文革史(四)華国鋒時代を経て鄧小平が実権を掌握するまで

 これより前は、「文革史(三)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「文革」の第四段階は、毛沢東死後以降を起点とし、後ろ盾を失った四人組が逮捕されるまでの期間とみなすことが出来る。加えてその後の華国鋒政権から鄧小平政権へと変遷する過程までを加えることができるように思われる。

 1981.6月、中共中央は、中央委員会総会で、「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」を採択し、文革を、〈指導者が間違ってひき起こし、それを反革命集団に利用されて、党と国家と各民族に大きな災難をもたらした内乱であった」と全面的にこれを否定し、こうした「階級闘争の拡大化という誤り」に対して、「毛沢東同志におもな責任がある」とした。



 文化大革命解析中)中国共産党の全国代表大会(党大会)の歩み





2.「四人組」逮捕までの動き

第一グループ/毛沢東
第二グループ/「四人組」(江青、張春橋、姚文元、王洪文)
第三グループ/古参幹部(周恩来、?ケ小平ら)

74年1月18日、江青が中心になって編纂・作成した「林彪と孟孔の道」が党中央で承認・通達され、「批林批孔」運動が開始した。これは6月になって江青が「この運動の重点は党内のある大儒を批判するにある」と述べた通り、「大儒」周恩来を打倒しようとするものであった。癌で闘病中の周恩来に代わり、75年1月、10期2中全会で?ケ小平が党副主席になると、「四人組」は?ケ小平への批判を強化する。「右傾巻き返しの風潮に反撃する運動」が展開し、?ケ小平の「全党全国の各活動の総綱について」などの文書は「大毒草」と決め付けられた。結局、周恩来の死後、再び?ケ小平は失脚に追い込まれる。しかし、76年9月9日、毛沢東が82歳でついに死去すると、一ヶ月後の76年10月6日、「四人組」は逮捕された。彼らや林彪グループは、 11期3中全会 後、「林彪・江青反革命グループ」として断罪された。


3.文革の評価、毛沢東の評価

「四人組」逮捕後、毛沢東が「あなたがやれば安心だ」と後事を託したとされる華国鋒(毛沢東死去時、党第一副主席兼首相)が全権を握り、党主席、党中央軍事委主席に昇格した。77年8月、11全大会で、文革の終了を公式に確認した。だが、華国鋒も公職に復帰した?ケ小平によって権力を奪われることになる。?ケ小平は、75年1月の第4期全人代第1回会議で周恩来によって再提起された 「四つの現代化」(「今世紀末までに農業、工業、国防、科学技術の現代化を実現して、わが国経済を世界の前列に立たせる」とするもの)を国家の最重要課題として、
改革開放政策を積極的に導入した。 

?ケ小平指導下の諸政策-「生産責任制」の導入、対外開放による外資の導入-などは、晩年の毛沢東の思考枠組からいえばまさに「修正主義」に歩む姿であったかもしれない。81年6月、中国共産党中央委員会は「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」( 「歴史決議」)を採択し、「“文化大革命”は指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と規定して、全面的な否定をおこなった。文革が全面的に否定される一方で、彭徳懐、劉少奇らの名誉回復が行われ、毛沢東の評価については「功績7分、誤り3分」とされた。だが、毛沢東の無謬性こそ否定されたものの、「毛沢東思想」は「基本原則」のひとつとして、現在まで共産党の一党独裁体制を正統化せしめている。(大崎健史)


【四人組逮捕され「文革」終了する】

 1976年の毛沢東の死去により「文革」派は精神的権威を失い、それと共に敗北過程に陥った。鄧小平を中心とする「実務派」と極左路線堅持の「文革派」との最終局面となる路線闘争および権力闘争が展開されることになり、互いに相手を打倒せずんば止まじという凄惨な闘いへと移行した。この間、中国経済は停滞し、国民生活も極端に落ち込んだ。

 この抗争は、1976.10.6日、急転直下、軍事委員会を握る葉剣英(軍委副主席)が華国鋒(当時公安部部長、党第一副主席、国務院総理)を押し立てて、江青女史ら“四人組”を逮捕してケリをつけることになった(この間の経緯は范碩「風雷激蕩の10月」『党的文献』1989年1期が詳しい)。文革の旗手・江青未亡人が逮捕されることによって文化大革命がおわった。“四人組”という言い方は、彼らが失脚してからの呼称である。文革期には文革精神の担い手として、大きな政治的影響力をもつかに見えたが、毛沢東の死後1カ月を経ずして粉砕されたことになる。


【華国鋒政権誕生】

 翌10.7日、政治局は、華国鋒を党中央主席と軍事委員会主席に任命した。華国鋒をしてこのような選択に導いたのは葉剣英、李先念ら故周恩来に近い指導者であったことはいくつかの資料からわかる。

 華国鋒政権が誕生するという思わぬ事態となったが、その政権基盤は弱く毛沢東評価を廻って反「文革」派との抗争が既に始まっていた。1977.2.7日、新聞2紙と雑誌1誌で「文章を良く学び要点を掴む」(「二つの全て」)と題する文章の発表を批准した。この文章では「毛主席が決定した政策はすべて守り、毛主席が行った指示はすべて順守すべきだ」と記されていた。しかし、発表後、鄧小平、陳雲などの反対を受けただけでなく、党全体で真理的基準の問題に関する大論争が巻き起こすことになった。華国鋒はしだいに権力から外されていく運命をたどった。

【第11回党大会】

 1977.8.12-18日、北京で第11回党大会が開催された。出席した代表は1510名、全国3500万人以上の党員を代表していた。 大会は「四人組」との闘争を総括し、「文化大革命」の収束を宣言した。そして今世紀中に、我が国を社会主義の近代的な強国にすることが、新たな時期における党の根本的任務であることを重ねて表明した。今日の党史では次のように評されている。

 「 しかし、当時の歴史的条件の制約と華国鋒の誤った影響のため、大会は「文化大革命」の誤った理論や政策、スローガンを是正することができず、かえってこれらを肯定した」。

  大会は新しい中央委員会を選挙し、一中全会で華国鋒を党主席に選出した。華国鋒政権は、次の鄧小平時代の地均しをして役目を終える。


【鄧小平時代が幕開けする】
 1978.12.18-22日、党11期中央委員会第3回総会(3中全会)が北京で開催され、「全党の活動の重点を社会主義近代化建設へ転換する」改革・開放路線が打ち出された。これを唱導した鄧小平が権力を掌握した。こうして鄧小平時代が始まる。毛沢東の階級闘争路線は否定され、改革開放路線に転じた。「3中全会」以降、停滞した経済の立て直しや石油ショック後の資本主義の急激な技術革新への対応などもあり、プロ文革の否定として経済の発展に力を入れる方向がとられることになった。

 69年の9回大会で選ばれた政治局メンバーは25人いるが、このうち18人は後に文革派として批判された。では実権派として追及されたが生きのこり、また文革派として追及されることもなかった7人とは誰か。周恩来、李先念、葉剣英ら周恩来グループ、さらに朱徳、董必武、劉伯承ら政治的に無害な長老組、そして南京軍区司令員許世友であった。

 1979.12.20日の李先念(当時政治局常務委員)の「全国計画会議」での講話は、次のように語っている。
 「大躍進のときに、広範な大衆の熱情は高かったが、われわれが指導において過大な目標〔原文=高指標〕、デタラメ指揮、共産風を吹かせる誤りを犯したので、その結果、損失はたいへん大きかった。ある同志の推計では、国民所得を1200億元失った。(中略)文化大革命の動乱の10年には、政治上国家と人民にもたらされた災難は別にして、経済上、ある同志の推計によれば国民所得で見て5000億元失った。この金額はどの程度の損失なのか。1959年、60年ころの国民所得は約1200億元であったから、およそ一年分の国民所得の損失に当たる。文革期の60年代後半の国民所得は約1600億元であるから、5000億元という数字は国民所得のおよそ三年分である」。 

  会議は改めて、「階級闘争を要とする」という社会主義社会に合わないスローガンの使用を果断に停止して、党の11回党大会が踏襲した「文化大革命」中のいわゆる「プロレタリア独裁の下での継続革命」や「文化大革命は今後何度も行わなければならない」などの「左」観点を否定した。 また会議は、党の正しい組織路線を再び確立し、党の規約、規律や全党の民主集中制を健全化し、個人崇拝を受け入れたり、それを造り出したりすることに反対し、集団指導を強化することを決定した。

  会議また、党の歴史上の重大な冤罪と、重要指導者の功罪と是非の問題を審査し、解決した。その中には、1959年の廬山会議で彭徳懐に対して下された、誤った批判や結論、薄一波ら61人の事案、「右からの巻き返し」や天安門事件の誤った文件、および鄧小平の19755年の仕事に対する評価に関することが含まれていた。

 1980.2.23-29日、五中全会が北京で開催された。胡耀邦、趙紫陽を政治局常務委員に選び、党の中央書記処を再建し、胡耀邦を総書記に選んだ。また劉少奇同志の名誉回復を徹底し、彼に関する誤った決議を取り消し、彼の名誉を回復した。さらに汪東興、紀登奎、呉徳、陳錫聯の辞職願を許可して、彼らが担当していた党と国家の指導職務からはずした。また全国人民代表大会に対し、憲法第45条の「公民が大鳴、大放、大弁論、大字報を用いる権利」の規定を取り消すよう提案した。

【四人組のその後】

 “四人組”はその後、1980年11月から81年1月にかけて、最高人民法院特別法廷で裁判にかけられ、81年1月、江・張の2名には死刑(執行猶予2年。その後、83年に無期懲役に減刑されました)、王には無期懲役、姚には懲役20年の判決が下された。

 江青女史は、
「リーダーとして反革命集団を組織し、指導した。反革命集団事件の主犯であり、国家と人民にきわめて甚大な危害を与えた」と断罪された。1977.7月10期三中全会で「ブルジョア階級の野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒江青の党籍を永遠に剥奪し、党内外の一切の職務を解任する」ことが決定された。1981.1.25日、死刑判決を受けた。但し、1983.1月、無期懲役に減刑された(『中華人民共和国資料手冊』751 頁)」。

 江青について知るには、二冊の伝記がある。一冊はアメリカの女性ロクサヌ・ウィトケの書いた『江青同志』である(邦訳あり)。もう一冊は珠珊『江青秘伝』である。後者はまず「江青野史」として、香港『新晩報』に連載され(八〇年)、その後増補して『秘伝』となった。著者珠珊は朱仲麗の筆名であり、彼女は王稼祥夫人である(『中国老年』八八年八期)。朱仲麗は医者としてモスクワの精神病院に押し込められていた賀子珍(毛沢東の長征時代の夫人)を救出した経緯などから、江青を個人的にもよく知る立場にあった。


【走資派への一瀉千里】
 1979年、鄧小平が、1・社会主義の道、2・人民民主独裁、3・党の指導、4・マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を掲げる「4つの基本原則」を打ち出した。他方で、改革開放路線を敷いた。鄧小平に経済運営の実績を注目された趙紫陽が抜擢されることになる。共産党中央委員会政治局委員に昇格。

 
1980.9.7日、第5期全国人民代表大会第3回会議で、華国鋒首相辞任が表明、後任に趙紫陽副首相が国務院総理(首相)就任。 党総書記の胡耀邦とともに鄧小平を支える「車の両輪」と称せられた。

 1981.6.27-29日、中共第11期6中総が北京で開かれた。会議では、「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」を全員一致で採択した。 毛沢東の歴史上の地位と毛沢東思想を肯定し、実事求是で、建国以来の32年間の功罪と是非を評価した。「文革」の誤りを認め、「文化大革命」と「プロレタリア独裁の下での継続革命」の理論を徹底的に否定し、党の指導思想の混乱を鎮め、鄧小平思想の下で正常化させた。国内的には―応の区切りがつけられた。

 「文化大革命はいかなる意味でも革命や社会進歩とはいえない」としたうえで、「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱であった」と断定された。これにより「文革」派からのえん罪者は次々と名誉回復が為されていった。他方、反「文革」派の「文革」派に対する訴追の暴力性について知らされることが無い。毛沢東の功罪はこうかかれた。「毛沢東同志は偉大なマルクス主義者であった。文革において重大な誤りを犯したが、功績のほうが誤りよりも大きい。功績第一、誤り第二、である」と。

 会議は一致して、華国鋒が党中央主席と中央軍事委員会主席の職務を辞職する願いに同意した。

 1982.9.1-11日、第12回党大会が北京で開かれた。正式代表1545名、候補代表は149名で、全国の3965万以上の党員を代表していた。

  大会は、胡耀邦の『全面的に社会主義現代化建設の新局面をつくり出す』との報告を批准する決議を行った。『報告』は、新しい時期における党の総括的な任務を明確に規定し、我が国の経済発展の戦略目標、戦略の重点、戦略のステップを制定した。また共産主義思想を核心とする高い精神文明の建設を提起し、高度の社会主義民主を建設する根本方針を制定した。さらに党を、社会主義現代化建設の強固な指導中核にすることを強調した。今世紀中に生産を4倍化するという「四つの現代化」が決定された。

  新しい党規約によって、党中央には主席を置かず、ただ総書記だけを置くことになった。また大会は、中央顧問委員会を設立することを決定した。一中全会は、総書記に胡耀邦を、政治局常務委員に胡耀邦、葉剣英、?ケ小平、趙紫陽、李先念、陳雲を選出、中央書記処書記に万里、習仲勲、?ケ力群らをそれぞれ選んだ。

  七中全会は1987年10月20日、北京で開かれた。会議は、1987年1月16日に党中央政治局拡大会議が行った胡耀邦の総書記職務を辞任する請求を受け入れ、趙紫陽を総書記代行に推薦する決定を確認した。

 鄧小平時代の幕開けによって、「専制的社会主義からの脱皮が急速に進んだ」とあるが、そういう訳ではない。1987年初めに胡耀邦が失脚。ポスト紅衛兵ともみなされる世代の若者が、1976.4月の第一次天安門事件を経て、1979年に「北京の春」運動を担う。しかし弾圧を受け、この時の活動家の一部はアメリカなどに留学したあと中国民主聯盟を組織し、雑誌『中国之春』を発行して国内の民主化運動を続けていくことになる。

 1984年、中英共同声明で、1997年の香港返還が決まった。

 1985.10月、鄧小平が、訪中したルーマニアのチャウシェスク大統領に、中ソ首脳会談希望のゴルバチョフ氏宛メッセージを託した。

 1987.1月、胡耀邦総書記が解任される。後任に趙紫陽が総書記代行に就任。

 1987.10.25-11.1日、第13回党大会が北京で開かれた。大会の正式代表は1936名、特別招請の代表は61名。全国の4600余万の党員を代表していた。 会議の主要テーマは、改革の加速と深化だった。鄧小平が大会開幕式を主宰した。趙紫陽が『中国の特色をもつ社会主義の道に沿って前進する』との報告を行った。この中で、社会主義の初級段階の理論を詳しく述べるとともに、党のこの段階における「一つの中心、二つの基本点」を提起し、21世紀中葉までに、三段階に分けて現代化を実現する発展戦略を制定し、政治体制改革の任務を提起した。生産力発展を最優先する「社会主義初級段階論」が公式に決定された。

 
1987.11月、中共第13回党大会第1回全体会議(13期1中全会)で、趙紫陽が中央委員会総書記に就任した。政治局常務委員に趙紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林が選ばれた。胡耀邦総書記解任事件で手腕を振るった鄧力群中央宣伝部長が、改革開放派の趙紫陽総書記との闘争に敗れ、中央委員選で落選した。この時、鄧小平が事実上の最高指導者として返り咲いた。

  四中全会は、1989年6月23日から24日まで北京で開催された。会議は、李鵬が党中央政治局を代表して提出した『趙紫陽同志が反党、反社会主義の動乱の中で犯した誤りに関する報告』を審議し、可決した。また、江沢民を総書記に選んだ。

  五中全会は、1989年11月6日から9日まで北京で開かれた。会議は?ケ小平が中央軍事委員会主席の職務を辞去することに同意し、江沢民を中央軍事委主席に選んだ。


 1988年、中共は憲法を改定して、正式に私営企業の地位を承認し、土地の商品化を許可した。この憲法改定は、中国の一層の「走資派」傾向の進化とみなせる。この政治的意味は、それまでそもそも存在すら認められていなかった資産階級の公然復活育成を宣言したことにある。そういう意味で 「1988年の憲法改定は資本主義の政治的復活の指標である」。

 社会主義初級段階論とは、十三全大会で趙紫陽が提唱。中国の社会主義は、まだ初級段階で、社会主義現代化が実現するには、100年はかかり、今は、資本主義がやり残した課題を補講し、補習するというものである。その後、趙紫陽は、対外開放を加速、市場価格制を推進し、インフレを招くことになる。

 1988.10月、鄧小平が、訪中したルーマニアのチャウシェスク大統領に、「3年前のメッセージ」に触れ、中ソ首脳会談が実現する見通しを語った。

 1989.5.15~18日、ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中し、30年ぶりに中ソ和解が成立した。両者は、商品経済を排除した計画経済(指令性経済)という教条主義的な社会主義政策に対し、「現実主義的」(修正主義的)な経済改革路線を採用する点で認識を一致させていた。これは、文革期の商品経済の極端な排撃からの反省でもあり、適当に物質的利益の奨励への軌道修正を観点としていた。鄧小平流の「白猫黒猫」論が復権したということでもあった。

【第二次天安門事件】
 1989.4~6月、急死した胡耀邦前総書記の追悼集会を契機に、北京の大学生らが天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動が始まった。いわゆる「民主化動乱」が勃発した。学生たちは「愛国民主の学生運動」と自称していたが、4.25日、鄧小平がデモを動乱と裁定した。5.20日、戒厳令布告が発せられ、人民日報、新華社、中央テレビの主要メディアは軍事管制下に置かれた。政府側は「動乱、ついには暴乱」と断定して、6.3~4日、武力鎮圧に踏み切った。「血の弾圧」と云われている。事件後も「動乱分子」摘発と支持者の粛清が続いた。文革時代の混乱に終止符を打って、近代化に大きな歩みを始めた鄧小平体制が、一皮めくれば、途方もなく非民主的な大鎮圧を断行した、その古くかつ野蛮な体質に世界中の世論は強い衝撃を受けた。

 この時弾圧された学生の一部はたとえば『探索』の編集者魏京生のように投獄された。しかしたとえば中国人権連盟の活動家任(田+宛)町は、出獄後も活動を続け、59年政変後ふたたび逮捕されている。89年の運動に対しても、ニューヨークから連帯のメッセージを送っている(拙編『チャイナ・クライシス重要文献』第一巻所収)。

 彼らの思想はさまざまであるが、中国の近代化にとって最大の壁が政治の民主化、政治改革にあるとする一点では共通していると言えよう。当局の掲げた「四つの近代化」に対して、魏京生はこれに「政治の近代化」を加えた第五の近代化(原文=第五個現代化)を提唱していた。当時はこれが過激であるとして投獄されたが、その後、10年政治改革の必要性はほとんど共通の了解事項になっている。しかし、実際に学生たちが政治改革を要求した場合に、権力の側がどう対応したかを今回の武力鎮圧が端的に示している。

 民主化「動乱」のもう一つの政治的意味として、「鄧小平の指導し始めた中共による資本主義復活に自覚的に反対した運動」という面もあったと思われるが、この線の報道は全く為されていないというか掻き消されているように思われる。せいぜい伝わってきたのは「次第に顕著になりつつある権力機構の汚職腐敗弾劾」であった。

 6.23-14日、中共第13期中央委員会を開催し天安門事件を正当化する総括を行い、第4回全体会議(13期4中全会)で、趙紫陽総書記が“動乱を支持し、党を分裂させた”として全役職を解任された。江択民指導が発足した。改革、開放、現代化の三段階戦略実現が託された。

 趙紫陽は失脚し、自宅軟禁下に置かれた。共産党員の資格は剥奪されず、外出は比較的自由にできた(「趙紫陽失脚」)。一説には、鄧小平は「天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。その後、呼吸器系統などの病気を患い、北京市内の病院に入院していたが、2005.1.17日、病院で死去した。

 6.24日、鄧小平が、江沢民指導部の政治局常任委員のうち李瑞還に文化・思想などの担当に登用した。

 鄧小平は、天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任した。8月、河北省の保養地の北戴河の海で泳ぐ姿が放映された。翌1990年春には無国家軍事委主席も辞し、一切の公職から離れた。

【陳雲談話】
 同9.8日、保守派重鎮の中央顧問委員会主任の陳雲が、宣伝担当の李瑞還政治局常務委員を呼び、次のように講義している。
 「レーニンの帝国主義論は第一次大戦が終結する前の著作だが、時代遅れと君は思うか。私はそうは思わない。帝国主義の侵略、浸透の手段は過去は『武』ないし『文』との併用だったが、現在は『文』が際立ち、特に社会主義国へのいわゆる和平演変(平和的体制転化)がそうだ」。

 9.16日頃、陳雲が、李瑞還との談話記録を、1987年に趙紫陽、胡啓立と個別に行った哲学学習記録と一緒に、中央顧問委副主任の薄一波、宋任窮らに送り、検討を求めた。9.27日、顧問常務委員会は、陳氏の見解を顧問委だけでなく指導幹部の学習文献にすることを決め、3件の談話をパンフレットにして配布した。

【鄧小平がブッシュ-キッシンジャー元国務長官派と秘密外交】
 1989.7.2日、北京の人民大会堂で、鄧小平と米大統領特使のスコウクロフト補佐官が会談。「大統領は、ニクソン訪中(1972年)以来かってなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」。その後の4ヶ月余の間に、ブッシュは、3度、鄧小平に密書を送り、鄧小平が返信している。

 10月、ニクソン元大統領訪中。11.6日、ブッシュ大統領が、鄧小平に密書を届ける。11月、キッシンジャー元国務長官が訪中し、鄧小平と会談。この会談で、方励之夫妻の米国ないし第三国出国が取り決められた。

【改革解放万歳、社会主義市場経済の導入】
 1989.11月初旬、党第13期中央委員会第5回総会で、「国民経済の整理整頓を更に進め改革を深化させる」決定が採択された。「中央のマクロコントロールを強化し、計画を持ち、バランスをとった安定的発展で経済と社会の効益を高める」とする計画経済の発想が前面に押し出されていた。

 香港誌「鏡報」の1989.11月号は、江択民総書記、李鵬首相の「個人経営をブルジョア自由化の温床とみなし、脱税などの違法経営を淘汰せよ」との指示を紹介している。

 1990.1.10日、中国国務院(内閣)は、北京中心地区の戒厳令を1.11日より解除する決定を下した。1989.5.20日の布告から約8ヶ月ぶりだった。李鵬首相が次のようにテレビ演説した。
 「反革命暴乱の平定に完全に勝利した」。
 「中国共産党、中国政府と中国人民は、世界にいかなる風波が起ころうと、揺るぎなく社会主義の道に沿って前進する」。

 天安門事件後、鄧小平は急速な対外開放政策を進めることになった。一方で労働者・学生を弾圧し、他方で外国資本および民族資本の歓心を買い始め、90年代初めにはさらに内外私営企業への規制緩和を進めた。多くの中小国有企業が民営化され、他方で内外の個人資本が中共の奨励のもとで大量に発展し始めた。これに応じて、90年代上半期に投資ブームおよび経済過熱が生まれた。 

【「姓『資』姓『社』論争」】
 90年代初め、「一体中国は社会主義なのか、それとも資本主義なのか?」という論争が始まった。これを「姓『』姓『』論争」と云う。

【「黄浦平」論文が、上海市党委員会機関紙「解放日報」に掲載される】
 1991.2月、鄧小平の指導下と推定される「黄浦平」論文が、上海市党委員会機関紙「解放日報」に掲載された。明らかに、文化大革命の口火となった「文雁報」の姚文元 (ようぶんげん)論文「新編歴史劇『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」を対抗的に意識していた。朗文は、鄧小平の当時の上海視察中に行った談話の内容、精神と一致していた。

 「黄浦平論文」は、1991.2月から4月まで計4本発表された。次の通りである。
1991.2.15日  「改革・開放の“先頭羊”になろう」
1991.3.2日  「改革・開放には新思想を持つ必要がある」
1991.3.22日  「開放拡大の意識をさにらに強めよう」
1991.4.22日  「改革・開放には大量の徳才兼備の幹部が必要だ」

 2007(平成19).5.1日付け産経新聞の伊藤正・氏執筆「鄧小平秘録第2部南巡講和」は、次のように解説している。
 「最初の文章は、91年が羊年であることにちなみ、12年前の羊年(79年)以来の改革・開放の成果を指摘。60年後の羊年(2051年)に中等国レベルにする目標に向かって、上海が国際的経済中心都市にふさわしい商品経済の新局面を開く『先頭の羊』になろうと呼びかけている。文中には『反ブルジョア自由化』も『4つの基本原則』(社会主義の4原則)もなく、当時の状況下では、相当思い切った主張だった。この文章には鄧小平氏の談話は引用されていない。(以下、中略)

 第2論文は、『資本主義にも計画があり、社会主義にも市場がある』などの鄧氏談話を引いて、開放が拡大する新情勢下では『新たな思想の硬直化に陥るのを防がねばならない』と思想の解放を強調した。

 第3論文は、『危険を恐れていては何もできない。もっと大胆にやれ』との鄧氏の言葉を引いて、上海の外資導入など対外開放を進める必要を強調。もし『姓社姓資』(名は社会主義か資本主義か)論と云う保守派の主張にとらわれていれば、チャンスを失うと述べた。この第3論文が出ると、保守派の警戒心は一気に高まった。『姓社姓資』論は、保守派が市場経済を批判する際の常用句になっており、それを批判する論文の背後に鄧小平氏の影が見え出したからだ。(以下、中略)

【陳雲の「鳥篭経済論」】
 鄧小平の改革開放政策に対して、保守派(穏健改革派)の長老・中央顧問委員会主任・陳雲(1905-1995、上海の植字工出身。上海の英警官隊による発砲によって全国的な反帝国主義運動に発展する契機となった1925の5.30運動を指導。1930年に中央委員候補となり以後党中央で活動。長征期には解放区での経済建設を指導。1949年の新中国成立で副首相に就任し、悪性インフレおよび物資不足を解決して中国経済を立ち直らせる。以降、経済政策の第一線で活動。毛沢東の大躍進による失策後の経済調整を進める。文革期は党中央委員以外の指導的職務を解任され冷遇。1978年に党中央副主席、中央政治局常務委員に復活。1992年、引退。1995年、死去)が、鄧小平の「先富論」に対して、「鳥篭経済論」という計画経済の中に市場経済を導入した均衡的発展を主張した。

 「鳥篭経済論」とは、一種の均衡発展論であり、「計画経済の中に市場経済を閉じ込めるべし」と主張していたところに特徴があった。政治史的意味は、社会主義体制護持派の保守派の側からの反論であったところにある。

【鄧小平の動静】
 この頃の鄧小平は、1990年春に国家中央軍事委主席を辞任して以降「完全引退」していた。時に、江沢民総書記らと会ってはいたが、公的な活動からは遠ざかり、動静が伝えられることは稀であった。

【鄧小平の「南巡講和」】
 1992.1.17日、鄧小平は、88歳の高齢ながら、武漢、深圳(セン)、珠海、上海を視察し、「中国の近代化を加速せよ、「改革・開放をやらない者は下野せよ」と述べ、改革開放の堅持と経済成長の加速を呼びかかけた。この時の講話を「南巡講話」と云う。盟友・楊尚昆国家主席兼中央軍事常務副主席が同道した。

 当時中国の中では、姓「資」姓「社」論争(中国は社会主義なのか資本主義なのか)が起きていた。そこで鄧小平は改革開放に反対する保守派の主張を牽制し、改革開放政策のさらなる発展を述べた。鄧小平(とうしょうへい)は 文革前の「走資派」的見解を堂々と披瀝したことになる。

 彼はここで、従来の計画経済=社会主義、市場経済=資本主義の考え方を批判し、「社会主義の本質は生産力を開放し、発展させ、搾取をなくし、最終的には ともに豊かになること」なのだから、証券や株式市場なども 「断固実験すべき」だ、一部の地区が先に発展することになっても、あとから発展する地区をひっぱることになるならかまわない、豊かになれる地域(沿海部)から改革開放路線に踏み切ればよい、などの議論を展開した。市場経済(資本主義)のシステムの積極的導入を主張する 「社会主義市場経済論」と、一部の地域、人間が先に豊かになることを容認する 「先富論」を打ち出した。

 1992.1.22-22日、深圳の経済特区を視察した後次のように述べている。
 「社会主義の道は、共同富裕が最終目標だ。条件の或る地区が先に豊かになるようにしたが、貧富の格差が広がり、両極分化が生じるかも知れない。解決法は、豊かな地区が多くの税を納め、貧困地区を支援することだが、早くやりすぎ、発展地区の活力を弱め、後進地区の『大釜の飯』(国への依存)を促してもいけない」。

 建国よりこの方中国には「都市と地方の対立」が存在し、都市の冨を農村部の方へ補填する「平等な共産主義社会」を築き上げてきた。これに対し、「先富論」は、まず北京・上海・広東等富める地域を重点的に発展させ、それらの地域が十分な生活力・経済力を持った時点で内陸地域の開発へと向かうとする考えであった。これにより、天安門事件で慎重になっていた対中投資が急激に伸張していくことになるが、功罪はまた別途であろう。
対外開放は従来の東部沿岸地区から 長江流域、国境地帯にも拡大され、やがて全国的なものとなっていった。

 1.25日、鄧小平は、深圳から珠海市に向かい、広東省の謝非書記と珠海市の梁書記に対し、両氏の報告を聞いた後、次のように話した。
 「この10年の成果は多かった。わが国の発展は人民を喜ばせ、世界から注目された。3中総会(改革・開放に転換した1978.12月の党11期中央委員会第3回総会)以来の路線、方針、政策は正しく、誰が変えようとしても変えられない」。
 「改革・開放に反対する者は誰であろうと失脚する。一言で言えば、この路線、方針の堅持は変えない。それに反対する人には眠って貰うほかない」。

 2.12日、政治局拡大会議が開かれ、江沢民総書記は、鄧小平の「南巡講和」を全党に伝達、学習を呼びかけることを決断した。鄧小平は、南巡講和の後、最高実力者の地位を回復した。「保守派」に対する大反攻が始まった。

 2.28日、共産党中央は 鄧小平の「南巡講話」を「92.2号文書」として全党に配布した。この時点で、「南巡講話」が党中央の公式見解となった。党は、再び改革開放のアクセルを踏んだ。

 3.20日、全国人民代表大会が開幕し、李鵬首相が政府活動報告で「南巡講話」の言葉を取り入れて市場経済の必要性を強調、3年続いた調整政策の終結を宣言した。

 3.26日、広東省の新聞「深せん特区報」が、「鄧小平氏の深せんの5日間」のルポ記事を掲載し、市民大衆の知るところとなった。3.30日、新華社通信が特区報の記事全文を全国に配信した。3.31日、党機関紙人民日報が、第一面に大きく掲載した。保守派の反和平演変(平和的手段による体制転化)、姓社姓資(社会主義か資本主義か)、反ブルジョア自由化といった言葉が消え、鄧小平的改革派の主張が取って代わった。

 4.25日、改革派の田紀雲副首相が、党中央学校で、次のように左派批判をした。

 「経済特区を批判する自称正当マルクス主義者に、ある地域を請け負わせ、彼らの理論を実践する特区にしたらいい。問題は、その特区に誰が行くのかだ。彼らは行きはしない」。

 6月、李先念政治協商会議主席が死去した。陳運が、李氏を追悼する講和を新華社に発表し(7.23日付人民日報に掲載)、次のように述べている

 「李先念同志と私は経済特区に行ったことはなかったが、2人とも特区建設にずっと関心を持ち、絶えず経験を総括し立派にやるべきだと考えていた。数年来、深せん特区の発展は確かに速い。今日、我が国の経済建設は規模は大きく、複雑さが増え、改革・開放の新情勢下では過去に有効だった方法は、既に適用できなくなった」。

 これは、陳運派の鄧小平に対する事実上の敗北宣言であった。保守陣営は総崩れに陥った。


【社会主義市場経済体制】
 1992.10.12-18日、中共第14回党大会が北京で開催された。大会に出席した正式代表は2000名で、5100万以上党員を代表していた。

  大会は『党規約の修正』を決議し、中国の特色のある社会主義を建設する理論と党の基本路線を党規約に書き込んだ。

 
この時正式に社会主義市場経済体制が認められた。社会主義市場経済体制とは、社会主義の条件下での市場経済で、政治体制は社会主義を守りつつ、国家のマクロ的なコントールの下で市場メカニズムを機能させ市場経済への移行を進めるというもの。

 初めは多くの海外の専門家たちの間にはにそんなことできるはずがない、中国経済は終わったと、悲観的な見方もあったが、中国の柔軟性というのは、社会主義と、資本主義という相異なるものまで融合化させてしまった。 この南巡講話を契機にして、改革開放に拍車がかかり、中国は高度経済成長を見せるようになった。

 10.19日、第1回中央委総会(14期1中総会)で、総書記に江沢民、政治局常務委員に江沢民、李鵬、喬石、李瑞環、朱鎔基、劉華清、胡錦涛を選んだ。陳運派のよう依林、宋中は指導部から外された。胡錦涛(チベット自治区書記、中央委員)の政治局常務委員への大抜擢は鄧小平の指示であった。

 
1992年、中央政府は内陸部にも改革・開放政策を適用し、この地域経済格差を縮小させようと「全方位開放」戦略を実施し、沿海部と内陸部との政策的際はほとんどなくなった。中国の経済発展は社会主義市場経済のもと、「沿海地域発展戦略」によってもたらされた。この戦略は、中国に人口・経済力が集中しており、国際経済との接点を持つ沿海部を先に発展させ、内陸部にはその発展を波及させるというものである。この戦略のもとで、沿海部には中央政府による優遇政策が実施され、経済特区やそれに伴う外資導入が可能となり、これをてこに経済発展を遂げた。しかし、内陸部には沿海部のような優遇政策がとられず、沿海部から内陸部への発展の波及も進まないことなどから、改革・開放期以後、相対的に経済発展が遅れ、地域経済格差が問題となってきた。が、沿海部と内陸部の地域格差は縮小しなかった。

 1993.3月、第8期全人代第1回会議は憲法を改正し、第15条は 「国家は社会主義経済を断行する」 と明記した。個人企業や私営企業の「合法的な権利と利益の保護」も明記された。

 1995年、1980年のGNPを2000年までに四倍増する目標が繰り上げ達成された。

 五中全会は1995年9月25日から28日まで北京で開かれた。会議は『国民経済と社会発展"95"計画と2010年の長期目標に関する党中央の提案』を可決した。また会議は、中央紀律検査委員会の『陳希同同志の問題に関する審査報告』を審議し、可決し、彼の政治局委員、中央委員の職務を取り消すことを決定して、法律に則って、全国人民代表大会代表の職務を罷免し、引き続き審査を行うことを提案した。



 1997.2月、鄧小平死去。

 7月、香港返還。香港は、鄧小平が打ち出した「一国二制度」論にもとづき、中国の「特別行政区」として資本主義体制そのままに祖国復帰した。香港経済は、97年夏に始まるアジア金融危機で大きな打撃を受けたが、東アジアにおける商業・金融センターとしての地位は失っていない。(なお、1999.12月、最後の植民地マカオもポルトガルから変換された)。
 1997.9.12-18日、第15回党大会が北京で開催された。大会に出席した正式代表は2074人。5900万以上の党員を代表していた。大会は、『党規約修正案』を可決した。これによって鄧小平理論を党の指導思想として確立し、党規約に書き入れ、党がマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、?ケ小平理論をその行動指針とすることを明確に規定した。

  一中全会では、総書記に江沢民、政治局常務委員に江沢民、李鵬、朱鎔基、李瑞環、胡錦涛、尉健行、李嵐清を選んだ。

  三中全会は1998年10月12日から14日まで北京で開かれた。会議は、20年の農村改革の得た巨大な成果と創造的な豊富な経験を高く評価し、2010年までに、中国的特色のある社会主義の新農村を建設する奮闘目標を提起し、この目標の実現を必ず堅持するという方針を確定した。

【その後の動き】
 1998.3月、第九期前人代第一回会議が開かれ、李鵬から朱鎔基(上海市長や副首相を歴任)へ首相が交代した。朱鎔基は江沢民の腹心で、国有企業改革・金融システム改革・行政機構改革の三大改革によって、非効率的な国有部門の改革・リストラを断行し、残った財源は科学技術振興へ充当し、今後の中国経済発展の起爆剤とした。具体的には、98年から政府の中央官庁からリストラが始まり、42省あった官庁を29省に、実際に勤務している定員を約半分にそれぞれ削減した。関連企業に行った者もいれば、海外の研究所に出向したりと、様々な形での人減らしが行われた。また、赤字体質の国営企業に関しては、大企業を育成し、中小企業を合併・廃業させる方針が実行されている。当初、三大改革は「3年間で問題解決にめど」を唄ったが、現状を見る限り、国有企業と金融システムの改革は進展していないのが実状である。朱鎔基首相は、経済を発展させるためには資本主義の導入が不可欠としていましたが、江沢民主席は共産主義の原理への固執からこれに反対したと言われます。朱鎔基首相はこれに失望し、辞任を申し出ましたが、結局留意を促され、留任している。

 1999年の建国五十年を祝う国慶節では、十五年ぶりに天安門広場で式典とパレードが行われ、江沢民は1984年に鄧小平が乗った同じオープンカーで三軍を閲兵した。

 このとき中国は、1952年と比べ、98年のGDPが679億元から7兆9533億元に増え(実質 年7.7%増)、住民の消費も一人当たり 年80元から2973元に向上したことを誇った。人々の豊かさは、いわゆる三種の神器の変遷に見ることができる。自転車・腕時計・ラジオ(五〇年代)、ラジカセ・テレビ・冷蔵庫(八十年代)、コンピューター・自転車・住宅(現在)。

 1999年に憲法を改定して、私営経済を国家の「補助」的地位から「重要な構成要素」に高めた。それは資本主義の復活という小切手に裏書を行ったに等しいものである。

 これより後は、「鄧小平路線(一)





(私論.私見)


 プロレタリア文化大革命(後期)