望は語れないであろう」。
 「9.9日約4日間のときが、続く。9月に入って、若干の人々と会ってから一層の虚無的状況に陥る。政治というものは無慈悲なものだ。俺の出る余地は、現在のところまったくない。俺の危機―10年ぶりの、強いて言えば57年以来の、そして今後一生を定めるであろう―そんな時点にいることを感ずる。政治的に葬られるのは、不思議なことに全く苦痛を伴わない。しかし、俺が公然と攻撃され、反撃できない状況にいるのに拘らず、敗れたという感は全く無い」。
れんだいこ  生田、古賀、片山、灰谷の諸氏の無聊と島さん自身引き続き虚無的に陥っている様子が伝えられております。
 「信頼すべきものは一人も居ない。清水の180度転回。青木の政治的無節操(本来の日和見主義)。片山の政治性(陰性な)。生田の非論理的道学者。どれもこれも気に食わない。ただ一人きりで闘いに立ち上がれない俺の怠惰さも」。
 「樺さんが死んでから―私の身近で、私に死の一つの実感を知らせたのは彼女が初めてであった。『死んでも』という言葉は、私にとって形容詞として使えなくなっていた。『彼女は死ぬべくして死んだか』この設問に答えなければならなかったとき以来、私の政治人生の最も大きな混乱期が始まったといえる」。(9.30日の日記には、「6.18のあの挫折の悔い、樺さんの死に対するすまなさ」と書き付けている)
れんだいこ  清水も片山も生田も頼りにならない、微妙に総括の仕方がズレているもどかしさが表現されておりますね。わざわざ書き記しているところを見るとこの三名にそれだけ期待していたということでもあるのでせうね。続いて、樺さんの死に対する強い責任が神経を傷めつづけており、寂寥に陥っていることが分かります。
 ・・・・・
れんだいこ  島さんのブント総括はどのような観点に立脚しようとしていたのか、聞いておきたいところです。
 このブント創出から敗北と崩壊の過程について、私は『戦後史の証言ブント』の中で次のように語っております。
 「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」、「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」。
れんだいこ  そうですよね。この観点こそが歴史的ですよね。この功の面を見ずに、敗北だった論へ導くなぞナンセンスの極みでせうに。
 「私はブントに集まった人々があの時のそれぞ れの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」、「安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。
れんだいこ  当時のブントの皆様はなぜこの観点を共有できなかったのでせう。そこが不思議なところですね。

【全学連のその後】
れんだいこ  この間マル学同は押せ押せムードに入っております。
 8.31日、ソ連は突然核実験を再開した。革共同派とその学生同盟組織であるマル学同は直ちに米ソ核実験反対闘争を提起した。広範な学生の支持を受け、多くの学生自治会の役員選挙で勝利を得た。
れんだいこ  しかし、全学連は盛り上がらない。
**氏  9.15日、全学連は「池田内閣打倒」のデモを呼びかけたが、東京で350名、京都で150名ほどしか集まらなかった。
れんだいこ  この頃「現代思想研究会」が発足している。
 9月、清水幾太郎.浅田・三浦・香山らが「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党の新左翼への結集を呼びかける「現代思想研究会」が発足した。
れんだいこ  都学連13回大会に先立つ都学連執行委員会がひともめしておりますね。

 秋の闘争体制の確立が急務であったことから、都学連13回大会を開催することで意思一致した。大会開催に先立って都学連執行委員会が招集され、8対7で学連書記局グループが多数派を占めることになった。この僅差から、革通派が獄中の執行委員西部邁(東大駒場)と宮脇則夫(早大)の大会代議員権を主張するところとなり、二人の去就が注目された。宮脇は革通派の立場を堅持したが、西部は清水丈夫にオルグされた。但し、西部はこの頃より闘争そのものから転身し始めていた。

 10.8−9日ブント・革共同系全学連都学連13回大会は、民青系反主流派の入場を実力で排除した中で開催されたが、主流派内部での意見の違いと混乱が暴力事件にまで発展し(「革通派」の蔵田計成が「プロ通派」の清水丈夫に殴りかかったということのようである)、遂に流会した。

れんだいこ  10.12日、浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂に於ける自民・社会・民社の立ち会い演説中に大日本愛国党員山口二矢によって刺殺されます。
 10.15日、抗議デモが組織されるも主流派、反主流はとも500名程度に落ち込んだ。
れんだいこ  社会党の青年運動組織として「社青同」が結成されています。
ト書き  10.15日、社会党の青年運動組織として社会主義青年同盟 (社青同)が結成された。
れんだいこ  遅まきながら社会党が、日共の民青同育成方針にならって、ポスト安保直後のこの時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになります。
 社青同は、同盟の性格と任務として、「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。

 特徴的なのは社会党との関係であり、「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体 として代議員を送る」関係として位置づけた。つまり、日共と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。。
れんだいこ  この社青同は この後社会党内の左派的潮流を形成していくことになります。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられますね。

【戦旗派やプロ通派の革共同への雪崩現象】
れんだいこ  この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1960年秋のノート」に記されております。
 「9.30日(中略)いずれの三派も私の意見とは異なる。従って彼らの分派とともに動くことは出来ない。私の意見理論も強固なものではなく、結集するにたるものではない。しかし三派いずれも、ブントの現状の上にたち、これを中核として革命党をつくるという一般的な考えを持ちながらも、いずれもその具体的プランも持ち合わさないし、またその力もない(責任と能力)。従って当分、この状況は続くだろう。ただ私の心配するのは、ブントに結集した左翼のエネルギーが散逸してしまうことだ。1、具体的には、反スターリン主義左翼分派の最も強大な勢力としてのブント。2、学生運動の主体である全学連。3、反スターリン主義革命運動に全力投入することを覚悟した職革的活動家。4、若干の労働者細胞」。
れんだいこ  「ただ私の心配するのは、ブントに結集した左翼のエネルギーが散逸してしまうことだ」が痛切ですね。
 この頃の動きは次の通りである。自治会執行部の役員改選の時期を迎えていた。何処の大学でも主流派と反主流派が入り乱れての執行部争奪戦となった。多くの大学では学生大会が定足数に達せず流会となるといった低調さの中で、泥仕合的な指導権争いが為されていった。早大第一文学部では、旧執行部は民青系反主流派であったが、主流派が新執行部を選出し、旧執行部はこれを違法として認めず、結局二重執行部を生み出したりしていた。
れんだいこ  3分解したブントのこの頃の動きは?
**氏

 その後、「戦旗派」や「プロ通派」の一部が黒田寛一の「主体性哲学」を賛美し始め、雪崩を打って革共同黒寛主義への「乗り移り」に向かうことになる。戦旗派はいち早く革共同全国委に合流していった。「守田典彦(青山到)、西江孝之(西原孝史)らの主導で「革命的戦旗派」が登場し、私から見れば、いささか性急に革共同との合流を志向しだした」(多田靖)とある。他方、「革通派」も方針が打ち出せないという運動上の破産に直面し、分解していくことになった。

れんだいこ  大衆運動の盛り上がりはますます低調に推移していった。

 10.12日池田内閣打倒、浅沼刺殺抗議全学連集会。10.15日全学連、池田治安内閣打倒の集会とデモに500名参加。10.20日第23次全国統一行動、全国40カ所で新安保反対・浅沼暗殺抗議全国大会。

 10.28日「池田内閣打倒」をスローガンとして集会が催されたが、ブント・革共同系全学連各派合わせて1000名以下という凋落を見せ、以降学生戦線は低迷状態に入った。
**氏

 この衰退過程で、革通派は方針を打ち出すことが出来ず解体を余儀なくされていった。プロ通派も又指導部で理論的混乱が発生し、そのうちの北小路敏.岡田新.奥田浩一らが革共同全国委に参加していくことになり、残された部分も求心力を持たずこうしてプロ通派も解体していくこととなった。


【島―生田指導部の致命的欠陥について】
れんだいこ  さて、ブントがかような解体過程に陥ったことを思えば、島―生田指導部の第一次ブントの限界を見ておかねばならないと考えます。政治運動は愛借とは別に総括されねばならないと考えるからです。
**氏  どういう風に批判しようとするのかな。
れんだいこ  もしれんだいこが当時居たとして何の役にも立たなかったかも知れません。そういう意味で控え目にしようと思いますが、島―生田さん自身のブント運動に対する確信が弱かったのではないか、全てはここに起因しているかと思われます。というのは、既に指摘しましたが、日共の変質過程を革共同的なスターリニズム批判論一般に求めてしまい、六全協以降の宮顕系党中央の悪質さの特殊性に対する認識が弱すぎたのではないかと思うわけです。
**氏  やはりそこへ来るのか。
れんだいこ  はい。このことが日本左派運動閉塞の主要因であると考えるからです。60年安保闘争後に問われていたのは、その成果の上にたってブントと日共と革共同とが日本左派運動のイニシアチブを廻って闘争していくしかなかった。政治運動と云うものはそういうものであり、不断の永久革命で在り続けるしか出来ない。にも関わらず、島―生田指導部が「革命の弁証法」を信頼して後の世代に無条件に委ねてしまった。それは、抗争相手の日共と革共同の願っても無い有利な局面を易々とつくりだしてしまった。

 仮にそこまでは良いとして、その後のブントが島―生田さんらかせ願ったようにより質の高い方向へ止揚されるのではなく、解体の危機に瀕する情況へ迎いはじめるや、断固として最後の指導性を発揮すべきであった。ブントと日共、ブントと革共同の質の違いを再確認して、ブントの砦を明渡すことに断固として反対すべきであった。

 それが出来なかったのは、日共と革共同を左派仲間として位置付け僅かでも期待する気持ちがあった故ではなかったか。ブントの意義はそうではなかった、そこに立党の意義があったはずだ、と思うわけです。ここら辺りの峻別をプロパガンダしていかなかったことに限界を見たいと思います。

 今日からの後付けで云えることですが、ブント運動の中には豊穣さがあった。日共と革共同にはそのようなものはない。まるでメタルの裏表のように独特の「排他論理」を弄んでおり、それを思えば何としてでも連中にイニチアチブを渡すべきではなかった。このことを深く信ずれば、他の対応の仕方が無数にあった。にも関わらず、ブント解体に手をこまねいたことは、指導者としての小ブル性であり、断じて受け入れがたい、と思っております。今となっては詮無い事ですけどね。
**氏  なるほど
れんだいこ  れんだいこが悔やむのは、その後の第二次ブントが、この第一次ブントの歴史的位相について無知過ぎる運動しか展開し得なかったことです。単に急進主義運動とのみ捉え、運動論、組織論、革命理論の萌芽的ながらも持ち合わせていた豊穣さを継承していない、そこにも悲劇を見ることが出来ます。

 ということは、第一次ブントの見直しと、第二次ブント的でない継承を今これから提起し実践するという課題が、今日の我々に突きつけられているとも云えるのではないでせうか。こう捉えると、ブント運動の総括は決してよそ事の話ではないということになります。
**氏  ふうぅむ。

  これより後は「左派運動のあり方考」に記す。





(私論.私見)