449―124 戦後在日の左派運動と日共との関係考
 「戦後在日の抗議運動で見てきたが、戦後日共運動は在日朝鮮人グループと深く関わりを持って始発した。在日朝鮮人グループの戦闘的左派が日共に結集し、金天海をその頂点にして党中央の一角にも登壇していた。このことは、当時の指導者徳球―志賀ラインの共産主義者としての人格及びその度量を証左しているように思える。この関係は、「50年分裂」を経て1955年の六全協で宮顕が党中央を掌握するに至って崩れる。そのつぶさをこれから見ていくことにする。


【徳球時代における在日朝鮮人グループの登用のされ方】 
 1945.10.10日釈放され戦後直後の日共党中央の指導部を形成した徳球―志賀執行部が最初に為したことは、中央委員の選出と党綱領の確立であった。最初の党拡大強化促進委員会で、執行部委員を次の序列で選出している。1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)。これによれば、金天海がbSに位置していることが分かる。

 11.8日党大会準備の為の「第1回全国協議会」が開かれ、12.1日第4回党大会が党本部で開催された。この時、中央委員として1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7人が、中央委員候補として岩本巌.春日正一.蔵原惟人.紺野与次郎.志田重男.宗性徹.松崎久馬次の7人が選出されて中央委員会メンバーが構成されている。金天海のbSの位置が確認されていることになる。

 この時、在日朝鮮人共産主義者と日共の密接な関係が構築され、朝鮮人部が設置されている。なお、「朝連」を日本民主民族戦線の一翼として位置づけ、日共党員朝鮮人を通じて朝連組織の改組、宣言、綱領・規約改正を行い、以降共同闘争を担っていくことになる。

 12.23日第一回東京地方党会議が開かれ、9名の暫定東京都委員が選出され、この時長谷川浩、岩田英一、伊藤憲一、伊藤律、酒井定吉、服部麦生、寺田貢、金斗鎔、中野某が指名されている。金とうようが登用されていることが分かる。

 こうして、在日朝鮮人グループは党中央の一角に選出され、相提携して戦後党運動の一翼を担っていることが判明する。1945.2.24日からの第5回党大会でも、金天海はbV中央委員として選出され、中央委員候補として金斗鎔、宗性徹、朴恩哲、保坂浩明らが新たに登用されている。1947.12.21日よりの第六回党大会でも、金天海はbUとして選出され、中央委員候補として朴恩哲.保坂浩昭が引き続き選出されている。

 1946.8月の日共第四拡大委で、『8月方針』が出され、次のような朝鮮部指針が決議されている。@・各地の朝鮮人運動体を日共の支配下におき日本人党員と一体となり活動する。A・朝鮮人だけの職場にある党員を、日共の細胞に入れ、日本人党員とともに活動する。B・朝連の重要ポストに党員を配置、民族戦線としての役割を果す。C・朝連はなるべく下部組織の露骨な民族的偏向を抑制し、日本人の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利である。D・朝連はあくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割を果すように努めること。

 徳球党中央時代の党大会は1947.12.21日からの第六回党大会で終わっているので、この期間においては日本人と在日朝鮮人グループは同志的立場で友好関係にあったことが判明する。ちなみに、徳球の後継者と目されていた伊藤律と保坂浩昭は親密な信頼関係にあったことを思えば、徳球―伊藤律系の運動と在日朝鮮人グループとは相互に共産主義者としての関係作りに成功し得ていたものと推測し得る。




(私論.私見)