生存者の証言

 更新日/2017(平成29).8.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 奇跡的に生還したのは落合由美、吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子の4名。どういう理由でか事件の事を語りたがらない。その中で遺されている証言は以下の通りである。共通しているのは、事故直後には生存者がかなり居たとしていることである。但し、その後の救出されるまでの「かなりの空白時間」の証言がないことである。川上証言では「その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした」、落合証言では「たぶん、それから私は眠ったのだと思います」としている。これが真相かも知れないし、何らかの事情で証言拒否しているのかも知れない。
 「川上慶子さん証言 (1)」、「落合由美さん証言 (1)」、「吉崎博子さん証言 (1)」、「アントヌッチ元米軍大尉の証言 (1)」、「管制官の証言 (1) 」その他を参照する。
 

 2010.08.16日 れんだいこ拝


【川上慶子証言】
 奇跡の生還を遂げた4名の一人の川上慶子さんが次のように証言している。川上慶子さんは家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に寄るため羽田に戻り、キャンセル待ちの後123便に搭乗した。事故当時12歳。  

 事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配り始めたころ。機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が 開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。母和子さん(39)は即死状態だった。
 「突然、トイレのへんからビリッと音がして、そのあとパーンという音と一緒に天井が吹っ飛んだ。斜め後ろの1m四方の穴が開き、白いものがそこからと前に出てきた。口の中が痛くなったけど、しばらくしたらしびれもなくなった。

 
後ろの穴からプロペラみたいのがゆっくり回っているのが見えた。酸素マスクが落ちてきたので着けた。お父さんが『慶子、頭を下げろ』と叫んで、私と咲子、それにお母さんの三人を両手で抱き抱えて守ってくれました。そして急降下していきました。落ちるとき、『お父さん、苦しい』というと、お父さんは『ナイフを使って(ベルトを)切れ』といった。

 落ちたとき、私の上には蜂の巣のようなもので、ボルトがいっぱい出たものがあって痛くて動けなかった。『お父さん、動けないよぉ』というと、『お父さんも身動き出来ない』といった。お父さんは私の右腹から上の方に折り重なっていて、ちょっとどけようとすると、すごく痛いので『お父さん、痛い』といったらそのまま動かなくなった
」。

 (米田憲司著「御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年」宝島社より一部引用)
 「気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、生きていると思った。みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。『手や足を動かしてみ』と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて血だなと思った。父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。『助けて』と父に言うと、『お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ』と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。『お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い』と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。咲子に聞くと『お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる』と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は『苦しい、苦しい』と言った。『足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ』と言うと、妹の足の音がした。妹はそれでも『苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ』と言うので、『大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう』と答えた。突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした

 
ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。生きているんやなと思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。『中学になってから慶子は根気がなくなった』と、日ごろから言われていた言葉を思い出し頑張った。人の気配がして『生きている人は手や足を動かして』と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、『男の子だ!』と言われた」。
 (「乗客として乗っていた川上慶子さんの証言」、角田四郎著「疑惑」早稲田 出版社より引用)
 概要「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。 『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・」。
 (週刊朝日(7月15日号)の「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」(幸せを掴んだ川上慶子さんより )。
 「(慶子さんは)ザックザックと軍靴の音がした。父も咲子もまだ息があった。・・・・・・?????」と証言している。「撃墜するや否や自衛隊機が現場上空に飛来し隊員を下ろして火炎放射器で焼き切り、生存者を殺しまくっていった。川上慶子さんはまだ当時の状況を全て話していない。また日本が自由にモノを言える状況ではない」。
 同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったときの話。祖母が、慶子から聞いた話として近所の人に伝えている。「慶子は夢でも見たんじやろう」で終わってしまった云々。
 「墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近ずいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた」。
 生存者の証言 -川上慶子さんの証言-(-高崎国立病院での証言-)」より。
問い  大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?
証言  あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。
問い  飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?
証言  左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。
問い  慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?
証言  暗かった。
問い  真っ暗だった?
証言  うん。
問い  その時何も見えなかった?
証言  見えなかった。
問い  お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?
証言  うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。
問い  その時に何か思った?
証言  うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。
問い  明るくなった時何か見たものある?
証言  木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。
問い  左手が届いたところにいたわけね?
証言  うん。
問い  ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?
証言  出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。
問い  助けられてから、一番うれしかったことは?
証言  知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。
問い  ほかに何かみんなに言いたいことは?
証言  いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。

 上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。
 最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いたと証言した。この証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。
 「ば○こう○ちの納得いかないコーナー」の「幸せを掴んだ川上慶子さん」参照。

 「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

  「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

 事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった」と漏らした事も在ったのだそうだ。被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

 慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

 事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。


【落合由美証言】

 520名(厳密には、赤ちゃんを含めた521名)が死者となった。乗客のうち重傷4名は8月13日に救出された。このうち、日本航空のアシスタント・パーサー(パーサーを補佐するスチュワーデスの地位)の落合さんが当日は非番で乗客として乗っていて、事故当時の機内の様子を証言している。貴重な証言となっている。「生存者の一人・落合由美さんの証言」を転載する。

 「離陸してすぐ、私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。私の席の周囲にも、若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。そろそろ水平飛行に移るかなというとき、パ-ンという、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。バーンではなくて、高めのパーンです。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。

 お客様からは、うわっという声がした。女の人だと、きゃっという、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。耳は痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかし、それもすぐに直りました。パーンという音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた56の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。ひっぱると、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。

 ただちに録音してあるアナウンスで『ただいま緊急降下中。マスクをつけてください』と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが,実際に経験するのは、もちろんこれがはじめてでした。

 やはりパーンという音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号47、48あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。

 匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした。はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。そのときは、エキストラ・マスクをひぱって、口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。

 あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いたとありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか私は確認できませんでした。きょろきょろしていたとき、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて屋根裏部屋のような感じで見えたのです。壁はちぎれたとか破壊されたというふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。

 そして、壁のはずれた向こう側に、運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうには、そういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、ひらひらしていたのです。そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいたということはありませんでした。もひとつ、私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く、何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。このときにはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなっかたのかもしれません。でも、とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えていません。

 いつ点灯したのか気付きませんでしたが、EXITと非常口を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、記憶にありません。ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが、気がつきませんでした。こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。パーンという音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。

 
ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。

 ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に『座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください』」という指示を出しました。その指示がどこからきたのかわかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は、乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができるオール・コールでくるのですが、今度の場合は、それはありませんでした。ライフ・ベストをつけるようにという指示は機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、スチュワーデスが着用して、このようにつけるんですと教えながら座席をまわることになっています。今度もそうしていました。前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で、座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,救命胴衣をつけてください、と言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。

 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わっかても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性のたちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

 私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが『スチュワーデスの方ですか』と声をかけました。私は『はい、そうです』と答えて、Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は、前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。しかし、
このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。

 救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。ベストをふくらませてしまった若い男性が『どうすればいいんだ』と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも、『ふくらませないで!』と叫びました。

 機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて、固まるようになりました。私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されえいました。「どうなるんだ」、「大丈夫か」、「助かるのか」。聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも、男の人がいろいろ質問していました。

 スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です」と答えていました。そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。子供の声が聞こえました。「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。

 全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わっ方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが、『急に着陸することが考えられますから』というような内容です。それと、『管制塔からの交信はキャッチできています』とも言っていました。私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば衝撃の際の保護になるように着用してくださいと指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした。

 私は56Cにもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」、「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。こういうときは、「・・・してください」とは言いません。お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。『緊急着陸して、私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってください』と。Kさんは『任せておいてください』と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、ピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子がキャーッと叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。

 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとり続けることしかできない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。パーンから墜落まで32分間だったといいます。でも長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどります、というアナウンスがないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。でも、なかった。

 衝撃がありました。衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんにです。音はまったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前はもやーっとしているだけです。墜落だと思いました。大変な事故を起こしたんだなと思ったのは、このときでした。

 すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうなと思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですがぼやーっとしか見えません。灰色っぽい夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいなということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。
墜落の直後に「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。

 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使ってベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして何か固いものがあったたので、どかそうと思って押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが怖さは全然ありません。
どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

 それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。

 
やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」、「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。

 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」、「すぐ行くから」と言われました。そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

 目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくさいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました」。
 (吉岡忍著「墜落の夏」、新潮社より)
 

【吉崎博子証言】
 「生存者の証言 -吉崎博子さんの証言-」。吉崎博子さんは家族4人で123便に搭乗し事故に遭った。長女の美紀子さんとともに生還。博子さんは事故当時35歳。美紀子さんは8歳。
 私は眠っていたが、ドーンという音と同時に白っぽい煙と酸素マスクが降りてきた。乗客は次々とベルトを締めたが、機の揺れが激しく、ベルトによる胸部への圧迫から失神する乗客が続出した。これを見ていた夫は自分の危険を顧みず、ベルトをはずして立ち上がり、スチュワーデスに失神者の救助を依頼。自分も手近の失神乗客に声をかけたり、酸素マスクをあてるなど、精いっぱいの活動をした。ゆかり(次女)は気分が悪く、マスクをしながら「あげそう」と言った。ゴミ袋を当てると、少しもどして、まっ青で気を失った。救命胴衣をして頭を両足の中に入れて」と放送があったが、美紀子(長女)は救命胴衣をつけられなかった。

 やがて、飛行機は激しく揺れ出しました。ジェットコースターにでも乗っているような感じで、真っ逆様に落ちてゆきます。窓の外の景色がどんどん変わりました。物凄く恐いのですが、スチュワーデスの方々が「大丈夫ですから、大丈夫ですから」と何度も言っていましたから、どこか故障したので機体は不時着するのだ、と思っていました。絶対に無事に着くと思いました。遺書を書くことなど、思いもよらなかった。夫も「子供の前なのだから、しっかりしろ、うろたえるな。落ち着くように」と励ましてくれました。また「眼鏡をかけたままではケガをする」と気付かってくれました。
 
 機体は何回か、ガタンと方向を下げてゆきます。長い時間だったようにも思いますし、短い時間のようにも思います。そして激しい衝撃がありました。私は、それっきり、気を失ったようです。目が覚めたときは、真暗闇でした。静かで何の音もしません。美紀子は「痛い」と唸っていたので生きているんだな、と思いました。夫の足が私の肩に乗っています。ゆかりの姿は見えません。充芳(長男)の姿も見えません。遠くで「お母さん」という声が聞こえました。間違いなく充芳の声なのですが、私は声も出ず、身動きもできぬ状態です。やがて、充芳の声は聞こえなくなりました。あれが最後の声だったのでしょうか。墜落後、うとうとしかけると、美紀子が「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」と声をかけて励ましてくれて、それで助かることができました。
 フライデー2012.12.3「創刊28周年企画 重大事件、事故、天災「九死に一生」生存者たちの秘話15 part1」。
 歴史的惨事に居合わせ、ホンのわずかの偶然で「生かされた」人たち。極限での生のドラマを、当事者やその家族が、あらためて振りかえる---。

 日航機墜落事故 '85年8月12日
 524人の内、4人が生存。奇跡の生還者が抱える心の闇

 「元気でやっていますよ。でも、娘からは『もう取材は受けないで』って言われているんです。あることないことネットに書かれているらしくて、嫌になってしまったのよ」。都内に住む吉崎博子さん(61)は、本誌記者の取材に笑いながらこう答えた。乗員乗客520人が命を落とした日航機墜落事故。救出されたのはわずかに4人で、生存率は1%にも満たない。彼女と娘さんは奇跡の生還者のうちの二人なのである。当時、吉崎さんは兵庫県芦屋市に家族5人で暮らしていた。夏休みに東京の実家に里帰りし、その帰路で事故に遭遇。家族全員が機内の後部座席に座っていたが、夫の優三さん(当時38)、長男の充芳くん(同9)、次女のゆかりちゃん(同6)の3人が帰らぬ人となり、吉崎さんと8歳だった長女の美紀子さんの二人だけが生き延びたのである。事故から10年後、東京の実家に身を寄せていた彼女は、本誌の取材にこう答えている。「離陸してしばらくすると、パーンという音がして、機体が右へ左へと激しく揺れ始めました。私は具合が悪くなった長男の面倒を横で見ていましたし、パニックになる余裕はありませんでした。いよいよ墜落という時のことも覚えています。まるでジェットコースターが真っ逆さまに急降下していくような感じです。ドーンとなったところで意識はなくなりました。暗闇の中で目を覚ますと、ヘリコプターのサーチライトが見えました。その時は、まだガヤガヤと人の声も聞こえていたんです。自分が生きているんだから、みんなも助かったんだと思っていましたね」。それから、さらに17年の月日が過ぎた今も、吉崎さんは娘の美紀子さんと一緒に都内で静かに暮らしている。「友人から北海道の温泉旅行に誘われた時は気持ちが動いたんですけど、やはり飛行機に乗るのは無理でした。別に飛行機を憎んでいるわけではないんですけどね。でも、娘も高校の修学旅行以降は、一度も飛行機に乗っていません」。27年の歳月が過ぎても、吉崎さん母子の心の傷は決して癒えることはないのだ---。


【日航機123便キャンセル有名人考】
 「日航機の御巣鷹山墜落事故 搭乗回避した人物が語る当時の様子」その他参照。
 シャープ元副社長兼東京支社長/佐々木正

 佐々木氏は自宅のある大阪に帰るため当便を予約していたが、前日、佐々木に「明日、会えないか」と連絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長である。急きょ仕事が入り予約を変更した。「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しようとしたりして関係が深かった。年末に社長が来日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変更してもらったんです」。日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニのレストランで会食しているときだった。ちょうど同じ頃、大阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつものように、伊丹空港まで迎えに来ていた。そこにもたらされたのが事故の一報。「家内は、かなり遅くまで待っていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめたらしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていることを誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」。淨子夫人は空港で待つ間、“あの日”を思い出していたかもしれない。実は佐々木は以前にも、航空機事故を奇跡的に逃れた経験を持っているからだ。それは昭和49年、佐々木がシャープの専務時代にさかのぼる。マレーシアに設立された生産会社の竣工式に出席した翌日のことだった。空港に行き、次の目的地であるクアラルンプール行きの飛行機を待っていると、前日竣工式で祝辞を述べてくれたマレーシアの農林大臣と出くわした。「私の乗る便は途中クアラルンプールに寄る。早く着くから一緒に行かないか」と誘われた。心は動いたが、早く到着しても誰も迎えに来ていないと思い、佐々木は断った。その後、農林相を乗せた飛行機は墜落し、彼は命を落とした。「生かされた命ですから、人の役に立つ製品をつくらなければと思って、これまでやってきました」。電卓、真空管、半導体、液晶、太陽電池と、シャープ躍進の鍵を握る技術に佐々木は関わってきた。そしていまは老化の原因である細胞の「酸化」を食い止める「還元」技術を勉強中。技術確立のために、「自分を実験台として使ってほしい」とまで熱く語る。「『知恩報恩』という言葉が好きでね。これまで生かしてくれたご恩に報いたいと思っています」。
 フジテレビアナの逸見政孝

 逸見氏は、妻の母親の助言で一家で新幹線に変更して難を逃れた。逸見氏は、その年、不惑を迎えていた。彼はあの日、妻と息子、娘の4人で、実家のある大阪へ飛行機で帰省するつもりだった。逸見が希望したのは、なぜか123便だった。だがその便を予約しようとすると、満席を告げられた。おそらくその後だろう、妻・晴恵が近所に住む実母に帰省の件を話すと、こんな懸念を口にした。「4人で飛行機に乗って、もし事故でも起きたらどうするんだい」晴恵にとってその一言は重みがあったようだ。逸見の長男でタレントの太郎(当時小学6年生)によると、「祖母は霊感があるというか、不思議な存在だった」という。祖母は、世田谷区奥沢でよろず屋を営んでいた。店は十字路のすぐ脇にあったのだが、そこには太郎が知っているだけで3回、車が突っ込んでいる。「そのたびに店はメチャクチャになるんです。でも、いつもは店番をしている祖母がそのときに限って、近所で世間話をしていて助かっている。そういう祖母の言葉だから、母も新幹線にしようと考えたのでしょう」。父親は怖い人だったと太郎は言う。「テレビの印象からは想像できないかもしれませんが、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹。君臨するタイプなんです。自分が決めたことに不用意に口出しすると怒り出す。帰省の件でも、もし母が“お母さんが言っていたから”などと伝えていたら、“お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人飛行機で帰る”と言いだしたことでしょう」事実、晴恵はこう説得している。「4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから」。それが功を奏し、一家は新幹線で帰省した。日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからだった。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていた。「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか」(太郎)逸見は3年後の昭和63年にフリーとなりお茶の間の人気者に。しかし平成5年1月、がん告知を受け、1年足らずでこの世を去る。 太郎は取材の最後、興味深いことを明かした。「父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね」。今となっては確かめようがないが、逸見があの日123便を希望したのも同じ理由だったのかもしれない。(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)
 明石家さんま

 さんま
は、1985年8月12日、大阪でMBSラジオ『ヤングタウン』レギュラー出演のため伊丹行きの日航機に搭乗予定だったが、直前の仕事である「ひょうきん族」の収録が早めに終わり、一便早い全日空の便に振り替えたため、日本航空123便墜落事故を逃れた。さんまは「ヤングタウン」では言葉を失うほどのショックを受け、内容をこの事故の報道特番に切り替える旨のみを話した。さんまの座右の銘「生きてるだけで丸儲け」。
明石家さんまは幼いころに実母を亡くし、再婚した父と継母との間に生まれた年の離れた弟も火事で亡くしている。
 稲川淳二

 稲川氏
は、東京で健康番組「稲川淳二のためになる話」収録後、日本航空123便に乗るはずが当日体調が凄く悪くて乗らなかった。番組を手伝っていた友人の美容研究家は乗り帰らぬ人となった。

 ITジャーナリストの神田敏晶(53)

 羽田空港で墜落したJAL123便の空席待ちの列に並んでいた神田氏は、当時ワイン・マーケティング会社の社員だった。「社会人になって初めてのボーナスをもらったので、少し奮発して飛行機で帰省しようと思ったんです」。当時の新幹線は東京-新大阪間が1万2100円(自由席)なのに対し、飛行機は羽田-伊丹間1万5600円と3500円割高だった。しかし思い立ったはいいがチケットさえ取っておらず、空港についた当日16時前後はJAL17時発、ANA18時発、JAL18時発(123便)はすべて満席だった。学生時代はバックパックで世界中を旅していたので、3便もキャンセルを待てば乗れると高をくくっていた。しかし空席待ち整理番号7番をもっていた神田を「死神」は見逃し、123便は飛び立った。「ついてないなあと思いましたね。計画性のない自分を呪うというか」。そう語る神田だが、まさにその計画性のなさこそが神田を救った。結局新幹線で帰省した神田は翌日昼、テレビを見てはじめて事故に気付く。「ショックで、ずっとテレビをみていました。母が“よかったなあ”と言っていたのを覚えています」。

 釣りライターの大西満(75)

 大西氏は、前橋市の利根川で行われていた釣りの講習会のあと、お客さんの釣り竿の修理に時間をとられ、予定より30分遅く空港に到着した。妻には18時頃の便で帰ると伝えていたため、空席待ちの列に並ぶことにした。大西は自分の前でチエックインが締めきられた瞬間のことを今でも鮮明に覚えている、と語る。「僕のすぐ前の人で、ぎりぎりで乗れなかった男性と顔を見合わせて苦笑いをしたんです。“残念やなあ”と言い合って。50代の丸顔の人だったと思います」。もし釣り竿の修理をしていなかったら、大西は乗ってしまっていたのかもしれない。大西もまた「助けられた命なんですよ」と語る。

 医師の脇山博之(56)

 村尾晞峰
 
123便に乗るはずだった書道家、鎮魂の初個展 大阪で」。
 乗員乗客520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から12日で30年となる。あの日、事故機に乗るはずだった書道家が鎮魂の思いを込めた個展が11日、大阪市内で始まった。搭乗便の変更と、節目の年にたまたまできたギャラリーの空き。これまで生きていることへの後ろめたさから事故について表現することにためらいがあったが、2つのキャンセルを縁に、哀悼の意をあらためて書で表した。昭和60年8月12日。大阪府箕面市の村尾晞峰(きほう)(本名・清一)さん(75)は東京で開かれた書道展の表彰式の帰り、墜落した123便を予約していた。しかし、予定より早く羽田空港に着いたため、キャンセルが出たひとつ前の121便に乗り換えた。搭乗しようとしたとき、ゲートで会った4人家族のことが今も忘れられない。なかに水槽を持った子供がいた。このままでは機内持ち込みができないと検査員に止められ、家族は村尾さんと入れ替わるように次の便に乗ることになった。のちに、犠牲者に4人家族がいたことを知った。一昨年の春、書道展でよく利用するホテルのギャラリーの係員から、今年のお盆前後の催しにキャンセルが出たと聞いた。事故から節目の30年。人生初の個展を開こうと申し込んだ。以来、書で作品に記す言葉を選び、さらには絵も学んで自分で紙をすいたりもして、36点をつくりあげた。そのなかには事故で亡くなった坂本九さんが歌った「見上げてごらん夜の星を」の歌詞もある。本当は今も、個展を開くことがこわいのだという。毎年のように墜落現場の御巣鷹の尾根へ慰霊登山に行くが、遺族とすれちがっても言葉を交わすことができない。偶然生きながらえた自分の立場を言い出しにくく、接点を持てなかった。 「後ろめたい気持ちがあるんです。こんなことをしていいのだろうか、と。でも30年の節目で、心を新たにしたいと思い切りました」。「感謝と鎮魂 村尾晞峰書作展」は16日まで、大阪市北区中之島のリーガロイヤルホテル1階のリーガロイヤルギャラリーで開かれる。入場無料。




(私論.私見)