事件の真相考その9、その後の経緯

 更新日/2017(平成29).8.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「事件の真相考その9、その後の経緯検証」をものしておく。

 2008.10.25日 れんだいこ拝


【1985.8.12/事故発生】
 日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した航空事故である。

 運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2015年8月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である。


【1985/事故時の日航社長、役員の対応】
 高木養根(たかぎやすもと)社長、常務。

 高木社長は個人の資格で遺族への慰問行脚をしたほか、毎夏、御巣鷹の尾根への慰問登山を続けた。また私財を投じて御巣鷹の慰霊施設の充実に努め、亡くなる直前まで慰霊登山を欠かさなかった。


【1985/「事故調」が調査開始】
 8.14日、事故発生の2日後、運輸省航空事故調査委員会(以下「事故調」と記す)が事故現場に入り調査を開始した。これに際し、アメリカ国家運輸安全委員会の事故調査官らも顧問として迎え入れられている。

【1985/中曽根首相が靖国神社を首相として公式参拝】
 8.15日、日航123便の8.12日大惨事の3日後にも拘わらず、中曽根首相が靖国神社を首相として公式参拝している。

【1985/事故調が、圧力隔壁破壊説に繋がる空気噴出説を打ち出し始める】
 8.16日、日航123便の8.12日大惨事の4日後、事故調が、圧力隔壁破壊説に繋がる空気噴出説を打ち出し始めている。

【1985/プラザ合意】
 9.21日、事件より40日後、プラザ合意により1ドルが250円に決まった。これより円高誘導がきまりバブルへと突入する。

 アメリカの時の大統領、ドナルド・レーガン大統領とお互いをロン、ヤスとミドルネームで呼び合う親密な関係を築いた。内政においては新自由主義的な経済政策を採用し、日本専売公社(現JT)、日本国有鉄道(現JR)、日本電信電話公社(現NTT)の3公社を民営化した。さらに半官半民であった日本航空の民営化も推進している。

【1985/日比谷公会堂で日航機事故犠牲者追悼慰霊祭挙行】
 10.24日、日比谷公会堂で、日航機事故犠牲者追悼慰霊祭が挙行される。中曽根首相、山下運輸相が出席し弔辞を述べた。

【1985/中曽根首相が自衛隊のヘリで墜落現場に行く】
 11.4日(月)、事故から約3か月を経たこの日、中曽根首相が、山下徳夫運輸大臣や自衛隊関係者同行で、自衛隊のヘリで墜落現場に行った。河村一男群馬県警本部長からの状況の説明を受けて墜落現場に手を合わせ、献花した。この時、マスコミや世論の批判に対して、「私もすぐ伺いたいと思ったが、群馬県警から猫の手も借りたいほど忙しいので延ばしてほしいと言われ、慰霊祭、日航人事刷新も終わり、ひと段落した時期に改めて伺った」という理由で行けなかったと語った。その後、上野村役場で、元海軍少佐でゼロ式戦闘機搭乗員かつ教官履歴を持つ黒澤丈夫村長と対面している。

【1985/遺族が遺族会「8.12連絡会」を結成】
 12.7日、本事故の犠牲者の遺族が、蒲田生活センターで、遺族会「8.12連絡会」を結成した。「8・12連絡会、発足アピール文 」は次の通り。
8・12連絡会、発足アピール文

 8月12日の日航機事故から4ケ月がすぎた今、私達遺族は手を取合って立上がることを決意いたしました。私達が手を取合うことができるのは、私達の最愛の人達が、あの死の前の無念と苦痛の時間をーつの空間で共有したという事実と、残された者同士が、その悲しみ、怒り、悔しさを共感できるという認識があるからです。その強い絆で支え合いながら、私達は、この事故の示唆するところを世に広く問いかけていきたいと考えています。 

 この連絡会の目的は、遺族相互で励まし合い、助け合い、一緒に霊を慰めていくことです。また、事故原因の究明を促進させ、今後の公共輸送機関の安全性を厳しく追究していくことです。私たちは、あの忌まわしい出来事が繰返されないために、世界の空が安全になることを心より願って行動を起こしました。私たちは、独白の主体性を守り、他のいかなる政治、宗教、組合等の団体に属することはしません。また、利益を追求することや、会として補償交渉の窓ロとなることはしません。

 一家の大黒柱を失い暮らしがなりたたない人、乳呑み児を抱えて日々の生活に追われている人、家族全員を失い一人ぼっちになってしまったお年寄りなど、様々な状況の中で、不安な日々を送っている人達がいます。私たちは、この事故でそういう社会的に弱い立場におかれてしまった人達とこそ、心を結び、助け合っていきたいと願っています。また、事故調査委員会の原因究明を厳しく監視し、事故原因が曖昧にされてしまうことがないよう見守りながら、日航とポーイング社の責任を問うていきます。さらに、運輸省、関係当局ならびに日航、ボーイング社を含む公共輸送事業者に対しても、事故再発の防止のため、抜本的な安全対策を要求していきます。そのことによって、あの事故でこの世を去った人達の霊を、本当に慰めることができると信じます。

 私たちは、「遺族」と呼ばれ、悲しみに打ちひしがれた姿を期待され、下を向きながら生きていくことに終止符を打つために、あえて会の名から「遺族」の文字を削りました。今は「遺族」を憐れんでいる誰もが、第二、第三の「遺族」となる可能性をもっているのです。私たちは、蟷螂(とうろう)の斧と言われようとも、多くの方々と、共に考え、行動することを宣言し、広く皆さんに呼びかけます。
                 1985年12月20日 群馬教育会館 8・12連絡会

 「8・12連絡会」が結成され、280家族が入会され、25年後の現在、140家族が会員です。

 12.20日、第1回総会(群馬教育会館)。12.21日、供養祭後集会。

 この会は事故原因の究明や航空安全の推進について、JALやボーイング社などの事故関係者や社会全般に訴えることを目的の一つとしており、会の内部に技術部会を置いて航空安全に関する独自の研究活動を行った。この技術部会は後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や、墜落時の衝撃を和らげる座席の開発提言などの活動を続け、2009年3月には、国際的な航空安全に貢献したとして全米航空惨事被災者同盟 (NADA) の最高賞「航空安全賞」を受賞した。

 「マル激トーク・オン・ディマンド 第486回」の「美谷島邦子氏(8・12連絡会事務局長)/日航ジャンボ機事故はまだ終わらない」は次の通り。
 25年前の1985年8月12日、羽田空港を飛び立った満席の大阪伊丹空港行き日本航空123便ボーイング747は、離陸から12分後に後部左側ドアの異常を知らせる警告灯が点灯。直ちに操縦不能な状態に陥ると、そのまま32分間迷走を繰り返した後、群馬県上野村の高天原山の尾根に激突して炎上した(この場所は後に御巣鷹の尾根と命名された)。この事故で乗客乗員524名のうち、520名が死亡した。単独飛行機事故としてはいまだに史上最悪の惨事だった。その520名の中に、日航機事故の被災者家族の会「8・12連絡会」を事務局長として25年間引っ張ってきた美谷島邦子氏の二男で小学校3年生の美谷島健君(当時9才)もいた。健君は、夏休みの水泳教室で25メートルを泳げたことのご褒美として、仲良しの従兄弟たちが住む大阪に向け、生まれて初めての一人旅に旅立ったばかりだった。

 この事故の原因については、運輸省(現国土交通省)に事故調査委員会が設けられ、墜落の7年前の伊丹空港での尻もち事故の際に破損した圧力隔壁の修理に不備があり、それが金属疲労によって悪化したために、飛行中に破裂を起こしたことが、事故の直接の原因だったと結論づける報告書がとりまとめられた。しかし、美谷島氏を始めとする多くの遺族たちは、事故から四半世紀が過ぎた今もまだ、事故原因については納得ができていないという。それは、日本では飛行機事故に限らず、公共の交通機関などで大きな事故が発生した際に、原因の究明を最優先させる法的な制度が整備されていないため、事故調が発表した事故原因には数々の疑問点が残っているからだ。事故調の調査結果では、圧力隔壁の破損によって後部垂直尾翼の上半分と油圧系統が破損し、操縦が不能になり墜落に至ったと結論づけられている。あくまで修理ミスに第一義的な原因があったという立場だ。しかし、その後ボーイング社は同型機の油圧系統に安全弁をつけるなどの改善を行っている。4つある油圧系統が圧力隔壁の直下で1本化されていることが、機が全くの操縦不能に陥ったことの直接の原因だったとすれば、少なくとも当時のボーイング747には構造上の欠陥があったということになる。多くの遺族たちが事故調の調査結果に納得できず事故原因の再調査を望んでいるのも、そのような疑問点がまだ残ったままになっているからだ。

 また、事故原因を明らかにする上では、制度面でも遺族にとって納得のいかない理由があった。国交省の事故調は法的な強制力を持っていないため、あくまで事故の当事者たちの協力を得られない限り、調査ができない。しかし、その一方で、日本で強制力を持つ事故調査を行うためには、事故の責任者を刑事告訴することで、警察や検察による強制捜査に頼るしかない。日本にはアメリカのような、事故の当事者に刑事免責を与えた上で、原因究明に全面的に協力させる司法取引の制度が存在しない。そのため、仮に当事者が事故調には協力をしたいと考えていても、いつ自分が刑事告訴を受けるかもしれない立場にある以上、刑事裁判で自らを不利な立場に置く可能性のある情報を自ら積極的に出すことは難しい。
 特に、日航123便の事故の場合、航空機を製造したメーカーがアメリカのボーイング社で、尻もち事故の修理を行ったのもボーイング社の技術者だった。そのため、被害者たちが刑事告訴をする場合、ボーイング社の修理担当者もその対象に含める必要があり、そのためにはボーイング社の協力が不可欠だった。しかし、航空機事故で個人が刑事訴追されることなどあり得ないと考えているアメリカの航空機メーカーが、自社の社員を刑事訴追に追い込むような捜査に協力するはずもなく、結果的にこの事故の原因究明の努力は二国間の司法制度の壁にも阻まれることとなった。

 不起訴処分が決まった後、前橋地検の山口悠介検事正は原告の遺族たちに、異例の説明会を開催しているが、その場で山口氏は「検察は航空機の専門家ではないから、本当の事故原因はわからない」、修理ミスを犯したボーイング社職員を嘱託尋問しなかった理由については、「事故原因をぎりぎりまで追及すれば戦争になる」など、驚くような発言を連発している。要するに、現在の司法制度のもとでは、航空機の専門家の集まりである事故調の調査には強制力がなく、強制力のある調査が行える警察や検察には航空機の専門的知識はないために、真の事故原因を究明が困難であること、この事故はボーイング社というアメリカの基幹的な防衛企業が関わる問題であるため、日本政府の力ではこれ以上の原因究明が不可能なことを、捜査にあたった検事自らが、認めているのだ。

 8・12連絡会を立ち上げ、25年間その世話役を務めてきた美谷島邦子氏は、航空機を含む乗り物事故の原因究明のあり方については、いまだに25年前の課題が改善されていないことを残念がる。その後の25年間に数々の乗り物事故が発生しているが、そのたびに本当の意味で被害者や遺族が納得できる原因究明が必ずしも行われていない理由は、25年前に日航機事故の原因究明を阻んだものと同じ理由なのだ。

 しかし、その一方で、美谷島氏は自分たちが25年間地道に行ってきた活動が、いろいろいなところで実を結んでいると感じているとも言う。例えば、この事故の刑事告訴はアメリカから捜査協力を得られないことを主な理由に不起訴処分となったが、その後検察審査会が不起訴不当の議決を行ったため、前橋地方検察局は再度捜査を行った上で、あらためて不起訴処分としている。当時の検察審査会には強制的に起訴をする権限はなかったために、結局この事故は刑事事件とはならず、美谷島氏ら遺族らが強く求めてきた相模湾に落下した垂直尾翼上部の引き上げなどは行われなかった。しかし、今年から法が改正され、検察審査会の議決のみで強制起訴が可能になった。今、日航機事故が検察審査会にかけられていたら、結果は違っていたかもしれない。

 「誰かを刑務所に入れたいと思ったことはない」と美谷島氏は言うが、と同時に、「真の事故原因の究明と再発の防止こそが遺族の共通した願い」であるとも言う。日本が事故調査制度のあり方を根本的に改革しない限り、本当の事故原因を突き止めるために日本では刑事裁判に訴えることが唯一の方法であるとの遺族の思いは強い。不幸にも事故が起きてしまった以上、もう元には戻らない。しかし、残されたわれわれにできることは、持てる力の全てを使って事故の原因を突き止め、同じような原因で同じような悲しい思いをしなければならない人を一人でも作らないようにすることのはずだ。しかし、美谷島氏が指摘するように、25年前の事故がわれわれに残した課題を、いまだにわれわれは解決できていない。日航機事故から25年目となる8月12日を迎えるにあたり、この事故が残した多くの課題に取り組んできた美谷島氏とともに、この事故を風化させないためにわれわれにできることが何かを考えた。
 美谷島 邦子(みやじま くにこ)(8・12連絡会事務局長)

 1947年生まれ。精神保健福祉士、栄養士。85年の日航ジャンボ機墜落事故で次男を亡くす。同年、同事故の遺族らと「8・12連絡会」を設立し事務局長に就任。著書に『御巣鷹山と生きる』、『いつまでも いっしょだよ』など。

【1986/8・12連絡会が日航と会談】
 1986年、8・12連絡会が、1.15日、2.8日、3.1日、6.4日、6.15日、7.6日、日航と会談。

【1986/「御巣鷹の尾根」に慰霊碑「昇魂之碑」建立】
 1986.8.12日、事故の翌年、墜落現場である「御巣鷹の尾根」には慰霊碑「昇魂之碑」が建立された。以降、毎年、8.11日の夕刻に上野村の神流川で灯篭流しが、8.12日には慰霊登山が行われている。

 「御巣鷹の尾根」は、公益財団法人「慰霊の園」が地元・上野村の人々を雇用する作業委託で整備が進められたが、群馬県警察の遺体発見場所地図を元に建てられた、多数の墓標・みかえり峠の碑・せせらぎを渡る橋・手すりなど、地元の人々・警察など当時の関係者・JAL職員や退職者などが、ボランティアの手作業で維持管理しているものも多数ある。


【1986/東京地検へ第5回告訴】
 1986.8.12日、事故の翌年、東京地検へ第5回告訴 総計 697人(告訴) 33,441人(告発)告発状には瀬戸内寂聴さんも名を連ねる。

【1986/タイ航空機事故】
 1986.10.26日、タイ航空機事故。タイ航空機は高知上空で機体後部の圧力隔壁が損壊し大阪空港に緊急着陸した。その時、機内で何が起きたか。ドーンという爆発音とともに、機内与圧が急激に低下。白い水蒸気のような気体が充満し、乗員、乗客が一瞬で航空性中耳炎になった。これわ思えば、123便の場合は急減圧が起きず、白い水蒸気のような気体が生ずることもなかった。してみれば、事故調査委員会の「後部圧力隔壁損壊」説は、タイ航空機事故により事実上破綻したと言える。

【1987/事故調(武田峻委員長)最終報告書「航空事故調査報告書」提出】
 1987.6.19日、航空事故調査委員会(武田峻委員長)による最終報告書「航空事故調査報告書」が提出された。報告書では、同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故(後述)後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。

【1988/群馬県警が自己責任者を前橋地検に書類送検】
 1988.12月、群馬県警が日航、ボーイング社、運輸省の計20人を業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検した。

【1989/前橋地検が不起訴決定】
 遺族が、事故調の結論に基づき、日本航空やボーイング社、運輸省を相手に業務上過失致死傷容疑で告訴、告発した。

 1989.11月、前橋地方検察庁が、遺族側が告訴・告発した者を含む31人全員に対して、責任を問えないとして不起訴を決定した。最大の理由はボーイング社からの事情聴取ができなかったことにあった。アメリカの場合、再発防止のため、摘発より司法取引して真実を明らかにすることを優先するが、その制度のない日本では難しかった。

 遺族は、検察の不起訴処分が納得できない時に審査を申し立てられる機関である検察審査会に審査を申し立てた。審査の結果は遺族の願い通り「不起訴不当」となった。検察も再捜査をした。

【1990/前橋地方検察庁が又も不起訴を再決定】
 1990.7.17日、前橋地方検察庁が又も不起訴を再決定した。この決定に関して、前橋地方検察庁の山口悠介検事正が、異例の不起訴理由説明会を設け、不起訴理由を説明した。

【1990/公訴時効(5年)が成立】
 1990.8月、公訴時効(5年)が成立した。

【1994/日航乗員組合連絡協議会の報告書考】
 1994年、日航の従業員組合の組織、日航乗員組合連絡協議会は「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。

 被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要求を提出した。しかし、事故調査委員会はこれを完全に無視し今日に至っている。それどころか、1999年11月、情報公開法施行を前にして、JAL123便墜落事故関係の全書類をにすべて廃棄処分にすると云う挙に出ている。その重量は1160キログラムであったと云う。一体何の為に証拠書類をすべて廃棄処分にしたのだろうか。既に多くの識者が、「高度高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾翼に飛行機かミサイルのような謎の飛行物体が激突した」可能性について言及している。一体誰が何の為にと云う「もう一つの推理」までは避けているが、外部原因説は既に衆知の事実のように思われる。

 1995.8.20日、アントヌッチ中尉が、サクラメント・ビー紙に、123便墜落事件時の特殊体験を手記にして発表した。これを仮に「アントヌッチ証言」と命名しておく。

 1999.11月、運輸省は、総重量1160kgもの事件関連資料や証拠類を廃棄した。

 2002.8月、日航が「事故調査報告書」を作成したが未公開となっている。

 2006.4.24日、日航が、123便の教訓を忘れない意思を込めて「日本航空安全啓発センター」を開設した。123便機体の残骸などを展示している。

 2006.7月、事故から21年後、墜落現場付近を通る国土交通省の砂防ダム工事用道路が、上野村の村道兼林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮され

 2009.9月、民主党が政権交代で組閣。12月、前原誠司を後援する京セラの稲森が日航の再建の責任者となる。

 2010.8.12日夕、日航機墜落事故から25年を迎えたこの日、現場となった御巣鷹の尾根(群馬県上野村)のふもとにある「慰霊の園」で、追悼慰霊式が開かれた。遺族約150人に加え、前原誠司国土交通相や日航の稲盛和夫会長らが参列。遺族らは墜落した午後6時56分にろうそくに点火し、犠牲者を供養した。前原国交相は式典に先立ち、大沢正明群馬県知事と尾根に登り、「昇魂之碑」に花を手向けた。「歴代の所管大臣として初の慰霊登山だと聞いて驚いた。様々な事故が起きており、国土交通行政の根幹は安全にあると肝に銘じた」と話した。この25年の間に、一体どれだけの政治家が運輸相や国土相を歴任してきたにもかかわらず、それらの只の一人として慰霊登山をしてこなかったという事実は、如何に自民党が米国隷属の売国奴だらけだったかがわかる。
 2010.8月、日航機123便墜落事故の再調査を前原誠司を中心に行われる。

 2010.11.10日、当時の運輸大臣だった故山下徳夫氏にお会いした際、「遺族が事故原因に疑問に持つならば、必ず再調査をすべきだ」とおっしゃっていたのを思い出す。御巣鷹山頂に建つ石碑(冒頭の写真)も、そのことを問い続けている。

 2011.7月、運輸安全委員会が事故調査書の解説書を発表。前原誠司が123便事故解説書を公開して事故原因は後部圧力壁の損傷という結果を再主張する。
 2011.12月、野田佳彦が秘密保全法を策定する。

 2012.8.12日、航空機事故史上最大の520名が死亡した日航機墜落事故から27年目のこの日、乗員組合、機長組合、先任航空機関士組合など日航5労組で組織するJJ労組連絡会議は運輸安全委員会が2011年7月に発行した事故調査書の解説書の記載内容を不服として『事故の再調査』を要求した。航空機事故を一番知っている乗員による再調査要求は恒例行事化している。乗員組合など関係労組による『再調査』の要求はマスコミが報道しないだけで毎年繰り返され、政府は無視し続けている。日航機123便事故は未だに真相が藪の中となっている。運輸安全委員会公式発表『後部圧力隔壁の破壊に伴う、垂直尾翼を含む機体後部の破壊』は、事故機の『与圧は最後まで保たれていた』との4名の生存者の証言に反するので真っ赤な嘘である。ボーイング社製747SR-46の設計ミス(機体の強度不足)で垂直尾翼が失われ操縦系統が尾翼付近に接近していた構造的欠陥も加わり完全に操縦不能になり墜落、としているが、『設計ミス』では、世界中のボーイング社製旅客機が運行停止になるので日航123便単独の『修理ミスである』と発表、これが罷り通っている。「『何かの不都合』の隠蔽工作」が透けて見えてくる。「魑魅魍魎が跳梁跋扈する真夏の怪談」になっている。

 2012年、国交省に公共交通事故被害者支援室が設置された。

日航機墜落事故30年で、遺族ら各慰霊行事に参加。遺族らは墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に慰霊登山するほか、村内の慰霊施設で執り行われる追悼慰霊式に参列する。また、11日夕には麓を流れる神流(かんな)川で灯籠流しが行われる。当日は慰霊登山に遺族約250人が参加する予定。そのほか多くの関係者らが訪れるため、混乱を避けて別の日に事故現場を訪れる遺族も多いとみられる。


  2016年07月24日「御巣鷹山で日航職員が滑落死」。

 2016.7.24日、来月8月12日に行われる日航ジャンボ機墜落事故の追悼行事、慰霊登山に向けて、群馬県の山中の墜落現場に通じる登山道を整備していた日本航空の社員相馬裕さん(59、横浜市磯子区岡村)が、他の社員7人や尾根の管理人の男性と山に入り、登山道の脇に並べて置く丸太が滑り落ちないようにくいを打ち込む作業をしていたところ、7.23日、登山道の斜面から約50メートル下に滑落し死亡した。県防災ヘリ「はるな」で藤岡市内の病院に搬送されたが、頭などを強く打っており、死亡が確認された。事故の遺族でつくる「8.12連絡会」の美谷島邦子事務局長によると、相馬さんとはほぼ毎月連絡を取り、開山後の今年5月にも一緒に登ったという。


 「宇都宮爆発の栗原敏容疑者はJAL123便事件当時の航空管制官だった?」。
 
 2016.10.23日午前11時40分ごろ、宇都宮市本丸町の宇都宮城址(じょうし)公園内の駐輪場付近で爆発があり、市内に住む元自衛官、栗原敏勝容疑者(72)が死亡し、近くにいた中学生ら3人が巻き込まれ重軽傷を負った。栗原容疑者の靴下には遺書が挟まれており、名前とともに「命を絶って償います」と書かれていた。

 栗原氏は、本人のアカウントとみられるツイッターやフェイスブックなどに、宇都宮家庭裁判所の裁判官や調停員に対する批判をたびたび書き込んでいた。退職後に娘が精神障害者となったことがきっかけで、妻と不仲になった末にドメスティックバイオレンス(DV)を理由に民事訴訟を起こされ、敗訴した経緯も記していた。人生を悲観していた様子がうかがえる。1カ月前には、動画サイトに「判決は全て敗訴、到底承服できない」、「DVは、男性の意見は聞きません。全く信用されません」と投稿している。今年3月にはフェイスブックに「債権差し押さえ命令で老後を生きる生活資金1500万円を既に没収されました」、「子、妻から斬殺殺害され人生を終えた方が幸せだと思う今日この頃である」などとつづっている。

 栗原氏は、昭和38年に陸上自衛隊に入隊し、JAL123便事件当時、航空管制官をしており、事故機を含めて自衛隊機やその他の機影の全てを知りえる立場にいた。その後、自衛隊の教官。1999(平成11)年に自衛隊を退官している。

 「犠牲者悼み、灯籠流し=日航機墜落12日で32年-群馬」。

 2017.8.11日、520人が死亡した日航ジャンボ機墜落事故から12日で32年になるのを前に、遺族らが11日夕、墜落現場の麓を流れる群馬県上野村の神流川で灯籠流しを行った。ジャンボ機が墜落した午後6時56分の少し前から激しい雨になったが、遺族らは傘を差しながら列をつくり、一つ一つ川面に浮かべた。
 8.12日、午前10時半、慰霊碑「昇魂の碑」の前で安全を願う鐘が鳴らされ、犠牲者を追悼する式典が行われました。遺族たちがシャボン玉を飛ばし、鎮魂と安全な社会の実現を願った。 遺族やゆかりの人は早朝から、群馬県上野村の墜落現場「御巣鷹の尾根」に慰霊の登山を行い頂上付近の慰霊碑「昇魂之碑」を目指した。午前11時までに55家族、233人の遺族が慰霊登山を行った。夕方には「慰霊の園」で追悼慰霊式が行われ、墜落時刻の午後6時56分、黙祷が捧げられる。

















(私論.私見)