文革史(二)林彪将軍の絶頂期から「林彪事件」で失脚するまで

 (最新見直し2006.9.15日)

 (「文化大革命」解析中)

 これより前は、「文革史(一)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「文革」の第二段階は、林彪が毛沢東の後継者としての地位を約束される第9回党大会へ至る過程から急転直下失墜するまでの1969〜73年とすることが出来よう。

 「文革」のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件である。69.4月の第9回党大会では毛沢東の「最も親密な戦友」として後継者としての地位を約束されていたが、こともあろうに「71.9月には毛沢東暗殺に乗り出し、失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死する」という奇怪な事件を引き起こしている。その真偽は未だ定かではない。林彪の失脚過程は現代史の最大の謎であり、興味をそそられないわけにはいかない。 

 2006.9.15日 れんだいこ拝


【「8期12中全会」前の動き】

 1968.3.24日、人民大会堂で林彪が長い講話を行い、余立金を叛徒して逮捕し、楊成武総参謀長代理を解任し、傅崇碧北京衛戌区司令員を解任した。いわゆる楊成武事件である。楊成武は二月逆流以後も、林彪の指示を無視して、中央文件を葉剣英に配付していた。

 9月下旬、毛沢東が南方を視察して語った大連合の談話も葉剣英に語った。また軍事委員会弁事組は軍事委員会(葉剣英は副主席である)に対して責任を負うものだと明言した。これに対して林彪は、二月逆流の巻き返しを図るものと断罪した。

 他方、江青が楊成武を嫌った理由として挙げられているのは、上海や北京から報告されていた江青関係の資料(江青は30年代に女優であった当時の離婚問題をめぐる証拠を湮滅させるために、たいへん熱心であった)を楊成武が握りつぶしていたというものである。江青はこれを知って大いに怒り、林彪を証人にしたてて、自ら焼却させた。

 いずれにせよ、この楊成武事件を経て、軍事委員会副主席たちの指導権はいっそう弱まった。たとえば葉剣英は「傅崇碧の黒幕」と非難されて、活動を封じ込められた。徐向前、聶栄臻らの立場も同じであった。

 1968.3.25日、軍事委員会弁事組が改組され、黄永勝が組長、呉法憲副組長、メンバーは葉群、邱会作、李作鵬となった。

 4.1日、呉法憲は軍内の重要文件を今後は陳毅、徐向前、聶栄臻、葉剣英、劉伯承に配付しないと言明した。情報を絶たれることは政治活動からの排除を意味するこというまでもない。中国のように、マスコミなき社会においてはとりわけそうである。

 4.6日、黄永勝は今後軍委常務委員会は権力を行使せず、軍事委員会弁事組がこれに代わると言明した。葉剣英らはかくて中級幹部並みになり、県レベル・連隊レベルの文件しか読めなくなった。

 1968.9.5日、チベットと新疆自治区の革命委員会成立をもって、全国に革命委員会が成立し、奪権闘争の段階は一段落し、翌年4月、第9回党大会を迎える運びとなった

 1968.9.29日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。

 9月、
2 年ちかくかけた難産のすえ新権力機構の〈革命委員会〉が全国の省・市に成立した。しかし、軍官僚主導型で、当初の理想とはほど遠いものであった。 省レベルの革命委員会(旧人民政府に代わる機関)が成立しおえたとき、29省市のうち20コは軍隊の司令員、政治委員たちが「主任」となり、事実上、軍事管制をおこなったのであった。県レベル以上の革命委員会主任を軍隊幹部がつとめた事例は、北京78%、広東81%、遼寧84%、山西95%、雲南97%、湖北98%であった。解放軍が文化大革命を大きく支えていたことがこれによって判明する。


【紅衛兵運動の暗雲】

 W・ヒントンは清華大学における内戦さながらの100余日間の武闘を活写している。実権派打倒のためには彼らのエネルギーを利用した毛沢東は、頻発する武闘に手を焼いて、1968.7.28日早朝、これら五人の指導者を呼びつけ、引導を渡した。曰く、「君たちを弾圧している“黒い手”は実は私である」(『万歳』六八七頁)。

 こういう過程を経て、1968.7、8月から紅衛兵への再教育が叫ばれ、次の毛沢東最新指示が繰り返された。

 「われわれは知識分子が大衆のなかへ、工場へ、農村へ行くよう提唱する。主として農村へ行くのである……。そして労働者農民兵士(原文=工農兵)の再教育を受けなければならない」。

 1968年末に毛沢東はこう呼びかけた。

 「知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けることはとても必要である」。

 文件にいう四方面のうち、3)工場鉱山と4)基層とは、秩序が混乱しており、新規労働力を受け入れる余裕はまるでなかった。そこで卒業生は事実上、1)農村と2)辺境に分配された。

 こうして起こった下放運動は、毛沢東特有のイデオロギーによって支えられていた。それは青年学生に対して再教育を行うことによって修正主義を防ぐという考え方であり、再教育の内容として強く意識されていたのは、三大差異(原文=三大差別)の縮小に代表される極度に平等主義的な社会主義論であった。また階級闘争を極端に重視し、書物は読めば読むほど愚かになる。学校のカリキュラムは半減してよい。学制は短縮してよい、など教育内容は単純化していた。社会主義の条件のもとで、政治、経済、文化などの面で差異の存在することが修正主義の生まれる根源であるとする毛沢東の修正主義理解がその根本にあった。毛沢東は五・七指示に見られる思想によって教育を改革しようとしていた。

 下放運動がいかに絶対化されたかは、つぎの記事に一端が示されている。曰く、下放を望むか否か、労農兵と結合する道を歩むか否かは、毛主席の革命路線に忠実であるか否かの大問題である。修正主義教育路線と徹底的に決裂し、ブルジョア階級の“私”の字と徹底的に決裂する具体的な現れである(『人民日報』一九六八年一二月二五日)。

 しかもある青年が革命的であるか、非革命的であるか、反革命であるかの唯一の基準は、下放に対する態度であるとしたのであった。下放地点の選択においても現実にそぐわない例がしばしば見られた。一部ではより困難な地域ならば、ますますそこへ行かなければならない、と絶対化された。都市近郊で多角経営に成功した青年農場は、下放しても都市を離れないもの、下放したが農業に努めない、大方向に違反している、などと批判された。一部の地域では、下放青年の生活に必要な食料や石炭などをわざわざ都市から運んだ。国家、青年の所属単位、家長などは、下放青年一人当たり年間一〇〇〇元もの費用をかけるケースもあった。

 しかし、下放運動は、紅衛兵運動を終焉させることになった。「毛沢東から見てその利用価値のなくなった紅衛兵たちは、農村や辺境へ下放させられることになった」とあるが、それはどうだろう。

 1968年、69年の二年間で約400万余りの卒業生(66〜68年度、16〜21歳)が農村や辺境に下放させられた。しかし、都市部の知識青年たちは現地でさまざまの問題に直面した。生活面では長らく自給自足の生活はできず、食糧(原文=口糧)、住居、医療などの面でとりわけ問題が大きかった。


【「8期12中全会」】

 1968.10月、8期12中全会(党8期中央委員会第12回拡大会議)が開かれ、この時、劉少奇は「中国のフルシチョフ、中国最大の実権派」として攻撃された。決議では裏切り者、敵の回し者、スト破り(原文=叛徒、内奸、工賊)のレッテルを貼られて、永遠に党から除名され、党内外の一切の職務を解任された。ケ小平は党籍は保留されたが、一切の公職から追放された。劉少奇の冤罪に抗議して刑事処分を受けた者は2万8千人を超え、巻き添えになったり、批判された者の数は数えられぬほど多い(金春明「“文化大革命”論析」57頁)。

 これは異例の会議となった。まず第一に出席者が定足数に足りなかった。8期中央委員は97名だが、当時10名が死去して欠員となっていたので、定員は87名であった。しかし出席した中央委員はわずか40名にすぎなかった。そこで中央委員候補のなかから増補することになるが、慣例では得票順に確定している序列にしたがって保選される。しかし、このときは得票順とは無関係に任意に10名を選び、中央委員とし、辛うじて50名とし、過半数を保ったのであった。第二に会議の進め方も異例であった。会議の冒頭、毛沢東が文化大革命の評価問題を提起し、成果が主要であるか、誤りが主要であるかが論じられ、「二月逆流」事件にかかわった者が批判された。

 第三に劉少奇審査組は、劉少奇関係の全資料を会議に提示せず、康生、江青、謝富治らがデッチ上げた資料だけを提出した。しかもこの「罪状資料」は事前に毛沢東の承認を得ていた。こうして8期12中全会は劉少奇に対して「叛徒、内奸、工賊」のレッテルを貼り、党から永遠に除名した。この審議において当初は賛成の意志表示をしないものもあったが、批判されて最後には支持した。賛成しなかったのは陳少敏(1902〜1977年、全国総工会副主席、八期中央委員)だけであった。彼女は投票に際して机に泣き伏し、挙手できなかった。その後彼女は残酷な迫害を受けた死亡した。そして劉少奇は名誉回復されるまで10年間、「中国最大の修正主義者」として対する名指しで批判され続けることになった。

 劉少奇は8期11中全会以後も依然として政治局常務委員であったが、彼の経歴を審査する委員会を作ることがなぜ可能であったのか。劉少奇の妻王光美をまず落としたのであった。1966.12月、王光美専案組が作られた。これは名称こそ王光美であったが、実際にはその夫たる劉少奇の罪状をデッチ上げる組織となった。江青、康生グループはまず王光美をアメリカCIAのスパイとし、これに劉少奇を巻き込み、劉少奇=アメリカスパイ論を捏造しようとした。王光美はもと北京の輔仁大学学生時代に地下党員になったが、英語が得意であった。解放戦争の初期に国共双方の協議に基づいて北平(北京)に軍事調処執行部(代表葉剣英)が設けられ、王光美はそこの通訳となった。王光美はこうして解放区入りし、河北省平山県西柏坡で劉少奇と結婚した。だが、これを取り上げて康生は王光美スパイ説をデッチ上げ、劉少奇打倒と葉剣英打倒を狙ったという。

 こうして王光美はアメリカのスパイ、劉少奇はアメリカ極東情報局代表であるとする報告をまとめたが、ズサンなため、この報告は党中央に送付されなかった。当初の劉少奇スパイ説が破産したので、劉少奇裏切り説に転換した。劉少奇は一九二五年春、上海から湖南に帰ったところで湖南省長趙恒慯に逮捕され、一月後に釈放され、湖南省境に追放されている。1929年満洲省委員会書記として、工作していたときも一度逮捕されたことがある。法廷闘争を通じて2カ月後に無罪釈放となった。

 長年党内で幹部の審査工作を行ってきた康生は、これらの事実をもとに劉少奇をスパイにデッチ上げたのであった。白区工作において劉少奇と関係のあった者が偽証を強要されたが、拷問に耐えきれず発言した者のうち、カギになる偽証をしたのは、二人であった。一人は丁覚群で1927年当時武漢で劉少奇と工作をし、建国後は湖南省参事室の参事を務めていた。もう一人は孟用潜であった。彼は1929年に満洲省委員会委員となり、劉少奇書記のもとで奉天でストライキを指導して逮捕され、同時に釈放された。

 1967.5月、彼は「隔離審査」され、偽証を要求されたが、一貫して拒否していた。ついに7.5日〜13日の十数人による7.7日夜のつるし上げに耐えきれず、偽証を書いた。毛沢東は劉少奇の「転向」についての報告を当初は信用せず、全資料の提出を求めた。それらを点検した後、報告を承認し、かくて劉少奇冤罪が党中央によって決定された。

 1966.8.5日に毛沢東が大字報を書いたのは「ブルジョア司令部」批判というイデオロギー問題、政治路線の問題であった。その当否はさておくとしても、文革の精神、あるいは毛沢東の真意からすれば、劉少奇は路線の誤りを自己批判すれば、それで済むはずであった。しかし、陰謀家たちは劉少奇の裏切り──転向という革命家にとって最大の汚点をデッチ上げた。毛沢東はこれらの偽証にだまされ、劉少奇追放を承認した形である。劉少奇は1969.11.12日、汚辱のなかで、惨死した。

 劉少奇の遺骨の保管証にはこう書かれていた(朱可先ほか「最後の二七日間」『人民日報』1980.5.20日)。遺骨番号:123、保管申請者氏名:劉原、現住所:××××部隊、故人との関係:父子、死亡者氏名:劉衛黄、年令:七一歳、性別:男。つまり国家主席劉少奇は死去に際して、本名を名乗ることすら許されなかったのであった。

 軍委副主席グループは指導権を奪われたが、軍内や大衆の間で依然、声望をもっていたが、8期12中全会でふたたび二月逆流批判が繰り返された。譚震林はすでに叛徒とされて、12中全会への出席を拒まれていた。陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻ら6人は出席したが、それぞれ別の小組に配置され、つるし上げられた。このほか谷牧、余秋里も名指し批判された。

 12中全会以後、軍事委員会弁事組は「二月逆流反党集団の軍内における活動大事記」50カ条をまとめ、11.19日、印刷して林彪、康生に届けた。これは12中全会での実権派批判がまだ不徹底であり、第9回党大会でさらに批判しなければならないとする認識に基づいていた。


 69.1月、手に負えなくなった全国の紅衛兵1500万人は、一斉に農村に「下放」されることになった。

【珍宝島事件―中ソ戦争の危機勃発】

 1969.3.2日、珍宝島で中ソが武力衝突するという珍宝島事件が発生。別名ダマンスキー島事件とも言う。中ソは60年の援助条約破棄以来、小規模な国境紛争を繰り返してはいたものの、本格的な戦争まで発展することはなかった。しかし、この珍宝島事件によって、いよいよ中ソは戦争の危機を迎えた。

 中国は、この事件を契機にソ連の軍事力に抵抗する為もあってか、有名なピンポン外交からアメリカと接近し、西側諸国との国交樹立へと動き出すことになる。


【第9回党大会】

 1969.4月、三結合による大連合により奪権闘争が一段落し、北京で第9回党大会が開かれた。この大会で、文革の勝利が宣言され、林彪が毛沢東の「親密な戦友であり後継者である」ことが確認された。大会決議に書き込むよう強調したのは江青グループであった。江青グループは、林彪グループと提携することで、「文革」の力強い後ろ盾としていた。林彪の後継者としての地位は、第9回党大会で採択された党規約のなかにまで書き込まれた。

 8期の中央委員および候補のうち、9期中央委員として留任したのは53人にすぎず、8期中央委員195人の27%にすぎなかった。第9回党大会で選ばれた中央委員の構成は、約4割が軍人、3割が旧幹部、3割が造反派代表であった。党内は、1・林彪派軍人、2・非林彪派軍人、3・文革左派、4・実務派からなり、林彪派が最多勢力となった。

 11中全会で選ばれた政治局委員のうち陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、ヒラの中央委員に格下げされた。劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮ら一三人は、中央委員になれないのはむろんのこと、大会にさえ出席できず、隔離審査の立場に置かれていた。9期一中全会で選ばれた21名の政治局委員のうち、12名はのちに林彪、江青グループとして処分された。


 第9回党大会は林彪グループにとって勢力拡大のピークであった。羅瑞卿、賀竜の粛清に始まり、二月逆流で軍事委員会副主席たちの活動を封じ込めることによって、林彪は軍内を基本的に掌握した。党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。ここまで来ると、軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルのなかにも、林彪グループにすり寄る者が増えてきた。

 こうして林彪グループは、軍隊を直接掌握するほかに、軍事委員会弁事組を通じて、そして軍事管制体制を通じて、中共中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青を初めとする中央文革小組系は政治局には張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持たず、中央文革小組はもはや中共中央、国務院、中央軍事委員会と連名で通達を出すような地位を失った。江青グループがセクトとして、活動しうるようになったのは、1970.11月に中央組織宣伝組が成立して以来であり、これによって江青は再び合法的な活動の陣地を獲得したのであった。

 第9回党大会で文革派が権力を掌握したが、これはいわば奪権連合であり、林彪派と江青ら“四人組”との間、そして周恩来グループとの間に深刻な権力闘争が発生した。第9回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。9期2中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。周恩来が党中央の日常工作を主持するようになり、1972年周恩来は極左思潮を批判しようとしたが、毛沢東は批判対象を「極右」だとして、これを妨げた。 

      【第9回党大会】

  1969年4月1日から24日まで北京で開催された。出席した代表は1512人、全国の2200万人の党員を代表していた。大会は、党規約の中に、林彪を「毛沢東同志の親密な戦友であり、後継者である」と前文に書き入れることを決めた。

  会議は、毛沢東を主席に、林彪を副主席に選び、この二人のほか陳伯達、周恩来、康生を政治局常務委員に選出した。

  この大会は、「文化大革命」の誤った理論と実践を合法化し、林彪、江青、康生らの党中央における地位を強めた。この大会の思想的、政治的、組織的指導方針はすべて誤りであった。

  二中全会は、1970年8月23日から9月6日まで、廬山で開かれ、林彪が毛沢東を天才であると大いに称えるとともに、国家主席を置くべきだと主張した。
     


【林彪グループと江青グループの隙間風】

 林彪グループは、“四人組”をどう見ていたか。林彪グループの目から見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「571工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

 では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。張雲生の「毛家湾紀実──林彪秘書回憶録」(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。1967.2月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

 林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、1968年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。

 第9回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。 

 林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第9回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、1970.8月の9期2中全会の頃までには鋭く対立するに至った。この間の経緯は『林彪秘書回想録』に詳しい。表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。

 1969.9月に省レベルの革命委員会(旧人民政府に代わる機関)が成立しおえた。この時、29のうち20省市で解放軍の司令員、政治委員たちが「主任」となり進出していた。事実上、軍事管制をおこなった、とみなされている。県レベル以上の革命委員会主任を軍隊幹部がつとめた事例は、北京78%、広東81%、遼寧84%、山西95%、雲南97%、湖北98%であった。解放軍が文化大革命にこれほど関与していたということである。


【林彪が「緊急指示」(一号通令)発令】

 1969.10.17日、林彪は「緊急指示」(一号通令)を出して、戦時動員を命令した。ケ小平夫妻とケ小平の継母は10.20日、南昌に送られ、数日後江西省新建県望城崗の福州軍区南昌歩兵学校に付設されたトラクター組立て工場に移され、以後3年余、ヤスリでネジを磨く作業を監視つきでやった。後には歯車を磨く作業もやらされた。65歳の老人にしてはきつい仕事であったろう。それまではケ小平の月給は月402元、妻卓琳のそれが165元、計565元であった。しかし1970.1月以後生活費としてケ小平120元、卓琳60元、継母夏培根25元、計205元が支給されるようになった。そこでケ小平はパンダ印の煙草を止めて、安い前門印に切り替え、酒も普通の米酒に変え、時には自分でドブロクを作った。

 ケ小平は北京で批判・闘争にかけられていた間、しばしば不眠症に陥り、昼寝前にミンルトン二片、夜の睡眠前にベンバヒト一片、スークーミン(速可眠)一片、眠爾通一片、非那根二片を飲む習慣であったが、1970年元旦以後、睡眠薬を飲まないと宣言し、これを断行した。林彪事件以後、江西省東郷紅星開墾場に送られていた王震(生産建設兵団司令)が北京に戻り、江西省で労働するケ小平の状況を毛沢東に報告した。


 1969年暮れ、劉少奇氏が、河南省開封で非業の死を遂げる。王光美夫人は獄中、子供達は離散していた。


 1970.3月、中央工作会議で、毛沢東が国家主席( 劉少奇失脚以来、空席)の廃止を言明した。これに対し、林彪と陳伯達(中央文革小組の内紛により、当時は林彪側に接近していた)は国家主席の設置を主張した。

 1970.夏、りょ山会議。憲法改正問題のグループ討議で、国家主席存続の是非論が話し合われた。


【毛沢東と林彪グループとの隙間風】

 1970.8.23日午後、2中全会が開幕した。この頃、毛家湾と釣魚台との緊張関係が白熱したものとなった。「このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である」と秘書が書いている。

 林彪は冒頭、毛沢東天才論をぶち、毛沢東を「天才」として憲法の序文に明記することを主張した。翌24日、林彪講話の録音の学習が行われた。24日午後、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作はそれぞれ華北、西南、中南、西北の各小組(分科会)に出席し、天才論を支持するとともに、三つの形容句に反対するもの(江青グループ)を攻撃した。なかでも華北組の会議における陳伯達の発言は煽動的であり、ここでは国家主席を断固として設けることが決議された。

 8.24日夜10時過ぎ、「華北組二号簡報」が編集され、組長李雪峰が目を通したのち、25日朝、印刷配付された。これを読んで各組とも華北組に倣う動きが出たことについて、毛沢東は廬山を爆破し、地球の動きを停止させるがごとき勢い、と形容した。

 25日午前、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会った。毛沢東は25日午後、各組組長の参加する政治局常務委員会拡大会議を開き、林彪講話の討論の停止と二中全会の休会を提起した。華北組二号簡報は回収された。 

 8.31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。9.1日夜、政治局拡大会議が開かれ、私のわずかな意見が伝達され、陳伯達が批判されたが、この会議を主宰したのは皮肉なことに林彪であった。9.1日以後、各組で私のわずかな意見が学習され、陳伯達が批判され、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。9.6日、2中全会が終わった。

 
では9期2中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタ-を追求するようになった。

 こうして林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして2中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。 毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、1967年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。

 葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。1970年秋の9期2中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分された。イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群であった。

 しかもそこには三文小説的なエピソードさえある。葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。

 なお、これまた三文小説的エピソードだが、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、1970年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシー(原文=隠私)が容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。これが文化大革命のもう一つの側面であった。


 1970.12月、「陳伯達を批判する整風運動」で陳伯達が失脚し、さらに林彪グループにも毛沢東の批判が及んだ。


【林彪グループ「571工程紀要」=毛沢東暗殺計画に着手】

 1971.2月、林彪グループは、3.21日を期して決起する「五七一工程紀要」の作成に着手した、と云われている。林彪派のクーデタ計画書「571工程紀要」なるものがどこまで正確なものなのかヴェールに包まれており真相は未だ分からない。

 「571工程紀要」は、毛沢東独裁をこう批判していた。「彼〔毛沢東〕は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」と。そして毛沢東の説く社会主義をこう非難していた。「彼らの説く社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」。当時記録された限りで、最も厳しく毛沢東を弾劾したものである。独裁者毛沢東の酷薄さを十分に剔抉した発言である。

(私論.私見) 「571工程紀要」考

 「571工程紀要」の内容が明らかにされていないので評しようがない。「571工程紀要」が存在するのか、漏れ伝わるところの内容なのか何も分からない。れんだいこは、それが存在するとして、その内容は伝えられているものと全く異なると思っている。但し、確かめようが無い。

 2006.9.15日 れんだいこ拝

【キッシンジャーが北京へ忍者外交】

 7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交。極秘に北京を訪れ、周恩来との間に米中の和解について話をまとめた。頭越し外交で日本に衝撃。7.15日、「ニクソンが訪中し、中国首相・周恩来と会談する」と報道された。

 日本の佐藤政府には寝耳に水の発表で、アメリカと歩調を合わせていけば良いとしてきた佐藤流「待ちの政治」に冷や水が浴びせられた形になった。事実は、日本に通知された時間は、米中同時発表の3分前であった。佐藤の面目が潰れ、事前通告制度の実態が浮き彫りにされた形になった。


【林彪グループ「571工程紀要」=毛沢東暗殺計画に着手】 

 8、9月、毛沢東は南方を巡視した。彼は5大軍区、10省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。8月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清(江西省革命委員会主任、江西軍区政治委員)から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。

 9.8日深夜、杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。9.10日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、9.11日、突然北京へ向かった。9.12日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。

 林彪グループは「毛沢東が南方を巡視する旅行中にを謀殺する陰謀を立て、これに失敗するや広州に独立王国をつくるべく画策していた」とされている。上、中、下、三つの対策を検討した。上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。

 1971.9.5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した、とされている。9.8日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は9.12日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。

(私論.私見) 「林彪失脚事件の真相」考

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評214 れんだいこ 2006/09/15
 【林彪失脚事件の真相」考】

 2006.9.15日、共同通信社が、中国文革期の「林彪失脚事件」に纏わる、1971.11.20日付けモンゴル政府文書の存在を報じた。同文書は、「中国機がモンゴル領内で墜落した原因に関する確定文書」(16P)と題して、燃料不足による不時着失敗説に否定的見解を記し、機内で争いがあったことを示唆していたとのことである。

 れんだいこの学生時代のことであり、これも記憶にある。当時、中国で進行中の文革は、日本の学生運動にも大きく影響を与えていた。日共を「宮本修正主義集団」と規定し、これと闘うよう呼びかけていた。当然ながら、日共系は文革路線を否定し、反日共系は概ねこれに呼応せんとしていた。真相は分からず、毛沢東の指針せしめた造反有理だけが、カリスマ的響きで作用していた。そういう記憶がある。

 それはともかく、「林彪失脚事件」は未だに歴史のヴェールに包まれ過ぎている。林彪は、毛沢東の盟友として文革を推進し、次第に「毛沢東の親密な戦友」と称えられ、bQの地位にまでのぼりつめていた。1969.4月、北京で開かれた第9回党大会で、林彪が毛沢東の「『親密な戦友』であり『後継者』である」ことが確認された。

 その林彪が突如失脚した。その背景にはどういう事情があったのであろうか。「権力闘争にやぶれ、クーデタまでおいつめられた」とされているが、誰との権力闘争なのか、どういうクーデター計画であったのか等々真相は藪の中である。

 一説はこうである。1969.3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになり、二正面作戦をとるのは上策ではないとして、米帝と罵り敵視していたアメリカに接近を試み始めた。一方、林彪はソ連派で、あくまでも敵はアメリカであると主張し続け、次第に対立するようになった云々。もう一説はこうである。対米緊張緩和路線を廻って、毛沢東ー周恩来はニクソン招請を策し、林彪はそれに反対し続けていた。この対立がのっぴきならないものとなり、毛沢東ー周恩来は、林彪を犠牲として対米緩和を選択した云々。

 れんだいこは、どちらもピンと来ない。そこで次のように推定している。なぜだか誰も指摘していないが、1971.9.12日の「林彪失脚事件」の2ヶ月前の7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交してきた。極秘に北京を訪れ、周恩来との間に米中の和解について、何やら膝詰め談判した形跡がある。7.15日、「ニクソンが訪中し、中国首相・周恩来と会談する」と発表したが、この時何が話し合われたのだろうか。

 「キッシンジャー・周会談」の中身が全く明らかにされていない。それは、ロッキード事件で、三木首相とフォード大統領が首脳会談した際の会談内容が秘匿されているさまと同じである。

 れんだいこは、林彪失脚の影に「キッシンジャー指令」があった、と見立てている。この時、中国は、経済政策に失敗しており、更に文革騒動が重なったため、財政が極度に逼迫していた。キッシンジャーをエージェントとするネオ・シオニスト奥の院は、対中経済援助を約束し、その対価として林彪派の粛清を要請したのではなかったか。「キッシンジャー・周恩来会談」は、その密約を結んだのではなかろうか。れんだいこは、そう推理している。

 では、ネオ・シオニスト奥の院は、何故に林彪派の粛清せねばならなかったのか。林彪派の台頭が、中国の制御をますます利かなくさせ、そのことがネオ・シオニストの世界支配計画に障害となることが見え過ぎていたから、文革の進展がその方向に行きつつあることに危機感を覚えたネオ・シオニスト奥の院が、何としてでも林彪派を粛清すべく動いたのではなかろうか。かくして、お膳立てが整い、キッシンジャーが訪中したのではなかったか。

 毛ー周政権は、財政危機の中背に腹代えられず、清濁合わせ飲んだのではなかろうか。しかし、毛は、盟友を失い、手足をもぎ取られた。この時点で、実質上文革は失敗した。四人組はその後のあだ花に過ぎない。いとも容易く一網打尽にされた。代わりに、文革理念で云えば走資派のケ小平派が台頭した。今日の中共政権は走資派の掌中にある。そうであるからこそ、これまた走資派の不破系日共は、日中共産党の歴史的和解を実現し得た。

 こう読めば、その後の事態が理解できるし、こう読まなければ事象の羅列だけで何も見えてこない。それにしても、「林彪失脚事件」は不思議なほどに究明が制御され過ぎている。直前の「キッシンジャー・周会談」との絡みに向わない考察がはばを利かせ過ぎている。学ぶとは、こういう風に捻じ曲げる手法を学ぶことを云うのであろうか。れんだいこは、素直に見ない学問に嫌気を覚えている。学問とはそんなに難しいものかと嘆息させられている。

 2006.9.15日 れんだいこ拝

【林彪の最後】

 9.12日の経過はこう描かれている。9.12日、林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機8機を準備させようとした。当夜トライデント機256号が秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌9.13日、広州へ飛ぶ予定であった。

 林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、9時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。10時過ぎに翌朝出発することを決定した。林彪の娘林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを周恩来に密告通報した。すなわち9.12日夜10時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。林彪事件処理に見せる周恩来の手際は鮮やかである。

 8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。夜11時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。11時50分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、12時近く北戴河96号の住まいを出発した。

 8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。

 林彪らを乗せた車は零時20分空港に着いて、32分256専用機は強行離陸し、まず290度をめざし北京に向かったが、すぐ310度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前1時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。

 1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。9.13午前2時半ごろ、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南10キロ(ウンデルハン)の地点に墜落した。
林彪、葉群(林彪夫人)、林立果(林彪の長男)が墜落死したとされている。

 
9.14日朝8時半、モンゴル政府外交部は中国大使許文益を呼び、中国機がモンゴルに進入して墜落したことに対して口頭で抗議した。9.15日、許文益ら中国大使館関係者は墜落現場を訪れ、大量の写真を写すとともに、北京に報告した。単なる不時着の事故として処理した。九つの遺体は9.16日、モンゴルの習慣にしたがって火葬せずに現場に埋葬された。

 林彪事件に対する周恩来の処理は、あまりにも的確であったために、かえってその後、さまざまな憶測がくりかえしあらわれることになった。秘密保持が徹底していたために、中国政府外交部でも党核心小組の符浩(元日本大使)らごく一部の者しか事情をしらなかった。実は許文益大使をはじめ、モンゴル駐在大使館の一人として、だれの遺体かをしらずにモンゴル政府と折衝し、遺体を現場に埋葬したとされている。

 9つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。

 事件当時の林彪は64歳、毛沢東は78歳であった。14歳も若い後継者が権力の継承を待てなかったのはなぜか、である。金春明『“文化大革命”論析』は、林彪の健康問題から奪権を急いだと説明している。張雲生『林彪秘書回想録』もむろん健康問題に少なからず言及している。しかし林彪の健康問題について決定的な事実を指摘しているのは、厳家其、高皋夫妻の『中国文革十年史』である(香港版は上巻255頁以下、大陸版は251頁以下)。

 林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、50年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば1970.5.20日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。


【林彪グループの処分】

 事件の伝達情況はつぎのごとくであった。まず、9.18日、中共中央は各大軍区、各省市、軍隊、中央各部門に対して文件を発出し、高級幹部に対して、林彪事件の概要を伝えたが、林彪についての記述、写真、映画などは暫時動かさないことも指示した。

 9.24日、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作が停職となり、拘禁された。10.3日軍事委員会弁事組が廃止され、軍事委員会弁公会議が成立し、葉剣英が主宰することになった。同日中央は中央専案組を成立させ、林彪事件を徹底的に究明することとした。

 ついで9.28日、中央は林彪事件の伝達範囲の拡大を通知した。10.6日、10月中旬に伝達範囲を支部書記レベル、軍隊の中隊レベル幹部まで拡大することを決定した。10.24日、全国の広範な大衆に伝達するが、新聞に掲載せず、放送せず、大字報やスローガンとして書かないよう指示した。12.11日、1972.1.13日、7.2日、中央専案組のまとめた「林彪反党集団の反革命クーデタを粉砕した闘争」についての三つの資料をそれぞれ発出した。

 林彪の墜死以後、毛沢東暗殺を図った逆賊として、徹底的な林彪批判が展開された。その際の林彪の罪状は、彼の参加したほとんどすべての戦役について、林彪の功績が小さなものだと矮小化しようとするものであった。それらはそれなりになんらかの事実を踏まえたものであったことは、確かだが、およそ牽強付会が甚だしく、説得性を欠く批判であったといえよう。

 墜死事件後十数年を経ると、行き過ぎた批判への軌道修正が行われるようになった。たとえばある論文(于南「林彪集団の興亡・初探」)は、前述のような林彪批判を斥け、次のように再評価して注目された。総じていえば、民主革命期(49年革命のこと)の林彪は、林彪グループのその他のメンバーも含めて、功績が誤りよりも大きかった。つまり林彪は文革初期に一部の者が誇張した姿とも、事件以後の批判論文が非難した姿とも異なっているのであり、林彪の功罪は実事求是のやり方で解釈すべきである、と。

 1973.8月、第10回党大会の際に林彪、黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作・解放軍総後勤部部長、陳伯達の党除名を決定し、公開批判を開始した。1981.1月下旬、最高人民法院特別法廷は黄永勝18年、呉法憲17年、李作鵬17年、邱会作16年、江騰蛟18年の懲役を判決した。


【毛沢東の落胆の様子】

 毛沢東は1971年春から、病いに悩まされるようになったが、林彪事件以後、急速に老いこんだ。晩年を見守ったある女性秘書(張玉鳳は当初は「生活秘書」であったが、のちに「機要秘書」になった。一般には愛人と見られている)が、神格化された毛沢東ではなく、生身の人間としての痛々しい毛沢東の姿について、こう証言している。

 このとき彼はすでに77歳の高齢であり、人々が想像するような元気溌剌では全くなく、髪は白く、明らかに老衰していた。人々がこの方に“限りないご長寿を”とどんなに祈ろうと、自然法則の発展には抗しようがなく、彼も普通の老人と同じく、老年のさまざまな疾病に悩まされていた。 

 われわれの国家指導者たちの身体状況は、なべて秘密にされている。毛主席の場合はなおさら厳しい秘密にされており、通常は極めて小さな範囲の者しか主席の病気を知らない。病気の程度を知る者はなおさら少なかった(『炎黄子孫』八九年一期)。

 では病はどの程度であったのか。張玉鳳の証言が続く。71年春以来、気管支炎を患い、咳のため寝られず、日夜ソファに坐り続けるありさまであった。張玉鳳と看護婦長呉旭君が昼夜を問わずつきそった。1972.1.6日、陳毅元帥が死去し、10日午後、陳毅の追悼会が開かれた。毛沢東は突然時間を聞いて、パジャマ(原文=睡袍)の上からダブダブの人民服をはおり、50年代にソ連政府から贈られたジムに乗って八宝山に向かった。毛沢東はこの追悼会に出席したシアヌーク殿下を通じて、三カ月前の林彪事件を洩らし、「林彪は私に反対したが、陳毅は私を支持した」と陳毅を再評価し、同時にケ小平復活を示唆したのであった。

 1972.1月、毛沢東は肺炎と酸素不足のためにショックで倒れた。主治医が注射し、心臓専門家の胡旭軍が毛主席、毛主席と呼びつづけ、ようやく意識を回復した。1974年春から毛沢東は書類が読めなくなった。8月に武漢の東湖賓館で検査したところ、老人性白内障とわかった。1975.8月中旬のある夜唐由之医師が手術を行い、片目が見えるようになり、600余日の見えない状態から解放された。この間、張玉鳳が文件、報告、手紙などを読み、代筆した。元来はこの仕事は「機要秘書」徐業夫の仕事であったが、徐業夫が不治の病を得て入院したため、張玉鳳にその仕事が回ってきたのであった。

 1972年に毛沢東が重病になったさい、別の病院から動員された看護婦兪雅菊が静脈注射したところ、少しも痛くなかった。毛沢東は大いに気にいり、以来注射は兪雅菊と決め、看護婦長にした。


【林彪事件の謎】
 1969.4月の第九回党大会で後継者に選ばれたばかりの林彪が一体なぜそのような事態に追いこまれたのか、今も謎である。

 「第2節 文化大革命と解放軍」は、「林彪事件の真相その1・一九八八年に明らかになった事実」として以下のように記している。
 概要「林彪墜死の謎。1983年にアメリカで出版された『林彪の陰謀と死亡』は、林彪は毛沢東の『最後の晩餐』にまねかれた帰路、ロケット砲で砲撃された(すなわち墜死者のなかに林彪はいなかった)。トライデント機は不時着ではなくミサイルで撃墜された、などとしている」。

 事件当時外交部「党核心小組成員、弁公庁主任」であった符浩(ふこう・のちに日本大使)の回想によれば、周恩来の指示をうけつつ外交部内において極秘裡に事件の処理にあたり、モンゴルの中国大使館といかに連絡したかを概要次のように記録している。
 9.13日午後、外交部党核心小組のメンバーは、林彪らが外国へ向け飛び立ったことを知った。
 周恩来の指示で外電の報道を注視し、対策をねろうとしていた。
 14日午前、外交部党組は代理部長姫鵬飛の司会で、対策会議を開き、つぎの四つのケースを想定した。
林彪が裏切り声明を公然とだしたばあい。
林彪あるいは他のメンバーが外国の放送あるいはマスコミで談話を発表したばあい。
林彪あるいはその一味は顔を出さず、直接談話を発表せず、外国通信社が林彪がどこそこに着いたと発表したばあい。
しばらくニュースがなく、〔林彪らが〕中国内の動静を静観するばあい。

 以上の四つのケースについて、それぞれの対策を検討していた。

 正午すぎ、外相姫鵬飛(きほうひ)のもとに「特急報告」がとどいた。思わず頬のゆるんだ姫鵬飛のせりふは「機体破損、乗客死亡。絶妙の結末」(原文=機毀人亡、絶妙的下場)というものであった。
 この報告はやはり周恩来の指示で、三号活字で一八部だけ極秘裡に印刷され、在京の政治局委員に配付された。

 符浩の記録は、最悪の事態展開を懸念しながら会議をつづけている席上へ、報告がとどき一同安堵する過程をリアルに描いており、サスペンス・ドラマの感がある。

 当時のモンゴル駐在中国大使・許文益(きょぶんえき)のモンゴル当局との交渉記録は、軍用機の領空侵犯を非難するモンゴル当局に対して、許文益は中国「民航機」が進路をあやまってモンゴルにはいったものと主張し、両者は鋭く対立したこと。事件16日後の9.29日、モンゴル放送は中国「空軍機」の墜落を一方的に初めて報道し、世界がこの事件に注目することになった、ことを明らかにしている。

 許文益の記録でなまなましいのは、中国大使館関係者が誰の遺体かを知らずに、モンゴルと交渉していたとする証言である。彼らは国慶節前夜になって「中共中央文件」をよむことができ、ようやく概要を知ったのであった。北京の中国政府外交部とウランバートルの中国大使館との緊急連絡は専用電話線でおこなわれたが、周恩来は秘密保持のために、大使にさえも真実を知らせていなかった。

 モンゴル大使館二等秘書・孫一先(そんいっせん)は、工作人員沈慶沂(しんけいきん)、王中遠が墜落現場で遺体を処理した経過をしるしているこれによると彼らは遺体に番号をふし、「モンゴルの慣習にしたがって」火葬せずに9.16日に埋葬したと書いている。「視察記」は、墜落後の焼死説を主張している。遺体は一酸化炭素中毒のために桜桃色を呈し、死後八〇数時間を経ていたが若くみえた、とりわけ葉群のそれは30歳前後にみえた。これは「50歳以上の搭乗者はなかった」とする外電の報道に符合する。

 林彪事件はあまりにも極秘裡に処理されたために、そのごさまざまな憶測をよぶことになったわけだが、最大のナゾのひとつは、墜死者のなかに林彪がいたかどうかであった。この疑問がうまれた直接的契機は外電が遺体のなかには林彪の年齢にあてはまる者がなかったと報道したことだ。林彪はモスクワで治療をうけたことがあるから、ソ連・モンゴル側が「確認しようとすれば」簡単に確認できたはずであるが、中国側関係者でさえ林彪事件などまるで知らずに処理したから、ソ連・モンゴル当局が林彪の歯形をとりよせる労をとらなかった。

 墜落事件の際、ソ連のKGBは現地に赴き、モンゴル領内に墜落したトライデント旅客機の中から9体の焼死体を回収、その中の1体を林彪と断定した。抗日戦争当時、林彪は頭部の戦傷の治療のため、ソ連の首都のモスクワに赴いたが、その当時のカルテが残存していた。その焼死体の頭蓋骨部分に認められた傷とカルテの記載が一致、これが決め手になったという説もある。

 「1994.1.31号USニューズ&ワールド・レポート」は、次のように伝えている。

 KGBのチーム(元KGB法医官ビタリ・トミリン将軍と元調査官アレクサンドル・ザグボジン将軍)は七一年中に二回にわたって現場を訪れた。まず墓を暴いて頭蓋骨を取り出し、モスクワに持帰って一年がかりで遺体を確認した。林彪が抗日戦争で負傷し、ソ連で治療を受けたさいの銃弾のあと、金歯などが決め手となった。二回目には黒こげになった右肺の切片を持帰り、結核の治療記録と照合するという念の入れようであった。この結果を知らされたのは、旧ソ連でわずか四人、すなわちブレジネフ書記長、KGBのアンドロポフ長官、そして前掲の二人の将軍だけである。(矢吹晋「ベールを脱ぐ中国現代史」(1994.4.3日付産経新聞文化欄)

 埋葬現場には「中国民航1971.9.13日遭難九同志の墓、中華人民共和国駐モンゴル大使館」の墓標がある。旧ソ連解体後に明らかになった事実は、旧ソ連のKGBは二度にわたって遺体を掘り起こしていたことである。

 遺体はバラバラではなかったとも述べている。これは墜落の原因がミサイルによる撃墜ではないことを示している。機内での撃ちあいを示すような弾痕もなかった。これにつき、孫一先らはこう説明している。1・燃料不足説。しかし、林彪の別荘のあった北戴河近くの山海関空港を強行離陸したときに燃料は一二・五トンつまれていた。墜落までの飛行時間は一一八分であるから、墜落当時燃料は約二・五トン残っていたことになる。すなわちあと二〇分飛べるはずであった。2・ナビゲーターの欠如問題。ウンデルハンの東北七〇キロの地点に空港があることを知っていたはずなのに、そこに無事に着陸できなかったのはなぜかについては「ナビゲーターが搭乗していなかったために、正確な位置を認識できなかった」としている。3・減速板の問題。現場は割合に平坦な草原であるにもかかわらず、不時着に失敗した理由について「副パイロット不在のために、減速板を開けず、中速度のまま着地せざるをえなかった」としている(なお、現在はこの操作はパイロットがおこなう慣行になっているといわれる)。

 このほか金春明の「<文化大革命>論析」は燃料タンクの構造の問題を指摘している。トライデント機は、翼と胴体下部に燃料タンクをもつ構造になっていたため、満タンにするとバランスが崩れる。そこで通常は離陸直前に満タンにしていたといわれる。これは1の燃料積込みの不十分な理由とかかわり、また3の着陸失敗の原因とかかわるものである。要するに、強行離陸のため十分な燃料を給油できなかったこと、副パイロットおよびナビゲーターの不在が不時着失敗の原因であったようだ。

 
11.20、モンゴル政府が林彪事件の調査書(「中国機がモンゴル領内で墜落した原因に関する確定文書」、16P)を発表し、燃料不足による不時着失敗説に否定的見解を記し、機内で争いがあったことを示唆していた。2006.9.15日、共同通信社がこれを報道した。

 1981.1.23日、中国の最高人民法院特別法廷はこう判決した。

 「林彪反革命集団と江青反革命集団は各自党と国家の最高権力を奪取しようとはかったが、彼らには同盟をむすぶとともに、先鋭な矛盾も存在した。一九六九年、林彪は毛沢東主席の後継者に確定した。一九七〇年、林彪は江青、張春橋らの勢力が自己の勢力をこえることを意識して、「事前」の後継をはかろうとした。林彪は江青の野心が成功しないことは承知していたが、林彪の「事前」後継を毛沢東主席が支持することもありえないと判断した。そこで一九七一年九月、林彪反革命集団は一切の仮面をなげすて、武装クーデタを策動し、毛沢東主席を謀殺しようとした」と(注36)。

 これが林彪の「武装クーデタ」問題に対する中国当局の説明である。問題のポイントは林彪グループと江青グループの権力闘争である。林彪は毛沢東から江青への権力継承が成功するとは考えなかったが、その可能性が強まることを危惧した。他方、毛沢東から林彪への継承が毛沢東の生前に行われる可能性は全くないと判断して、江青グループの勢力が強まる前に毛沢東の謀殺をねらったというのが判決の説明である。

 文化大革命をつうじて、実権派から権力をうばう段階では、緊密に協力しあった林彪・江青グループがポスト毛沢東の最高権力をねらってしのぎを削るという構図は、いかにもありそうなことであろう。ただ、理解に苦しむのは、すでに後継者として認知されていた林彪が毛沢東の死をまてなかったのはなぜか、である。この疑問に直接こたえているのが金春明の分析である。金春明は林彪の健康問題から説明している

 林彪は抗日戦争期に肺部を被弾し、ソ連に治療におこなったが、完治しなかった。解放戦争期に吐血したこともある。建国後は療養生活が長かった。一九五九年に彭徳懐の後を襲って国防部長に昇格し、軍事委員会を主宰したが、やはり大連、蘇州、杭州、北戴河などで療養することが多かった。天安門上に一、二時間立つ時は、何日も英気を養ってからというありさまであった。林彪は一九〇七年生まれ、一九七一年当時六四歳、当時七八歳の毛沢東よりも一四歳若かったが、毛沢東は七三歳のとき、揚子江を一〇数キロ泳ぐほど元気だった。そして林彪の健康問題を最も懸念していたのは妻葉群と息子林立果であった。

 金春明はこのように林彪の健康問題からクーデタ事件の背景を説明し、説得的である。むろん張雲生『毛家湾紀実』は林彪の私生活を詳しく描写し、健康問題についてもすくなからず言及している。

 続いて「林彪事件の真相その2・ 一九九四年に明らかになった事実」として次のように記している。

 林彪事件は中国現代史最大のナゾといわれてきたが、旧ソ連解体という歴史のドラマをへて、秘匿されていた情報が公開されるにおよび、最終確認ができた。『USニューズ&ワールド・レポート』(九四年一月三一日号)は、旧ソ連国家保安委員会(KGB)のファイルのなかから、林彪の「頭蓋骨写真」を探りだして、この人物の最期を確認してみせた(注39)。

 周恩来の秘密保持は徹底しており、許文益大使でさえも誰の遺体かを知らされずに埋葬したほどであった。大使らは墜落現場におもむき、腐敗しはじめていた遺体の証拠写真をとり、「モンゴルの慣習にしたがって火葬せず」にうめた。中国大使館の館員たちでさえも、埋葬の時点では誰の遺体かを知らされなかったのだ。モンゴル当局者は中国軍用機の領空侵犯を非難したが、遺体に疑惑をいだいた形跡はない。要するに、遺体処理がどのような形でおこななわれたかについての報道は皆無であり、単に林彪の遺体らしきものはなかったとする印象談話のみがモンゴル側から発せられた。騒ぎはここからおこった。事件から一〇年以上すぎてもまことしやかな「実録」が出版され、林彪は毛沢東の「最後の晩餐」にまねかれた帰路にロケット砲で砲撃された(つまり墜死者のなかには林彪は含まれていない)などと書かれる始末であった。私自身は符浩ら中国側関係者の証言の具体性、論理的一貫性に接して、もはや中国側発表を疑う余地はなくなった判断した。最大の根拠は、林彪の遺体の所在である。遺体の埋葬場所は中国政府の主権がおよばず、旧ソ連やその属国に等しいモンゴルであるから、彼らはいつでも中国政府のウソ(もしあれば)をあばくことができるはずだ。「敵」に弱みをにぎられている以上、真実を隠蔽できまいと私は読んだわけである。

 ところが九一年暮、あるテレビ局(NHKニュースセンター21)のディレクターが問いあわせてきた。いわく、現場の証言によると、林彪や夫人葉群らしい遺体はなかった。そこで中国側発表にあらためて疑問符がついた、といった趣旨の説明である。「もし疑わしいのならば、ウンデルハンの遺体を掘りおこしてご覧なさい。そしてソ連の病院から林彪のカルテを持ちだして調べること」「もし遺体が林彪のカルテと符合しなかったら、中国政府は面目まるつぶれですな」とコメントした(注40)。

 この番組は基本的な取材を全くおこたったお粗末なものであった。中ソ対決に起因する宣伝合戦のなかで、四半世紀にわたって浮きつ沈みつした亡霊こそが「林彪不搭乗説」であった。冷厳な国際政治の文脈のなかで、モンゴルや旧ソ連側からすると林彪事件は「仮想敵・中国の過失」なのであり、国際政治の場で宣伝に利用できれば十分であり、真相は故意に曖昧にのこされた可能性が強い。

 ただし真相を確実に把握しながら、その重大な結果を秘匿したチームが存在していた。『USニューズ』によると、KGBのチーム(元KGB法医官ビタリ・トミリン将軍と元調査官アレクサンドル・ザグボジン将軍)は七一年一〇月と一一月の二回にわたって現場を調査した。まず墓を掘りおこし、頭蓋骨をとりだしてモスクワに持帰り、一年がかりで遺体を確認した。林彪が抗日戦争で負傷し、ソ連で治療を受けたさいの銃弾のあと、金歯などが決めてとなった。二回目には黒こげになった右肺の切片を持帰り、結核の治療記録と照合するという念のいれようであった。しかもこの結果を知らされたのは、旧ソ連でわずか四人、すなわちブレジネフ書記長、KGBのアンドロポフ長官、そして前掲の二人の将軍だけである。なんという秘密主義であろう。

 林彪事件についての中国政府の発表は、基本的に真実であることがKGBによる遺体写真で確認された。中国側が真実を隠蔽できなかったもうひとつの理由は、対米緊張緩和にかんがみてニクソンの信頼感を獲得する必要があったからではないか。毛沢東、周恩来はニクソン招請に反対する林彪をいわば犠牲として対米緩和を選択したことになる。

(私論.私見)

 れんだいこの観点はこうである。(以下、略)

 これよ李後は、「文革史(三)



(私論.私見)