乗員乗客遺族の手記、訴え考

 

 更新日/2017(平成29).8.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 あの日を忘れないで~日航機墜落事故 遺族の20年~


 昭和60年8月12日、「墜落現場を確認しました!墜落現場を確認しました!日航機の123便は墜落しました!」テレビのヘリコからと思われる、驚愕の絶叫が聞こえてきた。「わが娘の遺体を探し求め、やっとそれらしい真っ黒な両手両足と、頭部の欠損した遺体が、愛するわが子と認められることになりました。あまりの変わり果てた娘の姿に一気に悲しみが胸にこみ上げました。こんな悲惨な惨い姿になってしまったとは…」。

 20年たった現在、墜落現場の御巣鷹の尾根には、今も遺族の祈る姿がある。子供に先立たれた親、一家の主を失った妻と子、遺族は401所帯に上る。標高1560m、群馬県上野村にある御巣鷹の屋根には、うっそうとした森の至る所に、500あまりの墓標が並んでいる。亡き人を偲ぶため、遺体が見つかった場所に立てられている。羽田発大阪行きの便は、ビジネスマンの利用の多い路線だった。遺族の調べでは、520人の犠牲者のうち184人が一家の大黒柱だった。

 遺族たちは、肉親の死を受け入れられず、年に1回「愛するあなたへの手紙」という形で「茜雲」に悲しみを綴ってきた。「亡くなった命に対して、できることは何なのか。同じ思いを誰にもさせたくない。それが亡くなった方への敬意を表すことになるのではないでしょうか」。これには事故を風化させてはならないというメッセージが込められている。今年に入って航空機のトラブルが相次ぎ、空の安全が問われている。20年前の教訓は生かされているのだろうか。夕日に染まる「茜雲」に託した、遺族たちの問いかけと思いを綴る。
■遺族たちの思い(1) 谷口真知子さん(57才)
 谷口正勝さん(享年40)は大阪の会社の営業主任、上司の葬儀のため上京し、帰りに事故に会った。谷口さんは、備え付けの紙袋に短い言葉を残した。「まち子、こどもよろしく」。墜落までの32分間、激しく揺れる機内で、妻に当てて書いた遺書である。谷口真知子さんは、遺書を読み返す毎日が続いた。「パパ、いかがお暮らしですか。昨日、庭の桃の袋掛けをしました。誠は、袋つくり、あつしは脚立に乗って袋掛けです。パパが、自分の家で作った果物を子供たちに食べさせると庭に植えた、柿や桃、さくらんぼです」。事故時、長男の誠さんは中学1年、次男の篤志さんは小学3年だった。真知子さんは女手一つで育てた。その都度、「茜雲」に投稿してきた。「パパ、下の篤志は大学生になりましたよ。御巣鷹からパパと一緒に大阪に着いたとき、「ママ、もう泣くなよ」といったあの子が。上の誠は、本人の希望どおり、教育の仕事に就職しました。パパに似て子供が好きなんでしょうね」。谷口さんは夫との約束を果たせたと、肩の荷を降ろしていた。ところが、篤志さんが、ある日、私は結婚しないと言い出した。「あのように、父が一瞬にいなくなると、何かゆがんだ死生観というか、人間なんて何時死んでもおかしくないという感覚がしみついて、50歳まで生きたら十分だなあなんて。奥さんも子供もいない方がいいと考えていたのは事実です」。見合いの話は断り続けている。真知子さんは、この子の心の傷について、今年はこう書いた。「篤志は、私の良きパートナー。私が60歳になれば、私は定年。その時は、お互い良きパートナーを見つけて、母親業も退職かもしれません」。まち子さんは、「まちこ、こどもよろしく」という夫の最後の言葉を、背負い続けている。
■遺族たちの思い(2) 美谷島邦子さん(58才)
 墜落した123便には、小学校3年生の子どもが一人で乗っていた。健君(享年9)は、憧れのPL学園の野球を応援するため、大阪の親戚に向かう途中、事故にあった。「あの子と別れた3日目の朝、急斜面を這うように登りました。リュックには、子どもの着替えと山靴、雨合羽を入れていきました。山頂は地獄絵でした。炎上してまだ熱い機体を見て、生きているかもしれないという最後の望みの糸が切れました。遺体が見つかる日の前の晩、夢を見ました。あの子の体がそのまま空に登り、星になっていく夢でした。遺体が見つかりました。焼けた123便の座席12Kと書いているワッペンと、小さくないイボのある右手だけ、顔も左手も足もありませんでした。でも、やっと会えた。もう一人にはさせないよと心で叫んでいました」。美谷島さんは、遺族どおしの支えあいが必要だと考え、文集「茜雲」を作った。「家族たちが書くことと、読むことによって支えあい、あの人もがんばっている、私だけではないんだと思えるんです。お互い前に進めるように」。美谷島さんは、自宅の屋上に事故の資料や遺族から寄せられた手紙を保管している。その数は、コンテナケース14箱になった。
■日航機墜落の原因
 美谷島さんたちは、事故の原因はまだ解明されていないと思っている。当時の運輸省航空事故調査委員会の資料によると、123便の異変が発生したのは、離陸から12分後。機体の後部にある機体内の気圧を保つ圧力隔壁が大きく壊れた。機内の空気は一気に噴出し、垂直尾翼のおよそ60%が失われ、123便は航行不能となった。機体は大きく左右に揺れ、8の字を描くように蛇行するダッチロール状態になった。32分間、迷走を続け墜落した。委員会の調査によって、機体は墜落事故の7年前に、大阪空港でしりもち事故を起こしていたことがわかった。報告書では、製造元のアメリカ、ボーイング社によって行なわれた圧力隔壁の修理ミスで、日本航空のその後の点検が不十分だったことが、事故の原因だとしている。しかし、なぜ修理ミスと点検ミスが起きたのかは、明らかにされなかった。事故から5年後の平成2年7月、修理点検の担当者全員が不起訴処分となった。日本航空が、修理ミスを発見するのは困難、さらに法律の違いから、ボーイング社から事情調査ができなかったのが、その理由とされた。美谷島さんたちは、その後も国と日本航空に対して、修理ミスと点検ミスがなぜ起きたのか、再調査を要望してきた。「私達は14年間にわたるこの運動を、日航やボーイング社への復讐や恨みの気持ちでやってきたのではない。身内がなぜ亡くなったのか、その理由を知り再発防止につなげたい。そうしなければ、愛する人の死を納得できないのです」。今年、空の安全を脅かす事故が相次ぎ、日本航空は国土省から、安全対策を抜本的に見直すよう命令を受けている。美谷島さんは、20年前の事故の教訓が生かされていないのではないかと、危機感を募らせている。
■遺族たちの思い(3) 武田たかしさん(70才)
 事故原因を自分の手でも明らかにしようとする遺族がいる。妹をなくした武田たかしさんである。毎年3回、欠かさず御巣鷹の山に登っている。武田さんは、慰霊登山のたびに、事故機の残骸の収集を行なっている。遺族の訴えが認められ、事故原因の再調査が認められたときの、手がかりとなればと考えてのことである。内装の一部やボルトなど、武田さんが集めた残骸は30個を越えた。「妹の澄ちゃん(享年41)と最後にあったのは事故の1ヶ月前、次に会ったのはあの高校の体育館でした。8月16日、ずらりと並んだ棺、その中からやっと会うことができました。こんな悲しい変わり果てた姿で会うなんて。流れる涙のなか、でもしっかりと見守りました。苦しかったろう。こんな姿に誰がしたのか」。武田さんは今年の「茜雲」で、「小さなトラブルの対策を疎かにしてきたことが、20年前の大惨事につながった。御巣鷹山の事故を忘れていないだろうか。ここは航空安全の原点だ」と指摘した。だが、トラブルと事故の連鎖がまだ続いている。武田さんは、空の安全の教訓とするため、残骸の保存と展示を求めているが、日航は平成3年、圧力隔壁など一部の残骸を除き、すべて廃棄すると発表した。  
■遺族たちの思い(4) 河瀬周治郎さん(71才)
 事故から20年、はじめて「茜雲」に文を寄せた人がいた。河瀬周次郎さん。当時24歳だった娘を亡くした。墜落現場で、娘尋美さん(享年24)の写真が見つかった。友人と二人で東京に旅行した帰りに、事故に巻き込まれた。事故の直前、結婚の話があり、妻のイトエさんと共に、着物を買い揃えた。毎年この日、虫干しを欠かしたことがない。 夫婦で8月12日、欠かさず慰霊登山を続けてきた。娘の亡骸の一部がまだ山に眠っていると信じ、少しでも側にいたいと考えるからである。しかし、近頃妻のイトエさんが健康に不安を抱え、年々症状が進んでいる。このままでは、夫婦での登山はできなくなる。河瀬さんは、初めて「茜雲」に書くことにした。しかし、尋美さんの思い出が頭をよぎり、頭の整理がつかなかった。「今まで、何度筆を取ろうと思ったことか。思えば思うほど、あせりで筆が取れない。あの便に、なぜ乗らねばならなかったのか。初めての飛行機で、何万回に1度しかないという事故に、何故、遭遇しなければならなかったのか。いまだに悔やまれてなりません。今は、これ以上書けません」。
■遺族たちの思い(5) 小沢紀美さん(49才)
 小沢さんは、20年前の事故で、夫の孝之さん(享年29)を亡くした。当時小沢さんは結婚2
年目、待望の子供が授かり妊娠3ヶ月だった。墜落5ヵ月後、息子秀明君が生まれた。「男の子、主人の生まれ変わりです。あの時、この子に命を託したのです。私を一人ぼっちにさせないように」。秀明さんが3歳になったとき、友達の家を見て、どうして家にはお父さんが帰って来ないのと泣いた。3歳の夏、御巣鷹に登り、そこで空を見上げて、「僕のお父ちゃんは、飛行機がこのお山にぶつかって、飛行機に乗って天国に行ったんだよ」と教えると、その後、毎日仏壇の前で何か話している。どこまでわかっているのだろうか」。事故から20年、秀明さんは大学生になり、息子との生活の中で、小沢さんは、事故を人生の一つと考えられるようになった。「この悲しみを忘れることは、絶対できない。でも生きていかなくてはならない。それなら、この悲しみと同化して生きていこうと思いました。悲しみに負けるのではなく、悲しみに慣れるのではなく、悲しみと同化する。愛する彼と出会い結婚したのも、この忌まわしい事故に遭遇したのも、すべて私の人生なんだと考えよう。もう1年、また1年、そうやって、これからも生きてみようと思います」。
■日航機墜落事故から20年の今
 今年の7月上旬、美谷島さんのもとに、本になった「茜雲」が届いた。「茜雲」~御巣鷹山に消えた520人の命を悼む~という本である。この本には、今年、寄せられた手紙に加え、これまでの「茜雲」に載せられた文がまとめられている。遺族それぞれの、20年の軌跡が記されている。

 日航機墜落事故からちょうど20年たった今日、御巣鷹の山は雨になった。河瀬イトエさんは周次郎さんと二人で、今日も来ることができた。ゆっくりゆっくり娘の墓標をめざす。武田たかしさんは、雨上がりの斜面で、今日も事故機の残骸を見つけた。美谷島さんは、孫の健斗君をつれてきた。できた「茜雲」を供えた。事故を風化させてはならない。愛する亡き人の命を、決して無駄にはしない。遺族たちの問いかけは続いている。美谷島邦子さん:「あの日から、空の安全への航空機業界の姿勢が変わったのでしょうか。今も手の中に残る君のぬくもりを握りしめるたびに、空の安全を求める活動に、終わりはないと思っています。これからも、君と一緒に、空の安全への警鐘を鳴らし続けていきたいと願っています」。 
 所感:
 墜落事故から20年たった今でも、8月の命日には、多くの遺族の慰霊登山が行なわれている。完全な遺体が殆どない状態で家族を確認し、慰霊に行く気持ちはどんなだろうか。美谷島さんのご努力で、毎年発行されていた遺族のみなさんの書かれた文集「茜雲」が、今年、本になった。お互いに家族の死への悲しみを書きあい、読みあって、お互い支えあってきた文集が本になったことは、すばらしいことである。ジャンボ機墜落という極めてまれな大事故が、ボーイング社の修理ミスと日本航空の点検不十分が原因だが、担当者が全員不起訴に終わったのは、家族を一瞬に失った遺族としては納得できないのは当然なことだ。遺族の小沢紀美さんの言われる「悲しみに負けるのでも、慣れるのでもなく、この悲しみと同化して生きていきたい。すべて私の人生なんだと考えたい。」という言葉は、極めて印象深く感じられる。遺族のみなさんも、ご自愛の上、こういう考え方で生きて欲しいと願いたい。

 1985年の事故当時、JALの客室乗務員だった青山透子さんの著書「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」の第二章「新たに浮かび上がるあの日の証言」の最初の証言。
 塩野義製薬次長として出張中に事故に遭遇し亡くなられた吉備雅男さん(当時四十五歳)の奥様、吉備素子氏が、夫の社葬、日航の合同葬も済み、墜落事故から約2ヶ月後に一人で日航本社の高木養根社長を訪ねた際のエピソードに真実の臭いがプンプンします。

 日航本社の社長室に通されて、高木社長と実際に会って話をすると、山中の墜落現場にも行っていない、黒焦げの遺体も見ていない、彼はまったく現場を見ていない様子だった。そこで「あのような状態で、遺体を荼毘に付しては五百二十名が浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところに行って直訴しましょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください」。そう言ったんです。そしたら、急に高木さんはブルブルと震えだして、『そうしたら私は殺される』。そない言うて殺されるってね。何って思ったら、隣に座っていた女性的な世話役も震え上がっている。なんで?と思った。一緒になってフルフルしている。本当に怯えていた。殺されるって、命かけての意味がわからんのか、おかしい。これはどうしようもない状態だった」と語る。

 高木社長が首相官邸に行ったら殺されると怯えていたいたということは、一体どういうことなのだろうか。

 
 「『もの』を通じて、何かを『感じていただく』こと。それを目的としています」。2月26日、東京・羽田空港の脇にある日本航空(JAL)の関連施設。日航の案内担当者に導かれ、東京都大田区の中学校教員ら約20人が「安全啓発センター」を見学していた。羽田空港の地元・東京都大田区では、小中学生に安全啓発センターを見学させ、「空の安全」について考える課外授業を構想している。そのための事前見学だった。説明担当者から事故の概要や状況の説明に聴き入る一行の後ろに、遺族の一人、美谷島(みやじま)邦子さん(69)の姿もあった。

 1985年8月12日、羽田空港を飛び立った日本航空123便は、群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗客・乗員520人が犠牲になった。安全啓発センターには、飛行ルートの東京湾や、墜落した御巣鷹山などから回収された機体の残骸、遺族が御巣鷹山に通って回収し続けた乗客・乗務員の遺品などが、事故に至る過程を解説したパネルや映像資料とともに展示されている。後部圧力隔壁の整備不良で尾翼が吹き飛んだとされる事故原因が、展示された現物を通じて一目で分かる。制御不能となって迷走を続けた「恐怖の30分」に乗客や乗務員が綴ったメモ、ライフジャケットやゆがんだ眼鏡といった御巣鷹山の遺品は、事故に巻き込まれた人々の最期を物語る。

 事故から21年後の2006年にオープンした安全啓発センターは、社員の安全への意識を高めるための研修施設として使われるほか、予約制で一般公開もされており、事故から30年を迎えた2015年は年間約2万人が訪れた。「事故の教訓を自社だけにとどまらず、広く社会に生かすことは社会的な責任だ」と展示説明の担当者は語る。

 安全啓発センターに展示されているフライトレコーダー

 今は社内外への啓発に大きな役割を果たしている安全啓発センターだが、ここでの保存、展示にたどりつくまで21年かかった。日航は当初、フライトレコーダーなど3点だけを社員教育用に残し、残りは廃棄する計画だった。その姿勢を変えたのは、日航に要望書を出すなど、遺族の長年にわたる強い働きかけの成果だったと言っていい。日航機事故の遺族らでつくる「8・12連絡会」の事務局長を務めてきた美谷島さんは、残存機体の保存を日航に求め続けてきた中心メンバーの一人だ。東日本大震災の発生後は、被災地に足繁く通い、事故で当時小学3年生の健さんを失った痛みを、遺族と分かち合ってきた。そこから人の輪が生まれ、美谷島さんと御巣鷹山に登る人も現れた。事故と天災は違うと思う人もいるかもしれない。しかし遺族にとってみれば、ある日突然、愛する人を奪われた悲しみと、自らの苦しみが後世の教訓になればと願う気持ちは変わらない。議論が続く「震災遺構」を考えるため、「もの」が果たす役割を、美谷島さんに聞いた。

 ――安全啓発センターでは、新しい動きがここを拠点に芽生えているのですね。

 ある女子校の生徒たちは啓発センターや運輸安全委員会に通って、123便について調べました。LCC(格安航空会社)についても調べて「安全は選ぶものなんだね」と言っていました。「もの」を通して心に落とされるものがあり、そこからまた生み出すものがあります。JALも、ここまで付加価値が出る施設になるとは、思っていなかったと思うの。でも最初、JALは絶対に残すと言わなかった。遺族たちの「絶対に捨てさせない」「事故を忘れさせない」という気持ち。それがJALという大企業の気持ちを変えさせたと思っています。1000年後のために礎を残し、それが残っていることで、次の命を一人でも守ることになる。あのとき亡くなった人々への思いと、現実に亡くなった人の命を想像できるようなものがあることと、ないことの違いは大きいんです。

 ――日航機事故で、残存機体を残したくないという否定的な意見は当時あったのです
か?

 連絡会が遺族のすべてではないけど、絶対反対はなかったですね。もしいたら、私に抗議が来るはずだから。ただ「捨てて下さい」よりも「見たくない」は多かったですよ。はっきり言うと今でも「私は見られない」という声はあります。でも、世代が変わるとちょっとまた違う感覚になって、子供や孫の世代が「見たい」「絶対残すべき」だと言う。それに背中を押されて高齢になったご遺族が集まってくる状況ですね。

 ――美谷島さんにとって事故5年目はどんな心境でしたか?

 2015年8月、事故から30年を迎えた御巣鷹山。

 連絡会で出している文集「茜雲」の寄稿も、5年目がいちばん多かった。50人近く書いてくれたかな。一つの区切りとしてとらえてくれた、と思ったし、風化というものにすごく怖さを感じた時期ですね。遺族が求めていた日航、ボーイング幹部の不起訴が決まった年だったので、このまま、あの事故がなかったことには絶対させないぞと、私もみんなも思っていた。これからますます風化の速度は早まっていく。だから声を上げていかなければいけないと思った年でした。「もう5年じゃないの」と言われるけど、間違いなく、まだ5年なんですよ。まだ5年だからこそ、心の中にいる人と一緒に歩んでいこうと自分で決めていける。新しい一歩を踏み出すってことなんだろうな。当時の文集にも書いたんだけど、私は迷子になってたんです。「健はどこにいるの?」と探して5年間、御巣鷹山に登っていたんだけど、5年たってみると、健ちゃんが山の上で「僕はここにいる」という声が私の中で聞こえたような気がしたんです。私は健を探していた。でも健が私をちゃんと探して見つけてくれたことに気づいたんですよ。健ちゃんがストンと私の心の中に入ってきたのが5年目でした。男性で家族を亡くした人には、再婚して、次の人生を歩む方もいる。次の人生を歩むことって、遺族にとってはうれしいことなんですよ。なかなか外には言えないけど、遺族同士はすごくわかり合えていると思える月日が5年ですね。

 ――被災地に通い、被災地の遺族と精力的に交流を続けておられますね。

 私たちのときも、(御巣鷹山のふもとにある群馬県)藤岡市の、アコーディオンサークルの人たちが、墓標の前で演奏を続けて下さいました。地域の人に支えてもらったから、歩いてこられたんだとすごく思ってる。だから今度は自分ができることをやらなきゃと思って、最近まで大田区が仕立てたバスで被災地に通っていました。みんな、「泥をすくうだけで一体なんの役に立つんだろう」と思うんだけど、非力だけど無力じゃない、ゼロじゃない、続けようというネットワークができる。そこに本当に勇気づけられてきた。私も、羽田に健を送っていったことがフラッシュバックして、5~6年は、羽田に来ることも、空も見上げることすらきつかった。被災地に行くと、それがよく分かるんです。70~80年たっても、戦争の遺骨を探している方がいます。心に突き刺さっているとげのような悲しみは絶対、一生消えない。でもそれを大事にしていることが、私にとっては健と一緒にいることなんだろうし、遺族が共有している気持ちなんですよね。津波で犠牲になった七十七銀行(宮城県女川町)、大川小学校(同県石巻市)、閖上(ゆりあげ)地区(同県名取市)の方たちとも語り合っています。被災地で知り合った方々が、(御巣鷹)山に登ってくれます。きっと(日航機事故で犠牲になった)520人の人が置いていってくれたんだろうね。私たちに仕事を作ってくれた。亡くなった人たちが仲間になるようにしてくれてるんでしょうね。

 ――東日本大震災の被災地では、遺構を残す、残さないで地域を二分する議論になっているところが多いようです。まだ気持ちの整理がつかないのが現状ではないかとも思います。

 南三陸町の防災庁舎にも3回行って、地元の方と意見交換しているけど、ある方は1年目は保存に絶対反対だった。去年は「もう残したいと思っている」と言いました。自分の気持ちをもし100としたら「絶対に残すんだ」が60あっても、残りの40は「やっぱり見たくない」もある。ゼロじゃないんです。遺族の気持ちも、55と45が入れ替わるんですよ。でも「捨てちゃったらゼロだよ」と、私たちは当時、事故の遺族に毎年アンケートを取って意向調査してきました。この事故がないものになることがすごく悲しかったし、それだけはさせたくなかった。

 安全啓発センターで、見学者に当時の状況などを説明する美谷島邦子さん

 ――被災地では、すでに撤去されたり、撤去が決まったりした震災遺構も数多くあります。

 閖上は地域がかさ上げになって、閖上中学校もなくなるんだけど、閖上で語り部をしている女性は、一生懸命、中学校の部品や付近のガードレールを、少しずつ保存している。それをいずれ展示するつもりだと言っています。私は、それでいいと思うの。新しい街をつくることを決めたんだったら、ほかに残し方はあると思う。残されたものの規模ではなくて、そこに通う人の気持ちがあるかないかが大事。防災がこれだけ言われて、技術は進んでいるけれど、本当に逃げようと思ったり、自分の身を守ろうと思ったりするためには、この震災を忘れないことが大事だし、次につなげていくためには人間の気持ちが大事。それを残すのは文章や文字だけではなく、「もの」があると強いんです。蓋をしてしまったり、ないものにしてしまうのがいちばんよくないこと。

 ――天災と人災は違うという人もいますが…。

 天災でも人災でも犯罪でも遺族の置かれた境遇は同じです。あの日から突然、苦しみを味わってきた、愛する人を失ったという悲しみを背負っていく。「助けられたか、あの命」という思いは絶対変わらない。ではどうすればよかったか。どんな対策が取られたか、原因は何だったかと、どんどん突き詰めていくのも同じです。天災でも「次の命を生かさなきゃ」と皆さんは思っている。だからこそ語り部をして、全国各地の人に聞いてもらおうと思っている。遺族が必死になっているのを見ると、その姿が絶対に次の命を助けるんだと思います。


 2015-08-12 08:08:26JAL123便墜落事故-真相を追う-あれから30年、真実が語られる時」。
 本日は平成27年8月12日。あの悲惨な日航機123便の墜落事件から30年もの長き時が経過しようとする日です。日本中が騒然となったあの日の鮮明な記憶は今でも忘れることができません。多くの犠牲者に対し、心からご冥福をお祈りいたします。また、大切な人々を失ったまま30年もの長き時間を過ごされてきた、多くの遺族・関係者にお悔やみ申し上げます。
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    本記事の最後に、読者の皆様へお願いがあります-------------------------------------------------------------
■真実はいつ語られるのか

 早いもので、私が123便事件に疑問を抱いて7年、このブログを始めてから6年近い年月が経過しようとしています。自分のブログを読み返すと、書き始めの当初は情報量の少なさ、そして事実認識の甘さから、誤っている部分が多いことに気がつきます。言い訳ではありませんが、このブログは調査の進展と共に進化前進しています。読者の皆様におかれましては、管理人である私が、何をきっかけに考えを改めるようになったのか、表現を変えるようになったのか、その変化、成長過程も含めご理解いただければ幸いです。さて、このブログが主力テーマとして取り上げてきた123便事件の真実、すなわち「あの日、日航123便に何が起きたのか」についてですが、調査開始から7年、100%とは言えないまでも、その概要についてほぼ全体像を把握することができました。ならば、早くそれを書けと皆様は思われるかもしれませんが、残念ながら、その真相はあまりに深く、とても一言、二言でお伝えすることはできません。123便事件の真相を理解するには、まず読者の皆様に理解に必要な予備知識、周辺知識をお備えいただく必要があります。現場調査を継続し、当局の激しい妨害を潜り抜けてきた私ですら、7年かかった事件です。メディア、ネット上の限られた情報しか持ち得ない読者の皆様にそれをお伝えするのはかなり難しいと感じています。そして、何より難しいのが、123便事件の真相は読者の皆様(日本人一般を想定しています)と現在でも密接に関連しており、真実のいきなりの全公表は、皆様の社会通念を破壊するばかりでなく、皆様が置かれている社会的な利害関係を崩壊させる危険があるとも認識しています。真実理解に必要な情報はこれまでにも本ブログで少しずつ紹介させていただいてきました。これからもこのスタイルは継続していきますが、この先ご紹介する内容は、更に皆様の想像を超えるものになっていきます。本ブログで、ある元公安警察の方が「寝た子(123便事件)を起こすな」と私に警告したことは前にお伝えしましたが、子は永遠に寝続けるものでなく、いつか起き出し、周囲の大人を悩ましめます。しかし、それは成長の喜びでもあります。私は、その子の目覚めが近いことを感じ取り、その準備を始めているだけなのかもしれません。

■事実関係の整理

 最近になって123便事件に関心を持ってくださる若い読者もいらっしゃるようなので、既出のお話で申し訳ないのですが、123便事件を理解する上で重要なポイントを下記に列記します。なお、これらは私自身が仲間と共に現場検証し、証拠品の回収、証人にも直接お話を聴いた上で導いた結論です。根拠不明なネット言説や、書籍類の引用ではないことを強くお断りしておきます。詳しくは本ブログの過去の記事を参照してください。

1) ボイスレコーダー、フライトレコーダーは改竄されたものであり、参考とならない(※)
2) 圧力隔壁破壊による垂直尾翼の脱落は嘘。墜落直前で尾翼を目撃した人は複数
3) 墜落直後に生存者が多数いたとの目撃証言がある
4) 墜落現場で多数の米国・ソ連・自衛隊の戦闘機破片・ミサイル破片を採集
5) 墜落地点の西側、長野県の南相木村側で放射線値が高い

※当局作成のボイスレコーダーを聴いて同情の涙を流すのはいい加減に止めましょう。犠牲者の魂が求めているのは誤った同情でなく、真実の理解です。

 写真1:墜落現場で発見・回収された軍機破片
    後に、F117ステルス攻撃機の翼部分と判明する

■日航機撃墜計画はあったのか?

 現地調査の結果、墜落原因が事故などではなく撃墜によるものである可能性が高まれば、次に気になるのは撃墜の理由、そしてその計画の当事者が誰であるかとういう疑問です。当時の社会事情から照らし合わせれば、

・プラザ合意に向けた米国政府・米国企業の犯罪
・グリコ森永事件隠蔽を画策した、ヤクザ・同和団体など裏社会の犯罪
・トロンOSなど、日本製最先端技術を敵視した外国企業の犯罪

 等々、もっともらしい理由はいくつも挙げられます。これについても以前の記事でお伝えしましたが、上記の全てが理由として成立すると見るのが妥当だと私は考えます。どういうことか?つまり、日航機撃墜計画が先にあり、その情報を入手できる特殊な団体・機関だけが、それぞれが抱える問題の処理にこの計画を利用したというものです。また、裏を返せば、撃墜計画自体もこれら諸団体の事情に対処するため、一発で大きな成果を得られる手法として考え出されたというものです。この推論が成立するためには、これら裏社会を統括し、企業・政府に影響力のある組織の存在が必須となります。これまでの調査から、どうやらそのような組織体のあることがわかってきました。永年の読者ならもうお分かりのように、私はその組織をコードネーム「クロカモ」と呼んでいます。この説を裏付けるかのように、日航機撃墜計画を事前に察知し、その阻止に動かれていた方の存在を最近になって知りました。残念なことに、その方は既に鬼籍に入られています。それも、123便事件が起こる直前、停電の夜に割腹自殺するという不可解な去られ方で。もちろん、私がその方のことを聞いたのは、そのお子様からなのですが、私が123便の調査をしているということで、次のような証言を頂きました。

(1)「そういえば、父はあの頃『日航はとんでもない』と繰り返し言ってました。日航本社での会議にも度々出席していたようです」
(2)「父は、死の際に血文字で『NE128』と書き残していました」
(3)「父の事があったので、123便墜落が起きた日時や、当時のことは忘れられません」

 「日航はとんでもない」、もちろんこれだけでは日航機撃墜計画が存在した証明にはなりません。ここで、この方が123便事件発生の直前に自死されたこと、そして、血文字を書き残されたことに大きな意味が読み取れます。自死される方が果たして血文字などを残すでしょうか? 停電というのも都合が良すぎます。常識で推し量ればそこで何が起きたか想像がつくかと思います。そして決定的だったのが「NE128」という記号の示す意味です。

 この記号の解析には数日を要しましたが、何を意味しているかが判明した時、この方が日航機撃墜計画の阻止に動かれていたことが深く理解できました。嘘と暴力に満ちた123便事件の背景の中で、このように不正を許さず、命を懸けて正義を貫いた先人の存在を知ったことは、私にとっては大きな喜びであり、希望です。

 さて、「NE128」をどう解釈したかについては、まだそれを理解するための情報を本ブログで提示できていないため、ここでは割愛いたします。しかし、情報が出揃った時には必ずその意味をお伝えすると読者の皆様にはお約束いたします。

 最後に結論を。
日航機撃墜計画は予め存在していたのです。それが計画者の思惑通りに行ったか行かなかったかは別にして。

■自衛隊と123便事件

 123便事件について調査をしていると、事実の正誤に関わらず、自衛隊の関与を示唆する言説に数多く出くわします。本ブログでも、海上自衛隊発射の標的機が衝突した説を否定し、また、M氏が早朝に墜落現場で遭遇したアーミーナイフを手にした集団は正規の自衛隊員でないとしてきました。しかし、自衛隊は全く責を負わなくてよいと認めた訳でもありません。私は、この数年間、自衛隊という組織が自ら真実を語ることを待っていたつもりですが、事件後30年を迎えるこの年になっても、目立った動きはなさそうです。やりたくはなかったですが、彼らを断罪する立場を取らざるを得ません。私には、現役、退役双方の自衛隊員の知り合いがおり、彼らの個人的人格を責めるつもりは毛頭ないことは、先にお伝えしておきますが、自衛隊という非常に問題のある組織に所属している、あるいは所属していたという事実については深く考えて頂きたいと願っています。

 問題の写真を下記に掲載します。この写真は調査仲間のS氏を経由して、当時の週刊誌カメラマンから提供されたものです。写真を受け取った時、このカメラマンは肺がんを患っていると聞きましたが、その後お元気にされているでしょうか? 生存者の現場目撃者であるM氏も10年後に肺がんを患っているので、その関連が気になります。もっと有体に言えば、墜落当時の現場は、ひどく放射能汚染されていたと考えられるからです。

 本日は事件から30年の記念の日ということもあり、この写真は追及ではく問題提起という形で掲載するに留めたいと思います。当時現場に向かった陸上自衛隊の皆さん、あなた方が現場でいったい何をしていたのか、この写真を見て自分のした事をよく思い出してください。もう逃げられませんよ。

 写真2:1985年8月13日、墜落現場でのあなた方
Bacillus Anthracis
    コウイチオカエリナサイ マッテイル トモダチダカラ

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 読者の皆様へ

 冒頭でも書きましたが、本日は日航機123便が御巣鷹の尾根に墜落し、多数の乗客乗員がお亡くなりになった日です。また、この事件に巻き込まれて、軍関係者を中心に多くの命が失われました。その数は総勢1000人前後と推定されます。墜落推定時刻は18時56分。皆様にお願いしたいのは、僅かでよいので、この時刻にお心を御巣鷹の尾根に向けて頂きたいのです。事件の複雑な背景は必要ありません、ただひたすら、魂の平安と安らぎだけを祈って。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


 SI NON VENISSEM ET LOCUTUS FUISSEM EIS PECCATUM NON HABERENT NUNC AUTEM EXCUSATIONEM NON HABENT DE PECCATO SUO
 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
 (ヨハネの福音書 第15章22節)

 遠つ御親の始りの地より 管理人 日月土

 2009.1.29日、「御巣鷹に すみれ咲く頃」。
 ♪すみれの花咲く頃  初めて君を知りぬ  君を思い 日ごと夜ごと  悩みし あの日の頃

 晴れやかで、それでいてどこかはかなげなメロディー。「すみれの花咲く頃」は欧州で生まれた。昭和の初めに留学した演出家白井鐵造(しらい・てつぞう)が、シャンソンの楽譜を持ち帰り、やがて宝塚のテーマ曲になる。

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 「自分が『清く正しく美しく』の宝塚の生徒であるという誇りを抱かせてくれる歌なんです」。女優の黒木瞳(くろき・ひとみ)(48)は青春の6年余りを宝塚ですごし、幾度もこの歌をうたった。 黒木は高校生のころ、故郷の福岡で、宝塚の「ベルサイユのばら」の地方公演を見た。 なんて華やかな世界! 両親の反対を押し切り、タカラジェンヌの登竜門、宝塚音楽学校へ。「すみれ寮」に入る。 「毎日、毎日おけいこ。礼儀作法も、あいさつも。すべてがとても厳しくて」 。朝6時半、寮の玄関が開くのを待ち、800メートル離れた学校へ駆け出した。新入生には伝統の掃除が待っている。毎朝いっしょになる少女がいた。同期生で、ひとつ年下の北原遥子(きたはら・ようこ)だ。 横浜育ちの北原も「ベルばら」にあこがれ、すみれ寮に入っていた。さばさば型の黒木、くよくよ型の北原。どちらもめっぽう頑張り屋。何でもうちあける仲になる。2年後に卒業、そろって初舞台を踏む。黒木は翌82年、「男役」のトップスター大地真央(だいち・まお)(52)とコンビを組む「娘役」のトップに大抜擢(ばってき)された。でも親友のきずなは変わらなかった。北原は歌劇団の許可なくテレビドラマに出て、謹慎をいいつけられる。「寮にいるのはつらい」。アパートに移っていた黒木の部屋に転がりこんだ。やがて退団し、女優になる。 85年夏。黒木は東京宝塚劇場で舞台に立っていた。楽屋に北原から電話。「これから大阪に行くの」「明日、会おうね」 。その夜、黒木はニュースで日航ジャンボ機墜落を知る。もしかして……。北原の実家に電話した。ずっと、話し中。何度も何度もかけ直す。やっと親類の人が出た。不安は的中していた。8月12日、北原は24歳の若さで帰らぬ人となる。

 本名は吉田由美子(よしだ・ゆみこ)。父の吉田俊三(よしだ・しゅんぞう)(77)と母の公子(きみこ)(74)は事故の翌年から、春、夏、秋と、日航機が落ちた尾根へ向かった。俊三はカセットデッキを担ぎ、尾根で「すみれの花咲く頃」を流した。 93年夏の命日。慰霊登山の人々がたたずむ尾根で地元のアコーディオンサークルが鎮魂の曲を奏でていた。「リクエストを聞かれ、とっさに浮かんだのがこの歌」と公子。それから毎夏、奏でられるようになる。 数年後の5月、御巣鷹を訪れた俊三は、あっと息をのんだ。娘の墓標のそばに、かれんな野生のすみれが咲いている。 「うれしくてねえ。カメラで撮りました。あの子の人生はやっぱり宝塚だから」 。公子もいう。「毎年、歌を聞かせていたからかしら。今でも、風になった娘がどこかから見ていてくれるという気持ちがするんです」

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 「すみれの花咲く頃」のフランス語の歌詞は「リラの花」だった。宝塚にもちこんだ白井は、それを日本人になじみ深い「すみれ」に変え、歌と踊りのレビュー「パリゼット」で披露した。その白井の故郷、浜松市には歌碑と記念館がある。白井を慕う「すみれ草花愛好会」会長の渡辺(わたなべ)せつゑ(82)らが毎年、すみれの苗を育て、宝塚の街角を飾る花壇に届けている。 「すみれは、つつましいけれど、根っこはすごいのよ」(佐藤千晴) 。
 (このシリーズは佐藤、河合真美江、谷辺晃子が担当します。本文敬称略)


 2015年8月12日、「日航機墜落30年 機長の長女はいま… 」。航機墜落事故の機長の長女・高濱洋子さん(48)は当時高校3年生。実は今、日本航空の客室乗務員として働いている。先月、私たちは洋子さんを取材した。事故から12日で30年。彼女を支えていたのは、ボイスレコーダーに残された父親の音声だった
 【苦悩の日々】

 自分自身も遺族である一方、“墜落したジャンボ機の機長の娘”という立場。事故当時、洋子さんにとって苦悩の日々が続いた。高濱洋子さん「『519人を殺しておいて、のうのうと生きているな』とか、たくさん電話がかかってきましたので。その度に母は、見知らぬ嫌がらせの電話にもきちんと応対し、『申し訳ございません』『申し訳ございません』、ただそれだけ何回も繰り返しておりました」。“父を探したい”、だが、昼間の遺体安置所には、多くの遺族がいた。そのため、ひと気がなくなる夜を待ってから父を探し歩いたという。しかし、事故から15年後、変化が訪れた。あのボイスレコーダーの音声が公になったのだ。

 高濱洋子さん「父は本当に最後まであきらめず、最後の一瞬まであきらめず、頑張ったんですが、本当に無念であっただろう。最後まで父は頑張ったんだなと、誇りに思わなければいけない、そう思いました」。





(私論.私見)