剣術、剣道史


更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).3.8日

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 ここで剣術、剣道史を確認しておくことにする。「」その他参照。

 2005.4.14日、2010.10.1日再編集 れんだいこ拝


【剣道歴史年表】
 10世紀後半、反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。
 平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)
 1159(平治 1 )年、源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。
 1384(弘和 4)年、中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については
 1408(応永15)年、念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については
 15世紀後半、剣術、槍術、柔術などの流派が誕生し始める。
 1466(文正 1 )年、伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)が各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)代わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。
 1467()年、応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術。
 1522(大永 2)年、香取神道流の流れをくむ塚原ト伝が新当流を開く。
 1529(享禄2)年、上泉伊勢守が愛洲移香より陰流を授かり、新影流を開く。
 1543(天文3)年、鉄砲伝来。急速に戦闘の主役となる。鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。
 1565(永禄 8)年、柳生但馬守宗厳が上泉より一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。
 1576(天正4)年、念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久が小野派一刀流を創始する。
 1594(文禄3)年、徳川家康が、柳生石舟斎・宗矩父子に起請文を差し出す。徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。
 1632(寛永9)年、柳生但馬守宗矩が「兵法家伝書」を著す。
 1645(正保2)年、二刀流の宮本武蔵が「五輪書」を著す。
 1682(天和2)年、伊庭是水軒が心形刀流を開く。
 正徳年間(1710年代)、直心影流の長沼四郎左衛門国郷が防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行する。
 宝暦年間(1750年代)、一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。
 1792(寛政4)年、幕府が武芸奨励の令を発布。
 1822(文政5)年、北辰一刀流の千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設する。
 他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった。
 1848()年、黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。
 1856(安政3)年、築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設される。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任する。
 1871(明治4)年、廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。
 1873(明治6)年、江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉が、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案する。撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。
 1874(明治7)年、警視庁設置。佐賀の乱。
 1876(明治9)年、廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。
 1876(明治9)年、神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。
 1877(明治10)年、西南の役。警視庁抜刀隊が活躍する。剣術が再認識される。
 1879(明治12)年、警視庁大警視川路利良が「撃剣再興論」を発表する。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退する。
 1880(明治13)年、京都府知事槇村正直が「撃剣無用」を諭達する。剣術を稽古する者を国事犯とみなして監禁した。
 1883(明治16)年、文部省が、体操伝習所に対して「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問する。
 1884(明治17)年、体操伝習所が、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。
 1895(明治28)年、日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。
 1896(明治29)年、文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛明治29生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎、柴田克己などが、第10帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。
 1902(明治35)年、大日本武徳会が、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。
 1906(明治38)年、大日本武徳会が、武術教員養成所を開設する。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。
 1906(明治39)年、大日本武徳会剣術形を制定。
 1911(明治44)年、「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。
 1912(大正1) 年、大日本帝国剣道形が制定される。
 1913(大正2)年、京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。
 1918(大正7)年、武術家優遇例を武道家表彰例と改称。
 1924(大正13)年、第1回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。
 1925(大正14)年、第50議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

【幕末の主な剣道場と剣士】
 幕末になると時代が騒然となったことによってか「剣術ブーム」が起き、江戸三大道場として「桃井春蔵の士学館」、「千葉周作の玄武館」、「斉藤弥九郎の練兵館」が名声を高めた。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されていた。これは、久留米藩士の松崎浪四郎(1833-1896)の評が始まりとのこと。
 「幕末動乱期の剣豪ランキングベスト10」(「幕末動乱期の剣豪ランキングベスト10」参照)は次の通り。
1位 男谷精一郎信友
2位 平山行蔵
3位 山岡鉄舟
4位 桃井春蔵直正
5位 斎藤弥九郎
6位  高柳又四郎
7位 寺田五郎右衛門
8位 千葉周作成政
9位 斎藤一
10位 近藤勇

神道無念流

【福井平右衛門(嘉平)―戸ヶ崎熊太郎】
 天明の頃(1781~1789)、下野の福井平右衛門(嘉平)が神道無念流を編み出した。技の特徴は、相手の攻撃を右斜め前でかわし、「真を打つ」一撃で打って取る力剣にあった。

 門弟が戸ヶ崎熊太郎で、江戸に道場を構えて門人を採った。この系譜に岡田十松、斉藤弥九郎、鈴木斧八郎が連なる。

【岡田十松「撃剣館」道場】
 岡田十松(おかだ じゅうまつ)は、神道無念流戸ヶ崎熊太郎暉芳に弟子入りし、14785(天明5)年に20歳で「目録」、同7年、22歳で「皆伝」の印可を授けられた。師の帰郷により道場を継ぎ、後に神田猿楽町に「撃剣館」を建て、神道無念流を幕末の3大流派にまで引き上げた。神道無念流の中で達人中の達人と云われている。

 門弟に斉藤弥九郎、江川太郎左衛門、渡辺華山、水戸藩士の藤田東湖、武田耕雲斎、伊東甲子太郎(1835-1867)、水戸浪人の芹沢鴨(1827-1863)、新見錦、平山五郎、平間重助、渡部昇(1838-1913)、新撰組の永倉新八(1839-1915)らが輩出している。

【斉藤弥九郎「練兵館」道場】
 斉藤弥九郎(1768-1871)は、越中国射水郡出身。岡田撃剣館で岡田十松の門下生として江川坦庵と共に神道無念流剣を学び、四天王と呼ばれた。後、九段坂下の俎橋付近に練兵館道場を起こす。その後、九段坂上(現在の靖国神社境内)に移転する。斉藤と江川の交流は終生続き、江川が名代官として善政をほどこし、領民から「江川大明神」とあがめ慕われる背後に斉藤の補佐があった。斉藤弥九郎の練兵館は、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館と並び江戸の三大道場に数えられた。「技の千葉、位の桃井、力の斎藤」と評された。水戸藩、長州藩と強い絆を持つ。

 門弟として桂小五郎(1833-1877、斉藤弥九郎)が知られる。1852(嘉永5)年、桂小五郎が20歳の時、斉藤弥九郎の息子にして江戸の剣客・斉藤新太郎が萩に来訪。9月末、長男の新太郎に従って江戸へ旅立つ。11月末、江戸九段下の斉藤弥九郎道場に着。以降頭角を現し塾頭になる。他にも、新選組・芹沢派の「平山五郎」等々。この練兵館には、高杉晋作(1839-1867)、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代も務めている。ペリーの浦賀来航を機に江戸湾の台場築造に携わったとされる。晩年は明治政府で鉱山開発を担った。
 十三中学校で斎藤弥九郎の銅像を見学する参加者

北辰一刀流

【千葉周作「玄武館」道場】
 千葉周作成政は、1794(寛政6)年、奥州陸前高田市気仙町で生まれた。幼名を於寅松(おとまつ)といい、5歳の時に一家で気仙の地を離れた。気仙町中井には千葉周作の生誕地を示す立派な石碑がある。小野派一刀流を中西忠兵衛子正(たねまさ)の門人の浅利又七朗義信から学び、浅利又七朗の娘婿養子に迎えられる。その後、浅利が学んだ中西道場へ入門し奥義を得る。その後、北辰一刀流を唱えて独立し、1820(文永5)年春から関東一円に修行へ出掛ける。日本橋品川町に道場を開設。1823(文永8)年、神田お玉ヶ池に道場「千葉道場玄武館」を構える。

 周作は、従来の剣の伝授方式であった12段階、免許皆伝までの6段階を簡素化し、初目録、中目録、大目録皆伝の3段階にするなど革新した。しかも、初心者の2年間は竹刀中心で防具をつけた稽古を奨励した。形稽古を終えると打ち込み稽古に入り、次の段階で免許皆伝にしていた。

 門弟も多く江戸1番の道場の座を獲得し、水戸藩などの「指南役」や「剣術顧問」を頼まれ、道場は更に隆盛の一途となった。最盛期には八間四方3千3百坪の広大な道場に町人を含む門弟数3千3百人を超えたと云う。幕末に至って千葉周作は引退し、玄武館は三男の道三郎が継ぎ、それを森要蔵、庄司弁吉、塚田孔平、稲垣定之助ら玄武館四天王や天才剣士海保帆平がこれを助けた。但し、弟・貞吉の桶町道場に徐々に人気を奪われる結果となった。1855(安政2).12.10日、千葉周作病没(享年62歳)。

 周作の次男栄次郎成之(1833、天保4年生まれ)は片手上段の構えを得意とし「千葉の小天狗,お玉が池の小天狗」と恐れられ、斎藤弥九郎・海保帆平もまったく歯がたたなかった稀代の名剣士として伝えられている。貞吉の長男重太郎はそれに対して「桶町の竜」と称されたと云われている。1853(嘉永6)年、水戸藩に召し出され、馬廻組⇒大番組に昇進するも、惜しむべく1862(文久2).1.12日、30歳の若さで没した。 

 門人に山岡鉄舟(鉄太郎、1836-1888)、清川八郎(1830-1863)、藤堂平助(1844-1867)、山南敬介、森要蔵(1810-1868)など。坂本竜馬(龍馬)もこの流派に列なる。

【千葉定吉「桶町千葉、小千葉」道場】
 周作の実弟・千葉定吉政道が、玄武館創設に協力した後独立して道場を開き、最終的に京橋桶町に定まった。その為、「千葉周作道場玄武館」と区別する意味で「桶町千葉」、「小千葉」と称された。1853(嘉永6))年、鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し出された。その後を長男の重太郎一胤が引継ぎ、30歳にして道場を任された。この道場に坂本竜馬(1836-1867)が入門し、重太郎と親交することになる。

 なお、1853(嘉永6))年、坂本竜馬が道場へやって来た時、定吉の長女の佐那と初手合わせし、歯が立たなかったと伝えられている。佐那は「千葉の鬼小町」と呼ばれる美人で、後に竜馬の許婚となったが、婚姻には至らなかった。1867(慶応3)年、龍馬が京都において暗殺されると、その為かどうかは分からないが一生独身を通している。

 1860(万延元)年、重太郎も鳥取藩に召し抱えられ、1862(文久2)年、周旋方に就任。同年12.29日、勝海舟の開国論に反発して、坂本龍馬とともに勝邸を訪ね、機を見て斬ろうとしていたところ、龍馬が海舟の言に伏した為に沙汰止めとなったとの逸話が残されている(「海舟日記」)。

【山岡鉄太郎(鉄舟)】
 山岡鉄太郎(鉄舟)は、天保7年、旗本・小野朝右衛門の子として生まれる。母は塚原ト伝の流れをくむ。千葉周作に北辰一刀流の剣を学び、20歳の時に、刃心流槍術の山岡静山に入門した。静山が早世したため、静山の弟で高橋家の養子となっていた精一(後の高橋泥舟)に請われ、静山の妹・英子と結婚し山岡家を継いだ。

 1856(安政3)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられた。その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。1859(安政6)年には清河八郎と結び尊皇攘夷党を結成した。1862(文久2)年、浪士組取締役に任命され翌年上洛するが、清河の建白書提出を受けて程なく江戸に帰還した。その後山岡は浅利又七郎に剣を学び、修行を重ね「剣を捨て、剣に頼らぬ」の境地に達し、一刀流正伝と秘剣・瓶割刀伝授される。

 大政奉還後の1868(明治元)年3月には、勝海舟の使者として新政府軍東征大参謀の西郷隆盛を単身訪問し、静岡で会見、江戸総攻撃を仕掛けようと目論む新政府軍に、徳川家救済と戦争回避を直談判し、江戸城無血開城のきっかけを作った。西郷は当初、江戸城を無条件で引き渡す他、慶喜を備前に預けるとの条件を提示した。しかし、山岡は慶喜を備前に預けるのは罪人扱いだとして、涙ながらに説得。最後は切腹する構えをみせた。山岡の決死の交渉に対し、西郷は方針を軟化させ、これにより勝と西郷の会談が実現し、江戸城の無血開城が決められることとなった。

 維新後は、茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、1872(明治5)年には明治天皇の侍従となった。そして、宮内庁の要職を歴任する傍ら、剣と禅の修業に精進し無刀流を開いた。晩年は、子爵を授けられ華族に名を連ねている。

 1888(明治21).7.19日、座禅のまま往生した(享年53歳)。

鏡新明智流

【初代・桃井春蔵「士学館」道場】
 初代・桃井春蔵(直由、1772-1780)は福島の郡山藩士。自身の修得した戸田流、一刀流、柳生流、堀内流を合わせ鏡心明智流を創始した。1773(安永2)年、日本橋南茅場町(現東京都中央区日本橋茅場町)に「士学館」を開く。流派名は戸田流抜刀術の形名「鏡心」に因み「鏡心明智流」とされ、後に「鏡新明智流」と改められた。ただしその後も両方の表記がみられる。
 桃井直一(2代目 桃井春蔵)が南八丁堀大富町蜊河岸(現 中央区新富)に移転。

【4代・桃井春蔵「士学館」道場】
 桃井春蔵(1825―1885)は駿河国沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれた。幼名は甚助、名は直正。1838(天保9)年、江戸に出て3代目桃井春蔵の名を継ぐ直雄に入門し、鏡新明智(きょうしんめいち)流を学んだ。直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、その婿養子にまで取り立てられる。1841(天保12)年、弱冠17歳の若さで4代目桃井春蔵の名を襲名する。桃井春蔵の名は士学館で代々受け継がれる名であり直正は第4代桃井春蔵。1848(嘉永元)年、免許皆伝される。

 1866(慶応2)年、幕府から講武所剣術教授方出役に任じられ、幕臣として取り立てられた。1887(慶応3)年、遊撃隊頭取並に任じられている。明治時代には大阪で誉田八幡宮の神官となった。1879(明治12)念、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、士学館の高弟であった上田馬之助、梶川義正、逸見宗助が最初に登用され、これに続いて阪部大作、久保田晋蔵、兼松直廉などの弟子も採用された。その後警視庁で制定された警視流木太刀形と警視流立居合にも、鏡新明智流の形が採用された。1885(明治18)年)、コレラにより死去(享年61歳)。

 門人として武市半平太(瑞山、1829-1865)、岡田以蔵、中岡慎太郎(1838-1867)、田中光顕(1843-1939)等々。

天然理心流

【近藤勇「試衛館」道場】
 後の新撰組隊長となる近藤勇が道場主を務めていた道場で、天然理心流の「試衛館」。「牛込甲良屋敷」にあった。

直心影流

【男谷精一郎「男谷道場」】
 直心影流13代目。防具による試合稽古を創始した。幕臣の門人が多かった。心胆の練磨を強調する重厚な剣。

 門人は、島田虎之助、勝海舟、天野八郎。江戸末期の剣豪では、「男谷信友、大石進、島田虎之助」が「幕末の三剣士」と云われた。

島田虎之助
 島田虎之助は、1814年生まれで、九州の中津藩出身。24歳の時に江戸の直心陰流(じきしんかげりゅう)の男谷道場へ入門。勝海舟の剣の師匠であったが、38歳の若さで病没。剣術以外に儒教や禅を好んで学んだことから、「それ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」の言葉を遺している。虎之助の出生地の石碑には、「剣は心なり 心正しからざれば 剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば 先ず心より学ぶべし」と印されている。島田虎之助の弟子に幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟)がいる。

【榊原鍵吉】(1830.12.19日(文政13.11.5日) - 1894(明治27).9.11日)
 榊原 鍵吉(さかきばらけんきち)は江戸幕府幕臣であり幕末から明治にかけての剣術家。遊撃隊頭取。諱は友善(ともよし)。男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。明治維新後に撃剣興行を主宰して剣術家を救済したことや、1887明治20)年の天覧兜割りなどで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。

 1830(文政13)念、江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人・榊原益太郎友直。5人兄弟の長男であった。1842(天保13)年、13歳の時、直心影流剣術・男谷信友の道場に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館、士学館、練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙や目録など費用のかかる免状を求めたことがなかった。1849(嘉永2)年、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり鍵吉に免許皆伝を与えた。1856(安政3)年3月、男谷の推薦によって講武所の剣術教授方となる。後に師範役に昇進。

 1860(安政7)年2月、講武所が神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍・徳川家茂、大老・井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術の高橋泥舟(謙三郎)と試合した。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足絡みで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。

 1863(文久3)年、将軍上洛に際し随行する。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹(将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きを食らわせ天野をひっくり返したという。また、京都の四条河原で土佐藩浪人3人を斬ったともいう。1866(慶応2)年7月、家茂が大坂城で死去すると江戸に戻る。11月、講武所が陸軍所と改称。組織替えになると職を辞して下谷車坂に道場を開いた。1868(慶応4)年、上野戦争のとき、鍵吉は彰義隊には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の湯屋・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。

 明治維新後、徳川家達に従って駿府に移るが、1870(明治3)年、再び東京に戻る。明治政府から刑部省大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉は自身は幕臣であるとの思いからこれを受けず、代わりに弟の大沢鉄三郎を推挙した。1872(明治5)年、士分以上の帯刀が禁じられたことで、道場経営が立ちゆかなくなり、警察の武術教授らも不要として職がなくなる。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、1873(明治6)年、「撃剣会」を組織し、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で37カ所に上り地方にも及んだ。考案した撃剣興行は、剣術を見世物にしたことや、客寄せのための派手な動作が後の剣道に悪影響を与えたとして批判される一方、剣術の命脈を保ったという評価も認められており、功績をたたえ2003(平成15)年、全日本剣道連盟の剣道殿堂に選ばれている。晩年まで講釈席や居酒屋を経営したが上手くいかず、車坂道場で後進を指導し、著名人が招かれた園遊会などで度々演武を行った。

 1876(明治9)年、廃刀令が出ると、刀の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、帯に掛けるための鉤が付いた木刀(政府に遠慮して杖(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し身に着けた。1878(明治11)年、明治天皇が上野に行幸し天覧試合が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。1879(明治12)年、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。

 1887(明治20)年、11.11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、天覧兜割り試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「同田貫」を用いて明珍作の兜を斬り割った(切口3寸5分、深さ5分)。1894(明治27)年、元旦、山田次朗吉に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。9.11日、脚気衝心により死去(享年65歳)。四谷西応寺に葬られた。法名は義光院杖山倭翁居士。死ぬまで髷を解かず、道場も閉じなかった。

 逸話
  • 稽古で長さ六尺、重さ三貫の振り棒を2000回も振ったといわれ、腕周りは55cmあったという。
  • 車坂の道場には、英国領事館書記のトーマス・マクラチ、フェンシングの名手でもあったハインリッヒ・シーボルト、ドイツ人の東京帝国大学講師ベルツ、フランス人ウイラレー及びキール(共に陸軍戸山学校西洋剣術教師)ら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けた。

心形刀流

【坪内主馬「坪内道場」】
 心形刀流の「坪内主馬道場」。この道場に師範代として「永倉新八」が招かれた。門人として島田魁。後に、永倉新八は新撰組=二番組組長、島田魁は二番組伍長というコンビを組んだ。他に伊庭八郎。

【天野静一「天野道場」】
 「天野道場」、道場主は天野静一。新選組で一番長生きした隊士「稗田利八(池田七三郎)」が、剣術を学んだのが「天野道場」。

【佐々木只三郎】
 

【浅利 義明】

【梶川義正】

【逸見宗助】
 

大石進大石神影流)】

比留間与八甲源一刀流








(私論.私見)