アイヌ民族と日本戦国史の関わり

 更新日/2017(平成29).5.1日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、アイヌ史の日本中世史上での関わりを確認しておく。「アイヌ民族の歴史年表」その他を参照する。

 2008.5.19日 れんだいこ拝


 1410年、南部守行と湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。


 1411年、新たに中国大陸を制覇した明は、アムール川下流域まで進出。出先機関の「衛」をカラフトなど3箇所に設置、苦夷(アイヌ)と交易する。


 [蝦夷地における主導権争い]
 15世紀 - 和人が蝦夷地南部12箇所に勢力を張る。道南十二館という。勢力を張った和人土豪はアイヌとの交易や漁場への進出を通して成長する


 津軽の安東家の滅亡


 1418年、南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。


 1423年、安東鹿季 兄盛季から分かれ、湊安東家を起こし、秋田湯河湊(秋田市)を本拠とする。


 1430年、南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。


 1432年、安東盛季、唐川城、柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。


 1432年、盛季の舎弟安藤重季の嫡男である安東政季も捕らえられ、八戸南部藩に送られる。八戸南部藩当主の南部助政は、彼の武勇を惜しんで命を助け、宇曽利(下北半島)の田名部に知行を与える。(この後まゆつば物の記載が続きます)


 1443年、安東盛季が阿部氏に破れ津軽十三湊を放棄し、蝦夷島に逃げ渡る。この後、多数の和人がアイヌ・モシリへ移住する。


 1445年、安藤盛季の子康季、十三湊日下奨軍となる。十三奪回をめざし津軽に渡る。鰺ケ沢 (西津軽郡) 付近で戦闘を交えるが、引根城で病死。


 松前における支配体制の再編


 1450年頃、和人がアイヌとの交易や漁場への進出を通して蝦夷地南部に勢力を張る。西蝦夷は余市まで、東は鵡川付近まで和人集落が形成されていた。道南地方沿岸には安東氏系列の豪族拠点が形成され、「十二館」と呼ばれた。安東氏宗家は松前の大館を拠点とし、蝦夷監領として豪族を束ねる。「新羅の記録」によれば、箱館には毎年若狭から商船がきて浜に架け作りの問屋を設け、柱に船を繋いだという。この頃の道内アイヌ人人口は約50万人と推定される。

館名
所在地
館主
志濃里館(志海苔)
函館市志海苔町
小林良景
箱館(宇須岸館)
〃元町
河野政通
茂別館
上磯町茂辺地
安東政季→下国安東家政
中野館
木古内町中野
佐藤季則
脇木館(脇本?)
知内町湧元
南条季継
穏内館
福島町吉岡
蒋土季直(コモツチ)
覃部館(オヨヘ)(笈部?)
松前町東山
今泉季友
大館
〃西館
下国定季→ 相原政胤
祢保田館(ネボタ)(弥保田?)
〃館浜
近藤季常
原口館
〃原口
岡部季澄
比石館
上ノ国町石崎
厚谷重政
花沢館
〃上ノ国
蠣崎季繁→武田信広

 1452年、武田信広、陸奥田名部(下北半島)に来て、邑主蠣崎蔵人の領地を管理する。蠣崎蔵人は元武田蔵人を称す。芸州武田氏の系列で、乞われ蠣崎家に入る。蠣崎家は元安東氏の系列であったが、南部の軍門に下り所領を安堵される。

 蠣崎蔵人と武田信広を同一人物とする説が有る。蠣崎は地名で、田名部から西に30キロ、青森湾を隔てて青森市と向かい合っている。上の国の蠣崎家は、ここの蠣崎家からの分家と思われる。蠣崎季繁=蠣崎蔵人説もある。

 武田信広は「若狭国の守護、武田信賢の子。相続争いに敗れて蝦夷地に渡った」と称しているが、芸州の武田家にも、若狭の武田家にも信広の名はないとのこと。福井県立若狭歴史民俗資料館に小浜市龍泉寺の古文書が残されており、松前家が祖先信広の出自を明確にするため、 家臣を調査に派遣したときの記録が残されているとのことである。


 1453年 康季の子義季は再度津軽奪回を計る。大浦郷狼倉(おいのくら)・高舘山で、南部勢に攻められ自害。安藤氏本家断絶。


 1454年、南部助政が死亡。後継の光政は、安東政季の抹殺と宇曾利(下北)の全面支配を策す。安東政季は、後南朝推戴を名分として挙兵。南部軍に強力なダメージを与える。


 1454.8月、安東政季、下北半島を脱出し大畑から渡島に渡る。武田信広・相馬政胤(相原?)・越智政通(河野?)等も一緒に海を渡る。渡島に渡った安東政季は、義季亡き後の蝦夷管領を引き継ぐ。


 コシャマインの第一次反乱


 1456年春 志海苔の鍛冶屋村で、オッカイが一人の鍛冶屋にマキリの製作を依頼した。オッカイと鍛冶屋はマキリの出来栄えについて口論となり、頭に血が上った鍛冶屋は、そのマキリでオッカイを刺し殺した。

 オッカイは近くのコタンの首長の子、なお「オッカイ」は固有名詞ではなく、アイヌの男の子をさす一般名詞とも言われる。「マキリ」とはアイヌ人が持つ携帯用の小刀である。


 1456年夏 アイヌ人集団、オッカイを殺害した鍛冶職人の住む志海苔の鍛冶屋村を襲撃。女子供問わずに虐殺したという。その後志苔館(館主・小林良景)を攻撃。秋の狩のシーズンを迎え、反乱はいったん収束。


 1456年夏 蝦夷管領・安東政季、秋田檜山の安東氏に招かれ家督を継ぐこととなる。のちに湊安東氏と合体して秋田安東と改称する。


 1456年秋 安東政季、道南十二館の館主を茂別館に招集。自らが蝦夷地から去ることを告げ、後継者として武田信廣を推挙する。信広が固辞したため、蝦夷管領職は安東政季が続けることとなり、三名の管領代を任命する。(後継者推挙とか固辞とかは明らかな作り話であろう)


 1456年 「三守護体制」が施行される。上の国の武田信廣、松前の下国定季、茂別館を中心とした「下ノ国」の安東家政(政季の弟)が守護となり、その下に館主を置く。松前の補佐役に相原政胤、下の国の補佐役には河野政道が就任。(上の国の守護は当然蠣崎季繁のはず。松前側の後代の脚色であろう)


 1456年 武田信廣と蠣崎季繁の娘のあいだに光廣が誕生。(松前家の公式記録)


 1456.9月、蔵人の乱。下北半島蠣崎の武田蔵人信純、八戸の南部政経の干渉に対抗し挙兵。秋田安藤氏・葛西氏や越後・能登などの豪族の支援を受け、アイヌ人3万2千を動員。野辺地城を攻囲、さらに横浜地方と六ヶ所の泊付近で南部藩とのあいだに激戦。その後七戸城も陥落させる。七戸城主南部政広は討死。


 1456.11月、八戸政経が軍を発し、七戸・野辺地城を奪還。


 1457.2月、 八戸政経、野辺地から海路蠣崎を攻める。武田信純は敗北し大畑から蝦夷に逃亡する。しかし信純の名は蝦夷地の歴史にはまったく登場しない。(「東北太平記や八戸家伝記は57年2月の発生としているが、粉飾も多く史料としては決定打に欠ける」との説あり)


【コシャマインの第二次反乱】

 1457.5.14日、コシャマインの戦い。オシャマンベの首長コシャマインを盟主とするアイヌ同盟軍が和人の北海道蝦夷地進出に対して蜂起。兵力は9千人(東部アイヌ約四千強、北部アイヌ約二千強、西部アイヌ約三千)といわれる。総兵力300人の志海苔館はまもなく陥落。小林良景は箱館に避難。アイヌ軍はこれを追うようにして箱館を攻撃。まもなく箱館も落ちる。小林良景と箱館の河野政道は茂別館に逃げ込む。 花沢館の館主である蠣崎氏の客将、武田信広が制圧し、蠣崎家を相続すると、道南十二館を統一して蝦夷を単独支配した。


 5.17日、箱館を占拠したコシャマイン、もべつ館の包囲に入る。別動隊は海沿いに西へ向かって進撃。中野館、脇本館、穏内館と次々に陥落させ松前大館を包囲。大館に籠もった下国定季は蛎崎繁季に援軍を求めるが、蛎崎繁季の援軍は途中でアイヌの伏兵に遭い敗走。


 5月下旬、アイヌ軍、松前の大館を落とす。館主の下国定季は捕虜となる。コシャマインは大館の警備に三千人を配置、タナケシに二千人をつけ花沢館攻略に向ける。タケナシは松前から海岸沿いに上の国に侵攻。原口館、比石館、禰保田館を次々に落とし花沢館に迫る。西部アイヌも南下し、これに合流。


 5月末、上の国の武田信廣、タナケシの部隊を迎え撃ち、これを殲滅。これを「花沢館の戦い」と云う。信廣は、わら人形を花沢館の柵沿いに並べ立て、アイヌに附子矢(毒矢)を撃たせた。そしてこの矢をアイヌ側に撃ち返し多大な損害をあたえた。うろたえたタナケシが森の中に潜むと、信廣は森のまわりに油を撒き火を放った。森の中から逃げ出してくるアイヌは信広軍の餌食となり、軍は全滅した。


 6月初 武田信廣率いる軍勢、約1500名は大館奪還作戦を敢行。大館の裏山から逆落しに突入、下国定季を救出する。これに成功した後、原口館、比石館、禰保田館を順次奪還。


 6.18日、武田信廣軍、茂別館に入城。志海苔、箱館をふくむすべての和人兵がモベツに結集。これに対しコシャマインの兵は3千あまりに減少していたとされる。


 6.20日、和人軍はモベツから七重浜に出て、一進一退を繰り返しながら箱館のアイヌ軍を誘い出す。コシャマインは七重浜に進撃するが武田の計略にはまり敗死する。コシャマインの死を機に形勢が逆転する。(信広は負けて森の中に逃げるふりをすると、コシャマインは勢いにのって追撃してきた。木のほら穴でようすをうかがっていた信広は機をみて強弓を射放しコシャマイン父子を射殺すると、おどり出てその部下数人を切りたおした)、(一説に、花沢館の守護を務める蛎崎季繁、偽の敗北宣言を発しコシャマインに和議を申し入れる。武将武田信広は和平会談に現れたコシャマインを謀殺とある。これは後のタナイヌ、タリコナの蜂起との混同であろう、との注もある)


 8月、信広は花沢館の川向かいに州崎館を建設。その後さらに新しく拠点として堅固な「勝山館」を築く。


 1459年、上の国蠣崎家の重臣小山隆政、大館ともべつ館の両下国氏とつるんで、蠣崎信廣打倒を企てるが、発覚し殺害される。


 1467年、応仁の乱が発生。


 1469年、蝦夷蜂起。


 1473年、蝦夷蜂起。


 1482年、夷千島王(安藤政季?)、朝鮮に使者を遣わす。


 1485年、樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる。


[アイヌ・倭人拮抗時代]

 1488年、安東政季、家臣の長木大和の謀反にあい、河北糖野館で自害する。


 1494年、蠣崎信広が死去。享年64才。


 1496.11月、蛎崎光広をはじめとする渡党の館主たちが、秋田檜山の安東忠季に守護職下国恒季の悪政を訴える。恒季は粗暴の行為が多く、 罪のない人を殺害したり、 若い女性を人身御供として矢越岬に沈めたりしたという。忠季はこれら渡党の館主たちの意向を受けて松前大館に討手を差し向ける。恒季は安藤忠季の命によって自害。後任の守護職には相原季胤が就任。


 1496年 アイヌに襲われ茂別館は陥落。館主安東家政は蠣崎光廣から泊館を与えられる。


 ショヤ・コウシの反乱


 1512.4月、東部の村長ショヤ(庶野)、コウシ(匐時)兄弟が蜂起。下国守護領の残滓である志海苔館、箱館、与倉前館を強襲。箱館の河野季通、志海苔の小林良定、與倉前の小林季景たちは自害。安東氏の浄願寺は蜂起を避けて秋田に撤退。蠣崎光広、義広がこれを撃退。反乱軍はいったん攻撃を止める。

箱館は、もとウスケシ(宇須岸)とよばれていた。函館山麓にあった河野氏の館が箱形だったことから、箱館というようになった。天然の良港だが、2度もアイヌ軍に攻めおとされてさびれ、和人は亀田に移った。与倉前館は12館には入らず志海苔館の支城的役割を果たしていたとされる。函館市高松町の海岸沿いにあった。


 1513.6月、ショヤ、コウジ兄弟が前年に続き攻撃。福島町館崎地区の穏内館も炎上・陷落。館主蒋土季直は自害。


 1513.6月、アイヌ軍、松前光広の大館を陥落。守護職の相原季胤、村上正儀らを討ち取る。蛎崎光広がアイヌ軍の仕業に見せかけて攻めたとの説、ショヤ、コウジ兄弟は光廣の手先だったという説もある。


 1514.3月、空城となった大館に突然蠣崎光広が乗り込む。180隻の兵船を率い、長子義広と共に移動。大館を改修して徳山館と名付け、本拠とする。勝山館の守護には、光広の次子高広をあてる。光広は転居の理由を述べた文書を檜山安東氏に送り、安東氏の下で代官に任命することをもとめるが、安東氏は二度にわたりこれを拒否。光廣は紺備後という能弁の浪人を雇って交渉させ、ようやく了承を得たという。


 1514年 蝦夷地にくる諸国商船から税金を徴収する権利が与えられる。アイヌに占領された箱館に代わり、松前が蝦夷地貿易の拠点となる。


 1515(永正12).6月、ショヤ、コウシ兄弟のアイヌ軍が蜂起。徳山館を攻める。蛎崎光弘は和睦すると見せかけ、会見の酒席で両者を暗殺。光広は女たちにキヌタを打たせて武装の音をかくし、あらかじめはずしておいた部屋の戸をたおして切りかかり、みな殺しにしてしまいました。遺骸は小館下の東に埋められ、蝦夷塚と称された。光広が斬込の際に用いた大刀は、信広が蠣崎季繁から拝領したもので、のち松前家の重宝となる。(えのもとさんのページから、とある)


 1525春、東西蝦夷の蜂起。各地のアイヌによって多数の和人が殺される。蛎崎氏は天之川流域と松前を結ぶ戦線にてこれを防戦した。


 1526.5月、徳山館にアイヌの来襲。


 タナカサシ(タナイヌ)親子の反乱


 1527.3月、西部の瀬田内で首長タナサカシ(一説にタナイヌ、タナケシ)の指導するほう起。瀬田内館は落城し館主の工藤祐兼は戦死。義広は上ノ国勝山の和気館(和喜館?)を前進本部とし、工藤九衛門の率いる攻撃隊を瀬田内に派遣する。タナイヌはこれを打ち破る。(別の記述では、工藤九郎左門祐兼と祐致(すけとき)の兄弟に兵を授けてこれを討たせたが、祐兼は瀬田内甲野(かぶとの)(北桧山町)に敗死し、弟祐致は熊石町雲石に逃れた、とある)


 1528.5月、タナサカシの部隊、松前義広の居城徳山館を夜襲するが失敗。このとき蠣崎義広自らが槍を振るってアイヌを撃退したという。


 1529.3月、タナサカシが上国の和喜館を攻撃。義広は不利を悟って和睦を乞い、「ツグナイ」の品を城外の坂の途中に置いた。これは策略であった。タナサカシ勢がこれを回収するところを不意討。タナサカシを射殺。首長を謀殺されあわてた蝦夷軍は逃げ散ったが、天ノ川は雪解水が増水して渡ることができず、館下の菱池に追い込まれ皆殺しにされたという。


 1531 タナサカシの女婿タリコナが蜂起。徳山館を襲撃。嫡子季広の奮戦で撃退した。その後も5年間にわたりタリコナのゲリラ戦が続く。


 1536年6月 タリコナ、義広を狙って勝山館を強襲、兵力に劣る蛎崎氏は再び和睦を乞う。館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺。これ以後アイヌの攻勢はなくなった。 (これについてはだまし討ちではなく、待ち伏せ作戦で討ち取ったという説もある)


 1546年 西津軽深浦に居を構える河北森山舘の安東定季が、津軽奪還を目指し兵を起こす。4代目当主の蛎崎季広は小泊に渡り、搦手の大将として作戦に参加。以後北畠家滅亡までに7回の出陣。


 和人=アイヌ合意の成立


 1550年、李広、相次ぐアイヌの反乱を前に妥協を図る。瀬田内の首長ハシタイン(道南西部の代表)、知内の首長チコモタイン(道南東部の代表)のあいだで合意。

和人=アイヌ合意の内容: 知内と上の国を結ぶ線の以南を和人、以北をアイヌの住居域とする。ハシタインを上の国天川の蝦夷役に、チコモタインを東部の蝦夷役に任じる。和人支配域はコシャマインの反乱の時期から1/3に減少。


 1550年、安東舜季、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る(東公の島渡)。蠣崎家はその後、豊臣秀吉からも所領安堵されて「蝦夷島主」とされた。さらに江戸幕府からアイヌとの交易独占を認められ、それからは「松前氏」と名乗った。松前藩の支配下におかれてから、松前商人が不平等な交易をするようになったため、アイヌの不満は高まり、蜂起にいたることになる。それらの戦いでは銃器を大量に投入できた和人側に利があったが、アイヌも火縄銃を利用したといわれる。幕府はアイヌに銃を渡すことを禁じたが、ロシア由来の銃も利用されたクナシリ・メナシの戦いに破れて以降、アイヌによる組織的な武力抵抗は見られなくなった。


 1551(天文20)年、蛎崎李広、東西のアイヌの首長と和睦、和人地を確定(1457から1/3に減少)。この和睦により、アイヌ諸部族連合体は和人勢力を渡島半島の一角に追いやることに成功しており、コシャマインの蜂起以来の一世紀に渡るアイヌの戦いは、軍事的には成功したとも言える。これより一世紀弱の間、平和な時代が訪れる。翌年、松前藩は「夷狄の商舶往還の法度」を制定し、アイヌに対する支配体制と交易の優位を確立した。


 1552年、蠣崎家は「夷狄の商舶往還の法度」を制定。蝦夷地に到来する商船から徴税し、これを両蝦夷役に配分するなど権利と権威を付与。アイヌたちは季広をカムイトクイ(神の友)と称して尊敬した。これにより蠣崎家は本州交易の独占的支配者として特化し、アイヌに対する支配体制と交易の優位が確立される。


 1562年、ベリユによって製作された世界地図の津軽地方からカムチャツカにかけての地域にBANDOY(安東国)と記される。


 1565年 宣教師ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録。


 1590年2月 大浦(津軽)爲信が津軽浪岡の北畠顕慶を攻撃。季広は83歳で出陣。安藤家に忠義を尽くす。この間、季広の子慶広は、豊臣秀吉の奥州仕置にかかわる。


 松前家の大名への昇格


 90年9月 奥羽検地(奥州仕置)。津軽・秋田地方に前田利家、木村重茲、大谷吉継らが乗り込む。慶広は津軽に渡海して前田利家に面 会し、秀吉への取り成しを依頼。


 12月 秀吉は奥州諸大名に朝勤を命じる。蠣崎慶広はこれを契機に中央接近策を展開。桧山安藤家の当主実季と共に上洛。秀吉と聚楽第で謁見。蝦夷特産の鷹を献上し従五位下民部大輔に叙される。これにより蠣崎家は、安東氏の代官の地位から、同列の大名となる。


 1591年、東北地方で南部氏の一族九戸政実が反乱。秀吉は6万余の大軍をさしむける。慶広は独立の大名として和人の家臣団とアイヌを率いて出陣。「蝦夷が射た矢はかならずあたり、たとえ軽傷でも死なないものはない」と評判をとる。(「氏郷記」によれば、九戸勢の中にも夷人が二人いたとされる)


 1593(文禄2).1.2日、豊臣秀吉、朝鮮征討令を発する(文禄の役)。蠣崎慶広は肥前名護屋に出陣して秀吉に謁見。秀吉は慶広を志摩守に任じ、江州に馬飼所三千石を与えようとする。慶広はそれを辞退し、木下吉政を通 じて国政の朱印(蝦夷地の領主)下賜を願い出る。


 1月6日 蠣崎慶広(後に松前と改姓)志摩守に任ぜられ、「蝦夷島主」の呼称と船役徴収権を認めた御朱印の制書(朱印状)を下賜される。これにより蝦夷島の支配権が公認される。この時、慶広は参陣していた徳川家康にも会い、樺太渡来の道服を献上する。

 「諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商賣せしむる者有るに於ては斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事」。

 1593年 帰国した慶広は、アイヌを集めて朱印状を読み聞かせ、「志摩守の命に背けば関白様が数十万の大軍で征伐にくる」と威厳を誇示したという。(松前藩成立)


 1599年 秀吉の死後、慶広は家康に接近。大阪城で徳川家康に謁見。蝦夷全島絵図と家譜を献じ、姓を松前氏と改め、臣従の意を表明した。松前の名はアイヌ語で渡島半島を表すマトウマイヌからとったとされる。


 1602年 安東家、常陸国宍戸(茨城県友部町)に移封される。





(私論.私見)語彙解説

【言語を基準とした民族】
  @印欧語族Aフイン・ウゴル語族Bアルタイ語族Cコーカサス語族Dバスク語族E北アフリカ.西アジア語族Fアフリカ諸語族G中国.チベット語族Hマライ・ポリネシア語族Iオーストラリア語族J南アジア語族Kアメリカインディアン語族などに分類する学説がある。

【民族自決権】
  ある民族が、民族や国家の干渉を受けることなく、任意に自己の帰属や政治組織を決定する権利。

【蝦夷】
  古代、関東地方以北に住み、中央から異民族視されてた住民。えみし・えびすと呼ばれている。その後、「えぞ」と呼ばれるようになる。

【アテルイの戦い】
  八世紀半ば、現在の宮城・岩手県などで、大和国家の侵略軍にたいしての原住民抵抗の戦いが数多くおきる。特に、七八九年から約二十年近く胆沢地方を中心に大規模な戦い。

【十二の館】
  志濃里館(函館)、箱館(函館)、茂別館(上磯)、中野館(木古内)、脇本館(知内)、穏内館(福島)、覃部館(松前)、大館(松前)、称保田館(松前)、原口館(松前)、比石館(上ノ国)、花沢館(上ノ国)、のそれぞれに館主である武将たちをはじめ商人たちが多数居住。

【場所請負制】
松前藩では、それまで自ら交易船を仕立ててアイヌとの交易場所に送っていたがこれを一切商人にまかせてそこから上がる運上金(請負代金)によって生活する。

【メナシ・クナシリの戦い】
  一七八九年五月、クナシリ島のアイヌが場所請負人である飛騨久兵衛の虐待にたいしてメナシ領のアイヌとともに蜂起する。

【ノッカマップの虐殺】
クナシリ蜂起のリーダー三七人が、七月二一日松前藩によって処刑される。

【御料地】
  皇室の所有に属する土地。全国に天皇制国家支配の経済的基盤を固めるために形成されるが、その大部分は北海道につくられる。全国で三六五万町歩、北海道は二〇〇万町歩というぼう大な面積を召める。北海道での代表的なものは、神楽村の一万町歩であった。

【違星北斗】
  一九〇二年(明治三五)余市に生まれる。
本名、滝次郎。短歌・俳句を通してアイア民族復興と解放の精神をうたう。雑誌「コタン」を発刊し、民族結束のために全道を歩く。一九二九年、二十七歳で没するが、翌年、遺稿集「コタン」が刊行され、一九三一年(昭和六)彼の志は「北海道アイヌ協会」設立となって現れてくる。

【知里幸恵】
一九〇三年(明治三六)生まれ。
  アイヌ民族が生んだ偉大なアイヌ言語学者であり、アイヌ独立論をとなえる知里真志保の姉である。
  「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに……」という言葉で始まる彼女の『アイヌ神謡集』は、アイヌ民族の最もすぐれた歌といわれる。すぐれたユーカラの伝承者でもあった彼女は、研究者のために上京し、叔母(金成マツ)と協力するが、一九二二年(大正一一)急逝する。翌年『アイヌ神謡集』出版される。又、ヨーロッパでも紹介され、独・伊・エスベラント語に翻訳される。

【創氏改名】
  朝鮮総督府は、一九三九年(昭和十四)「朝鮮民事会」を改訂して、朝鮮人に日本姓を名のるよう強要した。
  創氏をしない場合は入学の拒否、公私機関への採用の拒否、「非国民」とみなすなど、すべての朝鮮人に「創氏」を強要した。
  朝鮮の「姓」への古来からの伝統は破れ、「皇民化」政策としての創氏改名は、多くの朝鮮人にいかりと悲しみをおしつけるものであった。

【タコ労働】
  タコ部屋は、別名「監獄部屋・土工部屋」とも呼ばれている。土木工事の下請人、あるいは孫下請人が経営する飯場のことをいう。
土工夫たちへの労働は大変苛酷なものであり、その奴隷的な労働を強制維持するものがろからか「タコ」と呼ばれるようになった。
自分の手足を食う「蛸」の意味か、脱出できない「蛸つぽ」からきているのかさまざまな説がある。

【民衆史運動】
  歴史運動・教育運動・地域と少数民族の文化を守る運動・人権と民主主義を守る運動・平和と民族連帯を進める運動をめざして、一九七〇年代よりおこる。アイヌ・ウィルタ・囚人労働・タコ労働・朝鮮人強制連行・女性史などの問題について民衆の視点で掘り起こ、追悼・顕彰することをとうして歴史意識
と人権意識の変革がなされ、地域の民衆を主体とする運動として単なる歴史運動をこえ民主主義運動・民族文化運動・他民族連帯の運動へと広がりを見せる。

  【ユーカラ・サコロペ】
アイヌ民族の中で、口承で伝えられている
英雄伝説叙事詩。一般に長大なものが多い。アイヌの自然観について、深い意味に満ちた学ぶべき多くのことがらを教え、物語っている。


[基幹運動テキスト第二集・御同朋の社会をめざして・北海道教区基幹運動推進委員会・平成元年(1989年)7月1日]ヨリ