事件の真相考その1、事故経緯検証

 更新日/2017(平成29).9.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」には不可解なことが有り過ぎる。これを確認しておく。「JAL123便 日航機墜落事故の真相」が論証している。その他多くの論者が考察している。これらを参考にする。


【日航123便航空機事故は国際刑事裁判の案件である】
 日航機事故の当時は第二次中曽根内閣。中曽根康弘が内閣総理大臣、航空を含めた運輸行政を司る運輸大臣は山下徳夫、防衛庁長官は加藤紘一、内閣官房長官は藤波孝生だった。
 「日本航空123便墜落事故を検証する」。 

【「ボイスレコーダーを一切非公開」考】
 「2007.04.04御巣鷹山日航ジャンボ機事件の真相」その他参照。
 「御巣鷹山のクラッシュで一番怪しいのは、最重要な証拠となるボイスレコーダーを、乗員のプライバシーを保護するという理由で、一切公開しなかったことである。10年ほど経ってから、その一部を公開したものの専門家の分析ではその音声には数々の編集跡がみられるとのこと、さらに大事な部分がカットされてる模様だ。このカットされたところに真実が隠されていると思うのが自然だろう」。

(私論.私見)

 このことが本当なら国家犯罪であろう。日本政府は弁明の義務を負う。国会議員は数多くいるが、どの党も議員も何故にこのことを追及しないのか。れんだいこには信じられない。察するに、ピット内の遣り取り、交信記録には「公開したくてもできない、事件の真相に迫る重要会話がある」と云うことではなかろうか。これを恐れているのではなかろうか。中曽根政権下の事であるから中曽根首相に説明責任がある。存命中に「ボイスレコーダーの全面的開示」をされんことを要請したい。編集跡がみられるであれば、編集前の原文を取り戻したい。

【「自衛隊演習による誤爆説」考】
 「123便の最初の衝撃」に関連して、「自衛隊員が真実を語る」が次のように記している。

 「当時から今日まで友人が語ってくれた話がどうしても私の脳裏から離れる事ができないのです。事故当時、航空○○隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話です。友人は、私(普通の一般人)に対して嘘をつかなければいけない理由なんてないだろうし、そして、まだ事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、『123便の事故は、本当は○○隊が墜落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ』と言っていました」。


 事実この日、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が相模湾・伊豆沖で試運航中であった。「まつゆき」は最新の高度ミサイル防空システムを備えたシステム艦であり、艦対空ミサイル「短SAMシースパロー装置」が搭載されている。来襲するミサイルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空することを任務としている。当時のこの軍事技術が後のイージス艦の開発につながっていくことになる。「まつゆき」が、ミサイルの発射実験とその誘導レーダーの操作、命中についてのテスト訓練をやっていた可能性がある。これを米軍のC-130やもう1機の米軍の正体不明機が日本の巡航ミサイルの発射実験をモニターしていたと考えられている。米軍は、民間機、軍用機を問わずコックピットと管制塔との交信すべてを傍受するシステムを敷いている。所沢市の東京航空交通管制部(東京ACC)のすぐ隣りに米軍の通信傍受施設がある。この演習の一環で、相模湾上空にさしかかったJAL123便を標的としたとする推理が成り立つ。航空評論家の関川栄一郎氏は、JAL123便の垂直尾翼にぶつかったのは、この無人標的機ではないかとしている。JAL123便の尾翼が吹き飛んだとみられる地点の南40キロメートルの高度1500フィート付近は、R-116という自衛隊の演習区域になっている。自衛隊戦闘機パイロットの中には、民間航空機を敵機とみなして訓練する者もいるという。ボイスレコーダなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているフシがある。事故調査委員会はそういう事実も知ったうえで、あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であるとしている。
(私論.私見)
 今や、事故調査委員会の圧力隔壁破損説を信じる者は居ない。「自衛隊の演習誤爆説」はかなり説得力があるが、この説もこれだけでは不十分であろう。誤爆なのか意図的故意のミサイル攻撃だったのか更に突っ込んで明らかにせねばなるまい。

【「エマージェンシー・コール」である「スコーク77」即発信の不可解考】
 JAL123便は、6時24分35秒時点に垂直尾翼に衝撃を受けたで7秒後の24分42に、滅多に発信されないいわゆる「エマージェンシー・コール」(緊急通信)である国際緊急無線信号「スコーク77」を発信している。「スコーク77」とは、「航空機を識別するためにトランスポンダ(中継器)に設定する4桁の数字を、ATCコードあるいはスコークと云い、0000~7777まで使い分け設定されている。7700だと緊急事態、7600は無線通信不能、7500はハイジャックされた時に使う。つまり、スコーク77とはトランスポンダに7700を設定したということを意味しており、音声で連絡しなくても自動的に当該飛行機が緊急事態に陥ったことを知らせる。機械(トランスポンダ)が自動的に状態を発信し続けてくれる」と云う機能である。飛行機がハイジャックされたり、他から攻撃されたようなときに発信する緊急信号であり、めったなことでは使わない。そういう「スコーク77」を直ちに発信した異常性を見て取る必要がある。123便がいきなり「スコーク77」の発信指示したと云うことは、よほど危険を感じるような事件が発生していた可能性が高いと云うことになる。

【戦闘機の日航123便追尾の不可解考】

 「ダッチロールする123便に対する戦闘機の追撃説」があり、123便を戦闘機みたいなのが2機追いかけていたと云う。これにつき、山崎豊子氏の「沈まぬ太陽/御巣鷹山篇」(新潮社刊)は、この演習用ミサイル衝突説について次のように記している。

 「藤波調査官ですね」。再び、声をかけられた。今度は三十そこそこの男性だった。「そうですが―――」。「週刊日本の記者です、ちょっと話を伺いたいのですが」。行く手を阻むように言い、名刺を差し出した。(一部略)「どのような話ですか」。「実は、事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な話を仕込みましてね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓練に使う標的機が、たまたま飛行中の国民航空123便の尾翼に衝突したらしいのです、ご意見を聞かせて下さいませんか」。(駅の)ホームで、記者は強引にコメントを求めた。「いきなりそんな突飛なことを言われても、答えようがないですな」。「おや、おとぼけですか、それとも政府、防衛庁は、事故調査官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなんですかね」。嫌味な言い方をした。「確たる証拠でもあるのですか」。「事故機が、最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛隊の護衛艦『たかつき』が、相模湾でちょうど演習中だったのですよ。現に事故の翌日、相模湾内に尾翼の重要部分である垂直安定版が浮いていて、回収されたではありませんか」。

 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の戦闘機の存在が、この件に関するマスコミ報道では完全に伏せられている。しかし、これを目撃した人物がいる。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したという。後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため「疑惑/JAL123便墜落事故」(早稲田出版)という本を出している。目撃状況を次のように語っている。

 「このとき私は日航123便を目撃していた。山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間地点の東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は『エッ』と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。『あれはさっきの飛行機JAL123便じゃないな』と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていった。この間5~6分の出来事である」。
(私論.私見)
 「2機の戦闘機の123便追尾目撃情報」は角田氏だけであるが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていない。

【戦闘機のミサイル攻撃説について】

 JAL123便に対してミサイルが撃ち込まれたのかと云う説がある。JAL123便が墜落する前に、F-4EJ戦闘機2機、F-15J戦闘機1機の3機の自衛隊機が周辺を飛行していた。結果的に、JAL123便を御巣鷹山方面に強引に誘導した。そして、F-15J戦闘機がJAL123便に対してミサイルを撃ち込んだとしている。F-4EJとF-15Jは共に米国製要撃戦闘機で、F-15JはF-4EJの後継機である。なぜミサイルが撃ち込まれたのかにつき次のように推理されている。JAL123便は何とか山中に不時着しようとしていたと考えられる。機長をはじめとする操縦クルーは既に何が起こっているのかを理解しており、山への不時着は多くの生存者が出る可能性を踏まえての機長の判断であると思われる。これに対し、F-15J戦闘機は、JAL123便が稜線を越えて、人目につきにくい山かげに入るのを見極めて、2発のミサイルを発射した。このとき要撃戦闘機とミサイルの航跡を地上から目撃されないように稜線を縫うように実に巧妙にJAL123便の後部にまわり、ミサイルを発射している。 ミサイルは、赤外線追尾方式であり、1発目はJAL123便のエンジン部分に命中したとみられる。ミサイルの爆破エネルギーは機体の前部と中部を貫通し、その付近の乗客・乗員を機内で粉砕した。JAL123便は右旋回しながら、火に包まれながら真っ逆様に急降下した。これを確認して要撃戦闘機は、2発目のミサイルを発射し、とどめをさしている。

 JAL123便の最後の様子は、地上からかなり多くの目撃情報がある。墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは、「夕やみに“火の玉”」とある。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のようにいっている。

 「マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた」(浦和市に住む住民の目撃証言)。

 「埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた」(長野県川上村住民)。

 「ゴーンという音をさせながら、航空機が低く飛んでいた。長野、山梨、埼玉県境の甲武信岳方面から飛んできて上空を右に旋回して北東の方に行った。まもなくして、雷が落ちるようなバリバリという大音響がし、二度ほどパッパッと光った。そのうちネズミ色のキノコ雲が上がった。墜落したなと思った」(長野県川上村住民)。

 新聞各紙も次のように伝えている。
 「飛行機が飛んでいった後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいくのが見えた」(南相木村中島地区住人3人、8月13日付、読売新聞朝刊)、「7時(19時)頃、真っ黒い煙をあげながら、群馬県境の山中へ墜落した」(川上村鶴田汪さん、13日東京新聞朝刊)、「飛行機が赤い炎を上げ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた」(川上村中島初代さん、13日朝日新聞)、「扇平山と神立山の交差する稜線の向こう側(南相木村側)に消えた。その直後、ピカッと閃光が上がり、続いて炎が燃え上がるのが見えた」(川上村井上薫さん、週刊プレイボーイ』11月26日号)、「だれかが光るものが飛んでくる、と叫んだ(中略)山の向こう側に真っ赤なキノコ雲が立ち上がった。それは数秒で消えて2つ目のキノコ雲が現れた」(川上村加藤隆志君、9月7日付、毎日新聞朝刊 )、「西空をながめていたところ、突然、雲のすき間から太陽が射すようなオレンジ色のせん光を見た。双眼鏡でのぞくと、(中略)大型機が北の方へ消えた」(埼玉県浦和市吉岡功治さん、8月13日朝日新聞朝刊)。

 機体がミサイルで爆破されたのではないかと思われるもうひとつの証拠と考えられるのは、乗客・乗員の遺体の損傷があまりにもひどかったということである。520人のうち、本当にきれいな遺体は10体程度といわれている。とくに機体の前部については、飛行機らしい形をとどめておらず、アルミホイルを千切ってばらまいたようになっており、遺体もただの肉片になってしまっている。山に激突したとはいえ、あれほどにはならないと専門家もいっている。それでいて、機体後部の乗客・乗員のそれは粉砕されていない。生存者も機体後部から見つかっている。それに機体前部では、歯や肉片といえども遺体が発見されていないケースも多々あったといわれている。おそらくミサイルの痕跡を示す遺体はすべて自衛隊の特殊部隊によって持ち去られたのではないかと考えられる。

 『疑惑/JAL123便墜落事故』(早稲田出版刊)の著者、角田四郎氏は、御巣鷹山の現場登山に行ったさい、ある金属片をひろって持ち帰り、事前説明なしで、友人の航空機の整備士(米国人)に鑑定を依頼している。結果について次のように記している。

 彼の答えは、私のド肝を抜いた。「たぶん」と疑問視を付けて慎重に、しかし、はっきりとこう言った。「ミサイル」(This is missile.)。「まさか!」(Not Really !)。「たぶん、ミサイル」(Maybe missile.)。

 池田昌昭氏は次のような仮説を立てている。それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説である。この時、日米政府は、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイルの演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼にぶつかり、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認し、これを隠す必要に迫られた。JAL123便を人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突させ、機体をこなごなに破壊し、垂直尾翼の痕跡もろともすべてを隠蔽することを決意した。しかし、JAL123便の機長が必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかと云う。


【「破損した尾翼の収拾捜査怠慢」について】
 最初に事故が発生したのは相模湾上空で、その海底には尾翼部品が沈んでいる筈である。それらを引き揚げて調査・解析することによって、初期破壊がどこに発生したのか、そしてその破壊がどのように進展していったかを知ることができるにもかかわらず、海底からの部品の回収と、それらに関する調査・解析を全くと云っていいほど行なっていない。これも不可解である。

【「事故後約10時間にわたる救援禁止」について】
 7時30分時点で実際の事故機墜落現場が分かっていたのに、翌朝までマスコミには行方不明と発表させていた。そして、わざと違う事故現場を報道させ地元民らは救出に向かおうとしていたのに救出に向かうことを禁止した形跡が認められる。又、墜落からおよそ1時間半後の20時すぎ、日航からではなく日本アイソトープ協会から事故機に医療用ラジオアイソトープ92個が積まれていることが警察庁に届け出された。これにより放射能汚染による二次災害情報が流され、安全確認待ちで待機状態が続いた。これにより、救出許可が下りるまでに相当の時間が費消された。尤もらしく「関西地区への放射性物質の輸送定期便だった」、「当時の747の尾翼部には劣化ウランが方向舵と昇降舵の重りとして使われていた」とする説がある。しかし、それならそれで、現場検証の結果、放射能汚染がどうだったのか説明されねばならないだろうに特段の説明がないまま有耶無耶にされている。朝の04時50分、科学技術庁より「そのアイソトープは人体に支障なし」との発表がなされた。墜落から約9時間が経過していた。この為、現場近くに入山した自衛隊員(14名)は現場を見ながら約2時間待機したと云われている。

 防衛庁長官は墜落現場上空までヘリでやって来たと云うのに救助の指示も出さぬまま、13日の午前0時5分から緊急会議を開いていたと云う。そして、夜中の2時に発見したと言う事にして、やっと翌朝から救助活動が開始されたと云う。
(私論.私見)
 これは事実である。

【「アントヌッチ証言」について】
 「アントヌッチ証言」と云うものがある。「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(2)」その他が紹介している。これを確認しておく。 

 1994.9.25日、テレビ朝日「ニュース・ステーション」が、「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映した。航法士(ナビゲーター)マイケル・アントヌッチ氏が登場し重大な証言をしている。同氏は1982年から90年まで米空軍に在籍していた履歴を持つ。1985.8.12日、米軍C-130輸送機に搭乗して沖縄の嘉手納基地から横田基地へ帰還中、123便墜落事件に遭遇している。その時、同機は横田基地からJAL123便の探索命令を受け、一帯を捜索した。この時の見聞を証言している。マイケル・アントヌッチ氏は、「1995年9月28日号週刊文春」でも同様証言している。日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突如「アントヌッチ証言」が掲載された。この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」が掲載している。この三文を、れんだいこが意訳する。

 マイケル・アントヌッチ氏は証言の心境を次のように述べている。
 「123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない」

 そして、次のように証言している。
 概要「当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分頃、我々は沖縄の嘉手納基地から横田基地に向け飛行中、大島上空にさしかかった。この時、123便の「エマージェンシーコール」を知った。われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分頃、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。我々は、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。この時から、我々は事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

 横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。我々にも横田基地への進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えたと伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。我々は、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け捜索に向かった。管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていた頃、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、辺りが段々と暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。
当機の指揮官ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の正確な位置をつかんでいたのだ。横田管制からC-130に再び連絡が入り、我々の現在地から約40マイルの厚木基地(「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間からともある)から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

 副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。
当機は8時30分まで旋回を続けた。その時、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっているといわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリUH-1のライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。木の梢から15メートルのところまで降下した。午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。我々に司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

 
将校は、「直ちに基地へ帰還せよ」、「日本側が向かっている」といったので、「司令部、海兵隊は救助続行を希望している」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解し、地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていった。我々の到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊(第316戦術航空団ともある)副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。しかし、今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

 我々は、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。その時、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令を我々に伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。翌日のニュースや新聞を見て、我々は愕然とした。
ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示したという自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

 墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になったタイムとニューズウィークを買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。「残骸の下で動けなかったが、やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」、「次第に私は眠くなった」、「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」。落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。


 ニューズウィーク誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかったと述べている。しかし、その時刻は我々が墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかった時から11時間もたってのことだった。こういう大惨事での米国の役割については、タイムやニューズウィーク誌でも、我々のC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。ニューズウィークは、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

 またタイムは、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかったという軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていたと聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」、「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

 私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。我々乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、我々の期待とは随分かけ離れていた。我々は、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあったということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなど誰一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、我々がそこを飛んでいたことなど誰も知らないのだから報道されるはずもなかった。

 1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、その時、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある。「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」。私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

 日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は、『もし発見がもう10時間早ければ、我々はもっと多くの生存者を発見できたであろう』」。
 「このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。 それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです」。
 マイケル・アントヌッチ氏は『週刊文春』1995年9月28日号でも次のように述べている。
 「 あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたときたまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに確認できた。墜落の2時間後には、アメリカ海軍(陸軍?)の救助ヘリが現場に着いた。あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたのはその14 時間も経ってからというではないか」。

 
これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示している。
 「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」。米国防総省は、「当時の記録がないので、ノーコメント」。自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしている。「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」。これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論している。「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」。
(私論.私見)
 「アントヌッチ証言」はかなり重大な事実を明らかにしているのではなかろうか。

【「墜落直後の不審な一団の現場検証」について】
 「墜落直後の不審な一団の現場検証」が伝えられている。これを確認しておくと次のように記されている。
 概要「墜落から1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめ、その数50人100人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していた。そして、米軍のC-130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げたのと同時に、墜落現場=御巣鷹山方向から信号弾が上がり、それに呼応して、一団は整然と御巣鷹山の墜落現場へ移動を開始した。おそらくその一団は特殊訓練を受けた自衛隊の秘密部隊と思われる。そして、御巣鷹山の墜落現場に入っていったという。この時刻は、米軍のC-130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致する。つまり、米軍が去るのを待っていて、信号弾を打ち上げたと思われます。彼らはそこで何をしたのでしょうか。はっきりしていることは、救助ではないことです。池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念に調べ、何やら作業をしていたそうです。そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。その時点ではかなりの生存者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。まさに見殺しです。いったいこの特殊部隊は何をしていたのか。

 墜落現場では証拠が消された。墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などであった。コックピット内は焼き尽くされた。操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれている。いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれている。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったという。乗客は全員死亡させられた」。
(私論.私見)
 これも俄かに信じ難い卒倒すべき情報である。これが事実かどうか確認されれば良い。事実なら由々しき事態であろう。彼らは何をしたのかと云うことになる。これにつき、生存者の川上さんの証言が意味深である。それよれば、「墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると、前方から懐中電灯の光が近づいて来たので、助かったと思った。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが、救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた」と証言している。「前方から懐中電灯の光が近づいて来た」とはどういう意味だろうか。「そのあとまた意識がなくなり」とは、その後に何が起こったのかの証言をぼかす為に作為されている可能性がある。怖い話である。

 「JAL破綻と墜落直後に事故現場で行われていた事」が次のような「M氏の目撃談」をサイトアップしている。(長文なので、れんだいこが意訳し簡略に要旨だけ抽出する)

 概要「M氏は、123便の廻りを戦闘機2機がぐるぐる旋回している様子と123便の墜落を目撃し、墜落現場に向かった。直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかったと云う。着いたのは、午前4時前後。山の尾根付近が白み始めていた。この時、既に自衛隊員が7~80人、いや100人位が来ていた。事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえた。声の響き方からすると少なくても4~50人が呻き声を挙げていたと思われる。しかし、自衛隊員は、『へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている』と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けていた。隊員は、バッグの他に片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いて装備していた。向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしていた。しかし救助していた訳ではない。ヘリの下では、隊員が何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていた。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思う。到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきた。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めた云々」。

(私論.私見)
 「M氏の目撃談」が本当の話なら貴重情報であるが、証言通りの秘密捜査であったら、M氏が現場に立ち入りできたり自衛隊員との会話をしていることが却って不自然でもある。そう云う意味で、参考にとどめる。

【「日航機を爆破した」との怪電話について】
 「日航ジャンボ機 御巣鷹山墜落の真相」を参照する。「日航機を爆破した」との怪電話が、防衛庁と日航にかかってきていたと報道されている。これを事故発生の翌日(1985年8月13日)に、産経新聞と山陰中央新報が報じている。その情報の詳細は、1985年8月12日午後7時48分頃、防衛庁に電話がかかり、中年の男の声で過激派と名乗り、「国防会議議長は中曽根総理だな。総理に伝えてもらいたい。日航機を撃墜した」と一方的にしゃべって電話を切った。また同日、午後8時3分頃、日本航空東京支店にも電話がかかり、過激派と名乗り、中年の男の声で、「われわれのちからで爆破した」と云うものでした。これを伝えた産経新聞社記事は次の通り。
 過激派「爆破」と電話 

 日航へ犯行ほのめかす。日航ジャンボ機墜落事故に関連して十二日夜、過激派を名乗る団体から「犯行」をほのめかす電話があった。午後八時四分、日航の予約センターに男の声で電話がかかり「我々は日航機を爆破した」といって切った。また、この直前の午後七時四十八分にも、東京・千代田区の国防会議事務局に男の声で「局長はいるか」と電話がかかった。対応に出た職員が「いない」と答えると、「国防会議の最高は中曽根か。日航機を爆破した」と同じ団体名を名乗った。政府筋は、この“犯行”について「そういう情報はある」と認めた。
(私論.私見)
 この電話は捜査上は、単なるいたずら電話として処理されている。しかし不可解なことが多い。「我々」という言葉を使っているが、誰ないしはどういう組織なのであろうか。しかも過激派を装った団体名まで伝えているとのことである。。しかも、最初に防衛庁へ電話されている。次に日航へ電話している。どうして、防衛庁へ最初に電話をする必要があったのであろうか? 「国防会議の最高は中曽根か。総理に伝えてもらいたい」の意味はなにか。「爆破するぞ」の予告の電話ではなく、「爆破した」と電話している。一回目の電話は、NHKが当事故のニュース速報を流した22分後の19時48分に防衛庁へかかり、二回目は、その16分後の20時04分に日航にかかっている。それは日航機が何処に墜落したのか、また、どうなったかも、未だ分からない時点のことである。即ち、その人物は、日航機が墜落したことを既に知っていたことを意味する。不可解なことである。

【「日本航空の役員らしい紳士によるミサイル撃墜説」について】
 16 日航機墜落の真相は? * 匿名掲示板が語る」に次のような書き込みがある。貴重情報と思われるので採集しておく。
 「もうひとつ角田氏はJAL123便が行方不明になったことがわかったとき、家族の 受付けカウンターのあった羽田東急ホテルに行ったそうです。そのとき、乗客・乗員の 家族から質問責めにあっていた日本航空の役員らしい紳士がいたというのです。家族の質問は執拗で、かなり激しかったので、その紳士は相当感情的になって、次のようなとんでもないことをいったというのです。 『うちの機は、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今はそれしかわからん!! 』」(角田四郎著、『疑惑/JAL123便墜落事故』より)。
(私論.私見)
 この情報の貴重性は、「日本航空の役員らしい紳士」が、「うちの機はミサイルに撃ち落とされたんだ。今はそれしかわからん!」と述べていたというところにある。この発言の真偽は、角田四郎著「疑惑/JAL123便墜落事故」にしるされていると云うことなので、角田氏に確認すれば良かろう。

【「森永・グリコ犯人暗殺説」について】
 「森永・グリコ犯人暗殺説」がある。これについては、「グリコ森永事件との絡み考」で確認する。

【「塚原仲晃(つかはらなかあきら)教授暗殺説」について】
 「2007.04.04御巣鷹山日航ジャンボ機事件の真相」が次のように記している。
 「究極は、一部でささやかれている「当初から或る人物を暗殺する目的だった」という可能性すら否定できない。過去記事にも書いた大阪大学の塚原仲晃(つかはらなかあきら)教授 (マインドコントロール、つまり洗脳についての専門家であり、厚生省管轄の国家プロジェクトに関与していた)の口封じという可能性だ」。

【JAL123便墜落事故】

 2013-08-19日、【JAL123便墜落事故】彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた」。

 国家機密を守るため、特殊部隊が編成され事故処理にあたった。123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。待機命令に反し、人命救助に急いだ隊員は射殺された。精神状態がおかしくなる隊員も少なくなかったという。口外すれば家族にまで危害が及ぶと言う事を暗にほのめかされ・・

 日航ジャンボ機JAL123便墜落事故(M氏の証言_完全版)
 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Pf3-eJgnOkM
 2011/1/8

 証言を箇条書き
・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に自衛隊員が既に100名程度は来ていた
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
・4~50名の生存者の声が聞こえた
・1時間後には生存者の声が全く聞こえなくなった

 (事故概略)

 1985年8月12日 18時12分に羽田を大阪に向け離陸した日航123便(ボーイング747型ジャンボ機・乗員15人、乗客509人、計524人)は離陸してまもなく大島西方上空付近で機体の異常を訴え、数十分間ダッチロールと呼ばれる異常飛行の後、18時56分すぎ、群馬県上野村の三国山の北北西約2.5キロメートル、標高1,565メートルの通称・御巣鷹の尾根に激突し炎上した。4名の重傷生存者と520名死亡の犠牲を出した。 

 このとき、横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。

 米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせている。

 自衛隊は、当日から明け方まで墜落場所の誤報を意図的に繰り返していた。朝になって長野県警のヘリが正確に位置を確認、生存者を発見したのも長野県レスキュー隊。自衛隊はそれまで何かを運び出すのに精一杯)だった。(意図的誤報についての引用元

 実際の事故機墜落現場は早くからわかっていたが、訓練中の標的機(オレンジ色)が123便にぶつかった残骸の回収を優先

 JAL123軍事破壊・軍事焼却の背景は中曽根康弘軍事指揮にあり
 http://heiwarikkoku.jugem.jp/?day=20100601 より(抜粋引用)

 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。ナゾの自衛隊のチームの ナゾの10時間の行動。かれらは なにをしていたのか。狭い空間に三人もいて高浜(機長)さんだけ木っ端微塵になったのはなぜですか。コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

 当時 突然 垂直尾翼が大破し 不可解な「攻撃されているというSOS信号」が発信され(JAL123便の「スコーク77」の発信) 自衛隊機2機がスクランブル発信しました(自衛隊のマッチ・ポンプ?)。そのあと墜落までの数十分間 管制塔との交信がされていて レーダーでも捕捉されています。そして 空中で ナゾの爆発が2回起こり(前後に付き添う2機の自衛隊機が目撃されています) とうとう 御巣鷹山に墜落。

 「奇跡的四人の生存」の件だが、これは現場自衛隊員による、上官命令に逆らった「名誉ある反乱」の結果だろう。軍事隠蔽からすれば「全員死亡」がシナリオだった筈だ。御巣鷹山墜落現場に辿り着いた消防・救命救急及びアメリカ軍・救命救急まで「軍事拒否」している訳だし。

 自衛隊員の告白 本当の話です。事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と。 

 実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。

 日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺! JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースで発表

 これもまた鋭い資料だ!!!2007年08月27日
●衝突6分前から気付いていた操縦クルー(EJ第1056号)
 JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたのではないかと思われるフシがあります。

 JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と江ノ島が見えます。高度は、約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。この写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。(抜粋引用終了) 

 加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)

 事故当夜、現場の上空まで行っていた!! 遭難者を救助する前に、自衛隊が「大事件」証拠物件を搬出するのを見届けに行ったのか?
 http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2010/08/post_1819.html より(抜粋引用)

 この"重大事件"を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか? 

 2機の自衛隊機が、ミサイルで123便を撃墜したという説(池田昌昭氏)もある。また、二つの原爆の様な「きのこ雲」が湧き立つのを見たという、多くの目撃証言もある。さらには、墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が、「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれは、すでに聞いている。

 それゆえ、私は、正直に問いたい。中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁、とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?! 何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。そればかりか、早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が、待機命令違反というだけで、なぜ、射殺されなければなかったのか?!加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、当日、あなたは、当時の中曽根総理から、一体、如何なる命令を受けられたのか?! 第一、あなたは、事故当夜、現場の上空まで行っていたというではないか! 一体、何をしに行ったのか? 遭難者を救助する前に、自衛隊が、「大事件」の証拠物件を搬出するのを見届けに行ったとでも言うのか?!(中略)

 実は、この時、操縦桿を握っていた佐々木副操縦士こそ、少年の頃、私が、心から憧れていた先輩である。まさに、「事実は、小説よりも奇なり」である。佐々木先輩のご母堂は、彼の没後、私の母に、こう語られた。「息子は、戦死しました」と。今、私には、この言葉の意味が、よく分かる。今日、そのお母様も、もう、この世におられない。『日航123便はなぜ墜落したのか 2010年8月9日』 --> こちら から引用(抜粋引用終了)


日航ジャンボ機墜落と横田基地
 「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」

 「日本は現場到着に12時間もかけた」

 http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/yokota-haijack.html

 横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。運輸省航空事故調査委員会の最終報告書には、C-130が墜落現場を発見し位置を知らせてきたことが記載されていながら、その後の米軍の救出行動は一切記述されていない。その事実が明らかになったのは事故から10年後、1995年8月27日付の米軍準機関紙「スターズ・アンド ・ ストライプス」パシフィック版が「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」「日本は現場到着に12時間もかけた」の見出しでカリフォルニアの地域紙「サクラメント・ビー」の記事を転載したことによる。記事を書いたのはC-130のナビゲーターだったマイケル・アントヌッチ中尉(当時)。その記事には、いち早く現場に到着した同機から見た米軍ヘリの活動、不可解な帰還命令などが詳しく書かれている。

 彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。

 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された
 http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html より(抜粋引用)
 墜落は単なる事故ではなく、驚天動地、世界規模の大事件だった!

 8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。

 しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!?何故この部隊は救助をしない!?目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!人命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。

 「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」
 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a 

 このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱戦銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた

 「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。

 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。(抜粋引用終了)

 最重要証拠となるボイスレコーダーには、数々の編集跡がみられる。さらに大事な部分がカットされている模様だ。

 日航機墜落の真実を求めて
 「1985年8月12日発生の日本航空123便墜落事故」はネット上でも真実が解き明かされ始めた http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/

 ★★御巣鷹山日航ジャンボ機事件から23年目 特にボイスレコーダの編集疑惑や当時の加藤防衛庁長官の行動にも疑惑が。
 最重要な証拠となるボイスレコーダーを一切公開しなかった。10年ほど経ってから、その一部を公開したものの専門家の分析ではその音声には数々の編集跡がみられるとのこと、さらに大事な部分がカットされてる模様だ。おそらく自衛隊機との交信部分をカットされてるんじゃないかという気がする。(実際、スクランブルした自衛隊機が平行して飛んでいるにもかかわらず、両機が全く交信すらしないというのは考えられないこと。)
・ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった(『疑惑/JAL123便墜落事故』早稲田出版刊の筆者:角田四郎氏)
・マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。―浦和市に住む住民の目撃証言
・飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。―長野県南相木村中島地区の住人3人


 「桜井ジャーナル」の2015.08.11 「日航123便が群馬県に墜落した10年後、米軍の準機関紙に掲載された記事が日本政府に与えた影響」。
 (http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201508110001/
 日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落してから8月12日で30年になる。羽田空港を離陸して伊丹空港へ向かっていたこの旅客機には乗員乗客524名が搭乗、そのうち520名が死亡している。この出来事でも運輸省航空事故調査委員会が報告書を出しているが、例によって信頼できる内容ではない。例えば、「ボーイング社の修理ミスで隔壁が破壊された」というシナリオを正当化するため、医学的常識は否定されている。隔壁が破壊されたなら急減圧があったはずだが、機長は酸素マスクをつけていない。異常が発生してから約9分後でも123便の機長は酸素マスクをつけていないのだが、手の痙攣や意識障害はなかった可能性が高いのだ。急減圧しても酸素マスクをつけなければ、3分程度で小学校1年の国語教科書を読む速度が遅くなり、6分30秒を経過すると手に痙攣が見られるようになり、チアノーゼで指先が紫色に近くなることがわかっている。その当時に出されていた運輸省航空局(現在は国土交通省航空局と気象庁)監修のAIM-JAPAMによると、2万フィートでは5から12分間で修正操作と回避操作を行う能力が失われ、間もなく失神してしまうとしている。しかし、その件に関し、調査で急減圧実験を担当した自衛隊の航空医学実験隊に所属していた小原甲一郎は、急減圧があっても「人間に対して直ちに嫌悪感や苦痛を与えるものではない」と主張した。説得力は全くない。つまり急減圧はなく、隔壁の破壊が墜落の原因ではない可能性が高いということだ。

 では、何が原因だったのかということだが、墜落直前に撮影された航空機の写真を見ると尾翼が消えている。事故原因を探るため、尾翼を探す必要があり、相模湾周辺の海底を念入りに調べなければならないのだが、運輸省(現在の国土交通省)は調査する意思はなく、尾翼の約7割は回収されていないようだ。ところで、123便に異常事態が発生したのは羽田空港を離陸した12分後の18時24分。コックピットから東京管制部へ羽田へ戻りたいので、2万2000フィートまで降下したいと連絡、すぐに「操縦不能」と伝えている。そして18時58分に墜落。その当時、近くをアメリカ軍の輸送機が横田基地に向かって大島上空を飛行中で、日航機の管制に対する最初の緊急コールを聞く。18時40分のコールは叫び声のようで、尋常ではないと判断した乗組員は横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図り、墜落地点を19時20分に特定、報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのは墜落地点が特定された25分後の19時45分。捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を正確に把握していなければおかしい。米軍機が墜落現場に到着した直後、厚木基地から海兵隊の救援チームのUH-1ヘリコプター(ヒューイ)が現地に向かい、20時50分には現地へ到着、隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。命令を受けた後もアメリカ軍の部隊は現場にいたのだが、21時20分に航空機が現れたことから日本の救援部隊が到着したと判断、その場を離れている。

 ところが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したのは翌日の8時半。10時間以上、救援が遅れたことになるのだが、この遅れがなければ生存者も増えていたと言われている。この輸送機の話は1995年8月に「星条旗」で報道された。C-130に乗っていたマイケル・アントヌッチが当時の状況を詳しく説明している。墜落直後には箝口令が敷かれていたのだが、なぜアメリカ軍の準機関紙に証言が載ったのか?  1994年に細川護煕政権の諮問機関「防衛問題懇談会」が「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書を発表、それに反発した国防大学のスタッフ、マイケル・グリーンとパトリック・クローニンはカート・キャンベル国防次官補を介してジョセフ・ナイ国防次官補やエズラ・ボーゲルに会い、1995年2月の「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」につながる。1997年には「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が作成され、「日本周辺地域における事態」で補給、輸送、警備、あるいは民間空港や港湾の米軍使用などを日本は担うことになる。「周辺事態法」が成立した1999年にはNATOがユーゴスラビアを先制攻撃した。2000年にナイとリチャード・アーミテージを中心とするグループが作成した「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて(通称、アーミテージ報告)」では武力行使を伴った軍事的支援が求められ、「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している」と主張、「この禁止を解除すれば、より緊密かつ効果的な安保協力が見込まれる」としている。2001年9月11日の出来事をはさみ、2002年に小泉純一郎政権は「武力攻撃事態法案」を国会に提出、03年にはイラク特別措置法案を国会に提出、04年にアーミテージは自民党の中川秀直らに対して「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と言明した。2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が署名されて対象は世界へ拡大し、安保条約で言及されていた「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念」は放棄された。2012年にはまたアーミテージとナイが報告書を発表、安全保障関連法案につながっている。日本がアメリカの戦争マシーンに組み込まれる流れの出発点に「星条旗」の日航123便墜落に関する記事はある。これは偶然なのだろうか? 「星条旗」の記事を日本のマスコミは重要な事実を隠して伝えた。「星条旗」にも触れられていないが、墜落の原因をアメリカは知っていて、日本政府に対する恫喝になる内容だという可能性もあるだろう。

 日航機事故が起きた1985年8月12日、自衛艦船「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で試運航中であり、ミサイルの発射実験とその誘導レーダーの操作、命中テストの訓練をやっていたと云う。これをどう理解すべきか。私は、この日の自衛艦船「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で試運航中は、日航機事故を事前予想しての実戦だったと推理する。




(私論.私見)