1950年〜1954年 【戦後学生運動史第2期】
党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動

 (最新見直し2007.7.3日)

 この前は、「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展に記す

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動第2期は1950年から始まるが、日共の指導下にあった全学連は、日共の党内分裂の影響を受けて四分五裂する。この経緯を纏めるのは難しい。

 1950(昭和25)年初頭、戦後日本革命は流産したと見立てたスターリンは、野坂理論に縛られている徳球系執行部を批判した。「スターリン」批判を廻って党に内部対立が発生し、反主流派が一斉に批判の合唱を開始した。4.30日、党中央委員会が分裂し、党中央所感派は反主流国際派を排除した党組織の再編に向い始める。これを「50年党中央分裂」と云うが、その後の歴史の流れから見て本質的に徳球系と宮顕系の日本左派運動の主導権抗争であり、この時期両派の対立が非和解的な状態に至ったということを意味している。

 全学連武井執行部は、既に宮顕派に篭絡されており、党中央に対し国際派を援護射撃する形で「全学連意見書」を提出した。それまでの党中央の引き回し、戦略・戦術上の右翼的偏向、学生運動に対する過小評価に対する公然とした批判を「左」から展開していた。


【1950(昭和25)年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1950年上半期」、「1950年下半期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

【コミンフォルム批判】
 年頭の1.7日、モスクワ放送は「日本の情勢について」を放送し、日本共産党の平和革命式綱領路線に痛烈な批判を行った。露骨に野坂を名指し、マルクス・レーニン主義とは縁の無い路線提唱者であり、野坂式路線からの転換を図るよう指図していた。この批判がスターリン直々の論評であることが判明し、党内は大混乱に陥った。徳球書記長らの不手際が相乗して党中央の責任問題へと発展していき、党の中央委員会内に明確な亀裂が走ることになった。

 1月初旬、北大・山形大・東京女子大・など各大学で進歩的教員に辞職勧告。神戸大、茨 城大で不適格判定問題などレッドパージの動き表面化する 。


 1.10日、全学連中執は、世界情勢の変化、極東情勢の緊迫化を受けて、「一切を全面講和闘争に結合」するよう指示して、教育防衛闘争から全面講和と平和擁護闘争へ闘争の中心目標をシフト替えさせた。


 1.21日、「国際青年学生植民地闘争デー」が全国各地で催された。


 3月、原子兵器の絶対禁止を求めるストックホルムアッピール 。


【「反戦学生同盟(反学同)」結成される】

 3.10‐11日、全学連の第2回都道府県代表者、新制大学代表者会議が開催され、「反帝平和闘争」に取り組み、全国的規模における統一行動、デモ、ゼネストを組織化させることを決定した。反帝平和闘争の活動家組織「日本反戦学生同盟」(通称:A・G=アー・ジェー、語源・仏語Anti-Guerreアンチ・ゲール)結成の動きが全国化する。

 3.23日、九大が全国初の「反戦学生同盟(反学同)」九州大支部結成(守田典彦)。「反帝平和闘争」への決起の狼煙となった。翌1951.6月には第1回全国協議会を開くまでになる。5月、東大支部結成。6月、東京教育大支部結成。11月、反戦学同東海地方委結成。12月、東京都委・関西地方委・九州地方委結成される。


【全学連中央が、「全学連意見書」を党中央に提出】

 3月、全学連中央が、「最近の学生運動」と題した論文を党中央に提出した。これを「全学連意見書」という。それまでの党中央の引き回し、学生運動に対する過小評価、戦略・戦術上のに対する公然とした批判を書き連ねていた。この意見書は、宮顕統制委議長の「ボルシェヴィキ的指導」を賛美し、野坂.伊藤律などの所感派の指導を右翼日和見主義であると批判していた。

 次のように述べ党中央の指導を批判している。

 「戦後、日本共産党が再建されてから47年後半に至るまで、日本の学生運動は、僅かに組織されていた学校細胞や青年共産同盟による個々ばらばらな指導があったのみで、党中央の明確な理論と政策による組織的・系統的指導はほとんどなかった。そのために党は学生層に確乎とした大衆組織を結集し、それを通じて学生連動を指導することができず、つねに分散的闘争をくり返すのみで、厖大な学生層の革命的エネルギーは未組織のまま放置されている状態であった」。
(私論.私見) 「全学連意見書」考

 「全学連意見書」は、宮顕と呼吸を合わせていた。この時国際派宮顕系は、一見「左」的な反米闘争を志向させようとしていたが、これは徳球系党中央の吉田内閣打倒方針に対する「左からのすり替え」であった。当時の全学連中央はこのからくりを見抜けず、国際派宮顕系の「左」性を評価し、党中央に叛旗を翻すことで革命性の証とした。


宮顕派が東大細胞を掌握する】
 木村勝三氏は、この当時、宮顕派が東大細胞を掌握していたことを「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように証言している。
 概要「50年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、『ゲハイムニス・パルタイ』(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが「全細胞の指導権を握っていた」。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「私たち東大細胞内部での批判活動は急速に結晶して、分派的形態をとるに至った。その名称は、『G・P(Geheimnis Parteiの略称)』を名乗るもので、最初のメンバーは戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、そして私といった顔ぶれで、逐次に竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていった。その上部組織として『E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)』を名乗って力石と武井がいた。この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていたはずであるが、書記長の高橋は宮本について九州に赴いた」、「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う」。
 「メンバーは厳選され、完全な秘密が求められた。‐‐‐ある夜、私(と戸塚もか?)は力石と武井に連れられて一夜、そのメンバーに引き合わされることになった。いかなる人物が姿を現わすか、緊張して待ち受けていた私の前に、小野義彦がにこやかな笑顔で現れた。(その後、小野と同じくアカハタの編集部にいた内野壮児、全金属の西川彦義、そして平沢栄一がそのメンバーであることが判った」。「従来の関係から私たちが最も期待していたのは宮本であるが、百合子夫人も止めたと伝えられた九州への『都落ち』に応じた彼の態度を、武井や力石は『デブ顕』の公式主義、日和見主義と批判していた」。

 この過程で、東大細胞内で党中央派と反対派の亀裂が深まり、党中央派寄りであったL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたが、夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。

【早大も「早大意見書」を提出。早大細胞は百家争鳴】

 4.10日、早大細胞による細胞総会が開かれ「早大意見書」を可決した。提出の理由を次のように述べている。

 「圧倒的多数を以て党が右翼日和見主義とブルジョア民族主義への道を辿りつつあることを確認し、中央委員会に意見書を提出することとなった」。

 当時、早大内の党中央派(徳球−伊藤律執行部擁護派)は小林央(商)、藤井誠一(政)、水野(教)、横田(教)10名たらずで、圧倒的多数がコミンフォルムの論評を支持し国際派に流れた。いちはやく分派活動を開始したのが、津金に代わって新しく細胞キャップになった都委員会学生対策委員・本間栄二で、志賀意見書を精神的支柱として「国際主義者団」を組織、「早稲田大学細胞意見書」を提出した。


 4月、島成郎が東大駒場に入学。


【反イールズ闘争】

 4月頃より全学連は反イールズ闘争に立ち上がっている。イールズは、CIE教育顧問であったが、49.7月、新潟大学の講演を皮切りに全国各地の大学で「共産党の合法性を認めず」、「共産主義者の教授を大学から追放すべきである」という講演をして歩いていた。各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて廻っていたが、その講演会を中止に追い込む戦果を挙げている。

 4.10日、九大.イールズ講演会、学生の追求で混乱、秘密会議となる。

 4月、早大.文学部401教室でイールズ声明反対の学生大会。

 5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。


 5.3日、マ元帥が憲法記念日声明で共産党の非合法化を示唆。


 ストックホルム・アッピール署名の国際的運動始まる 。


 5.4日、日比谷で、都学連が中国学生の反軍閥闘争を記念する「5.4記念アジア青年学生蹶起大会」を開催、1000名が結集した。この時、本間の「われわれはトルーマンの傭兵になるな!」のプラカードが敵に弾圧する機会を与えたとされた。この挑発プラカードと意見書が党中央主流派による早大細胞解散の理由となる。


【党中央が国際派の拠点東大細胞、早大第一細胞に対し解散命令を下す】

 5.5日、党東京都委が、「国際派」支持の中心勢力であった全学連書記局細胞、東大細胞に対し解散命令を下す。分派活動、挑発的行動をしたというのが解散処分の理由であった。以降、全学連内部に国際派と所感派の対立が強まり、所感派が指導権奪取に向かうことになる。

 5.6日、党東京都委が、同じく「国際派」支持の中心勢力であった早大第一細胞に対し解散命令を下す。

 5.7日、早大細胞による細胞総会が出席者111名で開催され、圧倒的多数で「解散反対」を決議(解散賛成=2、保留4)した。大金氏の発案で、党中央の要請に応えて「再登録」に応じ、再建委を組織しようとした藤井、水野、横田らが逆に除名された。大金らは、教育学部党員らを教室より追放、それに抗議した戸口(露文)もその場から追放した。

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は当時の事情を次のように述べている。

 「たしか、五月六日の午後、新宿地区委員長の岩崎貞夫(のち小河内山村工作隊で活動中病死)が一号館の地下にあった細胞の部屋にやってきて口頭でこれを伝えた。私(大金)と津金が応対したが、早口で理由をのべると脱兎のように窓から飛び出していった。(ドアのカギはしめられていた)。解散処分という事態に対処するための緊急細胞総会が開かれたのは五月七日のことで、百余名が出席して圧倒的多数で『解散反対』を決議し、『再登録』に応ずるとした藤井たちを逆に除名した。除名を提案したのは私で藤井たちに『出ていけ』とドナったそうだが、よく覚えていない。この『解散反対細胞』は五月二一日(日)の細胞総会で分裂した。本間たちのグループが『独自の途を歩む』と宣言して退場していったのである。

 この日の討論での最大の争点は、本間たちグループの分派活動だった。雑誌『真相』に掲載された早大細胞意見書の表紙は細胞総会で配布され、全部が回収されたものとは明らかに違うもので、ひそかに本間たちが全国にバラまいたものだった。解散理由の一つになった『挑発ビラ』も本間たちが細胞指導部の討議を経ずに独断でつくったものだった。また、吉田たちの自治会中執にたいしても『帝国主義者の手先』呼ばわりをするなど、その極左的行動が問題になった。結果として早大細胞は『再建細胞』、『団』と『解散反対細胞』の三つに分裂することになったのである」。


 大金氏は、「早稲田通信第3号」(2004.8月)の「松下清雄の書き下ろし小説『三つ目のアマンジャク』について」で、次のように記している。
 旧制新潟県立長岡中学から海兵(昭和20年4月入学の78期)を経て1948年第二早大露文 科に進んだ松下清雄のことはたいていの人が記憶していることだろう。1950年5月に 解散処分を受けた旧早大細胞最後のLCの一人で、全学連書記局にも出ておおいに活躍 していた。
 
 5.9日、アカハタ紙上に「東大細胞、早大第一細胞、全学連書記局の解散について」の東京都委員会の声明を発表した。

 5.11日付け東大新聞は、党中央による東大細胞に対する「細胞側見解」談話を発表した。

 「解散しても、マルクス・レーニン主義とその下にある日本共産党を支持し、再建東大細胞を支援する、‐‐‐分派活動はやるべきではないし‐‐‐、必ず復党の日をもたらすことを確信している」。

 以降反党中央派は、反戦学生同盟という大衆的活動家団体に結集しつつ、活動していくことになった。安東氏の「戦後共産党私記」では、この時期(3,4月頃)宮顕との接触が頻繁に為されていたことを明らかにしている。

 「宮本との接触がいつ、どのように回復されるようになったかは分からない。だが力石と武井が宮本と連絡を取り始めたことは明らかであった。『デブがこう言っていた』という言葉がしばしば聞かれるようになった。それと共に分派闘争の否定、正規の党内闘争ということが俄かに強調されるようになった」。

 つまり、別党コースに向かうのではなく、党にとどまって党中央攻撃をもっとやれと煽っていたということになる。


 5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させ、のち帝国主義打倒など決議。他方、東京.日比谷では都学連が5000名を集めて「自由擁護都青年学生蹶起大会」を開いた。この集会で初めて「全占領軍の撤退」、「帝国主義打倒」、「イールズ声明反対図」などアメリカ帝国主義に公然と反対するプラカードを掲げてデモ行進した。モスクワ放送、新華社電が「日本最初の反帝デモ」と評価し、詳しく報道した。


【全学連第4回臨時全国大会】
 5.20日、反米闘争の高まりの中で、全学連が第4回臨時全国大会を開いた。120校、代議員202名、評議員131名、その他オブザーバーが参加していた。全学連執行部はこの大会で、先の共産党の除名処分に対し、自分たちの意見こそが正しく、共産党中央委員会の多数派は右翼日和見主義に陥っているとみなし、執行部の下での全学連の団結を訴えた。

 大会は、中央執行部の提案を圧倒的多数で支持し、「全面講和締結、占領軍撤退を宣伝のスローガンから行動のスローガンに発展させる。学生自治会を平和と民主主義と独立のための行動的組織とする。レッド.パージ反対闘争を強力に展開する」運動方針を採択し、中執の反帝平和路線を信任した。「平和擁護闘争」の歴史的意義を確認し、第二次世界大戦後の新しい世界情勢における第一義的な大衆闘争とする視点の確立は、全学連中央の理論的功績であり、先駆的役割を果たした。この大会で「労学提携」も打ち出されており、「平和擁護闘争」とともに戦後学生運動の到達点を証左している。

 この時、「身の回り主義と地域人民闘争主義を最終的に粉砕した」として、共産党中央の指導に対抗する姿勢を明確にさせた。全学連指導部と共産党機関との対立は、はじめは学生運動の戦術上の意見の対立であったが、コミンフォルムの批判を契機として、政治方針上の対立になり、遂には組織上の対立になり、党機関の側では全学連の活動家を「極左的跳ね上がり」、「挑発分子」として攻撃し、全学連の側は党機関の方針を「身の回り主義の右翼日和見主義」、「ブルジョア選挙党への転落」と罵倒し、敵対的な抗争にまでなっていた。こうして、当初は戦術上の意見の対立であったものが政治方針上の対立に進み、そこにコミンフォルムの指摘が重なり、事大主義的傾向も発するというまことに複雑な条件の下での「不幸な対立」となっていくことになった。 

 5.25日、早大11中委で吉田嘉清(法学)委員長を「合法性獲得の最後のライン」として選出。


 5月、東大除名組、解散命令に抗議しつつも、GPの下部組織としての反戦学生同盟(AG=反学同)を組織。「『全面講和と全占領軍の撤退』を基本目標にかかげた当時の全学連の核たるべく組織された反戦学生同盟」とある。


 5月、東大で、この頃武井・力石と宮顕が連絡。


 5.30日、「5・30人民決起大会」。民主民族戦線東京準備会主催、全面講和をかかげ、4万余の労働者、学生、婦人を集めて、使用禁止令を蹴って皇居前の人民広場で決起大会。この時8名の青年.学生.市民が逮捕検束され、即日軍事裁判にかけられた。

 概要「マッカーサーを(弾圧に)踏み切らせたのは、米軍の将校・兵がデモに参加した労組員に殴られた事件であった。ほとんど即決といってもいい軍事裁判によって被告全員が有罪となり、重労働十年から五年の刑に処せられた」。

 6.1日、党が、都委員会声明「全党員及び学生に訴える」でトロツキスト全学連中央追放を発表。


 6.2日、警視庁が都内での集会・デモを6.5日まで禁止すると発表した。


【全学連が労学ゼネスト】

 6.3日、労学ゼネストト、青年祖国戦線参加を決定。早稲田、東大、外大、都立大など8校がスト。但し、党の切り崩しにあって不発となったと言われている。

 この経過について、春日庄次郎は次のように述べている。

 「この学生闘争を労働者及び一般人民大衆の反戦平和の闘争と結合し、強力に発展せしめるのではなく、むしろ学生の闘争を孤立せしめるような指導が行われた。たとえば、実質上学生運動の全国的な闘争の指導の中心をなしていた全学連中央執行委員会および書記局を、スパイ挑発者の手によっておどらされているものとし、我が党中央指導部及び東京都委員会は無責任な非難を公然とあびせ、又、全労連と全学連との共同闘争を拒絶せしめるように全労連グループに指示を発した。

 更に学生闘争が全国的に高まってきつつあるこの重要な時に、しかも全国学生闘争の中心となりつつあった東京大学、早稲田大学細胞、全学連書記局細胞の解散をおこない、客観的にはこれらの細胞を弾圧せんとして虎視眈々としていた当局と協力し、学生運動の高まりを阻害した。かくて学生運動をほかの人民層の闘争に結合発展することを妨害したのである。勿論学生運動の中には極左冒険主義的傾向のものがあることは事実である。しかしイールズ闘争以後急速に高まってきた学生運動が、当面の平和、反戦、反米の民族解放の全体の闘争の上に占める重要な意義を過小評価し、これを全体の人民闘争と結合発展せしめることを阻止するが如きは、完全な誤謬であった」。


【マッカーサーが日共党中央委員24名全員の公職追放を指令】
 6.6日、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日共党中央委員24名全員の公職追放を指令した。吉田内閣はこの書簡を受け、同日の閣議で即日追放を通達した。これを予見していた党中央所感派幹部は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。翌6.7日、名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置された。

【全学連は党中央派と反主流各派に分裂する】
 全学連もこの煽りを受け、党中央派と反主流各派に分裂する。ちなみに、当時の派閥は次の通りである。党中央派は、徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は、宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日庄派。その他中西派、福本派。

 全学連武井執行部派は宮顕派と一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞が宮顕系により掌握されたのに比して、当時の早大細胞は、こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮本、袴田、蔵原、春日庄らの国際派)等々に分岐していた。

 大金久展氏の神山分派顛末記は次のように述べている。

 概要「50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれた。国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色ではなかった。国際主義者団、相対的に独自の立場をとった神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった」。

 6.6日、早大.文学部学生30名、共産党中央委員追放・集会禁止に抗議して学内デモ。


 6.7日、アカハタ編集幹部17名が追放された。


 6.7日、全学連中執委、声明「反帝闘争を阻害する者に断乎抗議す」を発して、日共「6.1声明」に反駁。東大.学生1500名が抗議集会。


 6.11日、学生自治会と早大細胞室への警察の不当捜索(40名)  。


 6.12日、自治会声明「健全な学生運動発展のために極左、極右の過激行動を是正し、統 一的な全学自治会に結集せよ」、「大学自由擁護委員会」を提唱。代表者会に16 団体約50名が参集する。


 6.13日、天野貞祐文相が、「最近の学生の政治活動について」談話を発表する。


 6.17日、「学生の政治・集会・デモの禁止」の次官通達が出された。


 6.22日、早大で、当局の集会禁止命令を蹴って自由と平和を守る会強行。東大でも平和請願集会が挙行された。この頃 GHQと日本警察による反戦言論の取り締まり。主に在日朝鮮人、共産党員、学生対象。逮捕者500人以上。


【朝鮮動乱勃発】
 6.24日、朝鮮動乱勃発。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。今日では北朝鮮側の方から仕掛けたということが判明している。

 「朝鮮人民は李承晩一味に反対するこの戦争で、朝鮮民主主義人民共和国とその憲法を守り抜き、南半部にたてられた売国的かいらい政権を一掃して、わが祖国の南半部に真の利人民政権である人民委員会を復活し、朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとに祖国統一の偉業を完成しなければなりません」と、南半部全面開放を目指す戦争に、全人民が総決起するよう呼びかけ、北朝鮮軍の南下が始まりこうして全面的な内戦が始まった。

 北朝鮮軍は戦車と重砲を持つ人民軍部隊により韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8日、北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。

 6.26日、マッカーサーが、共産党機関紙アカハタの30日間停刊指令。朝鮮動乱の勃発で東アジアは一気に緊迫し、マッカーサーが、いわゆるレッドパージを開始した。警察予備隊(自衛隊の前身)7万5千名の創設を指令し、労働組合内でも「民同派」が中心になって日共系産別会議に対抗する総評が結成された。

 この頃、徳球系党中央系所感派の主要幹部は中国に逃れ、北京機関と称される指導部を構築し、国内の「臨中」と呼吸を合わせた。 国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていった。


 6.27日、本共産党臨時中央指導部が学生運動の指導的幹部38名除名する。東大教養学部、 目黒区地区委が解散させられる 。 


 7.2日、東大.反全学連組織、学生運動総協議会結成。5大学6組織加盟。


 7.3日、早大.東京都平和擁護大会。約1千名参加。平和投票コンクールで5万6千票集まる。


 7.8日、マッカーサーが、警察予備隊(自衛隊の前身)7万5千名の創設を指令。


 7.11日、労働組合内の「民同派」が中心になって、産別会議に対抗する日本労働組合総評議会(総評)が結成された。総評の結成は、戦後労働運動の主流を形成した産別指導との訣別を意味していた。社会党とともに「朝鮮問題不介入」の方針をとった。


 7.13日、全学連、都学連など全国50カ所一斉捜索。戦後最初の全国的規模に及ぶ全学連傘下の大学の家宅捜査となった。東大、早大などで前夜相当量の書類を焼いた痕跡があったと報道された。〃軍事基地の実態を見よ !〃の勅令311号違反容疑であった。


 7.18日、マッカーサーが、共産党機関紙アカハタの無期限発行停止指令。


 この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。この頃党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳球計執行部党主流派(所感派)は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。この党中央分裂が全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。


 8.10日、警察予備隊令公布 。早大消費生活協同組合設立。


【全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令】
 8.30日、全学連は、緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議、各大学自治会に指示を発し、全国の学生に直ちに大学に戻り、闘争態勢につけ、と呼びかける。共産党も戦後初めての半非合法下におかれ、指導部が分裂したままで地下にもぐってしまった状態で、闘いを起こすどころの状態ではなかった。全学連の指導部は、悲壮感を顕わにしながら孤立した闘いを覚悟、学生運動こそが警鐘乱打し世に訴える使命があると考えていた。この間の5−6月の闘いによって、「反帝」の闘いの先頭を自分たちが担わなければならないと自負していた。

 
9.1日、天野文相が教職員のレッドパージ表明。全学連.中執は、レッドパージ粉砕を声明、「レッド.パージ阻止の為、夏休み中の学生は急遽学校へ戻れ」の檄を出した。こうしてレッド・パージ反対闘争が開始された。9〜10月にかけて各地でレッドパージ粉砕闘争と結合させて試験ボイコット闘争を展開した。9.2日、早大学生自治会中執が「全早稲田の学生諸君に訴う」、追放反対の署名運動開始する。

 
島・氏は次のように証言している。
 この全国闘争の展開の中で、東大駒場は、つねに拠点の位置を担わされ、ここで突破口を開けと、全学連、東大のオルグが連日のように、現われていた。そして9月、学期が始まるとともに闘いの日々が始まったのである。

 危機感と使命感という学生運動にとっては必須の条件はあったが、所詮学生である。最大の関心は、9月末から始まる学期末試験である(2学期制であるから、9月末から試験になり、その後、中間休みとなる)。しかし、学園レッドパージは10月初めに行われるという見通しから、闘争目標はその前に行わねばと、10月6日のゼネストが呼びかけられている。

 細胞も8月ごろには50名以上になっていたが、党員でもやはり学生である以上、試験は大問題で、学期が始まった頃は、日頃勉強していないために試験に頭を奪われ、指導部の焦りにも拘らず、なかなか思いきった闘争方針が決まらない曰々が続いたようだ。

 私自身も、4月以来の闘争疲れと、喘息(島さんの持病・・・管理人注)の季節、父の病気などが重なって、9月半ばには、一時病床に臥す状態であった。そしてまた、夏休みの間の活動上の問題で、委員長である大野明男が問題を起こし、細胞内で「活動停止」の処分を受けていることもあり、自治会の運営は、常任委員会3人男といわれた島・斎藤・丸山が中心となってやらざるをえない日々が続いた。

 そうした中で繰り返された細胞総会で、9月半ば近くなり「この闘いを行うためには試験をボイコットして闘う以外にはない」との指導部の方針をめぐって、重苦しいしかし切羽詰った討論が続いた結果、断固ボイコット闘争へと踏んぎりがついたのである。

 この細胞の決定はすぐAG(この頃すでに100名を超えた組織となっていた。)〔再建反戦学生同盟のこと。・・・管理人注〕の総会に提案され、了承されるや、文字通り戦闘態勢に入ったのであった。これからの1ケ月間駒場は全学ルツボの状況におかれる。

 私たちも、試験ボイコットをする以上、自分たちが進学をあきらめなければならず、しかも今度は大量処分を免れないと、それぞれ容易ならない決意をしなければならなかった。

 大衆的運動の力学というものは、いつも思わぬ展開をするものである。この9月の駒場の学生の動きは、まさにその好例であり、私自身のその後の考え方に大きな足跡を与えた。9月上旬のあの重苦しい、息づまるような空気は、久野一郎、佐藤隆一らの細胞指導部の思いきった決断と、それを受けて立った党員たちのふんぎりで一変し、それからは、堰を切ったように、流れはほとばしったのである。

 駒場は、文科一類、二類、理科一類、二類と4つの科があり、それぞれ約50名のクラスが7〜10ある。それぞれのクラスから自治委員が2名、代議員が4〜5名選出され、自治委員会、代議員大会が構成される。代議員大会が最高議決機関であるが、ストライキなどの重要事項は全学投票で決定される。執行部である15名の常任委員は自治委員会で、正副委員長は代議員大会で選出される。

 細胞→反戦学生同盟の活動家集団で決定された試験ボイコットの方針は、約2週間の間、各クラス・自治委員会と、激しい討論が決行された。自治会執行部は、スト後の処分に備え、6名に「縮小」する臨戦態勢として、この下に各クラスから「闘争委員」をおくことにした。

 駒場の特徴は旧制一高時代の伝統である寮にある。全寮制は新制移行に伴いなくなったが、明寮・中寮・北寮と残された寮には、なお500名以上の寮生が生活している。各部屋は、各種サークル、部毎に分かれ、共同生活を営んでいる。旧制以来の寮完全自治の精神がまだ残っており、全寮委員会が全権をもっている。この寮が駒場学生運動の拠点となり、9月の選挙で細胞員である前田知克が全寮委員長になる。この寮が存在しなかつたら、あの10月の大闘争は不可能であったろう。この寮の故に駒場は全国学生運動のメッカと呼ばれ、また「不沈空母」とも称せられることになったといえよう。

 全学連・都学連も、全国闘争のために合同の闘争委員会を作り、この駒場寮に本部をおき、連日連夜、全都からの代表者を集め、闘争態勢を整えていく。武井昭夫、安東仁兵衛、高沢寅男らの当時の全学連の猛者の面々が常駐、指揮をとっている姿に、私たちも日々接するようになる。

 最初どうなるかと思っていた私たちも、日一日と盛り上り、スト決定が行われる代議員大会では圧倒的勝利の雰囲気となり、全学投票も実に大差のもと、試験ボイコット方針を信任する。しかし学校側も必死となって、矢内原学部長を先頭に直接学生に呼びかけ、「断固試験を続行する、勇気をもって試験を受けよ」と檄を飛ばし、いよいよスト当日の前夜には、両者の物々しい対立の様相が学内のアチコチに見られる。

【早大の「反レッド・パージ闘争」】

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は、早大における「反レッド・パージ闘争」の特質を次のように述べている。

 「東大と違って早稲田は宮本系一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって反レッド・パージ闘争に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから『早稲田民族主義』とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう」。

 概要「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない、と坂本尚が発言していたが、これが反レッド・パージ闘争を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか」。
 「本間たちが去ったあとの解散反対細胞指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の『革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう』というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた」。
 「一九五〇年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)」。

【全学連内に主流派(反党中央派)と学連内反対派(党中央派)の対立発生】
 国際派全学連の反レッド・パージ闘争に対して、日共中央指導下の学連内反対派は「反ファッショ民主民族戦線」を対置して敵対した。当時の所感派理論を代表する藤尾論文は次のように述べている。
 「今や分派の反帝闘争はマルクス・レーニン主義と縁もゆかりもない一種の経済主義に堕した。そしてまた、今こそ中共の教えるように、党と大衆との結合、多数者のかくとく、民主統一戦線の強化をはかり、党を守り、自治を守るために、この分派を容赦なく粉砕することは、緊急の任務になっている。……画一的闘争による鋭利な刃物のような闘争ではなく、鉛のように統一して力量ある闘争を組むことが重要であること、真に大衆とともに、教室やサークルで、党員が日常的生活の中で直面する諸問題を基礎にして学生を組織することが偉大な力となること」(藤尾守「当面の学生運動の重点」『前衛』50年8月)

 これに対して、全学連主流派は「層としての学生運動論」を堅持し、「日本学生運動における反帝的伝統の堅持と発展のために」(武井昭夫『学生評論』50年10月)をもって全面的な反論を加えた。学生運動はこの戦闘的指導理念のもとで、更なる飛躍の姿勢を表明した。

 9.6日、全学連代表、CIE ルーミス課長と会見。


 9.16日、早大で反戦学同(Anti-Guerre)結成される。政経自治委員会室で約60名が参集する。


 9.17日、第2回新制大学協議会が開かれ、全国40数校100名の代表者によって全国ゼネストによるレッド・パージ闘争を圧倒的多数で決議した。少数の「右翼反対派」は、日常闘争、地域権力闘争論を主張し、北海道学連、関西学連を中心に全学連の改組を要求していた。


 9.20日、早大.自治会、反レパ闘争に蹶起を呼びかけるアピール〃全早稲田の学生諸君に訴う〃を発す。この頃東大でも試験ボイコット闘争に入る。


 9.24日、早大細胞、9・3建議に基づき細胞各派、一堂に会し、建議を全面的に承認、委員を選出。中執の石垣ら、レッド・パージ闘争の具体的戦術を提案、満場一致確認。


 9.25日、法政大学が試験ボイコットに突入した。


 9.26日、早大.中執委員長、吉田嘉清、レッド・パージについての意見交換を島田総長に申し入れ。


 9.26日、全学連中執は、「緊急事態宣言」を発し、「いま、躊躇し、拱手することは6.26以来本年6.3闘争に至る日本学生の愛国的伝統を自ら放棄し、自らを戦争の魔手に委ねることに他ならない、即刻決起せよ、全力をレッド・パージ計画粉砕へ!」と檄を飛ばした。


 9.27日、天野文相が、「教職員のレッド・パージは、10月旬、政令62号によって行う」と談話発表。


 9.28日、早大.全学学生蹶起大会「レッドパージに反対し、早稲田の伝統を守る集い」に都下5千(早稲田3500名、東大、法政大、都立大ら1500名)の学生参加、集会の後の学内デモに警官隊800名が乱入、9名逮捕。戦後最初の警官の学園への侵入となった。警官隊と衝突。開会宣言、柳田謙十郎、宇野重吉、山本薩夫の挨拶.パージ粉砕など3項目を決議後、津金(政経自治会議長)の動議を採択、学内デモにうつる。この日、早大全学共闘は、武井昭夫全学連委員長らの指導介入を拒絶。


 9.29日、東大.全都学生蹶起大会。参加4500名。出隆教授メッセージの朗読。


 9.29日、早大.政経学部学生大会.潜入した戸塚署私服.田中警部を摘発。


 9.30日、東大教養学部で矢内原学部長警官を導入、学生の団結粉砕される。


 9.30日、早大.文学部自治会が闘争宣言、150人の闘争委員会を選出、バリケードを作る。


 10.1日 「学生評論」第7号が武井委員長の「日本学生運動における反帝的伝統の堅持と発展のために」掲載。


 10.1日、全学連都道府県代表者会議が開かれ、10.5ゼネスト方針を確認。

 10.5日、天野文相、参議院において「職をとしても、レッド・パージは一カ月内に行う」。


 10.5日、都学連は、デモが禁止されたため東京大学構内で「全都レッドパージ粉砕総決起大会」を開いた。都学連11大学2000人が参加、 これが契機となり全国の大学に闘争が波及した。この時の大会に対して装甲車を先頭とする約千五百の警官隊が学内侵入を試み、東大正門で吉田嘉清のひきいる1千の早大生と激突。吉田金治負傷、十月闘争の山場となった(真偽不明とのこと)。都下11大学によりストライキがゼネスト的に行われた。参加者39600名。この日天野文相は、参議院文教委員会で全学連の解散に団体等規制令の適用を法務総裁に申請した。が、実施には至らなかった。


 10.5日、早大全学集会の直後、全学連中執は都下主要大学の活動家を全国オルグとして各地方大学へ派遣。早大より大金、由井ら北陸へ、柴田詔三、早坂茂三ら関西へ。


 10.6日、全学連の中央闘争委員会は、「全国遊説隊」、「民族解放目覚まし隊」の編成を決定し、順次各要員が送り出されていった。

 10.8日、天野文相、島田総長会談。文相、早大自治会の全学連脱退と自治会非合法化を要望。早大自治会活動家会議.再建細胞が授業料問題を闘争目標とせよと主張、早くも対立。共産主義者団の諸君は10.17日まで、ほとんど学内に現れなかった。 


 10.17日、全学連はゼネストを決行せよ指令を出した。


 10.18日、全学連緊急中闘委が二〇スト戦術転換、全都集会中止、各大学で戦線整備を図る。全国ゼネストを中止、戦術転換を全国に指示。
 10.20日、早大.数千の警官の包囲下にあって文学部闘争委員会は50名のデモを敢行。

 この間、各大学で活動家学生の大量処分攻勢が始まっていた。10.12日、中大10名、10.16日、法政大31名、10.17日、東大2名(武井委員長ら)、早大25名、10.28日、早大86名という風に根こそぎの徹底処分が見舞われた。安東氏の「戦後共産党私記は次のように記している。

 「10月闘争の終焉とともに東大細胞は沈滞期に入る。それは沈滞期と言った静的な感じのものではなく、精魂を使い果たした疲労といっても良い。だが、11月に入ってから掘れ惚れの活動は重かった」。


【「第1次早大事件」発生】
 10.17日、この時早大で、第1次早大事件といわれる闘争が取り組まれ、全学連は波状ゼネストを決行せよ指令を出し、全学連の呼びかけで早大構内で全都集会が開かれる。大学当局と警察は学生の「平和と大学擁護大会」を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。

 この経過は次の通り。学生大会開催中に、全学連中執(東大・武井、力石)らの意をうけた高沢、戸塚、木村、熊倉、不破=レポ係、早大は吉田嘉清ひとり)が大隈講堂控室で大会後の戦術を協議し、吉田の反対を押し切り、学生処分を協議中の学部長会議粉砕のため大学本部の占拠を決定した。早大全学共闘(吉田、津金、井川、坂本、岩丸ら)は「占拠は無謀」として、学部長会議に抗議ののち文学部校舎に籠城を主張(中島誠は全学連中執支持)。吉田は、第二執行部・石垣(吉田証言)を用意して本部に向かう。本部に座り込んだ学生たちは吉田の指導に従わず、東大と「国際主義者団」の指導下に占拠を継続。坂本、井川、岩丸ら囮のデモ隊を警官隊の前にくりだし、その隙に本部に座り込んだ学生たちを外に誘導しようとしたが徒労におわる。12時頃からの座り込み集会に、朝鮮学生同盟メンバーに引率された朝鮮小中学生、朝鮮語で〃にくしみのるつぼ〃を歌って激励。

 200名の学生が学部長会議開催中の本部をとりまいていたところへ、早大当局の要請で出動した約900名の警官隊と衝突、双方で20数名の重軽傷者が発生した。東大活動家群は木村の合図に一斉に逃げた。143名の学生(女子1名をふくむ)が不法侵入、不退去、暴行、傷害、公務執行妨害などの容疑で検挙された。検挙された学生は〃手錠をかけられて背中に番号を書かれて〃バスにのせられ、戸塚署ほか19署に分散留置された。


 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

  10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。10.17以降、早大に武装警官が学内に常駐、自治会室を釘付け閉鎖。86名除籍処分。これを第一次早大 事件と云う。 

 10.18日、全学連緊急中闘委が二〇スト戦術転換、全都集会中止、各大学で戦線整備を図る。全国ゼネストを中止、戦術転換を全国に指示。


 10.20日、全学連中執は、緊迫した情勢の分析の結果、急遽この日のゼネストの中止を指令、こうして10月反レッド・パージ闘争は幕を閉じた。この間の闘いは、モスクワ・北京の両放送のみならず、世界の通信報道機関により日本の学生闘争として伝えられた。


 10.20日、早大.数千の警官の包囲下にあって文学部闘争委員会は50名のデモを敢行。


 11月、東大.駒場時計台下.ケルン・メンバー集合.戸塚、沈滞した武井を批判、武井の謝罪.終始無言の吉田嘉清。


 11月、全学連中央、右翼反対派も、所感派地下指導部の指令により、突如左旋回、一揆的闘争に走り出す。


 この年、全学連は、10月の反レ・パ闘争の成果をうち固めるために第5回大会開催を予定した。しかし、日米支配階級は占領政策違反を口実にして大会開催を禁止した。全学連大会が合法的に開催されるのは、1年半後の1952.4月の単独講和発効後となる。  

 この間の闘争について、島・氏は次のように証言している。
 お祭りのようなアイディアが

 それまでの大学のストライキはせいぜい1日だけであったのだが、こんどは「試験」ボイコットという特別な形態なので、ボイコット派も反対派も学校側も、それなりに必死であった。自分たちの将来にまで影響しかねない、ということで、マナジリを決してといってもよい真剣さがあった。しかしこれだけ盛り上がって雪だるま式に参加学生が増えてくると、なにかお祭り気分のような楽しさも出てくるのか、「戦術論議」も次々と創意ある奇抜なものが続出してくる。

 ボイコット第1日、ともかくこの日が決戦場と、前夜から賛成派をできるだけ多数寮に泊まりこませることにした。その数は約800に上った。ともかくスト破りを防ぐことが肝腎と、前夜から、学校中の門を点検し、すべてにピケット・ラインを敷き、実力で試験場にいくことを阻止することにしたが、駒場の駅からの道に面している塀は低い生垣のようなもので、ここから入ろうとすればすぐ入れる。これにもピケットを張らねば…。門をすべて閉じてしまうと、警官隊が出動するのではないか、その口実を防ぐために、裏門からの道だけは開けて、人垣で道を作って全部食堂に誘導して、さらに「監禁」してしまえ…など戦争ゴッコのような戦術論議を夜明けまでした。

 運動部の連中も、山岳部、空手部などが元気よく、スト破りは俺らにまかせておけ、と物騒な話まで出る有様。学校側の動きを知る必要があると、機械に詳しい者たちは、全く密かに地下道(寮から本館をつなぐ地下道があった)から忍びこんで電話を盗聴する仕掛けをつくって「特別情報室」を作る。また、それでも試験を受ける奴に備えてと特別遊撃隊を作り、学内各教室を回って見付けたら直ちに「行動」を起こす。

 時計台を占拠して、てっぺんに反戦旗(当時はフランス国旗に近い赤白青の3色の地に、平和の鳩をデザインした反戦旗が闘いの旗であった)を翻すために特別行動隊ができる。音感合唱研究会が中心に、当時のテーマソング「国際学連の旗」「青年よ団結せよ」「ワルシャワ労働歌」などで鼓舞する「音楽隊」は大切な役割だ。

 少なかった女子は文二中心に、医療、救援班が組織される。…お祭り騒ぎで湧きかえっている。

 そして、試験第1日の9月29日。早朝7時、寮のマイクから闘争委員長・大野明男の闘争宣言が流れ、前夜から泊まりこんだ学生たちが起き出し、寮の前に整列し、歌声と共にデモを組み、学内を一巡した後、正門・裏門をはじめ、所定の位置に配置され、ピケットを張る。

 私は、この朝の光景を見て「勝った」と思った。

 試験でもあるので、帝都線(京王井の頭線)の駅から通学生が続々と降りてくる。ボイコット派はすぐピケに加わる。三重四重のピケットにあきらめた学生たちを「裏門へ裏門へ」と誘導する。裏門からピケットにはさまれた学生たちは、食堂内に誘導されてしまう。そこでまた、次々とアジ演説が行われ、教師を含めて激烈な討論となるが試験場にはいけない。大学側もほとんどの教官が早朝から集まって、教授会を開き、学生を説得にいき、また試験を行う教室にいく。

 生垣など乗りこえたり、どこからか入り込んだ学生が、各教室に5〜6名でひっそりと試験を受けている。それを見つけた行動隊が入り口から入り込み、あるいは窓から飛びこみ、彼らを囲んで一斉にスクラムを組み歌をうたいだす。暴力はふるわないが、受けているものもたまつたもんじゃない。最中、泣き出しながら「私はもう試験を受けない」と叫んで答案用紙を自分で破ってしまうものも出た。

 私は明寮前に設けられた闘争本部席に陣取り、各部署からの伝令の報告を受け、情勢をつかみながら待機している行動隊に指示を出す役割を担った。

 第1日、完全に勝利を確認して、また戦術会議の連続。試験は1週間続くのだから、同じようなことをしていたら疲れてしまう。大学側の動き、学生の力量を見ながら、またまた様々な「アイディア」が続出する。「各教室に布団を運んで、皆そこで寝てしまえ」「各教室ごとに椅子と机でバリケードを作れ」etc。

 しかし第2日目はもう一度正攻法でいこうと正門前を中心に今度は完全ピケットを張ることになる。警官隊導入。しかし学生は、入らなかった。スト2日目。ピケットに参加する学生は更にふくれ上がり、100名以上になる。正門も裏門も、五重六重の人垣で完全に固められる。

 学校側も大変だったらしい。矢内原学部長は信念の人、試験はなんとしても行うと宣言し、自ら正門のところにきてマイクで学生に直接よびかける。自治会も大野委員長が堂々と応酬する。試験派の学生も続々と正門ピケットの前に集まり、両者対峙しながら、学校と自治会の論戦に聞きいる。時々列を組んでピケを突破しようとするが、すぐはねかえされてしまう。両者とも暴力はふるわない。

 このときである。寮からの特別伝令が走ってきて、メモを大野委員長に渡す。大野が顔色を変えている。「学校側は遂に警官隊を要請しました。まもなく警官隊が到着する知らせがありました。諸君スクラムを固めよ」と興奮した調子でいいながら、矢内原学部長に食ってかかる。矢内原氏も応酬し、「私は呼んでいない、早くピケを解きなさい」と逆に激しくいう。

 そのうちに、ヒューというサイレンが聞こえる。警官隊を満載した車だ。学内中が大騒ぎになる。寮内にいたスト反対派も含めて大勢が「警官隊がきたぞ」と正門にかけつける。一高以来の伝統がまだ生きている。警察は一歩も入れてはいけない。理屈もない警官アレルギー。

 遂に渋谷署長を先頭に、警官隊が整列し、学生たちにピケを解くように警告を発する。「友よ肩を組め、団結高く〜」と歌声が一段と高くなり、罵声が飛びあう。何度かの警告の後、警官隊がピケ解除に飛びこむ。抵抗はするが、実力行使にはかなわない。この頃はゲバ棒もないし投石もない。何度か列を組み直すが、やがて、一角のピケは破られ狭い道が開けられてしまう。

 矢内原学部長は学生たちに再度、学内に入って試験を受けるよう訴える。ところがである。この有様を見ていた試験強行派の学生たちは、坐りこんで動かないのである。何度うながされても動かない。

 「僕たちは、警官によって開けられた門を通つてまで試験を受ける気持ちはない!」と泣くような声で門内に入ることを拒否したのである。

 それまで、寮内で最後までボイコットに反対だった保守派の前・寮委員長まで「私は学校側を今まで信頼していた。しかし、今この事態を見て反省する。今から自治会の方針のもとに闘う」と宣言した(後に共産党に入った田口富久治である)。 もうこうなっては雪崩のようなもので、学校側も覚悟を決めた。矢内原さんは、本日の試験中止を宣告した。

 闘いの意外な展開に、大喜びの自治会、警官隊の出動に怒りに燃えている学生。駒場中の学生、おそらくこれだけの学生が一場に会したのは稀有のことであろう。時計台の前の広場に全員が集まって勝利を確認、学校へ抗議するとともに、10・5レッドパージ、全学ストへの闘いを誓いあったのだった。

 緊急教授会も開かれ、試験の無期延期を決め、直ちに休校を宣言した。細胞も自治会も、闘争委員会のもとに会し、参加した厖大な活動家を集めて、駅頭へ、都内各大学へ宣伝隊を組織し、また全国にオルグを派遣する。

 レッドパージ勝利、そして学生処分

 そして10月5日全都のスト。本郷の東大へ全都大学の学生が集結し、大会を開くことになる。大学は門を全部閉ざし開けなかったが、これを内外からぶち壊し1万名に上る学生が安田講堂前に結集する。
 戒厳令のような状態でのこの学生の大規模闘争は、連日社会面のみならず政治面をもにぎわし、この中で天野文相は当時言明していた政令62号によるレッドパージは行わないと言明せざるをえなかった。労働界で残されていた電産、公務員、新聞、報道機関と続いた50年のレッドパージは、この闘いによってストップをせざるをえなかった。大学教員のパージは見送られたのである。闘いは、「勝利」として高らかに謳歌された。

 10月17日、全学連の呼びかけで、早大構内で再度、全都集会が行われた。学校の禁止を蹴って行われたこの集会に大量に動員された警官隊が襲いかかり、200名近くの学生が検挙された。東大をはじめ各大学で異例の早さで学生の大量処分が発表された。

 反共の旗を掲げていた労働界の主流「総評」はもちろん、この10月の英雄的ともいえる学生の闘いを公然と支持した組織はなかった。日本共産党は、「分派・トロツキスト」全学連のハネ上がり、利敵行為と、終始非難・攻撃の先頭に立っていた。社会党も、「学生らしい行動を!」といってストを非難していた。わずかに支持を寄せたのは、首を覚悟に発言した少数の教授、インテリゲンチャだけであったといってもよい。

 しかし「単独講和」による米ソ対立の激化、朝鮮戦争にかこつけた日本再軍備の進行、「反共」一色の抑圧の態勢が急ピッチで進められているのに危機感を感じながら、公然と闘おうとしない社共、労組の指導にあきたらなかった人々は、この学生に大きく影響され、これを期にさまざまな運動がひろく展開されるようになる。

 この社会的影響も大きかつたが、なによりもアメリカの反ソ戦略を真っ向に据え、孤立にもめげず闘ったこの10月闘争は、戦後学生運動史だけでなく、大衆運動史の中でも際立った闘いとして記録されたのであった。

 しかし闘いがきらびやかであっただけに、その後の沈滞期は惨めである。お祭り騒ぎに続く「宴のあと」の淋しさと苦しさは、その渦中にいたものが最も味わわなければならない。10月13日、駒場でも13名の処分が発表された。発足以来初めての学生処分である。大野明男以下10名の退学。私以下3名は無期停学。

 長い闘いの疲れと、休み、再試験の開始という条件の中で、もう力はつき果てていたといってもよいか。それでも、「反撃を」という全学連幹部の意見で、「再試験ボイコット」の方針が細胞から出されたが、この「特攻隊」的方針に学生はついていかなかった。しかも、わずか数名だった日共再建派細胞がこれ幸いと息を吹きかえし、「分派」の極左方針を批判して、自治会委員長を選挙に押し立て、反戦学同と細胞推薦の候補を破って当選してしまったのである。処分反対闘争も空しく不発に終わった。

 もちろん、学内の雰囲気は大きく変わった。11月、初めて行われた学園祭はその後、駒場祭と名付けられたが、この10月闘争の余燼さめやらぬ中で盛大に行われる。しかし、闘いの中心にいた人々の苦悩は大きかった。


 この後は、「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊に記す。





(私論.私見)