目撃者&記者証言

 更新日/2017(平成29).8.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2010.08.16日 れんだいこ拝


 2016.8.14、週刊現代2016年8月20日・27日合併号「1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの」。
  お盆入り前日、観光客、帰省客で満席だったジャンボ機は、離陸から44分後に墜落する。乗員乗客524名のうち生存者は4人。この悲劇を風化させてはならない。事故直後に現場に駆けつけた3人の証言。

米田憲司  よねだ・けんじ/1944年生まれ。フリージャーナリスト。航空、鉄道、軍事、環境問題等の分野を取材。著書に『御巣鷹の謎を追う 日航123便墜落事故』など
松本逸也  まつもと・いつや/1946年生まれ。'69年朝日新聞入社。カメラマンとして墜落現場を取材。東京写真部編集委員、名古屋写真部長を経て、目白大学社会学部教授
藤原洋  ふじわら・ひろし/1928年生まれ。元運輸省航空事故調査委員会首席調査官。日航機事故では現場調査の責任者を務める。NPO法人航空・鉄道安全推進機構顧問

 現場はどこだ!?
米田憲司  昭和60年8月12日、羽田発大阪行きの日航123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落。乗客、乗員併せて520名もの犠牲者を出し、4名が重傷を負いました。犠牲者には歌手の坂本九さんもいました。単独機の航空機事故としては史上最悪で、早いものであれから32年目の夏を迎えます。
松本逸也  私はアラブなどで戦場も取材しましたが、あれほど凄惨な現場はほかにはありませんでした。
藤原洋  私も大型機の事故調査は何度か経験していますが、キャリアの中で一番悲惨な事故です。
松本  第一報は19時10分頃、時事通信の緊急ファックスでした。「東京発大阪行の日航123便がレーダーから消えた」と。私は車にカメラ機材などを積み込み、とりあえず朝日新聞本社から西に向かって車を走らせました。
藤原  私に連絡があったのはNHKの19時のニュースが始まったとき。自宅でこれから夕食をとろうかというときに勤務先の運輸省から電話があり、霞が関に向かいました。
松本  夜間の山奥ということで、なかなか墜落現場がわからなかった。しばらくして本社から連絡があり、「横田基地から半径70~80km内」と、謎解きみたいなことを言うんです。いったん本社に戻り、それから現場探しの大迷走が始まりました。
藤原  自衛隊は、墜落当日の夜に現場を確認しています。ところが、自衛隊から上がってきた墜落現場の情報は3地点、しかも位置にかなりばらつきがありました。
米田  防衛庁(当時)の公式発表は御座山北斜面、御座山南斜面、扇平山の北側、御座山の東5kmと、次々に変わりました。
松本  現場周辺の山は大混乱でした。報道陣の車が殺到し、山の上の一本道で鉢合わせすると、お互いに「どこに行くつもりだ!」、「現場だ!」と怒鳴り合っている。結局、そこが現場ではないことがわかると、みんなで山を下りました。
藤原  翌日朝、自衛隊によって現場が確定されると、私は埼玉県の入間基地からヘリコプターに乗り、現場に直行しました。空から墜落現場を見てまず驚いたのは、あの大きな飛行機がまったく原形をとどめていなかったことです。翼が一枚だけ見えましたが、あとはただ残骸の山。「本当にここにジャンボ機が落ちたのか」と思いましたね。
米田  まるで東京湾の「夢の島」のようでした。
 泣きながら写真を撮った
松本  私はふもとから6時間ほどかけて登っていったのですが、道なき道を登りきったところに紙くずや衣類、ぬいぐるみなどが所狭しと散らばっていました。まさかそこが墜落現場とは思わずに、一瞬、「なんて汚い山なんだ」と勘違いしたほどです。でも、上を見ると、いきなり視界が開けた。
藤原  ジャンボ機が滑り落ちたところですね。御巣鷹の尾根に衝突したジャンボ機は斜面を滑り落ちて行き、そこにあった樹木すべてをなぎ倒しましたから。
松本  ええ。そこだけぽっかりと空間が広がり、きれいな空が見えました。
藤原  機体は壊れながら谷底まで落ちて止まりました。そこがゴミの山のようになっていたのです。
松本   現場ではどこにカメラを向けても遺体が写ってしまうような状況だったので、最初は生存者がいるなんて思いませんでした。ところが、担架にのせられた比較的きれいな状態の女性に望遠レンズで照準を合わせると、指がピクリと動いたのです。驚いて消防団の団員に伝えると、「生きています」と。4人の生存者の一人、吉崎博子さんでした。ファインダー越しに動いた指は今もこの目に焼き付いています。
藤原  上空から見たときも、直感的に生存者がいるとは思えませんでした。生存者は機体の一番後ろのほうの座席に乗っていたのが幸いしたんです。樹木がクッションのような役割を果たしてショックを吸収しながら機体は頭から落ちていったので、一番後ろが最も衝撃が少なかったわけです。
米田  ボイスレコーダーはどこで見つかったのですか?
藤原  ボイスレコーダーも生存者が発見された付近で、遺体を収容した後に見つかりました。ボイスレコーダーは最後部のトイレの天井裏にあるんです。実は生存者がいないことを確認したら、国際機関の事故調査マニュアルでは現場を保存するために遺体を動かしてはいけないんです。後日、米国の調査団から文句を言われましたが、私どもは「日本はブッダの国だ。遺体を放り出したまま仕事をするなんてことはできない」と反論しました。
松本  私は現場に辿り着いた当初は後頭部を殴られたような思いで頭が真っ白になってしまいましたが、すぐに夢中になってシャッターを切りました。吉崎さんは痛さに呻き声をあげ、落合由美さんは血だらけで声も出せない様子で目の前を通りすぎて行きました。カメラマンは興奮して、みんな泣きながら写真を撮っている。私も知らぬ間にボロボロと涙を流していました。ああいう感情になったのは初めてです。
米田   松本さんが登った翌日14日に、御巣鷹の尾根に登りましたが、現場は足の踏み場がなかった。
松本  そうですね、どうしても残骸の上から足元の遺体を踏んでしまう。まるで布団の上を歩いているような、ふわふわとした感じでしたが、あの靴底の不気味な感触は絶対に忘れられません。
米田  上を見ると、内臓や皮膚が木の枝にまとわりついてひらひらとぶら下がっている。周囲の樹木全体がそうなんです。炭化した遺体の足や手も地面のあちこちから出ていて、私は遺体に目の焦点を合わせないように歩いていました。
松本  まさに地獄絵です。
米田  救出された川上慶子さんは短パンをはいていたので、最初は男の子に間違われたそうですね。
松本  ええ。川上さんは比較的意識がはっきりしていて、担架にのせられて運ばれていくときに、シャッターを切るのも忘れて「がんばれ、がんばれ」と声をかけると、「うん」と答えてくれました。
米田  救助された4人はヘリコプターで上野村にあった対策本部に運ばれてきました。当初「生存者は8人」という情報が流れましたが、実際に運ばれてきたのは4人。水玉のブラウスを着ていた落合さんは青い顔に血痕が付着し、痛々しかった。
松本  私が現場にいたのは、1~2時間程度だったと思います。現場上空を飛んでいた朝日新聞のヘリコプターに無線で連絡。ロープで降りてきてもらって撮影したフィルムを手渡しました。
米田  ヘリでの救出シーンはフジテレビが生中継しましたが、新聞で夕刊に間に合ったのは朝日新聞だけでしたね。
松本  私はたまたま運が良かった。その後、別のヘリコプターに乗り、朝日新聞本社の屋上に降りたんです。すぐに局長室に連れていかれ、「見たこと、感じたことを全部しゃべれ」と。社会部の記者が、私の話をまとめて記事にしました。
 219字の遺書
米田  あれだけの報道陣が集まりながら、現場までたどり着けたのはほんの一握りでした。
藤原  山で迷子になった人は無数にいました。私たちも13日に現場に入る予定でしたが、視察に訪れた運輸大臣の対応に時間をとられ、翌14日の朝一番で現場に向かいました。消防団に案内を頼んだのですが、調査団10数名に加え、日航関係者が40~50人連なって登っていくと、「これに付いていけば大丈夫だろう」と報道陣が集まってきたのです。事故現場に着いたときの人数は出発した際の倍以上になっていました。
米田  現場に近づくと、機械油の臭いや焦げくさい臭いがしてくるんです。
藤原  現場に着くと遺体の臭いが酷かったですね。
米田  事故から2~3日後、山を降りたところにある取材拠点でハエや蚊を見なくなったんです。地元の人に聞くと、「臭いを求めて山に上がった」と。私は東京に戻っても、腐臭を感じました。実際はそんな臭いはしないのですが、鼻孔にこびりついていたのかもしれません。気にならなくなるまで1ヵ月かかりました。
松本  遺体は藤岡市の市民体育館に収容されました。棺に納められた遺体をご家族が確認し、静かに戻ってくる。毎日、その繰り返しでしたね。
米田  体育館の中は線香の匂いで充満していました。最初は完全遺体の方が多かったのですが、だんだん部分遺体が増えていきました。部分遺体は山の上で何日も経っているので、虫がたくさん湧いている。見たこともない大きなウジ虫です。関係者の方が体育館の裏で洗い流していました。
藤原  私は2ヵ月間現地にいて、雨の日以外はほぼ毎日現場に通いました。事故の原因を調査するためです。感傷に浸っていては仕事にならないので、あえて感情を押し殺して山に登り続けました。
米田  事故報告書では、後部圧力隔壁の修理部分に亀裂が生じ、それが引き金になって隔壁に穴が開き、機内の与圧された空気が一気に流れる「急減圧」が発生。それにより垂直尾翼が破壊されて操縦不能となり、墜落したとされました。
藤原  調査初日に胴体の中にしかない断熱材が尾翼の中にたくさん入っているのを見つけました。圧力隔壁が破れないと、断熱材は尾翼には入りません。隔壁が破れたことが事故の引き金になったということを、その時点で確信しました。
米田  いろいろな説が出ました。なかにはミサイル撃墜説なんてトンデモないものもありましたね。
藤原  海上自衛隊が新しいミサイルを試射したところ、それが123便に命中してしまったため、証拠隠滅のために撃墜を命じたが、2発目は外れてしまったという説です。デタラメもいいところですが、これを一笑に付すわけにもいきません。当時出たさまざまな説に対しての反証を報告書に盛り込んだつもりです。
松本  残骸から会社員の方が機内で家族へ書いた遺書も見つかりました。「マリコ、津慶、知代子」と始まり、「どうか仲良くがんばってママをたすけて下さい」、「本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」と結ぶ、219字の遺書は予期せぬ死を前に家族への深い愛情に満ち溢れています。
米田  いまはJALの安全啓発センターで保管されていますね。事故に関係するものは、可能なかぎり置いてあります。
松本  私はこの遺書を読んだとき、現場の凄絶さを目の当たりにしたときと同じように、ショックを受けました。事故の存在すら知らない若者たちにも伝えたいと思って、いまも大学のゼミで毎年、取り上げています。
米田  事故から30年の昨年、私は現地を訪れました。当時、取材に協力していただいた方が別れ際に言った、「御巣鷹を520人の命を奪った『恨みの山』だというが、わしら村の人間にとっては4人も助かった『奇跡の山』だと思っている」という言葉が忘れられません。
藤原  私も去年、御巣鷹に登りました。いまは登山道が整備され、かつて3時間ほどかかった墜落現場まで1時間かからずに行けます。何度登っても厳粛な気持ちになりますね。事故で削られた山肌に植えられたカラマツの苗木がいまは樹齢30年を超えて、うっそうと茂っています。'85年以降、日本のエアラインは職員も含めて一人も犠牲者を出していません。ゼロというのは奇跡的です。この事故の教訓が生かされていると私は信じています。






(私論.私見)