3224 ルネサンス直前の当時の社会、フィレンツェの歴史について

 (最新見直し2006.9.22日)

 ルネサンスが、まずイタリアで始まった理由としては次のようなことがあげられる。

(1) 政治的な構造。封建制が弱く、分裂状態。
(2) 経済的な発展。十字軍以後、東方貿易によって都市が発展し、市民の活動が盛んであったこと。
(3)  文化的な伝統。イタリアはローマの故地であり、古代ローマの遺跡などが多く残っていたこと。
(4)  ビザンツ帝国の滅亡前後から、ビザンツの学者達がイタリアに移住してきて、ギリシア文化が伝えられたこと。
(5) 十字軍遠征、東方貿易、ビザンツの学者達の移住によるイスラムの文化の流入。
(6) フィレンツェのメディチ家やローマ教皇が学者や芸術家を保護したこと。  

 などがあげられる。

 ルネサンスの発祥地はイタリアのフィレンツェなど自由都市であった。なぜフィレンツェでルネサンスが花開いたのかを考察することに意義がある。どうやら、都市国家フィレンツェのコムーネの「自由憧憬イデオロギー」特質に原因があるように思われる。この独立共和のイデオロギーは、他の都市例えばミラノのそれとは鋭く対立するものであり、それがウマ二スタのフィレンツェ賛美、ミラノ批判という形でしばしば表面化し、政治面でも両都市国家の対立を深める要因の一つであった。

 フィレンツェ的コムーネの「自由」の中身は「独立」と「共和」であったが、いずれも市民の参政化を養成していた。この場合、「市民」とは今日のそれではない。フィレンツェのコムーネ的共和主義の思想は、「資格ある市民」に支えられる共和政治の実現であり、封建領主、聖職者、下請け労働者とは区分される「主人持ちでない自主独立の、いわば起業家」市民によって担われる政府を理想としていた。なんとならば、「資格ある市民」こそが都市の意思決定に責任を負える立場にあるとされていたから。

 この住民の自治をモットーにした「コムーネ」の思想が、フランス革命の時代に移植され、「コミューン」となる。

 この頃のフィレンツェ市民にとって最重要なことは、家族とアルテへの帰属であり、この二つが生活と市民的ステータスを保障し防衛する砦であった。付言すれば、当時のフィレンツェでは18歳から60歳までが実働年齢と考えられていたようである。

 フィレンツェの都市国家宮廷都市の文化としてフィレンツェから始まり、「南イタリア、ヴェネツィア、ポー河流域地方の諸都市」(ナポリ、フェラーラ、マントヴァ、パドヴァ、ヴェネツィア、ミラノ)へと波及していくことになった。ルネサンスはやがてイタリア全土へ波及し、各地方の既存の文化と影響し合い、多様な表現形態を創造して行くことになった。ルネサンスの動きはまたたくまに全ヨーロッパに波及した。


【フィレンツェの歴史について】

 そしてこのような巨大な運動を生みだしたものは、経済的な充実、生産力の発展にともなう富の蓄積、都市の繁栄と文化の向上、インテリゲンチアの多彩な出現、何よりも経済上の実権をにぎった近代ブルジョアジーの台頭であった。パッツィ家、ブランカッチ家、メディチ家らの新興勢力がこれを代表した。

 ルネサンスを生み出す功労者的地位に立つフィレンツェという都市にはある特質があった。元々フィレンツェは、紀元前50年頃に古代ローマの殖民都市フロレンティアとして建設された。これを指揮した当時のローマの執政官はユリウス・カエサルであった。5‐6世紀のビザンチン帝国支配時代、6‐8世紀のランゴバルド王国時代までは地味な地方に過ぎなかったが、9世紀末のカロリング王朝のトスカーナ辺境伯統治時代から復興の兆しを見せ、10世紀のオットー朝時代に入るとトスカーナでも重要な都市の一つに成長した。

 11世紀になるとヨーロッパ中に「商業の復活」が始まり、ヨーロッパのあちこちの都市で活気付き始めた。1115年には、帝権から自由な自治都市(コムーネ)を宣言している(神聖ローマ皇帝からコムーネとして正式の承認を受けたのは1187年)。共和制の始まりである。この頃、フィレンツェの商人たちは、イタリア諸都市のみならず遠くフランドルやイギリス、シャンパーニュの定期市などに進出して、盛んに交易活動に乗り出している。やがて、フィレンツェは、羊毛を買い付けそれを染色・加工して諸外国に売りさばく毛織物生産業で栄えていくことになった。莫大な利益がもたらされ、これに伴い貸付業も始まった。遠隔地商業、毛織物工業、金融業が結びついて、フィレンツェの経済発展の推進力となった。

 13世紀初めには、従来の唯一の商人団体組織に代わって、大組合(アルテ)が次々に結成されていった。アルテに加盟することは「一国一城の主」として認められることであり、それによって参政権資格が得られたので、自然大中小のアルテ結成と加盟が促進されていくことになった。有力な富豪たちは、「商会」(コンパニーア)を創設して、その商業・金融ネットワークを西ヨーロッパ中の主要都市に拡大していった。これに伴い銀行業が発達した。1252年に鋳造されたフィオリーノ金貨は最も信用度の高い貨幣として各地の市場に流通し始め、フィレンツェは次第に西欧随一の金融都市と化していった。現金の換わりに為替手形が利用され始めるようになったのもこの頃からである。こうしてフィレンツェは、イタリアのみならずヨーロッパ第一の商業・工業・金融都市として歴史の舞台に登場してくることになった。人口も、1250年頃に既に5‐6万人を数えるようになり、14世紀初めには10万人に達した。パリ、ベネチア、ジェノバなどと並んでヨーロッパの大都市の1つになった。これがルネサンスが芽吹く前のフィレンツェの情況であった。

 ルネサンスがフィレンツェで最初に開花した背景には、そうした経済的発展期に相応しい市民の進取的気質があった。この時代の画家ジョルジョ・ヴァザーリは自著「芸術家列伝」で、@・旺盛な批判精神、A・勤勉さ、B・強烈な名誉欲を挙げている。これらを貫く原理として能力競争主義が働いていた。ジョヴァン二・ヴィラー二の「年代記」、ダンテの「神曲」などが書かれたのもこの時期である。


 フィレンツェを語る場合に、目覚しい経済発展と並行して推進された政治闘争についても見ておく必要がある。見てきたようにフィレンツェは中世以来長い都市形成の歴史を持っていたが、12世紀頃からの経済発展に促進され、富裕な上層商人階級の発言権が増大していった。それまでのフィレンツェを支配していたのは群雄割拠の都市貴族層であり、イタリア国内外に及ぶ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の対立と連動して激烈な党派闘争−内戦を経過させていた。平民と呼ばれた商工業者は、近隣組織やアルテに結集して次第に勢力を増していき、都市貴族間の抗争を利用しつつやがて平民政府を樹立していった。平民政府も成立するや崩壊し、二次三次と再建されていくことになるが、これが共和制を確立していく過程となる。

 共和制の権力機構は1282年に制定された総務会=政庁(シニョーリア)制度であり、プリオーレ制と呼ばれるシステムを生み出した。プリオーレ制も途中改変されていくことになったので一概には言えないが、その純粋系は次のような仕組みであった。プリオーレ(最高執政官)は、元来、コムーネの各評議会におけるアルテの代表者のことを指していたが、このプリオーレ団が都市統治の中核となり、都市の6つの区域から選ばれた6名のプリオーレと議長格の一人の「正義の旗手」とで執政府を構成した。プリオーレの候補者の資格は厳しく限定され、アルテに属していることが絶対条件であった。有資格者の審査会議を受けた後、資格者の名札が袋に入れられ、次いでくじ引きの仕方で袋から引き出された名札の者が選ばれた。このくじ引きの仕方は1434年以降変化して、手による操作が行われるようになった。任期は2ヶ月で、任期中は外部からの影響力を断つために、起居を共にする厳格な共同生活下に入った。

 執政府は、総務会とこれを補佐する二つの協同機関(12人会と16人会)によって構成された。さらに立法機関として二つの評議会が設置された。一つは、「市民評議会(ポーポロ評議会)」で評議員数300名強、後一つは「コムーネ評議会」で評議員数200名で、全ての法案がこの二つの評議会の承認を得なければ公布されず、決定は3分の2の賛成を要した。近代の国会に似ているが、両評議会とも議案提出権はなく、執政府の提案を質疑し票決するだけの権能である点で区別される。役職者を選出したり罷免したりする権限も無かった。なお、実務機関として官庁が置かれ、その中には、公安・治安担当の警察8人会、財政担当のモンテ局、軍事・外交担当(戦争中に臨時に設置)の「バリーア十人会」などが設けられた。その他非常事態の際には、「パルラメント」と呼ばれる全市民集会(大衆集会)が召集され、臨時全権委員会が選出され、全権を掌握して統治にあたることになっていた。してみれば、プリオーレ制の特徴は、@・厳密な集団指導体制(特定の個人への権力集中の排除)、A・委員のくじ引き抽選選出と短期間の役職交替、B・委員のアルテと地区組織からの二重性選出などにあった。これによって、大アルテによる実権掌握と旧貴族層の排除がシステム化された。

 このうちA・委員のくじ引き抽選選出と短期間の役職交替の点において今日的には奇異な観があるが、当時のフィレンツェ市民はこの制度こそ「政治の知恵」だと、信じて疑わなかったようである。少なくとも「主人持ちでない」起業市民間はどこまでも平等であるべきであり(「資格ある市民の無差別平等」)、ミラノやナポリのような君主制を良しとしないという精神、有能であろうとも長期に国政を委ねると権力は必ず腐敗する、その弊害を「双葉の芽のうちに摘むまねばならない」、むしろ抽選制・短期交代制による公務への機会平等性の方が良い政治を行うことができる、という政治哲学を確立していたようである。これが史上類まれなるフィレンツェの市民精神であった。

 こうして、フィレンツェは、激烈な党派闘争、階級闘争の中から生み出されてきた強固な共和制の伝統を培っていくことになった。共和国政府やその母体であったアルテと云われる同業組合や、共和制を支えた多くの大商人=都市貴族たちによる活発な公私のパトロネージの伝統が生み出されていくことになった。13世紀後半には、アルテは大・中・小併せて21組合に再編成されていた。そのうちで最も有力なアルテは老舗名門のカリマーラ組合であった。14世紀初頭に羊毛組合が首位に立ち、これに金融業の両替商組合も台頭してくることにより、この三つのアルテが共和国の実権を掌握することになった。この三代アルテに属する大商人たちが新貴族層を形成するようになり、メディチ家は、こうした都市貴族の中の一角を占め、13世紀以降に登場した新興一族となった。このメディチ家登場過程は、フィレンツェが都市国家(コムーネ)としてイタリアで最も強力な政治都市として台頭した時代と符合している。

 1348年ペスト(黒死病)が大流行し、僅か一年の間にフィレンツェの人口が三分の二に減った。にもかかわらず、13‐14世紀のフィレンツェは、未曾有の経済発展を遂げながら、激しい政治的内部抗争を繰り返し、その一方で近隣都市を次々に併合してその支配をトスカーナ全域に拡大していった。13世紀初めには小さな都市国家に過ぎなかったフィレンツェは、14世紀末にはトスカーナ北部を支配する領域国家に成長していた。この経過に付き、マキャベリは「フィレンツェ史」の中で次のように述べている。要約概要「どんな共和国にも様々な内部分裂が見られたが、フィレンツェの内部分裂はもっとも凄まじいものであった。フィレンツェでは、一度の分裂では事足りず、何度もの分裂が起こった。まず貴族同士が分裂し、次に貴族と平民が分裂し、最後に平民と下層民が分裂した。さらに勝ち残った党派が二つの党派に分裂することも何度もあった。こうした分裂からもたらされた活力ほど、我が都市の活力を示すものはない。それどころか、我が都市の力はこの分裂によってますます大きくなった。かの市民達の卓越した活力、彼らの卓越した才覚と精神は彼ら自身とその祖国を偉大たらしめ、多くの災害から免れた者は、その活力によって、あの数々のいまわしい出来事が祖国を弱体化し、打撃を与えた以上に、祖国の高揚をもたらした。フィレンツェが、皇帝の権力から自立した後に繁栄を享受してきたのは統一を維持してきた政体によるものであることは疑いなく、いかなる古今の共和国も、その活力、軍事力、産業力においてこの国を超えるものはなかった」。


 14世紀前後のフィレンツェの政治は、1380年代よりアルビッツィ家を中心とする少数の有力門閥による寡頭体制に変質していた。この体制の中で、権力の中枢は大アルテと少数の富裕門閥にますます集中し、公職に就くことのできる市民の範囲は、複雑な投票方法と被選挙者名簿の巧妙な操作によってますます制限されていくことになった。しかし、イタリアの都市国家の大半が共和制から君主制に移行する中で、フィレンツェでは依然として強固な共和制の伝統が維持され、僅かながらでも小アルテに属する店舗主や職人でも国政の最高位(プリオーレ)に就く資格と可能性をもっていた。

 フィレンツェの共和政治を今日的視点から見るならば、当時のフィレンツェはコムーネ的自治都市国家であった。但し、その法制には三権分立という規定はない頃のそれであったことに注意を要する。裁判所は独立しておらず、司法は政府の所轄であり、検事、判事、弁護士のような制度もまだ存在していない。警察も中立ではなく、与党的立場からいきなり干渉し流血の事態を当然視していた。裁判は、国家反逆罪ともなれば即決の秘密裁判で判決が出され、控訴権は無く、刑も直ちに執行された。政治倫理、社会道徳、裁判・警察の公正・中立は説教されてはいたが、それを保証する制度を持たなかった。デニス・ヘイの言を借りれば、「フィレンツェを支配していた富裕市民層は、暴力に訴えずに権力を共有する適切な手段を持たなかった」とある。


 14世紀半ばから百年余りは、フィレンツェは頭脳流入国となり、才能という才能がフィレンツェを目指した。メディチ家のロレンツォの死を境として頭脳流出国に転じた。その多くはベネチアに向かった形跡がある。


【フィレンツェのルネサンス文化財について】
 シニョリーア広場、パルジェッロ宮、聖マルコ修道院、メディチ宮、聖ロレンツォ教会、ルチェライ宮、ポンテ・ヴェッキオ、ピッティ宮、ミケランジェロ広場。

【イタリアの5大強国について】

 15世紀に至る直前のイタリアは、「コムーネ」から発展してそれぞれの国情に応じた統治組織をつくる都市国家へと変貌し、小国乱立して戦乱絶えざる戦国時代に突入していた。15世紀を迎えて優勝劣敗が明確になり、戦国時代を潜り抜けた結果、5大戦勝国がはっきりしてきた。「長靴」を北から見るとミラノ公国、ついでベネチア共和国、半島中部にフィレンツェ共和国、その南一帯にローマを持つ教皇領諸国、南部にシチリア島を領有するナポリ王国の5大国が台頭してきた。その他小国がいくつも残っていたが、この5強国の鼻息を窺いながら生き延びる算段するしかなかった。この5強国の政治体制はそれぞれ違いを見せており、教皇領を別格にして、フィレンツェとベネチアがコムーネ型共和制、ミラノとナポリが領邦型の君主制であった。それぞれが牽制しつつ時に応じて合従連衡を繰り返すことになった。

 イタリアのこの5強国の特徴は次のように解析できる。これを経済力で比較すれば、フィレンツェとベネチアが優位であった。教皇領は資金の面で豊富であった。取り立てて有力な産業もなく、金融面でも振るわなかったのがミラノとナポリであった。政治の安定度でこれを見れば、ベネチアが最も安定していた。ミラノはヴィスコンティ家の強力支配で、ナポリはスペインの後ろ盾で安定しており、教皇領とフィレンツェが毀弱であった。軍事面では甲乙つけがたかった。この頃のイタリア諸国全体が自前の軍備・防衛能力を形成し得ておらず、契約請負制の傭兵軍に依拠していた。常時傭兵制を採っているのがミラノ、ベネチア、ナポリで、有事傭兵制を採っているのがフィレンツェだった。教皇領諸国は、十字軍遠征以外にはやたら戦争という訳には行かなかったので、比較の対象にならない。このうちミラノとフィレンツェが対抗意識が強烈で、両国のウマ二スタはそれぞれに君主制と共和制の美点と歴史的正統性を誇り、相手の欠陥を攻撃していた。


【グーテンベルグの活版印刷技術発明の影響】
 1455年、グーテンベルグが活版印刷の技術を発明。アルド・マヌッツィオがこの発明を受けてベネチアでアルド社を起業し、出版業を手がけた。1494年「ギリシャ詩集」を刊行、以降続々書物を刊行。

【ベネチアの歴史とルネサンスについて】

 ベネチアは、古代ローマの一都市であったフィレンツェ、ローマ帝国の首都であったローマに比べて、その片影を持たなかった。ローマ帝国滅亡時に浸入してきた蛮族から逃れるために、それまでは人の住まなかった潟の中の浅瀬に都市を築いたのが起源である。運河の国の由来がここにある。

 ベネチアもまたフィレンツェに負けず劣らず自由政体国であり、一千二百年の長きにわたって共和国体制を敷くことになった。フィレンツェのようにメディチ家のような巨閥は生まれず、マキャベリのような歴史家を輩出しなかったが、そういう華々しさは無かったが自由政体大国の面目を保つに十分な人材を常に用意していた。

 このベネチア共和国が、ルネサンス時代の最後の引き受けてになった。16世紀のイタリアルネサンスはベネチアに宿った。
  


 ボローニャ大学に次いでヨーロッパで二番目に古いパドヴァ大学は、ベネチア共和国が自国の最高学府として力を入れた大学で、教授も学生も西欧中から集まっていた。

 18世紀にこのベネチアを訪れたドイツの文豪ゲーテは、「ベネチアは肉体の目で見るのでは不十分で、心の眼でみなければならない」と書き残している。





(私論.私見)