「読売新聞社史考」そのBナベツネ考、その背後勢力考

 (最新見直し2005.6.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2004.6月頃、ナベツネが世に突如浮上し始めた。プロ野球の1リーグ化を廻り指導力を発揮せんとしたが、その独断的権力的手法が批判を浴び、どんでん返しで読売巨人軍のオーナーを辞任することになった。

 このナベツネの正体を見破り論述する際には、彼の戦後焼け跡期の共産党入党時の「東大新人会運動」の足跡から追わなければならない。れんだいこには、宮顕同様の変調さが臭って仕方ない。

 読売入社後のナベツネの「天下取り」の動きがこれまた興味深い。思うに、「知力、体力、気力」というレベルにおいては相互に遜色無い者達が雌雄を決していく過程で何が決め手となったのであろうか。れんだいこに見えてくるのは、マキャベリズムとも云うべき智謀力、最後に運命力というものもあるような気がする。ナベツネはこの闘争に勝利したが、その彼の決定的な欠陥は、彼をして闘争に嗾(けしか)けた理念つまり自己の実存を歴史において何の為に何を求めて争ったのかという「社会進歩へ向けてのグランド・デザイン」が全く見えてこないことに有るように思われる。「単に権力掌握の為の生の躍動」としてしか伝わってこない。いずれ寿命がある身のものをそういう風に費消するのは虚しいものでしかなろうに、と思うに付きこちらまで虚しくなる。

 以下、木村愛二氏の読売新聞・歴史検証「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言その7」(13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり、魚住昭氏の「渡辺恒雄、メディアと権力」その他を参照する。

 2003.7.10日、2004.8.14日再編集 れんだいこ拝


【東大新人会の「再建」運動】

 現読売新聞社長・渡辺恒雄(通称ナベツネ、以下ナベツネと表記する)は、1926(大正15).5.30日、東京都杉並区で誕生している。1939年、13歳のとき私立開成中学入学。1945(昭和20)年、敗戦直前に東京帝国大学文学部哲学科に入り、学徒動員で中断後、まだ旧制のままの文学部哲学科に戻った。終戦後まもなく青年共産同盟に入り、母校の東高に通い大島利勝、氏家、馬場らと戦犯追放運動に乗り出す。

 ナベツネが共産党に入ったのは1946(昭和21).10月である。1947(昭和22)年の「2.1ゼネスト」に参加しその過程でマルクス主義運動に胚胎する非モラル性に反発を覚えている。

 3.16日の東大細胞会議で、指導部を「党の指示通りにがむしゃらに動き回る『馬車馬的行動主義者』」として批判し、共産主義と道徳の関係を問い直す「エゴ論争」を開始した。それは、「鉄の規律」を尊ぶ党の組織論とこれに参画する側の主体性の優先関係を問うてもいた。これが後に「主体性論争」の口火ともなる。それは「戦後初めて党内で起きた思想闘争として反体制運動史に残る画期的なものだった」(魚住昭「渡辺恒雄、メディアと権力」)。

 この時のナベツネの問題提起が次第に支持を集めはじめ、選挙の結果旧指導部が退陣し、ナベツネが東大学生細胞長に選ばれ新指導部を創出している。ナベツネの日記に、「我々は党内の馬車馬分子を駆逐して、勝利するであろう」と記している。しかし、ナベツネ系の指導は文化サークル運動に堕し、やがてこれも武井昭夫ら急進主義系に突き上げられていくことになる。

 この頃、読売争議支援の新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)の10月ゼネストが盛り上がるも挫折し、翌年には最大の政治エポックとなった2.1ゼネストがマッカーサーの直接干渉で失敗に終わっている。左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。

 この両面の激動に対し、ナベツネはどう処世したか。彼は、右派系の民主化同盟と連絡を取りつつ、左派系の青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対活動に精出し始める。

 この動きは1947.8月中旬頃、細胞指導部の承認を得て、この時次のような激文を発している。「我々はかかる混迷の内に起ち上がって、失える若き世代の主体性を回復し、強靭な自律の精神の内に社会改革の熱情にまで昂(ため)められた新しいヒューマニズムの途(みち)を開き、過去二年間に展開された青年運動の長短を深く反省弁別する事によって、青年民主戦線に新生面を開くべく集まった」云々、「起て、新しきヒューマニズムの旗の下に!来たれ、新人会へ!」。

 会の綱領には、「新人会は新しい人間性の発展と、主体性の確立を目指し、合理的且つ平和的な社会の改革を推進しようとするものである。故に会は人間性の自由な発展を妨害するあらゆる封建的反動傾向を打破すると共に、公式的極左主義を克服し社会正義と真理の旗の下に結集する」とある。

 9月以降、東大新人会の「再建」を始める。 この種の活動は、党中央、東大細胞指導部の支援が無ければ為しえないが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも諮られているようにみえない。つまり、正式の機関との相談なしに東大新人会の「再建」活動を開始していたことになる。

 当初は党のコントロールに置かれるフラクション活動と位置付けていたが、次第に党の指導下から逸脱した「東大独立共産党」的な動きを見せ始め、その内実は青共運動に代わる右派系路線を敷いていくことに狙いがあった。ナベツネ派のこの動きの是非はともかく、この分派的活動がやがて党中央と対立するのは時間の問題となる。

(私論.私見)「この時期のナベツネの背後関係、東大「再建」新人会運動の裏舞台」について

 この「再建」活動の背後関係が疑惑に包まれている。この種の活動が単独で為し得ることは考えにくく、実際にはそれを支える党内グループが存在していたということにもなるが、解明されていない。「東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていた」と漠然と認識されているが、この時の指導部とは誰であろう。れんだいこの臭いからすると、党中央内反徳球派即ち宮顕派との阿吽の呼吸で為されていた可能性を推定する。但し、ナベツネはその関係を明らかにすることを注意深く避けているように見える。

【東大新人会の再建運動の資金源疑惑】
 この時ナベツネは、新人会創立仲間の中村正光を経由して、活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。ナベツネは後にかなりの長文の「東大細胞解散に関する手記」(「始動、48.3.1」)を書き上げており、その中でナベツネ自身がこのことを追認している。「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」、「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めている。

 三田村はかなり初期の頃からの労働運動畑活動家であり、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らと共に戦前の共産党幹部の一人であり、時の共産党弾圧に際しての転向組の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。転向後の三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けており、鍋山と共に精力的に反共活動を展開していることで知られていた。この三田村から、ナベツネは右派系運動の工作資金ということを承知で金の工面を受けていたことになる。つまり、その活動は最初から怪しさがあったことになる。 

【東大「再建」新人会運動の「モダニズム」との連動
 ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」とは、この当時経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論など各分野で硬直的なマルクス主義からの解放が生み出されつつあり、これを擁護するイデオロギーとして跋扈しつつあった。その主流は社民運動と連動していた。

 「主体性論争」は、マルクス主義運動の見直しの契機=「反省の矢」として重要な意義を持っていたと思われるが、文学の領域で狼煙が上げられ、やがて哲学の分野に飛び火し、遂に論壇を席捲していった。しかし、共産党系イデオローグの一人古在由重氏などの「主体性などと騒いでいるのは人間の屑」という観点から水を差され、鎮火していったという経過がある。

 新人会運動の慧眼点は、この時既に「東欧の主体性無き民の悲劇を見よ」とスターリン主義的な圧政を批判していたことにある。この視点からソ連に追随する党中央路線をも批判していたことになる。今日から見れば「先見の明あり」ということにもなる。

 ナベツネは翼23年雑誌「胎動」に手記を発表している。次の一説がある。「政治とは多かれ少なかれ目的至上主義的要素を含む。だがこの目的至上主義こそ我々の最も憎むべき敵である。だからたとい終局において政治無き社会、真実の自由の王国が目指されても、そこに至る最短距離をとるべく如何なる手段を執ろうとも差し支えないという論理は成り立たない。プロセス自体が問題である。私は今ブルジョア的人道主義を持ち出して階級闘争に水をさそうとするのではない。美しい終局目標を振りかざすことによって不正と虚偽とを温存とようとする集団に対して抗議するのである」(「三一書房編集部編 資料戦後学生運動」)。

 「読売王国」の「渡辺恒雄という男」には次のような記述があるとのことである。「マルクシズムには人間の自由がないという認識から、組織と個人の関係はいかにあるべきかを考え、そこからいわゆる『主体性論争』が活発に行われるようになった」。


【東大新人会運動の渡辺ら処分される】
 1947年に開始されたナベツネらによる東大新人会の「再建」の流れは翌48年まで続く。しかし、次第に「再建新人会」の指導的幹部・ナベツネ、中村に対する嫌疑が渦巻いていくようになり、査問に付されている。47.11.15日、代々木の党本部で東大細胞談話会が開かれ、ナベツネの動きが批判されている。「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取り巻き罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問された」(「東大細胞解散に関する手記」)とある。しかし、これはれんだいこの読みであるが、ナベツネの黒幕に宮顕が位置していたとしたら、そんな査問は八百長デキレースにしかならない。

 11.30日、東大細胞全体会議が開かれ、新人会活動の動きを廻って右派系渡辺グループと左派系力石・沖浦グループが難詰応酬している。中村の査問問題を廻って遣り取りされたが、本質的には新人会運動を容認するのか潰すべきかの是非論であった。この時の宮顕の立場が胡散臭い。宮顕はこの時、党中央の統制委員会の責任者として出席している。凡庸な俗説は、宮顕をナベツネ査問側に見て取る見解を流布しているが、凡そ皮相的であろう。ナベツネ日記に、「(細胞全体会議の)帰途、宮本顕冶と赤門で談ず」とあるように、通謀関係にあると見るのが正しいと思われる。

 12.7日、東大細胞総会が開かれ、ナベツネ派問題が討議されている。「日本共産党決定・報告集」その他によると次のように議事が進行した。まず、ナベツネ派弾劾の脱党届が読み上げられている。渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、中村除名案に関しては投票にかけられ、「除名賛成・27、反対26、棄権3」で僅差で可決されている。

 除名反対派の意見は、「事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」見解であった。更に、「もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら、党や細胞のいろいろなことをバクロするという捨てぜりふを中村、渡辺が残したので、要するに後難をおそれた」とも記されている。

 まもなく青共本部の壁新聞に断罪状が張り出されている。これを見れば、罪状として概要「一、三田村四郎のような階級的裏切り分子から金をもらって活動していた。二、河野密(こうのみつ)等の追放された戦犯とも通じ金をもらっていた。三・党の文書等を本富士警察署に廻していた」とある。これが全て真実であるとするなら、紛う事亡きスパイ活動そのものではないか。

 12.16日、ナベツネの脱党から9日後のこの日、東大細胞に突如解散命令が下されている。これは、「共産党が戦後再出発して以来の最大の処分」(「第6回党大会統制委員会報告」)となった。「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」(1948.1.8日付アカハタ)という理由で、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。

 この判断責任者は宮顕と考えられる。凡庸な俗説は、宮顕を査問指示者として描き出しているが皮相的であろう。沖浦の回想で、「解散と聞いてびっくりしてね。ミヤケンのところに飛んで行った。そしたら『時間を待って復党とかの措置を決める』とこわい顔して言うてましたで。まぁ、見せしめという意味でしょうね」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)とある。

 この証言は貴重である。何ら必然の無い東大細胞に突如解散命令は、ナベツネ一派の「警察のスパイ疑惑」が高まり、これを究明すべきところをその芽を潰している。むしろナベツネ一派の救済の役目を果たした、と窺うのが相当ではなかろうか。これを奇禍として左派急進的に盛り上げを図るべきところを強権的に捻じ曲げている、と窺うのが相当ではなかろうか。沖浦氏の「まぁ、見せしめという意味でしょうね」的理解は、事の真相を何ら理解していないことになろう。

 当時の或る細胞は次のように回顧している。「私たちの間では思想的・路線的な食い違いだったのに、党本部が規律違反の問題にすりかえてしまった。意見の対立が起きたとき相手を排除するのでなく、オープンな実践の中でどちらが正しいか検証していくべきだった。結局細胞内の意思疎通が不足していたんですね。そういう意味では不幸な出来事だったと思っています」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。それは半分の真実であり、残りの半分はナベツネ一派のスパイ活動事件のウヤムヤ化ではなかったか。そのように受け取らない方が不自然であろうに、史実は宮顕の狙い通りに進む。

【アカハタのナベツネ除名記事について】
 1.6日付けアカハタは概要「二人は警察のスパイであり反革命分子」の烙印を押し追放した」(1984.1月号「文芸春秋」)。更に、1.8日付けアカハタは、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志と行いの統一もたもてない」を理由とする記事を載せている。

(私論.私見)「1.6日付けアカハタ記事」について

 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」に拠れば、該当記事の確認が取れないとのことである。これは、そもそも「1.6日付けアカハタ」に該当記事が無いのか、史実から巧妙に抹殺隠蔽されたのかのどちらかであろう。れんだいこは宮顕系の常習癖である不都合記事の史実隠蔽で消されたのではないのかと推定する。

 (前年の12.7日東大細胞総会の内容との絡みが良くわからないが次のように流布されている)

 1.30日、当時中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。この時の様子は、2.7日付けアカハタ(「日本共産党決定・報告集」・人民科学社)に発表されている。それによると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席上、ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められ」、「大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」

 こうして、大衆討議の結果、ナベツネ一派は放逐されたが後味の悪いものを残している。ナベツネは、「東大細胞解散に関する手記」の締め括りで、「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」と書き上げている。

(私論.私見)ナベツネ一派の放逐時の宮顕の対応について

 ここで押さえておくべきことは、このナベツネらの動きに陰に陽に宮顕が加担している形跡があるということである。この辺りの考証は今後の課題であろう。1.30日の細胞総会における宮顕の対応も氏らしからぬものがある。査問側として登場しているが、庇う働きをしているように見える。宮顕の一貫して「右派に優しく左派に厳しい態度」ないしは「本物のスパイを庇い、戦闘的翼の者をスパイ容疑で締め上げる」という習性がここでも確認できる。宮顕の党活動史上、ナベツネに見せる温情ぶりは他には東大細胞不破査問事件の時に見られるだけで、後は徹底した断罪手法を貫徹している。

 宮顕とナベツネの二人のその後の関係は地下水脈的に隠然と続けられていくことになるが、ここら辺りが始発となっている点で興味深い。


【その後のナベツネの学内での動き】
 東大細胞解散後は、沖浦、武井、力石、大久保の4名が細胞再結成運動へと取り組んでいくことになる。渡辺は脱党後いったん新人会を解散、翌年1月再発足させている。メンバーは東大YMCA代表の植木光教(後に三木内閣の総理府総務長官)、緑会(法学部自治会)委員長の有馬弘(後の新日鉄監査役)ら10名前後。氏家も遅れて参加している。「アンチカーペー(共産党)」の野合でもあり、沖浦、武井ラインと東大自治会の主導権を争っていくことになった。

 有馬の後に新人会系の緑会委員長を引き受けた玉井外茂は、往時を回顧して次のように述べている。「法学部が動けば全学部が動く。東大が動けば他の大学も動く。だから法学部自治会がカーペー(共産党)側に行かないよう奔走したんです。新人会は御用化したとよく批判されましたけど、それはワタツネや植木君らがやはりそういう作戦しかなかろうと考えてやったことです。僕らが学生課で打ち合わせするのを学生課長が聞いていて『うん、そうしてくり。そうしてくれ』と言う。だから新人会は御用商人みたいなもんです」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

 新人会は大学当局の全面的なバックアップを受けており、「権力と結託して政治的な権謀術数世界にはまり込む」原型がこの辺りに形成されていることが判明する。

 ナベツネの往時の回顧は次の通り。「東大では一時、共産党が完全に学生運動を牛耳って各学部をみんな動かして、フラクション活動に成功した。だから、本当に一人で百人は動かせるんだと分かった。百人で一万人が動かせる。そういう計算になるわけですよ。二百人居れば、東大二万人の学生を好きなように動かせる。それが共産党体験で得た最も役立つことだった」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

 1949.3月、東京大学文学部哲学科卒。

【ナベツネによるこの時代の回顧】
 ナベツネは、「1996.6.27日講演・これからのマスコミの在り方」で、この時代を次のように回顧している。
 「僕は学生運動やっていました。 正直に申し上げて僕は共産党員でありました。19歳で陸軍2等兵になって徴兵され、朝から晩まで天皇の名においてぶん殴られ、蹴飛ばされ、そして19歳で死に追いやられる99%俺は死ぬと思っていた。軍国少年にならずに絶えず反戦的な立場で、校長を殴るなど悪いこともした。そして共産主義というものに、内部で哲学的に疑問を抱きました。マルクス主義には哲学がない、倫理学がない、人間の価値というものを認めることができない、人格というものが説明できない。これは哲学ではない、さようなら。結局は脱党したら除名されたんですけれども。除名された理由は警察のスパイだということでした。僕は警察になんの御用もなかったんだけれども、その理由がしゃくにさわったから、今度は反共に変わったんです。

 そういう学生運動をやっているうちにいろんな人に会って、いろんな意見を聞いたんです。僕は哲学科専攻であったけれども、哲学的な概論、学問や実学をいろいろ勉強したから、いろんな方面に興味を持って来ました。大学を出るまでは僕は哲学専攻ですから哲学書以外は読まない。文学書も高等学校まで。新聞社に入ってから特に政治史、政治学、経済学、財政学等は全部大学出てから勉強したからね。自分の仕事は全部独学ですよ。誰にも教わったことはない。僕は哲学だけしか人に教わったことはないんですから。哲学っていうものは人に教わるものではないんで、これはまさに対話の中からということも言えるけれどもとにかく本を自分で読む以外ないんですからね。特に哲学っていうものはギリシャ語とラテン語とドイツ語がわからなきゃ、翻訳だけじゃ絶対だめなんですよ。これは時間がかかるんです。だから僕は大学にさよならするのをなるべく延ばしてよかったと思っています。

 すべて僕は悔いはないという、いい青春を送った。肉体的に物理的にどん底です。 喰う飯はなく栄養失調すれすれ、進駐軍は悪いことばっかりしていた。そういう一番悪い時代だけれども精神的には一番充実した時代ですよね。緊張感もあったし」。


【ナベツネ読売新聞社に入社】
 1950.9月、「レッド・パージ」の吹き荒れる最中、読売新聞社に入社。面接試験でマルクス主義批判を展開したのが奏効した。ナベツネの誘いで、半年遅れの1951.4月、氏家齋一郎が入社。かくて、ナベツネは、「東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友」氏家を配下に持つことになる。この二人の連れション街道が興味深い。

 ナベツネは読売ウィークリー編集部に配置され、機動的な取材に明け暮れることになる。「山村工作隊潜入レポ」でスクープを取る。但し、社会部との軋轢が開始されることになる。

 1952.7月、「山村工作隊潜入レポ」記事が評価されて政治部入りとなる。ナベツネが政治部入りして手掛けた最初の仕事は鳩山家への取り入りであった。

 1954.3月、宇都宮徳馬夫妻の媒酌で篤子と結婚。

 1954.12月、鳩山政権が誕生すると、自由党総務会長・大野伴睦の番記者になった。ポスト鳩山を廻っての政争の最中、大野と行動を共にすることで正解人脈を広げていった。

 
1955.2月、読売新聞社主・正力松太郎が衆院選に初当選。

【ナベツネ―中曽根―児玉同盟結成される】
 1956年、総裁選の最中、読売新聞社主兼代議士でもあった正力松太郎を介して中曽根康弘と出会う。一時、政権取りを目指した正力が、正力のシンパであった中曽根とナベツネを懐に抱えようとしたことによる。ナベツネは犬猿の仲であった大野と中曽根の手打ちをお膳立てしている。

 1958.4月、次期FXの機種選定で、グラマン機に決定とのスクープをものにしている。この頃、防衛庁にFX問題が発生している。1958.4月、防衛庁担当を兼ねていたナベツネがFX問題で一面トップのトクダネをものにしている。防衛庁がFXに米国グラマン社のF11F1F(通称スーパータイガー)を採用することを内定し、近く開かれる国防会議で正式決定されることになっていた。これをスクープした。

 国防会議は筋書き通りにF11FをFXに内定し、秋にも日米両国間で正式調印の見通しとなった。これを政界のフィクサー児玉がひっくり返す。児玉はグラマンのライバル会社ロッキード社のエージェントとなっており、河野を使って岸や防衛庁に機種選定の再検討を働きかける。続いて「政界のマッチポンプ」と云われた衆院決算委員長の田中彰冶(河野派)を使って決算委員会で「グラマン汚職」を追求させる。岸や幹事長の川島正次郎がグラマン社から巨額の賄賂(リベート)を受け取った疑いがあると騒いだ。たまりかねた政府はグラマンの内定を白紙決定。改めて、ロッキード派と云われた空幕長の源田実らを調査団として派遣し、その報告を受けた形で翌59.11月、FXをロッキード社製F104Cに逆転決定した。全ては児玉が描いた筋書きで、ナベツネがこれを読売新聞を使って援護射撃した形になっている。

 7月、始めての著作「派閥ー保守党の解剖」を弘文堂から出版している。続いて翌年の2月には2冊目となる「大臣」を同じく弘文堂から出版している。

 1959.2月、岸、大野の「誓約書」の取材で児玉誉士夫邸を初訪問。ちなみに、「中曽根は、児玉を先生と呼んで私淑していた関係にあった」。

 ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に次のように記している。

 「この頃は河野(一郎)派の若侍だった中曽根と渡辺、それに渡辺とは東京高校〜東大日共細胞〜読売と肩を並べて歩んできた親友の氏家(齋一郎)の三人は明らかに、地下帝国の帝王として保守政治の裏側を操っていた児玉軍団のいわば準構成員として働いていたのである」。

 つまり、児玉軍団のいわば準構成員として「中曽根−ナベツネ−氏家」連合が形成されていたことになる。


【ナベツネが政界経済界に暗躍】
 1959.6.18日、中曽根は科学技術庁長官の座を射止める。この頃毎週土曜日、ナベツネと中曽根の読書会が続いている。メンバーには産経新聞の福本邦雄(戦前一世を風靡した共産党の理論的指導者・福本和夫の息子で戦後の党運動からの転向組)、読売新聞経済部の氏家、後に小林克己(戦後の党運動からの転向組みで、当時参院事務局勤務)も加わっている。主として憲法改正試案の作成と米国流政権取りの研究。その他週一のペースで料亭「松山」で財界人を招いての懇親会を開いている。中曽根の人脈や資金源を広げることになった。「大臣」を出版。

 1959年、福本は岸内閣の官房長官・椎名悦三郎の秘書官となる。その縁で、中曽根は岸−椎名ラインに食い込むことになる。

 1960.7.13日のポスト岸の跡目争いで、ナベツネは大野派の参謀格として立ち働く。結果的に敗戦したが、大野のナベツネに対する信頼は更に強まった。新総裁就任の件で、伊藤昌哉を通じて池田隼人と面談する。


 1961年、「党首と政党ーそのリーダーシップの研究」を出版。

 1962(昭和37)年、ナベツネは中曽根と共訳の「政界入門−現代アメリカの政治技術」を弘文堂から出版。

 1962.5月頃、児玉の紹介でKCIAのさい英沢と赤坂の料亭で会合。10.22日、KCIA部長・金*泌が大野と秘密会談。11.12日、金*泌が大平外相と会談。極秘メモ「金・大平メモ」が作成される。11.13日、「大野伴睦訪韓」の特ダネをスクープし一面に掲載される。12.9日、児玉が訪韓。12.10日、日韓条約交渉政府特使として訪韓する大野に同行。12.15日、「金・大平メモ」をすっぱ抜く。

 1963.1月、大蔵省、大手町の国有地を読売に払い下げする方針を省議決定。
 1964.5.29日、大野伴睦が心筋梗塞で死去。
 1964.11.9日、池田が後継総裁に佐藤栄作を指名。

【ナベツネの「九頭竜ダム補償問題事件」との関わり】
 1964.12月初旬、緒方克行が九頭竜ダム補償問題で児玉に調停依頼。12.27日、氏家斉一郎と共に児玉邸で緒方克行と会う。これが「ナベツネの九頭竜ダム疑惑」に繋がる。1964.12月初旬、九頭竜ダム建設で水没することになった鉱山経営者・緒方克行は補償交渉の調停人として児玉の元を訪ねる。この時、児玉は、「内容も理解できたので、何とか調停して差し上げましょう。既にこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根さんを中心として読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます。ま、暫くは成り行きを見ていてください」。

 12.27日、緒方は児玉邸で渡辺と氏家に引き合わせられる。この時、事前運動費として1千万円(当時の金額を今換算すれば1億円相当)を児玉に差し出している。しかし、働きかけは成功せず、後日1965.7.25日運動費も返還されている。妙な事件である。


 ジャーナリストの高野孟氏が「別冊宝島72 ザ・新聞」に、「社会部の事件記者たちが、たとえば九頭竜ダムの汚職事件を突っ込んでいくと、児玉(誉士夫)と並んで自社の渡辺の名前が出てきてしまうのだから、これでは取材にはならない」と指摘している。

 石川達三の「金環蝕」の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。

【ナベツネの「日韓基本条約締結」との関わり】
 1965.6.22日、日韓基本条約及び4協定が締結された。その舞台裏で児玉とナベツネが動いている。(概要、略)

 この時、植民地支配の賠償として日本から韓国に支払われた巨額の賠償金の利用を廻って癒着が発生し、日韓政財界に賠償利権ビジネスを生み出している。元関東軍作戦参謀にして伊藤忠商事取締役・瀬島龍三が暗躍している。


社会部との抗争
 1965.7.8日、河野一郎が急死。
 1965.8.1日、正力の娘婿・小林與三次が主筆兼論説委員長(役員待遇)として入社。

 その後、社会部との抗争を繰り広げる。ナベツネの急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質に根本的な変革をきたすものだった。

 1966年夏、佐藤首相が読売に決まりかけていた国有地払い下げを白紙撤回宣言。ナベツネは氏家と共に国有地獲得工作に奔走。

 12.22日、務台光雄が本部長会議の席上で、佐藤首相批判の大演説。それを受けてナベツネが反佐藤キャンペーン記事を執筆。翌年7月頃、佐藤首相は読売への払い下げを決断。

 1967.11月、中曽根が第2次佐藤内閣で運輸相に。

政治部の戸川猪佐武との抗争
 政治部の戸川猪佐武との抗争。

【ナベツネの人心掌握術
 元読売新聞社会部記者・前沢氏の著「渡辺恒雄 メディアと権力」は次のように記している。
 「渡辺氏は人を全て派閥次元でみる。社員は全て『味方』でなければ『敵』であるべきだ。(中略)人心掌握術の一つは、本人のいないところで、多人数を前にして声高になじることだ。それがどのようなルートで本人に伝わり、そして当人がそれにどう反応するかを観察し、それによって、敵か味方かより分ける。公然と非難された当人は、速やかに陳謝に訪れ、他人の目を憚ることなく渡辺氏に平身低頭し、時には罵倒されることも厭わない。渡辺氏の軍門に下れば、社内人事でも、退職後の再就職でも優遇される。しかし、その反面、絶対服従を強いられ、反論は許されない」。

【ナベツネワシントン支局へ転出】
 1968.9月、大蔵省との間で国有地売買契約を締結。その6日後、ワシントン支局赴任のため、渡米。ジャーナリストの高野孟氏は「別冊宝島72 ザ・新聞」に「『あんなのを政治部長にしたら大変だ。児玉に読売を乗っ取られる』という社会部の圧力があって、ワシントンに支局長に出されることになる」との裏事情があったと記している。

 1969.10.9日、社主・正力松太郎が冠不全で死去(享年84歳)。1970.5月、務台光雄が社長に就任。小林與三次は日本テレビ社長に。

【ナベツネワシントン支局から凱旋】
 1972(昭和47).1月、ナベツネがワシントン支局の任務を終え帰国。2年の約束が3年余に延びての帰国であった。編集局参与になる。

 11月、解説部長に昇格。

 1973(昭和48)年、「ウォーターゲート事件の背景」を出版。

 1975.6.26日、ワシントンより帰国後3年目にして政治部長兼編集局次長の座に登る(「読売政変」)。
 概要「ワシントン支局から帰国して僅か3年目で編集局次長兼政治部長の座に昇りつめ、経済部長になった氏家、外報部長になった水上と『反社会部連合』を組む」。


【ロッキード事件勃発】
 1976(昭和51).2.4日、ロッキード事件勃発。事件の黒幕として児玉誉士夫が逮捕され、繋がりの深い中曽根も窮地に陥る。児玉、中曽根と実懇のナベツネにも疑惑が向かい、「強きの渡辺も一時は辞表をだすことまで覚悟」(高野孟氏の「別冊宝島72 ザ・新聞」)とある。

九頭竜ダム補償事件告発本が出版され、ナベツネ窮地に陥る

 「児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた苦境の最中」、1976年、「権力の陰謀」(現代史出版会)が出版され、九頭竜ダム補償事件の当事者緒方克行が事件を告発した。((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり

 事件は次のように暴露されていた。緒方は、「政界の黒幕として名高い児玉誉士夫氏を訪ねた」。児玉の返事は、「何とか調停してみましょう。すでにこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根(康弘)さんを中心として、読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます」というものであり、運動費は一千万円請求された。緒方は一週間かかって一千万円を調達し、児玉邸に届けるが、その時には、「二人の記者も呼ばれていた」。結局、この調停は成立せず、児玉、中曽根、渡辺、氏家の同席の場で、一千万円は返却された。これを、「週刊朝日」(1976.3.26)が「ロッキード旋風の中で、『権力と陰謀』という本が話題を呼んでいる」という囲み付きのリードで紹介した。

 これほどの事件への怪しげな関係を暴露されながら、なぜナベツネと氏家は、読売にとどまることができたのか。新聞記者が、この種の、取材とは直接の範囲をはみ出た関係を結ぶことを、新聞業界では、「社外活動」と呼んでいる。暴露された場合には、社の名誉にかかわる不都合な故に、読売の場合でも、元読売社会部の敏腕記者・三田和夫、遠藤美佐雄が、取材の延長線上で犯した「社外活動」の責任を取って退社している。

 ナベツネと氏家が行なった「社外活動」は、その二人の先輩記者の例に比べれば、はるかに重く、犯罪的といえる性質のものだった。ところがこのとき、ナベツネは、いささかの反省の弁をも述べようともせず、逆に、居直った。「時が時だけに、彼は苦しい立場に置かれた。『渡辺が辞表を出した』という噂も社内外に広がった。彼は、毎日、デスクに座って政治部中をにらみつけていたという。“われ健在なり”と誇示するためだろうか」(「現代」、80・9)とある。

 「いわゆる『ケツまくり』である。ドスを地面に突き立てて、もろ肌脱ぎ、『さあ、殺すなら殺せ!』という感じである。『まるでヤクザ』どころか、ヤクザが顔負けするほどのパフォーマンスぶりではないだろうか。この時期の状況については、各誌に種々な風評が載っている。同じ読売でも、伝統を誇る社会部帝国の記者たちは、二人の社外活動と居直りに対しての厳しい批判を隠さなかったようである。その時の積もる恨みが、渡辺が主流に踊り出てからの、報復人事となって表われたという説もあるほどだ」。

 ナベツネ自身は、さまざまな場で、事実関係についての弁明を試みている。週刊読売(76・4・3)では「“魔女狩り”的報道に答える」と題して、自筆の弁明をしている。「その後著名になった会社調停工作事件のような話は聞いたことがない」とか、「調停工作スタッフ」とされたことを「我々にとって許せぬ侮辱だから、同書の出版社に抗議中だ」などと、しきりに息巻いている。しかし、実際には口先だけで、裁判に訴えてもいない。

 「“魔女狩り”的報道に答える」では、「児玉は、一般的会食などの際、突然見知らぬ人を連れてくることが、一、二度あった」とし、「権力の陰謀」の著者を「突然短時間、紹介されたのではないかと思う」と漠然とさせ、「私は、電発も通産省も知らぬので、経済部の氏家記者に調査を頼んだが、中曽根代議士を本件で補佐したこともない。氏家記者の話では、この“被害者”の言い分はかなり誇張されており、ニュース価値もないし、政治家や新聞記者などが介入すべきものではなく、民事訴訟で損害賠償を要求すべき筋のものだ、とのことだった。児玉にも、その旨告げて、以来何らの協力もしなかった」と述べている。

 週刊新潮(76・4・1)では、「その間、金銭の授受があったことも知らなかった。ボクも児玉に利用されたんだ」という弁解を組み立てている。

 とはいえ、ナベツネはこの苦境を乗り切った。この経過にはナベツネの背後に潜む闇権力の庇護があったことは容易に理解できるところであろう。


【ナベツネがピンチをチャンスでのし上がる】
 1976.12月、三木首相退陣、福田内閣発足。
 1976.10月、鬼頭史朗判事補のニセ電話事件をスクープ。
 1977.2月、720万部で朝日を抜き発行部数日本一を達成。
 1977.7月、編集局総務(局長待遇)に。

 1978.10月、務台社長が心臓発作で倒れる。12月に再起不能説を覆し出社するも既に往年の指導力発揮できずの事態となる。

ナベツネがプロ野球界に手を染める
 1978.11月、52歳のとき、プロ野球界を揺るがした「江川入団事件(空白の一日事件)」が起きる。ナベツネは、阪神から江川の代償として指名された小林繁の説得に当たり、これがプロ野球問題に関わる最初の仕事となった。

【ナベツネ論説委員長になり、右派系論調形成に乗り出す】
 1979.6月、ナベツネは取締役・論説委員長に就任する。以降、社説はナベツネ式に統制され右傾化論調を定式化する。

 「小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である」((13−5)最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり)。


 1980.6月、常務取締役・論説委員長。
 10月、長島茂雄が巨人軍監督を解任される。
 1981.6月、務台に代わり日本テレビから復帰した小林與三次が社長就任。
 1982.4.22日、会長・務台が、役員会の席上で、「社内の重大危機」と長演説をぶつ。5.14日広告局長・氏家が日本テレビ副社長に転出。
 11月、ナベツネが日本テレビの政治座談会で司会者を罵る。

【中曽根政権誕生】
 1982.11月、中曽根が総裁予備選で勝利、首相に就任する。この時、ナベツネは「私が首相を作った」と公言している。これにつき「顰蹙をかった」と評する向きがあるが、そうではなかろう。事実、「ナベツネが中曽根政権を作った」。以降、ナベツネは中曽根首相のブレーンとして政界に対する発言力を増していくことになる。

 「この四半世紀、渡辺と二人三脚で政界の荒波を潜り抜けてきた盟友が遂に権力の頂点を極めたのである。もう怖いものは何も無い、そんな心境に渡辺はなったのだろう。この頃から傍若無人と言われても仕方ない行動が目立ちはじめる」(「渡辺恒雄 メディアと権力」)。


ナベツネの我が世の春時代】
 1983.1月、中川一郎が札幌のホテルで自殺態で発見される。
 1983.2月頃、鈴木宗男の衆院選立候補阻止のため画策する。
 1983.5月、専務取締役・論説委員長。
 1983.10.12日、ロッキード裁判で田中元首相に実刑判決。
 1984.1月、ナベツネ執筆の社説「平和・自由・人権への現代的課題/日本の役割と新聞の使命を考える」掲載。ナベツネは、この社説で、明確に右より路線を打ち出した。
 1984.1.26日、中曽根首相が、「戦後政治の総決算」を表明。
 1985.5月、氏家、日本テレビ副社長を解任される。
 1985.6月、専務取締役・主筆兼論説委員長。
 1986.12月、「よみうり寸評」の中曽根批判記事が差し替えられる。
 1987.1月、大阪読売の社会部長・黒田清が退社。

 1987.6月、専務から筆頭副社長・主筆へ就任。11月丸山福社長が退社。
 1989(昭和64).2月、小林社長が脳出血で倒れる。

【ナベツネ読売新聞社長に就任】
 1990(平成2).4.30日、務台光雄氏が死去(享年94歳)。5.2日ナベツネが代表取締役副社長・主筆に就任。小林は会長に。水上達也が代表取締役副社長に就任。
 7月販売店会議で「1千万部達成」の大号令をかける。
 1991(平成3).5月、読売新聞社の代表取締役・社長・主筆に就任。同時にプロ野球巨人軍の親会社・読売興業の取締役になり、球団運営にも積極的に口出しするようになる。
 1991.6月、氏家、日本テレビ副社長へ復帰。11月、社長就任。

 1991.12月、ナベツネは、プロ野球のフリーエージェント制を主張し、「通らないなら新リーグの結成に向う」と発言する。

 1993.3月、67歳のとき、プロ野球のドラフト制度の撤廃を主張。セイプ・堤オーナーとタッグを組み、1リーグ制に向けて画策する。

 1993.10月、フリーエージェント制とドラフトでの大学・社会人の1・2位指名選手に限り逆指名制度導入。

憲法改正試案を紙面に発表
 1993(平成6).11.3日、「読売新聞・憲法改正試案」を紙面に発表。

 1994.1月、68歳のとき、1リーグ制に対し、セ・リーグ側から強硬な反対が起こり、早期実現を断念する。12月、川淵三郎チェアマンのJリーグ運営を批判し、「独裁者だ」批判で注目を集める。


【野球の読売巨人のオーナーに就任
 1996.12月、70歳のとき、野球の読売巨人のオーナーに就任(2004.8.13日、巨人軍オーナーを辞任)、正力亨前々オーナーを名誉オーナーに据える。。改めて1リーグ制とドラフト撤廃を主張する。以来、8年間にわたり、球界のドンに収まる。

 1997.10月、71歳のとき、メジャー息を希望する桑田に「俺が肩代わりしている借金はどうするんだ」と17億という金額を示して痛烈批判。


【日本新聞協会編集委員会が「ネットワーク上の著作権に関する協会見解」を発表】
 日本新聞協会編集委員会が、「ネットワーク上の著作権について―新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に」として「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解なるものを発表している。

 1998.2月、72歳のとき、前立腺がんで入院。


日本新聞協会会長に就任
 1998.6月、日本新聞協会会長に就任。

中央公論買収
 1999.2月、73歳のとき、読売新聞社は、113年の歴史を誇る老舗出版社・中央公論社を傘下に入れている。この交渉は、看板雑誌「中央公論」の編集長でさえ直前まで知らされていなかったほど極秘裏に進められた。同社幹部によれば、「今年の5月、嶋中雅子会長(兼社長)と読売の渡辺恒雄社長が会談を持ち、“読売による支援”という基本方針がトップ同士で確認され、夏頃今回の形に決まった」という。非常版役員に就任。

 読売新聞社は「This is 読売」という月刊オピニオン雑誌を発行していたが、これを廃刊にして「中央公論」を存続させることにした。しかし、名前こそ「中央公論」を継承したものの、その内容は大きく改変されていくことになった。

 1999.11月、五輪へのプロ派遣に積極的な西武を批判。球界から出て行けと発言。

 2000年、74歳のとき、契約更改時の代理人制度が導入される。ナベツネは断固反対の姿勢を示す。


【横審委員長を辞任】
 2001.1月、75歳のとき、ナベツネが横綱審議委員会委員長に就任。

 2001.11月、ニッポン放送が横浜の筆頭株主になる動きを阻止。その結果、横浜の親会社はTBSになった。ドラフトで自由獲得枠制度が導入される。

 2002.11月、76歳のとき、消費者金融会社とスポンサー契約を結んだ近鉄に対し、「そういう球団は潰れる」と批判。


【横審委員長を辞任】
 2003.1.27日、この日、渡辺恒雄・読売新聞グループ本社社長が横綱審議委員会の委員長を辞任した。以前から辞任の意向を示していた。委員は留任する。この日あった横審の席上で了承され、互選で後任に石橋義夫委員(共立女子学園理事長)を選出した。また委員長代行を置くことも決まり、海老沢勝二委員(NHK会長)が選ばれた。

 2003.7月、77歳のとき、パ・リーグが導入を決めたプレーオフ制度を批判。巨人が優勝した場合はボイコットも示唆。


読売新聞グループ本社会長に就任

 2004.1月、78歳のとき、ナベツネが読売新聞グループ本社会長に就任。


 2004年、近鉄の命名権売却に反発。

 2004.6月、近鉄のオリックスへの吸収合併が発表され、1リーグ制実現に向け、再度動き出す。

 2004.7月、性急な1リーグ制移行案に異を唱える古田選手会会長に対し、「無礼だ。たかが選手が」と発言し、世間から猛反発を受ける。


読売巨人軍オーナーを辞任】(「政治権力とスポーツ界」、「ナベツネのダイエー球団消滅策動考」参照)

 2004.8.13日、読売巨人軍は13日、臨時株主総会と同取締役会を開き、ドラフト候補選手へのスカウト活動でルール違反の裏金誘引行為があったとして、吉田部長の編成部長職、土井誠代表取締役社長、三山秀昭常務取締役球団代表、高山鋼市取締役球団副代表の3名の解任、渡辺恒雄取締役オーナーの辞任を発表した。新オーナーには滝鼻卓雄・読売新聞東京本社代表取締役社長が現職のまま就いた。

 8.14日付け読売新聞は、渡辺恒雄氏の次のようなコメントを発表した。「このような不祥事を起こしたことはきわめて遺憾であり、野球ファン、関係者の皆さまに深くおわびします。多くの関係者がプロ野球をどう発展させるかを真剣に議論している重大な時期に、球界の将来をどうするかとは別の問題であるとはいえ、ルール違反を犯した責任は重く、球団幹部を厳しく処分するよう指示しました。自らの道義的な責任も痛感しており、読売巨人軍の取締役およびオーナーを辞任しました。プロ野球の神髄がフェアなスポーツマンシップに依拠していることを巨人軍は十分承知しており、自ら公表して襟を正すこととしました。今回の事態を深く反省し、野球ファンの皆さまのご理解を得たうえで、新たな決意をもって真摯(しんし)に野球の発展に力を注いでいく所存です」。

 このコメントには次のような事情がある。2004.7.7日、来季からの1リーグ制を廻る球界再編問題に関するオーナー会議が開かれた。翌日、日本プロ野球選手会の古田敦也会長(ヤクルト)が、同前オーナーとの面会を求めていることを報道陣から伝えられ「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」と発言した。この「たかが選手」発言は選手や野球ファンにさまざまな反発や波紋を呼んだ。その波紋の一つは、読売新聞の不買運動の始まりであった。

 近鉄、オリックス両球団は10日に合併合意書に調印した。一方で労組・日本プロ野球選手会は98%の高率でスト権を確立し、伝家の宝刀・ストライキの行使を真剣に考え始めた。このままでは利害や主張の対立が平行線をたどり、プロ野球が空中分解する危険性も見えてきた。プロ野球の再編問題は、渡辺前オーナーがオーナー会議議長として期日を定めた9月8日の次回会議を最終期限に、さまざまな動きが進んでいる。

(私論.私見) 「ナベツネの突然のオーナー辞意表明」について

 以上から推測するのに、「渡辺オーナーの突然辞任の背景事情」は、@・一般ファンからの批判をかわす狙い、A・「渡辺院政」の宣言、そのどちらかであろう。れんだいこは、B・老齢からくる悪行の根気負け、と見る。それは一つの時代の終わりであろう。

【読売巨人軍代表取締役会長に就任】
 2005.6.23日、ナベツネが、読売巨人軍の株主総会と取締役会で代表取締役会長に就任した。引責辞任からわずか10カ月。

【ナベツネの戦前軍部批判考】
 奇っ怪ニッポン」より、長野県知事・田中康夫氏の傾聴に値する渡邉恒雄氏の発言」(2005.7.28日掲載)を転載する。
 東西統一後の初代ドイツ連邦共和国大統領として知られるリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、「荒れ野の40年」と題する演説を、ドイツ敗戦40周年の1985年に行っています。

 過去を克服し得る営為など存在し得ず。然(しか)れど過去に目を瞑(つむ)る者は現在にも盲目となる。心に刻み続ける事こそは重要で、自由を尊重し、公正を拠り所とすべき。

 斯(か)くなる政治家の科白を冷笑する事は簡単です。成る程、相方として首相を務めたヘルムート・コールは汎ゲルマン主義を掲げ、その台頭や暴走を制御する意味でもEUは必要である、と英仏は考えたのですから。

 とは言え、ユダヤ人に留まらず、同性愛者や障害者、トルコ人や黒人、更にはアメリカ人や保守主義者に対しても、敵意や憎悪の念が生まれぬ様、真実を直視し続けねば、と語ったヴァイツゼッカーは、以下の興味深い指摘も行っています。

 何故(なぜ)、10年、25年、50年でなく、敗戦40年に式典を執り行うのか。それは、10年を1世代とする人類にとって40年とは、当時の情況や体験を語り尽くせる人々が数少なくなるに“充分”な程に長い歳月であるからだ。であればこそ40年目の今、私達は心に刻み続けねば、と。翻って、創立10周年、25周年、50周年の語呂合わせ的“節目”を好み、過去のみならず現在をも隠蔽し勝ちな日本では、その40年から更に20年が経過した戦後60年の国会決議の文面から、「植民地支配」や「侵略的行為」の文言が削除されようとしています。

 では、以下は、何処(どこ)の平和主義者が行った発言でありましょうか?
 「安倍晋三に会った時、こう言った。『貴方と僕とでは全く相容れない問題が有る。靖国参拝がそれだ』と。みんな軍隊の事を知らないからさ。それに勝つ見込み無しに開戦し、敗戦必至となっても本土決戦を決定し、無数の国民を死に至らしめた軍と政治家の責任は否めない。あの軍というそのもののね、野蛮さ、暴虐さを許せない」
 「僕は軍隊に入ってから、毎朝毎晩ぶん殴られ、蹴飛ばされ。理由なんて何も無くて、皮のスリッパでダーン、バーンと頬をひっぱたいた。連隊長が連隊全員を集めて立たせて、そこで、私的制裁は軍は禁止しておる。しかし、公的制裁はいいのだ、どんどん公的制裁をしろ、と演説する。公的制裁の名の下にボコボコやる」
 「この間、僕は政治家達に話したけど、NHKラジオで特攻隊の番組をやった。兵士は明日、行くぞと。その前の晩に録音したもので、みんな号泣ですよ。うわーっと泣いて。戦時中、よくこんな録音を放送出来たと思う。勇んでいって、靖国で会いましょうなんか信じられているけれど、殆(ほとん)どウソです。だから、僕はそういう焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無いと考えている。犠牲になった兵士は別だ。これは社の会議でも絶えず言ってます。君達は判らんかも知れんが、オレはそういう体験をしたので許せないんだ」

 これらは驚く勿(なか)れ、改憲を掲げる讀賣新聞社の渡邉恒雄氏が、田原総一朗氏責任編集の雑誌「オフレコ!」創刊号で発言した内容です。歴史を実体験した者の科白は、立場を超えて傾聴に値するのだとの感懐を僕は抱きました。【田中康夫】

(私論.私見) ナベツネの戦前軍部批判について

 上述のようなナベツネの戦前軍部批判について、「奇怪」とか「騙されたと思って最後まで読んでみて!」とか、「ホント、後半、信じられないくらい興味深いよぉ。まぁ〜読んでみて!!」の評が為されている。しかし、れんだいこは、ちっとも好評するに値しない。なぜ、こういう評価の違いがでるのだろうか。

 思うに、戦後タカ派つまり現代ネオシオニズム系タカ派の実態を正確に把握していないところから、「ナベツネの戦前軍部批判」を好評価する痴愚ぶりが生まれるのではなかろうか。現代ネオシオニズム系タカ派は、戦前の軍部系タカ派とは断絶しており、戦後のシオニズム系反戦平和論にシフトしている。故に、西欧シオニストがナチス批判する視線に合わせて、アジアシオニストは戦前の軍部批判する。ここには何ら不思議はない。

 つまり、「ナベツネの戦前軍部批判」を好評価する手合いは、現代日本の支配層が戦前の支配層と同系譜に有るものと誤解しているのではなかろうか。そういう観点では、大東亜戦争反戦の重みも、マルキシズム的反戦平和論とシオニズムのそれとの差異さえ分からず、左翼風シオニズム反戦平和論で丸め込まれていることに気付いていないということになる。

 実際、こういう手合いが多くて困る。南京大虐殺事件、ホロコーストを声高に叫べば叫ぶほど左派だと勘違いしている者が後を絶たない。これでは現代史の位相が少しも見えてこないだろう。

 2005.8.30日 れんだいこ拝


 「阿修羅戦争版73」の木村愛二氏の2005.9.3日付け投稿「答え:読売新聞の独裁者・渡辺恒雄はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり」を転載しておく。

 下の方で、この両者の関係に疑問が出ていたので、答える。

 読売新聞の独裁者、渡辺恒雄は、フィクサー児玉誉士夫の小姓上がりである。
以下は、拙著『読売新聞・歴史検証』の関係箇所抜粋である。
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-13-5.html

 『読売新聞・歴史検証』 最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり

 読売の現社長、ナベツネこと渡辺恒雄は、小林が読売の副社長に転じた時期には、まだ政治部次長だった。それ以後の渡辺の急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質にも、根本的な変革をきたすものだった。

 務台が会長として存命中には、務台会長と小林社長の主導権争いが噂になったりした。渡辺は、二人の間を上手に泳いでいると伝えられた。だが、大筋としては、渡辺を引き上げたのは小林だといえるであろう。

 ところが驚いたことには、渡辺が社長になってから編纂した『読売新聞百二十年史』には、「小林社長時代」の章がないのだ。務台が社長から会長の時代を「大手町時代」とし、その中に、たった一頁だけ、「務台・小林体制」を記すという構成になっている。その一方で、自分の社長就任以来の経過には、「一千万部の巨歩」と題する第五章に一一八頁も割いている。そこには、「社論の確立」などという時代錯誤な、いきがりの文章が溢れかえっている。『読売新聞百二十年史』が発表された時期には、小林は二度の脳梗塞の発作を経ていた。渡辺が小林を窓際扱いにしているという噂は高かったが、この最新の社史を見れば、その冷淡さは明瞭である。まさに『新王朝史』の構成である。

 小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である。

 すでに紹介済みの元読売社会部記者、三田和夫の『正力松太郎の死後にくるもの』には、「小林副社長“モウベン”中」という項目があった。小林は、正力の存命中に読売で、渡辺ら「若手」を集めて「勉強会」を開いていたというのだ。現日本テレビ社長の氏家斉一郎も、この「勉強会」の定例メンバーだったが、当時は経済部次長だった。

 小林はいったい、どのような魂胆で、渡辺と氏家を「勉強会」に引き入れたのだろうか。

 当時の読売では、販売を中心とする業務部門に務台、編集部門に読売伝統の「社会部帝国」出身の原四郎という、強力な実力者による住み分けが定着していた。その上の社長が空位でワンマン社主、正力が超然と君臨していたのである。

 自治省事務次官として国会答弁に立ったこともある小林のことだから、読売の政治部記者とは当時から面識があったに違いない。小林が、読売の編集部では二流の地位にあった政治部や経済部の記者を味方に引き入れようとしたのは、自然の成り行きだったのかもしれない。だが、よりにもよって渡辺と氏家の二人を重用したというのは、考えられる限りでの最悪の選択であった。

 かれら二人の読売記者の名前が、初めて世間に取り沙汰されるようになったのは、悪名高いフィクサー児玉誉士夫との怪しげな関係によってであった。かれら二人と児玉は、さらに、これもやはり悪名高い元「青年将校」こと中曽根康弘と結びついていた。新聞記者、フィクサー、政治家のトライアングルである。この典型的な政界の黒幕マシーンは、かなり前から続いていたようである。

 具体的な暴露のきっかけとなったのは、うやむやのままに葬られた政界疑獄、九頭竜(くずりゅう)ダム事件である。この事件は、一九六五年からの国会審議に登場している。石川達三の『金環蝕』の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。

 政界の表舞台では、“マッチ・ポンプ”の異名を取った衆議院議員の田中彰治が暗躍した。陰には、十五年の人生を賭けた被害者がいた。水底に没する鉱山の経営者、緒方克行は、補償問題の調整を依頼するたびに、政界の黒い霧に包まれる。一九七六年に出版された『権力の陰謀』(現代史出版会)は、その緒方の告発の記録である。

 この出版のタイミングが、また、偶然にしては絶妙すぎた。児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた最中だったのである。しかも、「ロッキード旋風の中で、『権力と陰謀』という本が話題を呼んでいる」という囲み付きのリードで最初に書き立てたのが、競争相手の朝日が出版する『週刊朝日』(76・3・26)だったから、なおさらに世間は耳をそば立てた。

 緒方は、「政界の黒幕として名高い児玉誉士夫氏を訪ねた」。児玉の返事は、「何とか調停してみましょう。すでにこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根(康弘)さんを中心として、読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます」というものであり、運動費は一千万円請求された。緒方は一週間かかって一千万円を調達し、児玉邸に届けるが、その時には、「二人の記者も呼ばれていた」。結局、この調停は成立せず、児玉、中曽根、渡辺、氏家の同席の場で、一千万円は返却された。

 調停が成立しなかった背景には、中曽根の親分だった河野一郎の急死という事情もからんでいたのではないかと推測されている。さきの『週刊朝日』では、つぎのように追い討ちを掛けていた。

 「調停が成功しなかったからと、預かった一千万円をそっくり返すあたりは、なかなかのものだが、児玉が急に手を引いた裏に、何か、“取り引き”めいたものがなかったかどうか」

 九頭竜ダム事件は、当時のメディア報道をにぎわした。かなりドギツイ、中心的な政治疑獄事件であった。問題のダム工事の「不正入札」には、時の首相池田勇人の政治資金調達がからんでいた。政界紙『マスコミ』には、「中部電力の九頭竜ダムの建設業者指名をめぐって建設業者が池田内閣に巨額の政治献金を行った」という趣旨の暴露記事が発表されていた。

 これほどの事件への怪しげな関係を暴露されながら、なぜ渡辺と氏家は、読売にとどまることができたのだろうか。この状態は、実は、かなりの異常現象なのである。

 新聞記者が、この種の、取材とは直接の範囲をはみ出た関係を結ぶことを、新聞業界では、「社外活動」と呼んでいる。暴露された場合には、社の名誉にかかわる不都合なことなのである。読売の場合でも、すでに紹介した元読売社会部の敏腕記者、三田和夫と、同じく遠藤美佐雄が、取材の延長線上で犯した「社外活動」の責任を取って退社している。ことの経過はそれぞれ、三田和夫著『最後の事件記者』(実業之日本社)、遠藤美佐雄著『大人になれない事件記者』(森脇文庫)のなかで克明に告白されている。

 渡辺と氏家が行なった「社外活動」は、その二人の先輩記者の例に比べれば、はるかに重く、犯罪的といえる性質のものだった。ところがこのとき、渡辺は、いささかの反省の弁をも述べようともせず、逆に、居直ったのである。

 『現代』(80・9)誌上では、つぎのように記していた。

 「時が時だけに、彼は苦しい立場に置かれた。『渡辺が辞表を出した』という噂も社内外に広がった。彼は、毎日、デスクに座って政治部中をにらみつけていたという。“われ健在なり”と誇示するためだろうか」

 いわゆる「ケツまくり」である。ドスを地面に突き立てて、もろ肌脱ぎ、「さあ、殺すなら殺せ!」という感じである。「まるでヤクザ」どころか、ヤクザが顔負けするほどのパフォーマンスぶりではないだろうか。この時期の状況については、各誌に種々な風評が載っている。同じ読売でも、伝統を誇る社会部帝国の記者たちは、二人の社外活動と居直りに対しての厳しい批判を隠さなかったようである。その時の積もる恨みが、渡辺が主流に踊り出てからの、報復人事となって表われたという説もあるほどだ。

 渡辺には、しかし、「ケツまくり」の効果について、確かな計算があったのではないだろうか。読売自体にも一蓮託生の疑いがある。渡辺の口から、地獄への道連れとばかりに、暴露されては困る事情が沢山あったに違いないのだ。

 渡辺自身は、さまざまな場で、事実関係についての弁明を試みている。たとえば自社発行の『週刊読売』(76・4・3)では「“魔女狩り”的報道に答える」と題して、自筆の弁明をしている。「その後著名になった会社調停工作事件のような話は聞いたことがない」とか、「調停工作スタッフ」とされたことを「我々にとって許せぬ侮辱だから、同書の出版社に抗議中だ」などと、しきりに息巻いている。しかし、実際には口先だけで、裁判に訴えてもいないし、その後に「同書」を引用した数多い雑誌、単行本に対しても沈黙を守ったままなのである。

 渡辺の事実関係についての弁明は、語るに落ちるの典型である。この「“魔女狩り”的報道に答える」という自筆の文章そのもののなかでも、「児玉は、一般的会食などの際、突然見知らぬ人を連れてくることが、一、二度あった」とし、『権力の陰謀』の著者を「突然短時間、紹介されたのではないかと思う」としている。著者の緒方克行と、児玉邸で会った事実は認めざるをえないのである。その上での逃げ口上でしかないのだ。ところが、その直後に、つぎのような文章が続くのである。

 「私は、電発も通産省も知らぬので、経済部の氏家記者に調査を頼んだが、中曽根代議士を本件で補佐したこともない。氏家記者の話では、この“被害者”の言い分はかなり誇張されており、ニュース価値もないし、政治家や新聞記者などが介入すべきものではなく、民事訴訟で損害賠償を要求すべき筋のものだ、とのことだった。児玉にも、その旨告げて、以来何らの協力もしなかった」

 この経過について渡辺は、同時期に発行された『週刊新潮』(76・4・1)で、「その間、金銭の授受があったことも知らなかった。ボクも児玉に利用されたんだ」という弁解を組み立てている。怪しげな弁解だが、それならそれで少なくとも、「利用され」てしまったことの結果責任は負わなければならないだろう。

 渡辺は、しかも、この事件の発覚以前に、自社発行の『週刊読売』(74・8・3/24)誌上で、二度にわたる「ゲスト/児玉誉士夫」との「水爆インタビュー」に、「きき手/渡辺恒雄」として登場している。最近流行のヤクザがデカイ面で大手メディアに登場する「ハレンチ報道」の走りであるが、渡辺は解説部長の肩書きで、「決して表に出たことのなかった」“黒幕”の引き出し成功を、署名のリード記事にしている。相手の正体を知らずに「利用された」などと弁解できる立場ではない。





(私論.私見)


 
◆徳間康快(とくま・やすよし)
 1921年(大正10年)10月25日、神奈川県生まれ。早大商学部卒。43年(昭和18年)に読売新聞社に入社。46年に退社後、印刷会社社長などを経て54年に徳間書店社長に就任。アサヒ芸能、徳間観光、徳間ジャパンなどの社長にも就任。74年に大映を再建させ、88年「敦煌」などを製作。アニメ製作会社スタジオジブリ社長も務め「もののけ姫」などヒット作を製作。出版、映画、印刷、アニメーション、音楽など幅広い事業を展開した。家族は妻と長女。

 徳間氏は読売新聞の社会部記者出身。経済部の氏家斉一郎氏(現日本テレビ社長)政治部の渡辺恒雄氏(現読売新聞社社長)と並んで敏腕記者として活躍した。労働争議で同社を追われ、54年に徳間書店を設立して、社長に就任。レコード会社「ミノルフォン(現徳間ジャパン)」新聞社「東京タイムズ」映画会社「大映」など経営不振の会社を買収して次々と再建させ、徳間グループを築き上げた。

徳間康快氏 肝不全のため死去


大事な“兄貴”失いぼう然

 読売新聞社渡辺恒雄社長(74) 徳間さんが読売新聞社会部記者、私はまだ東大の学生時代から、兄弟のように付き合っていた。ともに共産党員だった。読売新聞入社後、徳間さんに頼まれて「週刊アサヒ芸能」に毎週原稿を書いていたこともある。徳間さんが印刷、出版、映画、アニメなど、あまりに多面的な活動を展開するのに驚いたが、徳間プレスでの読売新聞の印刷、ビーエス日本を一緒に株主として設立するなど、事業の上でもきわめて大事なパートナーだった。55年間に及ぶ交友を通じ、お互いに信頼関係がとぎれたことは一度もない。私は名誉棄損で「アサヒ芸能」社長としての徳間さんを提訴し、150万円を取ったことがあったが、裁判終了後、2人だけで楽しく夕食したのが忘れられない。読売新聞が「アサヒ芸能」の広告をボイコットする時、私は電話で直接通告したが、徳間さんは「天与のチャンスだ。誌面を一新するよ」と泰然として答えられた。「さすが大物だ」と敬服した。大事な“兄貴”を失って今ぼう然としている。