泣きながら写真を撮った |
松本 |
私はふもとから6時間ほどかけて登っていったのですが、道なき道を登りきったところに紙くずや衣類、ぬいぐるみなどが所狭しと散らばっていました。まさかそこが墜落現場とは思わずに、一瞬、「なんて汚い山なんだ」と勘違いしたほどです。でも、上を見ると、いきなり視界が開けた。
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藤原 |
ジャンボ機が滑り落ちたところですね。御巣鷹の尾根に衝突したジャンボ機は斜面を滑り落ちて行き、そこにあった樹木すべてをなぎ倒しましたから。 |
松本 |
ええ。そこだけぽっかりと空間が広がり、きれいな空が見えました。 |
藤原 |
機体は壊れながら谷底まで落ちて止まりました。そこがゴミの山のようになっていたのです。 |
松本 |
現場ではどこにカメラを向けても遺体が写ってしまうような状況だったので、最初は生存者がいるなんて思いませんでした。ところが、担架にのせられた比較的きれいな状態の女性に望遠レンズで照準を合わせると、指がピクリと動いたのです。驚いて消防団の団員に伝えると、「生きています」と。4人の生存者の一人、吉崎博子さんでした。ファインダー越しに動いた指は今もこの目に焼き付いています。 |
藤原 |
上空から見たときも、直感的に生存者がいるとは思えませんでした。生存者は機体の一番後ろのほうの座席に乗っていたのが幸いしたんです。樹木がクッションのような役割を果たしてショックを吸収しながら機体は頭から落ちていったので、一番後ろが最も衝撃が少なかったわけです。 |
米田 |
ボイスレコーダーはどこで見つかったのですか? |
藤原 |
ボイスレコーダーも生存者が発見された付近で、遺体を収容した後に見つかりました。ボイスレコーダーは最後部のトイレの天井裏にあるんです。実は生存者がいないことを確認したら、国際機関の事故調査マニュアルでは現場を保存するために遺体を動かしてはいけないんです。後日、米国の調査団から文句を言われましたが、私どもは「日本はブッダの国だ。遺体を放り出したまま仕事をするなんてことはできない」と反論しました。 |
松本 |
私は現場に辿り着いた当初は後頭部を殴られたような思いで頭が真っ白になってしまいましたが、すぐに夢中になってシャッターを切りました。吉崎さんは痛さに呻き声をあげ、落合由美さんは血だらけで声も出せない様子で目の前を通りすぎて行きました。カメラマンは興奮して、みんな泣きながら写真を撮っている。私も知らぬ間にボロボロと涙を流していました。ああいう感情になったのは初めてです。
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米田 |
松本さんが登った翌日14日に、御巣鷹の尾根に登りましたが、現場は足の踏み場がなかった。 |
松本 |
そうですね、どうしても残骸の上から足元の遺体を踏んでしまう。まるで布団の上を歩いているような、ふわふわとした感じでしたが、あの靴底の不気味な感触は絶対に忘れられません。 |
米田 |
上を見ると、内臓や皮膚が木の枝にまとわりついてひらひらとぶら下がっている。周囲の樹木全体がそうなんです。炭化した遺体の足や手も地面のあちこちから出ていて、私は遺体に目の焦点を合わせないように歩いていました。 |
松本 |
まさに地獄絵です。 |
米田 |
救出された川上慶子さんは短パンをはいていたので、最初は男の子に間違われたそうですね。 |
松本 |
ええ。川上さんは比較的意識がはっきりしていて、担架にのせられて運ばれていくときに、シャッターを切るのも忘れて「がんばれ、がんばれ」と声をかけると、「うん」と答えてくれました。 |
米田 |
救助された4人はヘリコプターで上野村にあった対策本部に運ばれてきました。当初「生存者は8人」という情報が流れましたが、実際に運ばれてきたのは4人。水玉のブラウスを着ていた落合さんは青い顔に血痕が付着し、痛々しかった。 |
松本 |
私が現場にいたのは、1~2時間程度だったと思います。現場上空を飛んでいた朝日新聞のヘリコプターに無線で連絡。ロープで降りてきてもらって撮影したフィルムを手渡しました。 |
米田 |
ヘリでの救出シーンはフジテレビが生中継しましたが、新聞で夕刊に間に合ったのは朝日新聞だけでしたね。 |
松本 |
私はたまたま運が良かった。その後、別のヘリコプターに乗り、朝日新聞本社の屋上に降りたんです。すぐに局長室に連れていかれ、「見たこと、感じたことを全部しゃべれ」と。社会部の記者が、私の話をまとめて記事にしました。 |