時の法務省、検察庁の捜査布陣考

 (最新見直し2014.06.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「時の法務省、検察庁、裁判所の捜査布陣考」サイトをなぜ設けるのか。それは、ロッキード事件に見せた司法の政治的立ち回りがその後の司法の歪みを決定せしめた直接の契機となったと思うからである。その意味で、この時立ち働いた役者の振る舞いとその後の立身出世ぶりを徹底解析する必要がある。れんだいこはそう思う。

 2005.3.7日 れんだいこ拝 


【時の検察庁人脈
 ロッキード事件発動時の検察庁の人脈構成は次の通りであった。上層部は、検事総長・布施健、同次長・高橋正八、同刑事部長・佐藤忠雄、同担当検事・江幡修三(後の検事総長)、田村の各氏で、検事総長・布施健-神谷尚男・東京高検検事長-高瀬礼二・検事正が指揮した。法務相は稲葉修。

 現場を指揮したのは最高検検事・伊藤栄樹(後の検事総長)で、東京地検特捜部副本部長・吉永祐介が責任者となり、東京高検の検事長・神谷尚男(々検事総長)、同次席・滝川幹雄(々大阪高検検事長)、同検事・片倉、野村幸雄の各氏が、また直属の東京地検では、検事正・高瀬礼二(々東京高検検事長)、同次席・豊島英次郎(々名古屋高検検事長)の各氏が任務に就いた。ちなみに、布施の後、伊藤、吉永が検事総長を歴任する。
(私論.私見) 伊藤、吉永の検事総長歴任考
 「なりふり構わぬロッキード事件摘発」が、その任務を積極的に推進した者をして論功行賞的意味を持って出世階段を昇らせたたことが判明する。即ち、伊藤、吉永は立身出世の為に「検察の正義」を売った輩であり、美談で評すること勿れということになる。

 2006.6.18日 れんだいこ拝

【時の東京地検特捜部の検事メンバー】
 1976 (昭和51). 2.5日時点の東京地検特捜部の検事は、以下のメンバーであった。
特捜部長   川島 興 (後に大阪高検検事長)
副部長   吉永祐介(後に検事総長)、 藤本一孝 (後に新潟地検検事正)→ 石黒久あき(後に名古屋地検検事正)
特捜部検事   河上和雄(々最高検公判部長)、村田恒(々名古屋高検検事長)、松田昇(々最高検刑事部長、預金保険機構理事長)、東条伸一郎(々大阪高検検事長)、小林幹男(々仙台地検検事正)、小木曽国隆(々埼玉地検検事正)、佐藤勲平(々福岡地検検事正、公正取引委員)、浜邦久(々東京高検検事長)、友野弘(々宇都宮地検検事正)、神宮寿雄(々昭和58年東京地検検事辞職)、宮崎礼壹(々内閣法制局長官)、太田幸夫(々東京高裁部総括判事)、広島速登、山部力、村田紀元、近藤太郎、寺田輝泰、水流正彦、清水正男、荒木久雄。
特捜部資料課長   田山市太郎
副検事   前田勇、宇都宮正忠、 岡崎芳高、寺島留八

 このうち荒木久雄、太田幸夫の2氏は裁判所からの出向となっている。後に花形検事として脚光を浴びた堀田氏はこの中にいない。堀田氏が特捜部検事として参加するのは同年4月1日付時点からである。自ら志願した。後に法務省官房長。

 2.24日、ロッキード事件捜査本部が設置された。本部長・高瀬検事正、副本部長・豊島次席検事、捜査統括・川島特捜部長、主任検事・吉永という布陣となった。

(私論.私見) 堀田の投入考
 堀田は、明らかに特命任務を帯びて投入されたことが判明する。彼もまた立身出世の為に検察の「検察の正義」を売った輩であり、美談で評すること勿れということになる。

 2006.6.18日 れんだいこ拝

【特別公判部の検事メンバー】
 ロッキード公判に当って特別公判部が組まれた。次の面々が指揮した。主任検事・吉永祐介、松田昇、宗像紀夫、高尾利雄、大泉隆史。

時の法務省の人事体系

 この時の法務省の人事体系を考察して見る。当時の法務省の首脳とは、事務次官の塩野宣慶、刑事局長の安原美穂がトップに位置している。この安原のもとに、刑事課長 吉田淳一がいる。法務省本省における組織体と職、部門を略記すると、法務省大臣官房はトップの官房長以下、審議官、参事官、調査官と、秘書課、人事課、会計課、営繕課、厚生管理官となっており、これらが法務省行政の核心となっている。

 一方、刑事局は、組織体及び職の構成としては、局長、参事官と管掌として総務課、刑事課、青少年課、公安課とされていた。他に検察庁があり、ちなみに、検察の序列は、1・ 検事総長、2・ 東京高検検事長、3・ 大阪高検検事長、4・最高検次長、5・ 法務事務次官である。

 これらの機構を動かしているのが法務省刑事局であり、行政機関たる機関が検察庁を動かし得る法的あり方と関係がここに明定されている。してみれば、法務省刑事局長が事実上のトップであることになる。ロッキード事件当時の刑事局長は安原美穂であった。ロッキード事件は多分にこの安原のキャラクターに左右された面もあると思われる。

 となれば安原とはどういう人物なのかということが関心を引くことになる。安原は、ロッキード事件の頃より、この検察主流派に属する現役法務官僚、検察官僚の親睦会といわれる大阪ミナミの小料理屋 「花月」 を拠点にした 「花月会」 を組織している。その最大のタニマチが住友グループであるからして、ここに繋がりを見て取ることができる。こうした安原の人となりが注視されるべきところである。法務、検察には、戦前から戦後、及び現在に続いても、権力闘争、人事抗争等が存在し、かかる抗争における謀略というほかない事件が世間にまで大きく話題とされた事例も少なからずある。

 その後、雑誌「噂の真相」の「則定スキャンダルは氷山の一角だ!」記事が、「安原グループの腐敗」を暴いている。同記事は、前東京高検検事長の則定衛のスキャンダルを露呈させ、いわゆる「則定事件」の最初のスクープとなったが、次のことを明らかにさせた。

 則定が 「最後の主流派」 と呼ばれてきた人物である。
 則定の元締めが安原美穂であり、安原こそが連綿と続く京大、東大出身でかつ法務官僚経験者を中心に構成される「検察主流派」であり、まさしくこの当時ドンであった。
 法務・検察当局を支配してきた「検察主流派」は常に政界と癒着しており、そうすることで勢力を維持している。その流れは今日まで脈々と受け継がれている。

 ロッキード事件のときの最高裁の検事総長宣明書への異議を唱えた正当派の 岡原昌男元最高裁長官など、実力と人柄は抜群なのに検察トップから外されている。こうした安原批判派の法務・検察OB らがいたことも知られている。 


【伊藤栄樹検事総長考その1、「新版検察庁法逐条解説」の香具師的法解釈のお粗末考】
 ロッキード事件時の最高検検事・伊藤栄樹はその後大出世し、東京高検検事長となり更に検事総長になった。この間、「新版検察庁法逐条解説」を出版している。伊藤は、ロッキード事件の際の政治的立ち回りを是認せしめようとしてか、その中で、検事総長の権限について次のように述べている。
 概要「法務大臣の指揮に不賛成の時は、検事総長は部下に対して、それに反する指揮を行うことができる」。
 「検事総長は、指揮が違法で無い限り、これに盲従するという態度をとることは許されないものとしなければならない」。

 秦野章・氏は、伊藤栄樹の見解に対して、公務員法違反の恐れの強い香具師的法解釈との強い批判を浴びせている。

 伊藤氏は更に、検察官の任務について次のように記している。
 「検察官は検察の事務に関する限り、一人一人が独立の官庁として、その権限と責任に於いて事を処理する。その意味に於いて、検察官は裁判官に於ける憲法78条第3項のような明文の規定は無いけれども、その良心と法令に従って事務を処理するべきであり、自己の良心を曲げて事務を処理したとするならば、職務に関する責任の意識に欠けているとの非難を甘受しなければならない」。

 もっともらしいことを述べているようだが、続けて次のように云う。
 「ところが、検察官の場合に於いては、裁判官と異なる『検察官一体の原則』、ことに上司の指揮権監督に服すべき義務がある」。
(私論.私見) 伊藤栄樹の「新版検察庁法逐条解説」の珍説考
 伊藤は、前段で、検察官の独任制を称揚し、後段で「検察官一体の原則」を云う。この間の理論的絡みの分析のないままに接木している。こうなると二刀流見解であり、ご都合主義的に使い分けできることになる。ロッキード事件のようにネオシオニズムの意向により引き起こされる政治的事件の場合、検察は独任制で政敵と対決しつつ「検察官一体の原則」で検察官を総動員できるということになる。つまり、売国奴法学を唱えていることになる。このような輩だからしてその後出世階段を登っていたのだろう推測がつく。

 2006.3.19日 れんだいこ拝

【伊藤栄樹検事総長考その2、伊藤流れ「歪んだ正義」考】
 「日々坦々」の2010.2.21日付けブログ「繰り返されてきた「特捜部の暴走」と「検察の不正義」(「歪んだ正義」より)」の伊藤栄樹絡みの言及箇所を転載しておく。
 6年前に出版された「歪んだ正義」を読んでみた。著者の宮本雅史氏は20年間、産経新聞記者として警視庁や検察庁などを担当し、「ゼネコン汚職事件」のスクープで新聞協会賞を受賞している。現在はフリージャーナリスト。新聞記者として東京地検を担当して以来、18年間にわたり検察の事件捜査を取材し、「東京地検特捜部」に強い関心と興味を持ち続けてきたとのこと。

 この本の冒頭の書き出しに、まず読者は検察の恐ろしさを初っ端から味わうことになる。

 要約すると、宮本氏が知り合いの検察幹部から呼び出しを受け、面白い情報でももらえるのかと行ってみると、伊藤榮樹検事総長から「あなたを捕まえろ」という話が出ているから、しばらく取材を自重したほうがいいと言われる。理由はマスコミに特捜部の情報が漏れすぎるため、その見せしめにする、容疑は「国家公務員法違反」(守秘義務違反)の共犯で主犯の検事は既に決まっている、という正に本ブログ≪検察組織の魑魅魍魎たる真の姿がよくわかる事件「売春汚職事件」≫での読売新聞・立松和博記者と同じである。立松記者の場合は、自身が記事にした国会議員により名誉毀損で訴えられたが、逮捕後、特捜部はリークを流したリーク元の検察官を自白させ、検察内部の人事抗争に利用しようとしていた、というもの。(立松記者は逮捕・起訴・長期間拘束され、その後失意の中で自殺)

 この宮本雅史氏の案件もその背後に内部の人事抗争があったことは容易に推測できるが、別の検事からの電話で「逮捕状が出たら連絡する」と言われていたが、その後は出頭要請はこなかったようだ。

 検察内部の人事抗争が人一人の命よりも重いという、傲慢不遜で腐っているこの歪んだ検察組織とはいったい何なんだ!とあらためて怒りが湧き上がる。 本ブログでも記したが、ここでも例の非人間的合言葉が出てくる。「特捜検事の間でこんな言葉が交わされている。『自殺者が出ないと、事件は本物ではない』」と。(単行本P237)

 長年、検察と関わりあいながら取材してきた著者が、なぜこの本を書いたのかを最後に次のように記している。

 ≪私も以前は「検察=正義」という見方に凝り固まっていたが、検察と長く付き合うようになり、その見方に疑問を持つようになった。理由は、取調べ方法や調書作成の問題、事件の筋読みの不正確さ、検事教育の不徹底・・・などに、検察の虚像が見えたからである。(中略)その原因を組織の弱体化からくる制度疲労に求める声が圧倒的に増えている。しかし私はこれまでの取材から、その原因を単なる表面的な制度疲労ではなく、もっと本質的な部分にあるのではないかという思いを強くした。それは、ロッキード事件や造船疑獄事件などの捜査で表れた、だれがみてもおかしいと感じる〝不自然さ"である。検察の功績ばかりに目が集まり、事件の捜査手法や内容が歴史的に検証されてこなかったために、そうした不自然さがかき消され、歴史の中に埋もれてしまったのではないか。その結果、不自然さが生み出した"歪んだ正義"が一人歩きして、さも本当の正義であるように信じられてきたのではないだろうか。 そう考えながら、私は私なりの結論を出した。つまり「検察=正義」の正体は、実は歴史的に"歪められた正義" "歪んだ正義"だったということである。≫

Re::れんだいこのカンテラ時評826 れんだいこ 2010/10/15
 【伊藤栄樹検事総長考その3、著書「秋霜烈日」のお粗末考】

 検事総長・伊藤栄樹は晩年に「秋霜烈日」(朝日新聞社、1988.7.10日初版)を著した。れんだいこは、鳴り物入りで喧伝される「ミスター検察評」に食傷し敢えて読まずに過ごしてきた。とある日、古書店で100円の値が付いた「秋霜烈日」を見つけ、ツンドクしておいた。こたび前田、佐賀、大坪検事がイモヅル式に逮捕される事件が発生したことにより、気になっていた「秋霜烈日」を読むことにした。それにしても100円の値を付けた書店主の感覚は鋭い。

 伊藤氏の後半生履歴は次の通り。1976年のロッキード事件当時、最高検検事として「初めに五億円ありき」で矢面に立ち、東京地検特捜部を指揮した。その後トントン拍子に出世し法務省刑事局長、法務事務次官、次長検事、東京高等検察庁検事長、1985年に検察最高位の検事総長に就任した。ところが、権勢絶頂期の最中、体調不良を訴え診察の結果、盲腸ガンに侵されていることが判明。大手術の後、定年を1年10ケ月残して退官。1988.5.4より朝日新聞紙上で検事人生回顧録「秋霜烈日」の連載開始。1988.5.25日、盲腸癌により死去(享年63歳)。

 「秋霜烈日」の帯評は次のように記している。「巨悪と闘い、がんと闘った『ミスター検察』。戦後の政財界の重大事件のすべてを見てきた硬骨漢が、迫り来る死をみつめながら綴り続けた戦後史の『真実』」。こういう触れ込みにアレルギーを示すれんだいこであるが、伊藤氏のロッキード事件に対する正義の弁明に耳を傾けようと付き合った。伊藤氏がどのように事件を捉え、揺るぎない確信を伝えているのかを知るところに興味があった。

 ところが、余りにも不自然なほどに過少扱いし過ぎている。しかも、戦前史事件を造船疑獄事件から順に綴っているにも拘わらず、ロッキード事件はダグラス・グラマン事件後に綴られており、見出しを「ロッキード事件 アリバイ崩し」として僅か50行ばかりで済ませている。広告に偽り有りとまでは云えぬにせよ明らかにオカシイ。この不自然さは何なんだろうか。 

 その内容も、角栄の秘書榎本氏のお抱え運転手笠原氏のアリバイを廻る角栄弁護団の反証を如何に突き崩したのかを得々と語るだけの話でしかない。笠原氏の取り調べ直後の山中での変死に対しても、あっさりと自殺と記している。れんだいこの検証によれば、今や東京都副知事の猪瀬の角栄が我が消したとする逆推理論考こそ胡散臭い。真実は、ロッキード事件仕掛け人側が殺めたとしか考えられない。

 それはさておき、一国の前首相たるものを死文法的な外為法と云う、しかも別件容疑で逮捕し、産経新聞の協力を得ての「角栄自供する」とのウソ刷りで榎本秘書を自供させ、その榎本調書の証拠固めにありとあらゆる脅しスカシで関連被告の調書を創作し、コーチャンの免責特権付き云いたい放題証言等々で脇を固め、無理矢理に公判に持ち込み、こうして戦後最大の有能政治家たる角栄を裁判にハガイジメし、本人死亡を待って「被疑者死亡による控訴棄却」を決定し、裁判終結とした一大疑獄事件に対して僅か50行で済ますとは。これがロッキード事件訴追の音頭取り、旗振り役として活躍した伊藤流の挨拶だと思うと許し難い。

 しかし、今気づいたのだが伊藤氏の死去は1988年である。田中角榮の死去は1993年であるから、伊藤氏が5年も早く逝去していることになる。享年も63歳であり、かの当時においてもかなり若い。と云うことは、伊藤氏はロッキード事件に蛮勇を振るうことにより出世階段を上り検事総長の座まで上り詰めたものの、そのストレスでガンに侵され寿命を縮めたと思えなくもない。せっかくの著書「秋霜烈日」に於けるロッキード事件に対する記述の少なさは、裏からの詫びかも知れない。伊藤氏自身がロッキード事件に対する得心できないわだかまりを持ち続け、それをシャイな形で表現したのが順序の違うダグラス・グラマン事件の後綴りかも知れない。そう思うと、伊藤氏の胸中の苦しさを知るべきだろうか。

 しかし、歴史的評価は厳然としておかねばなるまい。「検察の正義」を政治主義的に振るう契機を作ったのが伊藤栄樹検事であり、今日の「現役特捜検事・前田、佐賀、大坪検事イモヅル式逮捕事件」に繋がる検察腐敗の端緒はこの時より始まっている。正確には、それ以前の検察正義に既に胚胎していようが、伊藤栄樹検事が「初めに五億円ありき」のストーリー補強の為なら証拠捏造まで辞さぬ不退転の決意で、それまでの検察正義を大きく歪めたことは疑いない。

 伊藤栄樹以降、ロッキード事件で張り切った検事の出世ぶりがやけに目立つ。検察正義を捨ててまで協力した角栄パッシングの功労でポストを手に入れたものと思われる。もう一つ、伊藤氏自身は唯一例外で天下りするまでもなく病死したが、ロッキード事件後の歴代検察総長の退任後の地位利用による民間大手企業への天下りが顕著になっている。検察上層部にこういう劣勢人士がたむろし始めたと云うことになる。これもロッキード事件後遺症の一つであろう。

 「現役特捜検事・前田、佐賀、大坪検事イモヅル式逮捕事件」は、こういうロッキード事件以来の劣勢人士登用と云う検察腐敗の構図にメスを入れることができるだろうか。ここに関心がある。

 2010.10.14日 れんだいこ拝

【「吉永祐介副部長と小長啓一角栄秘書官との奇妙な確執」考】
 ロッキード事件を廻って、「吉永祐介副部長と小長啓一角栄秘書官との奇妙な確執」があり、歴史の摩訶不思議なところとして興味深い。

 二人は岡山の旧制六高で同期で、岡大法文各部を昭和28年に卒業、共に一、二を争う秀才でライバルの間柄であった。吉永は、30年に法務省入省。ロッキード事件をもっとも長期間にわたって捜査を担当することとなった。吉永は捜査段階から主任検事として同事件に取り組み、東京地検では副部長をつとめた。裁判でも初公判から立会い、後に最高検検事となった後も同事件捜査の指揮をとった。その後1993.12月に検事総長に就任している。それまでの検事総長は東大、京大学閥で占められてきており、地方大学出身の検事総長就任は法務官僚世界の慣例を破ったことになる。

 小長は、在学中に国家公務員六級職(法律職)試験と司法試験に合格。1953(昭和28)年、卒業と同時に通産省に入省。日米繊維交渉で獅子奮迅の働きをする田中運輸相に惚れ、1971(昭和46)年、田中角栄通産相の秘書官となる。田中政権が発足すると内閣総理大臣秘書官に登用された。角栄の資源外交のブレーンの一人。1976年、ロッキード事件が勃発すると、かっての同郷ライバルが東京地検副部長として角栄を追い詰め、片や小長は角栄の片腕として敏腕を振うことになった。

 小長は、1984年6月、東大出身者が当たり前の中、地方大学出身者としては初めて通産事務次官にまで上り詰めた(から86年6月まで)。通産省退官後、アラビア石油に入社し、副社長を経て、1991年に社長に就任している。その後AOCホールディングス会長。2007年2月、弁護士登録。


 2013(平成25).6.23日、吉永祐介元検事総長が肺炎のため亡くなった(享年81歳)。病気のため、長く自宅療養を続けていた。週刊文春2013年7月11日号が、小俣 一平 (元NHK社会部記者・東京都市大学教授)の次のような一文を載せている。これを転載しコメントしておく(「吉永元検事総長を最も知る元記者が明かす 「最後の言葉」(週刊文春)」)。

 6月23日、吉永祐介元検事総長が肺炎のため亡くなった。81歳だった。「上からやれなきゃダメだね」。病気のため、長く自宅療養を続けていた吉永氏と会話らしい会話ができたのは、2010年1月16日が最後だった。この前日、陸山会事件で小沢一郎代議士の元秘書、石川知裕代議士(当時)が逮捕されていた。私がロッキード事件を引き合いに捜査の感想を聞くと、吉永氏はそう語ったのだ。当時、すでに言葉を繋ぐことも難しい状態だったが、「ロッキード」という言葉には、はっきり反応するのが不思議だった。

 吉永氏の読み通り、「上=小沢氏」を逮捕できなかっただけでなく、捜査の不始末が次々に発覚。その後の特捜検察の体たらくはご存知の通りだ。吉永氏は、主任検事を務めたロッキード事件で田中角栄元首相をいきなり外為法違反で逮捕した。「頂上作戦」と呼ばれる、トップから摘発して行く独自の手法だった。

 その後の吉永氏の検察人生は波瀾万丈だった。東京地検検事正の時にはリクルート事件の陣頭指揮をしたものの、東京の主要ポストには残れず、後は広島、大阪各高検検事長と、お決まりの“上がりポスト”に就いた。ところが、92年の金丸信自民党副総裁(当時)の政治資金規正法違反事件で風向きが変わる。検察が金丸氏を事情聴取もせずに略式起訴したことで、検察への批判の声が噴出したのだ。当時、「週刊文春」も、「吉永氏を東京に戻し、検察を立て直せ」との論陣を張った。そうした声が翌年の吉永検事総長誕生の流れを作った。

 吉永氏が広島高検検事長の時のことだ。もう先が見えたといささか落胆していた吉永氏に、私は「絶対総長になれますよ。あきらめないで」と励まし続けた。その時、ヒマラヤ取材の際にエベレスト5合目で買った「マニ車」をプレゼントした。これは1人1つしか買えない仏具で、1回回せば1回お経を読んだことになる。「回しながら願いごとを唱えれば、必ず叶う」と言うと、吉永氏は満面に笑みを湛えながら、「総長になる。総長になる」と演(や)ってみせた。そういう少年のような気質を持った「鬼検事」だった。

(私論.私見)
 咎めこそあり褒められるべきものない吉永祐介元検事総長に対し、かくも提灯「鬼検事論」を述べる者は誰ぞと問えば、元NHK社会部記者にして天下りで東京都市大学教授に治まっている小俣 一平だと。類は友を呼ぶ法理からすれば似た者同士がよるのは致し方ないとはいえ晩年に至ってなおこの程度しか評しえないとはお粗末としか言いようがない。

 2013.7.8日 れんだいこ拝

【「ロッキード検事一覧」】
 「ロッキード秘録」(坂上遼、講談社、2007.8.27日初版)参照。 
被疑者 役職 取調べ検事
児玉誉士夫 松田昇、板山隆重、秋田清夫、山辺力
太刀川恒夫 近藤太朗
桧山広会長 丸紅会長 安保賢治
大久保利春 丸紅専務 村田恒-
伊藤宏 丸紅秘書課長 松尾邦弘
丸紅秘書 河上和雄、佐藤勲平
小佐野賢治社長 国際興行社長 安保賢治
若狭得治 山辺力
渡辺尚次 全日空 石川達紘
沢雄次 広畑速登
榎本敏夫 首相秘書官 村田恒-
田中角栄 前首相 石黒久あき
佐藤孝行 板山隆重
橋本登美三郎 友野弘
青木久頼 水上寛治
ジャパンライン株買占め事件関連会社社長 河内悠紀
藤原亨一 馬場俊行
植木忠夫 宮崎礼一
 浜邦久、小林幹雄、松田紀元、堀田力、寺西輝泰、伊藤実、西村好順、黒崎兼作、吉川寿純、清水勇男、荒木友雄、東條伸一郎、増井戸一郎、坪内利彦、小木曾国隆、池田茂穂

Re::れんだいこのカンテラ時評451 れんだいこ 2008/08/19
 【ロッキード事件「伊藤調書」作成人・松尾邦弘の出世考その1】

 元外務官僚にして小泉元首相のイラク政策に抗議して辞表を余儀なくされた天木氏が、「天木直人のブラフ」の2008.8.18日付け「松尾邦弘という元検事総長の何気ない言葉にその正体を見る」(http://www.amakiblog.com/archives/2008/08/18/#001085)で、「松尾元検事総長」に言及されているので、れんだいこが思うところを書き付け公表しておく。

 れんだいこに云わせれば、松尾某とは、ロッキード事件の際に伊藤証言の引き出し立役者となった検事として史的意味を遺している。2008年の今日から思うに ロッキード事件は戦後日本の大転換となった。既に経済的には戦後は終わっていたが、政治的に戦後が終わったのはロッキード事件を通してであろう。これにより、戦後日本の政治舞台での成り上がりが葬られた。金権政治追放と云う名の下にその儀式が執行されたが、それは同時に、戦後日本が胚胎させていた諸々の芳醇さをも、たらいの水と一緒に赤子を流す愚をしてしまった気がしてならない。

 ロッキード事件は、法の番人が自ら法を破ってまで、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの意向を貫徹させ、そのことで戦後日本の司法秩序を上から狂わせる事になった。日本の法秩序はあれ以来整合しなくなり、今日傷口をますます広げつつとある。法の番人が法に基かず、権力者の意向に従って裁決すると云う悪しき風潮を蔓延させつつある。

 これに蛮勇を振るった者は、国際金融資本帝国主義の覚えを目出度くし、論功行賞でその後の出世階段を上って行くことになる。それにより司法界の腐敗が著しく進むようになった。今日の腐敗は、ここに根源があると云えよう。かの時の最高検検事・伊藤栄樹、吉永祐介副部長、松尾邦弘検事らが該当しよう。

 れんだいこは、こういうワルをのさばらせてはいけないと考えている。こういうワルがのさばるのは世の倣いではあるけれども。昔の武士役人は常に切腹と裏合わせで生きていた。それに比べて、今日びの役人の節操の無さは目に余る。のうのうと生き延び、民間へ天下り、死ぬまで蜜を吸い続ける極楽トンボ人生を全うしている。そういう感慨を覚える。これを総コメントとし、松尾に照準を当てて検証してみる。

 2008.8.19日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評453 れんだいこ 2008/08/19
 【ロッキード事件「伊藤調書」作成人・松尾邦弘の出世考その2】

 松尾邦弘は、1942(昭和17).9.13日、東京都で誕生している。1950(昭和25)年、中学生の時、教師だった父が全国学校図書館協議会を結成したが、その後贈賄容疑で逮捕されると云う経験をしている。ここで、父の履歴を記すのは、松尾も叉利権に敏いと云うか甘言に弱い血を受け継いでいるように思えるからである。

 東京都立戸山高等学校を経て東京大学法学部卒業。1966(昭和41)年、司法修習生。1968(昭和43)年、検事任官(東京地方検察庁検事)。連続企業爆破事件、連合赤軍事件など著名な公安事件を担当している。

 1976(昭和51)年、ロッキード事件勃発。松尾はこの時、特捜部に抜擢され、贈賄側の伊藤宏・丸紅元専務から田中角栄逮捕に直結する供述を引き出した。これを「伊藤証言」と云う。事情通にしか分からないであろうが、この「伊藤証言」が決定的証拠とされ、角栄は追い詰められていった。松尾は、この「伊藤証言」の調書作成者である。れんだいこは、これにつき「大久保・伊藤・桧山・若狭被告の供述調書疑義問題」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rokkidozikenco/sosataiseico/fuzinco.htm)で考察している。

 今日、れんだいこが読み直すと、三文小説並みの「伊藤調書」の馬鹿らしさが際立つが、あの時代に於いてはマスコミのみならず朝野上げて決定的証拠を握ったとして囃子て行った。我が国には自称知識人ウォッチャーが何百万人と居るが、ああいう調書に相槌を打つ程度の頭脳でしかないことが判明する。その程度の頭脳の者が、よってたかって気難しい世の中を作ろうとして精出しているが、迷惑千万な話ではある。

 「伊藤調書」引き出しにより覚えのめでたくなった松尾はトントン拍子に出世階段を昇っていくことになる。しかし、松尾の周辺には常に利権腐敗がつきまとう。その松尾は、権力の頂点に上り詰めるや、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの対日政策の忠実な敷設者として立ち現われる。今日、司法を廻る反動的諸施策の殆どが、この松尾派の立案したものである。最近世の中を騒がしている陪審員制度もそうであり、してみれば所詮碌なものではないことが透けて見えてこよう。

 1978(昭和53)年、法務省刑事局付。1980(昭和55)年、在ドイツ日本国大使館一等書記官。1983(昭和56)年、 在ドイツ日本国大使館参事官。1983(昭和56)年、 法務省刑事局参事官。1984(昭和59)年、東京地方検察庁検事。1985(昭和60)年、法務省刑事局参事官。1988(昭和63)年、法務大臣官房参事官(予算担当)。1989(平成元)年、 法務省刑事局刑事課長。1991(平成3)年、法務省刑事局総務課長。1992(平成4)年、法務大臣官房人事課長。1996(平成8)年、松山地方検察庁検事正。この時、調活費を流用して酒盛りをやっていた。この時の腐敗振りが、後に三井環・氏により告発される。1996(平成8)年、東京地方検察庁次席検事。1996(平成10)年、最高検察庁検事。

 1998(平成10).6.23日、法務省刑事局長 。この時、松尾は、通信傍受法案を策定している。概要は不明であるが、「TBSの筑紫哲也NEWS23の訂正要求へ反論」とある。

 1999(平成11)年、法務事務次官。以降、組織の中枢に位置し、司法制度改革と云う名の法秩序改悪に取り組み始める。同7月、小渕内閣の時、司法制度改革審議会が設置される。

 1999年、第145国会において「盗聴法」の成立に尽力している。法務省の刑事局長として国会答弁に立ち、同6月、「盗聴法」の説明に新聞社やテレビ局を回っている。但し、これは、「報道機関に対する圧力」と批判された。この時、裏で折衝にあたっていたのが、当時、法務省事務次官だった原田明夫と同官房長の但木敬一コンビだった(「新・悪の検事総長 松尾邦弘」の権力犯罪を弾劾する(04・10・12)」)。

 この頃、大阪高検公安部長の三井氏が、検察庁内の調査活動費の裏金流用を告発した。三井氏は、そのカラクリを次のように明らかにした。
 「公安事務課の課長または係長が警察の公安にいって情報を聞いてくる。それに基づいて架空の情報提供者をでっち上げる。情報提供者から情報収集をしたことにして総務課長が書類を作成し会計課からお金を引き出し事務局長がプールする。調査費の予算の配分は全国の中小地検(地方検察庁)には検事正が48人。規模は小さくても高検(高等検察庁)には8人の検事長。そして最高検(最高検察庁)には検事総長が1人。地位が上なのはもちろん検事総長だ。続いて8人の検事長がいて48人の検事正となる訳だが、事件の多い地検より地位の高い最高検の方が年間の調活費の割り当ては多い」。

 三井氏は、裏金作りの実態を知った時期を高知地検次席検事に就任してからとしている。その後大阪地検を経て高松地検検事となる。再び裏金問題に遭遇する。この時期は、松尾が松山地方検察庁検事正として赴任していた時期と重なる。加納検事もこれに関わっている。三井氏は、原田明夫検事総長、松尾邦弘元法務事務次官、加納駿亮(しゅんすけ)福岡高検検事長、東条信一郎ら8名を重大責任者として告発していた。

 三井氏の告発背景は分からないが、結果的に松尾のアキレス腱を突いた形で登場してくることになった。松尾は、これに悩まされ、これまた蛮勇を振るうことになる。

 2001(平成13).1.10日、雑誌「噂の真相」が、調活費と云う名の裏金が、よりによって司法の番人であるはずの検事総長、最高検次長、各高検検事長及び各地検検事正らの裏金になっていること、加納元高知地検検事正(当時大阪地検検事正)が高知地検に配付された調活費を裏金として私的流用したことなどを、その具体的状況を示して記事として掲載した。

 同3.29日、川上氏が、加納検事及び佐藤元検事を被告発人とする虚偽公文書作成、同行使、詐欺、私文書偽造罪の告発状を提出した。同5.11日、加納検事は、神戸地検検事正在勤中の裏金使用について告発された。高知地検関係の告発事件については高松高検刑事部長の高橋信郎検事が、神戸地検関係の告発事件については大阪高検総務部長の平田建喜検事が主任検事として捜査することになる。

 2001.6月、司法制度改革審議会が小泉首相に最終意見書を提出した。裁判員制度創設が決まる。この頃、三井氏の内部告発を機に、加納の福岡高検検事長昇任人事において、内閣から前代未聞の「再考」が求められていた。

 2001.10.27日、検事総長の原田明夫と法務省事務次官の松尾の検察、法務の両トップが、揃いも揃って東京麹町の後藤田正晴の事務所に行き、「加納人事が実現しないと裏金問題が出てきて検察が崩壊する」と「加納人事」を通すよう働きかけ、小泉首相裁きとなった。こういう政治的動きをするのが松尾のらしさである。これを受けた小泉も叉稀代の国際金融資本の御用聞きであるからして、同じ穴のムジナと云うことでもあろう談合処理している。

 2002(平成14)年、次長検事。同4.18日、奥の院で三井氏逮捕が決まり、4.20日、法務省、検察庁(原田検事総長)の首脳が出席した会議の場で、三井氏逮捕を最終的に決められた。翌4.21日、大阪地検特捜部の担当検事が大阪地裁に逮捕状を請求。4.22日、この日三井は、現職検察幹部として実名で裏金問題を告発しようとしていた。テレビ朝日の報道番組「ザ・スクープ」の収録と週刊朝日副編集長との対談を予定していた。その当日の朝に任意同行を求められ、そのまま詐欺罪容疑で逮捕収監された。

 典型的な「検察による口封じ」であった。「ザ・スクープ」をはじめテレビ、新聞、週刊誌メディアが事件報道したが、検察の非道を告発するよりは三井氏の詐欺罪容疑をプロパガンダすると云う役割を果たし、告発の衝撃を相殺した。

 同7.30日、三井環公安部長の初公判が大阪地方裁判所で行われた。三井氏は冒頭で、検察庁内の調査活動費の裏金流用を次のように告発した。
 「検察庁には調査活動費という予算があります。中小地検では年間約400から500万円、東京地検では約3000万円、大阪地検では約2000万円と、その庁の規模によって予算が示達されます。それが全て裏金として処理され、幹部の遊興費に当てられている」 。

 法廷は、前検事対現検事の全面対決と云う前代未聞の椿事を現出させた。三井被告は、意見陳述の最後に検察側をにらみつけ強い口調でこう言い放った。
 「どちらが正義なのか!どちらが犯罪者なのか! どちらが卑劣な人間なのか、よく考えていただきたい」。
 メディアはこの事件をまったく報道せず無視した。

 2003(平成15)年、東京高等検察庁検事長。2004(平成16).6.25日、「元祖・悪の検事総長」の原田明夫が退任し、松尾がその後任として検事総長に就任。松尾は、「ひるむことのない検察」を標榜する。しかしながら、「原田一派」=「永田町とズブズブ派」=「政治屋検察官僚の典型」は知られたことであり、シラケムードが漂ったのも想像に難くない。

 同7.7日、松尾が検事総長に就任した直後、国松元警察庁長官狙撃事件でオウム真理教関係者にして小杉元巡査長が逮捕されている。が、供述が二転三転、雲散霧消させられている。この背景は分からない。

 2005.2.1日、大阪地裁(宮崎英一裁判長)は、三井氏に対して懲役1年8ヶ月、追徴金約22万円の実刑判決を下した。この時、判決前にほぼ同じ判決文が政界に流布する事件が起こっている。三井は控訴するも、判決言い渡しから4ヶ月が経過しても判決の全文が出て来ず、控訴趣意書を書けない異常事態になった。

 2006(平成18).6.30日、松尾が検事総長を退任した。後任は但木敬一。2006(平成18).9月、弁護士登録。2007.1.15日、大阪高裁(若原正樹裁判長)は、三井氏の控訴を棄却、地裁の実刑判決を支持した。三井氏は上告。2007(平成19).3月、旭硝子株式会社取締役。2007(平成19).6月、トヨタ自動車株式会社社外監査役就任。2007(平成19)年、駿河台大学法科大学院専任教授。現在に至る。

 以上が松尾の履歴である。彼の出世階段は、ロッキード事件の際の「伊藤調書」作成に始まる。このことが確認されれば良い。現代は、こういう手合いがはびこり過ぎていると思うのはれんだいこだけだろうか。それとも、サヨ圏の多くは今でも本気で「伊藤調書」に基き田中角栄を弾劾し続けているのだろうか。田中-大平政治を善政と断じるれんだいこは、一身の栄達を求めて国を売り、角栄葬りに大活躍した松尾のような手合いを許し難い。そういう砂をかむような人生を送ろうとも思わない。

 2008.8.19日 れんだいこ拝

【ロッキード事件旗振り役の黒子、河上和雄考】
 ここで、河上和雄(かわかみかずお)を確認しておく。この御仁は、「ロッキード事件旗振り役の黒子」として暗躍しているように思えるからである。2010年現在、「ロッキード事件で辣腕をふるった元特捜検事で、TVでも人気の“御意見番”」と評されている。履歴は次の通り。

 1933年、東京都立小山台高等学校卒業、東京大学法学部入学。1955年、21歳の時、司法試験合格。1958年、10期司法修習を経て検事任官。その後、札幌地検検事、旭川地検検事、東京地検八王子支部検事、東京地検検事、法務省刑事局付、法務省刑事局参事官、法務大臣官房参事官、法務省刑事局参事官。

 この間、いつの時点か(ネット情報では)明らかにされていないが、ハーバード大学ロースクールグラデュエイトコースを卒業している。ここが臭いところである。この頃、ネオシオニズムのエージェント化している可能性が強い。いわゆる「洋行組」であろう。

 1975年、東京地検検事としてロッキード事件の捜査に当たる。後に検事総長となる松尾邦弘は、東京地検特捜部で河上の部下であった。

 1978年、法務省刑事局公安課長。その後、法務大臣官房参事官、法務大臣官房会計課長、東京地検特捜部長、佐賀地検検事正、最高検検事。1987年、法務省矯正局長。1989年、法務省矯正局長。1991年、最高検公判部長。ロキード事件での暗躍が認められ順調に出世したことが分かる。但し、後輩の松尾邦弘が検事総長に上り詰めたのに比して遅れをとっていることになる。

 1991年、退官し弁護士登録(第一東京弁護士会)。2002年、妻を脳出血で亡くす。2003年、勲二等瑞宝章。2007年、石油資源開発株式会社取締役。同年、歌手の千葉紘子と再婚。その後、.元検察官・弁護士・法学者として.学校法人駿河台大学理事、社団法人遊技産業健全化推進機構代表理事。日本テレビの顧問弁護士としてコメンテーターとしても活躍している。

 三好徹(直木賞作家、元読売新聞記者、同期:ナベツネ)は兄とのことである。
Re::れんだいこのカンテラ時評651 れんだいこ 2010/01/22
 【最高検公判部長・河上和雄の三菱重工転換社債贈収賄事件揉み潰し考】

 目下、民主党幹事長小沢の秘書寮建設用地取得を廻る資金調達疑惑なる無理筋な事件仕立てに大わらわの東京地検特捜部の「法の正義」が聞いてあきれる事件史実がある。「阿修羅昼休み33」の小沢内閣待望論氏の2010.1.18日付け投稿「alternative、日テレ解説員・河上和雄元・検事総長、自民党から受け取っている『裏金』」を参照する。原文は、「オルタナティブ通信」の「暴力団のトップに居座り、暴力団から金を巻き上げる犯罪組織=警察・検察トップ=検事総長が、小沢一郎摘発をデッチアゲタ」のようである。
 (ttp://alternativereport1.seesaa.net/article/138664300.html)

 1986年、中曽根政権時、「三菱重工転換社債贈収賄事件」が発生している。三菱重工と云えば、日本の代表的な軍事産業にして原子力発電所のメーカー、即ち防衛省(当時は防衛庁)への戦車等の兵器販売、原子力発電の中心的な推進役である。その三菱重工が1000億円もの多額のCB(転換社債)を発行した。この莫大な金額のCBはバブル景気に乗り完売した。CBは株価と連動して価格が上昇する仕組みになっており、1000億円のCBは発売されて2週間で額面100円が206円に上昇し2倍の価格になった。

 三菱重工はこの時、主として自民党の御用達政治家達に、このCBを発売前に100億円分販売していた。この構図から見れば、後のリクルート事件の前例となっていることが判明する。但し、リクルート事件が大騒動となったのに比して「三菱重工転換社債贈収賄事件」は問題にもならなかった。なぜ江副はやられて、三菱は同じことをしても免責されるのか、ここに闇がある。

 この「恩恵」に浴した御用達政治家達は総計で、100億円が2週間で206億円になる「大儲け」を手にした。三菱重工がなぜ1この「大儲け」を供与したのか。それは、御用達政治家達が、三菱重工の兵器を特命でで購入し、「三菱側の言い値」で兵器を購入するよう防衛庁に働きかけ、「優遇措置」を廻らしてくれたからである。三菱からすれば当然の返戻金であった。原子力発電所建設についても然り。三菱重工は、原子力発電の技術的に危険な面に「うるさい事を言われず」、建設費への補助金等も「三菱側の言い値」で工事を受注することに成功した。してみれば、三菱重工の転換社債前売りは、仲介成功報酬であったことになる。

 これは、三菱重工側からすれば一般的な商行為のように見える。しかし、民間のやり取りではない。「国民の税金を湯水のようにムダ使いした」ことの上に成り立っている、れっきとした贈収賄である。自民党の御用達政治家達は、ご丁寧にもあつらえられた三菱重工の系列である三菱銀行から借り入れてCBを購入し、2週間後それぞれが市場に売却し、総額で106億円もの利益を得ている。これは事実上のワイロである。この106億円の内、最も多額なワイロを受け取っていた政治家が、軍需利権族筆頭にして日本に原子力発電を初めて導入するのに功のあった中曽根康弘、時の首相その人であった。

 さて、問題はここからである。東京地検は、この「三菱重工転換社債贈収賄事件」を摘発しようと捜査に乗り出した。ところが、この捜査は、時の最高検察庁検事局トップの「捜査停止命令」により頓挫せしめられている。この時のトップが誰であるのか、調べれば判明するであろうが目下は不詳である。巷間伝えられているのは、ロッキード事件の花形検事として注目されていた河上和雄の横槍であった。河上は、その後順調に出世し、この頃 最高検検事に名を列ねていた。その履歴によれば、1986年―最高検検事、1987年―法務省矯正局長、1989年― 最高検公判部長とある。

 その河上和雄が、最高検察庁検事局トップの意向を挺して「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家達のワイロ受け取り事件を見逃す役を買って出ている。その時の言い草が、「自民党の各派閥のリーダー全員が、このワイロを受け取っており、事件として立件すると自民党の政治家の大御所全員を逮捕する事になり、自民党が潰れる」という理由であった。河上は、捜査官達に向かって、「お前達は自民党をツブシ、野党に政権を渡す気か?」と怒鳴り付けたと云う。こうして捜査は打ち切られた。

 こうした履歴を持つ河上和雄が臆面もなく、目下の小沢一郎の政治資金疑惑で、徹底捜査の檄を飛ばしている。現在、日本テレビの解説員として、また日本テレビの顧問弁護士としてTVに出演し、小沢一郎の摘発に関し「法の正義」を説教し続けている。

 このこと自体が、今回の小沢政治資金疑惑事件の本質を良く物語っていよう。河上和雄は、警察が支配下に置き有力の天下り先となっているパチンコ業界取り仕切り組織「社団法人遊技産業健全化推進機構」の代表理事でもある。これを見れば、検察庁内の出世階段を上手に登り、退官後も利権の甘い汁を吸い続けて上手に世渡りしていることが分かる。かって「自民党を潰す気か」と恫喝した河上が、「小沢徹底捜査の檄」を飛ばしている。この御仁をどう評すべきか。

 れんだいこのように現代世界を牛耳る国際金融資本の最も忠実なエージェントの一人と読めば、読売配下の日本テレビ客員解説員、同顧問弁護士、社団法人遊技産業健全化推進機構の代表理事、学校法人駿河台大学理事、駿河台大学名誉教授という肩書が何の不思議でもなくなる。

 こう読まない者に告げておく。現下の小沢訴追派の政財官学報司の六者機関のトップの座にある者殆どすべてが、かってのロッキード事件訴追派の面々ではないのか。違いと云えば、立花隆が今のところおとなしくしていることであろうか。日共の異様な過激化、解放同盟に対しては糾弾闘争をたしなめ続けた日共は、こと角栄関連となると色めき立ち急に過激化する。これも同じ構図である。マスコミの先陣争い、これも然り。

 しかし、この手合いが日本政界を牛耳って以来、日本はとめどなく地盤沈下させられ続けている。国家予算の収入より借入金利息払いが上回ると云う奇形化、天文学的国債累積債務の重圧、消費税などと云う安逸な打ち出の小槌による収入源化による国内経済低迷逼塞化。これは、戦前並み水準への回帰であろう。戦後保守主流派と云われる吉田―池田―佐藤―田中―大平―鈴木政権のハト派系譜を解体せしめた結果がこのザマであろう。それは、善政時代を悪しざまに言い、悪政時代に無力化させられている日本左派運動のバカさ加減に比例している。ニセモノを本家としホンモノを咎め続けた罪と罰でもあろう。

 もとへ。河上関連の付録として次のような声がある。「河上は後輩の松尾邦弘(元検事総長)に追い抜かれた。検事正時代は裏金に手をそめてるはず。勲章は勲二等どまり」。「1981年―法務大臣官房会計課長をやっていて松尾元検事総長が特捜時代に河上の部下だったということが事実ならば、三井氏の言っている裏金貰っている悪い奴等、数十人の中の一人である事は間違いなさそうですね」。

 2010.1.22日 れんだいこ拝
 2015.2.7日、河上和雄氏(かわかみ・かずお、元東京地検特捜部長、弁護士)が敗血症のため死去した(享年81歳)。東大法学部卒業後の昭和33年、検事に任官。東京地検特捜部時代にはロッキード事件の捜査に関わり、58年に特捜部長に就任した。平成3年4月に最高検公判部長で退官した後は弁護士登録し、大学教授やテレビ番組のコメンテーターなどを務めた。兄は作家の三好徹氏。
 2015.2.6日、東京高検検事長としてロッキード事件の捜査を指揮した元検事総長の神谷尚男(かみや・ひさお)氏が老衰のため東京都調布市の福祉施設で死去した(享年100歳)。岐阜県出身。東京帝国大学法学部卒業後の1938年、検事に任官。 札幌、東京の地検検事正、法務事務次官などを経て77年、検事総長に就任した。 76年に田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件では、東京高検検事長として捜査を指揮した。 退官後の79年に弁護士登録。預金保険機構の「責任解明委員会」特別顧問などを務めた。

良い子ぶりを通し、それが通用するす堀田力検事考
 「堀田力検事のこの道」のロッキード事件絡みの項を転載する。
 112 ロッキード

1976年2月、ロッキード事件勃発(ぼっぱつ)。 アメリカ議会で6日、ロッキード社のコーチャン社長は、航空機売り込みのため日本の政府高官らに億単位の金を渡したと証言したのである。それをやるために検事になったような事件が、天から降ってきた!時に、41歳。最初の壁は、東京地検特捜部。「いくら世間が騒いでも、情報がないのにどうして捜査ができるのだ。アメリカが極秘資料をくれるわけがないだろ」。苦々しい顔の幹部たちを、法務省の担当参事官として説得した。 次の壁が三木武夫総理。「資料は私がもらいたい」という。安原美穂刑事局長と2人で、「資料は日本の捜査のため秘密に渡すと司法省が言っています」と言って説得。2月、特捜部検事の発令を得て隠密裡(り)に渡米、司法省との間に捜査協力の約束ができた。 4月、河上和雄検事が渡米して資料を受領。カクエイタナカの名があったが、金の動きの資料はない。5月2日から13日まで渡米。コーチャン社長らの尋問について司法省、最高裁、ロス地裁と打ち合せ。アメリカでは、国外での犯罪は、たとえ自国民がやったとしても、処罰できない。しかし、その不正義がまかり通ることは、がまんできないというのが、彼らの感覚である。だから、日本では考えられない異例の協力体制をとってくれた。5月26日渡米。東条伸一郎検事と2人で嘱託尋問を進めた。クラーク、レイノルズ検事が前面に出てロス地裁で尋問手続きに入ったが、ロッキード社側のとびきり有能な弁護士3人がすさまじく抵抗、尋問は違法だという申し立てを連発する。大きく高い壁をいくつも破って、コーチャン社長の尋問にやっと入れたのが、7月6日。時効が8月10日に迫ってくる中、日本では贈賄側の供述を待ちきれず、見切り発車で6月から強制捜査に着手している。これにやっと追いつき、7月27日、ついに田中角栄元首相逮捕。「よくやった」とクラーク検事も涙声であった。裁判は翌77年1月に始まった。私は83年1月、田中元首相らに対する論告求刑を行うまでの6年間、裁判に専従した。優秀な弁護士たちから、終盤に隠し玉をぶつけられたが反撃し、田中氏は、一、二審とも有罪、実刑であったが、上告中に亡くなった。 汚職の摘発は私の人生の夢であったが、摘発した人たちは、人間的魅力に満ちていた。だから、摘発するたび、ほろ苦い思いをした。
(東京新聞2008年 3月11日夕刊『この道』掲載)  
 「113 司法改革」  

 ロッキード事件の裁判に専従していた1980年、特捜部副部長に昇格。83年論告求刑を終えると、法務省刑事局総務課長に発令、翌84年法務大臣官房人事課長。私と同期で、同じ時に特捜部副部長となった山口悠介検事は、官房人事課長志望だったのに特捜部長となり、特捜部長になるのが夢であった私は、官房人事課長となった。頂上の一歩手前で夢ははかなく消え去ったのである。 「それでも、ここまでやらせてくれた検察には、ご恩返ししなければならない」。私の中の理性人間ホッタ君の主張に従って、人事の仕事に励むことにした。当時は検事の数が足りない時代であったが、私は特捜部の検事だけは増員して戦力アップを図った。次に、腹を決めて取り組んだのが、この連載の書き出しで触れた司法改革である。当時、司法試験の合格者は5百名以下で、日本の法律家は圧倒的に数が少なく、多くの国民が法の保護を受けられずに泣き寝入りしていた。国際社会でも、日本企業の法的利益が守られず、欧米諸国に甚だしく立ち遅れていた。合格者の平均年齢は29歳。いつ受かるか見込みが立たない状況をみて、試験への挑戦をあきらめる前途有為な若者が増えていた。私が改革を言い出した時、誰もが無謀だと止めた。「よし、やろう」と言ってくださったのが事務次官の筧栄一さんである。伊藤栄樹検事総長も最高裁事務総局も、最終的には了承をしてくれたので、私は日本弁護士連合会に諮ろうとしたが、当初は会ってもくれない。「検事が足りないから増やしたいんだろう」の大合唱で、加えて人権派の弁護士たちは、「増員すれば一般事件からの収入が減り、するとそれを原資として救うべき人が救えなくなる」と主張した。恥ずかしげもなくそんな主張ができるものだとあきれたが、今でも似たような主張をしている。当時としては画期的だったが、私は各界各層の有識者による懇談会を公開で催し、ここで私学や司法書士会、塾などにも意見を述べてもらって、議論の幅を大きく広げ、国民の前に提示した。狭い法曹ギルド内の議論を、司法の利用者である国民各層に開放したのがよかった。弁護士会も、やむをえず参加するようになり、何とか対話ができるようになった。その段階で、私は甲府地検検事正の発令を受けた。88年、私はすでに54歳になっていた。(東京新聞2008年 3月12日夕刊『この道』掲載)

年間逮捕者(72人)ナンバーワンを誇る山口悠介検事考
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK166」の氏赤かぶ2014 年 6 月 08日付投稿「特捜幹部の独善と日航機御巣鷹山事故(郷原信郎が斬る)」。

 特捜幹部の独善と日航機御巣鷹山事故
 http://nobuogohara.wordpress.com/2014/06/07/%E7%89%B9%E6%8D%9C%E5%B9%B9%E9%83%A8%E3%81%
 AE%E7%8B%AC%E5%96%84%E3%81%A8%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E5%BE%A1%E5%B7%A3%E9%B7%
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 2014年6月7日 郷原信郎が斬る

 特捜検察の「政界捜査での暴走」と「司法メディアとの歪んだ関係http://amzn.to/1k0dd20」を描いたWOWOW連続ドラマW「トクソウ」が、明日6月8日日曜日午後10時からの放送で最終回を迎える。 このドラマの放映を記念して、原作者(【「司法記者」講談社文庫】)でドラマ脚本監修者でもある私と田原総一朗氏とで対談【田原総一朗×郷原信郎【第1回】「特捜部は正義の味方」の原点となった「造船疑獄事件の指揮権発動」は検察側の策略だった!http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39104】を行い、現代ビジネスのサイトに掲載されている。 ちょうど同じ時期、同じ現代ビジネスのサイトに、【三匹のおっさん記者、東京地検特捜部を語るhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/38868】という対談記事が掲載されている。東京新聞の村串栄一氏、朝日新聞の村山治氏、NHKの小俣一平氏、いずれも、この小説、ドラマに描かれている世界を代表する司法記者だ。 大阪地検の郵便不正事件や陸山会事件をめぐる不祥事で、既に「日本最強の捜査機関」の看板も地に堕ちてしまった感のある「特捜検察」の昔を懐かしむ話の中で、特捜部長と司法記者との歪んだ関係を象徴する興味深いエピソードが出てくる。

小俣  私が印象深く覚えているのが、’85年の8月13日だったと思いますが、当時の特捜部長だった山口悠介さんに誘われた山登りです。
村串   ああ、行ったなあ。谷川岳だっけ。
小俣  そうです。山登りが好きだった山口さんは、記者を誘って時々山登りツアーをやっていた。司法記者クラブに加盟している全社が参加したと思います。
村山  前日の8月12日は、御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落した日です。(中略)
村串  ああいう大きな事故が起こると、社会部の記者は総出で取材に当たるわけだけど、原則、司法記者クラブは温存されるんだよね。裁判所や検察の動きを見ておくことが何にもまして大事だということで。
小俣  私は「こんなときに山登りなんかしていていいのかな」と思って、上司に相談したんです。そうしたら「司法クラブは事故取材に回らなくていい。お前たちにとって重要なのは特捜部の動きをウォッチすること。特捜部長が行くところにはどこにでもついていけ。」と言われました。もちろん、山登りのすぐ後に現地入りしましたけど。
村串  ただ、山登りについていったからといって、特捜部長が水面下で捜査を進めている事件について話すわけでもないんだよな。
小俣  あの頃はたしかリッカー事件がいつ弾けるか、という時期でした。それに関する情報を山口さんがポロッとこぼすのではないかと期待していたわけです。

 御巣鷹山の日航機墜落事故という、犠牲者500人を超える航空機事故史上最悪の事故が発生した翌日、新聞、テレビ局各社は、社会部のみならずあらゆる部署から記者を動員し、総力を挙げて事故取材に取り組んでいた。そんな時に、司法記者クラブの記者達だけは、特捜部長との「お付き合い」で山登りに出かけていたのだ。

 ここに登場する当時の特捜部長の山口悠介氏は、私が検事任官6年目の1989年、東京地検で司法修習生の指導係検事を務めていた頃の東京地検次席検事であった。次席検事室に修習生を集めて開かれていた酒盛りで、「山登り」の話もしばしば出ていた。検察が「正義の頂点」であることに些かの疑問も持っていないタイプの人物であった。 山口氏は、その後、東京地検次席検事から、御巣鷹山日航機事故の業務上過失致死事件を担当する前橋地検の検事正に異動し、事故から約6年後の91年7月、不起訴処分を行い、検事正として「不起訴理由説明会」を行った。そこで、彼は、事故の遺族と自ら向き合うことになった。 被災者家族の会「8・12連絡会」の「90・7・17前橋地検――8・12連絡会『日航機事故不起訴理由説明会概要』」によると、山口検事正は、この説明会の冒頭で、次のような発言をした(大野達三「日本の検察」(新日本出版社:1992))。

 「私は検察庁での大ベテランと言われている。ロッキード事件の時、日本では刑事免責制度はないが、免責をし、嘱託尋問をして、田中角栄を逮捕した。大企業の脱税事件、リクルート、三越事件、リッカ―ミシン、平和相互銀行その他大きな事件には全て関与し、年間逮捕者(72人)ナンバーワンの実力がある。今回この実力がかわれて、昨年9月、日航機事件の捜査をすることになった。…」「飛行機に乗る人が多すぎるという現状。検察審査会の人が言っていたが、一人交通事故でなくなっても起訴されるのに、なぜ520人もなくなっているのに起訴しないのはおかしいと言いだした。皆そうおもっていた。しかし飛行機は墜落すればだいだい死ぬ。520人も乗っていたから死んだんで、一人しか乗っていなかったら、一人しかしななかった。なんで520人ものたくさんの人が乗っていたのか」

 この無神経極まりない発言で、山口検事正は、遺族からの怒りと激しい反撃にさらされ、説明会は5時間に及んだという。

 その後、山口氏は、札幌高検検事長に昇進したが、覚せい剤常用者の女性と、検察庁の忘年旅行会の際に知り合い、同女性が覚せい剤事件で逮捕・起訴された後も密会を続けたとの女性スキャンダルが週刊誌で報じられ、国会でも、「最高検の綱紀粛正に関する質問主意書」が出されて追及されたことで96年に検事長を辞職し、99年に世を去った。

 山口氏のスキャンダルのきっかけとなった東京地検各部の忘年旅行会には、当時、私も何回か参加したことがある。この旅行会は、特捜部、公安部、刑事部、公判部などの各部が、毎月各部所属の検事の給与から天引きして積み立てている会費で開催していた。検事正、次席検事を招待し、いずれかが参加するのが恒例になっていた。旅行会は、部内の懇親の場というより、部長等の幹部にとっては、検事正・次席検事を接待する場、ヒラ検事にとっては、検事正・次席検事に顔を覚えてもらう場であり、各部にとっての一大行事であった。忘年会にはコンパニオンが呼ばれ、翌日は、必ずゴルフコンペが開催されていた。「ロッキード事件の鬼」で有名な、当時の吉永祐介検事正が参加するゴルフコンペでは、優勝者は、決まって検事正だった。吉永氏がゴルフの達人だったわけではない。参加者が気を遣い、必ず検事正が優勝し、優勝賞品を持って帰ってもらうように「調整」するのだ。午後のラウンドに入ると、第一組でプレーする検事正のスコアの情報が他の組に伝えられる。ゴルフの上手い副検事など、バンカーの中で「あっ」などと言いながら、何回か空振りをしていた。

 検察、特に特捜という組織の中にいると、常に司法記者達に囲まれて情報をねだられ、部下からも崇め奉られているうちに、それが当然のような意識になっていく。 史上最悪の航空機事故の翌日であっても、司法記者達は、特捜部長の山登りに金魚の糞のように着き従っていた。事故の遺族の前で、「なんで520人ものたくさんの人が乗っていたのか」というようなことを平然と言ってのけられる神経は、そうした特捜幹部と司法記者の異常な関係の中で作られていくのである。 WOWOWドラマ「トクソウ」では、見込み違いがわかっても引き返そうとしない「政界捜査の暴走」を主導する特捜部副部長鬼塚剛を三浦友和氏が演じている。こうした「正義の怪物」は、特捜幹部と司法記者との異常な関係の中から生み出されていくのである。








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