事件の真相考その8、犠牲者の遺体の黒焦げ考

 更新日/2017(平成29).8.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「事件の真相考その8、犠牲者の遺体の黒焦げ考」をものしておく。

 2008.10.25日 れんだいこ拝


犠牲者の遺体の黒焦げ考】
 「【JAL123便墜落事故】毒ガスで息の根を止められた生存者」、JAL123便墜落事故の真相は?No2」の「第4の疑問その他参照。
 ijn9266のブログさんより
 http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html
 参考ウェブサイト:http://www.asaho.com/jpn/bkno/2010/0809.html
 墜落現場には最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた。墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと生存者が証言している。「生き残った罪も無い123便の乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく、国籍が日本ではない、特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の手にかけられ、処分された可能性が高い。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか? 彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された。

 尋常ならざる遺体の状況  

 機体前部や中部では激しい衝撃で遺体は断片化し(ほぼ全身にわたって断片化した方もいる)。火災などで着ていた衣類は焼け、手だけ、足だけの部分遺体もあり、遺体は炭化するなど遺体確認は困難を極めた。


↑問題の焼死体の写真

 写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。ジェット燃料がこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この子供の焼死体は何を訴えようとしているのであろうか?

 ジェット燃料は高くて1400℃に到達するというが、それは灯油の1100℃とたいして変らない。実体はほとんど灯油と同じと考えてよい。写真の子供は頭部の輪郭が崩れる程激しく燃えており、ジェット燃料(灯油)が原因ならば、まとまった燃料が本人にかかり燃えた、あるいは近くで激しく燃えていたことになる。しかし、子供の遺体に寄り添うように生えた木立にはほとんど焦げ跡がない。ジェット燃料はこの子だけをめがけ飛び散り、この子だけを燃やして火は収まったというのだろうか?この不自然な状況を説明する理由を私はこう考える、「この子はごく間近から火炎放射器で焼かれたのだ」と。

 ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤も出にくいにもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。

 当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さん(元日航客室乗務員、青山透子氏)は何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。焼死体の焼損状況から、ジェット燃料の火力により焼死したのではないということになる。

 写真上:女性4人の生存者が見つかったスゲノ沢の上流で発見された携帯用VXガス兵器と思しき容器。20数年経って、瓶には微量の液体が残っていた。持ち帰る際、念のため何重にもビニール袋で密封したが、調査に当たった方達2人は、密封を解いた途端気分が悪くなり、数日間寝込んでしまったという。
 この事故では多くの確認出来なかった遺体(衝撃などで断片化したり火災で炭化したもの)があり、これらは荼毘に付された後、123の骨壺に収められて上野村の「慰霊の園」に納められました。その後、現場から発見された遺骨を同様に扱ったため、現在「慰霊の園」には124の骨壺が納められている。
 2001/11/07 、「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』 飯塚 訓 / 講談社+α文庫 」。
 著者は高崎署刑事官在職時に日航機墜落事故の身元確認班長を拝命し,藤岡市民体育館で520人の遺体の身元確認に務める。本書は無残な遺体に警察,医師団を率いて 体育館はマスコミのカメラを避けるために暗幕で窓を閉ざされ,8月の焼けつくような陽光に屋根をあぶられて館内の温度は40度を越える。そこに遺体の放つ悪臭と線香の匂い,脱臭剤やホルマリン,クレゾールの匂い。完全遺体492のうち五体がすべてそろったもの177体,離断遺体,分離遺体,移棺遺体のうち部位を特定し得るもの680体,部位不明の骨肉辺893体……。520人の身体が,2065の遺体として体育館に運ばれたことになる。 

 首からスパッと切断されているが顔面頭部にはほとんど損傷のない女児の頭部。炭化した15センチ×15センチくらいの肉塊をはがすように精査してみると2つの頭部が合体したもので,歯型,歯根の照合によって夫婦であることが確認される。顔の骨がぐしゃぐしゃに粉砕されてむくんだようになった少年の顔を担当の警察官が両手ではさみ,粘土で型をつくるように寄せると「あっ,うちの子です」と棺の中の遺体を抱き起こす父親。目が3つあるように見えるので調べてみると,他の人の頭部が顔面に,つまり頭の中に頭が入ったような遺体であった。前頭部が飛び,両手の前腕部,両下肢がちぎれた黒焦げの父の遺体の前で唇をかむ14歳の長男。素手で手首のない子どもの腕をさすり,片側半分だけが残った頭部に頬ずりをする母親。
 「御巣鷹山に災害派遣出動した陸曹長の話」。
 「この事故の中で一番に辛かったのは、後の遺体の捜索だったと曹長はその時の事を語ってくれました。遺体の捜索は、まさに惨事だったらしく、細かく砕け散った遺体を集める時、何度も吐いてしまったと曹長は語り、防護マスクやそんなものは無く、タオルを巻いて匂いを遮断しながら、ただ遺体を回収していた曹長達。途中強面の上官が涙を流しているのを見て、複雑な心境を抱いたと話してくれました。夏の炎天下に腐敗していく遺体の数はただ多く、幾ら回収しても、次から次へと見つかるそれらは、本当に全てを見つける事が出来るのかと不安に駆られてしまい、見つからなければ帰れないのかと、憂鬱な事を考えてしまう一方、遺族の気持ちを考えると、どうしようもない葛藤の中で曹長達は作業を進め、ようやくにして帰還したのが、三日目の朝だったらしいです。ヘリで小学校まで移動し、また騒然としていた現場を見ながら、その災害地を後にした曹長達。この派遣は一生忘れることのできない事だと語ってくれました」。

機長の遺体の焼失考】
 機長の遺体で確認されたのは上顎の一部だけである。これに歯(5本)がついていた。これが歯医者にかかったときの記録と一致し機長本人と確認できた。

 当時はDNA鑑定など無かったので、断片化した遺体の身元確認は困難を極めた。同時に機体前部や中部では激しい衝撃で遺体は断片化し、火災などで着ていた衣類は焼け、遺体は炭化するなど遺体確認は困難を極めている。

 2015年08月16日「心霊ちゃんねる
 乗客が集まっているところの焦げかたが酷かった。黒焦げの死体写真を見ると、哀願のポーズや逃げようとして焼かれたようにも見える。
 機外に投げ出された遺体が焼け焦げている。
 木々がたいして焼けてないのに遺体と機体だけが黒焦げの不思議。
 最大の誤算は、不審な動きに気づいた長野県警が割り込んできたことだな。中曽根の息がかかった自衛隊と群馬県警だけだったらどうなったかわからないな。
 生存者が出たのは、単なる見落としだろう。夜だったからね。
 123便は頭から突っ込んだのでなく、背中から墜ちて2つに割れた。当然エンジン付近の乗客は全滅だろうが、前部と後部には生存者が多数いたはず。前部は焼かれ、破壊されたのだ。
 エンジンも燃料もない前部が黒焦げっておかしくないか?しかも墜落直後に米軍が撮影した写真だと前部は全く燃えてなかった。 しかし朝に撮影された写真は前部が黒焦げ。
逆に後部は燃えてないのに光っていた。後部が光ってたのは劣化ウランか?
 事故現場の急斜面でなぜか墓標がいくつもまとまっている。あの急斜面だとバラバラになるはず。これは生存者を救助すると騙して、一ヶ所に集めて焼き殺すということを何度もやった証拠なのではないだろうか。

 「「あんなの人間の遺体やない!」日航機事故で娘3人を失った夫妻の怒り」。
 あの悲劇の大事故から今年で30年。3人の娘を奪われた田淵夫妻が初めて明かしてくれた事故後の凄絶な日々。それは想像をはるかに超えるものだった――。

* * *

 そのとき、親吾さん(当時56歳)は父の代から続く町場の石鹸工場で働いていた。輝子さん(同51歳)は、旅行から帰宅する3人の娘たちの夕食の準備に追われていた。ふだんと変わらぬ日常だった。田淵さん一家は、夫妻と長女の陽子さん(当時24歳)、次女満さん(同19歳)、3女純子さん(同14歳)の5人家族。実直な人柄の親吾さんは、子どもたちの学校で役員を務めるなど社交的な面ももつ。一方、輝子さんは夫の工場を手伝いながらも、子どもと過ごす時間を最優先に考え、娘たちが外出した際はどんなときでも眠らずに帰りを待つような、情愛の深い母親だった。そんな夫妻のもとで3人の娘はのびのびと育っていく。長女の陽子さんは親吾さんの会社名「山陽油脂」から一文字をとって名づけられた。仕事や家事で忙しい両親に代わって、妹たちの面倒をよくみるしっかり者である。次女の満さんは予定より1ヵ月も早く生まれた子だった。満さんがお腹のなかにいるとき、母親の輝子さんは妊娠中毒症で、医師からは「お子さんの命はあきらめてください」と告げられている。「せめて名前だけは満期に」という願いを込めて「満」という名前をつけた。控えめな大人しい性格で、飼っていた猫が一番懐くほど優しかった。3女の純子さんは「純粋に物事を考えるように」という意味で名づけられ、その名の通り真っ直ぐ育っていく。「純ちゃんは愛嬌がいいから、私の代わりにお使いにいくと、商店街のおじちゃんやおばちゃんがよく割り引きしてくれたんや。だから私もよう重宝したわ。学校や近所でもえらい人気者やった」。娘たちの話になると輝子さんは夢中になって止まらない。

 遊びにいくときはいつも一緒だったという3姉妹。御巣鷹の尾根の墓標には、そんな3人の写真が陶板に加工され貼り付けられている。日付は1985年8月9日。事故機の残骸から燃えずに見つかったフィルムを現像したもので、3人が一緒に写った最後の写真だ。私は輝子さんがこの写真をじっと見つめながら放心したような状態でつぶやいた一言が忘れられない。「どこに行くのも3人一緒。天国に行くのも3人一緒や」。事故の3日前の8月9日。3人は旅行のため、大阪の伊丹空港を出発する。茨城県で開催中だったつくば科学万博や東京ディズニーランドなどを回る3泊4日の予定だった。毎年夏休みに行われる3姉妹の恒例行事。当時、司法書士事務所に勤めていた陽子さんは夏のボーナスが出ると、そのほとんどを旅行費用に充てた。忙しい両親を気遣い、長女の陽子さんが妹たちを誘っていたのである。当初は尾瀬に行く予定だったが、親吾さんは、何気なく、科学万博に行くよう勧めた。「尾瀬にはいつでも行けるけど、万博は今年限りやからそっちに行ってきたらどうやと口を挟んでしもうて……。それで予定を変更して123便に乗ってしまったんや」。目をつぶって額を押さえ、悔しさを隠しきれない。親吾さんは事故後、ずっと自分を責め続けていたのである。墓標に置かれた備前焼の3体の、かわいらしい地蔵をさすりながらつぶやいた。「わしが余計なことを言わなければ……悔やんでも悔やみきれん」。

 機体の残骸から見つかったフィルムにより娘たちの最後の足取りがわかった。3人は出発した9日に羽田空港から科学万博会場に向かっている。3人一緒の最後の写真は、9日の夜、万博からの帰りの電車内で撮影したものとみられる。純子さんが身につけているイヤリングとネックレスは、姉の陽子さんから借りたものだ。翌日の10日も万博に寄っている。古代遺跡の彫刻を模ったパビリオンの前で陽子さんと純子さんが2ショットで写っていた。満さんはタイムカプセルにハガキを投函する姿が写真に収められている。これは「ポストカプセル2001」という企画で、このポストに投函すると16年後の2001年正月、つまり21世紀の元旦に自分宛てに配達してくれるというものだった(満さんが投函したハガキは、その後、田淵夫妻が大阪から兵庫県に引っ越ししたため、2人のもとに届くことはなかった。後日調べたところ、住所不明のため、すでに廃棄されていたことがわかっている)。万博を楽しんだあと、10日夜には千葉県で花火を見ている。たくさんの花火がフィルムに収められていた。翌11日はディズニーランドに行っている。そして最終日の12日、3人は東京タワーを訪れたのを最後に、午後6時12分発の日本航空123便に乗り込んだ。羽田から大阪・伊丹空港へ向かうはずの機体は、離陸から12分後に操縦不能となり、約32分間ダッチロールを続けた後、6時56分に御巣鷹の尾根に墜落したのだった。

 田淵夫妻が最初に事故を知ったのは、テレビで搭乗者名簿に3人の名前が載っているのを見た、輝子さんの妹からの連絡だった。「あの子たちはいつも最終便で帰ってくる。だからその便には乗ってへんから大丈夫よ」。輝子さんはそう妹に答えるとともに、自分にも言い聞かせた。だが次第に明らかになってくる情報はどれも悲観的な内容ばかり。親吾さんは当時を振り返る。「頭からすべてが吹き飛んだ。不時着をただ祈るだけだった」。一方の輝子さんは、娘たちが亡くなっているとは想像だにしなかったという。「きっと山の中でけがをしているから、早く助けてあげなければと思ってた。死んでいるなんて夢にも思わへんかった」。

 残酷すぎる現実

 田淵夫妻は事故当日、日航が手配した大阪のホテルに駆けつけ、翌朝の臨時便で羽田空港に飛び立った。到着後、すぐにバスで群馬県藤岡市に向かう。一刻も早く娘たちに会いたいと登山靴や雨具を用意してきたが、なぜか一行が到着したのは学校の体育館だった。墜落現場での捜索ではなく、ここに運ばれてくる遺体の中から肉親を確認する作業が待っていた。生存を信じている人々にはあまりにも残酷な作業だった。山中に突っ込んだ機体は大破して炎上。奇跡的に4人が救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しかった。首と胴体がつながっている完全遺体はわずかで、大半が部分遺体。当然ながら、身元の確認作業は難航した。しかも、真夏に起きた事故であるため、遺体の腐乱は早い。クーラーもない体育館のなかは暑さと激しい臭いが充満している。多くの遺族は肉親を失った苦痛を背負いながらも、なんとか身体の一部だけでも戻ってほしいとの思いから、遺体との対面を繰り返していた。田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。それまでは別の体育館で遺体の検視を待っていた。ずらりと並べられた柩に入っていたものは誰のものともわからない身元不明の遺体。一つ一つ確認しても手がかりは見つからない。体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけてつめ寄っていた。「うちの娘とは違う!あんなの人間の遺体やない!」。

 「初めて体育館で遺体に会わせてもらったときは……忘れられへん」。御巣鷹の尾根にある墓標の前で、輝子さんが当時の様子を話してくれたことがある。その場で力なく腰を下ろし、首を振りながら言葉に詰まった。「これは遺体やない、山の木を焼いたんやろって。声がひとりでに出たんよ。そのあとは私あまり意識ないね」。輝子さんの沈痛な表情を見て親吾さんが代わった。「あまりにも酷い状況下で感覚が麻痺し、臭いも気にならない。涙も一滴も出なかった。ただ娘たちを確認することだけに無我夢中やった」。3人の娘は燃料タンクの近くに座っていたため、火災による遺体の損傷が激しかった。親吾さんの弟で現地に駆けつけた田淵友一さんは当時、大阪府警の警察官を務めており、仕事柄遺体と向き合う機会が多かった。だが、遺体のあまりの損傷の激しさに「兄夫婦には絶対に見せられない」と思ったという。結局、輝子さんは満さんの手の一部だけは自分で確認した。満さんの手にあった傷の特徴を知っていたのは輝子さんだけだったからである。確認する箇所以外は全身が包帯で巻かれていたが、それでも変わり果てた姿が目に焼きついて離れない。「バカにするのもいいかげんにせえって言ったんや。人間の遺体というよりは炭のようやった」。3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。2日後の22日に葬儀が行われた。輝子さんは、陽子さんの柩に、白地に赤い花柄模様の振り袖を入れた。長女のために自分で仕立てたお気に入りのものだ。満さんの柩には、成人式のために用意していた反物を急いで仕立てて入れる。純子さんには、陽子さんが成人式で着た赤地の振り袖を分けて入れてあげた。葬儀の様子を撮影した写真が残されている。祭壇には陽子さんの遺影を中央に左手に満さん、右手に純子さんの写真が並んだ。位牌をもつ親吾さんはうな垂れ、その傍らに立つ輝子さんは憔悴しきった表情をしている。中学生だった純子さんの同級生をはじめ、歩道から溢れ出そうなほど多くの参列者が3台の霊柩車を見送っていた。本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。

 『悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事故の30年』
 著者=西村匡史
 講談社/定価890円(税別価格)

 「うさしびより」より「2006/10/20」。「墜落遺体」(著者:飯塚訓、出版:講談社(文庫))
 痛く、つらく、恐ろしい本でした。自分のブログにも書きましたが、私の想像をはるかに越えた惨劇だったことがよくわかります。あの「日航機墜落事故」。坂本九さん、北原瑶子さん、阪神の社長さんだかも乗っておられたあの、123便が、群馬の御巣鷹山に落ちたのは、私が15才の時。夏の暑い頃でした。ニュースをみて驚いているところに、連絡網が回ってきて「〇ちゃんのお父さんがあの飛行機に乗ってたんだって!」。数日後、お葬式に参列しましたが、もちろん声をかけることなどできませんでした。でも、その時は、私は彼女のお父さんが、棺の中で静かに横たわっているのだと思っていました。昨夜、この本を読んで、愕然としました。まともな体で戻ってきた遺体などないことに。作者は、当時、群馬の警察に勤務していた方で、遺体検死担当をされていたとのこと。その方のかくリアルな描写。事故の一報が入ったあと、すぐに山の中に入り、村の体育館にビニールシートを敷き詰め、遺体が届いたらすぐに検死できるように準備をされたのですが、慣れている飯塚さんや検死官、医師たちですら想像できなかったほどの地獄のような現実がその後次々とおそってきます。40度を越える、しめきった体育館の中での検死。それも、ある程度人間の形をしていれば分かりやすく早くすむところを、「これはなんだ、木切れか?」・・・中の肉がすべて吹っ飛び、焼けた皮膚だけの状態で木に巻きついていた人間の手でした。「このドッジボールはなんだ?」・・・丁寧に広げていくと、頭部の皮膚が丸まったものでした。スッパリと切断された首。機体に挟まれたままの髪の毛と頭皮。頭部上部が飛ばされ、中の脳髄がすべて外に出た状態のぺたんこの顔。下半身が180度ねじれ、皮1枚でつながっている少女。顔面に眼球が3つあり、よく調べると別の人の顔がクビの後ろからめりこんで重なっていたというものもあったそうです。1体だと思っていた縮こまった死体をひらいていくと2体がくっついたものだったり、お母さんが恐らく子どもを抱きしめた状態で落ちたのか、子どもの顔が母親のお腹にめりこんでいるものもあったとか。指だけのもの。足首だけのもの。頭部のない遺体。皮だけの遺体(あまりにもすごい力がかかると、人間の体はポンと皮だけ残して中身が外へ出るのだそうです・・・)。血液型を調べたくても、落ちた時に体液は流れ出てしまっており、骨などからしか血液成分がとれないため時間がかかる。遺族は怒る。警察・医師・看護婦さんたちは不眠不休で次から次へと運ばれてくる「かつては人間だった」体の一部を検死したり、きれいに拭いてあげたり、縫合したりされている・・・読めば読むほどそのすさまじさに絶句です。遺体と線香と汗の混ざった臭気もすごく(なんと換気扇が壊れていたそうです!)、蛆は通常の2倍に太り、蛆殺しをふりかけてもふりかけても足をはいのぼってくる、遺体からぞろぞろと出てくる・・・中には顔だけの幼児の遺体が、引き取り手のないまま何日も置いておかれ、著者が毎晩その子を撫でながら泣いたというエピソードもありまし(泣)。赤十字などの看護婦さんたちが、現場では一番冷静でテキパキと対処してくれたという話も紹介されていました。ニュースに名前がなくとも、誰よりも尽くした人たちのおかげで、多くの体が家に帰ることができたのだなあと思います。

 遺族の方たちの苦しみ、衝撃も、目の前で見ているような感じで伝わってきました。誰もが知っている事故なのに、これほど悲惨な現実をほとんどの人が知らないでいると思います。この本、文庫で手軽なので、ぜひ、読んでほしいと思います。息子にももう少ししたら読ませたいと思います。今、いろいろとゆがんだ日本社会の中で、甘えた自分勝手な人生を送り、簡単に人を殴ったり殺す人たち、仕事もせずブラブラしていたりする大人たち、老人を敬わず子どもの命に優しい目を向けられない人たち、大人をバカにして自分は何も努力しない若者・子ども、自分だけが不幸だと思っている人たち、自分の利益のことしか考えずいばっている人たち、これらすべてを招集してこういう現場を見せたいですし、それを見ても「自分は不幸」だと思い、「生かされている幸せ」に気付けないかと問いたいです。

 学校の生活科や道徳の時間に、少しだけでいいから先生の言葉に言い直して、紹介したりしてほしいですね。風化させてほしくない気がします。ネットで現場写真も見ましたが・・・皮だけで木にぶらさがっていたり、血だらけの足だけが言葉もなくころがっていたり・・・これらの前で呆然としている捜査員の姿に心動かされました。足の踏み場もないほどの凄惨な場所です。しかし、あの険しい山奥で、歩くのも危なく困難なところで、4人の生存者を見つけたことは、すばらしい奇跡です。また、遺体か木切れかどうかもわからないようなものを一つひとつ拾われた人たちの努力もすごくて頭がさがりました。「家に、遺族に、帰して(返して)あげたい」という一心だったのだと思います。他にも、日航機事故関係の本を探してこれからいろいろ読んでみたいと思っています。



 太田武史 群馬県医師会副会長日航123便墜落事故の際の群馬県医師会の対応」【日航123便事故と医師会の活動】 より 群馬県医師会発行 昭和61年10月1日
1 はじめに

 単独航空機事故としては史上最悪の520名の死者、4名の重傷者を出した日本航空ボーイング747(JA8119)-123便の墜落事故は昭和60年8月12日旧盆の始まる群馬県多野郡上野村の山中に発生した。群馬県上空に定期航路はなく、群馬県医師会員の中で、ジャンボ機が県内に墜落すると予測した人は、いなかったと思われる。

 群馬県医師会としては、大災害発生時の対応、救急医療体制の整備には一応の対策を講じていたが、墜落地点が仲々はっきりせず、生存者の数・状態、遺体の搬送予定もたたず、そのため遺体の検案場所、開始時期、などの詳細が分からず出動に際しては色々と混乱があった。検案が始まってからは、医師の動員、検案方法の徹底さらには遺体の身元確認作業にも積極的に参加せざるを得ない状態となった。8月中、下旬の猛暑の中約1760㎡の冷房設備のない体育館が、暗幕をはり、強力なスポットライトの下で数百名の警察官、医師、歯科医師、看護婦その他、作業に従事する人々が遺体の悲惨さと共に高温、高湿、耐え難い臭の中で黙々と働いていた尊い姿は、今尚我々の心の中に残っている

 この事故対策に参加したすべての人々の誠意と努力によって、事故処理は大過なく終わり、当初、遺体の身元確認は50~60%程度しか出来ないのではないかと思われたものが、最終的には520遺体中518体の身元が確認され、日本中いや世界中から賞賛を受けることが出来た。恐らく、今後このような大規模な悲惨な事故を体験することはないであろうし、またあってはならないものと思う。ここに、耐え難く、重苦しい長い一夏を過ごした、法医学の分野では全くの素人の集団である群馬県医師会員の誠意と努力を報告する>
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2 検案(検死、検視)と身元確認

 一般に我々医師が診療を行っている患者が死亡した場合、身体的状態、周囲の状況から見て明らかに自然死と思われる死体の場合には、死亡診断書を作成して、法的に死亡が確認され、それ以後の手続きがとられることとなる。所が、異常な経過で死亡したり、医師の診療を受けることなく死体として発見されたり、時には犯罪に関係するような状態である場合には、警察官が検視を行うこととなる。この際には医師が、立会い医学的な適切な指示をする。しかし、検視の主体はあくまで警察側にあり、場合によっては行政解剖や司法解剖にまわることもある。

 死体の身元確認は本来、検視立会いの医師には関係のないことであり、当然のことながら警察の捜査活動の一つとして警察官が行うものである。

 今回、群馬県医師会の行った作業は、検視の立会い、検案書の作成にとどまらず、警察官と一緒に検死の主体的働きを行い、さらには遺体の縫合、清拭などのとりつくろいから、身元確認のために、自分の家族を探すような努力まで行った。このように一見出すぎたような、警察官の職務まで入り込んだ作業を行ったにも拘らず、我々医師自身も、警察当局も、マスコミも何ら疑問を抱かなかった。これは、大事故の混乱の中で、作業を分離して行うことは出来ないし、法医学関係者の数の問題もあったためで、医師、歯科医師が、このような形で参加しなければ、あのような成果をあげることは出来なかったと思われる。この文中、医師側の立場からは検死、警察側の立場からは検視と記述する。

3 群馬県警察医会

 従来、全国的に留置人の健康管理、診療に当たったり積極的に検視の立会いに出動する医師を、警察署長が、「検視警察医」とか「警察医」などの名称で一警察当たり1~2名委嘱をを行っている。群馬県下にも20数名が警察医として委嘱を受けていた。ところが、犯罪の広域化、多様化、交通事故の多発、核家族化による独居老人の増加、警察医の減少などがあり、また、警察医の組織化による研修の機会を多く作り、資質の向上をはかるため、昭和59年2月群馬県警察医会が結成された。この会の特徴は会員が140名とかなり多数であること、その中に20名の歯科医師が参加していること、群馬医師会が全面的にバックアップしていることなどである。

 この警察医会が結成されていたために、会員の警察医が、警察の要請により、当然の職務として出動したことが、初動体制が適切にとれ、多数の医師の参加を得られた最大の理由である。後に「この墜落事故を予測して警察医会を作ったようなものだな。」といった冗談も出て来た程であり、今回の事故のあと各地の警察、医師会から群馬県警察医会についての問い合わせがあった。

4 出動まで

 8月12日午後6時過ぎに羽田空港を離陸した日本航空123便大阪行ジャンボ機(JA8119)が長野県の群馬県境に近い山中に墜落したらしい、というニュースでこの大惨事への群馬県医師会の対応は始まった。最初テレビのニュースを見て、大多数の会員は大変な事故が起こったなら、気の毒だなあと感じていたが、数日後に自分達がその中に入り込んで活躍をしなければならないと思った会員は殆んどなかったと思う。しかし群馬県および、群馬県警察本部内には直ちに対策本部が設けられ、的確な情報収集と、対策に追われていた。8月12日午後9時過ぎより、墜落現場と思われる山中に出動しやすい地域(前橋、高崎、藤岡、多野、伊勢崎、渋川)の警察医に各地区警察署捜査一課より電話連絡があり、群馬県内に墜落している可能性もあり、出動出来るように待機して頂きたいとの要請があった。会員の中には旧盆の休暇をとり、家族旅行を計画していた者も多数あった。またすでに旅行に出発し東京都内のホテルで藤岡多野医師会長より電話で連絡を受け、旅行を中止したものもあった。

 待機要請を受けた警察医達は、深山中で行われるであろう検死のため、スニーカー、リュックサック水筒の用意までしたものもあった。

 8月13日早朝には、墜落機体が群馬県側の上野村山中の国有林内で発見され、奇跡的に助かった4名の女性生存者の救出が行われたが、勿論ヘリポートが造成されず、ホバリングされた、ヘリコプターによって収容され、藤岡市にある多野総合病院に入院し、治療を受けることとなった。この生存者救出に当たっては、日本赤十字社群馬県支部より3班の救助隊が出動し、現場で応急手当をして救出した。この奇跡ともいえる4名の生存は機体が昭和28年に植林されたほぼ同じ高さの森の中に墜落し、墜落と同時に、爆発、炎上した機首部分から分断された尾部に搭乗しており、この部分は樹木の上を約200m程滑落して沢の下に軟らかく停止したためではないかと考えられる。

 現場へ入るには道は全くなく、現地対策本部のある上野村役場から、当初は、警察官でも約5時間の山登りをしなければならなかった。上野村には医師が1名開業しており、事故発生より数ヶ月の間、出動した警察官、消防団員、地元の救助隊員など多数の人々の救護に当たった。

 8月13日、自衛隊の徹夜の作業により、森林を切り開いて、ヘリポーが造成された。この間現地対策本部では、遺体はヘリコプターにより、藤岡市の小学校々庭に搬送し、そこから、検視現場と定めた藤岡市民体育館まで、寝台車で搬送することが決定された。待機要請を受けていた警察医に夜7時頃、8月14日午前8時に藤岡市民体育館に検死のための出動要請があった。この藤岡市は前橋市から20km、高崎市から14km、沼田市から5kmの所にあり、医師の出動に際しての、警察よりの自動車の提供を要請したが、車輌もなく、運転する係員もすべて出動しているので誠に申し訳ないが、各自、適当な方法で、出動して下さいとの返事であった。やむお得ずタクシーや、自分で自動車を運転して出動した。ただ、高崎と伊勢崎の警察署では、市役所からマイクロバスを借りて送迎した。タクシーで出動しても帰りが深夜になり、藤岡市は勿論、前橋、高崎のタクシーも事故対策のため借上げられていたので帰りの交通手段には一寸混乱があった。また医師が自分で自動車を運転して行くことも多かったが゛、幸いなことに、交通事故は1件も起こらず、その他の事故も全く起こらなかったことは幸運であった。

 また遠方より出動した医師の宿泊の設備は全くなく、すべて通勤であったが、群馬県は道路網も発達しており、最大2時間程度で帰宅出来るため、検死現場で宿泊するよりも、短時間でも自宅で休んだ方が好いと思われた。

 8月12日夜墜落し、8月13日山中に機体を発見、ヘリポート造成、8月14日朝よりの検死開始の、テンポに多数の医師団を対応させることは、大変困難な作業であるが、当群馬県には3、で記したように群馬県警察医会が組織されていたため、当初は群馬県医師会、群馬県警察医会も、山中よりの搬送に多大の時間がかかるため、120名の警察医と場合によっては、地元の藤岡多野医師会の医師で、対処可能と考えていた。また警察医は検死の出動その他警察活動に協力することを前提に委嘱を受けており、抵抗なく8月14日の朝より出動したものである。しかし、検死が始まり損傷が高度で最終的には2065体にまで離断された遺体の検死には多数の医師の昼夜を分かたぬ長時間の参加が必要であることが分かり、後述の如く、検死2日目の8月15日より、群馬県医師会として対応したものである。

         時   間   的   経   過
  日 付   時 刻       記 載 項 目
8月12日(月)

19時00分

群馬県境に近い長野山中に墜落したらしい
21時30分 警察医に待機要請(警察)
8月13日(火) 05時30分 群馬県上野村山中に墜落判明
10時00分 生存者の救出作業
20時00分



現場にヘリポート造成
警察医に8月14日午前8時藤岡市民体育館へ
検死のため出動要請(警察)
8月14日(水)

08時00分

出動医師82名(うち、日赤医師6名)
看護婦61名(うち、日赤看護婦23名)
14時00分 群馬県医師会へ出動要請
8月15日(木) 02時30分 終了269体(うち、完全遺体111体)
03時00分 開始、医師144名(うち、日赤医師11名)
8月16日(金) 04時30分 終了436体(うち、完全遺体157体)
10時00分 開始、医師181名(うち、日赤医師11名)
8月17日(土) 02時30分 終了282体(うち、完全遺体137体)
 以 降 省 略

5 出  動

 8月14日午前8時過ぎに、藤岡市民体育館に集合した所、約1760㎡の体育館には警察官、警察医、日本赤十字社より出動の医師、歯科医師、看護婦など500名以上の人達が集合していた。体育館内は別図のように配置され、同時に22体の検視が行えるように床にビニールシートが敷いてあり、遺体安置所、警察医、看護婦の控所が区切られていたが、すべて同一室内であり休養を取る場所がなく、隣接したサッカー場の芝の上で休む以外に方法がなかった。部外者による遺体の写真撮影を防ぐために、体育館の窓はすべて締切り、黒いカーテンで閉め切られ、床面を照明するために10基の強力なスポットライトが東京電力群馬支店より準備されていた。冷房設備がないため、館内の温度、湿度は上昇し40℃を越す高温となっていた。当日の出動は警察医を主とした群馬県医師会員と、特に要請した藤岡多野医師会員で76名と日赤の医師6名の計82名と看護婦61名(うち日赤看護婦23名)であり、他に群馬大学法医学教室の古川教授を始めとする法医学者が出動していた。

 検死は午前11時頃より始まったが、それまで、人員配置、検死の方法などについて打合せをしなければならなかった。しかし、この時点で集まった医師は日赤の医師を除けば組織的には編成されておらず、また1日の搬送されてくる遺体の数も見当がつかなかった。やむを得ず、居合せた、群馬県医師会及び警察医会役員と藤岡多野医師会長、古川教授で相談をし、内科系、外科系1名の医師でペアを組み法医学者と検死を数多く経験している医師、産婦人科医師、歯科医師にパトロールして頂くということで人員を組み、検案書の書き方など打合せを行った。医師、看護婦とも群馬県医師会および日赤に所属しているものであったが、組合わせは所属にこだわらずに全く、医師、看護婦という立場のみで検死およびその介助を行っていただいた。

 午前10時頃より遺体の搬入が始まり、受付け、記録など行った後、午前11時頃より検死が始まった。当初は、火災を受けていない、比較的損傷の少ないと思われる遺体の検死であったが、1体の検死に1時間半から2時間の時間がかかり、後から後から搬入される遺体で、体育館の受付附近に柩がたまって来ており、また、搬入された遺体はその日のうちに検死をしなければならないため再三にわたり協議して省略出来るものは出来るだけ省き、結局翌15日午前2時半までに269遺体(うち、完全遺体111体)の検死を行って第1日が終わった訳である。

 この14日の午後2時になり、警察医と地元医師会員、日赤の医師だけでは、第2日以後の検死は不可能と判断して、鶴谷孔明群馬県医師会長と協議し、群馬県医師会の総力を挙げて対処することを決定し、直ちに県下14地区医師会長に連絡し出動をお願いした。一方検死の責任者である群馬県警察本部の捜査Ⅰ課の久保調査官と相談し、口頭で警察本部より、群馬県医師会に出動を要請し、これを受けて、出動する群馬県医師会員は、警察医に準ずる立場となったわけである。これは出動した会員の事故その他身分上の責任を群馬県警察本部で保障するということになる。

 出動した医師は、これより群馬県医師会員、日本赤十字社所属の医師および後に参加する群馬県職員である医師の三団体に分類される。そして、それぞれが別個に作業したのでは効果的でなく、種々のトラブルの原因となると判断し、最初から最後まで出動し、常時、現場に出動するものが全体を統括すべきであると考え、15日に行なわれた対策会議で群馬県医師会の責任者が全体のお世話することとなった。看護婦についてはやはり最初から出動していて事情のよく分っている日赤群馬県支部の婦長さんにお世話を頂いた。事態を一番よく認識し、常時駐在しているものが世話役となったため、出動して来る医師が不安なく作業にとりかかれ、またすべての医師に所属に無関係に協同して 作業して頂き、気持ちよく整然と仕事をなしとげられたものと思う。

 検死はⅠ5日にピークとなり出動医師は144名(うち日赤医師11名)、検死遺体436体(うち完全遺体157体)となり、高温高湿の下、医師、看護婦共に高度の疲労と戦いながら、検死を行い、2日目の検死の終了したのは東の空が明るくなって来た16日の午前4時半で、帰宅し数時間、眠ってまた8時に出動するという状態であった。今になって、よく身体が持ったものだと、不思議に思える程であった。

 16日に入り検死3日目になると、遺体の損傷も激しく、ジェット燃料の高熱による炭化遺体も多くなる一方、遺体の腐敗、ウジの発生もひどく、その臭いは大変なものであり、臭いをとるためにつけた多量の線香の煙により体育館内に長時間いるものはのどをやられ、声が出なくなった。身元確認された遺体はそれぞれ遺族が引取っていったが、この頃になると、身元の確認の難かしい遺体も多くなり、市民体育館内には安置出来なくなり、藤岡女子高校体育館と藤岡工業高校体育館に安置することになった。この両高校体育館に遺体を探す家族が集まり、その確認に立会い、年令、性別、身体の大小、手術、うおの目の剣、水虫の治療状態など様々な質問に答えるために医師が出動して医学的立場から説明し、確認のお手伝いをした。

 また2日目の15日よりの群馬県医師会員の出動は、遺体の搬入状態、検死の進み具合などを見て、群馬県医師会で指揮をとっている鶴谷医師会長が適宜、地区医師会に出動を依頼し、時には午後8時頃からその日の検死の終了までという深夜出動をお願いしたこともあった。これは、昼間、夜間に平均に出動医師数をコントロールするために必要であったが、会員の医師達は誰一人いやな顔をしないで、医師の当然やるべきこととして、気持ちよく働いて下さった。

 検死3日目の8月16日になると、日本航空より飛行機内冷房用の冷房機が搬入され、多少室温は下がったが、外気温の上昇、腐敗臭、線香の煙などであまり効果は上がらなかった。この頃よりの遺体は離断、炭化が激しく検死、身元確認は非常に困難をし、歯科医による歯型、歯の治療痕による判定や、生前の骨折写真、胃透視写真や健康診断時の間接胸部X線写真、を持参して、骨の特徴から、家族を探す遺族の方々が多数集まって来た。しかし歯牙による身元確認以外は非常に困難で、的確な判定を下し得ないものが多かったが、他の色々な資料とつき合わせて身元確認に至ったものもあった。後日になるが、中学生の頃、先天性心疾患があり開胸手術を行なった際の胸骨附近を止めた、細い針金が写っている写真を持参した遺族があり、炭化遺体の胸部X線写真を撮った所、全く同じ型をして結んである針金が写っている写真を発見し、無事中年男性の遺体を確認することが出来た。16日には県医師会長の要請により、各地区医師会より、それぞれ定められた時間に体育館に集合し、終日、黙々と作業を行った。深夜になると出動医師数が、減少するため、前に述べたように予じめ、時差出勤をお願いし効率的に作業が進むよう努めた。結局16日の検死は282体(うち、完全遺体137体)で終了は翌17日の午前2時30分であった。この日の出動医師数は181名(うち日赤医師は11名)であった。

 遺体の確認のために、全国より集まった遺族が疲労と悲しみのため、頭痛、めまい、動悸など身体不調を訴える場合が多く、地元藤岡多野医師会員の医療をうけるものもあり、その他、検死場所、遺体安置所にもそのための医師会員を配置したが、群馬県女医会よりの申し出もあり、女性会の方々に安置所に待機していただいた。

 事故発生10日過ぎより、残った遺体の身元確認は困難となり歯科医の歯型により確認と平行して、整形外科医の出動を依頼し、生前の骨X線との対比、遺体に残った椎骨その他の骨の骨による年令、性別、骨折痕の判定などをお願いしたが、確認には多大の困難があった。

6 ま と め

 以上、発生直後の群馬県医師会の活動についての記録であるが、9月に入り御巣鷹の尾根の遺体の捜索はほぼ終了したが、未確認の遺体が柩数にして9月30日237柩あり、この身元確認には、長期にわたって医師会員の出動が必要であり、全体火葬を行った昭和60年12月20日まで、歯科医師会員ともども出動を行った。
 この事故および医師会の対応を考えてみると、すでに新聞、テレビ、ラジオ等で詳しく報道されているようにいずれも、医師は誠によくやった、やはり医師会は立派である。という賞讃のお言葉が多いが、これは現在考えて見るといくつかの要因がある。

 以下列挙すると、

(1)群馬県警察医会が結成されていたこと。しかも医師のみならず、歯科医師の参加もあり、警察医の数も他県に比して多かったことで、これにより8月14日、15日といった初期の医師の動員がスムーズに行われた。

(2)医師の職業意識から、責任感が強く、自分達が参加しなければ、検死が行なわれないという気持があり、また団結感も強かったこと。

(3)地元対策本部、警察当局との連絡が充分であったこと。

(4)医療関係者としての対応が一本化していたこと。これは群馬県医師会(含む警察医)、日本赤十字社、群馬県と3者に所属する医師が参加していたが、最初から、最後まで出動するものが責任者となるべきと考え、了解を得、現地対策本部の決定により、群馬県医師会長がその任に当たったわけである。そして医師はすべて同一の仕事を協力して行い、充分な成果を得られたものと思う。

(5)(4)にも関係することであるが、状況に応じて、迅速に適切な対応が出来たことは、県医師会長の判断で時々刻々変る現場の状態を充分に把握し、適当な手段を講じられたことによる。

(6)検案書、検案確認書の管理、交付を数名の医師で責任を持って行い、この面におけるトラブルが全くなかったこと。

(7)プライバシーの保護、捜査上の機密や、医師に対するマスコミの無差別な取材による作業の遅延を防ぐため、マスコミ側と協定を行い毎日午後、記者会見を行い、適宜情報を提供することとし、一般の医師への取材はお断りした。このため、医師は落着いて仕事をすることが出来、また不用意発言により問題を起すことなく、医師の努力を正当に評価していただけた。

 しかし、その反面この事故に対する出動をして問題となる点もないわけではなく

(1)山林中ではなく、人口密集地を直撃した場合の対処はどうしたらよいのか。

(2)今回は生存者が少なく(4名)、死亡者が多かった(520名)ので時間的には比較的余裕があり、また病院への収容、適切な医療といった面でも充分に対処し得たが、この逆に、生存者、負傷者が多数の場合はどうするのか。

(3)この場合の救護要員の動員、輸送計画はどうしたらよいのか。

(4)救護出動の医師、看護婦の身分、および万一の事故のあった場合の補償制度が法的に確立されていないが、同一県内はもとより、他府県にわたる場合の身分の安定についてはすみやかに法の制定を望むものである。

 以上、群馬県医師会のこの墜落事故への対応について簡単に記したが、このような事故は原因のいかんを問わず二度と起らないであろうし、また起ってはならないものであり、我々は文明の進歩とともに、自然の力の大きさと人間の無力さを常に銘記しておく必要がある。あの重苦しい、悲しい真夏の一ヶ月の経験を2度くりかえしたくなく、今はただ犠牲者のご冥福を祈り、残されたご遺族の方々が1日も早く立ち直れるように願ってやまない。

日航123便事故と医師会の活動 群馬県医師会発行 目次
序文・・・群馬県医師会長・鶴谷孔明/序・・・群馬県警察医会会長・八木雅雄/御霊よ、安らかに・・・前群馬県衛生環境部長・藤井佐司
Ⅰ 活動記録
日本航空123便墜落事故の際の群馬県医師会の対応・・・群馬県医師会副会長・太田武史/日航機墜落事故の救難、検視活動に於ける地元医師の対応・・・藤岡多野医師会長・斎藤武/救急担当の立場から・・・群馬県医師会理事・佐藤秀/検死検案書・・・群馬県医師会理事・善如寺秀/警察医としての活動・・・群馬県警察医会理事・須賀勝久/警察医としての検死・・・群馬県警察医会会員・前橋市医師会理事・直田靖彦/産婦人科としての検死・・・藤岡多野医師会理事・若林秀昭/日航機事故に対する法医学の対応・・・群馬大学医学部法医学教室・古川研
Ⅱ 体験記
回想・・・前橋市医師会長・生方璋/暑く永い夏・・・前橋市医師会理事・浦野恭/暑い藤岡の夏・・・前橋医師会理事・得津雄司/日航機墜落事故の活動記録・・・高崎市医師会理事・高木矗/日航機墜落事故の検案に参加して・・・高崎市医師会・藤原由利夫/産婦人科警察医として参加して・・・群馬県医師会理事・佐藤仁/日航機墜落事故出動について・・・桐生市医師会理事・北川洋/日航機墜落、医師会出動す・・・伊勢崎佐波医師会副会長・長谷川昭衛/日航123便航空機事故による墜落死された方の死体検案を行なって・・・伊勢崎佐波医師会理事・岡本栄/日航機事故遺体検視記・・・伊勢崎佐波医師会理事・大谷震也/航空機事故検視会場から・・・伊勢崎佐波医師会・林佐千夫/日航機事故の検案行・・・伊勢崎佐波医師会・平方文雄/人のいのちの尊さ・・・太田市医師会・木村嘉孝/日航機事故断面・・・勢多郡医師会副会長・戸塚武男/日航機事故と部分遺体・・・群馬郡医師会理事・狩野和夫/日航機事故に動員されて・・・群馬郡医師会・佐藤洋/日航機墜落事故遺体検視作業に参加して・・・渋川地区医師会理事・桜井芳樹/日航機墜落事故体験記・・・藤岡多野医師会理事・中里賢次郎/航空機事故と一末端会員の苦悩と要望/長く耐え難い検案に従事して・・・富岡市甘楽郡医師会理事・富岡進/日航機事故の思い出・・・碓氷安中医師会長・須藤恵夫/日航機墜落事故死体検案・・・吾妻郡医師会・佐藤正経/日航機墜落事故による検視体験記・・・沼田利根医師会理事・角田隆/日航機墜落事故について・・・館林市邑楽郡医師会副会長・蜂谷徹夫/日航機事故遭難者の検視に参加して・・・桐生厚生総合病院・大澤英夫
Ⅲ 付図
日航機墜落事故現場概観図/藤岡市と県内郡市との距離/組織図(医師団・群馬県医師会)/群馬県警察医会役員名簿及び会員数/時間的経過/会員の出動数/医師・看護婦出動数と確認数/地区医師会別出動数/会員の出動延時間/会員出動延時間及び人員数/検案現場見取図/検死の手順/死体検案書/検案証明書/検案時間/検死数/検死からみた遺体の状況/死体の状態/直接死因と身体状況/死体検案書等の交付状況/身元確認のポイント
Ⅳ 出動者名簿
医師/看護職員/事務職員
Ⅴ 編集後記/編集委員会委員名簿





(私論.私見)