444−411 部落差別問題の基本的理解

部落問題の歴史認識その一、古代から幕藩体制期までの歩み】
 部落差別の由来をどこに求めるのか、ここから論を起こしたい。まず歴史的に次のように認識したい。洋の東西を問わず、階級社会の成立とともに賎視される人びとが発生している。古代ローマの奴隷、中世ヨーロッパの農奴、インドのカースト等はその例である。

 日本でも2・3世紀には奴碑が存在していたことが知れており、彼らは「奴隷」として社会の下層におかれ、賎しめられつつ酷使労働力として利用されていた。あるいは特殊技能労働により自存していた部分もあるやに思われる。

 古代国家が確立し、唐の律令制が取り入れられるにおよんで、賎民制度が成立した。

 7世紀から8世紀にかけて、天皇を頂点とする身分制度がつくられ、いわゆる平民身分は「良民」と「賎民」とに分けられ、更にその内部にさまざまの身分があった。賎民は「五賎」といって、官戸・陵戸・家人・公奴碑・私奴碑に分けられていた。また良民でも、品部(ともべ・しなべ)や雑戸(ざっこ)は一段低くみられていた。古代賎民制はすでに8世紀から動揺をはじめ、9世紀ごろから古代身分制が崩れはじめ、10世紀初めには律令制における奴碑身分も廃止された。

 中世賎民の出現は、古代賎民制の解体ののちにみられる。系譜的には古代賎民のあとをひく者もいたが、天災や飢饉、戦に敗れるなどの理由で新たに体制から流出した者、あるいは手工業者、物資の運搬・皮細工・染色・壁塗り・井戸掘りなどの経済活動に従事して商工業の発展に尽す者の一部も含まれていた。あるいは猿楽能、曲舞などの庶民芸能や造園業者や宗教者も含まれており、このような階層を総称して「非人」とよんでいる。

 このような人々の中には、銀閣寺の庭園を造ったと言われる善阿弥や仏像彫刻で有名な運慶など、日本の優れた文化をつくり出した人が多くいる。してみれば、「非人」=賎民とは断定し難い面があるように思われる。いずれにせよ、この頃の身分は非常に流動的であったところに特徴が認められる。

 これらが平安期にとくに厳しくなった「触穢思想」などの影響をうけ、死や血のけがれに触れるものに対して賎視が強くなった。清掃や死牛馬の処理、葬送、行刑執行等々の「清め(キヨメ)」の職種がこれに該当すると思われる。

 
鎌倉末期になると、賎民も分化し、職業や領主関係などによって名称も異なってきた。犬神人・河原者・散所民・穢多・きよめ・坂の者・夙の者・声聞師などがそれである。中世賎民は厳しい差別をうけたが、身分間の移動がまったく不可能であったわけではない。

 ところが近世になると、検地や人別改めが行なわれ、身分によって居住地や職業までもが区別される支配体制が整備されることになった。豊臣秀吉の兵農分離・刀狩り令によって支配階級たる武士と被支配階級たる農工商との身分が分離された。更に、検地政策が、農民=百姓を土地持ちと持たざる者とに識別することとなった。

 「検地」とは、一筆(一枚の田)ごとに土地の広さを調べて、そこから獲れる米の石高やその土地の耕作者を決めて年貢を納める義務を課すことにあったが、
この時土地の耕作者=本百姓政策を基本としたことにより、勢い本百姓ならざる百姓の階層分化を進めていくことになった。

 この過程で、一向一揆等々の体制反逆者たちが最下層へ落とし込められた形跡がある。

(私論.私見) 賎民制度と江戸期身分制における「えた・ひにん」制との繋がりについて

 問題は、こうした歴史的経緯における賎民制度と次に述べる江戸期身分制における「えた・ひにん」制との繋がりであろう。同一階層が横滑りで「えた・ひにん」化されたものなのか、新たな編成替えが為されたのか。


部落問題の歴史認識その二、幕藩体制における部落差別の構造】
 江戸時代に入ると近世身分制が確立された。徳川幕藩体制は、武士階級が百姓を中心とする民衆から、苛酷な租税をしぼりとることによって成り立っていた。200万の武士が2800万人の民衆を支配するために、「士・農・工・商・えた・ひにん」という身分序列を設けた。この時、それぞれの身分がさらに細かな身分に分けられ、且つ中世賎民の一部が把握されなおされ、賎民身分として近世身分制の最下層におかれた。

 農本経済を基調にしていたこともあり、農民は武士の次の身分に位置付けられていた。その下に職人、商人を置き、更にその下に、「えた」、「ひにん」身分をつくった。「えた」と「ひにん」の身分差も巧妙にされていた。「えた」は、親子代々「えた」から抜けられず、「ひにん」はある一定の条件のもとでは「足洗い」をして、農・工・商のいずれかの身分にもどれるという仕組みにしていた。

 そのため、「えた」は身分が上挌だといって「ひにん」をさげすみ、「ひにん」はいつでも農・工・商にもどれるから自分たちの方が上だと考えて「えた」をさげすんだ。たがいに他人をさげすみあい、「自分たちの方がまだましだ」と思わせるという巧妙な制度であった。

 なお、身分によって居住区が分けられ、武士は「城下町の武家地」、町人は「町方(まちかた(城下町の町人屋敷地))」、百姓は「村・在方(ざいかた、農漁村の意味))」、「穢多」は「村・在方の特殊部落」、「非人」は「河原、その類(たぐい)」、「その他の雑賎民」は無宿人として相応のところという風に制限されることになった。

 この封建的身分制のもとでは、社会的地位や職業・財産などは原則として父系親族体系にもとづいて相続・世襲されることから、人びとは生まれながらにして出自と家柄によって社会的身分が決定された。そればかりではなく、居住区域・家屋様式・髪形・服装・職業・言語様式・教育などすべての生活様式や文化にわたっても、厳しい身分による差異が設けられた。

 これらの生活様式や文化の差異は、日常の社会関係において身分の違いを目にみえる形で表示し識別しうる標識として、身分制の維持のために重要な意味をもっていた。また身分社会においては、親族体系が地位の相続や世襲に関して重要な意味をもつために、結婚についても異なる身分間の通婚は規制された。
 
 近世の封建制度下の身分制の最底辺におかれた「穢多」は集団的に閉じ込められ、賎民職業として主として畜産食肉業、皮革職業に従事した。ケモノを殺したり、皮を剥ぎ、それを加工したりするので「皮多(かわた)」とも云われた。領主に皮革を納めるかわりに、死んだ牛や馬をひきとり処理する特権(斃牛馬処理権)を認められたほか、皮革業を行なうための作業場として屋敷地をあたえられたり、年貢を免除されたりすることも多かった。

 しかしこれらはいずれも、賎民としての身分と結びついた権利であり、日常生活のうえでは賎民身分としてさまざまな厳しい差別をうけた。しかも特権をもっていた者は一部にかぎられており、多くの人は農業、皮革加工業、日雇い賃かせぎなど雑多な仕事で生計をたてていた。

 領主によっては、「えた」身分の者を罪科人の処刑や牢番、役人の下で警備や犯罪者の逮捕など警察組織の手先としてつかい、分裂支配の手段として利用したところもあり、「長吏」とも呼ばれた。通説として、幕府の分断統治、反目政策とみなされている。

 中世の社会はまだ流動的で、賎民でもその身分から逃れることも不可能ではなかったし、近世封建制のもとで新たに「えた」身分におとされた者も少なくはなかった。
 
 徳川幕府時代の封建的身分秩序は「士農工商、エタ非人」制に貫かれていた。徳川中期には賎民身分に対する差別はますます厳しくなり、風俗規制や、「穢多狩り」といって原住地をはなれ都市に流れこんだ者を捕らえることさえも行なわれた。穢多・非人が領主の賎民支配の中核になった。その他にも雑多な賎民が存在していた。加賀藩の藤内、山陰の「はちや」などは地域的な特色があるが、茶筅・さいく・夙の者・「はちたたき」などが広範に存在していた。

部落問題の歴史認識その三、幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史】
 「えた」身分の人たちは、こうした差別と貧困に泣き寝入りしていたわけではない。1856(安政3)年の渋染一揆に代表されるように、幕末に近づくにつれて「えた」身分の人びとも、差別と貧困に抵抗して立ちあがり、身分差別撤廃のたたかいを展開していった。幕末期にはこうした闘いの火の手が次々と挙がっており、次第に幕藩権力に抵抗する運動へと激化した。

 1749(寛延2)年の姫路藩の全藩一揆、1782年(天明2)年の和泉北部54カ村の千原騒動、1823(文政6)年の紀州北部280カ村7万人の百姓一揆などのときには部落民が一般百姓一揆に加わって幕藩権力をおびやかしている。1804(文化11)年から1855年(安政3)年にかけて丹波篠山藩において本村の隷属下にあった皮多村が、分村独立運動を50年間にわたって闘い、願意を貫いた闘争もある。1806年(文化3)年豊後杵築藩での部落民に「浅黄半襟」を強要したことに対し、成功しなかったものの、領外に2カ月も立ち退いての闘争もある。

 1837(天保8)年の大塩平八郎の乱のとき、この決起に部落民も参加している。

 渋染一揆はその貴重な史実である。時に、1855(安政2).12月、池田藩(現在の岡山)は財政改善のため29条にわたる倹約令を出したが、最後の5カ条の「別段御触書」の内容が「部落の者は無紋にして渋染(しぶぞめ)の衣服以外は着てはならない」というものであり、被差別部落民はこの差別法令の撤回を要求してたちあがった。1856(安政3).1月から6月中旬までの間、53ヶ村の代表が何回も会合を開き相談をし、その過程では村によって考え方に微妙な相違が見られたにもかかわらず最終的には約1500名の部落民が強訴している。6.13日に集結し、15日に嘆願書を池田藩筆頭家老・伊木若狭(いぎわかさ)に渡し、再吟味するとの約束を勝ち取った。8月に、別段御触書は取り下げさせることに成功しているが、調印だけはするようにとのことになった。この闘いの代償もまた大きかった。1857(安政4).5月判決が出され、12名が投獄された。内6名が病死、2年後に残りの6名が釈放された。投獄中、厳しい拷問を受けている。すべての部落民に14日間の外出禁止が課せられてもいる。


 1866年(慶応2)の長州再征のときなどに、幕府・長州藩とも脱賤を切望する部落民に対し、平民にしようという条件で部落民に動員をかけ事実上協力を取り付けている。長州では、幕末に民衆による軍隊がつくられ、そのなかに部落の人びとからなる「維新団」、「一新組」が組織され、幕府による2回めの「長州征伐」のときには、芸州口(げいしゅうぐち)のたたかいなどで奮闘している。こうした解放への胎動が、「解放令」を生みだす原動力となる。

 いよいよ幕末動乱期になると、幕藩体制否定の反封建思想が高揚するとともに、外国からの平等権的啓蒙思想天賦人権説)が広まった。また識者のなかには社会政策の上からも、部落解放策を唱える者が出てきた。1868(慶応4・明治1)年、幕府は江戸浅草の“えた”頭弾左衛門とその手下60人余を平民にしている。

部落問題の歴史認識その四、明治維新による新秩序】
 明治維新は、封建社会から資本主義社会へ移行する近代日本の出発点となった。明治政府は近代的中央集権国家体制を目指し、政治、経済、教育のあらゆる分野の制度改革を進めた。これを俗に「文明開化政策」と云う。明治維新によって「四民平等」がとなえられ、近世身分制は廃止されることになった。

 明治新政府は、徳川幕藩体制の桎梏的な諸制限を廃止していった。1871(明治4)年に太政官布告で「賎民解放令」が出され、「エタ・非人」制度を法的には廃止し、法律や制度のうえでの身分差別はなくなった。「解放令」は、四民平等の近代社会を建設していくことを宣明しており、差別的な呼称の廃止、職業の自由を認めたという点では、画期的な意義をもっていた。

 「解放令」の発令によって、部落大衆は長年にわたる差別から解放されると期待して狂喜したが、一般国民は、自分らは部落民と同じ社会身分におとされ、結婚をはじめ社会慣習・生活様式などすべて同格にされると恐れて、解放政策反対の大規模な一揆をおこした。中国・四国・近畿・北九州地域に勃発し、政府はこの鎮圧に苦慮した。

 しかし、翌1872(明治5)年わが国で最初の近代的な戸籍といわれる「壬申戸籍」がつくられた。この戸籍には、旧身分や職業、壇那寺、犯罪歴や病歴などのほか、家柄を示す族称欄が設けられていた。部落の人びとについて「旧えた」とか、「新平民」とか付記されていた。戸籍法では、従前戸籍の公開が原則とされていたので、この「壬申戸籍」は1968年(昭和43年)包装封印されるまで、他人の戸籍簿を閲覧したり、戸籍謄(抄)本を取ったりすることができた。

 こうしたことから判明するように、「賎民解放令」は宣言にのみとどまった。「エタ・非人」の生活環境諸条件は相変わらずそのままであったので何ら実効性を伴わなかった。

 他方で、天皇を中心とする専制的な政治を強めていき、天皇制国家秩序の中での新身分秩序として「皇族、華族、士族、平民、新平民」制を定めたので、身分差別構造が形を変えて続いていくことになった。出目や家柄を尊重し、それによって人びとを差別する前近代的な価値観や慣習も根強く残存し、「エタ・非人」制は近代社会の仕組みのなかで特殊部落として差別されていくことになった。

 明治政府のこの二面的政策により賎民身分に対する差別はなくならなかった。これを「半ば封建的な政治、経済、社会の遺制的仕組み」と理解すべきか、明治維新後の「資本制社会の新たな差別の仕組み」と見なすかで議論が分かれている。分析すべきは、近代資本主義の発展の中で、部落差別が強化されたのか緩和されたのか、新たな差別構造として存続したのか漸次解消方向へ向かったのか等々であるが、さほど精査されていない。「部落住民の困窮をより一層強めることになった」という見方もある。

 いずれにせよ、富国強兵政策遂行上、低賃金労働力の供給元として部落差別が再生産されたことは疑いない。その構造は、第一に、民衆に経済的・政治的・文化的な低さをがまんさせ、低い生活を維持させるために必要でした。これが部落差別の経済的存在意義である。第二に、民衆の不満のはけ口を部落民にむけさせ、民衆同士を分裂させる役割をはたした。これが部落差別の政治的存在意義である、と云われている。

部落問題の歴史認識その五、近代部落解放運動の歩み】
 1877年(明治10)代の自由民権期に入ると、部落のなかには板垣退助指導の自由党に加入したりして部落解放運動を始めたり、中江兆民のような自由民権論者のなかに部落解放を唱える人物もでてきた。

 明治中期になって、福本日南の『樊噌夢物語』(1886刊)や柳瀬勁介の『社会外の社会穢多非人』(1901刊)のように、部落民を日本の海外発展の市場獲得の先兵にしようという論もでてきた。島崎藤村の『破戒』(1906刊)の主人公・瀬川丑松が部落差別に耐えきれずアメリカのテキサスに旅立つのも、こうした時代環境にあったからであろう。

 政府の無策によって、部落の有力者は、自主的な部落改善運動をおこした。1893年(明治26)の和歌山県の青年進徳会、翌々年の大阪での中野三憲らの勤倹貯蓄会、その翌年,岡山県での三好伊平次らの修身会・青年会などがそれであり、1902年(明治35)の岡山県の三好伊平次らの備作平民会、またその翌年,全国的規模の大日本同胞融和会、1912年(大正1)の奈良県を中心とした大和同志会、その翌々年の帝国公道会など、部落改善運動(部落の自粛をとくに強調)が勃興し、融和運動を主張してきた。

 大正期になると、折からの大正デモクラシーの高揚に伴い、1913年に民俗学者柳田国男の「所謂
特殊部落の種類」(国家学会雑誌)、1919年(大正8)喜田貞吉『民族と歴史』(特殊部落研究号)などに部落問題が学者らに注目されるようになった。1910年(明治43)、いわゆる大逆事件がおこったが、このころから政府も部落対策を講じてきた。しかし治安維持と救貧策の見地からの慈善的恩恵的な行政施策であった。さらに部落の自主的な改善運動がおこってきたが、政府は十分に改善施策を助成し促進することをしなかった。

 1917(大正6)年、奈良県橿原市の畝傍(うねび)山のふもとにあった洞(ほら)部落が神武天皇陵を見おろしているから恐れおおいということで、強制的に移転させられている。戦前の軍国主義時代、解放運動の父・松本治一郎が叫んだ「貴族あれば賤族あり」ということばは、みごとにこのことを示している。

 1918年(大正7)夏、米騒動が勃発して、部落民の蜂起が激しかったことがわかって、政府は部落問題の重要性を認識した。ついで1920年(大正9)奈良県南葛城郡掖上村柏原での燕会の創設から、1922年3月京都岡崎公会堂で全国水平社が創立された。全国水平社は政府の融和事業を排撃し、人間の尊重を基礎とし、団結して自らの行動によって絶対の解放を期し、もって人の世に熱と光を与えることを目的とした。

 水平社運動の初期の段階は、差別したものに対する徹底した糾弾闘争で、1923年の奈良県都村における水平社対国粋会との流血事件、群馬県世良田村の自警団との事件、26年の福岡連隊事件などとつづいた。しかし運動の激化に伴い、闘争のあり方に内部分裂がおこり、折からのアナ・ボルの対立が水平社運動にも波及し、政治的な労農闘争と連携していく運動となった。

 これに対して1928年(昭和3)の三・一五事件、翌年の四・一六事件といった共産党弾圧事件に水平社幹部も多く検挙され、折からの昭和恐慌の荒波にあって、水平社運動も沈滞した。1933年(昭和8),水平社は勤労大衆の階級的連携を強化するとともに,部落委員会活動をおこし、不況のなかで部落大衆の経済的・文化的要求を、組織を通して行政に要望していこう、という運動に転じた。これが折からの高松地方裁判所の差別判決閾争と重なり、水平社運動をもりあげた。水平社は政府が1936年(昭和11)から始めた「融和事業完成10カ年計画」に批判的であったが、太平洋戦争の勃発で、しだいに国策順応に傾斜していった。
 
 こうして、融和運動は水平社運動へ結実していったものの、その水平社運動もジグザグし、いわゆる「絶対主義的天皇制、寄生地主制、家父長制的家族制度」の中で、部落の差別的な実態や一般住民との断絶状態はそのままに温存された。大きな解決の条件は第二次世界大戦後をまたなければならなかった。


部落問題の歴史認識その六、戦後部落解放運動の歩み】
 敗戦後、米欧型民主主義が導入され、戦後憲法の策定、明治期につくられた華族制度の廃止が為され、部落差別は法的に解消された。新憲法には、戦争放棄の宣言とともに、「すべて国民は、法の下に平等であって、 人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」(第14条)とうたわれていた。また第11条では基本的人権、第25条では最低生活権を有することも明文化されていた。 しかし、これを実効的にさせる為の諸施策につき行政当局が自ら進んで為すことは無かった。これを促すのが戦後の部落解放運動の主潮となる。1946(昭和21).2.1日、旧水平社を中心に部落解放全国委員会が結成される。


部落差別の起源について】
 一般に職業起源説から把握されているが、「歴史的事実にも合わない誤った俗説」として否定する見解もある。意図的に社会政策的に作り出されたとする「政治起源説」もあるが、具体的にどういう判断に基づいていたのかとなるとはっきりしない。「身分は社会発展の一定の段階で生みだされ、これを封建権力が制度化した」と言い換えても同じである。


部落差別の定義】
 以上を受けて以下「部落差別の定義」をしておこうと思う。次のように云えるのではなかろうか。「人種や民族の違い、出身や職業の違い、性の違いなどの違いを理由に、基本的人権である権利を奪い、政治、経済、文化等の生活全般にわたって、社会的に不利益な扱いをすることが差別であり、とりわけ、被差別部落(同和地区)の出身であることを理由に行なわれる差別が部落差別と云う」、「部落民とは、近世の封建的身分制の士農工商秩序の下で、これらの身分とは分離させられ最下位におかれた賎民で、その主要な部分を占めていたエタ身分に属していた階層を云う。この階層は集団的に閉じ込められたことにより特殊部落を形成することになった。衣・職・住等生活のあらゆる面で厳しい規制を受け、排外された。更に、その下位に特殊部落とは又異なる非人層も存在した。明治維新後、士農工商秩序は解体されたが、この特殊部落は残存され、引き続き経済的・社会的・文化的に低位な生活を余儀なくされた」、「戦後の新憲法の発布と共に法的には解体されたが、社会生活上根強く残存され部落解放運動が要請される所以となった。1965年に出された内閣同和対策審議会答申では『同和問題とは、人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である』」ことを明らかにしている 」。


「ケガレ意識」に纏わる部落差別
 封建時代の斃牛馬処理との関連から生み出されたものであるが、「差別観念を生み支える感性的諸条件」に「貴賎意識、ケガレ、ヨゴレ意識」がある(部落に対する蝕穢思想)。

 この差別感は現在急速に薄れてきている。戦後社会の民主化と経済発展、技術革新により、環境が衛生化したことにより、物質的基礎が改善されたことによる。


 同族意識

 本家・分家などの家系譜を同じくす驩ニ々(同族団)の間における祖先伝来の家産の共同所有や管理、生活や農業の相互扶助、祖先の共同祭祀などにもとづく集団結合の意識と、その内部における本家・分家間の上下関係の意識のことです。歴史的には前近代的な性格をもつ社会結合の原理です。明治維新後も、農村を中心に同族的な結合や意識が根づよく残されていましたが、第二次世界大戦後は、家父長制的家族制度の解体とも相まって急速に弱まりました。しかし、長い差別の歴史のなかで居住の自由を実質的に制限され、「部落外」との通婚を妨げられてきた部落においては、都市・農村をとわず今日においてもなお一部に、同族的な結合や意識が相対的に強く残存しており、部落民を地区にしばりつけ、地区内の民主化を妨げる要因となっているだけでなく、部落排外主義的な考え方を生みだしやすい温床ともなっています。



同和運動について】
 戦後、部落解放運動は「同和問題」として立ち現れてきている。戦後の憲法秩序に沿う形で特殊部落の一般市民化が要請されることになり、これを「同和」と称した。その後、大衆社会の出現と共に「同和」はかなり進んでいるが、その認識を廻って、部落差別問題は日共系の「急速に解消論」と解放同盟系の「根強く残存論」の二派の見解が対立している。

 日共系は次のように述べている。「部落解放の課題とは、封建的身分差別からの解放という本来的にはブルジョア民主主義の課題であり、資本主義的な搾取・収奪からの解放ではありません。したがって、独占資本の横暴な専制的支配に対し、自由と民主主義を守り発展させる運動を拡大・強化させていくならば、部落問題の解決は資本主義の枠内でも実現させることができます」。
 

 内閣同和対策審議会答申は次のように述べている。「いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、特に、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由とを完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である」。

 また、答申の前文では次のように、部落問題解決の責任が国にあり、国民的課題であることが高らかに歌われています。「いうまでもなく同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる課題である。従って、審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であるとの認識に立って対策の探求に努力した」。

 さらに、答申第3部の「同和対策の具体案」のなかでは、同和行政は、部落問題が解決されるまで総合的・抜本的に実施されなければならないことを、以下のように明確に指摘しています。「けれども現時点における同和対策は、日本国憲法に基づいて行なわれるものであって、より積極的な意義をもつものである。その点では、同和行政は、基本的には国の責任において当然行うべき行政であって、過渡的な特殊行政でもなければ、行政外の行政でもない。部落差別が現存するかぎりこの行政は積極的に推進されなければならない。したがって、同和対策は、生活環境の改善、社会福祉の充実、産業職業の安定、教育文化の向上および基本的人権の擁護等を内容とする総合対策出なければならないのである」。



特殊部落の現況
 特殊部落の現況は次の通り。「被差別部落(未解放部落)」、「同和地区」、「対象地域」、あるいは単に「部落」といわれることもある。総務庁の1993(平成6)年調査によると、全国に6000地区が確認され、そのうち法的施策の対象である同和地区数は4603、世帯数・人口を把握しえた部落の数は4443地区で、同和関係世帯数は約30万世帯(地区全体は約74万世帯)、同和関係人口は約89万人(地区全体は約216万人)となっている。部落の数は特に近畿、中国などの西日本に多く、内訳は、中国23.1% 近畿21.9% 四国14.8% 関東13.7% 中部7.5%。関西では大都市の中の大型部落。関東では少数散在型。現在は混在が進みつつある。

 部落の居住環境や生活実態は、旧身分の残りものともかかわって極めて劣悪な状態におかれていたが、1969(昭和44)年以来、同和対策事業特別措置法、地域改善対策特別措置法および地域改善財特法にもとづいて行政上の特別措置がとられ、同和行政が以前とは比較にならないほど前進している。




(私論.私見)