事件の真相考その5、救出までの不可解検証

 更新日/2017(平成29).8.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「事件の真相考その5、救出までの不可解検証」をものしておく。墜落するまで」その他参照。


【墜落その時の様子】
 1985.8.12日午後6時56分26秒、123便は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、乗員乗客524名のうち死亡者520名、生存4名。この記録は、航空機事故としての死者数は、2014 年2 月末の時点で、1977年3月27日に発生した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」(滑走路上で2 機のボーイング747 が激突。583 人が死亡)に次いで世界第2位。単機の航空事故では現在も世界最大の事故となっている。

 墜落現場は墜落地は群馬県多野郡上野村にある標高1639mの「御巣鷹山」(おすたかやま)の尾根であった。群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠、埼玉県三国山、長野県御座山(おぐらやま)、同「高天原山」(たかまがはらやま)、同南佐久郡北相木村と様々に伝えられ、救援隊が分散させられた。

【日航123便墜落事故に関わる不幸な因縁】
 検索で出くわした「日航123便墜落事故に関わる不幸な因縁」を転載しておく。
 毎年この時期になるとニュースなどが流れる日航123便事故ですが、早いもので今年で29年目です。1985年8月12日、日本航空123便(18時56分東京発大阪行)が、群馬県多野郡上野村の高天原山(御巣鷹山)の尾根に墜落しました。乗員乗客524名のうち死亡者520名、生存4名という、単独機の航空事故では現在も世界最大の事故となってます。事故の原因などについては別の機会にゆずるとして今回は、この大事故にまるわる不思議な因縁を。

 日航123便墜落事故に関わる不幸な因縁

 JALが発刊してる自社の機関紙「WING(ウイング)」があります。月1回の発刊のウイングには各種の企画ページがあり、全国47都道府県のユニークな人物を交替でインタビューして紹介するその企画も毎月掲載されていました。そして、9月号の順番は群馬県だったのですが、その群馬県の数ある市町村で選ばれたのが、事故機の墜落現場、上野村の黒澤丈夫村長だったのです(1913年12月23日生〜2011年12月22日没 画像は若き少佐時代の黒澤村長)。
村長への取材が実施されたのは、事故のわずか2ヶ月前、6月のことでした。その事故機に積まれていたのがウイング85年9月号だったのです。この2ヶ月後に、日本航空がこの不幸な偶然の一致に驚き嘆く事態になってしまうこと、インタビューを受けた黒沢村長がこの不幸な因縁に公私ともに振り回されることになるなど、予測できるものではなかったと思います。それにしても全国に47もある都道府県のうち、よりによって群馬県が選ばれたのはなぜなのでしょう。そして、まったくの偶然とはいえ、事故が起きた上野村の村長が取材対象者に選択されてしまったのはなぜなのでしょう。まさしく天文学的な偶然の一致であると思います。ちなみに、黒澤村長は第二次世界大戦中は零戦などの南九州の第七十二航空戦隊参謀であったといいます。これも飛行機と深く関わる因縁めいた話です。

 実は村長自身にも、不思議な偶然が働いていたそうで、その年の始めに村の占い師に次のような予言を聞かされていました。「今年は、あなたが世界中に注目されるような出来事が起こる」と。これはまた随分と大げさなことを言われたと思った黒澤村長は家に帰って奥さんにその予言の話をしました。取材を受けた時もまさか世界的な注目を浴びるほどの内容ではないと思ったのでしょう。しかし、その年の8月にこの村に落ちてきた123便の墜落事故。「あの予言はこの事故のことを言っていたのね・・・」。その騒ぎの最中に奥さんは村長にそういったといいます。このウイング9月号は、「乗客や遺族の方が事故を思い出すことがあってはならない」との日本航空の意向から、すべて廃棄処分にされたそうです。黒沢村長の二ヶ月前のインタビューの数々はこの大事故によって葬り去られることになりました。偶然とはいえ、あまりにも天文学的としか表現できない、不幸な偶然の一致であったと思います。

【墜落地点の意図的誤報考】
 墜落地点を米軍は確実に捉えていた。墜落から10年後の1995年8月、アメリカ軍の準機関紙である「星条旗」は日本航空123便に関する記事を掲載した。それによると、墜落の直後に現場を特定して横田基地へ報告したC-130の乗組員、マイケル・アントヌッチは次のように証言している。大島上空を飛行中にJAL123の異常に気づいたC-130のクルーは横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図り、墜落地点を19時20分に特定、報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのはそれから25分後の19時45分であり、捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を正確に把握していたはずである。C-130からの報告を受け、厚木基地から海兵隊の救援チームのUH-1ヘリコプター(ヒューイ)が現地に向かい、20時50分には現地へ到着、隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。21時20分に航空機が現れたことを確認、日本の救援部隊が到着したと判断してC-130はその場を離れた。だが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したのは翌日の8時半。10時間以上の間、自衛隊は何をしていたのだろうか。アメリカ軍の内部では、この墜落に関する話をしないように箝口令が敷かれたという。墜落から10年後、アメリカ軍の準機関紙がその話を掲載した。軍の上層部が許可したのだろうが、箝口令を解除させる何らかの事情が生じた可能性がある。墜落から10年だからということではないだろう。(「32年前の8月12日にJAL123便が墜落、その際の不可解な動きを明かされた日本政府は戦争体制へ(櫻井ジャーナル)」)

 自衛隊も正確に捉えてた。にも拘らず防衛庁自衛隊はわざと誤報を連発し、墜落地点を明朝まで隠蔽した。それは、救助隊を分散させ、数時間にわたって御巣鷹山に誰も近づけないようにする「作為」が働いていたことを示しているのではないのか。墜落後25分で米軍機Cー130が墜落地点と見られる火災を発見、それから1時間近くも経過してから墜落地点から8キロも離れたぶどう峠の長野県側が現場だとの怪情報が流された。墜落から2時間15分後には、米軍情報に基づいて、朝日新聞社のヘリによって墜落現場が再確認され、写真撮影に 成功している。その3時間後に自衛隊が運輸省や警察に通報した地点が約4キロも北にずれた場所で、群馬県なのに、なぜかその地点が長野県側であるとの誤った情報までつけ加わっていた。防衛庁は13日の午前2時になってもまだ墜落地点は「ぶどう峠から210°/3マイル」とか、「御座山(おぐらやま)の南斜面、頂上から1」などの情報が新聞社に流されていた。13日の朝、明るくなって、 墜落地点が視認されてからも、まだ防衛庁は長野県とか、群馬でも5km北西の地点を通報していた。これについては、「単なる誤りとは考えにくい。現地に人を近づけないようにしたのではないか?」との疑問の声が当時から出されていた。

 1995.8.27日付の米軍の準機関紙である「スターズ アンド ストライプス」紙にMICHAEL ANTONUCCI氏の証言が発表された。「米軍がなぜ現地に降下しかけていた厚木基地の救助ヘリや、最初に 現場上空に到着していたCー130輸送機に引き返しを命じたのか」、「そのことをなぜ口止めしたのか」云々。

【「アントヌッチ証言」について】
 「アントヌッチ証言」と云うものがある。「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(2)」その他が紹介している。これを確認しておく。 

 1994.9.25日、テレビ朝日「ニュース・ステーション」が、「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映した。航法士(ナビゲーター)マイケル・アントヌッチ氏が登場し重大な証言をしている。同氏は1982年から90年まで米空軍に在籍していた履歴を持つ。

 1985.8.12日、米軍C-130輸送機に搭乗して沖縄の嘉手納基地から横田基地へ帰還中、123便墜落事件に遭遇している。その時、同機は横田基地からJAL123便の探索命令を受け、一帯を捜索した。この時の見聞を証言している。マイケル・アントヌッチ氏は、「1995年9月28日号週刊文春」でも同様証言している。日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突如「アントヌッチ証言」が掲載された。この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」が掲載している。この三文を、れんだいこが意訳する。

 マイケル・アントヌッチ氏は証言の心境を次のように述べている。
 「123便墜落事故の余波(被害拡大)について私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて他言無用の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない」

 こう前置きして次のように証言している。
 概要「当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分頃、我々は沖縄の嘉手納基地から横田基地に向け飛行中、大島上空にさしかかった。この時、123便のエマージェンシーコールを知った。我々は最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分頃、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。我々は、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。この時から、我々は事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

 横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。我々にも横田基地への進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えたと伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。我々は、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け捜索に向かった。管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていた頃、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、辺りが段々と暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。
当機の指揮官ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の正確な位置をつかんでいたのだ。横田管制からC-130に再び連絡が入り、我々の現在地から約40マイルの厚木基地(「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間からともある)から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

 副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に『海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね』といった。管制官からは『生存者はいない様子。了解』との返答があった。『ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった』とゲーリーは無線を外して私にそういった。


 当機は8時30分まで旋回を続けた。その時、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっているといわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリUH-1のライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。木の梢から15メートルのところまで降下した。午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。我々に司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。


 
将校は、「直ちに基地へ帰還せよ」、「日本側が向かっている」といったので、「司令部、海兵隊は救助続行を希望している」といったが、「繰り返す。(救助はせずに)即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様。今回のことはメディアには何もしゃべるな」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解し、地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていった。

 我々の到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊(第316戦術航空団ともある)副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は『ご苦労だった。しかし、今回のことについてマスコミには一切他言無用』といった。


 我々は、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。その時、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令を我々に伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。翌日のニュースや新聞を見て、我々は愕然とした。
ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示したという自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

 墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になったタイムとニューズウィークを買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。『残骸の下で動けなかったが、やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです』、『次第に私は眠くなった』、『気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった』。落合さんはまた、看護師に、『数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった』、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。


 ニューズウィーク誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかったと述べている。しかし、その時刻は我々が墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかった時から11時間もたってのことだった。こういう大惨事での米国の役割については、タイムやニューズウィーク誌でも、我々のC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。ニューズウィークは、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

 またタイムは、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかったという軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていたと聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」、「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

 私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。我々乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、我々の期待とは随分かけ離れていた。我々は、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあったということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなど誰一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、我々がそこを飛んでいたことなど誰も知らないのだから報道されるはずもなかった。

 1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、その時、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある。『アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した』。私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は『まだ、生存していた人たちを救出できなかった』と付け加えたかった。

 日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は、『もし発見がもう10時間早ければ、我々はもっと多くの生存者を発見できたであろう』」。
 「1994年9月25日のニュース・ステーションは、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道した。それによると、米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせていた。もちろん日本側にもその時点で伝えられている。それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道している。これは明らかに意図的なフェイクである。加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置した」。
 マイケル・アントヌッチ氏は『週刊文春』1995年9月28日号でも次のように述べている。
 「 あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたときたまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに確認できた。墜落の2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが現場に着いた。あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたのはその14 時間も経ってからというではないか」。

 これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示している。
 「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」。米国防総省は、「当時の記録がないので、ノーコメント」。自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしている。「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」。これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論している。「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」。
(私論.私見)
 「アントヌッチ証言」はかなり重大な事実を明らかにしているのではなかろうか。特に、「救助をせずに即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様。今回のことはメディアには何もしゃべるなと命令された」云々は生々しい。

【墜落現場伝達証言】
 「植草一秀の『知られざる真実』」の2017.8.17日付ブログ「なぜ自衛隊ファントムが日航ジャンボを追尾したのか」を参照する。

日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)
日本航空123便墜落事故を検証する
 などの情報を総合すると日航123便墜落事件の全体像がかなりはっきりと浮かび上がってくる。元日航客室乗務員の青山透子さんが123便墜落で犠牲になられた方の33回忌に合わせて、8月に刊行された新著『日航123便墜落の新事実』に墜落に関する新事実が散りばめられている。
 https://goo.gl/auvNJY


 
ジャンボ機が墜落した直後、長野県南佐久郡川上村に在住する中嶋初女さんという女性が、午後7時05分に、長野県南佐久郡臼田警察署に、墜落現場の正確な情報を伝えていた。


NHKスペシャル 日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~“墜落の夜”30年目の真実~」(2015年8月1日放送)
1時間22分20秒以降の部分


  また、米空軍の輸送機U130パイロット、マイケル・アントヌッチ中尉が重大な証言を公表した。「当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後715分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は720分だった」
米軍輸送機は午後7時20分に墜落現場を確認している。そして、この輸送機が米軍の救援ヘリを視認したのが午後8時50分。ヘリは地上に救援隊員を降下させようとしたが、横田基地から「直ちに基地へ帰還せよ」との命令が下された。救援ヘリは救助続行を希望したが、横田基地は機関命令を下した。米軍輸送機は午後9時20分に日本の自衛隊機が現地に到着したのを確認して帰還した。

 上記2015年8月15日放送のNHKスペシャルは、墜落当日夜にヘリコプターで墜落現場を視認した自衛隊パイロットの証言も収録している。
 https://www.youtube.com/watch?v=uq2GkTouyCE


(31分05秒以降の部分)


 自衛隊は現地に2機目のヘリコプターを13日午前零時36分に入間基地から派遣している。機長の金子正博氏は、このフライト墜落現場を上空から確認したことを証言している。同時に、陸上からは長野県警の大澤忠興氏がぶどう峠から航空自衛隊ヘリコプターが墜落現場を上空から確認し、サーチライトを当てている場面を正確に伝えていた。航空自衛隊の金子正博氏が墜落現場の報告の際に、地上の警察照明の位置を「北北西30度4マイル」と伝えるべきところ、「北北東30度3マイル」と誤って伝えたとNHK報道は伝えるが、にわかに信じ難い話である。自衛隊は墜落後、午前零時36分にかけて、二度にわたって墜落現場を空から確認している。米軍は墜落から20分後には墜落現場を確認している。
当局が墜落現場を特定できなかったというのは、完全なフェイク=虚偽情報である。実際に救援活動が始まったのは翌日13日の午前7時以降である。この間に一体何があったのか。そして、なぜ、早期の救援活動が行われなかったのか。きわめて深刻で深い闇がある。その闇の正体を多くの探求者が、すでに探り当てているのである。

 
青山氏の著書はきわめて重大な事実をも発掘している。群馬県警察本部発行の昭和六十年十月号『上毛警友』冊子が日航機墜落事故特集号となっており、その122ページに「日航機大惨事災害派遣に参加して」と題する自衛隊第十二偵察隊一等陸曹M・K氏の手記が掲載されている。このなかに次の記述がある。「八月十二日私は、実家に不幸があり吾妻郡東村に帰省していた。午後六時四十分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム二機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。「何か事故でもあったのだろうか」と兄と話をした。午後七時二十分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った」。つまり、
この日の夕刻午後6時四十分頃に群馬県上空を自衛隊のファントム2機が飛行していたのである。同時に青山氏はもうひとつの重要な目撃証言を掲載している。8月12日午後6時30分頃に、静岡県藤枝市の上空を日航ジャンボ機が傾きながら飛行し、その約5分後にファントム2機が日航機の後を追うように北の方向に飛び去ったのを目撃した人物が紹介されている。日航ジャンボ機が尾翼を失い、この日航ジャンボ機を追尾するように自衛隊ファントム2機が追尾するという事実が存在した可能性が極めて高いのである。


【墜落現場7度の誤報】
 2012.8.14日付け「27年間解明されない御巣鷹の謎 日航5労組再調査を要求 」が誤報の垂れ流しぶりを暴いている。これを確認する。
誤報1 墜落から6分後の19.21分、百里基地の空自のF4戦闘機が日航機の火災を確認し、横田から300度、32マイルと、方位で5度、距離で3マイル(4,8キロ)異なる誤報を発表。
誤報2 墜落から1時間後の19.54分、百里基地空自V-107ヘリが36分かけて現場に到着、20.42分に山腹炎上を確認し、横田から299度、35.5マイルと報告。反対方向に6度、0・5マイルの誤報。
誤報3 墜落から5時間32分後00.36分、入間基地の空自ヘリが飛び立ち、01時頃、入間から291度、36.3マイルと報告、偽情報を流す。
誤報4 同じ時間に入間基地を飛び立った空自V-107ヘリが、墜落後6時間32分後の00.36分に初めて現場の位置の特定名称を出す。ところが長野県側の三国山の西3km、扇平山の北1kmと誤報を流す。
誤報5 立川基地の空自V-107ヘリが、墜落事故後9時間35分後の04.39分に現場を発見し、三国山の西3km、扇平山の北1kmと4番機とまったく同じ偽情報を流す。
誤報6 同じ立川基地所属の陸自 OH6ヘリが、事故後10時間6分後05.10分に位置を確認し、今度は長野県の御座山(おぐらやま)東5kmと大きく東に振る誤報。
誤報7 陸自のヘリが、その35分後の05.45分に発表位置を御座山の東7km、南4km と訂正。ところがこれも誤報。

 7回も同じ誤報を流し続けたことになるが、これは過失とは言わない、明らかに故意であろう。当局は、この誤報を、NHKを筆頭とする全マスコミを使って積極的にミスリ―ドした。救援隊の現場到着を遅らせる時間稼ぎをし、その間に123便にとどめを刺したミサイルの残骸、それに傷つけられた機体を回収、生存者を死人にした。オレンジ色の大きなものを釣り上げている写真が撮影されているが、オレンジ色の部品は123便にはない。それは無人標的機の塗装色である。これも有力証拠物である。

【「救援自衛隊員射殺情報」について】
 待機命令を無視して墜落現場に救助に行こうとした自衛隊員が射殺されたとの情報が報道されている。20.00分、NHK速報テロップ(「翌日のNHKニュースの初報」とも書かれている)で「上野村三岐待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺」が流されている。これを確認する。
 「アントヌッチ証言にもあるとおり、当初からアメリカ軍は、その墜落場所を正確に把握していて、日本側に救援も申し出た。また、日本側も、かなり早い段階から、墜落場所を特定していた。加藤紘一防衛長官自身、その日、上空から墜落場所を視察している。しかし、中曽根政権は、時間稼ぎのために当日の捜索を行わなかった。それが為に義憤にかられ、捜索をしようとした自衛隊員を射殺したという情報さえある。この話は、NHKが20:00に速報で流している。「20:00上野村三岐待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺」(NHK)。その後、NHKアナが次のように報じている。『ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に 向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。続報が入り次第お伝えします』。その後、NHKアナが『先ほど自衛隊員が何者かに襲撃され死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です』と訂正報道する。但し、誤報の謝罪の言葉は一切なかった」。
http://daidaikonn.blog27.fc2.com/blog-entry-17.htmlその他参照
(私論.私見)
 俄かに信じ難いが、この「NHK速報テロップ」が事実かどうか確認されれば良い。事実なら由々しき事態であろう。
 空白の16時間 あの誤報に触れないのはなぜ?」。
 先日、日航機墜落事件に関するNHKのドキュメンタリー番組があった。墜落後、なぜ16時間もの間、墜落地点を特定できなかったのか、当時の資料を情報公開請求などで入手しながら再検証した番組だ。番組自体は多少の見どころもあった。当時はまだ子供だったが、衝撃的な事件であったことと、坂本九さんが亡くなり、週刊誌などもショッキングな写真を掲載したりと、断片的には記憶が残っている。その時の記憶ではっきりと覚えているのは、墜落の後、NHKニュース速報にて、救助に向かった自衛隊員が銃撃を受けたというニュース。なぜ? とんでもない大事件が起きているの? ちょっと前に大韓航空機の撃墜事件もあり、子供ながらにテレビを凝視していたのを覚えている。しばらくして誤報との訂正があったものの、今はその誤報すらなかったかのように、インターネットの世界でも封印されているようだ。一部2chなどの話題を見ると、誤報の話題を指摘する人もいるのだが、必死に否定し罵倒する工作員らしき人もいて、なぜそんなにむきになって否定するのだろうと、不思議に思う。そして、NHKの番組でも、墜落地点の誤報については詳細に検討しているのに、銃撃の誤報に関しては一切スルーであった。やはりモヤモヤ感がどうしてもぬぐえない。私がブログで繰り返し伝えているのは、真相を見抜くためには、「何を報じたかではなく、何が報じられていないか?」といった視点を変えて考えること。

 当時、なぜそのような「銃撃」が速報で流れたのかわわからない。実際に銃撃があったとする説もネットに存在するが、証拠がそろっていないので、今の時点では真偽不明としかいいようがない。きっと真偽不明のままであろう。しかし、ブログでの情報発信を始めて、伝える立場、情報を受け取った人がどう思うか、という視点でみると、いくつかの疑問がわいてくる。銃撃が真実であったとする説はネットで検索するとすぐに見つかる。しかし、もし最初から誤報(デマ)であったとしても意味があったのではないか? それを聞いた現場の自衛官、警察、記者はどう思うであろうか? ・指示に従わないと殺されるかもしれない。・事故でなく、大事件なら、勝手な行動はできないし、指示待ちでじっとしているしかない。・自分は危険な目にあいたくないから、先頭切って捜索など怖くてできない。・墜落地点や目撃情報で信ぴょう性の高い情報があったが、別行動は怖いからみんなの動きに従おう。私なら、こう考えると思う。結果として、救助は夜が明けた16時間後であった。その間に何があったのか、私にはわからない。

 事故原因についても、いろいろな説が飛び交っていて真偽はわからない。ただ公式発表の理由だけでは、十分に説明しきれないし、あるはずの証拠が十分に開示されていない、との指摘はその通りだと思う。真偽は不明だけど、情報の見方、伝え方、それを受け取った側の心理や行動、いろいろと考えさせられるテーマでした。

(私論.私見)
 私はあの時、マージャンしていて、この報道を見ていないので、この情報がされたかどうかの真偽が気になるところ、これによれば必ずそういう報道があったということになる。そういう意味で貴重なブログである。

 2017.8.16日 れんだいこ拝

【「事故後数時間の救援禁止」について】
 7時30分時点で実際の事故機墜落現場が分かっていたのに、翌朝までマスコミには行方不明と発表させていた。そして、わざと違う事故現場を報道させ地元民らは救出に向かおうとしていたのに救出に向かうことを禁止した形跡が認められる。又、墜落からおよそ1時間半後の20時すぎ、日航からではなく日本アイソトープ協会から事故機に医療用ラジオアイソトープ92個が積まれていることが警察庁に届け出された。これにより放射能汚染による二次災害情報が流され、安全確認待ちで待機状態が続いた。これにより、救出許可が下りるまでに相当の時間が費消された。尤もらしく「関西地区への放射性物質の輸送定期便だった」、「当時の747の尾翼部には劣化ウランが方向舵と昇降舵の重りとして使われていた」とする説がある。しかし、それならそれで、現場検証の結果、放射能汚染がどうだったのか説明されねばならないだろうに特段の説明がないまま有耶無耶にされている。朝の04時50分、科学技術庁より「そのアイソトープは人体に支障なし」との発表がなされた。墜落から約9時間が経過していた。この為、現場近くに入山した自衛隊員(14名)は現場を見ながら約2時間待機したと云われている。

 防衛庁長官は墜落現場上空までヘリでやって来たと云うのに救助の指示も出さぬまま、13日の午前0時5分から緊急会議を開いていたと云う。そして、夜中の2時に発見したと言う事にして、やっと翌朝から救助活動が開始されたと云う。
(私論.私見)
 これは事実である。

【墜落直後の動き】
 123便墜落が確定し、救出作業が始まることになる。これを確認する。
午後6時56分2秒  123便のレーダー機影が消失した。その報は救難調整本部、自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に流される。横田基地が、C-130に捜索を依頼している。
午後6時57分頃  航空自衛隊レーダーサイトは123便が墜落したと判断、中部航空方面隊へ救助を具申した。峰岡山基地の吉田勝一尉が、123便の機影消失を中部航空方面隊司令部防衛部長の大中康夫一佐を通じて松永貞昭司令官に伝達。「北緯36度02分東経138度41分」 。
午後6時59分頃  航空自衛隊中部航空方面隊(司令官:松永貞昭空将)が救援体制に入り待機状態を執った。羽田の航空機救難調整本部(RCC)が123便消滅情報入手。警視庁外勤課、航空自衛隊、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に通報した。横田基地が、C-130に捜索を依頼している。
午後7時00分  茨城県・航空自衛隊・百里基地第七航空団。日航123便を緊急信号受信直後から追っていた航空自衛隊は、独自判断で、緊急体制当番で待機していた第305飛行隊のF4EJファントム戦闘機二機を長野・群馬県境の行方不明地点に急行させた。(故・式地豊二尉リーダー)
午後7時頃  日本航空の関係者に緊急連絡が入り、JALは羽田オペレーションセンターに対策本部を設置した。
午後7時頃  官邸にいた平沢官房長官秘書官に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から相次いで報告が入った。平沢秘書官は直ちに、藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れている。このときは官房長官と連絡がとれた。しかし、それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、平沢秘書官は藤波官房長官に2度目の報告を次のようにしている。「JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください」。
午後7時1分  大中一佐が、松永空将の捜索機の緊急発進の了承を得て、空自が、自衛隊レーダーサイトの提案を受けて茨城県百里基地から捜索任務のため2機のF-4EJ戦闘機(第305飛行隊の式地豊司尉ら)が緊急発進する。この一番最初の自衛隊出動は上層部の出動要請の前に行われた。
 F-4が発進したとはいえ百里基地ではMU-2救難機とV-107ヘリが待機中だった。正式な出動要請がこない限り自衛隊は出動できない。航空自衛隊は何度も要請権者に要請を促した。米軍輸送機は偶然近くを通りかかって発見した火災と残骸の位置を知らせるために上空を旋回しつつ救援隊を待ったが、災害派遣命令はなかなか出なかった。 
午後7時13分  時事ファックスが「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」の至急報を流す。
午後7時15分  米空軍C―130H輸送機が雲の下に煙を発見。
午後7時19分  米空軍のC130H型輸送機が現場らしき炎、墜落現場を発見。「1919 Large fire from Yokota, 305, 34.」(「午後7時19分、横田から方位角305度方向、34マイルの地点で大きな火災を発見」)。
 その直後百里基地のF-4EJも墜落現場と山火事を確認、位置を通報した。「横田から方位角305度方向、34マイルの地点」(「炎を確認。横田タカンから300度、32マイル」)。
午後7時21分  空自百里基地のF-4EJ2機も現場確認。「炎を確認。横田TACAN(無線位置標識)より磁方位300度・32マイル(約51キロ)」と測定結果を送った。
午後7時26分  報道各社に「日本航空123便が、レーダーから消えた」の旨の第一報が入り、まずTVやラジオが速報で伝えた。
 NHKが7時のニュースの終わり際に速報を読み上げた。「新しいニュースが入りました。羽田空港の空港事務所に入った連絡によりますと、午後6時に羽田を出発しました大阪行きの、日航ジャンボ機の機影が、レーダーから消えたもようです」。
 NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠と様々に伝えた。「NHKは翌日の朝まで墜落地点を長野県北相木村と報じた」とも記されている。「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」。それは「遅らされていた」のではないかとの疑惑が残る。救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないかとの疑惑がある。防衛庁は13日の午前2時になってもまだ墜落地点は「ぶどう峠から210°/3マイル」とか、「御座山(おぐらやま)の 南斜面云々」などの情報が新聞社に流されていた。13日の朝、明るくなって 墜落地点が視認されてからも、まだ防衛庁は長野県とか群馬でも5km北西の地点を通報していた。運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度02分、東経138度41分)の他に「長野県南佐久郡御座山北斜面」に拘っていた。朝日新聞では防衛庁筋からとして「現場は長野県の御座山北斜面」としていた。航空自衛隊第44警戒群から、根拠のない情報として「長野県南佐久郡北相木村」、「御座山北斜面」が付加された。
 テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していた。しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだった。とうとう朝になるまでわからなかった。しかし、不可解である。JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ米軍機もその墜落地点の上空まで行っている。当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜9時頃、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいる。
午後7時30分  中村守雄陸上幕僚長が、東部方面総監部(増岡県総監)に災害派遣を要請する。
 航空幕僚監部広報室にC130の情報「横田から305度、34マイル」が入る。
 直後、航空自衛隊F4EJ戦闘機式地二尉からの報告「炎を確認、横田タカン(TACAN=戦術電波航法標識)から300度、32マイル」 。
午後7時35分  長野県警が警備二課に日航機墜落事故総合対策室設置。事故に関する情報の収集を各警察署に指示。臼田署が南佐久郡北相木村を中心に捜索を開始。
午後7時40分頃  横田基地を発着していた米空軍C130H輸送機が、発見から約20分後、上空600mで旋回し、正確な位置を割り出し横田基地に連絡している。
午後7時45分  運輸省が、航空局長室にJAL123便対策本部を設置する。
 警察庁に日航機墜落事故総合対策室が設置される。
午後7時45分  藤波官房長官が首相官邸に戻る。
 警察庁が「総合対策室」を設置する。
午後7時47分  藤波官房長官が官邸に戻った2分後、中曽根首相が軽井沢から公邸に戻る。中曽根首相はこの時、記者団に事故について問われて初めてこの事故の事を知る素振りを見せている。首相が戻ると、依田秘書官は、はじめて事故の状況を立ち話で首相に伝える。その間わずかに1分間。
午後7時48分  中曽根首相が19時48分から予定に組まれてあった河本敏夫国務大臣との会談に入っている。この頃、三光汽船問題が発生しており三光汽船の元社長である河本氏は苦境に立たされていた。首相との話はこれがテーマで辞任がやりとりされたといわれている。その会議が終ったのは20時1分。
午後7時50分  長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される。
午後7時54分  災害派遣出動要請のない中、百里救難隊のV-107ヘリが”見切り発進”する。航空自衛隊に災害派遣出動要請があったのは午後8時33分。
午後7時58分  空自百里MU2S発進。
午後8時  群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置される。
午後8時16分  【政府関係機関が動き出す】藤波官房長官が首相公邸に入り、16分間、軽井沢より戻った首相と事故の対応策について協議し政府対策本部の設置を決めた。終了したのは20時32分。
 日本アイソトープ協会から”事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた”と警察庁に届け出がでる。
午後8時21分  長野県と群馬県の県境にあるぶどう(武道)峠より200m群馬県側に入った長野県警臼田署のパトカーから、「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」との通報が長野県警本部に入る。(地上からの最初の公的目撃報告)。
 長野県警が、ぶどう峠・三国峠(ぶどう峠の南東方向・埼玉県、長野県の県境)付近で捜索・聞き込みを始める。
午後8時30分  この時まで、米空軍C―130Hが上空旋回し、同空軍UH1救難ヘリを誘導する。
 朝日新聞社のヘリ「ちよどり」が羽田を発進する。
午後8時30分過ぎ  日航対策本部に高木社長ら役員がそろう。
午後8時33分  羽田の航空機救難調整本部(是枝航空長)から航空自衛隊中部航空方面隊司令部(入間)に災害派遣出動要請が入る。これにより空自はやっと正式な災害派遣出動要請を受け自由に動けるようになった。出動要請を待っていたのは航空自衛隊だけではない。陸上自衛隊も群馬県・相馬原の第12師団偵察隊や第12戦車大隊、長野県松本の第12師団第13普通科連隊情報小隊、第13連隊などが出動態勢を整えていたが要請はなかなか出なかった。防衛庁では運輸省への要請催促が行われていた。
午後8時35分  藤波官房長官が、政府対策本部の設置と第1回会合の開催を指示する。
午後8時40分  中空司令松永空将が入間基地を非常召集、30人を先遣隊として出発させる。
 航空自衛隊・百里基地の航空救難隊のヘリコプターKV-107機(バートル)が現場上空到着。
午後8時40分頃  防衛庁内に対策本部が設置される。
午後8時42分  航空自衛隊百里救難隊のKV-107ヘリが墜落現場上空に到達。「150~200メートルにわたって山腹炎上、位置は横田タカンから299度、35.5マイル」と報告する。
 林三佐が現場に到着、米軍の輸送機C-130と交信した。
午後8時50分  厚木米海軍航空隊基地からの海兵隊救難チームがUH-1ヘリで墜落現場上空に到着。墜落現場付近に海兵隊員2人をラペリング(ロープを使った垂直降下)で降ろそうとする。C-130が海軍の救助隊のヘリの明かりを確認している。
午後9時0分  長野県警が群馬側と確信する。群馬県警が上野村の藤村輔二郎猟友会会長に道案内を依頼する。

【陸上自衛隊宇都宮駐屯地第十二特科連隊の動き】
 この頃、長野県側の南相木小学校のグランドに自衛隊と思われる部隊が集結しているのが目撃されている。ところが、南相木小学校への部隊展開について公式記録が残されていない。「(新) 日本の黒い霧」の「JAL123便墜落事故-真相を追う-あれから32年、一の年へ」の「南相木村に展開した陸上自衛隊の部隊名」は当時の「陸上自衛隊宇都宮駐屯地第十二特科連隊」としている。この部隊がどういう動きをしたのかは分からない。

午後9時5分頃  海兵隊救難チームのUH-1ヘリが「煙と炎が濃過ぎて着陸できない」と発信する。
午後9時6分  朝日新聞東京本社の朝日新聞社の取材ヘリ「ちよどり」が墜落現場上空に到達する。この時、炎の上で超低空飛行をしている捜索ヘリを見ている。これについて1995年になって米海兵隊救難チームのヘリであことが判明した。
午後9時10分  朝日ヘリ「ちよどり」が現場を撮影する。現場の炎を確認。このとき炎の上で 超低空飛行をしている捜索ヘリも見ている。これについては1995年になって米海兵隊救難チームのヘリであことが判明した。
午後9時20分  横田基地司令部がC-130及び海軍に帰還命令(理由は「日本の救助隊が現地に向かっているから」)を受け中止。それまで上空で旋回していたC-130と共に基地へ帰投する。

 米軍救難隊が帰投前に日本の飛行機を見たと言っている。「C-130の上空900メートル上空に日本の飛行機が旋回している」。ヘリではなく飛行機としたらF-4なりMU-2であるからこの時点から多数の航空機が飛来しだしたのであろう。即ちこの時点から空からの救助活動を行うべきであり可能であったはずである(現に海兵隊員は着陸しかけていた)。しかし日本の救難隊は位置を測定しただけで何もしなかった。百里救難隊のV-107ヘリは救難目的で離陸したはずなのに。
午後9時20分  日航が搭乗者名簿を発表。この間羽田東急ホテルに乗客の家族が集まってくる。午後9時過ぎから10時頃のこととして、角田四郎著「疑惑/JAL123便墜落事故」は次のように記している。
 概要「家族の受付けカウンターのあった羽田東急ホテルで、乗客・乗員の家族が日本航空役員を質問責めにしていた。家族の質問は執拗で、かなり激しかった。その紳士は相当感情的になって次のようなトンデモ発言をしている。『うちの機は北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今はそれしかわからん!』。一瞬、家族たちは何のことかわからず、その紳士の顔を見ていた。そのスキに日航の社員らしい若い男がその紳士を抱え出した」。
 このヶ所は「北朝鮮」には意味はない。濡れ衣の可能性が強いからである。注目すべきは「ミサイルに撃ち落とされた」下りであり、日航役員がこのことを認めていたことに意味がある。
午後9時25分  5人の医師、看護婦を含む85人の”日航救援隊”(日航現地派遣団)がバスで羽田を出発。目的地は長野県。しかしお盆の帰省ラッシュに巻き込まれる。
午後9時25分  朝日ヘリ「ちよどり」が現場計測し、「羽田から304度方向60マイル群馬側」とする。
午後9時30分  航空自衛隊中部航空方面隊が、東京空港事務所長・是枝から災害派遣出動要請を正式に受けた。
 群馬県警警備2課の日本航空機行方不明事故対策室が日本航空機行方不明事故対策本部に切り替えられる。
 陸上自衛隊に災害派遣出動要請が出る。12偵察隊(相馬原)、13連隊情報小隊(松本・小川二尉ら14名)が出動。航空自衛隊熊谷基地から地上部隊の先遣隊10人が出発する。
午後9時30分  読売ヘリ127号機が現場を撮影する。
午後9時30分過ぎ  123便の墜落現場と思われる御巣鷹の屋根のある方向から信号弾が上がった。この時、上野村三岐に総勢100名の自衛隊らしい一団が集結しており、信号弾合図に呼応して山登りを開始した。
午後9時39分  長野・埼玉遼県警パトカーが三国峠西北西方向に赤い煙を発見する。
 NHK―TVが「御座山(おぐらさん)中腹で煙を見た」とぶどう峠からの目撃談を報道する。これが日航・警察に通達され、御座山へ移動開始する。
午後9時40分頃  日航職員の現地派遣団第2陣が羽田を出発。
午後9時50分  NHKが目撃証言として北相木村の御座山(長野県)に落ちたと報道。その一方で長野、埼玉両県警のパトカーが目撃情報から墜落地点は群馬側と判断する。混乱する情報の中で不正確な位置の測定、未確認情報から墜落現場は御座(おぐら)山とされ捜索隊はそれに従った。しかし朝日新聞の報道ヘリ、地元の住民は正確な位置をつかんでいた。
午後9時50分  空自百里MU2Sが現場写真を撮影する。
午後9時59(6?)分  自衛隊空幕が、運輸省運用課へ「千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置は北緯36度2分、東経138度41分」と連絡する。墜落現場の位置は長野県北相木村の御座山北斜面に確定したという情報が自衛隊、日航、警察庁、長野県警に流され、現地付近で捜索していた捜索隊の多くが御座山へ移動する。

【「救援自衛隊員射殺情報」について】
 待機命令を無視して墜落現場に救助に行こうとした自衛隊員が射殺されたとの情報が報道されている。20.00分、NHK速報テロップで「上野村三岐待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺」が流されている。これを確認する。
 「NHKアナが次のように報じている。『ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に 向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。続報が入り次第お伝えします』。その後、NHKアナが『先ほど自衛隊員が何者かに襲撃され死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です』と訂正報道する。但し、誤報の謝罪の言葉は一切なかった」。
(私論.私見)
 俄かに信じ難いが、この「NHK速報テロップ」が事実かどうか確認されれば良い。事実なら由々しき事態であろう。
 上記の事件との関係具合は分からないが次のような記述もある。
 「なお御巣鷹山に救助に向かった自衛隊に関しての情報には 、第一空挺団は政府の命令なしに独自の判断で出動。当時の貧弱な装備では非常に危険な夜間の降下を上申している(これを理由として却下された)。生存者の救出につながった独自出動だが、空挺団司令は 『謀反の可能性あり』として左遷された」。

午後10時03分  NHK―TVが「御座山北斜面で炎上中」と報道。日航も「御座山北斜面」と正式に発表する。
午後10時05分  朝日「ちよどり」が羽田格納庫で墜落地点の計測「三国山の北方5km群馬側」。
午後10時15分  日航職員の現地派遣団第3陣が羽田を出発。
午後10時30分  【政府の動き】政府対策本部が設置される。政府対策本部が設置される。本部長/山下運輸相。副本部長は二人の官房副長官と運輸省の政務、事務両次官。本部員に内閣審議室長、厚生省社会局長、運輸省航空局長(代理)、警察 庁警備局長、総務庁交通安全対策室長、防衛庁防衛局長、自治省消防庁長官。以上のほか、放射性物質やウラン搭載のため科学技術庁原子力安全局長、国土庁防災局長も呼ばれていた。

 この動きとは別のコントローラーは、中曽根康弘元首相、後藤田正晴警察庁長官、加藤紘一防衛庁長官、森繁弘航空幕僚長(もり しげひろ、 航空自衛隊のトップ。第17代航空幕僚長、第16代統合幕僚会議議長)。

 政府事故対策本部にアイソトープが詰まれていたことが報告された。
午後10時50分  日航、札幌・大阪地区にも対策本部を設置。朝日「ちよどり」羽田発進再度現場へ。
午後11時00分  首相官邸の大広間で、政府の事故対策本部の第1回会合(事故の経過と今後の対策について)が開かれる。中曽根首相がそこに顔を出したという記録はない。
 群馬県警、上野村山間部の小倉山付近の民家に対して聞き込みを開始。群馬県警、上野村に1000人投入通知。 
 青山証言「一番先に捜索のため到着した機動隊員32名の案内を頼まれた地元民たちに対して、道案内を頼んでおきながら機動隊員から 『その場所は違う、こっちだ』と根拠のない主張をされた。 墜落現場はスゲノ沢だと言うと『いいやそこではない、中ノ沢だ、上官の命令だ』と強く言われた」。
午後11時30分  長野県警が「現場は群馬県内と判断している」との公式見解を正式発表する。「①御座山で残骸見つからず。②上野村のほうへ飛んでいったby菊原孝雄氏」と報告。
 群馬県警が「北偉36度02分東経138度41分by自衛隊」を頼りに船坂山東側の「マムシ岳」付近の捜索開始する。
 群馬県警機動隊が御巣鷹山方面に向かって捜索を始める。
午後11時35分  朝日新聞社のヘリ「ちよどり」が二度目現場に着く。「はるか下方に自衛隊機と思われるヘリ一機。青と赤のライトが点滅している」と報告している。
午後11時45分  防衛庁に「御座山ではなく群馬県側の可能性」の情報が入る。 

【地元猟友会・消防団の案内を無視した群馬県警の変調】
 正確な場所への到着に時間がかかり、地元猟友会・消防団の案内を無視した群馬県警、夜間降下命令のない自衛隊、在日米軍の援助拒否などの「現場到着・救出までの時間の空費」に批判が集中した(放射能汚染を警戒したことや命令系統の縦割りの問題もあったと見られる)。

【8月13日の動き】
午前0時  警視庁機動隊員200人と埼玉県警機動隊員222人が群馬県警に到着する。
午前0時5分  防衛庁で山下徳夫運輸大臣主宰の緊急会議としての第1回日航機事故対策会議が始まる。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長。航空自衛隊のMU-2救難機及びV-107ヘリが再度出動する。
午前0時15分  朝日新聞社のヘリ「ちよどり」が引き返すことにする。二回目の計測をしたが一回目と変わらなかった。
午前0時36分  群馬県警が上野村役場に現地対策本部を設置する。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。
午前0時36分  空自入間のKV-107ヘリ(金子正博一尉)が埼玉県入間基地を発進する。
午前1時  群馬県警が上野村役場に現地対策本部を設置。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。
午前1時00分頃  入間の空自V-107ヘリが再び墜落現場上空に到着し、位置を計測。「入間から291度、36.3マイル」と報告する。しかし「実際には上野村にいた警察車両らしい車の位置をぶどう峠と誤認した。「ぶどう峠から210度・・・」はこの情報云々。

 その後、着陸灯をつけて長野県警のパトカーを誘導しようとするが失敗。さらに上野村にいた車のヘッドライトをぶどう峠にいるものと誤認し、誤った位置情報を空幕に伝えている。空自静浜から115人が基地出発。
午前1時5分  羽田東急ホテルから乗客の家族家族39(300?)人を乗せた第1陣のバスが長野県小海町の日航現地連絡本部に向けて出発する。
午前1時15分  空自入間本隊548人が基地から出発する。
午前1時30分  陸上自衛隊第13連隊情報小隊や第12偵察隊、第13連隊の本隊が北相木村に到着、御座山北斜面の捜索を始める。中空司令部、空幕運用課に未確認情報として「ぶどう峠から210度3マイル御座山南斜部から1キロ」と連絡。
午前1時35分  第12戦車大隊、第12施設大隊なども現地に向かっていた。しかしどの部隊も目的地は長野県の北相木村であった。
午前1時35分  日航派遣団第1陣が長野県南牧村に入る。
午前2時  市ヶ谷の東部方面総監部から陸上自衛隊大宮駐屯地の科学学校に災害派遣準備命令が下る。「日航123便には医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が積載されていた。その種類、放射能の強度は不明。人員、装備を整え出動準備せよ」。空自熊谷本隊91人が基地から出発する。
午前2時過ぎ  防衛庁が「長野県南相木村御座山南斜面、頂上から1キロ。ぶどう峠から210度、3マイル」の情報を流した。
午前2時15分  朝日新聞最終確定版「群馬・長野県境で炎上」、読売新聞「御巣鷹山(群馬・長野県境)付近に墜落」の見出し。
午前22時20分  防衛庁が、在京社会部に電話で長野県南相木村の御座山南斜面頂上から1キロ」の情報を流した。
午前2時30分  羽田の捜索救難調整部(RCC)から海上保安庁運用司令室に「ドアがはずれた場合乗客が機外に吸い出される可能性がある」と通報が入る。その情報は第3管区海上保安部に伝えられ、駿河湾で行動中だった巡視船「おきつ」・下田港にいた「まつうら」・清水港の「しずかぜ」が捜索を開始した。
午前2時37分  陸自立川HU1が映像伝達装置付で相馬原へ向かう。
午前3時4分  群馬県警機動隊が、船坂山南・中ノ沢林道行き止まり地点から長野県境へ向けて捜索を開始。
午前3時25分  北相木村役場に日航現地派遣団の藤野団長が到着、長野県警と対策を協議する。陸自第13連隊の本隊第12戦車大隊、第12施設大隊到着。第12師団長・合原陸将が「夜明けを待って行動開始」を決定。陸幕了承する。
午前3時30分  空自先遣隊10名が北相木村に到着。
午前3時40分  日航現地派遣団、北相木村役場内に現地対策本部を設置。
午前3時45分  NHK―TVが「御座山南斜面」と報道する。
午前3時49分  陸自立川HU1、映像伝達装置付で相馬原へ向かう。
午前3時50分  空自入間先遣隊が北相木村小学校到着。
午前3時56分  空自V-107ヘリが入間基地を離陸する。
午前3時59分  陸自OH6が駐屯地発進。  
午前4時前  レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出す。
午前4時頃  県警の指示の遅さに痺れを切らした上野村消防団第4分団の5・6名がスゲノ沢に出発する。
午前4時30分  北相木村役場付近に集結していた自衛隊約700人がぶどう峠から東へ移動する。朝日「ちよどり」三度羽田発進。地元消防団の一部が墜落現場に向かう。 
午前4時39分  防衛庁発表「V―107三国山西約3キロ、扇平山北約1キロ」。
午前4時39分  航空自衛隊救難ヘリKVー107が墜落現場上空に到着し墜落地点を確認。群馬県上野村の御見鷹山近くの尾根に激突している日航機の残骸を発見。
午前4時50分  科学技術庁が「アイソトープは人体に支障なし」と発表する。この間(4時半頃)県警の指示の遅さにしびれを切らした地元の消防団の一部が墜落現場に向かい出す。後にこの消防団員達が生存者を発見することになる。
午前4時50分  空自入間本隊548人が基地から出発。
午前4時55分   陸自立川HU1が「三国山北西約2キロで機体視認」。
午前4時58分  関東地方(東京)の日の出時刻。

【現地一番乗り民間人の証言】
 「JAL123便墜落事故・自衛隊員への銃撃・更に連続自殺⇒パイナップル・ブリゲイズ」。何十人ものうめき声を聞いている。

【翌日早朝の動き】
午前5時5分  群馬県警藤岡署から藤岡市総務部長の自宅に遺体収容所や家族待機所の提供要請が入る。
 東部航空方面隊第十二飛行隊のヘリ偵察によって遭難現場が確認される。
午前5時10分  防衛庁発表「御座山東方約5㎞」。先のV-107ヘリの位置報告は「三国山西3㎞、扇平山北約1㎞」(これは長野県側になる)、陸上自衛隊のOH-6ヘリの位置報告は「御座山東方約5㎞」と報告結果はバラバラであった。
午前5時10分  陸上自衛隊立川基地からのOH-6ヘリが墜落現場を確認し「御座山東方約5キロ」(これはぶどう峠にあたる)と報告。
午前5時30分  就寝中の首相に対して、墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えらたとくに反応がなかったという。(中曽根首相は最後まで墜落現場には行っていない)
午前5時33分  V-107ヘリが「三国峠の340度3~4キロ3㎞で機体確認」と報告。
午前5時37分  長野県警のヘリ「やまびこ」が墜落現場を確認する。「御巣鷹山南南東約2㎞、県境から東方に700mに機体散乱。現場は群馬県側」と報告する。この情報が正確だった。その後、各自衛隊や警察のヘリによって次々と墜落現場の状況が確認された。
午前5時40分  空自熊谷本隊91人が北相木村役場到着。
午前5時45分  上野村消防団員に出動命令が流れる。
 この時点での日航総括レポート「陸上自衛隊第12師団の発表によれば「御座山東7㎞、南4㎞の地点に白い尾翼発見。さらに500メートル離れたところに黒こげ物体発見」。12師団は1000名出動。長野県警の発表によれば御巣鷹山南南東2㎞、県境の東700mのところに墜落物体発見」。 
午前5時50分  空自百里RF4E偵察機2機が写真撮影で発進する。
午前6時15分  陸自立川HU―1が東部方面総監部に映像伝達。
午前6時30分  観測ヘリから陸上自衛隊東部方面総幹部に現場の画像が届く。それを見た幹部は部隊をヘリからラペリング(懸垂降下:地面に垂直なロープによって人員を降ろすこと)で降ろすことに決定、習志野駐屯地の第1空挺団の編成が開始される。
午前6時40分  空自静浜115人が北相木村小学校到着。
午前6時50分  日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろした方が得策」と現地派遣団から連絡が入る。
午前7時  群馬県警機動隊40人が上野村猟友会会長の案内で本谷林道から現場へ向かう。上野村消防団の全8分団も中ノ沢と本谷の2つの林道に分かれて現場に向かう。松本連隊情報小隊14人が長野県側から入山する。
午前7時10分  海上保安庁、航空機で海上捜索。
午前7時30分  日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろす。検死は上野村小学校で行い、遺体の安置は藤岡市民体育館、遺族休憩所は安置所付近に設置予定」と警察庁から連絡が入る。※結局全て藤岡市民体育館になった。
午前7時54分  陸上自衛隊第1空挺団(重高昭教一佐)73名の部隊が習志野駐屯地をヘリで離陸発進する。
午前7時55分  長野県臼田町営グラウンドから長野県警ヘリ「やまびこ」に乗り込んだ長野県警レスキュー隊の隊員2人が現場から2,3㎞下流の沢にロープを使って降下する。 (現場は火災がまだ燻っており、直接降りるとローターの強力なダウンウオッシュ(風圧)でまた火災が広がる恐れがあった。その為、現場から二キロ程離れた沢の砂防ダムに降下した)  現場まで30分と見積もり沢沿いに現場に向かう。
午前8時頃  上野村消防団第4分団々員が墜落現場に到着。

【墜落から14時間後、救援隊が救助開始】
 救出が遅れた理由として、辺りが暗くなってきた為に、本格的な夜間救難装備がないことなどを理由として、事故当夜には救難員が降下しての救助活動が行われなかった。それならば翌朝の5時になれば夜明けで明るくなっている訳であり、一刻も早い対応するのであればこの頃より救出活動が始められたはずであろうが、実際に始められた午前8時過ぎだった。これを確認する。
 午前8時30分、千葉県船橋市・陸上自衛隊最強の第一空挺団が、3機のKV107Ⅱバートルヘリから焼け爛れた斜面に直接ラペリング降下。降りて早々に自衛隊幹部により乗員乗客の「全員即死宣言」。
 午前8時30分、墜落からおよそ14時間過ぎ、午前4時前に出発したレスキュー隊()が墜落現場に到着する。長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下する。

 現場に一番早く到着したのは、土地勘を有し、山ですべりにくい地下足袋をはき、日の出とともに登った地元の上野村消防団だった。但し、最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」と証言している。


 墜落現場では機体の残骸が大きく二つに分かれていた。一つは機体前部~中部胴体で尾根上部分にあった。もう一つは機体後部で、尾根から滑落して激突した「すげの沢」の谷底にあった。
 救助活動の遅れについては、アイソトープの積載原因説が云われたことがある。当機には医療用アイソトープ(放射性物質)が92個積載されていたため、当墜落事故では放射能汚染による二次災害と云うものが大いに懸念されたと云う。この点については、科学技術庁により翌朝の04時50分に、「そのアイソトープは人体に支障なし」との発表がなされるまで、墜落から約9時間が経過している。これを逆に云うと、現場近くに入山した自衛隊員(14名)は、アイソトープ情報のため現場を見ながら約2時間待機したということでもある。その頃には県警の指示の遅さにしびれを切らした地元の消防団員の一部が、墜落現場へ向かい出していた。救助活動の開始がもっと早ければ、もっと多くの生存者を救出できたはずとの非難の声がある。この救助活動の開始に遅れがあったため、自衛隊・米軍等の行動が疑われ、事故原因に関して自衛隊、米軍等の関与説まで飛び出し、今も、その説が根強くある。この点、墜落現場での安全確認が出来ていない科学技術庁が、「そのアイソトープは人体に支障なし」と発表することは、相当な英断であったろうと思われる。結果的には、この英断が、幸いにも四人の生存者の救出に繋がっているようにも思われる。

【長野県警レスキュー隊が生存者4名発見】 
午前8時35分  警視庁ヘリ「おおとり」上野村からレンジャー8人乗せ現場へ向かう。
午前8時49分  陸上自衛隊第1(習志野)空挺団が尾根の上の墜落現場に直接ラペリング降下を開始する。その後、現場に降下して救難活動を開始。測定機材をヘリで運び放射能について 調べる。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始された。
午前9時まえ?  立命館大学深井教授一行4人が墜落現場に到着する。教授一行が現場入りした時間ははっきりしていない。証言によると”現場に入った時、周りは静まり返っていた”とあるから空挺団が現場入りする前に到着していたのかもしれない。深井教授はこの他にも「奇妙な証言」をしている。消息を絶ってから13時間が過ぎていた。
午前9時00分  山下運輸大臣による第2回対策会議。
午前9時20分  松本連隊情報小隊14人が墜落現場直前に到着する。この部隊は現場を目前にしながらも2時間後、本隊300人と合流するまでアイソトープ情報のために待機し続け、現場に入らなかった。すでに東部方面総幹部からアイソトープの無害発表が出ていたが現場までにそれが通じていなかった。
午前9時25分  ヘリから降下していた長野県警レスキュー隊の2人が徒歩により水平尾翼の落下現場に到着する。
午前9時30分  第1空挺団73名が現場に降下する。陸幕に「降下地点、目下生存者なし」と報告。
午前9時30分  陸自松本連隊情報小隊14人が長野側から墜落現場直前に到着する。
午前9時30分  上野村消防団第5分団(黒沢武士団長)が墜落現場に到着する。
午前9時48分  藤岡公民館に日航対策本部が設置される。
午前9時54分  習志野第1空挺団73人の降下が完了する。
 当日、中曽根首相は軽井沢の別荘にいて事故のことを知らなかったと報道されている。次の日、東京にもどって車を降りた時、記者達から事故の件を知らされたところ、中曽根のすっとぼけた表情がテレビに映されている。「本当に知らない意外な事実を知らされてびっくりした時の顔と、知っていながら知らないふりをするときのとぼけた顔の違いはテレビを通してより一層わかるものである」とコメントされている。
午前10時00分  政府が第2回対策本部会議。
午前10時15分  群馬県警機動隊が墜落現場に到着する。
午前10時15分  立命館大学の深井教授一行4人が墜落現場に到着する。
午前10時15分  上野村猟友会が墜落現場に到着する。
午前10時20分  警視庁ヘリ「おおとり」のレンジャー部隊8人、遺体捜索。
午前10時40分  長野県警(山岳救難隊)レスキュー隊の2人が墜落現場に到着する。スゲノ沢に降りる途中で上野村消防団5・6人と合流しスゲノ沢に降りる。
午前10時40分  空自YS―11、現場上空で管制活動。
午前10時45分  第12師団第3次偵察部隊の2人(関根貞夫二尉、小林幹夫一曹)と第1次隊の2人が墜落現場に到着する。この後は時間が経つにつれ墜落現場に(報道関係も含めて)どんどん人が入ってくる。
 尾根上は、自衛隊ヘリから降下した部隊や、長野県側から徒歩で突入した部隊が捜索活動を開始した。「すげの沢」は、現場から少し離れたところに隊員を下ろした長野県警ヘリから降下した2人と、上野村から沢沿いに徒歩で登ってきた猟友会や消防団を中心とした部隊が捜索活動を開始した。
午前10時54分  生存者は「すげの沢」側の現場で発見された。長野県警レスキュー隊員が生存者を1人(非番乗務員女性の落合由美)発見。
午前11時  第12師団偵察部隊、上野村消防団と合流し上方の空挺団に生存者発見を連絡する。「まだ生存者が居るぞ!!」のどなり声を聞きつけて集まった空挺隊員の助力を得て生存者の救出に向かう。
午前11時3分  長野県警レスキュー隊員と上野村消防団員が続いて生存者2人(家族連れの主婦吉崎博子(34)とその娘の吉崎美紀子(8))を発見した。これで生存者「3名」となった。この情報は麓の対策本部だけでなく尾根上の部隊にも通報された。
午前11時5分  長野県警レスキュー隊、上野村消防団(仲沢一男ほか)が生存者1人(中学生少女/川上慶子(12))を発見し搬送した(「 陸上自衛隊松本駐屯地第十二師団偵察隊発見」の記述もある)。陸上自衛隊空挺団によりヘリコプターで吊るされて機内へ移送される様子が何度もテレビで放映され感動を呼んだ。
 「事件の真相考その6、生存者情報二転三転考

【救出時の貴重証言】
 「★阿修羅♪ > 昼休み27」の愉快通快氏の2009 年 9 月 21 日付投稿「日航ジャンボ123便 円盤状の散弾が無数に飛んできてあちこち傷だらけになった」転載。
 スゲノ沢では呼び掛けるといっても機体の瓦礫だらけだった。今から思えば川上慶子さんが脚を動かし、上の瓦礫が少しずつ空間に落ち込み、表面に出ている余り大きくないお盆くらいの瓦礫が少しずつ下がり、「これはおかしいぞ」ということになった。幾人かがそこをずっと見ているうちにまたその場所が下がった。いずれにしてもそこに誰かいるぞということになり、とにかく行って見ようとわれわれが歩き始め9メートルくらい歩いて行った時に瓦礫の奥から手が出た。その手は吉崎博子さんの手だった。「ソラッ」と上野村消防分団員全員がダーッと寄って行った。吉崎美紀子さんは斜面に脚の方がちょっと高くなっている状態だった。吉崎博子・美紀子さん母娘がいた後ろは土が土間状で、川上慶子さんと落合由美さんは機体の瓦礫の中に埋もれていた。吉崎博子さんに呼び掛けをしたら応答はあった。「助けてください」という身振りで身体中が腫れ機体のグラスファイバー等で凄い埃を被り、服もズタズタだった。吉崎美紀子さんは黙っていて顔色も悪くもうまったくグッタリし、応答もなかったので上の仮設ヘリポートまで上げるまでに駄目になるかと思うほどだった。

 生存者4名はすべて3メートル以内の三角形範囲内にいたわけだが、川上慶子さんを瓦礫の中から救出している時に、落合由美さんの手が瓦礫から出て自分はそこへ行ってその手を「もう大丈夫だよ」と言って握ってやった。ところが瓦礫が入り組んでいて、なかなか取り除けなかったが落合由美さんは確かに生きていて、落合由美さんに自分が「今、順番に瓦礫を取り除かないと出せないのでもう少し我慢するように」と言った。川上慶子さんは幾人かで瓦礫を捲り、その時は自衛官も来たし長野県警レスキュー隊員も飛び込んで来た。川上慶子さんの上半身はまだ見えず横に寝た感じで下半身が腰から上に上がっている格好で、脚をバタバタ動かしたのだろう。自分はレスキュー隊員と川上慶子さんの脚を持ったが、脚は随分とあちこち切れて怪我をしていた。自分が川上慶子さんに「脚の他にどこか痛い所はある?」とか「もし痛い所があったら脚を動かしてみて」と言ったらそれなりに川上慶子さんは脚を動かした。とにかく川上慶子さんは短パンで日焼けして真っ黒だったので、最初男の子だろうということになり早速無線で「男の子が入った」と連絡した。その後瓦礫から引っ張り出した川上慶子さんの顔はどっちかといえば男っぽい顔をしていて、出した時も女かな男かなという感じだった。「女の子?」と聞いたら「ウン」と言っていた。
 サンデー毎日・1985年9月1日号「入院当時の症状」その他参照。
落合由美(26) 骨盤骨折、左上腕と前腕骨折、全身にスリ傷、血圧120、意識正常。
吉崎博子(34) 右第9・10・11肋骨骨折、鼻骨骨折、意識明瞭、血圧110
吉崎美紀子(8) 左大腿部骨折、右大腿部骨折、左第8肋骨骨折、血圧90~70と不安定、ショック状態、アゴ挫傷
川上慶子(12) 右上腕神経マヒ、右親指伸筋腱断裂、右第5肋骨骨折と血胸、手足に切り傷、脱水状態、意識鮮明だがショック状態。

【その後の救援活動】 
午前11時30分  現場からのテレビ生中継が始まる。日航現地本部、北相木村から上野村へ移動。
午前11時45分  政府対策本部から日航に「運輸大臣、航空局管制保安部長、官房副長官らが現地に向かう予定」と連絡が入る。
午後12時30分  日赤の医師1人、看護婦3人がヘリコプターで墜落現場の尾根に到着、生存者4名の応急処置を開始。(このことは自衛隊が救助の医療専門家を同行させていなかったことを意味する)
午後12時45分  運輸省から日航に「事故調査委員会12人をヘリで現地に派遣する」と連絡が入る。
午後13時29分  生存者4人の自衛隊ヘリつり上げ収容開始。川上慶子さん、吉崎さん親子、落合由美さんの順で搬送された。
午後13時40分  高木日航社長が藤岡市公民館現地対策本部に到着する。
午後14時8分  生存者2人(吉崎博子さん、落合由美さん)を乗せた自衛隊のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸。
午後14時12分  生存者2人(川上慶子さん、吉崎美紀子さん)を乗せた東京消防庁のヘリが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸。
午後14時13分  先の生存者2人が多野総合病院に着く。後の2人も同じ病院に搬送され応急手当が始まる。
 日航役員の松尾芳郎氏と真弓義康の二名が「見舞い」と称して落合さんの病室を訪ね、聞き取りをしている。群馬県警はこの面会を禁じていない。
午後15時21分  川上さんが国立高崎病院に移送される。
午後16時15分  遺体安置所が第1小学校体育館と藤岡市市民体育館に変更される。
午後17時00分  山下運輸相、藤岡北中学校で遺族に対し陳謝。運輸省航空事故調査委員会が13日の調査を実施しないことに決定する。

【8月14日の動き】
 遺族待機所・遺体安置所として、群馬県藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎が開放された。遺体の搬出には、陸上自衛隊、東京消防庁、近隣各県警、警視庁、海上保安庁のヘリコプターが投入された。ヘリコプター発着場所は、藤岡市立藤岡第一小学校・校庭、8月14日午前9時頃、墜落現場から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市へ、遺体搬出作業が開始された。

 地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部および東京歯科大学の教授陣・法医学者・法歯学者・歯科医師・看護婦、日本赤十字社関係者などが、身元確認作業に従事した。しかし、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、尾根およびその周辺で発見された犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。

 本人確認できなかった遺体(衝撃などで断片化したり火災で炭化したもの)は荼毘に付された後、123の骨壺に収められて上野村の「慰霊の園」に納められた。その後、現場から発見された遺骨を同様に扱ったため、現在「慰霊の園」には124の骨壺が納められている。

 機体の残骸は2週間かけて運びだした。民間の業者に委託して、ヘリで山のふもとに下し、仕分けしてトラックで東京に運んだ。その総数は1330点。計41トン、トラック20台分になった。





(私論.私見)