フリーメーソン日本史

 (最新見直し2007.4.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「阿修羅」の SP' 氏の2001.4.24日付「第三章 日本フリーメーソンの内幕(赤間剛『フリーメーソンの秘密』三一書房)」、「フリーメーソン」、「ヘブライの館」、「フリーメーソン」、村山有・氏の「終戦のころ・思い出の人々」(時事通信社刊)、“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の「日本のフリーメーソン百年史」(日本グランド・ロッジ編)、「人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)」(仙石太郎)、エンセン氏の2003.12.25日付投稿「メ-ソンの二大ドンが練る日本支配総戦略計画」(http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/650.html )、太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」、「合気揚げの基礎知識について」、「ユダヤ人基礎講座・補講(4)」、「グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか」その他を参照する。

 2006.1.3日 れんだいこ拝


【日本の著名メーソンその1、最初期】
 幕末から明治維新の激動の背後にあったロスチャイルド派ユダヤの動きを見ないと事態の真相に近づけない。日本が長い鎖国から解かれて開港したと聞くや、諸外国からメーソンがどっと流れ込んでいた。そして明治維新の大きな原動力となった。幕末、日本を支配しようとしていたのはロスチャイルド派フリーメーソン即ちイルミナティーだった。倒幕派を操作したのが英国系フリーメーソン・イルミナティーであり、幕府側に食い込んでいったのがフランス系フリーメーソン・イルミナティーというようにユダヤ特有の両建て戦略に基づき日本攻略作戦を発動していた。彼らは、それぞれ幕府と薩長をけしかけ、日本を泥沼の内戦に持ち込み、内戦で弱体化したのち植民地にしようとしていた。

 フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュは、「グランド・オリエント」(大東社)を代表し、幕府を援助した。横須賀製鉄所を開かせ、幕府の軍制改革に助力している。倒幕側についたのが、イギリスのメーソン(スコティシュ)のトーマス・ブレイク・グラバーである。グラバーが来日した時には、既に多くのメーソンが入り込み、幾つかの商会が存在していた。彼は長崎の大浦海岸にグラバー商会を設立し、日本茶の輸出から商売に取りかかったが、次第に倒幕諸藩への武器弾薬、艦船の販売へと手を広げ、成功を収めていった。先住の商人達が幕府と密接な取引をしていた為、入り込める余地がなかったからであった。そこで倒幕諸藩に絞った。それが功を奏して、彼はわずか数年で長崎随一の商人となる。(「グラバー考(「明治維新とグラバー」考)」)

 その他、フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立しているほどだ。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。プロシア(独逸)のメーソン、エドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助した。そして戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソン、ブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗したが、遂に敗れる。ここに戊辰戦争は終結を迎えるのだが、いってみれば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンの代理戦争であった。どっちに転んでいいように、メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めた。


【幕末日本にフリーメーソンロッジが次々と設立される】
 アメリカ独立、フランス革命、イタリア統一、ロシア革命など、歴史の潮流の裏には必ずメーソンが絡んでいた。日本の近代化もその例外ではなかった。1842年の阿片戦争。この戦争によって英国領となった香港に、メーソンの極東ロッジが創立され、アジア進出の拠点となった。その香港から横浜の居留地警備の為に派遣されたのが、英国陸軍第20連隊だった。この連隊には、軍人結社スフィンクスがあった。アイルランド系の移動式ロッジで、駐屯地でメーソンの儀式を行った。アメリカ、カナダの植民地時代も、こうした軍隊の移動式結社が各地で展開され、その地にメーソンが浸透していった。スフィンクスのメンバーは、やがてメーソンの英外交官や貿易商と共に移動式ではなく、本格的なロッジを望む様になり、1865年、本国に新ロッジの設立を申請している。

 幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、続いて神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれた。1866年、明治維新の2年前、それが認可され、日本の横浜にメーソンのロッジが初めて設立された。最初のロッジは横浜に作られた(「日本初のメーソンロッジは1866年、横浜で創立」)。第1回集会には、スコティシュ系メーソンの西インド地区の前副棟梁カートライトが出席し、初代ロッジ長にはウィリアム・モタ、二代目ロッジ長には英国近衛連隊将校G・M・スマイスが任命されている。こうして正式のロッジが横浜に設立されてからというもの、日本各地にい次々とロッジが開設された。

 例えば、1869年に「オテントウサマ・ロッジ」(横浜)、1870年に「ロッジ・ヒューゴ・アンド・オオサカ」(兵庫・大阪)、1872年に「ライジング・サン・ロッジ」、こうした各地のロッジを統括する為、1873年、「日本グランド・ロッジ」が横浜に設立され、その初代グランド・マスターにチャールズ・ヘンリー・ダラスが就任している。

【幕末日本の最初のフリーメーソン入会者・西、津田】
 1862(文久2)年、徳川慶喜の政治顧問の西周(にし・あまね)が、津田真道、榎本武揚らとともに幕命でオランダ留学し、法学や哲学、国際法などを学ぶ。1864.10月、西はライデン大学のフィッセリング教授から推薦を受け(入会には、会員の推薦を必要とする)、オランダのライデン市のフリーメーソン・ロッジ「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」に入会している。ライデン大学に西周の入会のサインが残されている。こうして、西が、日本のフリーメーソンの先駆けとなった。

 phirosophyを「哲学」という翻訳語にしたのは西周といわれる。他にも「芸術」、「科学」、「技術」、「理性」、「権利」、「義務」、「文学」、「心理」、「科学」となど西洋の抽象概念を次々に日本語に訳出し造語している。西は、かな漢字廃止論者でもあった。五箇条の御誓文も西が草案を書いたし、軍人勅諭も彼の起草と云われている。

 津田真道(つだ・まみち、法学博士、衆議院副議長)も然り。西と共にライデン大学に学び、1864.11月、フリーメーソンに入会している。

 薩摩藩士五代友厚らもこの頃欧州留学している。五代友厚の「廻国日記(かいこくにっき)」は、五代がパリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。西もパリで出逢っている。

 1865.12月、西と津田が帰国。1867年、津田真道が「泰西国法論」を発表。1868年の明治維新後、西と津田は、フランス系メーソン人脈の福沢諭吉らと明六社を作り、文明開化に貢献した。他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)も然り。

【長州藩士の伊藤、井上らがロンドンへ密航】
 グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。

 1863(文久3).5.7日(6.22日)、海外渡航が国禁のところグラバーの手引きで、長州藩士の井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国領事の紹介で英国商船ジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発した。

 一行は、上海などを経て英国に到着すると、ロンドン市内に下宿し、ロンドン大学で物理・化学などを学んだ。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介されている。井上と伊藤は、1864(元治元)年.4月の四国艦隊の下関砲撃計画を知って途中帰国したが、残りの3名は数年間学業を続けた。

【薩摩藩士の五代友厚、森有礼、寺島宗則らがロンドンへ密航】

 1865.4月、同じくグラバーの手引きで、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名がイギリスに密航留学。


【徳川慶喜の対抗戦略】
 徳川最後の将軍となった慶喜は、英国系とフランス系フリーメーソンの日本を内戦に誘いこむ意図を見抜き対抗した。持久戦に持ち込めば幕府に充分勝ち目があったにも拘らず、あっさり大政奉還し、薩長に降伏した。これによりフリーメーソンの目算が外れた。フリーメーソンの手のうちにあって操られていた岩倉具視や木戸孝允が、慶喜にしきりにケンカを売ったが、慶喜は忍の一字で耐えた。慶喜が倒幕派の誘いに乗り、フランスの軍事援助を受けていたら、戊辰戦争は注文通りに長期化したはずである。慶喜は腰抜けと罵倒されることを覚悟しつつあえて政権委譲に応じた。フリーメーソンの企図の対抗上次善の方策だったといえるのかもしれない。

 この流れにつき、勝海舟と龍馬が慶喜の大政奉還を建策したことが知られている。これにより、フリーメーソンは倒幕軍を動かすことも、全国を内戦に導くこともできなくなった。「龍馬の裏切り」がフリーメーソンの怒りを呼び、龍馬を暗殺したという説もある。

【御雇い外人の動き】
 明治維新後、日本は西洋崇拝の教育となっていた。明治初年頃、数百名の御雇い外国人が来日し、英米独仏等の国籍に分かれていたが、大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであった。彼らは、日本をインドや東南アジアのようにユダヤ人の奴隷国とする目的で「近代化」という名のユダヤ属国化に精出し始めていた。

 英国公使パークス初め外国大使の多くもユダヤ人であった。彼らは英米独仏などの国籍を以て偽装し、東京帝国大学など高等教育機関をわが物とし法律、経済、哲学などユダヤ人の都合のよいもののみを以て固めた。日本の大学をまだ物心つかない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ。

 ユダヤ人どもは国立大学に巣食って、帝国大学はついにユダヤの秘密結社フリーメーソンの支部のような形になったと言われる。北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセッツのフリーメーソンのグランド・マスターであった。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「明治新政府は一挙に大量の外人教師を雇いいれて、欧米式の文物と制度を輸入したが、このいわゆるお雇い外国人の主要部分は、ユダヤ又はフリーメーソンの人脈である」。
 「幕府が洋学の研究教授のために設立した機関を、新政府はそっくりそのまま継承して、後の東京帝国大学とした。つまり、この東京帝大の一部がユダヤ・フリーメーソンの実働部隊のようなものであったのだ」。

【伊藤博文ー林董系の動き】
 明治維新後、伊藤博文が駐英公使の林董(はやし・ただす)にフリーメーソンの何たるかを知るために英国で秘かに入社させた。その結果、日本では外人のみに入社を認め、日本人の入会を禁じることになった。これにより、表向きは戦前には日本人のメーソンはいないことになっている。外国での入会は認められたので、外国のフリーメーソンに入社した日本人は千数百人と推定されている。

【小村外相のフリーメーソン加入禁止令】
 日露戦争当時の外務大臣小村寿太郎は、1908年成立の第二次桂内閣の外務大臣に再任され、幕末以来の悲願の安政不平等条約の改正に着手し、1911年、通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。小村はただちに日本人のフリーメーソン加入を禁止し、監視体制をとった。外務大臣辞任後の同年11.26日、く死んでしまった(享年57歳)。

 替わってフランス系フリーメースソンと言われる西園寺公望が首相になった。こうして、ユダヤ・フリーメーソンは国家中枢に入り込むことになった。

【日本の著名メーソンその2、戦前期】

 20世紀はアメリカとイギリスの闘いの世紀だった(ロックフェラー 対 ロスチャイルド)」を転載する。

■戦前の二大政党制の“根”にあった二大財閥の対立構図

 戦前、昭和初年代の《政友会 対 民政党》の二大政党制が、国際舞台における《米ロックフェラー財閥対 英ロスチャイルド財閥》の対立と密接に結びついていた。「政友会・田中義一内閣」(昭和2~4年)の大蔵大臣・高橋是清と、「民政党・浜口雄幸内閣」(昭和4~6年)の大蔵大臣・井上準之助を比較してみるとよくわかる。国内的には当時、三井財閥が政友会を財政支援しているのは周知の事実であった(浜口首相は三菱の岩崎弥太郎と同じ土佐出身)。

 高橋是清は日露戦争の外債を「クーン・ローブ商会」のヤコブ・シフに引き受けてもらって以来、シフとは家族ぐるみのつきあいだった。ドイツのユダヤ系財閥で、アンチ・ロスチャイルドのワーバーグ家が、ヤコブ・シフと親しかった。高橋是清も当然ワーバーグ家と親しかった。ワーバーグも日露戦争の日本の外債を引き受けてくれている。三井財閥もワーバーグ財閥と親しくしている。 

 そして金融界では、《独ワーバーグ=米クーン・ローブ連合》を米ロックフェラー財閥が支援し、これと相対立するのが、《米モルガン=英ロスチャイルド連合》であった。ウォール・ストリートの対立では、《独ワーバーグ(ユダヤ)=米クーン・ローブ(ユダヤ)》 対 《米モルガン(クリスチャン)》の図式であったが、この背後に、《米ロックフェラー(クリスチャン)》 対 《英ロスチャイルド(ユダヤ)〉の英米財閥対立があったのである。

 一方、民政党の井上準之助は、関東大震災復興の外債募集でモルガンの番頭トマス・ラモントに国際金融家として認められ、ラモントの指導の下に金解禁政策を実施することになる。

 つまり、《民政党=三菱財閥=井上準之助蔵相=米モルガン財閥=英ロスチャイルド財閥》の流れと、《政友会=三井財閥=高橋是清蔵相=米クーン・ローブ商会・独ワーバーグ商会=米ロックフェラー財閥》という流れが、国の内外を貫いて対立していたのである。

 米内光政(よない・みつまさ、第37代首相、東久邇宮&幣原喜内閣で海軍大臣)、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ、昭和天皇の叔父、第43代首相)、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、外交官、第44代首相)、吉田茂(東久邇宮&幣原喜内閣で外相、第45、48~51代首相)、鳩山一郎(第52~54代首相)、沢田教一(写真家、ベトナム戦争の写真でピューリッツア賞)。

【第二次世界大戦期に於ける「日本解放会議」】
 
 ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを三百名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが三百名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。

【日本の著名メーソンその3、戦後初期】

【GHQ占領行政による日本人フリーメーソンの組織化始まる】

 日帝敗戦によるGHQ占領行政の開始と共に、日本に於けるフリーメーソンの組織化が格段に進められていく事になった。日本にフリーメーソンを進出させたのは、米軍人が主であり、それを助けたのは占領軍の高官メーソンだった。戦後日本の占領政策を推進したGHQ内の軍人のうちいわゆるニューディール派はユダヤ人フリーメーソンであった。彼らは、戦後日本を「理想的未来社会」に改造せんとした。

 戦後、日本にフリーメーソンを進出させたのは極東地域で唯一のグランド・ロッジを持っていたフィリピン(マニラ本部)のメーソンだった。フィリピンのフリーメーソンは中国の同胞を援助すると同時に、戦後すぐに日本にロッジを結成した。1947.9.23日、横須賀海軍マソニックロッジを設立、同年10.6日、ファーイーストロッジ(横浜)。

 GHQは、日本に於けるフリーメーソンの組織化を進めていったが、マッカーサー元帥とフリーメーソンの関係は微妙なように思われる。キリスト教的精神の篤い様子を窺うことができ、マッカーサー元帥が仮にフリーメーソンであったとした場合齟齬する。東久邇宮の終戦内閣でキリスト者の賀川豊彦氏が閣僚に入り、総理大臣を待望されたり、翌47年の片山哲内閣誕生の際に次のようなコメントをしている。
 「歴史上はじめて日本がキリスト教徒によって指導されることになったのは特別に重要だ。キリスト教は圧政を求めるイデオロギーに対する無敵の精神的砦である」。

 キリスト教をこのように崇めるのはフリーメーソン的ではない。思うに、マッカーサー元帥にあってはキリスト教とフリーメーソンが混在していたのではないかと思われる。米国大統領トルーマンの後釜を狙っていたマッカーサーのこの雑居精神がその後のマッカーサーの悲運を定めることになったように思われる。


「ボーイスカウト運動によるスカウト」

 「フリーメーソンはボーイスカウト運動と共に日本へやってきた」。次のように騙られている。
 「フリーメーソンはボーイスカウト運動と共に日本へやってきた。この運動は若者を訓練し、将来の市民を作ることが目的であるが、これはメーソン主義でもある。戦後、すぐ我々は一九四五年十二月、日本のボーイスカウト運動を再開することにつとめ、翌年マッカーサー元帥に許可を申請した。一九四七年、彼の許可を受け、日本のボーイスカウト活動を展開した。このころ多くのアメリカ人メーソンと知り合ったが、彼らの多くはアメリカの元スカウトであった。彼らはこの運動を支援すると同時に、人間性と友愛のメーソンの教えを我々に伝えた。メーソンたちは日本の指導者、高官たちにスカウト運動の支持を伝えてくれた」(同)

 日本人メーソンとしてこのボーイスカウト運動に活躍したのは、三島通陽氏、村山有氏、岡本礼一氏、東ヶ崎潔氏、二宮順氏などである。前出の村山氏の本では、戦後すぐ三島通陽氏らとボーイスカウトの再建のため、GHQに働きかけたところ、「予想以上の強い関心を示した」と書いている。GHQの高官メーソンたちの間ですでに「戦後の重要計画」としてボーイスカウトが決められていたからであろう。

 1947年、三島通陽氏 が参議院議員に当選、ボーイスカウト日本連盟総長となり、皇太子殿下を迎え、戦後初のラリー、キャンプ・ファイヤーが明治神宮外苑で催された。一九四九年、GHQの正式認可で財団法人・ボーイスカウト日本連盟が誕生、第一回通常総会でマッカーサー元帥を名誉総長に推挙、天皇・皇后の臨席で戦後初の全日本ボーイスカウト大会を皇居前広場で催し、郵政省から大会記念切手を発行した。このようにボーイスカウト運動は着々と進み、フリーメーソンとの協調も多かった。(フィリピンの例など人脈が大体メーソンである。)


【フリーメーソンの宮中工作】

 マッカーサー元帥は、日本のフリーメーソンを発展させるため、まず皇族を入会させ、次に日本の指導層を獲得、最後に天皇を会員とする腹であった。

 フリーメーソンを日本で定着させ、拡大させるには天皇の入会がキー・ポイントであった。前出の宮中工作と同時期、日本人メーソンの笠井重治氏のもとにもマッカーサー元帥からの次のような要請があった。
「マッカーサーから手紙がきて“メーソンのアジアというものを作りたい”といわれた。私は“いいと思う。日本ではメーソンは誤解されているが、世界との友情に必要だ”と答えた。するとマッカーサーが、“重要な会合なので天皇を加えたい”という。私は“それは無理だが皇族なら何とか”と答え、当時総理大臣だった東久邇宮を訪ねた。

 マッカーサーがフリーメーソンに天皇や皇族を加入させたいという意図は、日本の支配者だからというものでした。私が当時無理だといったのは、フリーメーソンへの悪いイメージがあったからで、今ならおかしくないし、反対もしません。東久邇さんのもとへはリビイストを連れていって話をしました。東久邇さんが入会してから二、三年後、佐藤尚武、植竹悦二郎他が入会したが、みんな私が説得したんですよ。もう一方では芝金平さんが日本人メーソンを集めていました。ちょうどそのころ、アメリカの将校たちが旧海軍の水交社にいたので、私が日本政府に交渉して日本グランド・ロッジにしたのです」(笠井重治氏の話)

  1955年、日本のメーソン指導者ワーナー・P・シュトリング氏は次のように述べている。
 「フリーメーソンに対する嫌悪感を生ませた軍国主義者のやり方を私はアメリカのメーソンに説明した。アメリカのメーソンの人々は、日本の若い世代の心にヒューマニティとデモクラシーの精神による日本の再建策として非常に重要な戦後計画であるスカウトを支え、援助することを日本の指導者と政府の役人に約束した。私はフリーメーソンの真実の姿を、日本の皇族とトップ・リーダーに紹介するために働きかけた。

 そして東久邇宮(天皇の叔父、戦後の首相)が兄弟、友愛の真実を学ぶためにフリーメーソンの“忠実な奉仕者”になることを表明した。彼は少数の日本人希望者と共に、加入申請書を出し、最初の日本人となった。プリンス・李垠(夫人は皇后のイトコ)も私どもと共にメーソンとして歩んでいる。このことが佐藤尚武、高橋龍太郎、鳩山一郎、河合弥八、三島通陽ら日本人リーダーを含む人々の入会を納得させるのに役立ったのである」。

 これによると、東久邇宮(天皇の叔父、戦後の首相)が皇室最初のフリーメーソン入会者であったことが判明する。プリンス・李垠(夫人は皇后のイトコ)がこれに続いたことになる。

 戦後、天皇の方からフリーメーソンに対して「大いに興味を持たれた」という。天皇の耳にフリーメーソンを吹き込み、すすめたのは皇族の東久邇宮、李垠、宮中の伯爵と男爵である。宮中の伯爵と男爵とは、英国のフリーメーソンであった松平恒雄氏(宮内大臣、衆院議長、伯爵、元駐英大使)と幣原喜重郎(元首相、男爵、元駐英大使)の二人であった。松平恒雄氏は一九五〇年四月、マスターメーソンの最高階級のミーティングに出席、次のように熱烈な言葉を贈っている。
 「私はよくメーソンを知っている。人類愛、同胞愛があり、それを尊重している。破壊からこの世界を救うのは、フリーメーソンのみであると信じています。マスターメーソンの崇高な会議に出席できたことを喜びます。マッカーサー元帥がとくに日本のフリーメーソンに好意を寄せ、門戸を開いた。日本の社会革命は疑いのないところです。そして日本に自由と平等と兄弟愛が訪れるわけで、すばらしいことです」。

 幣原喜重郎氏も列席者として、次のように語っている。
 「私はロンドンで日本大使の林董(メーソン)から聞き、ひきつけられました。私は加入することを望んだが入会する前に任地を離れ、残念でした。日本ではフリーメーソンは、破壊活動をする団体とみられていましたので、日本人は加入を禁じられていましたが、マッカーサー元帥が日本人にメーソンを開き、ありがたく思ってます」。

ということである。芝金平氏、笠井重治氏の談話にも二度名前が出てくるマイク・リビイスト氏とは前出の天皇入会の宮中工作を担当していたメーソンの大物だ。一九四九年にアメリカからフリーメーソンの視察官として来日、マッカーサー元帥の腹心の軍人(大尉)であった。

 天皇工作がなぜ実現しなかったかについて、次のような推測がある。
 「天皇とフリーメーソンを接近させたくない勢力があってマイク・リビイストの行状を洗って警察にたれ込み、事件を作った。推測ですが、私は当時、天皇の入信工作をしていたバチカンとCIAが臭いと思う。フリーメーソンに詳しい人は反フリーメーソンとしてバチカンをあげます。マッカーサー元帥もプロテスタントですし、プロテスタントは親メーソンです。また“犯人”は日本の右翼勢力かも知れません」(当時の新聞記者)。

 この事件とは『読売新聞』昭和二十九年九月十五日付の記事である。リビイスト氏がキャノン少佐帰米後の莫大な日本での“隠匿私財”の管理人、シヤタッタ軍曹を可愛がり、フリーメーソンの三十二位階にしたが、警察はリビイスト氏とシヤタッタ軍曹の関係を洗っているとの内容だ。その後、リビイスト氏はメーソン内部でも問題になり、沖縄に“追放”されたという。


大物政治家鳩山一郎の入会

 鳩山一郎氏は公職追放中だったが、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と大変に力を入れた。やがて公職追放がとけ、総理大臣になるとメーソンの第三位階に昇進、水交社で二百人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。そのとき鳩山氏は次のようにあいさつした。
 「戦後日本において幾多の社会的変化がありました。そのなかでフリーメーソンの門戸が開かれたことは最も大きな出来事であります。私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるフリーメーソンの一員として、日本グランド・ロッジの年会に出席する機会を光栄に思います。

 フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなメーソンでした。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神を讃えずにはいられません。マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。

 占領初期から今日に至るまでのマッカーサー、リッジウェイ、クラーク、ハル、レムニッツアならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。日本にこの会が結成されて数年を経ていますが、この間に日本語のみの関東ロッジが認められたことを喜ぶものです。四千年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで、今日に至ったことを誇りに思います」(昭和三十一年六月五日)


「日本グランド・ロッジの創設、独立」

 マッカーサー元帥は、フィリピン管轄下の日本のフリーメーソン組織をフィリピン側の反対を押し切る形で独立させる働きをした。 「日本人にまかせるようにしなければいけない」と考え、そのため日本人フリーメーソンを「これこそ一晩で上級位階にする処置を取った」(芝金平氏。後述)。マッカーサー元帥(フィリピン系のロッジに属する)は、「日本はフィリピンを武力で征服したが、今度はフィリピンがメーソンの教えで日本を征服するのだ。それは日本人のイデオロギーを改めるだろう」と提案した。フリーメーソンの日本での発展は、「我々が占領していることに関係する民主化目標にとって根本である」とされた。

 1949年の後半から日本国民にメーソンを開くことがグランド・ロッジ(比国)で問題になり、それは個々のロッジの自由と決められた。グランド・ロッジは、日本人の多くなることを「我々の組合が強くなるし、将来の核になる」と歓迎した。当時、メーソンの間で討議されたことは、「短い期間でフリーメーソンの教義が日本人に吸収できるか」だった。日本グランド・ロッジの独立は、フィリピン側からの「時期尚早」とか「指導者はクリスチャンでなくてはならない」とかの反対があったが、アメリカのサウスカロライナ・グランド・ロッジ(メーソンの世界では最高の伝統を持つ)からの援助もあり、独立の方向で全世界のフリーメーソンのグランド・ロッジに承認を求めた。

 最終的に「日本に民主的な生き方が導入されたので、メーソンも握手し、日本を民主主義の側におかなくてはならず、そのためにメーソンは決定的な役割を果たさなければならない。メーソンの教えによって共産主義の侵略を阻止する助けとなる」という判断が勝り、日本ロッジの独立が決まった。1949年、東京ロッジが復活し、スコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成した。1950(昭和25)年、東京・港区芝公園の旧水交社を大蔵省より払い下げてもらい、日本グランド・ロッジが独立した。

 1950.4.5日、東京アメリカン・マソニックロッジ、スクウェアー・コンパスロッジ、同年同月、九州ロッジ、同年12月、トリイ・マソニックロッジ(名古屋)、1951.2.27日、京都ロッジ、同年10.17日、東京グランド・ハイツロッジと開設していき、独立に至るまで16のロッジを全国に拡大した。

 1951.4.27日、グランド・ロッジから代表団が日本を初訪問したが、すでに日本では政府高官、実業界の大物たちが多数参加していた。

 サンフランシスコの講和会議に活躍した。 


鳩山一郎、河合弥八の二階級昇進
 1955.5.25日、鳩山一郎、河合弥八の二階級の昇進が行なわれた。河合は東京テンプルで午前八時、特別グランド・ロッジが作られ、私どもの代表団により組織された、選ばれた比国代表のグループと地区グランド・ロッジの四人の主だった役員、東京ロッジ、関東ロッジの主だった役員、そしてブラザー・ハル将軍、ブラザー・マックノートン将軍、ルースト将軍が特別ゲストとして出席。もう一方では、臨時に作られた祭壇がおかれている鳩山邸で午前九時から厳粛な儀式が始まった。

 午後4時、ブラザー・河合と鳩山は日本のすべてのメーソンとその婦人と共に東京テンプルでのティー・パーティーに招待され、祝福された。特にマッカーサー元帥、ハリー・S・トルーマン前大統領のような著名なメーソンからの祝辞が披露された。ブラザー・鳩山はメーソンの兄弟愛に深く感動し、これからのどんな活動もフリーメーソンの教えに導かれるであろうと私たちに語った。ブラザー・河合も、同じく世界の平和を得ることが、唯一の人類の願いという私たちの友愛精神の崇高な意志を高く評価すると表明した。

 5.28日、午前9時、私どもの代表団は司令部でブラザー・ハル将軍に迎えられた。そして、極東における共産主義の潮をくいとめることが、フリーメーソンの重要点であるとの見方を交した」。

「日本グランド・ロッジの国際的承認」
 1957年、承認の方向で動いてくれたグランド・ロッジは、サウスカロライナ、ベネズエラ、イタリア、ミズリー、ジョージア、アラバマ、アーカンサス、ルイジアナ、カリフォルニアなどだった。15のフィリピン系ロッジが全会一致で日本グランド・ロッジの創設を決議した。東久邇宮は、「フリーメーソンの活動が日本の民主化と社会の道徳意識の向上を目ざすため促進せねばならない」と会議で演説した。
 承認の旅では、カリフォルニア・グランド・ロッジの外交委員会議長、アーサー・M・ウォーレン(カリフォルニア銀行副頭取)が、「我々にとって大切な点は、米国駐留軍が去った後でも、十分な数のメーソンがいるか、日本の同胞を育てられるか」と聞き、英国(イングランド)グランド・ロッジは、「承認の数より質である」とアドバイスされた。一九五八年の独立までに、アメリカの二十九のグランド・ロッジ、ヨーロッパの六、南アフリカ三、メキシコ五、オーストラリア一が承認してくれ、日本グランド・ロッジ創設の正当性が国際的なフリーメーソンの間で認められたのだ。

 当時マッカーサー元帥は、アメリカのサウスカロライナのグランド・マスターだったが、ニューヨークのグランド・ロッジに対して次のような手紙を出している。
 「先頃、結成された日本グランド・ロッジが、他に先んじてサウスカロライナ古式フリーメーソン・グランド・ロッジによって承認されんことを私はためらいなくすすめます。日本に滞在中、私はフィリピン・グランド・ロッジの管轄下のフリーメーソンの発展を促すため、いろいろな措置をとりました。急速に発展し、やがて会員の中に日本の優秀な指導者たちを加えることになりました。彼らは非常に献身的であると私には思われました。日本での活動がそのメンバーたちによって彼ら自身のグランド・ロッジを求めるまでになったことは健全かつ当然なことであり、私の意見を申しあげれば、合州国のメーソン組織によって心から支援されるべきであると思います。この件につき、私の助言をのべる機会を与えて下さったことを感謝すると共に、あなたとあなたの同胞たちに兄弟としての祝辞を送ります。一九五七年七月十九日。ニューヨークのロッジ一三〇三のテンプル殿。敬具」

 1958年、創設大会が挙行された。日本人メーソンの指導者、小松隆氏は次のように演説している。
 「混乱と無秩序の状況の中で、フリーメーソンの教義は、人間社会の礎として理想と同胞愛を促進する根本的な解決法を提示しています。フリーメーソンの教義をあらゆる個人の心の中に浸透させることが、このような危機の時代に必要です。フリーメーソンが日本に開かれた今、日本人の心の中に根づくことが重要だ」。

 フィリピンのグランド・ロッジは当時、次のように語っている。
 「地球のこの片隅には我々の組合(メーソン)の理想を吸い込むことの必要な人間が五千万人以上も住んでいる。合州国には四十一のグランド・ロッジがあるが、日本では我々のグランド・ロッジだけである。八千人のマスターメーソンたちが五千万人以上の住民の中で普及に努力しなければな らない。我々メーソンの活動がいかに困難で苦しいものかわかるだろう」。

 笠井重治氏は山梨県出身で、戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物である。だ。『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)によれば、笠井氏は戦後すぐGIIのウィロビー部長への有力な情報提供者であり、占領政策の「友好的日本人」と評価されていて、マッカーサー元帥とも知人であった。また、マッカーサーの記念館を作ろうとの運動を起した人物でもある。笠井氏は次のように証言している。
 「メーソンの資格はこれといってないが、戦前の日本人でメーソンになれる人は少なかった。アメリカでは銀行の頭取とか社会的有力者ばかりが入会していました。私がマッカーサーと話して日本のメーソンを独立させたのです」。

 笠井重治氏は1950.1.7日、入会。No.2ロッジに属した。国際産業(株)社長、日米文化振興会会長、フィリピン協会理事などをしている。

 戦後、村山氏と三島通陽氏らはボーイスカウトの再建に動いていたが、GHQではマッカーサー元帥はじめ高官の多くがメーソンと聞き、「今後は真にデモクラシーの兄弟愛で行こう」とフリーメーソン参加の仲間を集めた。賛同したのが、佐藤尚武氏、星島二郎氏、植竹悦二郎氏、高橋龍太郎氏、松本滝蔵氏らでマッカーサー元帥あてに手紙を出した。

 その結果、OKが出たが日本人の入会宣誓をどんな方法でやるか問題になった。結局、アメリカ軍将官を前に演説、「要するに、富士山に登るのに道はたくさんあろうが頂上は一つであると同様に、神は一なりの精神を論じ」、「聖書をもって日本の各宗派の聖典または教典に代えて宣誓する案」に決した。

 この案をマッカーサー元帥に提出、アメリカ本部の承認を得た。村山氏は次のように証言している。
 「日本人にフリーメーソンの門戸を解放することの意義は、日本人の人種差別待遇を取り除いて兄弟愛の結合を深めることだった」。

 日本人のフリーメーソン創設期の事情を知る一人に芝金平氏(朝日イブニングニュース社相談役)は次のように証言している。
 「私とか村山有さんなんかが始めたとき、日本人はほんの五、六人でした。フリーメーソンということではなく、日米親善の組織として集めました。当時、水交社にアメリカのメーソンがたむろしており、中心人物はマイク・リビイスト氏たちだった。彼らから日本人のメーソンを作らないかと話があり、村山有さんがGHQにかけあいに行き“宗教団体としてならよろしい”となりました。

 それで私らが日本のメーソンの発起人になり、東久邇宮さんとか主だった人々を集めたのです。私たち初期メンバーは一位階のメーソンでしたが、一晩で昇進させられました。英語で儀式用語を暗記するんですよ。今は日本語でいいが当時はあくまで英語でした。それから水交社を払い下げてもらったが、これは正確にいうと“盗んだ”みたいなもので後に水交社側と示談になりました。マイク・リビイストたちが仕組んだことです。そういうやり方が私はおかしいと思ってトルーマン大統領がメーソンだというので直訴したんだ。すると日本のメーソンはフィリピンの管轄下だからそちらへ言えと返信がきた。そしてフィリピンから調べにきたが、結局ウヤムヤになってしまった。

 日本人のメーソンといったってコントロールしていたのは一部の外人でした。イタリア人のリビイストとかが水交社ビルを使って金儲けをしており、“話が違うじゃないか”と私はやめました。当時、日米親善といえばみんな乗ってきましたし、東久邇さんや鳩山さんにしろ他の政治家の多くもうまいことがあると思って集まったのですよ」。


「入会手法と審査・再審査」

 「自由や平和、民主主義」運動体としてのフリーメーソンが宣伝され、「永久の平和は我々の教えが実行されるなら解決される」、「我々は世界で最も偉大な団体のメンバーである」と自画自賛された。具体的な行動として、「我々はフリーメーソンの教義を日常生活で実践する。一人一人が行動的なメーソンとなり、メーソンの教えを言行一致させる。具体的には、1・すべてのメーソンが兄弟としての連帯を図るためロッジ集会に出席する重要性を自覚する。2・十分練られたプログラムを通じて、メーソンの歴史、組織、活動をよく知る。3・すべてのメーソンはロッジ内外で、あらゆる人間関係を通じ、兄弟愛、救済、真実を伝える。こうしてメーソンの教義を広く世界に普及する」(同、小松隆氏の演説)が基準とされた。

 これにより賛同してきた者に対して次のような審査が行われた。
 「初期の日本人メーソンの参加者に対して次のような審査を行っている。史家さ奇怪な事実がある。それは、『FBIならびにCIC(陸軍防諜部)のエージェントたちは次のことを確認するため我々を審査・再審査した。日本人のメーソン入会希望者が世界の同胞の多くと手を結ぶためにフリーメーソンの高尚な教義と理想に従って行動できる者たちであることを確認するためである』(同)との記述だ。フリーメーソンは当時、宗教法人だったが、FBIやCICのアメリカ政府機関の関与はなぜだろうか。ただ、占領時代、ボーイスカウトなど青少年団体はCIE(民間情報局。教育、宗教、マスコミの三部門を担当)やCIC(各分野からの超国家主義者の追放と活動の監視に当たったが、後に反共諜報活動をなした)の指導を受けていたので、そのせいかも知れない」。


【フリーメーソン入会式の様子】
 入会式の模様が次のように伝えられている。

 1950.1.5日、佐藤尚武、植竹悦二郎、三島通陽、高橋龍太郎、芝金平(後述)らが加わり、荘重なフリーメーソンの入会式が行なわれた。GHQのウォーカー少将ほか多数の人が参列した。

 4.6日、芝金平氏と筆者に、日本で最初のマスターメーソンになる栄誉が与えられ、その儀式は占領軍各国の高官など四百名以上が参列して盛大に行なわれ、マッカーサー元帥はとくに最高副官ハフ大佐を代理として出席させたほか、フィリピンからグランド・ロッジ代表ら二十余名も来日して参加した。

 4.8日、参議院議員官舎でフリーメーソンのフィリピン代表の歓迎会が開かれ、日本の政財界の名士も多数集まった。席上、フィリピン代表の一人で後に国連大使や中南米、アフリカの大使として活躍し、教育家としても有名だったマウロ・バラディ氏が大演説した。
 「フィリピン人は、果たして日本人をメーソンの兄弟として手を握れるかどうか、私は泣きながら神に祈った。フィリピン代表が日本にくるまでの決意は、悲痛なものであった。今日ここにいる二十人の代表のほとんどが、自分の目の前で、その親兄弟を日本軍のために殺され、家屋を焼かれた悲惨な経験の持ち主である。フィリピン人はみんな日本人を呪っており、憎んでいる。しかし、我々は子孫にこの憎悪を永久に伝えてはならないと要請され、メーソンの博愛精神にしたがって日本人をメーソンに迎え入れよと決意を促されて、我々は親子、夫婦相抱いて泣いたのであった。

 日本人を兄弟として握手しようと決心し、過去の罪を許してメーソンとして迎える決意をした。しかし、日本人は我々のこの厳粛な気持をわかってくれるか。“汝の敵を愛せよ”と教えているその精神を実行して生きるために、我々は日本にきたのである。この貴い決意こそ我々は子孫に知らせ、そして人類のために最高の友愛の表現として喜んでくれるものと信じている。日本人の責任は大きい──諸君こそが世界の偉大なる期待をもって迎えているパイオニアだ。フィリピン人はひとしくフリーメーソンが日本で伸び、そして我々と兄弟として握手できる人が多くなることを心から願っている」。

 バラディ氏に対し、日本側から星島二郎氏が、次のように述べた。
 「我々日本人は戦争責任を痛感している。今後は世界平和のために貢献することをみんな望んでいる。日本国民の名において、フィリピンにおける行為について謝罪決議を行なうことを望んでいる」。

 星島氏は国会に謝罪決議案を提出、満場一致をもって可決され、それが直ちにフィリピン政府に打電された。これがフリーメーソンの日本でのひとつの働きであった。  


【フリーメーソン入会の契機】

 「フリーメーソン入会の契機」について、大日本製糖会長の藤山勝彦氏は次のように述べている。
 「入会は十七年前。メーソンでした田中元彦(勝彦氏の実弟。NCRの元社長)に、国際的組織ですし、いろんな有名人が入っているからとすすめられました。昇進試験が難しくて私はいまだにメーソンの一番下です。メーソンは社会奉仕をやり、メンバーが兄弟的な団結をもつ立派な団体です。いわゆる社交的なクラブと違い、一つの使命をもって固く結ばれています。しかし、メンバーを拘束することはありません。

 国際的な奉仕活動をやっており、ベトナム難民救済とか身体障害者のいろんな問題を取りあげ慈善活動もします。ロータリー・クラブは職業を通じての社会奉仕だが、ロータリー・クラブなどとは違います。メーソンは日本人になかなか理解しにくい規定があり、ポピュラーになりづらい面があります。メーソンは古い歴史を持ち、兄弟の団結で困難に立ち向かい、理想を追求しています。

 世俗の面でも助け合いますが、この兄弟愛はふつうの友情以上に深いものでメーソン流の摂理を通して結ばれています。だから、手紙なんかでも必ず『ブラザー』をつけます。社会的にどんなに偉い人でもメーソンなら平等な兄弟です。戦後の加入者の多くは進駐軍の方でした。メンバーを公開しないので、何か大秘密結社のように思われていますが、そんなことはありません。私は一兵卒で、怠け者なので進級もしてないし、最近は忙しくて出席もしないが、メーソンはもっと一般に理解されてよい団体ですね」。

 ちなみに藤山勝彦氏の実兄が元外務大臣の藤山愛一郎氏であり、“藤山財閥”の一員である。

 TAC建築設計事務所の高橋真一郎氏は、次のように述べている。
 「およそ三年前(昭和五十一年)、日本のグランド・マスターの住宅を建築したのがきっかけで入会しました。その人は退役軍人でして横田基地の人で、私も米軍人の知り合いが多くいました。フリーメーソンは勧誘するものではなく、私に対しても軽い“どうだい”ぐらいの調子でした。私の入会推薦人は、同じくグランド・マスターだった山田精夫さんでした。

  入会動機はその退役軍人が仕事に関しても、また人格的にも立派な人で、信じられたからです。レオパー・ベッチオさんといいますが、すでにニューヨークで亡くなられました。本人の希望で横浜の墓地に眠っています。そこはメーソンの墓地で、墓までめんどうをみるのかと驚きましたね。

 入会する前の私の印象は、社交団体であり、いろんな職業の人が集まる団体の中で、互いに兄弟という程度のものでした。会員になる前、他の外人から横浜のメソニック・テンプルの設計を依頼されていましたが、設計前におよその知識を持つ必要があり、百科事典などで調べましたが、フリーメーソンは秘密結社の項にありました。ベッチオさんを信じて入会した のですが、秘密といわれるものがなかなかわからない。私が読んだフリーメーソンの案内書にも書いてないし、入会後一人前になってやっと解明しました。

 秘密といわれるものは、ひとつの権威づけなんです。しかし、それを明かしてしまうと何もなくなってしまうそういう祭祀で、それがすべてですね。私がグランド・マスターならそれを明かしても何ともない、と思うね。フリーメーソンの秘密とはそういうものです。

 今は月一回、東京友愛ロッジに出席します。平日で夕方七時から夜十時ぐらいまでです。このロッジでは日本語でミーティングをやっています。フリーメーソンは長い歴史がある。次にメンバー間に深い信頼関係があります。名士、大学教授、経済界の人、政治家と各層のトップが割と多いよ。話してみてもふつうの会話でなく、フリーメーソンの用語や教義を話します。この内容はいえませんが、たとえば悪いことはしてはいけないとかの道徳とか宗教の規律などです。

 これが秘密といっても、子どもがガラクタを集めて“いっちゃいけないよ”という他愛もないことかも知れません。しかし、それを守ることが人と人とのつながりを深めるのではないでしょうか。メーソンの人は指輪、ネクタイピンとかメーソン独自のものを身につけています。米軍では陸、海、空軍にいろんなメーソンがいて、こちらがメーソンだとわかると初対面でも急に親密な連帯感を示してくれます」。

 高橋真一郎氏は、米陸軍技術本部日本司令部特殊顧問をへてDMJM設計事務所勤務、TAC建築設計事務所長。韓国大使館、韓国国連ビル、インドネシア、サウジアラビア、アブダビ石油プラントなどの設計キャリアを持っている。


【東京メソニック協会】

 港区虎の門の第六森ビル。

 東京メソニック協会の述丈夫事務局長(32位階)は次のように述べている。
 「東京メソニック協会とは、日本グランド・ロッジ傘下の二、三の有志ロッジによって作られた団体です。昭和三十年に財団法人・東京メソニック協会の正式名で厚生省に設立許可された慈善団体としての公益法人です。日本グランド・ロッジは、昭和二十九年の宗教法人法改定までは宗教法人として登録されていましたが、フリーメーソンは友愛団体ですから、宗教法人ではおかしい。現在、日本グランド・ロッジをはじめメーソン団体は私的な団体です」。

 現在、日本グランド・ロッジに所属するメーソンは四千人で日本人は二百五十人と少数である。「外人メーソンの多くはアメリカの軍人であとは在日実業家、ほかはヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、韓国、台湾と世界中の人がいます」(述事務局長)。日本人メーソンはそれこそ職業の全分野にわたっているが、在日米軍の軍属二世が比較的多いのが特徴だろう。

 現在、日本にはグランド・ロッジの下に二十のロッジ(支部)がある。これは、横浜(No.1)、東京(No.2)、国立(No.3)、同(No.4)、京都(No.5)、名古屋(No.6)、国立(No.7)、同(No.8)、佐世保(No.9)、三沢(No.10)、東京(No.11)、神戸(No.12)、座間(No.13)、福岡(No.14)、福生(No.15)、岩国(No.16)、千歳(No.17)、東京(No.18)、沖縄(No.19)、横須賀(No.20)であり、米軍基地周辺に多い。

 このほか日本グランド・ロッジに属さない外国のロッジがいくつかある。それらは、神戸(No.1401、イングランド系)、大阪(No.496、スコットランド系)、横浜(No.640、スコットランド系)、東京(No.6、マサチューセッツ系)、座間(No.151、フィリピン系)、沖縄(No.118、フィリピン系)などだが、これらは明治以来の伝統あるロッジで“既得権”として日本グランド・ロッジの管轄下に入らなかった。こちらの方は取材に応じてくれず、その内容はわからないが、「日本人はほとんどいない」(日本のメーソン)という。


【「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」】

 1966年、横浜のプリンスホテルで、「日本フリーメーソン・ロッジ百周年記念」式典が開かれた。出席者は約200人で、その内の2/3が在日外人だった。席上、直径5センチ程の銀の記念メダルが会員に贈呈されたが、そのメダルにはメーソンのマークと1866年~1966年という年代が刻まれていた。つまり、日本にメーソンのロッジが初めて設立されたのは、1866年。明治維新の2年前だ。横浜で記念パーティが開かれた様に、最初のロッジは横浜に作られている。



【日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスター】

 日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスターは次の通りだ(註5)「日本のグランド・マスター」。
1958 カルロス・ロドリゲス・ヒメネス  初代グランド・マスター。一八九八年ヴェネズエラ生まれ。カラカス大法学博士、一九二〇年から政府文官、一九三〇年から外務省に移り、駐日ヴェネズエラ総領事として一九四一年まで勤める。一九四五年、サンフランシスコの国連会議で同国代表、その後、各国の大使を歴任。メーソンには一九二九年カラカスで入会。一九四七年、ヴェネズエラのグランド・マスター、同国の最高評議会のメンバー。日本では、一九三七年後三つのロッジに加入、英国滞在中にロンドンのロッジにも入っている。各国のメーソンであって、一九五七年の日本グランド・ロッジ結成に活躍、満場一致でグランド・マスターに選ばれた。その活躍で「日本のミスター・メーソン」と名づけられている。
1959 堀内貞一  一八八七年岡山県生まれ。シアトルのワシントン大で法学博士を受け、ニューヨークの法律事務所に勤務。一九二五年に日本に帰国して法律事務所を開設。新日本産業、神奈川リョーユー社の社長ほかいくつかの会社を経営。一九五一年、日本でメーソンに加入、一九五九─六〇年のグランド・マスターに就任。一九五三年、東京スコティシュ・ライトのメンバーとなり、一九五七年に三十三位階の名誉を受ける。東京ヨーク・ライトのメンバーでもある。彼は身体障害者救済事業で目ざましい働きをなした。
1960 東ヶ崎潔  一八九五年カリフォルニア州で生まれる。カリフォルニア大を卒業後、米軍に入隊、一九二〇年復員して外国貿易会社へ勤務。サンフランシスコのキリスト日曜学校日本人教会の校長、YMCAの支部理事会会長、ボーイ・スカウト運動に参加。一九三三年日本へ移り、教育協会世界連盟の会議に参加、戦後は日経連でアメリカ経済ミッションを補佐、米日協会の役 員などした。一九四六年、ジャパンタイムズの社長(一九五六年まで)をやり、そのほか肩書きも多い。国際基督教大理事会会長、米日協会理事、日本聖書協会理事、聖ルカ国際病院理事、国際教育協会理事、国際社会福祉事業協会理事ほかをもつ。メーソンとしては、日本でマスター・メーソンになり、一九五一年からスコティシュ・ライトのメンバー。一九五五年三十三位階の名誉を受け、一九六〇─六一年のグランド・マスターである。アメリカのデラウェア州のメーソンでもある。
1961 カール・T・ナカムラ  一九二四年ネブラスカ州生まれ。日本人収容所生活をし、一九四四年米軍に入隊、通信隊の文官。一九五二年、日本でマスター・メーソンとなり、その後スコティシュ・ライト、ヨーク・ライトのメンバー。一九六一年満場一致でグランド・マスターに選任される。「メーソンに加入して以来、彼は惜しみなくメーソンの理想を日本に普及させるため人生を捧げてきた」といわれる。
 
1962 ノヘア・O・A・ペック  一九〇〇年ハワイ生まれ。米海軍の工兵隊に入り、朝鮮戦争に参加、後駐日米軍の文官となった。一九三七年マスター・メーソンになり、現在フィリピンと日本の六つのロッジの名誉会員。一九三八年ホノルルでスコティシュ・ライトのメンバー、一九六〇年に三十三位階の名誉を受け、最高評議会のメンバーでもある。日本で四つのヨーク・ライトに入っており、一九六二─六三年のグランド・マスターとなった。
1963 ジョージ・B・モーグリス
1964 ジョージ・H・ブース
1965 北村三郎
1966 ーマン・コーエン
1967 マサジ・マツモト
1968 チェスター・O・ニールセン
1969 フロイド・J・ロバーソン
1970 山田精夫
1971 フローレン・L・クイック
1972 フレデリック・S・カシワギ
1973 チャールス・P・ウェザーマン
1974 山田彝
1975 レオ・N・パーラヴェッキオ
1976 西山茂
1977 ロイ・ベーカー
1978 ロナルド・E・ネイピア
1979 ハワード・M・ヴォヌ・ジュニア
1980 北村安忠
1981 高野清


【皇室】
 東久邇宮(元首相)、李垠(旧皇族の李王)。

【政界】
星島二郎 不明。元商工相、サンフランシスコ講和会議全権委員、鳩山自由党に参加、元衆院議長として自民党の長老
佐藤尚武  1950.1.5日入会、No.2。終戦時の駐ソ大使、戦後代議士。元衆院議長、元外相で、外交界の長老であった。神社本庁の総代会会長に就任、国家神道の再建に貢献した。
植竹悦二郎  1950.1.5日入会、No.2。長野県出身の代議士、戦前の内務大臣、戦後憲法をGHQと会談、作成に協力した。吉田、鳩山政権に参加、リベラリストだったが反共主義者としても有名。
下条康麿  1950.3.3日入会、No.2。元文部大臣。子息が下条進一郎現代議士である。
野田俊作  1950.3.28日入会、No.2。政友会の父、卯太郎の地盤を継ぎ、代議士。松野鶴平代議士と義兄弟の間。
松本滝蔵  1950.9.8日入会、No.2。広島県出身の代議士。マッカーサー元帥後援の日米親善野球の日本側委員長。
鳩山一郎  1951.3.29日入会。No.2(ロッジ番号、以下同じである)、元首相。元ニューズウィーク編集長のハリー・カーンの誘いででフリーメーソンになったと云われる。昭和29年、青年運動の「友愛同志会」(現薫子夫人会長。クーデンホーフ・カーレルギー伯が名誉会長)を結成。「友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている」が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨーロッパ主義者”でEC創設者の一人、カーレルギー伯はオーストリアのメーソンといわれている。
笹川良一  真偽不明ながら、巣鴨の刑務所で鳩山と同房し、フリーメーソンになることで出所したと云われている。
河合弥八  入会、ロッジ番号不明。元参議院議長、鳩山自由党に参加した保守政治家として有名。

【官僚】

【財界】
安藤一夫
笠井重治  山梨県出身で、戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物である。
高橋龍太郎  1950.1.5日入会、No.2。元商工大臣、元通産大臣。元東京商工会議所会頭、ビール会社の社長として財界人。
山下太郎  1950.4.3日入会、No.2。俗に“満州太郎”“アラビア太郎”との異名を持つ財界人、山下汽船の社長。
加納久朗  1950.4.3日入会、No.2。吉田元首相の親族として財界側のスポンサー、「不明の外資を導入する男」(『真相』)といわれた。子爵、元横浜正金銀行重役などの戦後財界人。
梁瀬長太郎   1950.4.19日入会、No.2。ヤナセ自動車の元社長、同社は日本初の自動車ディーラー、ヤナセ商会が前身で、世界の高級外車を輸入販売して有名。ちなみに、鹿島守之助(鹿島組会長)と親族。「守之助氏はフリーメーソンに十分な理解があり、『鹿島平和研究所』を創設、“パン・アジア”運動や世界連邦運動で有名です。カーレルギー伯やハンフリー副大統領(メーソン)、鳩山薫子ほかに創設した鹿島平和賞を贈呈しています。日本のフリーメーソンに入会を頼んだが、なぜか入られませんでした」(日本のグランド・マスターの話)という。
小松隆  一九五〇年八月八日入会、No.2。元日本鋼管重役、吉田茂日米協会会長時の副会長、後に同会長。ロータリー・クラブの評議員、会長でもある。
田中元彦  不明、No.11。前出の藤山愛一郎氏の実弟、日本NCRの顧問、菱和航空サービス(株)会長、日本アドレソグラフ・マルティングラフ(株)取締役。プリンストン大卒の知米派だった。
村山有 一九五〇年九月八日入会、No.11。元朝日新聞記者、ジャパンタイムズ編集長、幣原首相のGHQとのパイプ役といわれた。戦争中は陸軍中野学校と組み、対米謀略放送に従事、戦後、ボーイスカウトの再建に活躍、アメリカ生まれの二世。
村田五郎 一九五〇年九月八日入会、No.2。ジャパンタイムズ重役、元群馬県知事、元内閣情報局次長、日本会会長。
浅地庄太郎  (日本ビルサービス株式会社社長)、
浅野良三  1951.9.20日入会、No.2。浅野財閥の当主。戦後、経団連結成に参加、小林中などと“新番町会”を結成、池田内閣などとつながった財界人として知られる。
弘世源太郎  1961.4.10日入会、No.1。元日本生命常務、父・現氏が同社社長、妹の正子さんは旧皇族の久邇宮朝融王氏の子息、邦昭氏と結婚。財界の“名門”といえよう。

【学会その他】
山岡萬之助  不明、No.11。元貴族院議員、日本大学の“中興の祖”といわれる名総長だった。戦後、GHQにより公職追放。
三 島通陽  不明。旧伯爵、戦後代議士。戦前、戦後ボーイスカウト運動に活躍、日本ボーイスカウト連盟総長。
岡本礼一  1950年入会、No.2。ボーイスカウト運動の役員)
青木義久  1959.5.20日入会、No.11。元満映、記録映画など学術物の映画プロデューサー

【マスコミ】
芝金平  (朝日イブニングニュース社相談役)
二宮順  (朝日新聞記者、ボーイスカウト運動)
東ヶ崎潔  1950年入会、No.2。ジャパンタイムズ社長、ボーイスカウト運動に活躍、ロータリー・クラブ国際会長。1960年、日本のグランドマスター)。

【その他】
 植田優、吉井寿雄(貴族院議員吉井勇の息子、松本滝蔵の親族)、武田修、島内敏郎(外交官、サンフランシスコ講和会議の委員)、長田政次郎、北川正恵、小田春海、犬丸徹三(元帝国ホテル社長)、堀内貞一 (神奈川菱油取締役、新日本産業設立、社長。一九五九年日本のグランドマスター)、山本勝夫、増山吉成。

 現在、日本には北海道から沖縄まで24箇所のロッジがあり、会員には2600人。その内日本人が250人である。意外と少ないように思われるが、政財界のトップクラス、宗教人、文化人、外務官僚、大蔵官僚など、社会的に大きな影響力を持つ人々によって占められている。

 永井陽之助(青山学院大学教授)、船橋洋一(朝日新聞編集委員、元北京特派員)、行天豊雄(東京三菱銀行相談役、国際通貨研究所理事長)、八城政基(シティ銀行)、井上薫(第一勧業銀行名誉会長)、宮崎勇(大和総研特別顧問、村山改造内閣時元経済企画庁長官)、千野宜時(大和証券名誉会長)(日本証券協会会長)、西原正(防衛大学校社会科学教室教授)(防衛庁防衛研究所第一研究部長)、天谷直弘(電通総研所長)、永末英一(元民社党委員長、ハーバード大学に留学)、宮沢喜一(元総理大臣)、瀬島龍三(大本営陸軍参謀と大本営海軍参謀を兼務)、向坊隆(日本原子力産業会議会長 日本工業教育協会会長)、石川六郎(鹿島建設名誉会長、日本商工会議所名誉会頭、元・東京商工会議所会頭)、緒方貞子(国連難民高等弁務官 元・上智大学教授 元・国際基督教大学助教授)。

 自民党の長期政権は、善きにつけ、悪しきにつけて、根回し、派閥、金権主義など、余りにも独特の政治機構だった。メーソンから見れば、これほど分かり難く、扱い難い日本独特の政治機構はなかった。

 世界のメーソンの二大ドン、ロックフェラーとロスチャイルドが、遂に本格的な日本包囲網に乗り出したのだ--。

【フリーメーソンの慈善団体】
 フリーメーソンの慈善」その他を参照する。

 フリーメーソンは慈善団体ではないが、日本ではグランド・ロッジや有志のロッジが寄金で作った「東京メソニック協会」を通じていろいろな慈善行為をしている。昭和五十三年度の同協会事業概況をみると次の通り。

 1・各種養護施設への寄附。2・各種団体、機関を通ずる慈善寄附。3・災害被災者救援寄附。4・その他の公益に資する寄附。5・直接の慈善活動その他。

 フリーメーソンは原則として慈善活動を隠れて行う。フリーメーソンの財政は、ふつうは各ロッジごとの会計で、グランド・ロッジへの寄金行為はあるがそれほど多くはない。裕福なロッジでは、余裕の資金を株や証券にして増収を図っている。

【「メーソンのメリット」】
 メーソンのメリット」その他を参照する。

 メーソン同士の兄弟愛と相互扶助は、さまざまな形である。たとえば、代議士の植竹春彦氏(メーソン)は、「国際会議などでメーソンだとわかると急に親切にしてくれ、交渉がうまくいった」という。また、外国での話だが、戦場で敵味方となり、銃殺寸前のときメーソンとわかって助かった例などがあるそうだ。小さな話では、羽田税関にメーソンがいて、「メーソン同士だと楽に通してくれる」(日本のメーソン)といい、匿名となるともっとさまざまな便利さもあるらしい。

 「それがメーソンの知恵なのです。ハイソサエティのエリートで占められている英国でさえ、チャーチル首相がメーソンであったと発表されたのは死後でした」 。





(私論.私見)