場面12 60.6.15日【全学連の国会突入、樺美智子死亡】考

 (最新見直し2007.7.18日)

 これより前は「日共主導によるハガチー闘争考」に記す。

【全学連の国会突入】
れんだいこ

 日共主導によるハガチー事件が、ブン ト系全学連を大いに刺激した風があり、以降一段と闘争のエポック.メイキングに向かっていくこととなった。蔵田計成氏は次のように証言しています。

 「6.10ハガチー闘争の衝撃的な高揚を目の前にして誰よりも党派的危機感と戦慄を覚えたのはブント同盟員であった」。
再来生田  ハガチー事件が起った時我々は全都学細代を開いておりました。全学連指導部は、次のように意思統一致しました。
 「労働者のストはダラ幹によって小規模なものにされている。共産党は安保闘争を反米闘争にそらし、国民会議も右翼的なダラクした状態の中で自然成立をはばむ道は国会突入以外にない」。

 4.26以降初めて完全な意思統一がなった。6.15日に照準を合わせて国会突入と無期限の座り込み、総指揮は北小路、技術的装備を生田が担当することを取り決めました。
 6.11日、23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。
 この頃警備側のトップ三井警視庁公安第一課長が、ブントの事務局を訪れています。「アイク訪日に対して全学連はどう動くか」の直接事情聴取であったように思います。私は次のように云ってやりました。
 「ブントは別に何もやらない。しかし、大衆の怒りがどう爆発するかは、分からない。統制ある指導をしたいと思っても、4.26以来、ブントの幹部はほとんどパクられているじゃないか。連中を早く返せ」。

 そのせいかどうかは知りませんが、つかまっていた連中のうち、唐牛と篠原以外は、全員が保釈になりました。まさに丁丁発止の駆け引きでしたね。
れんだいこ  この頃、岸首相が自衛隊の出動を要請していますね。
再来生田

 岸首相はアイゼンハワー大統領の訪日に固執し、防衛庁長官赤城宗徳を南平台の私邸に呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請した。赤城は次のように述べて反対した。

 概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」。
れんだいこ  内閣不一致が露呈しているということですね。
再来生田  当時の自衛隊陸上幕僚長杉田一次も、「陸幕がアイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)を完成し、大統領訪日に際し、諸行事にいささかも齟齬を来たさないような態勢ができつつあった」と、治安出動を含めた諸準備が為されていたことを明らかにしている。しかし、この時動かなかった。
れんだいこ  いよいよその日になりました。
 6.15日、国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。この日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。
**氏  大衆は、整然たるデモを呼びかける共産党を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。
再来生田  ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人が国会前に集結した。午後5時過ぎ、国会裏を通行中のデモ隊に、自称「維新行動隊」名の右翼が棍棒をふるって襲い掛かり、約80名が負傷した。これに刺激されたような形になり、先頭部隊が国会南通用門に突入突破した。明大.東大.中大の学生が主力であった。京都から呼び寄せていた中執の北大路敏氏が総指揮を執り、宣伝カーに乗りアジった。
れんだいこ  当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。
ト書き  この時都自連に結集した1万5000名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っている。
れんだいこ  この時の日共の変調指導ぶりが暴露されています。日共の指揮者たちは、「トロツキストの挑発に乗るな」とピケットラインを張り、デモ隊を国会から銀座方面に流し続けたとのことです。

 辻泰介氏は、「暗黒の代々木王国」の中で次のように記しています。
 「デモがぴっしりと取り巻き、ひしめいている国会周辺で、私と同じような地区委員や勤務員の多くの同志たちが、赤い腕章を巻いて、交通整理のような役をやらされていました。それは、どういう交通整理であるかというと、体当たりするような激しいデモを国会にぶつけ、機動隊にぶつけている全学連の一かたまりの部隊と、人数はそれの十倍もあって、長蛇の列を為して国会めがけてデモってくる労働組合の大部隊との間に、割って入って(割って入ってというよりは、予め、丁度通行禁止の立て札のように一列を作って立っていて、)労働組合員たちのデモを右のほうに円滑に流れさせて行く、そういう交通整理でした」、「労働者と学生とを一本化させなかった。その少なくとも一つの原因は、私たち共産党員が身をもって作った方向指示器にあったのです。わずか50メートルの間隔・僅かなのに、この間隔が埋められ、埋め尽くされることは、60年安保闘争ではとうとうありませんでした」。

 次のような証言も有ります。
 「宮本書記長が、国会デモがますます膨れ上がり、騒然とし始め、首都の至る所がデモによっていわば制圧され始めたこの時期、まるでセキを切ったように人々が街頭に溢れ出したこの時期に、党本部に全国の責任者を集めて、『ジグザグデモはまかりならん』というお達しをした、ということを、東京都の役員から聞かされた」。
 概要「宮顕氏が指示したことのポイントは、ジグザグデモはやめろ、ということだ、というのです。半信半疑の私に−だって、もうその頃は、ジグザグなどは『声ある声』も『声なき声』も、女でも子供でもやりまくっていたのですから。アカハタの権威ある主張は、安保を如何に闘うか、ではなくて、本当に、『ジグザグデモはけしからん』ということを、それだけを主張していたのです。もう、マサカではありませんでした。後から思えば、宮本を頂点とする党中央にとって、『ジグザグデモを止めろ』というのが『安保を如何に闘うか』の方針に他ならなかった訳です」。

 宮顕系党中央のここ一番の時の異様な動きを見据え伝えねばならないと思います。こうした事実が伝えられておりません。

【樺美智子死亡事件発生】
 午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊が実力排除を開始しました。全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子が死亡する事件が起こった。
れんだいこ  この時、ニュースで死者が出たことを聞き知った宮顕.袴田が忽然と自動車でやってきて、アカハタ記者にごう然と「だいぶ殺されたと聞いたが、何人死んだのか」と尋ねている。記者は「よく分からないが、自分ではっきり確認できたのは一人だけです」と答えると、「なんだ、たった一人か」、「トロッキストだろう。7人位と聞いていたが」と嘯きつつ現場を後にしたことが伝えられています。
ト書き  座の中より「なんだ、たった一人かとは、ひどいなぁ」との声が出る。
れんだいこ  安東氏はここでも貴重な証言を残しています。
 「そのうち『学生が殺された』との情報が電光のような速さでデモ隊の中を走りぬけた。ところが、である。共産党は、『直ちに流れ解散』の指令を飛ばしてデモの隊列をどんどん流れ解散へと誘導し始めたのである。『ふざけるな』、『帰るな』と私は憤激をした。南門に近づこうとするが、血走った目の機動隊員に蹴散らされてしまう」、「私はアメに濡れた左腕の腕章をひっくり返してただの赤い腕章にした。『日本共産党』の腕章はつけられない。『もうこんな非人道的な党にはいられない』、短い時間ではあったが、しかし私は自分の感情を確かめていた」。
 午後8時頃、3000名の学生は再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。北小路が「女子学生の死に警官は恥を知れ。脱帽せよ」と激しく糾弾し、黙祷を行っている。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。

 
午後十時過ぎ、再度の実力排除が行われ、都内の救急車が総動員された。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。
れんだいこ  島さんはこの経過を生田さんの動きを通じて語っておられますね。
 「最後の土壇場となったあの闘いで、ブントは革命的学生と共に国会に突入した。そしてブント創立以来の同士樺美智子さんを喪った。勇敢な捨て身の闘いにも関わらず、叩き出され、押し出されたデモ隊は、もはや指揮官を持たなかった。夜空を焦がして炎上する装甲車を前に、なお隊伍を整えようとする学生の間にあって、生田は顔面を紅潮させ、怒鳴りながら右往左往する群集の一人でしかなかった。やがて催涙弾が投げられ、襲い掛かる警官隊に追われ、散り散りバラバラになったデモ隊が敗走していくとき、彼はこれとともに駆け逃げていく一人の市民でしかなかった。警官隊に対峙したまま常にデモの先頭でスクラムを組み、一歩もさがらず陣頭指揮をとっていた生田の姿は、ここでは見るべくも無い。そりはただに生田だけの姿ではなかった。あの闘いのブントの姿そのものであったのだ。そして、また、1960年の日本の革命的大衆の、さらには日本の左翼運動の凝縮した図ではなかったか」(「文集」)。
 夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1000名が教え子を心配して駆けつけましたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。
れんだいこ  この時、社会党の方が動揺しつつも左派的な動きをしますねぇ。
**氏  この時の社会党の対照的な様子が次のように伝えられています。高見圭司は、「55年入党から67年にいたる歩み」の中で、次のように記しています。
 「樺美智子さんが虐殺された6.15日夜、私は衆議院の議員面会所の中に臨時救援所を島田久君(党本部書記)など仲間といっしょに設け、当時のブンド系の医学連の諸君と一緒に夜の明けるのも知らず働いた。この日、江田三郎氏など社会党の国会議員団約60名は機動隊の放水を浴びせられながら警察機動隊に抗議し、議員面会所地下に臨時留置場として設置された中にいる多くの重傷を負った労働者、学生の即時釈放を要求して闘ったのであった。江田三郎氏の白髪を振り乱して闘う姿は、今もなお私の記憶に生々しい。この日、第一次の弾圧に抗議して集まった大学の教授、助教授、講師、研究生たちはさらに第二次の弾圧をくらい、おびただしい重軽傷者を出したのであった。なかには、青山学院大の助教授が、自分の知っている学生が負傷したのではないかと心配して社会党本部のある三宅坂に来たところ50名の機動隊にリンチを加えられ重傷を負ったということもあった」。
れんだいこ  樺美智子の死は瞬く間に伝わり、多くの人々の心をうった。特に東大では教授も学生も一斉に抗議行動に立ち上がり、教室は空っぽになった、と伝えられております。

【樺美智子追悼葬】
ト書き  6.16日、樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモが行われた。国会南門通用門は樺さんの死を悼む献花と焼香の煙りで埋められた。
 ブントが機関紙「戦旗」の号外を組み、追悼号を出しました。一面の追悼文は生田が書きあげました。
**氏

 この時椿事が発生している。未明まで闘ったブント系学生がねぐらに帰った6.16日早朝、駅々で「私たちは全学連です。昨夜の国会デモで多数の負傷者を出しました。カンパをお願いします」と訴えていた学生たちがいたが、反主流派代々木系の民青同の連中たちであった。約140万円余集まったといわれているが、この時のカンパ金が国民会議に救援金として提供されたのならまだしもその形跡は無い。聞きつけたブント系が代々木にデモを駆け、「香典泥棒」と罵声を浴びせたが、党本部から応酬は無かった。これは「香典泥棒事件」と云われている。

ト書き  座の一堂憤怒の形相になる。
れんだいこ

 「6.15樺美智子虐殺事件」に見せる社共の態度は次のようなものでした。

 日共は、6.15日の闘争と樺美智子の死をめぐって、一片の哀悼の意をも示さず、「トロッキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイ」に責任があるという非難を行いました。次のように述べております。

 「我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない」。

 社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとして、次のような見解を述べています。

 「社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う」。

 これらの対応に比して、毛沢東の見解は次のようなものでした。樺美智子が虐殺されるや毛沢東は彼女を「日本人民の民族的英雄」と称えた。毛沢東談話が為され次のように紹介された。

 概要「毛沢東首席は、『勝利は一歩一歩とらえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである』と指摘した。日本国民が反米愛国の正義の闘争の中で一層大きな勝利を勝ち取ることを祈った。樺美智子さんの英雄的な犠牲に対して、毛沢東首席は尊敬の意を表した。首席は、樺美智子さんは全世界にその名を知られる日本の民族的英雄となった、と述べた」。

 「人民日報」も次のように称えた。

 「中国人民は、岸政府の逆コースと、人民を虐殺する暴行に対して限りない憤慨を表明すると共に、死傷した日本の愛国的学生とその御家族に心からの慰問の言葉を送るものである」、「烈士の跡を踏みしめて前進せよ」。

 彼女をトロツキストと指弾し、その死をも凌辱した日共指導部の態度と鮮明に食い違っております。宮顕はどちらかというと中共よりにシフトしてきているのですが、毛沢東との齟齬が歴然としております。但しこの時点では、友党的立場を維持しあっておりますので、対立は内化します。 

**氏  荒畑寒村氏はこう語っている。
 概要「大学生達が実際に意気盛んなこと、弾圧に懲りずにやっていくということは、実に感激して涙が出ることがあるんです。僕がもう少し若かったら、そして身体が悪くなかったら、ヘルメットかぶって、ゲバ棒持って出かけようと思うことがありますよ。ほんとに。60年安保の時に、矢も楯もたまらなくなって、飛び出そうとしたら、家内に、あんたのような70過ぎた年寄りが出て行ったって、巡査の警棒で一突きされたら、吹っ飛んでしまうんだからやめなさい、といわれて思いとどまりました(笑)」、「どこの国の共産党だって、例え思想的に違おうが、自分たちと、党関係や、組織の面で違おうが、政府の権力と闘っているものを排除するなんて、そんな共産党は、私は見たことも無い」(「反体制を生きて」)。
れんだいこ  オルド・ボリシェヴィキの当然の感慨ですよね。宮顕系以来極端に捻じ曲がっている、そのことを見ねばならないと思います。

【救援活動について】
**氏

 高見圭司は、「55年入党から67年にいたる歩み」の中で次のように証言している。

 「6.15の翌日、医学連、全学連の当時の書記長北小路敏君らと6.15救援本部を社会党本部内に一室もらって設け、その委員長には坂本参議院議員(現高知市長)、私が事務局長ということで活動を開始した。全国にカンパを呼びかけ、150万円近い病院の支払いなどは、殆んとこのカンパの中から支払ったのである。そしてほぼ約一ヶ年のあいだ6.15救援本部は活動した。この救援運動の総括として、われわれは党が中心となって、新たな救援組織を結成すべく準備をはじめた。それというのも、共産党系の“国民救援会”が中国から送られてきた6.15闘争の犠牲者に対する1万元(日本円で150万円)を遂に私有してしまったことと、彼らの救援運動が“トロツキストの面倒は見ない”という方針で目の前に重傷者がいても日共系の“民医連”系の医師は知らん顔をしているといった度し難いセクト主義に対抗するということと、さらにはいよいよ70年にむけてファッショ的な権力の弾圧が予想されることに対して構えなければならないという意味から、作業ははじめられたのである。それは“人権を守る会”と称して、小柳勇参議院議員が責任者となって準備がすすめられ、61年の社会党大会で決議までなされたのであった」。
れんだいこ  救援活動における宮顕系日共の悪行もまた伝えねばならないところです。

【政府とマスコミの反応】

 政府は、6.16日午前零時過ぎから急遽臨時閣議を開いた。宮沢の進言により池田通産相が開催を要求したとされている。閣議で、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定した。佐藤栄作蔵相.池田隼人通産相らの強硬論と藤山愛一郎外相.石原国家公安委員長らの政治的収拾論が錯綜する中で、アイク米大統領らの訪日中止要請が決まったと伝えられている。 

 この時、岸首相は記者会見で次のように語っている。

 「都内の野球場や映画館などは満員でデモの数より多く、銀座通りも平常と変わりはない。これをもって社会不安というのは適当でない」。
再来生田  6.17日、「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」を自民党単独で可決した。
れんだいこ

 マスコミが「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を声明します。

 6.17日、在京7社の大手新聞社(朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、東京タイムズ)は、紙面に「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を発表、翌日には地方紙も同調して、同じ宣言を掲載している。「6.15日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」とし、政府だけでなく、野党各党に対しても「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力すること」を求めていた。

 
6.17日、経団連など財界四団体も、「暴力排除と議会主義擁護」の声明を発表している。

**氏  アカハタが、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」とした記事を書き、我々を憤激させた。

 これより後は「安保条約自然成立、国会包囲デモ考」に記す。





(私論.私見)